9月最後の日。 7月の終わり頃、私には、信頼していた人に裏切られるという、つらいことがあった。 それから、なかなか立ち直れなかった。 連れ合いや、親しい友人が、言わず語らずとも、私の心に添うように付き合ってくれて、気持ちが慰められたり、趣味の世界で、それとは関係ない話をしながら、愉しい気分になることはあったが、思ったより、心の傷は深かったらしく、未だにすっきりした気持ちになれないでいる。 忘れようとしても、心のどこかに、いつもそれが引っかかっていて、心から笑えないのだ。 そのきっかけを作った人は、私のいなくなった後、しばらく大人しくしていたらしいが、もういいと思ったのか、最近、私のいなくなったグループに復帰しているらしい。 正直、いい気持ちはしない。 それを誰に言うことも出来ずに、悔しさをかみしめている。 グループには、その人の存在を擁護する人がいる。 「そろそろ出てらっしゃい」と言われて、行っているのだろう。 私には、そうは言ってくれていないと思うと、悔しいし、寂しいが、そんな気持ちを、誰にもぶつけることができない。 無理に、そうした気持ちを押し殺すからいけないのだと思ったら、どっと涙が溢れる。 そうやって、この2ヶ月の間、私は、何度と無く、泣いた。 明日から10月、ネット上では、快活で元気な私なので、誰もそんなことには、気づかない。 そして、私のボードでは、新しく連句の、付け合いが始まる。
住んでいる市のホールで、年一回古き良き時代の日本映画をシリーズで取り上げる。 今年は、成瀬巳喜男監督、高峰秀子主演の作品である。 今日は「娘.妻.母」と、「妻として女として」の2本だった。 共に、昭和35年前後のもの。 このころの映画を見て、一番印象的なのは、セリフの言葉遣いだ。 最初の場面で、主な出演者が、ずらりと登場するが、そのとき交わされる会話で、人々の関係がわかる。 母と娘、夫と妻、きょうだい、そこに嫁が入り、嫁いだ娘が帰ってくる。 誰と誰が本当のきょうだいで、誰が義理の関係か、いちいち説明しなくても、言葉遣いで、すべてわかる。 女性の場合、それがことに顕著であって、ああ、この人は、お嫁さんなんだな、こちらは、実家に帰ってきた娘だな、話している相手は、夫の母なんだな、こちらの男は、実家に帰ってきた娘の亭主だな、などと言うことが、2言、3言の言葉のやりとりで、判断が付くのである。 あらためて日本語というのは、人間の関係を、主語無しで表現できる言葉なんだな、ということを認識した。 でも、今の時代はどうだろう。 成人した息子や娘が、親に敬語を使うだろうか。 妻が夫に、丁寧語を使って話すだろうか。 映像無しのセリフだけだったら、登場人物の家族関係を判断するのは、かなり難しいにちがいない。 それにしても、この時代の女優は、なんと美しいのだろう。 原節子、淡島千景、高峰秀子、淡路恵子、草笛光子、それにファニーフェイスの団令子や、芸達者な中北千枝子が顔を出していた。 面白いのは、母親の還暦祝いだと言って、一族が集まる場面で、母親役の三益愛子が、どう見ても70代半ば過ぎと思われるような、老けた造りで出ていることだった。 杉村春子も、実際の年よりずっと年上の役どころで、出ていた。 そして、髪はひっつめ、化粧気もなく、地味な着物を着て、立ち居振る舞いといい、歩き方といい、全く老婆そのもの。 あの時代は、60歳というと、そんな感じだったのだろうか。 「いくら何でも、ちょっとひどすぎるんじゃない」と、帰ってから夫に言うと、「それがノーマルだよ。今の女は、いつまでもナマグサすぎるんだよ」と、言われてしまった。 森雅之、宝田明、仲代達矢、上原謙、小泉博、彼らも若くてすばらしい。 飯田蝶子が出ていて、懐かしかった。 そして、出演者の半分くらいは、すでにこの世にいない。 ゆっくりと丁寧な話の展開、心にしみるセリフ運び、映画が娯楽の王者だった頃のものだから、時間と人物を贅沢に使っている。 今は使われていない、お妾さんとか、女中などということばも、自然に出てきて、違和感なかった。 「浮雲」「流れる」「あらくれ」「浮雲」などの作品が、この後続く。楽しみである。
医者と薬が嫌いで、よほどのことがないと、滅多に行かないのだが、今日は、2年ぶりに、健康診断に行った。 連れ合いの知り合いが、つぎつぎ癌などで倒れ、60そこそこで亡くなるケースが増えている。 私の両親のように、90前後でまだ元気でいる人がいる一方で、まだそれ程の年齢に達しないうちに、生を終える人もいる。 昨日も、連れ合いのもとの職場で親しくしていた人が、胃を全摘する手術をしたということである。 最近は、奥さんに先立たれる人も少なくないそうだ。 そこで、「キミは、自分の健康管理にちょっと怠慢すぎるぞ」と、連れ合いがやいやい言うので、市から検診の案内が来ていたのを思い出し、今月末までという、期限ぎりになって、行ったというわけである。 通常の検診の他に、しばらく胃の検査もしていないので、内視鏡の検査をすることにし、予約の紙をもらってきた。 そんなことをしているうちに、気のせいか、胃がシクシクしてきた。 一種の拒絶反応である。 17年前、私は原因不明の病気で、3ヶ月近くの入院生活をし、検査、薬も、イヤと言うほど体験したので、出来ることなら、一生病院などに行きたくないと思っている。 歯が痛むときは、仕方なしに歯医者だけは行くが、それ以外は、無しですませている。 胃の検査も、5年前にバリュウムを呑んで、直接撮影をし、「漠状胃」などと診断されたが、「次は胃カメラです」と言われながら、ほってある。 確かに怠慢と言われても仕方があるまい。 うちに帰ると、連れ合いは、新しいパソコンの設定に、奮闘しているところだった。 ウインドウズ98型を、3年半使ったが、最近不具合が多く、いつ止まるかわからないと言うので、思い切って、新品を買った。 今度はDellである。 今までのパソコンに入っているデータを、新しい方に移すために、ネットワークを設定したり、あれこれ、1日かかってまだ終わらないと言う。 ぶつぶつ言いながらも、愉しそうであった。 連れ合いは、ジオシティーのスペースを、ホームページで7割強、使ってしまったので、今度別のプロバイダーのスペースに、新しくホームページを造り、相互にリンクさせている。 私も真似をして、連れ合いと別のサーバーで、5メガを取り、やはり2重構造で構築しつつある。 新しいページは、顔見知りの人には、アドレスを教えていない。 私に反感を持つ人が、こっそり覗いて、けちを付けているのがわかったからだ。 ファイルの一部は、新しい方でしか、見られないように設定した。 日記も、今までのページと書き分けている。 ホームページなどというものを、自分が作るとは、1年前は全く思わなかったのに、いつの間にか、そのオーナーになってしまった。 更新などに夢中になると、時間を忘れてしまう。 その分、読書量が減った。 昨日も、読まずにそのままになっていた本を、図書館に返しに行った。
午後から雨に見舞われた連休中の22日、神奈川県民ホールに行った。 連れ合いも一緒である。 学生時代の共通の友人の、歌の発表会をきくためだった。 発表会と言っても、ある声楽家の教室に通う人たち、総勢60人近くが、一曲ずつ歌うものである。 20年前から続いている教室で、発表会は15回目ということだった。 行ったときは、午後3時過ぎ。午前中からの会が、後半に入り、上級者たちのオペラアリアの部に入ったところだった。 観客も、このあたりから俄然増えてきて、立ち見があるほど。 出演者の家族や知己の他、歌の好きな人たちの間で、知られるようになって、全くの縁故のないファンも多いようだ。 オペラアリアは、音大出身者や、天性の声と音楽的才能に恵まれた人たちがほとんどで、なかなか聴き応えがあった。 私は友人のために行くが、他にも、毎年愉しみにきいている何人かの出演者がいる。 友人はプッチーニのオペラ「つばめ」から「ドレッタの夢」を歌った。 この歌は、短いが、音域が広く、かなり高いピアニシモを要求されるので、難曲である。 ブレスも難しい。 ちょっと、はらはらするところもあったが、声がきれいにのびて、良く歌っていた。 夫と共に、大きな拍手を贈った。 彼女の後に続く出演者は、実力者揃い、それぞれ難しいアリアを、如何に精進したかがわかる練習の成果を示すごとく、すばらしい出来だった。 終わって、友人に声をかけ、私の先生でもあった声楽家にも、挨拶して、会場をあとにした。 外はかなりの雨であった。 ロンドンから帰国して次の年、兼ねてから歌を習いたいと思っていたので、吉祥寺にある歌の教室に入った。 高名な声楽家が、講師としてきていることは、前から知っていた。 でも、とても私のような素人が行くところではないと思っていた。 メトロポリタンオペラに、日本人として始めて出演したという、輝かしい経歴を持つ人である。 習いに来る人は、みな、音大卒業者で、難しい歌を扱うものだろうと思っていた。 そんなところへ、行ってみようと思ったのは、ロンドンにいるとき、成人学級で、歌を習って、人前で歌うことの、魅力を知ったからである。 上手下手は関係なし、好きな楽譜を持ち込んで、皆の前でレッスンを受ける。 何度か経験しているうちに、そんなことが平気になってしまい、日本に帰ったら、ちゃんと歌を習いたいと思っていたのだった。 コーラスは、学生時代からいやというほど経験したが、一人で歌うことの、おもしろさに、遅まきながら目覚めたのである。 そして、プリマドンナに巡り会ったというわけだった。 入ってみると、その教室は、私のようなふつうのおばさんたちがほとんど、専門家らしい人は、いなかった。 先生は、当時50代後半、華やかなロングドレスを着て、婉然とほほえんでいた。 新入生は、挨拶代わりに何か歌うのが、決まりになっているというので、私は「カロ.ミオ.ベン」を歌った。 高校生の時、音楽の時間に習った歌だった。 先生は「ま、挨拶だからね」とだけ言った。 私は、その日、家から近いので、普段着のようなパンツ姿だったが、あとでわかったのは、先生は、そういう服装が嫌いなのだと言うことだった。 それからは、教室に行くときは、出来るだけおしゃれをし、主婦的感覚を剥ぎ落として出ることにした。 厳しく、自分の感情に正直で、人の好き嫌いの激しいプリマドンナは、時に、生徒たちの反発を買ったりしたが、歌に関しては、いい加減な教え方はしなかった。 相手が素人だからと言って、歌をおろそかに扱うことは、自分の芸術的良心が許さなかったのだろう。 その姿勢に惹かれて、吉祥寺から新宿に場所が変わっても通い続け、3回の発表会も経験して、7年経った。 それをやめたのは、もともと天性の声に恵まれず、音楽的才能のない私には、これ以上、無理だと思ったことと、両親が同居するようになってから、時間的、体力的限界を感じたからだった。 でも、歌が嫌いになったわけではない。 それからも先生のリサイタルには赴き、教室の発表会にも、観客として足を運んだ。 昨年、何年ぶりかで、先生が講師である「カンツオーネ」の教室に行った。 ここは、3ヶ月に数回という単発の講座で、土曜日と言うこともあり、若い人、男の人も来て、少しくだけたやり方をしているらしかったので、歌を忘れたカナリアには、ちょうどいいと思ったのである。 先生は、私を覚えてくれていて、「良く来たわね」と、声をかけてくれた。 プリマドンナは、昔より優しくなり、感情を露わにすることはないように見えた。 生徒には、なるべく公平にと、気を遣っているようでもあった。 外国の音大を出て、若いときは、ほとんどヨーロッパで仕事をしていたプリマドンナは、日本の芸大閥が幅をきかせる楽壇では、門を閉ざされていたという話も聞いたことがある。 専門家を育てる道もあまり無く、ふつうの人たちに歌を教えることに、活路を見いだしたのだった。 いくつかの教室を受け持っていたが、本当は、自分の手で、専門家を育て、世に送り出したかったであろう。 今の時代なら、外国育ちのプリマドンナが、閉め出されることはない。 プリマドンナの育った時代の音楽的環境が、その才能を十分に生かし切れなかったのは、その人自身にも、日本の楽壇にも、不幸なことだったと、あらためて思った。
平穏に暮らしていた人が、ある日突然、なにものかの手によって、自由を奪われ、拘束され、生命の危険にさらされる。 これが、他国の、国家の名においてなされたことであるなら、自国民の生命と財産を守るべき国は、全力を挙げて、その解決なり、救出に、向かうべきであろう。 ところが、家族の訴えがありながら、国と為政者たちは、事実上、何もしてこなかった。 その問題が、この頃になって、急にマスメディアで、取り上げられている。 だが、メディアの取り上げ方は、少しおかしい。 拉致問題と家族について共感し、怒りを露わにするのはいいとしても、その怒りの矛先が、日本の為政者に向かっている。 もちろん、今回の訪朝団のやり方に、まずい点は多々あった。 しかし、あのような情報の偏った国で、あれ以上どんな方法があったというのか。 生存確認のやり方が不十分だと言って、マスメディアは、外務省の役人を非難している。 しかし、間違えれば、殺されてしまうような、状況下であったかも知れないところで、それが精一杯だったかも知れないではないか。 私は、別に、政府や役所の肩を持つわけではないが、そんな内輪もめする暇に、一刻も早く、生存者を救出し、死亡とされた人たちの確認に向けて、国を挙げて動き出すべきであろう。 メディアの責任は、同胞をこのような目に遭わせたその国への怒りを、自国の為政者に向けるのでなく、当の国家にもっと向けるべきなのだ。 ぐずぐずしていたら、生きているかも知れない人たちを、あらためて闇に葬ってしまうかも知れない。 今まで、まともにこの問題を取り上げてこなかった、マスメディアの責任も、大きいと言わざるを得ない。
今日は、江戸川区の「源心庵」というところで、満月を待ちながら連句を巻くという、風流な会に参加した。 この会には、4,5年前まで、良く参加していた。 しかし、両親が同居している間、外出がしにくくなり、だんだん行かなくなってしまった。 そのまま、今までご無沙汰してしまっていた。 いつもは、都心で会合を開いているが、9月は、お月見を兼ねている。 5年ほど前に、初めて行ったとき、運良く満月に遭遇したが、それ以後は、雨に遭うことが多く、なかなか思うように月が顔を見せてくれなかったそうだ。 今回、久しぶりに参加させてもらうことになり、楽しみにしていた。 朝からいい天気だった。 会は午後3時から、夕食のお弁当が付いて、夜8時過ぎまで、ゆっくり連句を巻くことになっている。 参加者20数名、付け合いが始まって2時間半ほど経つと、少し日が暮れてきた。 座敷の正面は、広縁に面して、大きな池がある。 その向こうは、高いビルなどが建っていて、月が昇るときは、残念ながら視界が妨げられる。 しかし、ビルの屋根の上の方がうっすらと、明るくなっている。 もうすぐだなと、予感した。 6時を廻ってからだろうか。 ふと、空を見ると、月が見えるではないか。 思わず「アラ、出たわ」と、大きな声を出してしまった。 それにつれて、他の人たちも、つぎつぎと廊下に出た。 まん丸な月が、くっきりと浮かんでいる。 低い位置から、月が次第に高く昇っていく様子を、連句の合間にちらちら見ながら、連句を愉しんだ。 まことに幸せな夜であった。 15夜は、21日だが、昨夜の月は、まさに満月、滅多にない晴天の満月を、見ることが出来た。 8時過ぎ、そろそろ連句も終わり、もう一度月を見て、散会した。 帰り、駅の近くで、11人ほどが、名残の2次会をやって、帰路についた。 あまり顔を合わせたくない人が、この会にいることは知っていた。 昨日は、偶然その人たちが来なかった。そのことも、私には、幸いだった。 心おきなく、連句も愉しむことが出来た。 久しぶりに、良い一日だった。
少し早いが、墓参りに行った。 秋川市の霊園である。 ここには、夫の両親と、生まれてすぐに死んだ夫の弟が眠っている。 連休は道も、霊園も込むので、今年は平日にしようときめていた。 良い天気、少し汗ばむほどだったが、霊園の中は、あまり人もいず、ゆっくり墓参をすることが出来、正解だった。 いつもより丁寧に墓の掃除をし、植木の刈り込みをし、花を生けて、霊園内のレストランで遅い昼食をとって、帰ってきた。 夫の父親は、夫が大学を卒業した年になくなり、母は23年前、70歳でなくなった。 今の時代、共に短命と言っていい。 父親の方は、結婚前に一度会っただけだが、母は晩年、私たちと共に暮らし、短い間だったが、大変思い出深いものがある。 頭が良く、世間のことをよく知っていて、私はこの母から、生みの母よりも多くのことを教わった。 茶道を嗜み、旅行が好きで、あちこち出かけては、私にもおみやげを買ってきてくれた。 私たちのブラジル在住中、一人で、ブラジルまでやってきて、5ヶ月滞在した。 私たち夫婦、息子、母と4人で、アルゼンチンやチリに行ったことも忘れられない。 ブラジルでは、現地にいる人たちとも、そつなく付き合って、愉しんでいた。 買い物が好きで、あちこち行きたがるので、ときどき閉口したことも、懐かしい。 言葉がわからなくても、何とかなってしまうのである。 もう10年、生きていてほしかったと思う。 早く連れあいを亡くし、子どもは男の子だけで、少し寂しかったかも知れない。 私は、まだ若く、母の気持ちを理解するほど成長していなかった。 今頃になって、母の心にいくらか近づいた気がしている。
参加はしていないが、時々覗いている連句サイトがある。 一昨日の夜頃から、昨日の夜にかけて、その中でちょっとしたバトルがあった。 ある人が、連句用語の意味について、質問した。 本来の意味と違った使われ方をしているのは、いかがなものかという趣旨だった。 それについて、主催者側が、これは習慣として使っているので、問題はないのではないかという意味の答えをした。 しかし、質問した人には、満足のいく答えでなかったらしい。 なおも食い下がり、主催者側が、「この本に出ています」と、ある参考書を引き合いに出して、黄門さまの印籠を持ち出すごとき発言をしたあたりから、だんだんやりとりが穏やかでなくなってきた。 その間の詳しいことは、ここで再現するつもりはない。 私が、感じたのは、ネットで、ひとりの人間が、如何に抹殺されていくかという経緯を、目の当たりに見て、顔も名前も見えないネットという世界の、残酷さであった。 はじめから、何となく目が離せなくなって、一部始終を見ていた私には、サイト側の人たちが、自分たちの城を守ろうとするあまり、大勢で、一人の人を、組み伏せている、ローマの闘技場に見えてきた。 質問者は、たぶん、ネットの会話に、あまり慣れていない人なのだろう。 確かに、ものの言い方がストレートで、歯に衣着せぬきらいがあったが、言わんとしていることは、少しも間違っていなかったと思う。 ただ、自分の言いたいことが正確に受け取ってもらえず、納得のいく答えが得られないので、孤軍奮闘していたにすぎない。 それに引き替え、サイト側のスタッフは、こういうやりとりがエスカレートすると困るので、早く話題を変えたいという意識が働き、いらいらしてきたらしく、また、常連の参加者たちも、それに荷担して、「気に入らないのなら出て行け」式のことばまで浴びせたので、ますます、双方の感情がこじれてきた。 不思議なのは、その議論の中に、まじめに参加する男性らしい人が、ほとんどいいなかったことだった。 「いい加減にして」と言いたいサイト側と、質問の趣旨がずれて来たことに、怒りを隠せない質問者、その中で、そうしたバトルをかわすように、どんどん付け句を出していく参加者たち、あれよあれよと、おろおろしながら、ことの成り行きを見ていた人たち、そんな空気まで伝わってきて、とうとう、最後まで、バトルの行方に、付き合ってしまった。 結局、サイトの責任者が登場し、感情的になっていた、他のスタッフをなだめるごとき言葉もあって、冷静に対処したので、質問者も、一応納得して引き下がった。 バトルというのは、第三者から見ると、双方が頭に血が上っていればいるほど、冷静に見ていられるものである。 顔の見えないネットでは、ほんの些細な言葉の使い方が、相手を傷つけ、人間性まで露わになる。 誰ひとり援軍のない中で、たった一人の孤独な戦いを強いられた質問者、私は、むしろ、こちらに好感を持った。 サイト側は、誰がどう向かってこようが、サイトという実権を持っているのだから、はじめから官軍である。 テレビが時々「視聴者のニーズで」なんてことを、自分を正当化するために使うが、ネットを握っている立場と、そこに参加している立場とは、同等ではない。 いざとなれば、サイトを閉じてしまう権利も、参加者を閉め出す力も持った上でのバトルである。 公序良俗に反することなら仕方がないが、言葉の使い方に関するまじめな主張を、きちんと取り上げて検証するよりも、とりあえず発言を封じ込めてしまおうとする、あのときの雰囲気は、おかしい。 ややこだわりすぎたきらいがあったにしても、質問者の主張は、決して非難されるべきものではなかった。 もちろん、サイト側にも、その発言に耳を傾け、何とか、応えようとしている人もいた。 しかし、総じて、「迷惑な」あるいは、「不愉快な」といった空気が、サイト側を支配していた。 それ以後、質問者は、登場しない。 その人に、何となくシンパシイを感じてしまったのは、私も、いろいろなところで、こういう場面に遭遇することがあるからである。 「正しいからいいというわけじゃないのよ」と、最近もある人に言われた。 私は、いつも、自分だけが正しいと思っているわけではない。 ただ、問題を茶化したり、誤魔化してしまおうとするのが、嫌いなだけである。 蔭で取り交わされる不正義、表面だけ何事もなければ良しとする「偽りの平和」は、私の好むものではない。 でも、それが、人間社会の潤滑油であり、不特定多数の人が、その方がいいというのであれば、私のような人間は、いろいろな形で、閉め出されていくだろう。 今日、そのサイトのボードでは、邪魔者を片づけてせいせいしたと言わんばかりにはしゃぎ、常連たちで乾杯していた。 ネットというのは、ホントに残酷だなあと思った。 昨日の質問者が、その有様を見たら、どんなに傷付くだろうか。 人を抹殺したら、せめてそのあとは、相手を思いやり、しばらく静かにしていたっていいのではないか。 門戸を開いていると言いながら、実は、限られた人たちで愉しみたいだけなのであり、異物が入ることは、本当は、好まないのである。 たくさんの人が見ているらしいから、おそらく、このバトルについて思うこと、感じることは、人さまざまであろう。 バーチャルな世界であっても、そこにいるのは、間違いなく人間であり、姿は見えずとも、それを、比較的冷静な目で見ている人たちがいることを、忘れてはいけない。 人ごととは思えぬ、ネット残酷物語だった。
秋燕や訣別のわけ語られず 恋ひとつ捨ててやるらん野分雲 私は俳句の素養はないが、8年前から連句をやっているので、ネット上でも最近は、自分のボードを二つ持って、付け合いを愉しんでいる。 一つ目は、今、連句仲間の優秀な男の人に捌きをしてもらって、歌仙を巻いているが、あと3句ほどで終わる。 もう一つのボードは、少しくだけて、捌きを置かず、膝送りでやっている。 夏に「数字縛り」と、「恋づくし」をやったが、しばらく間があいたので、今度は、ちょっとまじめな付け合いをすることにして、「源心」にきめた。 4人で巻くことになり、発句を出し合って互選した。 私が投句したのは、上の2句。 いずれも恋句である。 今の私の心境そのもの。 「秋燕や」が選ばれて、これを発句にして、付け合いが始まった。 メンバーは、男性1人、女性3人。 今までも同じ組み合わせで、順調にいったので、楽しみである。 夏の間、私は、信頼していた人と、袂を分かつことになり、つらい日々が続いたが、秋風が吹き始めて、どうやら、傷も癒えてきた。 ホームページなど、やめてしまおうかと思ったくらいだったが、気を取り直して、新たに別ページを造り、その人から見えないところに、大事な物を隠し、少しずつ更新している。 でも、その人のことは、いつも心にかけているので、時々、ウエブ上で近況がわかると、なぜかホッとする。 昨日は、その人が、新しい掲示板を設定している現場に、偶然居合わせた。 背景色や、文字の色をあれこれ変えているのが、わかった。 私よりずっと前に、ホームページを立ち上げて、設定のことは、詳しいはずなのに、なぜか、うまい具合に行かないらしかった。 もう少し、淡い色にすればいいのに、などと思いながら、見ていた。
午後から両親のところに行った。 2ヶ月以上、顔を見ていなかった。 父92歳、母89歳。井荻駅近くの、介護付きマンションで、1年前から暮らしている。 どちらも、生みの親を幼少期に亡くして、その分長生きしている。 吉祥寺で、母の好物である最中を買っていった。 父は眠っていた。起きている時間より、寝ている時間の方が、このごろは多いようだ。 母は耳が遠いが、まだしっかりしている。 体は丈夫だが、いろいろなことが、わからなくなっている父の世話をし、時々自分で食事を作っているという。 「ここの食事は、みな、柔らかくて、薄味なの」と、不満を持っている。 母の入れてくれたお茶を飲んで、2時間ほど、話し相手になった。 補聴器をしていても、大きな声を出さねばならないので、あまり込み入った話は出来ない。もっぱら、聞き役である。 夕方になり、ベランダから手を振る母に、何度か返しながら、駅に向かった。 父は、私の帰るまで、とうとう目を覚まさなかった。 我が家で暮らした3年間のことを、母は懐かしがっている。 いろいろなことがあって、2年前に、妹のところに行き、それから1年して、今のところに移った。 その間のことは、このホームページに、いずれ書くつもりだが、親子の距離について、つくづく感じた3年間だった。 連れ合いのもとの上司で、70を過ぎてから、介護付きのマンションに移った人がいる。 まだ、介護を受ける状態ではないが、いずれ、夫婦のどちらかが、人の手を借りる状態になったときのことを考えて、元気なうちに、決断したという。 そこには、高齢の親の介護をした自らの経験が、底にある。 「子どもの世話にならなくていいように」というのが、主な動機だったという。 そして、新しい住まいから、夫婦で、代わる代わる、都心に遊びに出ているそうだ。 連れ合いも、時々、その遊び相手に、かり出されている。 私も、あと10年ぐらい経ったら、同じことを考えようかと思っている。 家を処分して、夫婦二人で暮らせる介護付きマンションに移る。 なるべく都心で、デパートにも、映画館にも近いような、街中がいい。 東京生まれの私たちには、田舎の暮らしは、魅力がない。 親族も、友達も、ほとんど東京に集まっている。 今更、知らない土地で暮らすくらいなら、イギリスの田舎に行った方がいいくらいだ。 便利で、必要な施設が揃っていて、多少空気など悪くてもかまわないから、多世代の人間が集まっている方がいい。 車など無くても、タクシーのワンメーターくらいで、移動でき、駅には、10分ぐらいで行けて、病院、警察が近くにあり、しかも程々に静かなところ・・・果たして、そんな理想的な場所があるだろうか。 そんなことをまじめに考える年になったが、私には、まだ、両親を見送るという、役目が残っている。
私の周りで、なにやら喧しい。 誰さんと誰さんがどうしたとか言う、男と女の話である。 惚れ合っていても、それぞれに枷があって、人目を忍ばなければならない恋は、大昔からあった。 そうした苦しみの中から、文学も哲学も生まれたのである。 「忍ぶ恋」、いい言葉だ。 でも、そんな言葉にふさわしい、質のいい恋は、いま存在するのだろうか。 ときに、見聞きするのは、人目をはばかるどころか、堂々と、手に手を取っての恋路である。 独身の男女の話ではない。 周りが大人だから、見て見ぬふりをしているが、心ある人たち、ことに女性の間では、眉をひそめたい光景としてうつる。 そんな話が、囁やかれはじめると、話はどんどん尾ひれが付いて発展していく。 そして、時に、集団の和を乱し、不明朗な空気が流れはじめる。 魅力ある人が多く集まっている場で、お互いを憎からず思う二人がいても、おかしくないかも知れない。 「奥さんがいるのに」なんて、ヤボなことを言うつもりはない。 せめて、人目を忍んでほしい。 誰にもわからないように、完全犯罪でおこなうのが、節度を持った大人の恋ではないだろうか。 人知れず、苦しみに耐え、たっぷりと、恋の情緒を味わってほしい。 それを、太陽のもとに曝して、市民権を得ようなんて、さもしい根性を持たないでほしい。 時代がどんなに変わっても、人の意識というのは、案外と古典的なものである。 面と向かって批判されないからと言って、周りが認めていると思ってはいけない。 礼儀正しい大人は、よけいな口出しはしないと言うだけなのだから。 人目をはばかるべきものが、大手を振って歩いていたら、美しくないではないか。 秘めた恋は、忍んでこそ価値がある。 あるとき、集会の場をデイトに利用する人がいて、女性たちの反感を買い、総スカンと言うことがあった。 でも、男の人たちは優しい。それを庇うかのように、付き合ってあげていた。 若い人の、人目を物ともしないラブシーンも、見苦しいものだが、それ以上に、私は、中高年のいちゃついた光景を見るのがきらいだ。 高校生じゃあるまいし、「見えないところでやってよ」と、言いたくなる。 それとも、見せびらかしたいのだろうか。 これは、もてない人間の僻みかと思っていたら、結構同じように感じている人がいて、ひとしきり、話が盛り上がった。 悪のりして「もてない女の会を作ろうかしら」と、冗談を言ったら、「そこに入れて」という人がいて、驚いた。 女同士は、仲良くしようね、が合い言葉である。
今月に入って雨の多い日が続いたが、今日は、久しぶりによく晴れた1日だった。 寝具を干し、洗濯をする。 テラスに張ったネットの朝顔が、屋根まで蔓が伸びて、花もかなり増えている。 種を蒔くとき、あまり計画的にしなかったので、色が偏ってしまったのが残念だが、来年の課題にしたい。 昨年、ブルーの朝顔が咲き、その種を取っておき、今年は、それに、赤、紫、絞りなど買い足してみたが、色によって、咲がいいものと悪いものがある。 テラスの他に、私の書斎の窓、玄関近くの部屋の前に、鉢を置いて、咲かせてみた。 あまり蔓を長く伸ばすと、花に栄養が行かないからと言われ、蔓の先を摘んだりしているが、やはり、ネットを張るのが、一番いいようだ。 来年は、もう少し、計画的に咲かせたい。 「亭主のワル口」というページを作ったが、それを読んだ人から、書き込みがあった。 そちらのお宅は、カカア天下だという。 こうした反応があると嬉しい。 昨日も今日も、亭主どのはゴルフ。 しばらく怠けていた部屋の片づけ、掃除機をかけたり、手紙の返事を書いたり、落ち着いた一日だった。
趣味の分野の話である。 同好の士が集まったところで、当然ながら、男がいて、女がいて、みな程々に節度があって、品格のある交流を愉しんでおり、低俗なことはないにしても、そこに、魅力的な人がいて、それを憎からず思っている異性がいれば、やはり、何かもやもやとした空気が漂ってくるのは、珍しいことではない。 頭が良く、人間的にも人を惹きつけるところがあり、その人と話していると、何か満ち足りた気持ちになってくる・・こういう人は、男女を問わず、近づいて、付き合って見たいと思うのは、自然のことであろう。 私にも、そういう人がいる。 決して二人だけになることはないし、心の内をさらけ出したこともなく、向こうが私を、どう思っているかは知らないが、その人の存在があると言うことで、私の心は潤い、豊かになっている。 その人の感性、豊富な文学的知識、詩的な表現力、そういうものをすばらしいと思い、趣味の場で、同席するだけの間柄だが、今の私には、その人の存在無しには、考えられない。 その人と知り合ったことで、私の詩的精神は、磨かれてきたし、些細に示唆されることから、たくさんのことを教えてもらった。 埋もれていたものを引き出してもらい、育ててもらったと言っていいかも知れない。 だから私にとって、そのひとは、精神生活の支えであり、ひそかに慕う人であり、時にせつない対象でもある。 でも、それをその人に打ち明けたり、あからさまに表明したりは、絶対にすまいと、心に決めている。 口に出したら終わりだと思うからだ。 言わずにいるからこそ、その人も、屈託無く、接してくれているのだと思う。 気づいているかどうかはわからないが、お互いに黙っていることで、拮抗が保たれ、冗談も言い合えるし、時には、ケンカも出来る。 しかし、ここまで書いたことは、実は過去形である。 最近になって、私は、その人と、もう今までのような付き合いはしないことにした。 その人の才能や感性を慕う人は、私だけではない。 周りにはいつも、才気溢れる人たちがいて、同じように、関心を持ち、交流を愉しんでいる。 その中にあって、私は、だんだんつらくなってきたからである。 その人を独り占めする権利は、私にはない。 でも、おおぜいの中の一人でいるのも、愉しくはない。 自分だけが知っているわけでないその人の一面を、他の人からきくと、やはり、心穏やかでなくなる。 これも、嫉妬というのかなと思う。 音信がないと気になり、かといって、うるさくつきまとうのも、私の何かが許さない。 そんなことを感じるようになって、ごく最近、ちょっとしたことがきっかけで、私は、その人を中心とする集まりから抜けた。 それからひと月経つ。 風の便りに消息を聞くくらいで、一切の音信を絶っている。 ひそかに慕う気持ちは変わらないが、遠くにあるからこそ、美しいのだと、自分の心に言い聞かせている。
新宿で、ロシアの歌のレクチャーコンサートがあったので、出かけた。 バスの岸本力氏、それにピアノ伴奏がつき、ロシア歌曲と民謡について解説がついての、小音楽会。 ロシアの歌は前から好きだったし、昨年シベリアにも行ったので、興味があった。 岸本氏の歌は、何年か前に聴いたことがある。 日本人離れした大柄の体に、低い声なので、ロシアの歌は合っているらしい。 知っている歌がほとんどだったが、アットホームな感じで、楽しめた。 終わって、cdを一枚買って、サインしてもらった。 夜は、漱石についての講座に出ることになっているが、時間があったので、デパートに行き、夫のシャツや、私のバッグなど、つい買ってしまった。 高山宏「漱石の夢十夜を読む」という講座は、2回目。 夢の第2話。面白かった。 今日は、7月まで行っていた連句サークルの例会のある日。 止めてしまったが、気にならないと言ったら嘘になる。 「いつでもまた来て下さい」と、主宰はじめ、何人かに言われたが、現実には、場所も連絡してこない。 水入らずで、愉しくやっているんだろうなと思い、ちょっぴり寂しかった。
昨夜から降り出した雨が、今日は、大降りの一日だった。 俳句文学館での、連句会に行く。 この会は、宗匠の人たちがほとんどで、私などには、声もかからなかったが、最近は、高齢化が進み、亡くなったり、病気などで、会員の数も減り、少し門戸を広げているらしい。 メンバーが揃わないときは、私にまで、誘いがある。 春に一度寄せていただき、今回は2度目である。 なぜか、前回も、こんな大雨の日だった。 11人が2卓に分かれて歌仙。 捌きが良く、面白い一巻となった。 7月に、それまで入っていた小さな連句サークルを辞めた。 主宰者も、メンバーも、皆優しく穏やかで、善良な人たちだった。 誘われてメンバーに加えてもらい、1年半居た。 月2回の例会を楽しみに出席し、グループの行事にも、積極的に参加してきた。 ところが、なぜか理由はよくわからないが、メンバーの中に、私の存在を、心良く思わない女性が居たらしい。 今年になって、彼女はちょくちょく会を休むようになり、それを気にした私が、グループのリーダー的存在である人に、メールで問い合わせたことから、それがわかった。 そして、その人は、彼女の言うことを、一方的に取り上げて、私をトラブルの原因と、判断したらしかった。 具体的なことは、何も明らかにされなかったが、何か、誤解があるらしいのは、その人のメールで想像できた。 ほかのメンバーは、このことに全く関与していなかった。 私がなぜ、一方的にトラブルの原因にされていたのか、具体的に言ってほしかったが、その答えが得られないまま、私は会を辞めた。 前日まで、辞めるという発想はなかったし、辞めねばならぬようなこともしていないのだが、私は、信頼していた人が、私よりも、彼女の方に添った見方をしたことが、ショックだった。 考えてみると、彼女は私より古くからいて、その人と、始終メールのやりとりをしていて、日頃からコミュニケーションが出来ている。 物事について、相反する解釈があった場合、人は、自分に近い人の言うことを信ずるものだ。 その人が、彼女の言うことを信じ、私をトラブルの元凶と決めつけたのは、当然の成り行きだったかも知れない。 でも、私の言うことも、きちんときいてほしかったし、同じ会のメンバーとして、公平に扱ってほしかった。 大きな組織なら、適当な付き合いをして、いいところだけ採って、やり過ごすことが出来る。 しかし、10数人のささやかなサークルで、隠し事や、嘘があるのは、いやだった。 「よい戦争より悪い平和の方がマシだ」という言葉があるが、「悪い平和」を「よい平和」に変えていくためには、時には、ぶつかり合いも、仕方がないのではないだろうか。 その中から、本当の友情も生まれるかもしれないし、理解も深まる場合もある。 だが、リーダー格の人は、正面からぶつかるより、老獪に、表面何事もないかのごとく、処理したかったらしい。 私は、そのいきさつとは無関係にあった主宰者に、訳を言って、やめることを伝えた。 そして、一月以上になる。 事情を知らない人には、私は「今休んでます」と言うことにされているらしい。 仲良くしていた2人ばかりの人だけに、およそのことは話したが、それ以上、言及していない。 私に辞めるように促した人は、その後、様子をうかがうようなメールをよこしたが、私は、以後音信を絶っている。 私に反感を抱いていた人は、目の上のたんこぶがなくなって、居心地がよくなったので、やがて会に復帰するだろう。 リーダー格の人は、私が入った頃、何かと良く面倒を見てくれて、連句についても、手を取り足を取って、教えてくれた。 こころから信頼していたし、兄のように慕ってもいた。今でも、恩人だと思っている。 なぜ、こんなことになったのか。 裏切られたという思いが消えない。 悲しく、残念であり、そのショックから立ち直るのに、一月かかった。 ホームページを二重構造にしたのも、私に反感を持つ人が、こっそり見ていることがわかったため。 それだけのためでもないが、大きな動機になったのは確かだ。 当分、グループのようなところには、身を置かず、フリーで、声をかけてもらったところだけ、参加することにした。
今月に入って、残暑が続いている。 日曜日、深川にて連句の会あり、暑いのでやめようかと思ったくらいだ。 しかし、7月も暑さを言い訳に欠席し、8月は会が夏休みだったので、今月からはなるべく休みたくないと、思い切って出かけた。 出席者17名ほど、先生はまだ避暑地とかで見えなかったが、3席に分かれての連句会で、賑やかだった。 2日の月曜から昨日水曜までは、佐渡の連句会に出かけた。 3年ぶりの佐渡の風景を楽しみ、地元の人たちとの交流もあって、よい旅行だった。 残暑は変わらないが、佐渡の暑さは、あまり湿気がないのか、過ごしやすいように思った。 帰ってくると、さすがに疲れが出て、昨日はぐっすりと寝てしまった。 明日は、大久保の俳句文学館で連句の会がある。 7日の土曜日は、カルチャーセンターで、午後からロシア民謡と、漱石の「夢十夜」の講座がある。 ホームページを新しくしたので、日記も今までと違うデザインのものにした。 もちろん、今までのホームページは、併行して運用していて、日記も、続いている。 書き分けがちょっと面倒だが、こちらが主になると思う。 もう一つの日記は、友人、知人が読んでいるようなので、それを意識して書かねばならず、時として、少し気取ったものになる。 こちらは、原則、面識のある人には公開しておらず、ネット上の訪問者に限っているので、割合、思ったこと、感じたことが、率直に書けるような気がする。 毎日とは行かないかもしれないが、ホームページの更新記録も含め、なるべくまめに、書き込みたいと思っている。
まだ残暑のきつい数日が続いている。 そろそろまた台風が来そうである。 日はだんだん短くなり、やがて、木の葉が色づき、秋が深まっていくのだろう。 昨日、本棚にあるはずの「夢十夜」を探して、とうとう見つからず、結局岩波文庫本を買ってしまった。 父の本棚には、分厚い漱石全集があり、もちろんその中に入っているが、重くて持ち歩きは出来ない。 新宿のカルチャーセンターで、高山宏氏の、漱石に関する分析は、なかなか面白かった。 「夢十夜」を10回にわたって語るという講座は、年末まで続く。
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