沢の螢

akiko【MAIL

My追加

イヤなヤツ
2004年06月28日(月)

ねえ、ちょっと聴いてくれる?
私はネット連句をこの3年近くやっている。
掲示板を使っての連句だけど、お仕着せの掲示板を、連句に向くようにカスタマイズして、参加者が、使いやすいように整え、4,5人のメンバーで巻いているの。
季節の花で背景を飾ったり、いろいろ工夫もしてるの。
はじめは、掲示板の書き込み方も解らずに、おそるいそる入ってきた人たちも、1年、2年と経つうちにすっかり慣れてきて、最近はほぼ常連のように、毎回参加してくれている。
もういちいち指示しなくても、みんな、要領が解ってきて、愉しくやってるわ。
ところがそうやって、折角慣れて来た人たちを、まるで攫っていくかのごとく、自分の連句サイトに持っていったヤツが居るのよ。
もともと充分すぎるくらいの、参加者を抱えているのにね。
そりゃあね、その人達は別に、私の専属メンバーじゃありませんよ。
どこで何をしようと、基本的には、その人達の自由。
出来上がったところを、攫われたからって、私が文句言う筋合いはないし、子どもじゃないんだから、攫っていったなんて人聞きが悪いと、反論されればそれまで。
デモねえ。
少しは気遣いってものも、あっていいんじゃない?
何も、こっちの興行が終わらないうちに、引き抜くことはないでしょう。
マイナーで狭い世界、そんなことは隠したって、すぐ解るのに。
イヤなヤツ。
ヤクザだって、そんなせこいコトしないよ、手持ちの人材で十分じゃないのと悔しがっても、アチラは、暖簾に腕押し、ふふんと笑って、意に介さないであろうことは、想像が付く。
どうも、ここ数日、私の連句ボードに勢いがなくなって、渋滞していると思ったら、主力メンバーに誘惑があって、そっちに靡いてたんだと解った。
甘言で誘われれば、みんな弱いもんね。
目新しくて、刺激のあるほうに靡くのは、仕方がない。
だからインターネット連句って、無責任で、薄情なのね。
管理者の思いと、参加者の気持ちに、落差があるのは、当然かも知れないわ。
今までにも、そう感じたことがあって、もうやめちゃおうかと何度も思いながら、「まだやらないんですか」なんてメールが来ると、じゃあと、すぐ興行開始しちゃう、お人好しの私。
参加者が喜んで、愉しくやってくれれば、管理者冥利に尽きると思った。
もちろん、いちばんは自分のためなんだけど。
だから、参加者は、わたしに義理立てする必要はないんだし、もともとネットというのは、そんなクールなものなんだと、解っていながら、何か空しく、寂しい。
ネットには、人格はないんだなあと、つくづく思い知らされる。
横から攫っていったからって、罪はないのよ、きっと。
イヤなヤツなんて言ってたって、始まらない。
私だって、そんな機会があれば、そうするかも知れない。

え?さっきから一人で興奮して、いったい何の話?
そんなもの、さっさとやめちゃえばいいじゃないの。

アラ、ごめん。
ついつい言わずもがなのことまで、言ってしまって。

いいの、解るわよ。
今、私も、ネット連句をやってる。
でも、あなたの轍を踏みたくないから、今の興行が終わったら、しばらく休むことにするわ。
そんなイヤなヤツと、連衆を共有するなんて、まっぴらだもんね。
せめて、残りの部分を、美しく終わりたい。
あなたも、そう思って、元気出して。

ありがと。
どこにでもある話だけどね、聞いてもらってよかった。
コーヒー、美味しかった。有り難う。


ミモザの記憶
2004年06月21日(月)

都心のある在外公館の庭に、大きなミモザの木がある。
もうふた昔も前になるが、そこで、ある研修を受けていたことがあった。
2週間の研修が終わって、もうここに来ることもないと言うので、10人ほどの同期のサクラが、「喉が渇いたわね、お茶飲まない」と、話がまとまり、一緒に外に出た。
研修中は、緊張しており、まだお互いに、それ程親しくもなかったので、終わるとまっすぐ帰っていたのである。
もう季節は夏になっていた。
中庭から、門に向かって歩いていると、大きな木から、黄色い小さな花が舞い落ちていた。
まだそれ程の暑さではなかったが、西日が照り返して、折からの風が心地よく感じられた。
足元に散った花を見て、フランス帰りのA子が「アラ、これ、ミモザよ」と言った。
へえと私たちは、ちょっと木を見上げたが、そのまま門から外に出た。
しかし、「アラ、ミモザって、こんな大きな木なの」と言って、ひとり動かない人がいた。
若い頃アナウンサーをしていたY子であった。
風に吹かれながら、つば広の帽子を押さえて、木を見上げていた彼女の姿を、今でも覚えている。
「ミモザの花粉って、かぶれるかも知れないわよ」とA子が言い、「どうしたの、早くいらっしゃいよ」と私は言った。
でも彼女は、そのままジッと木を見上げたまま、動かなかった。
私たちは、しばらく待ったが、そのうちに歩き出した。
駅までの道をお喋りしながら、ゆっくりと歩いていったが、その後まっすぐ帰ったのか、どこかの喫茶店に入ったのか、その辺は覚えていない。
多分、あとから彼女は追いかけてきて、一緒に帰ったのであろう。
キラキラした日差しがミモザの黄色を際立たせていたあの日。
研修のことも、そのあとのいろいろなことも、あまり覚えていないのに、何故か、ミモザの木を見上げていた彼女の姿が、記憶から消えないのである。
何故、私はあのとき「早く」と言ったのだろうか。
彼女にとって、ミモザは、何か特別思い入れのあった木なのだろうか。
その後、10年以上経って、彼女は癌を患い、1年半後、再発して死んだ。
弔いの後で、その連れ合いから、こんな話を聞いた。
「ミモザサラダというのを、よく子どもに作ってやってました・・」。
「どんなサラダですか」というと、卵を固ゆでにして、その黄身を裏ごしにした物を、ポテトサラダの上から振りかけるのだという。
一面黄色に染まって、まるでミモザの花のようだった、そして、子どもが喜んでいたというのである。
そうか、そう言うことだったのかと、私ははじめて知った。
研修中も、小学生の子どもたちのことを、いつも気に掛けていた彼女だった。
「晩婚だから、子どもがまだ小さいの」と言いながら、時間を見計らっては、家に電話を掛けていた。
亡くなったとき、子ども達は、もう成人する年になっていた。
直前まで、仕事をしていた彼女の、最新の朗読テープがモーツァルトの鎮魂ミサと共に流れ、肩を落とした連れ合いの姿が、目にしみた。
それからまた、ずいぶん経った。
今頃の時期になると、時折蘇ってくる、ミモザの記憶である。


黄昏れて
2004年06月14日(月)

2年前にシベリア横断旅行をしたときのこと。
女が単身で行く場合は、しっかりしたツァーに参加するのがいいといわれ、ロシアは初めてなので、少し値は張るが、シベリア鉄道を全線乗るというプログラムに、参加した。
15人の参加者はほとんど女性、グループや姉妹もいたが、単独参加も何人かいた。
その中で、古希を迎える年頃の女性が二人いた。
そのうちのひとりとは、相部屋だったし、もうひとりもなぜか気があって、3人で行動を共にすることが多かった。
15日間のツァーなので、同室の人とは、かなり親しくなり、個人的な話もするくらいになった。
40代の初めに、夫を亡くし、娘を抱えて、悲しみにひたる間もなく生きてきたが、もう娘もお嫁に行ったし、この15年くらいは、山歩きや、海外旅行を楽しんでるのと言う話だった。
そのうちに、彼女には、ボーイフレンドがいることがわかった。
山やスキーのツァーに行くうちに、親しくなり、この何年か、恋人同士と言っていい間柄だという。
そちらも連れあいを亡くし、似た境遇と言うこともあって、付き合っているが、結婚するつもりはないのだという。
「だって、私くらいの年になると、いろいろなしがらみがありすぎて、簡単にはいかないわ。旅行したり、ときどき会って話しをするだけでいいの」と彼女はいい、旅行も、同じツァーを別々に申し込んで、偶然一緒になった形を取るのだということだった。
「主人が亡くなって、10年くらいしてからかしら。スイスで、湖を見ていたら、突然滂沱の涙が出てきたわ。傍に誰も居なかったから、思い切り泣いた。そのとき、もういいと思ったの。彼に会ったのはそのあとよ」
シベリア鉄道の車中で、真っ赤な夕日を眺めているうちに、そんな話をしたくなったのだろう。
「あなたは奥さんだけど、あまりそれクサくないわね。だから聞いてもらいたくなった」とも言った。
彼女とは、旅行が終わるまで、車中でもホテルでも、相部屋で過ごしたが、旅慣れした彼女の、つかず離れずの付き合い方は、大変有り難かった。
15日間、不快な思いをすることなく、良い関係を保ちながら過ごした。
日本に帰ってきてから、一度写真を送ってきた。
「これは私が勝手に送るのですから、どうぞお気遣いなく」と添え書きしてあったが、私は、南米時代に買ってあった、銅画の小皿を2枚送った。
それきり、どちらも音沙汰無しである。
「また、どこかのツァーで逢うかも知れないわね」と言いながら、成田で別れたが、今も、旅行を続けているだろうかと、思い出す。
そして、恋人は・・。
人生の黄昏に入って、大人の付き合いの出来る人は素晴らしい。
今頃こんな話を思い出したのは、最近、私の周りでも、似たような話があるからである。
家の近所に、5年前に奥さんを亡くした人がいる。
男1人暮らしで、70代後半、寂しいだろうな、不自由だろうなと思っていたら、そんなことはない。
市内のカラオケサークルで、活躍中である。
そして、最近、そのカラオケサークルの先生という女性が、そのうちの2階に引っ越してきた。
夫が家の前の道路を掃除していたら、引っ越しの挨拶をされたらしい。
「ビックリしたよ」と、夫は、ちょっと興奮していた。
「人生、2度ならず3度も4度もあるわけね。あなたも、私に先立たれたら、そうする?」というと、夫は、返事をするのも面倒だと思ったのか、どこかに行ってしまった。


皇太子妃の愁い
2004年06月13日(日)

私は、皇室を特に擁護する人間ではないが、このところ話題になっている雅子妃のことは、同じ女性として、大変心が痛む。
昨年体調を崩し、静養がもう半年に及んでいる。
その原因は、医学的なこともあろうが、精神的なストレスもあるらしいことは、先頃ヨーロッパ訪問にあたって、皇太子が記者会見で言われた言葉から伺える。
ひとつは、世継ぎ問題。
2年前、雅子妃に待望の赤ちゃんが生まれ、その後の記者会見で、感動に満ちた感想を述べたことは、記憶に新しい。
前の年、流産というつらいことがあったので、無事に女の子を得た喜びは、格別のものがあったとおもわれる。
ところが、その後、宮内庁の関係者が、皇太子の弟宮に、男子(とははっきり言っていないがそうとれるような)を望む発言をしたことが、問題になった。
結婚した女性なら、みな覚えがあるが、結婚した途端「赤ちゃんまだ?」と、周囲の人たちから、無遠慮に訊かれるときの気持ち。
そして、私の若い頃は、男尊女卑の考え方が根強くあったので、私も、お腹の大きいときに、夫の母から「男の子だといいわね」と何げなく言われて傷ついたことや、息子が生まれたとき、近所の人から「大手柄ね」と言われたときの、何ともいえない理不尽な気持ちを、今でも覚えている。
本来、誰からも、そんなことを言われねばならぬ理由はないのである。
公の立場にいる人だって、それは同じであるはずだ。
今の時代は、生まれてくる子が、男か女かと言うことは、昔ほど言われなくなった。
しかし、皇室をはじめとする一部の社会には、まだその感覚が生きている。
周囲の人間が、それに触れた発言を公にすることが、どれほど雅子妃を傷つけるか、わかっているのだろうか。
皇室典範云々という議論さえも、今の妃にとっては、心を苛まれる原因になる。
また、もうひとつ皇太子が言われた「雅子妃のキャリアと、それに伴う人格を否定する動きがあった事実」と言うこと。
それについて、具体的には述べられなかったが、周囲の関係者は、それが何を指すのか、わかっているはずだ。
それなのに、まるで思い当たることは何もないと言わんばかりの「医療体制を整えて・・」とか、「真意を訊きたい」とか、そんな言葉しか、出てこないのだろうか。
本当にお二人の気持ちになって、考えているのだろうか。
あれほどのキャリアと頭脳を持った素晴らしい女性を皇室に迎えたのに、それを取り巻く環境は、相変わらず古い体質のままであるらしい。
今の皇后が、民間から皇室に入ったとき、やはり人並みでない苦労をしたことは、語り継がれている。
その頃と、基本的に変わっていないのであろうか。
何人もの参与までいながら、その人達は、皇太子が、今回のような異例とも思える発言をするくらい、鈍感だったのだろうか。
「真意」の中身など、皇太子があらためて言わねばならぬのか。
見事なくらいバランス感覚があり、周囲の意見や考え方に心配りをするお人柄であることは、直に接したことのない人にもわかる。
そのお方が、余程の思いで口にしたことである。
ここに至るまでには、沢山の信号が送られてきたはずなのに、周囲の関係者達は、それを受け止め、考える努力を怠っていたのではないかと思いたくなるような、見当違いの反応の仕方である。
あれでは、皇太子も、物を言う気にもならないだろうと思った。
皇太子を取り巻く人たちは、見たところ、年配の男ばかり。
雅子妃の気持ちのわかる人間なんて、あそこにはひとりもいないのではないか。
せめて同世代の、しっかりした女性アドバイザーを置いてあげるべきではないか。
それも、皇太子の側に立って考え、妃が信頼して、気持ちを語れる人でないといけない。
この件について、発言しているのは、みなデリカシーのなさそうな男ばかり。
充分過ぎるほど、傷ついている妃の心情など、理解できないのではないか。
皇太子が、宮内庁の人間に対して、口頭でなく、文書で「真意」の説明をしたのは、いいことである。
口頭で言ったことは、聞いた人間のフィルターを通して語られ、やがて消えてしまい、間接的にしか伝わってこない。
充分意を尽くしていなくても、文章にしたことで、余計な付け足しも、省略も、為されないことになる。
皇太子妃のいたわしさ。
あの環境から脱して、静養を兼ねて、ひと月ほど海外に行かれたら、少し癒されるのではないだろうか。
・・・なんて言うことを、私は夫を宮内庁の人間に見立てて、ぶちまけたのであった。


「まぼろし」
2004年06月12日(土)

5月から月に一度、市内で夫婦をテーマにした映画を2本立てで上映する。
今日見た一本はフランス映画「まぼろし」だった。
主演はシャーロット・ランプリング。
60歳の夫と、50代前半と思える妻。子どもはいない。
ふたりが、夏のバカンスに出かけるところから話が始まる。
仲のよい夫婦であることは、ちょっとした仕草でわかる。
やがて、別荘に着いた二人。
夫は林の中で木ぎれを集めて暖炉の火を熾し、妻は、食事の支度をする。
次の日、二人は海に行く。
人気のない静かな海。
妻の背中に、日よけのクリームをすり込んでやる夫。
「泳ぎに行くか」と夫が言う。妻は、「あとで」と答える。
そして、そのまま微睡んでしまう。
夫の瞳の翳り。立ち上がる脚のショット。
しばらくして眠りから覚めた妻は、本を読みながら夫を待っている。
ところがなかなか夫が帰ってこない。
だんだん不安に駆られた妻は、波間や砂浜を探すが、夫の姿は見えない。
救いを求めて、警察に駆け込み、探して貰うが、わからない。
やがて、街に戻った妻は、大学で英文学を教える仕事を続けながら、夫の帰りを待つ。
夫の口座が凍結されて、生活を切りつめねばならなかったり、同世代の男との情事もある。
姑からは、あなたのせいで自殺したのよと責められたりもする。
夫が、鬱病の薬を飲んでいたことも、はじめて知る。
そして、時折現れる夫の幻と対話する妻。
夫のものと思われる溺死体が挙がったという知らせを受けても、すぐには、赴かない。
自分の傍から、突然いなくなってしまった夫。
その喪失感をどうすることも出来ない、妻の心の動きを、丁寧に追っていく。
やがて、夫の死体に対面した妻。
遺品もあり、夫の遺体であると、客観的に証明されても、妻は信じない。
「これは別人よ」と叫ぶ。
夫が姿を消した海辺で、砂を掘りながら号泣する妻。
視線を海に向けると、浜辺に佇む夫の姿。
それに向かって走り出す妻。
しかし、走っていく先は、夫を通り越して、更に遠くに移っていくのである。
映画はそこで終わる。
人生の秋に入って、突然訪れた心の空白を、シャーロット・ランプリングが見事に演じて秀逸だった。


レインコート
2004年06月11日(金)

梅雨に入り、傘を手放せなくなった。
今日は夕方から出かけ、夜までかなりの雨が続くのはわかっていたから、レインコートに長靴という出で立ちだった。
私のレインコートは、鮮やかなオレンジで、すっぽり足先まで被うくらい、大ぶりである。
かなり目立つから、車の中からでも目に入るだろう。
雨しぶきの中でも、遠慮無く大股で歩いていける。
実用本位で、出歩けるのも、年の功であろうか。
最近は、かなりの雨でも、レインコートに長靴などと言う人は、少ない。
格好が悪いのかも知れない。
若い女性は、ミュールなんかで、雨脚に濡れながら道を歩いている。

今日から「マタイ福音書」の講座。
講師は「遅刻10分以上したら欠席扱いにします」と厳しいが、授業は、とても面白い。
マタイ冒頭の文章は、アブラハムからイエスキリストまでの系図である。
その中の4人の女性と、異邦人の登場。
その部分の釈義とマタイの意図。
聖書は、ただ、事実そのままに書かれたわけではないのだ。
ぼんやりと字面をなぞっていた私のような無宗教者にとっては、思いも寄らない発見だった。
だから、新しいことを学ぶのは愉しい。
いささか興奮して帰ってきた。


カッターナイフ
2004年06月08日(火)

人の心がとげとげしているのだろうか。
子どもの世界にも、それは反映して、つらい出来事が多すぎる。
11歳の少女が、同級生をカッターナイフで刺し、死に至らしめた事件。
死んだ少女の父は、新聞記者だったこともあって、事件直後、取材に応じたが、一生懸命メディアの質問に答えている姿が痛々しかった。
この人は、数年前に妻を亡くし、今度は娘の受難である。
こころの内を思いやると、何と言っていいかわからない。
少女達の担任だった教師は、事件のショックで、入院してしまった。
また、学校内で起こった惨事なので、事件直後の様子を目撃した子どももいて、その影響も小さくないだろう。
加害者である少女は、今、警察などの手によって、事件の真相や動機などを調べられているらしいが、大人のように簡単ではないようだ。
マスメディアなどでは、連日、いろいろな報道がされているが、いずれも、憶測の域を出ないようである。
事件の原因のひとつに、インターネットをめぐっての、少女達の人間関係が取り沙汰されているが、これも、果たして、どこまでが事実で、どういう点が事件の引き金になったかを、結びつけるのは容易なことではないだろう。
私はこの事件が起きるまで、こんなにも、インターネットが、子どもの世界に深く入り込んでいるとは、想像しなかった。
もちろん、私もインターネットを利用しているし、いろいろな場面で、子どもの域を出ない年齢層が、この世界には、少なからずいるらしいことは、感じていた。
安全のためもあってか、親からケータイを持たされている子どももいるらしい。
小さな画面で、中学生くらいの少年たちが、画像を見せ合って、はしゃいでいる姿も、電車の中で見ている。
学校教育でも、パソコンを使った授業形態が、取り入れられているようだ。
しかし、小学生がホームページを自分で持ち、掲示板で友達との遣り取りをするところまでは、ちょっと想像しなかった。
ホームページも、掲示板も、操作がわかれば簡単だから、誰でも作れるし、設定することも容易い。
問題は、そこに何を載せ、何を伝え、何を受け取るかと言うことなのだが、そこからが、インターネットの使い方の問題になってくる。
それは大人も同じである。
顔を見て物を言うときとは違う気遣い、文字のみが手段であることの限界と制約、その上で相手の真意を読みとる想像力、それらは、大人にとっても、非常に難しいことである。
匿名掲示板で見かける、人を中傷誹謗する汚いことばの遣り取り、直接自分に言われなくても、不快になる。
まだ表現力の充分伴わない子どもが、インターネットで、いい友人関係を保てるのだろうか。
私は、かなり懐疑的である。
虚実の合間の微妙なニュアンスを理解して、いい意味での遊び心がないと、インターネットで気持ちのよい遣り取りをするのは難しい。
そこには、いろいろな意味でのレベルが揃っていないと、成り立たない。
レベルというのは、何も、偏差値がいくつというような、左の脳の問題ではない。
そんなものは、むしろ邪魔になる。
想像力と感性、相手に対する思いやりが大事なのだ。
インターネットに頼りすぎると、虚と実の区別が付かなくなり、そのことで大事な人間関係を失うこともある。
子どもには、生活体験を通して、実感の伴った人付き合いをするほうが、大事なのではないだろうか。
部屋に籠もってのインターネット、こんなものは、まだ持たすなと言いたい。


芒種
2004年06月05日(土)

5月は、梅雨のような、鬱陶しい日が多かった。
今月に入って、それを取り返すようないい天気が続いている。
昨日は、久しぶりに家を開け放って風を通し、布団を干した。
今日も少し暑いが、夏らしい陽気だった。
午前中は夫と共に、合唱の練習に都心へ。
モーツァルトのハ短調ミサである。
学生時代に入っていた合唱団が、創立50周年を昨年迎え、その記念にと、例年12月に行う定期演奏会に、OB、OGも参加して、ワンステージ出ることになった。
その出演希望者を募ったら、180人が名乗りを上げた。
メーリングリストを作り、最終的には140人くらいに落ち着いた。
4月から練習が始まり、大体100人くらいが、練習に出てくる。
指揮者は、OBの一人で、モーツァルトの研究家でもある。
やる気満々で、リーダーシップもあり、頼もしい。
事務的なことは、指揮者と同世代の人たちが引き受けた。
いつも、9時半から正午まで、ばっちり練習。
今のところは、月に一度の練習だが、秋になると、現役学生との合同練習も混じって、月に2回に増える。
それで12月の演奏会にまっしぐら。
果たしてどういうことになるかわからないが、長老組は、何十年ぶりかで懐かしい顔を合わせて、旧交を温めつつ、歌を愉しんでいる。
長い年月の間には、亡くなった人も、病気で、出られない人もいる。
練習のあとは、同年代の人同士で、昼食を共にしたりして、帰ってくる。
今日は、夫がそのまま大学の公開講座に行くというので、駅で別れ、私だけ帰ってきた。
心地よい疲れ。
夕方、帰宅した夫と買い物。
夕食の時、夫はテレビで巨人戦を見る。
このところ、いい調子である。
連句仲間で、同じく巨人ファンの人から「勝ってますね」とメールが来た。
明日は、浅草伝法院で連句。
平和な日常に感謝する。


IT講座
2004年06月03日(木)

先月から市のIT講座に週一回通っている。
市の情報サービスの手立てとしては、以前から新聞に折り込まれる月2回の市報があった。
数年前から、市報は、新聞に折り込まれずに、各家庭に配布されるようになった。
新聞を取らない家が、少なくないらしい。
新聞のほかに、米屋、ガソリンスタンド、図書館、公民館にも置いていたが、それでは徹底しないので、人の手で、配るというやり方になったようである。
年配の人が配りに来るところを見ると、わずかばかりのアルバイト料で、頼んでいるのだろう。
そのほかに、市のホームページがあって、インターネットでも、必要なことは、見られるようになっている。
市が主催する市民講座のページを、新しく作ることになり、その為のホームページ作成講座が設けられ、受講生を募ったので、応募した。
受講料は、2500円という教材費のほかはタダだが、終わったら、市のホームページ作りに協力するという条件付きである。
家からは自転車で行けるし、年齢制限もないが、希望者が多ければ抽選だという。
どのくらい申し込みがあったかわからないが、「受講決定通知」というのが来た。
最初の講義は、「ボランティアの心構え」というテーマで、どこかの先生が喋った。
いかにもお役所的である。
受講生は16人、男性はそのうち3人のみで、いずれも、年配者である。
女性達は、40代、50代くらいが多いようだ。
平日の昼間なので、ほとんどは主婦のようである。
2回目から実際にパソコンを動かして、ホームページの作り方に入った。
ホームページビルダー8を使っての、やり方である。
インストラクターは、若手の女性。ほかに3人のサブが付いている。
私は、ビルダー7を持っているが、2年前に購入したものの、使い勝手が難しいので、あまり使っていない。
日ごろのページ作成は、別のソフトを使っている。
この際、ビルダーの使い方を、覚えておこうと思ったのだが、私の持っている旧版とは、だいぶ仕様が違うらしい。
講座で作ったファイルを、旧版では読み込めないと言うので、ちょっとガッカリした。
やはり商売、こんなものはどんどん新しくして、買わせるように出来ているのである。
しかし、基本的なことは、共通しているところもあるので、ムダではなさそうである。
今日は、ビルダーを使っての2回目。
インストラクターのガイドで、みんな同じページを作り、一時的に設定したそれぞれのURLに、ファイルを転送するところまで終わった。


マザータング
2004年06月02日(水)

しばらく怠けていた日記。
日本でも、外国でも、あまりに悲惨な、つらい出来事が続くので、しばらく書くことが出来なかった。
北朝鮮拉致事件の被害者のうち、二人の人の子ども達が無事に帰ってきて、それはいいニュースだったが、拉致の被害者は、何百人という数で居ると言うことである。
生死の確認もとれていないし、すべての被害者が帰ってくるまでに、どのくらいの時間が必要なのか、正確なことは、誰にもわからない。
Hさんを例に挙げると、大学生だった20歳で、拉致され、24年間を、かの国で過ごした。
一昨年帰って来たとき、44歳になっていた。
生まれてからの人生の半分以上を、故郷に帰ることも、親族に会うことも出来ず、過ごしたことになる。
自分の意志でなく、突然断ち切られたそれまでの人生。
東京の大学で弁護士を目指して勉強していたという彼は、拉致されたその日から、全く予想もしていなかった日々を送ることを余儀なくされた。
驚き、怒り、悲しみ、絶望、どんな言葉を持っても形容できない思いをしただろうと思う。
ただひとつ幸いだったのは、一緒に拉致された恋人と、再会し、結婚できたことで、それが生きる為の大きな力になったに違いない。
夫婦の間には、二人の子どもも恵まれ、24年が経った。
そして、更に1年7ヶ月経った先日、二人の子どもを、日本に迎えることが出来た。
家族が揃い、その様子を伝える記者会見の中で、私が胸を突かれたのは、子ども達が、日本語の読み書きは少し出来るが、会話は全く出来ないと、言ったときだった。
読み書きは、多分、第2外国語として習う機会があったりしたのであろう。
でも、会話が出来ないと言うことは、いままで育つ過程で、家の中で、日本語が使われていなかったことを意味する。
Hさん夫妻が、最初の子どもをもうけたときは、まだ20代前半であった。
拉致されてから4,5年。若いので、言葉の覚えは早かったろうが、自分を拉致した国の言語を、進んで使う気になるだろうか。
日本から救いの手が来ることを、ひたすら待ち望んでいたに違いないし、まさか、24年間も、そのままその国に留まるとは思っていなかっただろうから、はじめは、赤ちゃんをあやす言葉は日本語だったかも知れない。
しかし、子どもが、物心着く頃になり、自分たちが、もはや日本に帰ることが絶望的になったと思った時点で、子どもを、朝鮮語で育てることにしたのかも知れない。
あるいは、当局の監視下で生活せざるを得ない状況だったから、自分たちが日本人であることは、ひたすら子どもにも隠してきたし、日本語も、使わないようにしたのかも知れない。
夫婦だけの時は、会話は日本語であったと思う。
また、日本語は、その国にとっては、役に立つ言葉であったかも知れない。
日本人を拉致した理由のひとつが、日本語であるからだ。
しかし、子どもの居るところでは、言葉は、朝鮮語が使われたのであろう。
母国語を、家族の間で、使うことが出来ないと言う状況。
嬉しい、悲しいという、自然の発露である感情表現を、母国語で出来ないとしたら、どんなにつらいだろう。
それは、人間として、自分のアイデンティティを否定されることではないだろうか。
その年月に思いを馳せ、私は、胸が熱くなったのであった。
そして、帰ってきた子ども達には、今まで育ってきた言葉や文化を、今度は自分たちには外国であった筈の国のものに、切り替えねばならないという、親とは逆の試練が待っているのである。



BACK   NEXT
目次ページ