ホームページと別に、ブログというものを作って、ちょうど2ヶ月経った。 この辺で、ちょっと感想を述べてみたい。 私のホームページは、検索エンジン拒否の設定をしているため、訪問客は限られている。 私のほうからお気に入りのサイトを訪問して、そこの掲示板にでもURLを書き込まない限り、見に来る人はいない。 壁紙など借りた時は、礼儀として、そこのBBSに「ダウンロードさせていただきました」と書き、URLも入力し、自分のホームページにも、バナーなど入れる。 そこから見に来る人もいるが、大体一過性のお客さん達で、URLが入っていたから、ちょっと覗いてみたというくらいのことであろう。 月750円払って、100メガのスペースを持っているのに、そこのサーバーにアップしているのは、このホームページを含め、わずか10メガくらいで、全部表示しているわけではない。 movable typeに対応してるので、本当は、そこにmovable typeを入れて、自分だけのブログを作ればいいのだが、設定がかなり難しそうなので、既成の無料ブログを借りているわけである。 時間帯によって、なかなか表示されなかったり、エントリーした記事が、アダルトコンテンツと並んで、新着○○件に表示されるという、不本意なことはあるが、サーバーの中の、雑居ビルの住人のようなものだから、余り気にしないことにした。 それより、無料で、私のようなアナログ人間でも、余り苦労なく、自分の思うことや、訴えたいことを、発表出来ることに、感謝している。 それを認めつつ、もうひとつ別のことも感じている。 自分の書いた記事が活字になることは、ホンの10年、20年前には考えられないことだった。 高いお金を出して自費出版するか、雑誌などの懸賞小説や、新聞の投稿欄に載るくらい。 それも、採用になることは、難しかった。 子どもの頃から20歳過ぎまで、喋るのが下手な代わりに、文章で気持ちを表現する方が合っていたので、日記は、私の生活の中で、食べること、寝ることと同じくらい、常にあるものだった。 おとなになるにつれ、書くことより、直接言葉で表現する方が楽に感じられるようになったが、余り気心の知れない人と、顔を見て会話するのは、いまだに下手である。 手紙ならすぐ書けるのに、電話をかけるのは抵抗感があった。 運動神経とも関係あるのかも知れないし、頭の廻りが遅いのかも知れないが、電話で相手の言うことを正確に受け取り、それに正しく反応するのは、私には努力がいる。 手紙なら、よく考えて書けるし、書き直しも出来る。 ただし、一方通行だから、意思疎通に時間は掛かる。 それに、書いたものは残るので、慎重に書かねばならないと言う点はあるが・・。 メールというものが出来て、伝達手段は飛躍的に進歩した。 保存しておけるという手紙の機能と、時間や場所を選ばず、いつでも送受信できるという利便性を備えている。 更に、インターネットで、世界中の誰とでも更新し、情報交換できるようになって、台所の片隅から、アメリカにだって、発信することが可能になった。 あの9.11以後は、それまでプロのジャーナリストのものと思われていたブログが、一般の人にも、活用されるようになり、日本にも上陸して、現在に至っていることは、周知の事実である。 普通の主婦である私までが、ブログを作って、発信しているのだから。 今まで、ほとんど人目に触れていないエッセイや日記を書き直して、せっせとアップしてきた。 従来のホームページにはない「動いている」面白さを感じる。 しかし、同時に、戸惑いも感じている。 時事的な問題、政治、経済、現在世界の中で動いている現象について、考え、書くことは、ブログというものの利点を大いに生かしている。 見知らぬ多くの人とも、同じテーマについて、意見交換し、その遣り取りを通じて、世界が広がる。 ただ、私のように、文芸や、身辺雑記的な分野で書くことを主にしている人間にとっては、一方的な発信で留まってもいい場合がある。 趣味の範囲で愉しんでいることに対して、第三者は口を挟めない。 せいぜい「愉しそうですね」とか、「私も同じ趣味を持っています」と共感するくらいであって、中身について、意見を交換することが、時にナンセンスになる場合もある。 虚構に近い記事については、なおさら、第三者はコメントもしにくいであろう。 また、書く方も、独断と偏見、自己満足で結構という気持ちがある。 折角ブログを作ったのだから、私の苦手な時事問題も取り上げたいと、試みているが、どうも、私には、合っていないようである。 非常に現実的な世界と、虚構の世界とを、同じページで発信していることの混乱もある。 ホームページでは、私はネット上は別人格と割り切って、虚構の世界に徹していた。 それが、ブログでは、実の顔と、もうひとつの顔が、交叉するのである。 カテゴリー毎にブログを作って、リンクさせなければいいのかも知れないが、それなら、今持っているホームページを、有効に使った方がいいのではないかと気づいた。 ブログは、拡がりがある代わりに、「そっと置いておきたいもの」を載せるには向かない。 そこで、休止状態になっているホームページと重なる分野は、ブログから外し、今まで通り、非公開に近い形に戻し、ブログには、時事性の強いもの、私が背伸びしなくても書けそうな小さなニュースや話題を取り上げて、書いていった方が、いいのではないかと、考えはじめているところである。 そんな折り、夫が今までホームページに置いていた掲示板が閉鎖するという連絡が、掲示板のサーバーから来た。 夫は、政治経済、国際問題に関するサイトを私より早くから作っている。 堅くて面白くないので、私はほとんど見ないが、その分野に興味を持つ人は、少し見に来て、掲示板に書き込んでくれるらしい。 それに返信するくらいで、余り熱心ではないが、閉鎖されたのでは困るので、代わりを探すことになった。 掲示板に関しては私のほうが情報を持っているので、「どこがいいかなあ」と相談に来た。 そこで私はブログを勧めたのである。 新しく掲示板を作るくらいなら、この際、ブログにしてみたらと言った。 「ブログなんて、書くことないよ」と言っていたが、私と同じサーバーを有料で持っている。 movable type対応だと知って、その気になったらしい。 早速ダウンロードし、設定をはじめた。 サーバーと連絡を取りながら、今構築中である。 私に少し遅れて、夫もブロガーの一員になるわけだが、私のほうは、逆に、ちょっと引いている。
オリンピック開会式の時、私は「紅白の小林幸子の衣装みたい」だと思った。 趣向を凝らし、お金をかけて、だんだん派手になってオリンピックは、スポーツというより、巨大なイベントという感じがしたからだ。 でも、2週間経って、幕を閉じた今、私は参加した選手、特に日本の選手達を、心から賞賛し、有り難うと言いたい気持ちである。 メダルの数が、今までより多かったとか、いい記録が出たとかいうことも、あるが、勝敗に拘わらず、真剣に、真摯に全力を尽くした彼らの、スポーツを愛するこころにである。 主将として参加しながら、思うように力を出せなかった柔道の井上選手が、最後まで、アテネで、主将としての役割を勤めていたこともそうだし、シンクロナイズドスイミングをはじめ、時に不公平と思われる判定があっても、選手達は、自分の持てる力を尽くした。 イザという時に弱いと言われたこともある日本選手が、今回の大会では、本番でふだん以上の力を出したケースも少なくなかった。 素直に喜びを表現し、潔く負けを認めて、相手を讃え、試合態度も抜群に良かった。 同じ日本人として、誇りに思う。 豊かな国になったというのは、こういう場合に使いたい。 スポーツを高めるのも、おとしめるのも、携わる人たちの心ひとつである。 今回のオリンピックで、日本選手達は、この点において、素晴らしかった。 私は、選手全員に金メダルを上げたい。 ライバルのドーピングという思いがけないことで、金メダルを貰うことになった室伏選手。 最後のハンマーは、彼自身が金と確信したに違いない出来だった。 当然貰うべき金だったのだ。 多国の選手の演技も、印象に残るものは沢山ある。 最後のマラソンで、アクシデントに見舞われながら、最終コーナーを、にこやかな笑顔で完走したブラジルのリマ選手も良かった。 ブラジルは私にとって、想い出のある国。 彼の銅メダルも、金にまさるものだったね。 素晴らしいスポーツマンシップ!ありがとう! さあ、これで夜更かしから解放される。
最近、あまり本を買わなくなった。 ・・というより、買えなくなったというのが正しい。 一番大きいのがスペースの問題である。 家に何冊の本があるのか、数えてみたことはないが、学者でも作家でもない、個人としては、多いほうかも知れない。 大半が私の物、それに、私の父の本がある。 本は買ったら捨てないので、増えることはあっても、減ることはない。 しかし、本の占めるスペースが限界に達したので、もう買わないことにしたのである。 夫は、余り本に愛着のある方ではない。 だから何かにつけて、私の本を目の敵にする。 「本の重みで、家が傷む」という。 「地震が来たら、本は凶器になるぞ」などと、いい加減なことも言う。 本箱の下に寝ているわけでもないのだが・・。 そのくせ、自分も、ビジネス関係の本や、人から貰った自家製本などは、とってある。 興味や好みが違うのだから、相手を非難していると、「本で離婚」と言うことにもなりかねないので、その話題は、我が家では禁句である。 ただ「減らせないのなら買うな」という夫の言い分もわかるので、今まで持っている本をそのまま置いておく代わりに、買わないことにしたのである。 しかし時々は本屋に行く。 死ぬまでに、全部読めないくらい、家に本があるのに、何故か、家にない本に会いたくなるのである。 新しい出版物は家にないし、書店という場所と匂いが、恋しくなるのだろうか。 山積みにされた新刊書を眺め、棚に並んだ書名を見ているだけで、世の中の一面がわかる。 1,2時間はすぐ経ってしまう。 ごくたまに、新書など買う。 そのほかは図書館に行って、借りてくる。 ベストセラーなどは、順番待ちで無理だが、ちょっと時期を過ぎれば、借りられることが多いし、ない本は、よその図書館から取り寄せてもらえる。 連句では、話題になったベストセラーのことが出たりするが、私は読んでないことが多く、 仲間はずれの感じを味わうことがある。 だから、図書館と本屋は、貴重な情報源なのである。 先日、図書館で、もう旧聞になったが「バカの壁」という本を借りようとした。 話題になった時からは大分経っているので、もう借りる人もないだろうと思った。 しかし、40人も順番待ちだという。 帰ろうとして、ふと、目に付いたのが、大活字本の置いてあるコーナーだった。 弱視の人用のものだが、予約がなければ、一般の人も借りられる。 そして、なんと「バカの壁」が、棚にあるではないか。 入荷したばかりらしく、まだ新しい。 新書1冊の分量が、22ポイント活字A5版2冊になっている。 そのまま借りてきた。 活字が大きいので、どんどんページが進む。 ははあ、なるほどと思うことが書いてある。 もうじき読み終わる。 大活字本は、まだ、種類が多くないし、分量が多いので、持ち運びしにくいが、本来の利用者の邪魔にならない範囲で、これからも利用しようと思う。
昨日あたりから、とても涼しい。 歳時記ではとっくに秋だが、先週あたりまでは、まだまだ夏の暑さが残っていた。 22日から24日にかけて、熱海に行った。 百韻連句があったからで、16人が集まった。 熱海に、年間契約でマンションを借りている人の世話である。 連句は二つの座に分かれ、どちらも、果敢に愉しく終わった。 熱海まで行っても、海を見るわけでも、観光するわけでもない。 いちばん大きな部屋に集まって、ひたすら連句を巻く。 食事を挟み、連句の合間に温泉にはいる。 連句をしながら、お酒を飲み、甘い物、辛い物をつまむ。 麻雀やブリッジと同じようなもので、愉しいのは参加者だけ。 これこそ、踊るアホウにならなければ、何の価値もない世界である。 連句は、長句と短句を交互に付けていく遊びだから、森羅万象、お喋りもあちこちに飛ぶ。 人生経験が充分生かせるので、年齢を重ねたほうが優位に立てるところがあるのが、ほかのことと違う点である。 この世界では、私は若手に属する。 中心になって、意気軒昂なのは、私よりひと世代上の人たちである。 とにかく物をよく知っている。 学校で、読み書きの基本をしっかりたたき込まれているから、古い言葉や言い回し、故事来歴、古典、伝統芸能に関しての知識も豊富である。 生き字引が傍にいるようなもので、お陰で、硬軟取り混ぜ、ずいぶんいろいろなことを教えて貰った。 この世代が弱いのが、敵製語として学校教育から遠ざけられていた外国語。 そして、機械やインターネットなど。 若い世代が、ここぞとばかり発揮できる分野である。 いろいろな世代、価値観や環境の違った人が一座して、巻くのが連句だから、嵌ると足が抜けなくなる。 10年経って、私もそこそこ慣れてきた。 でも、馴れというのはコワイ。 初心者の人が入ってきて、時々とんでもない句を出す反面、手あかの付かない新鮮な句をひょいと出す。 ドキッとして、目を覚まさせられることがある。 いつの間にか、自分は、こういう句が出なくなったなあと気づく。 愉しさ第一で、気のあった人たちと巻いていると面白いが、たまには、おどおどと緊張に満ちた場も必要かも知れない。 ともかくも秋。 パソコンに向かう時間を減らし、積ん読のままになっている書物にも、手を付けねば・・。 オリンピックも終盤である。 夕べは遅くまで、シンクロナイズドスイミングを見た。 私は泳げないので、水の中で、どうしてあんなことが出来るのか、不思議である。 ワザも、だんだん大がかりになって、ビックリする。 日本は、なかなかの演技を見せたが、ロシアにわずか及ばず、銀メダルとなった。
リルケ 「秋の日」 富士川英郎訳 主よ 秋です 夏は偉大でした あなたの陰影(かげ)を日時計のうえにお置きください そして平野に風をお放ちください 最後の果実にみちることを命じ 彼等になお二日ばかり 南国の日ざしをお与えください 彼等をうながして円熟させ 最後の 甘い汁を重たい葡萄の房にお入れください 三年前の秋、私は、心に深くとらわれていたことがあって、虚と実の間を彷徨っていた。 毎日の生活は、平穏に流れ、私は、料理を作ったり、テレビを見たり、人と会えば元気に話をしたり笑ったりした。 心の中は、人には見えない。 笑顔の中に、涙が隠されていることも、気づかない。 私は人からは、いつも積極的に、物事に立ち向かい、言うべきことははっきり言い、コワイ物知らずと思われていた。 だから、この人には何を言っても大丈夫と人に思わせるところがあったらしく、時に、グサッと来ることを、言われるということが少なくなかった。 そんなとき、私は何日か、眠れぬ夜を過ごすのだが、言った相手は、そんなことは夢にも思わない。 いつ会っても、私は元気で笑っている私なのであった。 だが、そんな私の、別の面を知っている人も、いなかったわけではない。 表面張力が限界に達した時、コップの水があふれてくるように、私は、人に会いたくない状態になった。 秋に入ったばかりなのに「冬眠」と称して、自分の中に逃げ込んだ。 行くはずの会合にも欠席し、その頃頻繁に遣り取りしていた人のメールにも、返信しなかった。 でも、日常の私は、相変わらず、家族のために食事を作り、家の中を整え、時計の針のように、規則正しく、動いていた。 庭の金木犀が花を付け、一面香りを漂わせる時期になった。 そんなとき、メールで、上の詩が送られてきた。 私の「別の面」をよく知っている人であった。 本文は何もなく、詩だけがあり、「リルケ」とあった。 私は図書館に行き、リルケの詩集を探した。 この「秋の日」という詩には、いくつかの訳があり、送られてきたのは、富士川英郎訳だとわかった。 片山敏彦でも、高安国世でもなかった。 そして、送られてきたのは、詩の前半部分なのであった。 いま 家のない者は もはや家を建てることはありませぬ いま 独りでいる者は 永く孤独にとどまるでしょう 夜も眠られず 書(ふみ)を読み 長い手紙を書くでしょう そして並木道を あちらこちら 落着きなくさまよっているでしょう 落葉が舞い散るときに 私はその人への返信に、この後半部分を書いて、送った。 メッセージは何も付けなかったが、合わせればひとつの詩であった。 便箋であれば、私の熱い涙がシミを作り、手書きの文字が、さまざまに揺れていたかも知れない。 秋の色が深まり、日が短くなり始めていた。 詩の前半を送ってきた人と、後半を返した私とは、わけあって、「鼬の道」の間柄になったが、私の心には、リルケの「秋の日」前半部分が、しっかりと、位置を占めている。
連句を一座して巻くことを興行という。 連句には、36句の歌仙、18句の半歌仙、24句の短歌行あるいは胡蝶、14句のソネット連句、20句の二十韻、28句の源心など、句数と発案者の考えた名前の、さまざまな形式がある。 参加者(連衆)の数と時間、捌き(連句をリードしまとめる人)の好みなどで、形式を決める。 メンバーと捌きのやり方で、時間は異なるが、ベテランばかりであれば、歌仙で4時間あれば巻ける。 初心者がいたり、初めての顔合わせばかりだったりすると、もっと多くの時間が掛かる。 場所取りの関係から、大体朝11時から午後5時までと言う場合が多いので、長くても歌仙止まりである。 百韻は、文字通り百句の連句だが、時間と連衆、捌きとがうまく噛み合わないと難しいので、滅多にやることはない。 わたしも、自分のネット連句で一度だけ試みたが、余りうまくいかなかった。 今年は、秋に、熱田神宮に百韻百巻を奉納するという企画があり、わたしの周囲でも、いくつか参加することになっている。 滅多にない機会なので、そのうちの三つに、わたしも参加申し込みをした。 昨日は、そのうちのひとつの連句会があった。 朝10時から夜9時まで、昼食、夕食を挟んで、百韻を巻く。 酷暑の中、出かけていった。 25,6人が3つの座に分かれて始まった。 わたしのところは捌きを入れて9人、百韻としては適当な連衆数である。 ベテランの捌きの発句で始まった百韻は、なかなかエキサイティングであった。 この日に備えて、意気込みを持って参加した人が多かったせいか、どの座も活気があり、賑やかに愉しく進んだようである。 終了時間内には、全部巻き挙がり、散会した。 わたしは百句のうち17句を取ることが出来、満足。 少ない人でも、8句くらいは付けていたからまあまあであろうか。 スピードでどんどん句を出す人、じっくり考えて、完成度の高い句を出す人、さまざま。 捌きは、それらを見極めて、ある程度のリズムを考え、しかも余り句数が偏よらないようにしなければならないから大変である。 わたしは、人からは早付けと言われるが、そうでもない。 メンバーと雰囲気によっては、なかなか句が出ないことがある。 座の中に、気の合わない人がいたりすると、余り弾まない。 連句は、皆おとなだから、滅多にはないが、バトルもあるし、親しさこうじて、無神経なことを言ったりする人が居ると、わたしはダメである。 その意味では、精神的な要素も大きい。 昨日は幸いそんなこともなく、弾んだ一巻になった。 11時間近くに及ぶ連句、帰宅したのは夜10時半、さすがに疲れたが、満足感があった。 数日後、今度は熱海に2泊3日の百韻興行がある。
夕刊を取りに郵便受けまで出たら、真っ赤な夕焼けだった。 この数日、何だか寂しい。 人の言葉が刺のように突き刺さる。 言っているほうは、自分の言ったことが、どんな風に相手に受け止められるのか、考えないのだろう。 理詰めで、人をやり込めて得意になったり・・。 でも、感情は理屈ではない。 真っ赤な夕焼け。少しホッとする。 今日はちょっと暑かった。 家の中に籠もって、パソコンで遊んでいたが、明日は会合に行かなければ・・。
昨日は、久しぶりの雨で、ずいぶん涼しかった。 今日は少し暑くなると言っていたが、もうひと頃のような暑さではない。 心なしか秋の気配。 空の色も、雲の形も・・。 日差しも柔らかくなっているようだ。 酷暑の間、庭仕事を怠けていた夫が、今日は雑草を退治しなきゃ、と言って、昼前2時間半ほど働いた。 蚊に刺されたくないからと、長袖シャツに長ズボン、それにタオルを首に巻いて・・という出で立ちだったが、途中2度ほど水を飲みに中に入っただけで、庭仕事に余念無かったところを見ると、それ程暑くなかったのであろう。 空の色も、雲の形も、もうすでに秋のものである。 日差しも、少し低くなった。 オリンピックゲームは、リアルタイムで見ているときりがないし、寝不足になる。 水泳、卓球、柔道の個人技では、日本選手がいい成績を出している。 男子サッカーのイタリアとの試合があったが、3対1で、前半が終わったところで寝た。 後半は挽回ならず負けたようである。 女子ホッケーチームが、善戦したが、アルゼンチンに負けた。 ソフトボールも、強豪アメリカと対戦し、7回まで互角だったが、延長戦に入って崩れ、3対0で負けた。 夕方友人から電話。 私が最近体調が悪いと聞いて、健康食品を勧められた。 この15年ばかり、その販売をしていて、自分も、勧めたほかの人も健康状態がいいから、あなたも試したらどうかという用件だった。 慢性的な体の不調は、医学では直らないから、良く研究された保険薬や、健康食品で補う必要があるのだと言うのである。 言うことは解るし、親切心からだと言うこともよくわかるが、こういう話に対して、私はけっこう疑い深い。 「有り難う」と言った上で、丁重に断った。 彼女も利口な人である。それ以上無理に勧めようとはしなかった。 もともと私は医者嫌い、薬ぎらいである。 ビタミン剤くらいは、飲むこともあるが、余り熱心ではない。 ましてや、よくわからないものを、高いお金を出して、飲み続けようとは思わない。 そういうものを、信じられる人は、使えばいいのである。 私自身は、持って生まれた生命力で、なるべく人工的な手を加えずに、天から与えられた寿命を全うできればいいと、考えている。
オリンピックが開幕した。 開会式をリアルタイムで見るのは、無理なので(その頃は白河夜船だから)あとからダイジェスト版など見たが、最初の印象は、「紅白の小林幸子の衣装みたいだなあ」ということ。 この10年ばかりの間に、コンピューター技術を駆使したり、人々をアッと言わせるようなパフォーマンスや、会場の仕掛けがだんだん派手になっている。 ことに今回は、オリンピック発祥の地であるアテネに戻っての開催と言うこともあって、熱が入っているのはよくわかる。 100年前は、槍投げほか数種類の競技だけで、素朴な形で始まったに違いないオリンピック、戦争や民族対立の中で、中止されたこともあったが、ともかく、ここまで続いてきた。 過去にいくつか、感動する場面は沢山あった。 いまでも目に焼き付いている、東京オリンピックでの、アメリカのハンセンとドイツのラインハルトが演じた、棒高跳びの9時間に及ぶ死闘。 暗くなったスタンドで、「見えるところに移動して下さい」というアナウンスが流れて、最後まで二人の競技に付き合った観客達。 白黒テレビで息をつめてみていた私も、終わってから涙が止まらなかった。 ローマ大会で、無名のアベベが、裸足でひたひたと走る姿。 勝者だけでなく、敗者の姿も、忘れがたい。 沢山のドラマや後日談も生んだオリンピック。 しかし、最近のオリンピックは、正直言って、あまり感動しない。 私が年を取ったのだろうか。 アテネに戻ったことを機に、もうやめてもいいんじゃないかと、個人的には思う。 個別の協議については、いまは世界レベルで、それぞれ競う場が出来ていて、サッカーなどは、ワールドカップの方が、面白い。 天文学的数字のお金も動いているであろうオリンピック。 今回は、202カ国が参加しているそうである。 夕べは、やわらちゃんが、柔道で金メダルを取った。 明け方から雨が降り、気温もかなり下がり、久しぶりの過ごしやすい1日となった。 59回目の終戦日である。 テレビでも、今月に入って、戦争に関連したいくつかの番組を放映している。 地球のどこかでは、いつも戦争が続いているのであるが、日本はともかく、59年間、戦争は無しで過ごしてきた。 これは間違いなく良いことである。 時間が経過し、戦争体験者が減り、いろいろな記憶が風化されていく中で、大事なことが忘れられて、また同じ愚を繰り返すようなことがあってはならない。 しかし、終戦の年に、最後の国民学校入学生であった私が、かろうじて、記憶している戦争。 10年、20年経つうちに、生き証人は居なくなって仕舞うであろうことは、目に見えている。 夕べ、NHKでは、「遺された声」と題する番組を放映した。 太平洋戦争末期、旧満州で、内地向けの放送に遺した人々の、声の録音版である。 出撃を前にした特攻隊員、開拓団の責任者、炭坑で働く人々、その銃後を守る婦人達、みな、自分たちが置かれた立場を肯定し、戦意昂揚に協力している。 すでに、日本の敗戦が近いことを思わせる頃であったにも拘わらず、この人達は、国策に従って、親兄弟を含む同胞達に、メッセージを遺したのであった。 当時の状況では、本音を語ることは出来ないし、また、そのように教育もされていた。 これから特攻機に乗る少年飛行兵は、もう生還しないことを知りながら、自分の命を国に捧げることによって、生かされると、信じたのであろう。 録音版は2000枚、今回初めて公開された。 正午、私は、原爆で亡くなった叔母、飛行兵として空に散った叔父の霊に向かい、黙祷した。
高原で過ごした日々も、いったん中断して、明日は東京に帰らねばならない。 今日あたりは、34度もあったそうだから、しばらく酷暑の中で過ごすことになる。 ある人から、両吟をしませんかというメールが来た。 連句は、一座した時は、普通4,5人くらいで巻くが、インターネットなどの文音では、3人(3吟という)とか、多くて7,8人ということもある。 二人でやる時は、両吟という。 最近、暑いとか、不在だとかで、出掛けるのをサボりがちなので、じゃ、ネットでと誘いがあったのである。 ちょうど4人で、私のネット連句が一巻終わった所だった。 折角だから、両吟で一巻付け合いをと、心が動いたのだが、少し考えて辞退した。 連句のいいところは、虚構の世界を、愉しめること。 舞台の役者になったつもりで、実生活とは別の空間で、もはや縁のなくなってしまった恋も、たっぷりと演じることが出来る。 虚構の世界ではあるが、やはり嫌いな人とは出来ない。 4,5人ならどんな人が一緒でも、グループのメカニズムがうまく働いて、そこそこ愉しめるが、両吟は誰でも良いというわけにはいかない。 まず、二人の連句の実力が、ほぼ拮抗していることが大事である。 力の差があまりありすぎると、片方が先生になってしまい、教室のようで、あまり愉しくない。 それ以上に、必要なのは、感性の合うこと。 打てば響くようなものが感じられないと、世界が広がっていかない。 ある時、私は、両吟で、これ以上得られないのではないかと思うような、充足感を味わった事がある。 自分で意識していないものが、体の奥底から引き出されたような、一種のエクスタシーに近いものを感じた。 面白いように、句がどんどん出てきた。 私にとって、最高の付け合いであった。 相手は、私より少し年上で、文芸に造詣の深い男の人であった。 連句を巻きながら、私はほとんどその人に恋をしていた。 そして、虚構の舞台を降りると、素知らぬ顔で、お互いの生活に戻っていったのであった。 どちらも、何も言わないが、暗黙の約束事である。 これはひとつの巡り逢いだが、滅多にあることではない。 巻いているときは、お互いに対して、熱くなり、ある程度のリズムと、集中力が必要である。 その状態を、終わりまで持続させるのは、それほど簡単ではない。 途中で、熱が冷めてしまうと、倦怠期の夫婦のように、中身の薄いものになってしまう。 この9年間に、わたしの両吟経験は、数えるくらい。 今年になって、一巻、付き合ったが、時間ばかりかかって、お互い、あまり燃えなかったような気がする。 両吟で、感動と迫力に満ちた一巻が出来たら、その相手に、少しばかり悪いところがあっても、許せそうな気がする。 今回、折角誘われたのに、気が乗らなかったのは、その人の人格とは別の、相性の問題であった。 羽目を外したり、破調を好む私と、折り目正しく、ルールを重視したい相手とでは、多分、空中分解しそうな予感がしたからである。 いつか、また、ホットな両吟の機会に恵まれたいものだと思う。
高原の夏はさわやかだ。 都会の人工的な暑さを逃れて、森にはいると、ホッとする。 先週1週間、森で過ごし、所用で3日ほど東京に帰っていた。 ひと頃の猛暑からは幾分、暑さは和らいでいたものの、日中の暑さはやはりこたえる。 そのまま森に滞在中の夫に連絡、昨日の午後またこちらに来た。 14日には、合唱の練習があるので、前日には二人で東京に帰らねばならないが、また来るつもりである。 涼しいと云うことは幸せなことだと、つくづく思う。 東京の生活をもっとシンプルにし、出掛けやすいように予定も減らし、夏の間はずっとこちらで過ごせるようにしたいと、思いながら、趣味の集まりがあったり、誘いがあると、つい予定を入れてしまう。 この6,7の二日は江ノ島で、泊まりがけの連句の会があった。 来週はまた連句関係の行事が3つ続いている。 一つは熱海に二泊三日である。 いずれも私の趣味に関する行事なので、話があった時、積極的に参加の意を表明した。 高原の静かな明け暮れ、都会での人間くさい交流、そのどちらも、今の私には、欠かせないことである。 動と静、いかに旨くバランスを取って、人世を充実していくかが、もう若いとは言えないこれからの私の過ごし方であろう。 昨日は、ここへ来るために、午前中大働きし、たっぷり汗をかいて出てきたので、疲れた。 夜は速く寝付き、今朝、六時に眼が覚めた。 牛乳だけ飲み、夫と朝の散歩に行く。 10分ほど歩くと、売店がある。 今週は、そのまわりで、朝市をやっている。 茄子とトウモロコシ、ジャガイモを買い、パン屋で焼きたてのパンを買う。 郵便ポストの前を通りかかると、蝉がひっくり返ってばたばたしている。 「もう寿命だね。土から出て7日の命だ」と夫が言い、蝉をつまんで、茂みの奥に置いた。 別荘地の管理事務所で新聞を買い、戻る。 往復1.5キロくらいだろうか。 ゆっくりと買い物もしながら、30分ほどの散歩だった。 朝ご飯が美味しかった。 日が上がり、周囲の蝉の声が一段と高くなった。
息子というのは、普段何もないときは、音沙汰なく済ませているが、いざというときは、やはり真っ先に心配してくれる。 優しいのだなあと思う。 もう18年も前のことだが、私が3ヶ月ほど入院したことがあった。 連れ合いは、一番仕事の忙しいときで、息子は浪人中だった。 受験勉強をしながら、時々母親を見舞い、留守中の家のことまで、さぞや大変だったに違いないが、息子は、私に一度もグチめいたことを言ったことがなかった。 真夏から秋にかけての時期だった。 ゴミの処理が適切でなくて、ウジがわいてしまったり、ちょうど町会の当番に当たっていて、心ない人から、回覧板の回し方が悪いと、文句を言われたこともあったらしい。 「最近、少し料理がうまくなったよ」と、枕もとで話してくれたことがあった。 「何を作ってるの」と聞くと、「とにかく何でもマーガリンで炒めちゃうんだよ」と笑っていた。 「お父さんが早く帰ったときは、御飯を作るのはお父さん、僕が後片づけ」と言った。 「勉強のこともあるのに、大変ね」というと、「イヤ、大丈夫だよ。それより早く元気になってよ」と言って、息子は帰っていくのである。 一度、しばらく姿を見せないので、心配していたら、秋口で寝冷えをしたらしく、熱を出していたという。 私は、病室から電話を掛け、「冷房掛けすぎないで」と言った。 そんなことがいくつかあり、父子の共同生活も、限界に思えたので、近所に住む友人に訳を話して、週に2度、洗濯や掃除を手伝ってもらうことにした。 ただ好意に甘えるのはイヤなので、1日幾らと金額を決め、それで引き受けてもらった。 彼女は、私が退院するまで、留守中の男二人の、洗濯掃除、そのほかのこまかなことまで、面倒を見てくれた。 息子は、その人に結構甘えていたらしい。 彼女の娘と、同学年だったこともあって、にわか息子になっていたようだ。 「あのときは、留守中、ホントは大変だったんだよ」というのは、後から聞いた話である。 息子が大学に入った年、夫の転勤でイギリスに行くことになり、初めて親子離ればなれの生活をすることになった。 それまでは、海外転勤の際も、親子3人はいつも一緒だった。 息子は、小学一年の終わりに南米の日本人学校に入り、3年生になって日本に帰ってきた。 5年生の時にまた南米に行き、そこの日本人学校で小学校を卒業した。 そのまま中学に入り、1年の終わりに日本に帰ってきた。 それからは、ずっと日本で過ごしたが、また海外に行くことになり、息子の意志を問うと、「このままこちらに残って、学校生活を続けたい」と言ったので、私たち夫婦は、息子の意思を尊重することにした。 息子は、夫が日本を離れると、さっさと大学の近くに自分でアパートを借りて引っ越してしまった。 親の居なくなった家に一人で残るのは、いろいろと面倒だからと言う理由である。 家の管理は私の親たちに頼み、夫より3ヶ月遅れて、私もイギリスに向けて飛び立った。 この時、息子はどうしていたのか、全く記憶にないところを見ると、多分、空港にも見送りに来なかったのであろう。 そして、これが、親子としての、事実上の別れとなった。 私たちがロンドンにいる2年間に、息子は夏や春の休みを利用して、訪れてきたが、学校が始まると、また日本に帰っていった。 日本にいる間、たった一人でどう過ごしていたのか、詳しくは聴いていないが、その2年間にかなり成長したようである。 就職の時期が来て、その苦労もあったらしい。 やがて私たちが日本に帰国した時、息子は就職先が決まっていたが、そのままアパートで過ごした。 親子3人の生活が戻ったのは、息子が卒業するまでのわずか3ヶ月である。 会社にはいると、新入社員教育が始まり、やがて息子は配属先の寮に入ってしまった。 その間に、家を建て替え、息子の部屋も広く取ったが、その部屋に息子として暮らすことは一度もなかった。 それから二年後、息子は職場結婚をして、文字通り、旅立ってしまった。 すでに10年経つ。 息子は、家に来る時は、必ず妻と一緒である。 ひとりで来たことは一度もない。 もう自分は、息子と言うより、妻を持った男だからと言う意識なのかも知れない。 しかし、私が体調を崩したりすると、どこからか電話をかけてきて、気遣ってくれる。 男の子というのは、そういうものなのかもしれない。
いつも8月6日の午前8時15分には、黙祷をすることにしている。 広島で、母方の叔母が原爆で死んでいるからである。 おとといがその日だったのだが、私はその時間、特急列車に乗っていて、失念してしまった。 母の実家は、広島市の中島本町にあり、食堂をやっていた。 そのあたりは、原子爆弾で、すべて灰になり、いまは、平和公園になっている。 昭和20年8月6日、母の親兄弟は、前もって別のところに疎開しており、たまたま店の様子を見に戻っていた母の妹が、従業員4人とともに、原爆の犠牲となった。 一人だけ、まだ未婚で残っていた末妹である。 爆心地からすぐの距離、その辺で生き残った人はいない。 骨を拾いに行ったが、どれが誰の骨とも分からないほどだったという。 間もなく戦争が終わったその年の秋、母は、疎開先の父の実家から、私を伴って、遅れた叔母の葬式の為に、広島まで行った。 真っ黒に焼けただれた裸木、一面瓦礫の山となった駅前の風景、今でもよく覚えている。 爆心地には、まだ、放射能が、残っていたかもしれないが、そんなことは、母も分からなかったであろう。 5年前、母を連れて広島に行った際、平和公園を訪れた。 母の実家のあった場所は、少女の像の近くである。 そばにある、大きな土饅頭は、名もなく亡くなった、多くの人たちの骨が埋まっていると聞いた。 「日本人は戦争を伝えていない」と、野坂氏は書いている。 世代交代が進み、やがて戦争の生き証人は、いなくなってしまうだろう。 どんな些細な断片でもいい。書き残し、語り継いでいくべきではないだろうか。 無念の死を遂げた人たちのために。
昨日早朝、夫の車で駅まで送ってもらい、特急「あずさ」に乗り込んだ。 すいていて、自由席で座れた。 松本発だから、この時間乗っているのは、東京に向かう通勤客だろうか。 八王子で降り、横浜線町田、小田急に乗り換え、相模大野へ。 ここまでは、インターネットで調べてあった時間通りに、待ち合わせも順調に来た。 ところが、相模大野で、乗るつもりだった江の島行きロマンスカーが満杯。 結局20分近く待って、急行に乗ったが、到着が、予定より、かなり遅くなってしまった。 江の島に着き、歩いて15分の会場に行く。 今日明日にかけて、連句を巻くためである。 ここ数年の夏の行事になっていて、会場も、江の島のそこに、定着している。 連句開始は10時半。 30分遅れてしまったが、まだ始まったばかりで、あまり支障はなかった。 折角海のそばに来ていながら、海を見ることも、泳ぐこともなく、会議室に籠もって、連句に興じる。 ほかから見たら、かなりの変人の集まりであろう。 今年の参加者は25人。 13対12で、男女ほぼ半々。 2人ほどは日帰りである。 連句は、4,5人がグループになって巻くが、今回は、百韻をやるグループだけ、9人ほどが連衆になった。 私は、最初百韻グループにいたが、あまり面白くないので、途中から抜け、夕食後は女性6人で、別の連句を愉しんで、寝たのは深夜の2時であった。 今日は朝から昼過ぎまで、また別のグループに参加した。 終わってから、会場を出る。 近くの飲み屋で、魚料理と酒を愉しんで帰るのが習いだが、私は気が進まず、一緒に帰る女性4人で、蕎麦屋に行き、そのまま東京の自宅に帰ってきた。 1週間留守にしていた家も、幸い何事もなかった。 信州の夫に電話すると、今日は雷で、停電騒ぎがあり、インターネットも繋がらなくなっていて、大変だったとのこと。 「いま修復中だから」と慌ただしく切ってしまった。 さあ、今夜は、アジアカップ決勝戦を見なければ・・。
2年ほど前に見たテレビで、大変感動した番組があった。 兵庫県のある公立病院で、車いすを使わない介護に取り組み、その結果、いままで歩けなかった人たちが、少しずつ歩けるようになったという話である。 脳梗塞などで倒れ、手足に麻痺が残ると、車いすになり、本人も周囲も、歩けないとあきらめてしまうのが、これまでの常識だった。 でも、ある女性医師が、車いすというものが、歩く能力を奪っていることに着目する。 そして、生活動作の中でリハビリを行うことを提唱し、病院あげて取り組んでいく現場の三ヶ月を追っていた。 歩くことに、具体的な目標を、それぞれの人の生活の中から見いだし、それに合わせた訓練をする。 ある女性は、三ヶ月あとに控えた孫娘の結婚式に出たいという。 またある男性は、入院するまで花壇を作っていた。 そこで、療法士は、病室の廊下に四角いコンテナと、鉢植えの花をしつらえ、その場所まで10メートルの距離を歩くべく、リハビリを持ちかける。 動かない足に特別の靴をセットし、残った体の力を使って、毎日訓練した結果、歩けるようになったのである。その姿は感動的だった。 歩くということがいかに大切か、私も経験がある。 15年ほど前、大病して3ヶ月入院した。 全身状態の悪かった入院直後のひと月は、検査や診療を受けに行くのに車いすだった。 だんだん回復して、終わりの半月ほどは、なるべく病院内を歩くようにしたが、それでも、体力がびっくりするほど落ちているのが自分でも解った。 階段を下りるのに、手すりにつかまらなければならず、立ったりしゃがんだりの動作が出来なくなっていた。 筋肉は、使わなければ、年に関係なくだめになるのだと、痛感した。 退院してしばらくは、常用していた自転車が、怖くて乗れなかった。 元の体力に戻るのに、一月かかった。 それでも、まだ若かったので、アウシュビッツの囚人のように痩せた足も、元の大根に戻った。 1キロ以上重いものは持てないくらい衰えていた腕の力も、見る見る回復した。 今ならとてもこうはいかない。 いったん落ちた体力は、容易なことには、元には戻らないのである。 昨年8月、私は 足の指を骨折し、ひと月近く、ギブスをはめた生活をした。 骨というのは、どんな小さな部分でも、新しい骨ができるのに、そのくらいの時間がかかるらしい。 それまで、年齢平均一割り増しの骨密度だと言われて、得意になっていたので、まさか、自分が骨を折ることなど、予想もしなかった。 飲み屋の三和土で、下駄に足をかけた時、おろした位置が悪くて、ふにゃりとなった。 そのときは、ただの捻挫だと思っていた。 痛みがひどく、腫れてきたので、整形外科に行き、レントゲンで、骨が折れていることがわかった。 生まれて初めてギブスなどというものを付け、家の中では、キャスター付きの椅子で移動し、家事は夫にやってもらい、その状態で、夏が過ぎ、秋になった。 10月に入って、初めて1人で外出した時、少し怖かった。 骨を折った部分より、まわりの筋肉が、堅くなっていて、歩くのに、片足を引きずるような感じだった。 また骨を折るのではという思いが消えず、すっかり違和感なく歩くのに、更に時間がかかった。 1年たった今も、足元に神経を使う。 骨折する前とでは、スピードも、歩く姿勢も、衰えていることがわかる。 暑い夏の間は、散歩もままならない。 高原にいる間に、少しでも足を鍛えようと、毎日、少しの時間、歩いている。
東京脱出 。 昨日から夫が先に立って、支度をはじめ、今日昼すぎ、家を出た。 中央自動車道は、すいていて、スイスイと走れた。 はじめは途中で、昼食に寄るつもりだったが、この分なら2時間で現地に行けそうだと言う。 そこで、持っていたあんパンとバナナ、お茶で、少し腹の虫を抑え、そのまま蓼科の家に直行した。 海抜1100メートル。森に入った途端にひんやりした空気に触れた。 まだ午後3時前。 雨戸を開け、風を入れ、家から持ってきた食料などを冷蔵庫にしまい、ホッとする。 涼しいと言うことは、なんて幸せなんだろうと、しみじみ思った。 「ホラ、だから早く来ようと言ったんだ」と夫。 出かける前に、ぐずぐずして、なかなか腰が上がらない私を、いつも歯がゆく思っているのである。 東京では、ゲンナリして何もする気がしなかったが、ここへ来ると、体が軽くなる。 夫が風呂を沸かし、私は、持ってきた材料でカレーを作る。 お風呂に入り、ナイターを見ながらカレーを食べ、高原の一日が終わった。 ここに於いてあるパソコンは、ウインドウズ98。 ルーターの設定に問題があるのか、プロバイダーが悪いのか、インターネットに繋がらない。 明日、サポートセンターに聴いてみることにし、メモ帳に今日の日記を書く。
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