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りょうちんのひとりごと
りょうちん
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2019年03月31日(日)
Vol.880 続・バスに乗って学校へ

おはようございます。りょうちんです。

前回、小学生時代に俺はバス通学をしていた話を書いた。6年間も毎日バスで学校に通っていれば、そりゃ山のように思い出はある。今回は引き続き、バス通学をしていた時の話。題して、続・バスに乗って学校へ。
俺がいつも学校から帰ってくる時、俺の家へ向かう方向のバスに乗れば、どのバスでも必然的に俺の降りるバス停まで俺を運んでくれた。うっかり乗り過ごすことがない限り我が家よりも先のバス停まで行ってしまうことはなかったし、実際通学していた6年の間、乗り過ごしてしまったことは俺は一度もなかった。
しかし、俺が利用しているバス停の先に十字路があって、バスはそこから3つの方向に分岐してしまう。つまり、さらに先の地区から通っている人は、バスの行き先をちゃんと見極めないと家とは違う場所に連れていかれてしまうのだ。来たバスに乗れば自動的に家に帰れるお気楽な俺に比べると、俺の家より先の地区から通っている人は緊張しながらバスに乗る必要があった。しかも、バスの行き先表示は今と違って漢字のみだったし、小学校に入って間もない頃の漢字なんて読めない子供にとって、バスの選択はかなりハイレベルだったに違いない。万一わからなければ、運転手さんや車掌さんに必ず聞いて確認すること、これが鉄則だった。
ある日、日もすっかり暮れた夕方、母は我が家のすぐそばでRちゃんを見かけた。彼女は俺の保育園の時の同級生で俺の家よりさらに先の地区からバス通学をしていた。見ると、すっかり泣き疲れた様子でとぼとぼと歩いている。「どうしたの?」と声をかけると、「バスを間違えちゃって…」と涙目で話したそうだ。彼女の家までまだ1km以上もあるのでかなり心配だったが、彼女の大丈夫の言葉を信じて背中を見送ったらしい。彼女がどこでバスを降りてどのくらい長い距離を歩いて来たのか、俺はわからなかったが。子どもながらに、分岐の前でバスを降りる場所に我が家があって良かったと、心から安堵したのを覚えている。



2019年02月22日(金)
Vol.879 バスに乗って学校へ

おはようございます。りょうちんです。

そんなの普通で珍しくないことだと思っていたのに、実は結構レアなケースで他人に話すと驚かれることが、たまにある。小学生だった6年間ずっと、俺は毎日バスに乗って学校へ行っていた。こんなことを言うと、おしゃれなスクールバスが送迎してくれる学費がすごく高そうなおぼっちゃま学校だったのかとか、はたまた学校からかなり遠くのひどく辺鄙な山奥の田舎に我が家があったのかとか思われるかもしれないが、そうではない。誰が決めたか知らないが、俺の住む地区の小学生は全員、学校の前を通る民営の路線バスに乗って通学しなければならないという決まりがあったのだ。バス通学以外は認めないという校則なのだから、もう守るしかない。
我が家から小学校までは約2km。けして近くないが、子どもの足で40分あれば歩けたので、毎日徒歩で通学することも可能ではある。では、なぜバスを使う必要があったのか。それは、学校までの通学路にちゃんとした歩道がなかったからである。
我が家は国道沿いにある。バイパスができて裏通りになった今は交通量も減ったが、当時は大型のダンプカーやトラックががんがん走っていた。一方、小学校は国道と駅を結ぶ幹線道路沿いにある。ここも交通量が多く、車道の脇がすぐ民家や畑で歩道が全然ない区間もたくさんあった。交通事故が今よりずっと多かったあの頃、安全を考えてのバス通学だったのだ。
クラスメイトの3割程がバス通学だったのだが、バス通学の子どもは全員ランドセルから定期券入れがぶら下がっていた。ICカードなんてまだなかった時代、バスを降りる時に車掌さんや運転手さんにその都度ぶら下げた定期券を見せていた。胸に付けた名札の中には、定期券を万一失くしたり忘れた時のバスの片道乗車賃である50円玉が1枚いつも入っていたし、各学期の初めにはバス会社の事務所があるバスの車庫まで、わざわざ定期券を買いに行っていた。6年間バス通学をしたあとめっきりバスに乗る回数も減ったが、今となってはなんだかとても懐かしい思い出でもある。



2019年01月29日(火)
Vol.878 海外移住に憧れる

おはようございます。りょうちんです。

平均寿命から考えると、俺の人生もそろそろ折り返し地点に到達してしまった。うかうかしていたら、やりたいことができないまま命尽き果ててしまう。前の仕事を退職したのは、やりたいことをやれるうちにやっておきたいから、という理由もある。死ぬまでにたくさんのやりたいことがあるが、そのうちのひとつが海外に住んでみるということである。
海外と言えども、世界は広い。日本国外ならどこでも良いわけではなく、俺が望むのは東南アジアあたりのいわゆる発展途上国だ。超高層ビルの摩天楼に囲まれた近代的な大都市やヨーロッパや地中海沿岸の歴史ある古都もそれはそれでステキだが、俺にはあまり魅力的に感じない。観光で短期間訪れるなら大喜びだが、その場所に長く住むとなると話は別だ。一方で東南アジアの国々ならば、一年中寒くなることはないし、物価も安く治安もそんなに悪くない。子どもたちの割合が多く街が活気にあふれているので、国自体にも勢いがあり常に刺激的な毎日が送れそうだ。今までいくつかの国を旅した経験の中でも、やはり東南アジア諸国はそういう部分が魅力的でいつかはそこに住みたいと、俺の気持ちをずっと揺さぶっている。
もちろん、デメリットもたくさんあるだろう。日本語はほぼ通じない上、日本ほどおいしいものが簡単に食べられる国は他にないと思う。何より体調を崩したりケガした時に、日本レベルの整った医療機関にかかることはできないだろう。でもそんな不安があるからこそ、数年そこに住んだらいずれ日本に帰って来たいとも考えている。希望は海外永住ではなく、あくまでも期間限定の海外移住。死んだら実家の墓に俺の骨は埋めてほしい。
高校を卒業したと同時に留学して、そのままずっとニューヨークに住んでいる友達がいる。結婚したあと勤務先から海外転勤を命じられて、家族でバンコクに住んでいる友達もいる。彼らは自分の意志で海外移住をしているわけではないのかもしれないが、俺にとってはうらやましい限りだ。俺もいつかは彼らのように、海外移住に憧れる日々を送っている。



2018年12月30日(日)
Vol.877 眠ったままの通帳

おはようございます。りょうちんです。

保険証券や実印など大事なものばかり入れてある秘密の引き出しの奥に、昔はメインバンクだったのに今はすっかり使わなくなった銀行の預金通帳が眠っている。俺が地元の千葉を離れ就職した時、勤務先の会社からの給与振り込みがこの地方銀行だったので、その際に開設したものだ。通帳を見返すと、当時契約したての携帯電話の引き落としの記録だけでなく、入社1年目の俺の給与額やボーナスの額も細かく残っていて懐かしくなる。
しかし気になるのは、最後の記帳である。日付は転職のため会社を退職した月の月末になっていて、そこには数十万円もの残高が記されたままだ。このお金、20年近く経ってしまった今、どうしたのか全然記憶がない。千葉に戻る時に全額下ろして今使っているメインバンクに改めて預けた気もするし、そっくり手つかずのまま残しておいてある気もする。千葉県内には店舗どころかATMさえ持たない地方銀行なので、残高がいくら残っているのか確認することもずっと難しかった。
都内に出る所用があった際、一度通帳を持ってこの地方銀行のATMを訪れたことがあった。通帳の記帳さえできれば、残高がいくらなのか確認することができる。しかしATMに通してもエラーが表示され、窓口へという案内が出てしまった。通帳の表紙で笑う当時のキャラクターだったトムとジェリーはもうどこにも存在せず、これは相当古いデザインの通帳だと理解できた。だがあいにくこの日は週末で、窓口は開いていなかった。
別の日。今度は直接窓口に行き、いくらの残高があるか調べてもらうことにした。眠ったままの通帳に大金が残されていたかもしれないという期待を隠しても、調べるのに時間がかかっている分ドキドキは増してくる。待つこと1時間、ようやく呼ばれた窓口で残高照会を見せられ、少しほっとした。20年分の利子がついて、預金額は1,000円とちょっと。すっかり忘れてしまっていたが、ちゃんと俺は今のメインバンクへ移し替えていたようだ。損した気分ではないが、期待に胸を躍らせた俺が滑稽に思えた。



2018年12月29日(土)
Vol.876 平成最後の

おはようございます。りょうちんです。

今年の流行語大賞に、平昌オリンピックで活躍した女子カーリングチームが頻繁に口にした「そだねー」が選ばれた。そもそもこの流行語大賞が毎年選ばれること自体、いささか疑問に感じるのだが。今年の「そだねー」は俺ですら何度も耳にしたし、自分で口に出すこともあって、例年と違い納得ができた。しかしこの「そだねー」を超え、夏頃から急激に、しかも最近ではやや過剰気味に使われている今年の隠れた流行語がある。「平成最後の○○」という言葉だ。流行語の候補にノミネートすらされなかったが、俺はこの「平成最後の○○」が大賞でもおかしくなかったと思う。
最初に使われたきっかけは、「平成最後の夏」というフレーズだった気がする。今年の夏は各地で猛暑を記録し、台風や豪雨であちこちで水害が起きた。ちょうどその頃に来年4月で平成の時代が終わり新しい元号に変わるというニュースが重なり、今年の夏を印象づけるワードとして「平成最後の夏」がメディアで使われ始めたんだと思う。だがこの「平成最後の」という枕詞だけが異常に独り歩きしてしまった。今や必要以上に「平成最後の○○」という言葉が使われ、いたるところで目や耳にする。
「平成最後のシルバーウイーク」とか、「平成最後のハロウィン」とか。いや、ちょっと待て。平成が始まった30年前、シルバーウイークはまだ存在してなかったし、ハロウィンも日本では相当認知度の低いイベントだったはずだ。「平成最後の」の正しい使われ方は、平成の時代を締めくくるイベントとして例年より盛大で記憶に残るものにしたい、というのが本来の意味だ。というか、本当なら平成最後だからでなく、毎年それくらい印象深いイベントになるよう心掛けて行われるべきであるのに。じゃあ来年は、「新元号最初の」という枕詞が同じように流行しているのだろうか。
かく言う俺も、平成最後のクリスマスが過ぎ、平成最後の年賀状を書き、まもなく平成最後の年越しを迎えようとしている。何年かしたら、平成最後の冬はあんなだったなぁと懐かしむ時が来るのかもしれない。



2018年11月05日(月)
Vol.875 チョコミントの衝撃

おはようございます。りょうちんです。

過去を振り返ると、それまで名前すら聞いたことがなかったのに、ある時突然現れて、あまりのおいしさに絶大な衝撃を与えてくれた食べ物がいくつかある。キウイフルーツ、ブルーベリー、チーズフォンデュなどなど。最近ではバーニャカウダもか。今じゃ当たり前のように定着したものも多いが、何と言ってもその代表格はチョコミントのアイスクリームだ。
俺とチョコミントアイスとの最初の出会いは、高校1年生の秋。その日、別の高校に進学した中学の同級生から学園祭に呼ばれた俺は、彼女がやっていたアイスクリームの模擬店を訪れた。密かに俺が好意を抱いていた彼女におススメを聞くと、彼女は「チョコミント!」と即答した。実は俺、甘いものは大好きなくせに、唯一チョコレートがあまり得意ではない。チョコレート自体ほとんど食べないし、チョコを使ったケーキやクッキーは敬遠しがちだ。だからその時も定番のバニラ味に魅力を感じたが、せっかくの彼女のおススメは無下に断れない。食欲増進にはけしてならない水色のアイスクリームをコーンに乗せてもらい、ひと口舐めて驚いた。
最初、歯磨きかと思った。スーッと鼻に抜ける強烈なミントの風味のあとで、口の中いっぱいに広がる甘味。俺の苦手な濃厚すぎるチョコのきわどさはなく、むしろ時々舌で溶けるチョコチップが絶妙なアクセントになって、俺は心から感激した。あまりのおいしさにおかわりしてしまったくらいだ。チョコミントの衝撃を受けた俺は、その日を境に当分の間チョコミント以外のアイスクリームは食べなかった。あの頃、いろんな味のアイスクリームが続々と登場したが、結局チョコミントを超えられなかった。
今年の夏、メディアの影響からか、チョコミントが再注目されたらしい。そんな中、チョコミント味のカップケーキが売られていたので、思わず購入してみた。水色に焼かれたスポンジにチョコチップが散らしてあり、食べると確かにスーッとしたミントの風味が感じられるのだが。うーん、何かが違う。やっぱり、チョコミントはアイスクリームに限る。



2018年10月10日(水)
Vol.874 塩の影響

おはようございます。りょうちんです。

日本は今年、自然災害の多い年だと言われている。年明けに草津白根山が噴火したかと思えば、日本海側で記録的な大雪が降り車が何台も立ち往生したり。西日本の広い範囲で豪雨による河川の氾濫や土砂災害が起きたかと思えば、勢力の衰えない大型の台風が列島を縦断したり。大阪や北海道で大きな地震があったかと思えば、全国的に高温で記録を大きく上回るひどく熱い夏だったり。各災害で被害を被ってしまった方々には、心よりお見舞いを申し上げます。
幸いなことに俺の住んでいるこの場所は、夏は確かに酷暑が続きみんな毎日とろけそうにはなっていたが、まぁせいぜいそのくらいで。大して深刻な被害には悩まされなかった。他の地域に比べたら、恵まれている方だとは思う。関東にも甚大な被害が出るかもと電車の計画運休までされた先日の台風24号も、寝静まった真夜中に一時的に雨と風が強かっただけでほとんど無傷のまま通り過ぎて行った。嵐が去った次の日には台風一過の青空が見事に広がっていて、ほっと胸をなでおろしていたのだが。
しかし時間がたつにつれ、この台風がもたらした塩害がじわじわと出てきている。台風が過ぎた翌朝、車のドアに手をかけると、車体がザラザラする。風で飛んできたゴミや砂ぼこりのせいかと最初は思っていたが、正体は海水を巻き上げた雨による塩分が原因らしい。数日後、最寄りの駅の路線が連日不通になってダイヤが大幅に乱れた。駅では代替えのバスを待つ長蛇の列ができていたようだし、電車で通勤する相方を別の路線の駅まで車で送る羽目になった。街路樹のイチョウの木々がまもなく黄色く色づくのを前に片側だけ茶色く枯れてしまったのも、近くの鉄塔の上の方がしばらくジリジリ音を立てて鳴っていたのも、どうやら塩害が原因らしい。今後は、収穫が待たれる農作物への影響も懸念されるところだ。
車で30分以上も走らないと海にはたどり着けないこの場所にも、こんなにも顕著に塩の影響が出るなんて。やっぱり、自然を侮ってはいけない。



2018年09月30日(日)
Vol.873 ヒガンバナが咲いていた

おはようございます。りょうちんです。

【ヒガンバナ】ヒガンバナ科ヒガンバナ属の多年草。曼殊沙華とも呼ばれる。9月中旬頃に赤い花が咲く。有毒。不吉で忌み嫌われることもある。
小学生になった年の秋だったと思う。いつも遊んでいる空き地で、見たことのないものを発見した。すうっとまっすぐ伸びた茎の先に、毒々しいほど鮮やかに咲く赤い花。それがひとつだけでなく、何十とかたまって咲いている。線香花火の火花を散らしたように見える花のカタチも、花と茎だけで葉が一枚も見当たらないのも、見るほどに奇妙で独特な植物だ。でも確かに昨日まではこんなインパクトのある花は、絶対にここには咲いてなかったはず。ただ緑色の草が茂っていて、蕾の存在さえ気づかなかったのに。一日で一気に存在感を現した赤い花に、俺はひどく驚いてしまった。
真っ赤に咲くその花に、俺は思わず手が伸びた。手折ろうとすると、一緒に遊んでいた友達のひとりが俺に叫ぶ。「その花、縁起が悪いんだよ。折ったら、おうちが火事になっちゃうんだから!」と。
家に帰った俺は、さっそく母に真っ赤な花の話をした。空き地に昨日はなかった真っ赤な花がたくさん咲いていて、それは葉が全然ない今まで見たことのない植物で、花を摘もうとしたら縁起が悪いからやめた方がいいと言われて。すると母は、「あー、あれはヒガンバナと言ってね…」と、詳しく俺に教えてくれたのを覚えている。毎年秋の彼岸の時期になると一斉に花開くヒガンバナは、雨に打たれるとあっという間に色褪せ存在感を失う。彼岸、花の命の刹那さ、縁起の悪い花という言われ。ヒガンバナの第一印象がそんなだったからか、鮮やかに赤く咲くヒガンバナに対して、美しいと感じながらもずっとどこか忌み嫌っている自分がいた。
先日の彼岸の中日、弟一家と墓参りに行くと、墓地の裏手に一面にヒガンバナが咲き乱れていた。昔はこんなところにヒガンバナが咲いていた記憶はないのだが。でもこれほど見事にヒガンバナが咲き誇れる場所はここ以外にはないのかもしれないと、俺はしばらく真っ赤な花々を眺めていた。



2018年08月31日(金)
Vol.872 キューバで出会った女神

おはようございます。りょうちんです。

昨夏、俺らはキューバに行った。トロントで乗り継ぎ、ハバナまでは羽田から19時間。初日は宿泊予定地であるバラデロへ向かう予定だ。空港から始発駅があるカサブランカまでは、タクシーを飛ばした。
まずはここからハーシー線でマタンサスまで電車で行きたい。ただこのハーシー線は1日3便だけだから、早朝の便の次はお昼過ぎだ。簡素な駅舎に停車している小さな電車と数人の乗客が見えて、俺らは安心した。脆弱な電力事情を考えれば、電車が動かないことも十分に考えられたからだ。座席に座っていると、男性が話しかけてきた。どうやらこの電車、理由は不明だが終点のマタンサスまでは行かず途中のハーシー止まりらしい。ハーシーからはタクシーでマタンサスまで行ける、とも教えてくれた。
奇跡的に定刻通り出発した電車はハーシーに着くと、乗客全員が降ろされた。俺らは駅周辺を散策する。それにしてもハーシー、昔のチョコレート工場の跡地がある他に何もない。駅にいた人たちも、電車が戻って行ったあとはどこかに消えてしまった。教えられたタクシーも走っている気配はなく、時々来るバスもどれに乗ればいいかわからない。ホテルも店もない田舎の駅にぽつんと取り残された俺らは、途方に暮れるばかりだった。
踏切脇に立つおばさんに藁をもつかむ思いで声をかけ、マタンサスまで行きたいと伝える。彼女こそ女神だった。マタンサス行きのバスはここからはないが、少し先のサンタクルースからならバスが出ていると教えてくれた。そして踏切で止まった車に声をかけ、運転手と何やら交渉を始める。やがて俺らに向かって後部座席に乗れと促し、俺らのためにヒッチハイクしてくれたのだ。こうして俺らは思いがけない方法でサンタクルースまで行き、マタンサスを通り無事に目的地のバラデロまで行けたのだった。
幸先の良いスタートが切れて、その後も旅はずっと幸運続きだった。名前も聞けず写真も残せなかった彼女に改めてお礼を伝えるのはもう不可能に近いが、キューバで出会った女神のことを俺は一生忘れないだろう。



2018年07月07日(土)
Vol.871 実習生のHくんへ

おはようございます。りょうちんです。

今日の採血検査の結果、明日退院することになった。予定よりも早く回復できたのはうれしいが、問題がひとつ。入院直後から俺に付いてくれていた看護実習生のHくんに、ろくにお礼も言えないまま去ることになってしまいそうだ。思案の末、彼に置き手紙を残すことにした。
実習生のHくんへ。短い期間でしたが、いろいろお世話していただき本当にありがとうございました。土曜日の検査の結果、先生からすぐにでも退院OKと許可が下りたので、早々日曜日に退院することにしました。本当はちゃんとごあいさつしたかったけど、できなくなってしまったことを許してください。ごめんね。
男性の看護師は、まだまだ少ないと聞きました。だからその分、各方面でも重宝されるとも聞きました。これからいろんな経験を積んでいく中で、想像を超える状況に出くわすこともきっとあると思います。目を覆いたくなるようなケガで苦しむ人、病気で泣き叫ぶ子ども、発作に苦しみもがく高齢者。それでもどんな状況であれ目を背けずに冷静に処置をして、安心をわけてあげることのできる特別な仕事をする人が「看護師」なのかもしれません。
その立派な看護師になるHくんの第一歩にもし自分がなれたのだとしたら、俺はとてもうれしく思います。看護師の仕事は、相手が「もの」ではなく「人」だからね。やり直しは効かない分、責任はとてつもなく重いけれど。だからこそ、やりがいのあるすばらしい仕事だと思います。これからもっと大変だとは思うけれど、がんばって! ずっと応援していますね。
俺の血圧と脈拍を測ってくれて、どうもありがとう。きれいにベッドメイキングをしてくれて、どうもありがとう。俺の背中を濡れタオルで拭いてくれて、どうもありがとう。ご両親ほどの年のおっさんの俺のくだらない話に長々と付き合ってくれて、どうもありがとう。俺のためにしていただいたすべてのことに、とても感謝をしています。本当にどうもありがとう。
いつかHくんが立派な看護師になったら、その時はぜひその姿を見てみたいなぁと思います。その日まで、元気にがんばってください。それでは、またいつか。