沢の螢

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一掬の涙を!
2004年10月31日(日)

昨日外出のおり、沿線駅で、号外を配っていた。
かなりの雨の中を出てきたので、傘とバッグ、行き先への土産物などで、手がふさがっていたが、人が手にしたものをチラと見ると「遺体発見」という大きな文字が見える。
急いで一枚貰った。号外は瞬く間になくなった。
正午少し前のこと。
電車の中で、開いた。読売新聞10月30日の号外。
「香田さんか遺体発見」という大きな見出しの下に、「バグダッド北方バラドで」「後頭部に銃弾のあと」などの活字がある。
30日未明にアメリカから日本政府に入った連絡という。
確認されたわけではないが、午前4時に、外務省が記者会見し、香田さんの家族にも、伝えられていたという。
香田さんが人質になり、映像で流されたのが26日。
アルカイダ組織と見られるテロリスト集団は、日本政府が48時間以内にイラク駐留の自衛隊を撤退しなければ、香田さんを殺害すると警告していた。
48時間というのが、どの時点を指すのか、よくわからないが、すでに、予告時間は過ぎているように思われ、号外を見た私は、何とも沈鬱な気持ちになった。
外出先は、連句の先輩の家である。
五週目の土曜日のある月に集まることになっている。
女性4人、男性一人が集まり、持ち寄りの食べ物やワインを愉しみながら、二十韻を巻いた。
その席では、号外のことには触れなかった。
ほかの人も、知ってか知らずか、その話題は出さなかったので、連句は、つつがなく終わった。
ただ、私の心の中には、苦い澱のような物が溜まっていた。

三日前に、やはり連句の集まりがあり、私の居た席で、人質事件の話が出た。
「あの若い人、かわいそうに」と私が言うと、同席の人たちから集中砲火を浴びた。
「危険なところに行くのが悪い」
「ちっともかわいそうじゃない」というのである。
「動機や状況はともあれ、命を奪われるのは、やっぱりかわいそうじゃないの」と私は言ったが、そこにいた人たちは、同調しなかった。
「命を粗末にするからこんなことになる」
「人騒がせだ」と、四月の日本人拘束事件で、インターネットに吹き荒れていた、どこかの掲示板のようなことを言う。
この人達は、インターネットに縁のない人たちだが、あのときも、共通の意見を持っていた。
非難する相手は、被害者じゃなくて、犯人でしょうと私は言ったが、あまり聞いてもらえなかったようである。
議論しても無駄だからと、「でも、自分の息子だったらと思うとねえ」とひとこといって、私は黙ってしまったが、みんなも黙ってしまい、ひやりとした空気が流れた。
厳しいことを言った人たちも、単純に被害者を非難しているのではない。
被害者と同世代の子どもや、あるいは、もう少し若い孫を持った人たちである。
子どもの時、あるいは、思春期に、戦中戦後を経験している。
だから、歯がゆいのである。
何でむざむざそんな危険なところに行くのか、と腹立たしく、そして、何もしてやれない非力さに、苛立っているのである。

そんなことがあったので、私は、昨日の席では、こちらから話題にしたくなかったのである。
家に帰ったのは、夜10時過ぎていたが、テレビを見ていたらしい夫が、「「発見された遺体は、別人だったらしいよ」と言った。
「じゃ、香田さんはまだ生きてるのね」と私は言った。
今までにも、アルカイダに民間人が人質になって、殺害されるケースが起きているが、日本人としては、はじめてである。
この事件は、日本が、自力での正確な情報が得られず、政府にも、メディアにも、事態はよくわからないようであった。
号外に書いてあった「遺体」というのは、調べた結果、別人のもので、その後、別の遺体が発見され、それはどうも香田さんの可能性が高いという報道が、その後出た。
そして、今朝、2度目に発見された遺体が、香田さん本人であると、確認された。
政府は、最初の段階で「自衛隊は撤退しない」と言っていたし、交渉の手立てがないらしかったところから、無事救出するのは、かなり難しいのではないかと思われた。
でも、何とかして助かってほしい。
誰でも、理不尽に命を奪われるなどということがあってはいけない。
被害者の人間性や、行動の善し悪しや、家族の状況や、そんなことは命あってからのことである。
まずは、助かってほしい。
そう願っていたが、残念な結果になった。
四月のイラク日本人拘束事件の際、さんざん取り沙汰された「自己責任」と言うことば、その後に起こった日本人ジャーナリスト狙撃事件、そして今回の事件、政府を表立って非難する意見は出なくなり、いつの間にか、仕方がないという風潮を作ってしまった。
香田さんの取った行動は、充分批判されることだったかも知れないが、もし生きていたら、その後の人生で、取り返すことも出来たはずである。
ひとつの若い命が、理不尽に奪われたという事実。
いまわの際で、彼は何を思ったであろうか。
私に繋がる同胞の一人。
助けてあげられなくて、ごめんなさいといいたい。
そして、せめて一掬の涙を、彼のために流したい。


神の手
2004年10月29日(金)

新潟地震で土砂に埋まった車の中から、二歳の男の子が、98時間ぶりに救い出されたことは、悲惨な罹災状況の中で、一筋の光りのように、感動的なことだった。
いろいろな偶然が重なって、それがうまく幸いして、命に関わる大きな怪我もなく、助かった。
強い余震のある中、身の危険を覚悟して、夜を徹して救出に携わった、レスキュー隊や関係者の人たちの連係プレイが素晴らしい。
特に、せまい空間に閉じこめられていた子どもを抱え上げ、それを受け取って、しっかり抱きしめた隊員、足場の悪い中で、次々と、小さな子どもの体を、宝物のように、手渡しながら、安全な場所まで運んだ人たち、私には、その人達の手が、神様の手に見える。
見守っていた子どもの父親も、きっと、祈る思いで見つめていたに違いない。
そして何よりも、2歳の男の子の、生命力の素晴らしさ!
一緒に車に乗っていた、母親とお姉ちゃんは、残念ながら、助からなかった。
でも、男の子を助け上げた、沢山の神の手の中に、その二人の手も、添えられていたと、私は思う。
この子はきっと、たくましく成長する。
そう信じている。


逝く秋
2004年10月28日(木)

今年は秋らしい天気が少なかったので、例年なら10月中頃に行くはずの蓼科の小屋に、とうとう行かなかった。
冬の間は閉めておくので、いらないものを整理したり、水抜きを頼んだり、不要な衣類を東京に持ち帰ったりの始末をしながら、高原の秋に別れを告げるのである。
標高1100メートルの高原では、10月に入ると、紅葉が始まっているし、湖の色も深みを増す。
朝晩はストーブを焚くくらいの寒さにもなるが、晴れた空の美しさは、都会と違う。
夏の喧噪もなく、わずかに虫の声と、葉擦れの音が聞こえるばかり。
人のみならず、生き物も、冬眠に入るのである。
夕焼けを眺め、次の年の春までの、小屋との別れをして、帰ってくる。
9月になってから、1週間ほどの滞在のつもりで考えていたら、幾たびとない台風の襲来で、時機を逸してしまった。
そのうちに小屋の周りの樹木が、台風の影響でかなり倒れたり折れたりしたらしく、、管理事務所から連絡があった。
よその敷地内に倒れ込んだりしたものもあるので、片づけを依頼し、いったん済んだところに、また次の台風が来た。
電柱に掛かった木は、電力会社が片づけてくれたが、この分では、まだ被害が出る可能性があるので、今月に入ってから、小屋を閉めがてら、一度いって見なければと話していた。
夏の終わりにいったん帰ってきてから、またどうせ行くからと、そのままになっているのである。
ところが、夫と私のスケジュールが合わず、気候不順が続いたせいもあって、気になりながら、延び延びになっていたところへ、台風云々の連絡だった。
ふたりで行くことはあきらめ、夫だけ、2泊くらいの慌ただしさだが、出かけていった。
そして、小屋の周りの木のうち、老木を10数本、切り倒して貰う手はずをした。
クレーン車で、何人がかりかでやる作業なので、一本あたり2,3万掛かるという。
先日作業が完了したとの知らせが来て、まだ請求書が届いていないが、オソロシイ。
例年の台風は、うまくそれてくれて、今までには、そういう被害はあまり無かった。
今年は台風が、まともに来たらしい。
「家の周りは木が減ってすっきりしたけど、ちょっと景色が変わったよ」と、帰ってきた夫が言う。
デジカメを持っていったのに、チップを入れ忘れたので、せっかくの美しい紅葉がとれずに帰ってきた。
上の写真は、昨年のもの。
近くにある漆の木である。
触れるとかぶれるので、家の周りの漆は除去したが、紅葉すると綺麗である。
今頃は、遊歩道も、落ち葉で埋まっていることだろう。

東京もこのところ、真冬の寒さである。
11月に、九州旅行をするので、今日は、航空券などを買いに行った。
出るときはさほどでなかったが、あちこち寄り道をして遅くなり、バスに乗る頃には、かなり冷え込んでいた。


秋雨前線
2004年10月26日(火)

10月というのは、本当は一番良い季候の筈だが、秋晴れの日は、あまり無い。
台風が立て続けにやってきて、それに秋雨前線も活発化して、雨の日が例年になく多いようである。
昨日はちょっと晴れ間が見えたが、今日は一日雨であった。
新潟に大きな地震があって、広域に渡っているので、これから豪雪に見舞われる地域でもあり、特に高齢者や、病人にとっては、つらい冬となりそうである。
台風の被害についても、まだ、復旧していないし、つくづく日本は、自然災害の大きな国であることを痛感する。
それにつけても、いつも感動するのは、そうした被害にあった人たちが、割合に冷静に自然災害を受け止めていることである。
関西大震災の時も、死者5000人以上という大惨事でありながら、被災地に、たとえば掠奪のような、無法な現象はなかった。
多少の混乱はあったであろうが、市民生活のルールは、よく守られていたと聞いている。
今回も、罹災した人は、テレビの無遠慮な質問にも、よく対応して、ジッと、つらさに耐えているのが、かえっていたましい。

晴れていれば、暖房も冷房も要らない快適な気温の筈だが、このところ、かなり冷えている。
家の中でも、一階と二階では、温度差があるようだ。
2,3度の違いがあるのではないかと思う。
昨年の今頃、北海道の見知らぬ人から夫にメールが入った。
夫のホームページに載せてあったジャガイモの花の写真を、使わせて欲しいという趣旨だった。
農家の人で、ジャガイモを出荷している先のホテルのロビーに、宣伝用のジャガイモの花の写真を飾りたいと思い、いろいろ探して、夫の写真が目についたのだという。
ちゃんと礼を尽くして言ってきたので、承諾し、あらためて写真を送ってあげたら、その御礼にと、収穫したジャガイモを一箱、送ってきたのだった。
美味しいじゃがいもで、身内の者に配ったので、直ぐ無くなってしまった。
今年は、その農協に注文して、送ってもらうことにした。
「毎年送ってくれるんじゃないの」と私はさもしいことを言ったが、「写真一枚で、そうはいかないよ」と夫は言った。
今でも、その写真がホテルに飾ってあるかどうかは、定かではない。


自転車とケータイ
2004年10月23日(土)

数年前、私の家に、老父母が同居していた頃、まだ元気なトシヨリではあったが、二人が外出するとき、私の一番の心配は、車の事故に遭うのではないかと言うことだった。
ところが、親たちの意見は、意外にも、車より、自転車の方がコワイというのである。
道路を横切るとき、たしかに車には、とても神経は使うが、自動車は車道を走るからまだいい、歩道を無差別に走っている自転車の方が、余程危ないというのである。
せまい歩道を、我が物顔に、スピードを上げて走り、突然後ろから、ベルを鳴らす。
老人は、とっさに反応できないし、動作もゆっくりなので、どちらに避ければいいのかわからない。
ましてや、母は耳が遠いので、ベルが鳴っても聞こえないことがある。
まごまごしていると、体すれすれに横をすり抜けていく。
そういう横暴な自転車が結構多くて、それが一番イヤだといっていた。
杖を突いて歩いていた父が、後ろから自転車で走ってきた中学生くらいの少年に、「邪魔だ、どけ!」と怒鳴られたこともあったらしい。
歩道というのは、本来、人が安心して歩ける道の筈である。
それが日本では、自転車と人が、共存しているのである。
これは、高齢者だけでなく、ベビーカーを引いた若いお母さんにも、買い物袋を下げて普通に歩いている人間にとっても、実に危険と隣り合わせなのだ。
前を歩いている人を、当然のように、無言で、ベルひとつで、道の端に追いやるような野蛮な行為が、平然とまかり通っているのである。

しかし、その頃はまだ携帯電話が、それ程普及してなかったので、まだよかった。
今は、みんなが携帯電話を持つ時代である。
自転車を走らせながら、ケータイを使っている人も、ちょくちょく眼にする。
(私は機器としての電話、あるべき使い方としての携帯電話はちゃんと漢字で書く。そうでない場合はカタカナと、区別している)
片手でハンドルを握り、もう片方の手で、ケータイを持ち、話したり、メールをしたりしている。
器用なことをするなあと、感心はするが、これは、歩行者にとっては、刃物のようなものである。
如何に、ハンドル捌きがうまく、運動神経のすぐれている人であっても、もし、走行先に、歩行者がいて、とっさに避けられない場面に遭遇したとき、ぶつかる危険性は大きいだろうと思う。
そのとき、歩行者の方が避けるべきだと言うのが、多分ケータイ愛用者の考えなのであろう。
そもそも、歩行者に配慮する気持ちのある人なら、はじめから、自転車を走らせながら、ケータイを使うなんて発想は、出ないだろうから。
事故が起きたら裁判すればいいじゃないかという意見を、あるところで読んだ。
こういう意見がてらいもなく、堂々と出てくる所に、私は、今の日本の、自己中心主義の蔓延した、病的な風土を感じる。
私が住んだことのあるイギリスでは、自転車は車道を走ることになっていたので、危険を感じながら歩道を歩かねばならない状況はなかった。
先日も、私は、後ろからベルを鳴らして、近づいてきた自転車の小学生に、「ここは人が歩くところだから、いったん降りて、ちゃんと断ってね。ベルでは聞こえないこともあるし」と言った。
すると、しぶしぶ自転車から降りて、引きながら私の傍を通り抜けたが、再度乗って去り際に、私に向かって「バカ」と言った。
追いかけて、首根っこをつかんでやりたいところだったが、すでに逃げてしまっていた。
学校では、自転車の乗り方について、警察などが指導に行っているはずである。
でも、道路の渡り方や車との関係における自転車の安全性について教えるだけで、歩行者に対する配慮や、マナーについては、関知しないのであろう。
そんなことは、本来、親が、家庭で教えるべきことなのだが、今はそういう状況ではないようだ。
私も自転車を利用する。
生活必需品である。近場はとても便利である。
だから、正しい乗り方をしたいと思う。
携帯電話をめぐって、いろんな考え方があるのは、目にする。
電車の中でも、優先席に座って、平然とケータイを使っている若者も少なくない。
自転車に乗って、ケータイなんて、議論の余地無く、非常識なのに、そんなことを論じなければいけない状況が、おかしいのだ。


母と娘
2004年10月21日(木)

今朝、母から電話。
台風の影響はないかと、心配しているが、朝からこんな電話を掛けて来るのは、きて欲しいという、しるしである。
この前、履きやすいサンダルが欲しいと言われて、持って行ってから、3週間ほど経っている。
電話の様子だと、その間、足を痛めて、しばらく大変だったというのだが、一応痛みは収まって、今は、普通に歩けるらしい。
でも、「お菓子がないから、もし来るのなら買ってきて」という。
ケアハウスにいて、買い物も、食事も、付いているが、他人には頼めない物もあるのである。
午後から出かけていった。
バスでJRの駅に行き、電車で二つ先まで乗り、またバスに乗る。
終点は私鉄駅の傍で、母達のいるところは、そこから3分くらいである。
乗り継ぎがうまく行くと、それ程時間が掛からないが、今日は、台風明けのためか、道路が渋滞していて、バスが進まず、駅のショッピングセンターで買い物をしたりで、結局1時間半も掛かってしまった。
母達のいるハウスは3階建て。
受付には係の人がいて、訪問者をチェックする。
もう顔はわかっているが、一応こちらの名前を書くと、入り口を開けてくれる。
エレベーターで2階にあがり、食堂を右手に見て、長い廊下を歩くと、母達の居室がある。
台所、バスルーム、それに父と母のベッドを置いたリビングルームが、母達の専用スペースである。
小さなソファと、テーブルがあって、そこが客間にもなっている。
バルコニーは、洗濯物を干すくらいの広さはある。
老人二人の住まいとしては、決して広いとは言えないが、「もう人が泊まりに来ることもないし、これで充分」と母は言っている。
地方から、母の妹がきたときは、リビングに布団を敷いて何とか寝られたらしい。
私が行ったとき、妹が先に来ていて、ちょっとイヤな顔をした。
近くに住んでいる彼女は、自分が、親の世話をしている気なので、余り手を出してほしくないのである。
「お母さんから電話を貰ったから、頼まれた物を買ってきたの」というと、「私が毎日きてるんだし、ここでは、買い物もして貰えるし、食事が付いてるんだから、食べ物なんて要らないの」と、機嫌が悪い。
「でも、トシヨリは、口寂しいのよ。いつも食べるものがないと、不安なの。私が買ってきたんだから、重なったっていいじゃない」と、構わず、冷蔵庫に入れる。
「それなら言ってくれれば、私が来なくてよかったのに」と、妹は、今度は母に向かって、ブツブツ言う。
母は耳が遠いので、その遣り取りは余り聞こえないが、妹が、文句を言っていることは、雰囲気でわかる。
あまり訊かせたくない。
「そんなことどうでもいいでしょ。私は、自分が来たくて来たんだから」と、私の声も尖ってくる。
「じゃ、帰る」と妹は、出ていった。
7年前、両親が家を畳んで、私たち夫婦と暮らしはじめたとき、二人の妹とは、いろいろな行き違いがあった。
親たちは、都内の一軒家に住んでいたが、高齢化するに従い、日常生活がだんだん大変になってきた。
私と妹たちで、時々行っては、手伝ってきたが、それも限界がある。
父が腰を痛め、外の要因も重なって、長女である私の所に、移って貰うことにした。
夫の両親はすでに他界しており、一人息子も独立して、夫婦二人の生活になっていたので、スペースの点でも、私のところが条件がよかったからである。
娘夫婦との同居と言うことで、周りから羨ましがられたりしながら、引っ越してきた。
親たちは、まだ気持ちも、体もしっかりしており、新しい環境にも、順応して、それからの生活も、うまく行くかに見えた。
しかし、そう簡単ではなかったのである。
その一番のネックが、私の妹たちの存在である。
私が一人娘であったら、多分起こらないであろう、いろいろな問題が起こってきたのである。
お金ではない。
もしお金の問題なら、ことはもっと簡単だった。
親たちは、経済的負担を子どもに負う必要はなかった。
また、私も、妹たちも、親のお金に頼らねばならない状況はなかった。
親の面倒をどうするかということに、お金が一切介在しなかったのは、私の一族のいいところだと、思っている。
じゃあ、どんな問題があったかというと、あまりに多すぎて、一言では言い尽くせない。
強いて言うなら、心の問題と、コミュニケーションの不足である。
3年間、親と同居したことにより、沢山のことを学んだが、同時に、姉妹親族を含む、人間関係を少なからず失った。
理解者は、夫と息子夫婦だけである。
いろいろな経緯があって、親たちは、私のもとを去り、妹の一人と同居したが、1年少し経ち、今のケアハウスに移った。
母の意志である。
今、私は、たまに母達のもとに行って、話を聞いてやるくらいのことしかしていない。
残り少ない人生を静かに送っている親たちの、心の平安だけを望んでいる。
ただ、妹たちとは、ボタンの掛け違った状態のままである。
親たちを見送る過程で、もう一度、葛藤が起こるかも知れない。
高齢者を、予算がかかりすぎるなどと、数字でひとくくりして、批判するのは簡単である。
しかし、人間は生きている間に、沢山の人付き合いも、歴史も背負っていくのである。
そういうことを、「高齢者対策に使う予算が高いから、日本は高齢者に優しい」などと、つまらぬ記事を書いた人物は、どのくらいわかっているのだろうか。
おそらく、人間を、物と同じ数字でしか測れない、薄っぺらな分析力しか、持っていないのであろう。


台風多し
2004年10月20日(水)

とりわけ暑かった夏が終わって、爽やかな秋が来るはずが、幾度とない台風の襲来である。
いや、台風は、毎年発生しているので、日本を直撃するケースが、今年は多いと言うことであろう。
その場合は、大体同じ所を通るので、被害地区が、集中することになる。
その地区に住んでいる人には、一難去ってまた一難と言うことになり、何とも気の毒なことである。
昔と違って、台風対策も進歩し、回復も早いが、それでも、木が倒れたり、水が出たりすると、後始末が大変だろうと思う。
今回は、街路樹が根こそぎ倒れて、傍の車や建物に、被害が出たケースもあったようだ。
物的損害はともかく、人的被害が問題である。
数は少ないが、死傷者もいる。
落下物が当たったり、台風対策をしている作業中に、命を落とすケースもあり、いたましいことである。

私の妹は、傾斜地に住んでいるので、台風が続き、土砂崩れが多かったりすると、心配である。
地盤がゆるんで、地滑りが起こったりしたら、家ごと埋まることになるからだ。
そこに家を定めたとき、窓の向こうに、遮る物のないのが気に入ったのだった。
新築したばかりの家に、私も見に行った。
「ここから夕陽が見えて、最高ですよ」と、義弟が言い、私の夫と、オンザロックを傾けながら、ご満悦であった。
そのとき、母が、「でも、これだけの坂では、台風の時大丈夫かしら」と言った。
「土留めがしっかりしてるし、上の方だから、下敷きになることはありませんよ」と、義弟は、問題にしなかった。
10年前のことである。
沿線駅に出るには、バスに乗らねばならないが、バス停が坂の下にあって、歩いては行けない距離であった。
「車でそこまで送るから大丈夫よ」と妹が言った。
夫婦とも、まだ40代。
先のことまで想像できないのも、若さであった。
妹は、毎朝夫や子どもを、駅まで送り届け、帰るときも迎えに行った。
私はペーパードライバーになって久しいので、そこへ行くときは、夫に連れて行って貰わねばならない。
結局行かなくなってしまい、用があるときは、向こうから来ることになる。
地滑りの心配は、なさそうだが、こう台風が続くと、大丈夫かなあと思う。
車でしか行き来できないところに住むのも、大分、負担になってきているらしい。
10年の間には、子ども達も独立した。
今では、「もっと、平坦なところに引っ越そうか」と義弟が言い始めているらしい。

今日、台風が近づいて来るというニュースを聞きつつ、深川まで、連句の会に行く。
大事な記念行事であり、私は捌きをやることになっていたので、欠席するわけに行かない。
雨は激しく降っていたが、風がないので、さほど苦労しなかった。
「電車が停まるといけないから、夜遅くならない方がいいよ」と夫が言う中、大きなカッパ型のレインコートに、長靴をはいていく。
足元が濡れるのが一番いやなので、雨のひどいときは、このスタイルに決めている。
会場には早めに行った。
正式俳諧があるので、役に当たった人たちは、着物、男性も袴姿である。
台風のせいで、急の欠席者もあったらしいが、それでも60人の参加者で、盛況だった。
行事が終わって、連句の付け合いが始まったが、私の席は、一人欠席があって5人のメンバー。
偶然、真面目な人ばかりになってしまい、ちょっと弾まなかったが、ともかく無事時間内に終わり、ホッとした。
台風のため、時間も一時間短縮。忙しかった。
終わるといつもなら、近くの飲み屋に行くところ、早々に帰路につく。
男の人たちは、残ったようだった。
雨は朝より激しくなっていたが、電車に影響なく、6時半に家に着いた。


少子化がどうした
2004年10月17日(日)

日本が、歴史上かつて無い高齢社会になり、それに反比例して、出生率減少の問題が云々されている。
今、日本人女性の生涯に産む子供の数が、1.2人とか1.3人とか言われて、それに危機感を覚える人たちが、人口減少を憂いて、あれこれ問題にしている。
また、高齢者が優遇されて、それに予算がかかりすぎるのはけしからんという議論がある。
高齢社会であることと、少子化とは、本当は全く別の問題であるのに、セットにされて議論されるのが、私にはどうも納得がいかない。
高齢化と少子化が、因果関係があるのか。
片方が多ければ、もう一方が少なくなり、その反対もあるというのか。
子供が生まれなくなったのは、高齢者が増えたからなのか。
そんなことはない。
数字のまやかしというのは、危険な議論に発展する。
高齢人口が増え、寿命が延びているのは、統計上はたしかであろうが、その高齢者達が、果たして、優遇されていると、実感しているかというと、そんなことはないのである。
私の周りには、高齢者が沢山いるが、長生きしてほんとによかったと思っている人は、残念ながら多くない。
赤ちゃんが生まれて祝福されるのとは、わけが違う。
それに、平均寿命も、今までは伸び続ける一方だったかも知れないが、たぶん、私が高齢者といわれる頃には、率が下がってくるのではないかと思う。
それ程案ずることはない。
今の超高齢者は、幾たびも戦争や貧困をくぐり抜けて残っている、生命体としても超エリートの人たち。
お疲れ様です、これからは、どうぞ存分にお幸せに、と手厚く遇して何が悪いのか。
日本がこれだけ豊かになり、終戦時、アメリカあたりにバカにされていた時代から、先進国といわれる存在に登り詰めてきたのは、みな、これら先達のおかげではないか。
税金だって、沢山払ってきている。
高齢者を優遇してるだって?
シルバーシートに坐って、ケータイなんか使ってる若いモンが、ナニ言ってるの?
高齢者の実態をどのくらい知ってるの?
数字だけで判断して、バカなことを言うなといいたい。
少子化だって、男の役人ばかりで、頭を付き合わせて議論するくらい下らないことはないと、私は思っている。
今、出産可能年齢にある女性達の、生の声をどのくらい訊いたの?
家庭にあって、夫を支え、子育てをし、人生の大半を過ごしてきた専業主婦を、さんざんバカにして、「働いてない人」なんて、統計上位置づけてきたのはどこの誰?
無償の働きで地域社会を守り、子どもを見守ってきたのは、名もないおっ母さん達なんだよ。
自分たちのしてきたことを、理論化したり、言語化するのは下手だから、言わないだけ。
誉めて貰おうとは思わないけど、一部の跳ね上がりの女権論者の尻馬に乗って、普通の主婦を小バカにしてきた結果が、今の少子化に繋がっていると、私は見ている。
タダ働きして、感謝もされず、評価もされなかったら、くさるもんね。
そういう母親の世代を見て育ったのが、今の、出産年齢相当の女性達。
子供を産んで苦労するより、自分で稼いで、自由を愉しんだ方がいいと、女性達が(全部とは言わないが)思ったとしても、責められない。
昔と違って、戦力のためにとか、国の繁栄のために、子供を産む必要はないのだから。
それに、出生率だって、今は下がる一方だけど、何かの拍子に伸びる可能性もある。
それは誰にも予測できないのだし、1年2年で急にどうかなるものでもない。
人間としての、幸せのために子どもを持つ。
そして、親子ともども、充実した人生を送る。
それを信じられたら、子どもを持ちたい人も増えるかも知れない。
国策として、あるいは、統計上の都合で、こんなこと論じてもダメなのよ。オッさん達!


閨の月
2004年10月13日(水)

雨の残る朝、連句会へ行く。
この会は、月に一度、都心の喫茶店の一隅を占領して開かれる。
大体12,3人で、3席ほど。
開始時間は午前11時ときまっている。
今日はバスや電車の乗り換えがうまく行かず、30分ほど遅れてしまったが、まだ、発句が決まったばかりだったので、連句開始には、遅れなくて済んだ。
この喫茶店は、談話室と称していて、メニューはコーヒーや紅茶に、簡単な軽食がある程度。
まず飲み物を頼み、ランチタイムに、サンドイッチやトーストを頼むと、もう一杯飲み物がサービスされる。
それで4時頃まで、ゆっくり出来るのだから、連句の会や、小規模の団欒には、よいシステムである。
200円のサービス券が毎回付くので、払うのは1000円前後で済む。
今日は、6人ずつ2席だった。
連句は、その座の雰囲気によって、うまく運ぶ時と、何となく弾まない時とあるが、今日は、和やかでうまく流れて、いい会だった。
私は、句数も口数も、割合多いほうだが、メンバーの中で相性の悪い人がいると、句が浮かんでこない。
今日、バカに句がどんどん出来たのは、捌きと、メンバーの組み合わせがよかったのだろう。
今日の形式は歌仙。
最初の6句は、一巡する。
私は4句目に採られた。
スロースターターなので、後半の方が調子が出る。
恋句が好きなので、その場所に来ると、発憤する。

微熱少年澄んだまなざし
対句のやうに響き合ひたい
水差しの水を絶やさず閨の月

以上が私の採られた恋句。
これらは、それぞれ前句とあとの句があって、転じていくので、俳句や川柳とは違う。
複数で巻く連句ならではの面白さである。
36句の歌仙が終わると、一足先に終わって待ちかまえていた呑み仲間と、駅ビルの安い飲み屋に入った。
これも、連句に伴う楽しみである。
こちらの方が目的という人もいる。
今日は男1人、女4人。
いつものように、飲みかつ食べ、お喋りを愉しんで散会。
雨は、すっかり止んでいた。


台風に向かって
2004年10月12日(火)

10月10日、11日と二日間、芭蕉生誕360年を記念しての「世界俳諧フュージョン」という催しが、三重県伊賀上野市で開かれることになっており、それに参加すべく、連句仲間の女4人で、申し込んであった。
ドナルド.キーン氏はじめ、俳句連句関係の内外ゲストを招いてのシンポジウム、吟行など盛り沢山の内容である。
前日の9日に、行くことにし、宿泊先は決まったが、行き方や時間は4人の都合が合わないので、ホテルまではそれぞれ、ということになった。
しかし、そのあたりを直撃しそうな台風が来ると言う予想である。
9日の鈴鹿サーキットは、台風襲来に備えて、中止になったという。
「止めた方がいいかしら」という声もあったが、行ってしまえば、翌日は晴れるでしょう、何とかしていきましょうという気持ちが勝って、誰も、キャンセルせず、予定通りに行くことにした。
一人は早朝の切符を手配し、京都から奈良近辺を廻るという。
一人は、午前中、用事があるので、午後からの新幹線で、向かうという。
私と残りの一人は、最寄り駅が同じなので、11時6分発の新幹線で行くべく、切符を買ってあった。
テレビで情報収集しながら、支度をする。
当日早起きすると、すでに新幹線は、静岡付近で、徐行運転している。
「止めた方がいいぞ、途中で止まるか、車内で夜明かしになるぞ」と夫は、心配半分、イジワル半分で言う。
それでも、予定を変えそうにないと見て、当日は、雨具を持たなくてもいいように、駅まで、車で送ってくれた。
雨は降っているが、台風の雨ではなく、風もない。
折りたたみの軽い傘だけ、荷物に入れる。
以前、伊勢に行った時も、台風に遭い、そのとき、靴をダメにしたので、今回は、予備の靴を入れた。
東京駅までの電車も、遅れるかも知れないので、かなり早く家を出た。
東京駅に着くと、新幹線改札口はごった返している。
予定の出発時間までに、1時間ある。
車内で、足止めを食うことも考えて、飲み物と、お弁当を買う。
改札口で、乗務員に様子を聞くと、「出ることは出ますが、かなり遅れがあり、途中で止まるかも知れません」とのこと。
「旅行はお取りやめ下さい」などと張り紙もある。
早朝から、遅延は続いていて、予定の列車も、遅れそうだという。
来てみて、取りやめた人もいそうである。
とにかく、新幹線ホームにはいる。
一緒に行く友人にケータイを繋いでみるが、通じない。
ホーム両側には、新幹線が止まったままである。
そのうちに、ケータイで、友人のメッセージが入り、カートを引いた彼女と、ホームで合流した。
該当の列車が到着し、乗り込んだ。
思いがけなく早く、15分遅れで出発した。
満席の筈の車両に、いくつか、空席がある。
台風で取りやめた人がいたらしい。
静岡あたりで、やはり徐行運転になり、雨脚が窓を叩くほどになったが、列車が止まることはなく、京都に着いたのが、予定より、1時間遅れであった。
名古屋についた時、午後1時頃発った友人から電話が入った。
「まだ新横浜で停まったきりよ」という。
どうも、私たちの乗った列車のあとから、遅れがひどくなって、次々と停まってしまったらしい。
間一髪で、運がよかったのだ。
京都に着いた時は、ほとんど台風は通り過ぎたようであった。
荷物を預けて、京都の名所を観光し、近鉄に乗り換えて、天理市内のホテルに行くのが、当初の予定だった。
しかし、友人は、京都観光よりも、天理界隈を歩きたいという。
あとは、早くホテルに入った方がいいんじゃないかしらというので、そのまま近鉄天理線に乗り換えた。
天理駅は、大きな駅である。
市制50周年の垂れ幕が下がっていた。
少し小雨が降っている。
荷物をロッカーに入れ、タクシーで、天理教総本山のあるところに行った。
私は、6,7年前に一度、大学のフィールドトリップで、行ったことがある。
ここの大伽藍は、信者でなくとも、一見の価値がある。
祈りを捧げている信者達と、少し空気を共有した。
天理大学、天理図書館の素晴らしさも、見る価値があるが、残念なことに、もう閉館していた。
駅に戻り、近鉄線で平端に出る。
ホテルの循環バスを待ち、目的のホテルに着いたところで、早朝に発った友人と合流した。
スポーツクラブを兼ねたホテルで、お風呂に入り、食事やカラオケを愉しんで、部屋に落ち着いたが、もう一人の友人を含む遅れ組は、新横浜で、列車が止まったまま、9時間経ち、いったん家に帰ったり、ホテルに泊まったりしたらしい。
翌朝、ホテルに迎えに来たバスで、私たち3人は、催しが行われる会場に移った。
連句会が10時過ぎにはじまり、そこに、早朝東京を発った前夜からの遅れ組が、次々と到着した。
友人は、自宅往復のタクシー代その他で、結局1万円くらい余計にかかったらしい。
すでに台風は、遠くに去っていた。
亭主や息子からの連絡、問い合わせ、それへの返信、友人間の連絡など、滅多に使わない携帯電話が役に立ったが、旅の終わりには、電源を使い果たしていた。
帰りは、名古屋からであったが、指定券を買っていなかったので、東京まで、座れないことを覚悟していた。
連休の最後、しかも、夜8時少し前である。
ところが、自由席で、運良く座れたのは、ラッキーだった。
一緒に乗り合わせた顔見知り達も、みな、席に収まった。
やはり台風の影響で、帰りの客も、減ったのであろうか。
帰宅したのは、10時45分。
短いが、長く感じた三日間のトリップだった。
ネットで交流している連句の人とも、初の対面をすることが出来た。
さすがに疲れて、今朝は9時まで寝てしまった。
溜まった洗濯物を片付け、干してしばらくすると、雨が降ってきた。
秋雨前線らしい。
やっとパソコンに向かって、キーボードを叩いている。


酸っぱい話
2004年10月08日(金)

飽食時代の日本。
食べるものがありすぎて、選別の時代になっている。
駅ビルなどは、メインのフロアを占めていたファッション関係のブティックなどが店を閉め、地下街にあった食品店が、取って代わりつつある。
私が乗り降りする駅でも、一階のコンコースの両側のフロアは、昨年まで婦人服やハンドバッグなどの店が、場所を占めていた。
私もよく立ち寄ったし、バブルの頃は、賑わっていた。
だんだん、閑散としてきたなあと思っていたら、いつの間にか、婦人服に替わって、すべて、食べ物関係の店になった。
それも、野菜、肉、魚などの材料そのものを扱う店は一軒ずつで、あとは、出来合のおかず、パックや量り売りの食材である。
電子レンジでちょっと温めれば直ぐ食べられるところに、人気があるのだろう。
夕方、6時から8時近くまでは、その類の品を求める客が列を作る。
勤め帰りと思われる女性が圧倒的に多い。
みな、家で待っている家族のための買い物であろう。
毎日家で食事を作っている主婦の目から見ると、売っているおかずは、大変高い。
2,3品買っても、直ぐに2000円くらいになってしまう。
スーパーで、材料だけ買うなら、ずっと安く上がる。
しかし、時間と手間を考え、煮炊きする光熱費や水の値段も含めると、どっちが高く付くのかわからない。
家計簿を付けるのを止めて久しいので、最近は、そうした主婦的計算も疎くなった。
仕事も、自分の愉しみも大事にする現代の女性は、外にある物をうまく利用して、生活の中に取り入れ、賢く生きているに違いない。

前置きが長くなったが、テレビで見た酸っぱい話をしたかったのである。
健康志向で、お酢が売れているらしい。
家には、通常の食酢に、せいぜい林檎酢とワイン酢くらいだが、今、街では、さまざまな酢が出ているそうだ。
それも、フルーツから作った酢が、体にいい飲み物として、好まれているらしい。
林檎酢に蜂蜜を入れ、水で割った物を、一時私も愛用したことがある。
今日テレビで紹介していたのは、柑橘類をはじめ、林檎、石榴、葡萄、梨、などの果物の酢である。
果実酒の作り方と同じだが、リカーの代わりに食酢を使って、フルーツ酢にするわけである。
果物は皮を剥き、適当に切って、ガラス瓶に入れる。
そこに同量の酢、同量の氷砂糖を入れそのまま置く。
時々かき混ぜる。
多分、1,2週間くらいで、フルーツ酢になる。
これを、今までの食酢と同じ要領で、お寿司や酢豚などに使うと、ひと味違うのだという。
サラダのドレッシングを、林檎酢や、飲みかけのワインをそのまま置いて出来たワイン酢で、作ったことはあるが、料理に使ったことはなかった。
三杯酢や、酢の物だけでなく、こんな風にバリエーションを付ければ、酢も摂りやすくなるだろう。
今度、大瓶の食酢を買ってきて、巨峰から酢を作ってみようと思った。



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