a Day in Our Life
好きなものばかりを並べたような食卓には、2人で食べるには多すぎる料理が乗っていた。 「これ、絶対に全部食われへんやろ」 完全に作りすぎやんけ、と言って福田は苦笑する。テーブルのど真ん中には牛スジの煮込みに、ハンバーグ。その他、随分とバランスの悪いメニューの数々は、要するにそれぞれ相手の好きなものを作ったというだけだった。気を遣った訳でもないのに、無意識にそうしている自分達が可笑しいと思う。 「でもこれ、めっちゃウマイですよ。肉汁すごっ」 過去二年間で一生分のハンバーグを食べたと豪語する川島は、好きなぶんハンバーグにはうるさい方だったけれど、お世辞抜きに福田の作ったハンバーグは美味かった。それでなくとも顔を上げれば、反応を窺う福田の顔。自信があると言う割には不安そうに川島を見るその顔が、川島にとってはいとおしいだなんて。
「あ、そうや。川島にこれ返さな」 たっぷりの料理を食べて(予想通り少々残ってしまった)腹具合も落ち着いた頃、ふと左手に目を落とした福田が、ぽつりと呟いた。すぐに返そうと思っていたのに、すっかり馴染んで違和感のなかったそれに、気付くのが遅れた。 福田の言葉を受けて、かたん、と川島は箸を置く。 「時計。役に立ちました?」 微笑い顔を浮かべて福田を見れば、ベルトを外そうとする福田の指が、僅かに反応をする。あまり話そうとしない割に案外分かりやすい福田の事は、この数日の間に随分と理解ってしまっていた。 「そやなぁ。普段全然つけへんから、見たらすぐに時間が分かるんが便利やったけど、川島は困ったん違う?ごめんなぁ、大事なもん借りてもぅて」 言いながら福田の指が、妙にもたもたと止め具を外す。それを見ている川島は、引き寄せられるようにその手を伸ばした。 「福田さん」 期せずして、昨晩徳井がそうした同じ動作で、川島はベルトごと福田の手に触れる。びくりと跳ね上がった肩が、随分と饒舌だと思った。 「福田さん。俺はね、あなたの事が好きやから、あなたの為に、何が出来るかって考えてるんです」 川島の言葉に反応して、福田が顔を上げる。テーブルを挟んで、随分と近くに目が合った。身じろぎをした僅かな動作で、あとはもう外すだけだった腕時計が、ぽろりと川島の手に落ちてくる。はっとして目線を落とした福田の先、ゆっくりと時計を手にした川島は、改めてそれを見た。 ブレスレットよりは重量が重い時計は、それだけ腕に嵌めた福田に、その存在を主張したかも知れない。その事を福田が意識していなければいい、と思った。逆にブレスレットの不在を気にしていなければいい、とも。 「福田さんが大事にしてたブレスレット、徳井さんにもろたもんやったんですね」 言われた福田が今までで一番大きな反応を示した事で、後藤の言った事が嘘でも冗談でもなかったのだと川島は知る。傷付く気持ちは昨晩置いてきたから、今は福田をどう傷付けずに話を続けるかを気にした。 それほど大事にしてきたものを、何故外そうと思ったのか、何故川島に外してくれと頼んだのか、聞きたい事は他にもあったけれど、あえて聞こうとは思わなかった。押し付けがましくなるのは嫌だったし、本当に聞きたい事は、そうではなくて。 「10年も付けてたんやったら、そら随分と落ち着かへんのと違います?」と、言って川島は笑った。綺麗に笑えていればいい、と思った。 「どうやろ…分からへん、」 ぽつん、と福田が呟く。その呟きは本当に小さなものだったので、うっかり聞き逃さないように、川島は全神経を集中する。今、ブレスレットも腕時計もない左手首をゆっくりと、福田は右手でさする。何もないそこは軽いぶん、妙な感覚だと思った。 「徳井くんの付けてたブレスレットを、コンビ組んだ記念にくれって言うてん。冗談に近かったんやけど徳井くんはほんまにくれたから、最初は貰った手前気ィつこて付けてた思うんやけど。いつしかそこにあるのが当たり前になってきて」 惰性にも近かった思うねん、と福田は言った。それは少しだけ切なげな、笑い顔を浮かべた。 「付き合いが長くなって、何故だかその分離れていく感覚で、徳井くんに触れる事は出来なくなっていったから、代わりに触ったら落ち着いてん。逃げてたんかも知れへん。俺ら2人とも、ずっとお互いから逃げててん」 少なくともその事に気が付いて、認めたぶん、福田は逃げる事を止めたのだと川島は思ったけれど、それを言ったところで福田が喜ぶかどうかは分からなかったから、言うのは止めた。代わりにぽつぽつと福田から漏れる最初で最後の本心を、聞き逃す事のないように。 「大事すぎて…疲れたんかな、たぶん」 誤魔化すことのない福田のまっさらな本音は、少しだけ川島にとって切ないものだったけれど。今、聞いておかなければ、もう二度と聞けないのだと思った。そして徳井のようには、自分は福田から逃げないと決めていた。 疲れた、と言った福田はほんの少し遠い目をして、それからゆっくりと川島を見た。 「でもな、誓って川島に逃げようと思った訳やないねん。それはホンマやから、信じてくれると嬉しいんやけど、」 川島が優しかった事が、本当に嬉しかったのだと言って福田は笑った。川島の欲目でなければ、それは本当に、泣きたくなるくらい柔らかな笑い顔で、だから川島は、福田の言葉を静かに掬い取る。 「福田さん、俺はね。さっきも言うたけど」 想いは、伝えなければ届かないのだと思った。それは徳井と福田を見ていて思った事だった。いくらその内心で誰よりも大切にしていても、形にして差し出さなければきちんとは伝わらない。それがどれほど切ない事か、川島は知っていた。 だから、川島は、今の自分の余すことない気持ちを伝える。 あなたが好きです、と言った。 「やから、あなたがして欲しいことを言ってくれたらええねん。あなたの願いを、全部。俺はどんな事でも叶えるから」 そう思う気持ちが押し付けがましくなければいい、と思う。それでも今、川島にとってそれが全てだったから、福田がどう思うかはまた別の話だった。 願いを叶えたい。欲しがるものを全部与えたい。もしもあなたが好きだと言ってくれるなら、全てを懸けて大事にするから。 「手首が寂しいんなら、ずっと握っていてあげる。腕時計が欲しいなら福田さんにあげる。どうしたいのか、言ってくれるだけでええねん」 じっ、と福田の顔を見た。僅かに揺れた黒目は、けれど怯えても震えてもいなかった。少し考える仕草を見せた福田は、やがて上目遣いを深めて、川島を見た。 「ほな、頼みがある」 「何ですか?」 自分の思いつきに満足をしたのか、いたずらを持ちかける子供のような顔で笑った。2人しかいないのに気持ち体を前のめりにして、ひそひそ話のような体勢になる。 「新しいブレスレット買いに行くん、付き合うてくれるけ?」 福田の提案にもう笑い出した川島に、断る理由がある筈もなかった。 「ええのあったら、今度は俺が買うたげますよ」
笑いながら、今、手にした幸せを握り締めた。
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kaleidoscope【37】 2007/10/11 Toshimi Matsushita
背中を刺す視線が痛い。 だけど福田は振り返らなかった。だって徳井は泣いている。泣き顔を見たわけでも泣き声を聞いたわけでもなく、何の根拠もないのに確信して、福田は振り向かずに部屋の中に入る。踏み出す一歩一歩がやけに重い。 そのまま綺麗に整えられたベッドに着替えもせずにばたりと倒れこめば、秒針のカチカチという音だけがやけに響く。 もう何も考えたくなかった。福田の小さな頭には、考えなければならないことがたくさんあって、なるべく意識下にある問題からは目をそらすようにしていたというのに。守りたいから壊したくないから目をそらしていたのはお互い様で、それなのに今日だけでいったい幾つのパンドラの箱を開いたことだろう。 27年間なんだかんだずっと隣にいて見慣れた相方の見たことのない顔。温厚でヘタレなはずの徳井のとった信じられない行動。徳井に捉まれた部分がまだ熱を持っているようだった。
あぁ、今すぐ川島の手を握りたい、そして抱きしめて欲しい。腕時計だけでは心許ないから。 せめて声だけでも聞きたいと祈るような気持ちで携帯に手を伸ばしかけて、慌てて頭を振る。これでは川島に逃げてるのと一緒だと。 川島の腕時計は、憎たらしいくらい正確だった。こんなときくらいはやく長針が回ればいいのに。時計に八つ当たりしつつ、福田はそっと目を閉じた。
ふるふると震える携帯で目を覚ました。アラームもかけずに寝てしまった自分に真っ青になる。酒を一滴も飲んでないのにブラックアウトしたかのようだった。しつこくなり続ける携帯に手を伸ばせば、まさかの川島からだった。留守電になる前に、と慌てて出れば、川島の声。どきりと高鳴る胸。 「おはようございます」 モーニングコールですよ、と笑う声が優しくて福田は言葉に詰まってしまう。 「福田さん?」 「おはよう。今、何時?」 「7時ですけど。あ、もしかしてもう少し寝てる予定でした?」 うわー、すみません、どないしよう。と電話口の向こう側でおろおろしだした川島に福田はすっと平常心を取り戻す。 今日の仕事は午後から東京で雑誌の取材とバラエティ収録が一本だけだったから少しのんびりしているつもりだった。乗る予定の新幹線の時間まであと二時間もあるけど、この電話がなければおそらく寝過ごしていただろうから素直に礼を言う。 「大丈夫、助かったわ。ありがとな」 「すみません、ほんまはただ福田さんの声聞きたかっただけなんです」 もうすぐ会えるのにおかしいですよね、と付け加えた川島の声音は昨日の朝聞いたときよりも幼げでどこか不安定に聞こえる。寂しいと、川島も感じてくれているのだと思ったら、申し訳ないと思いつつ嬉しくなってしまう。 「おかしないよ。俺も川島の声聞きたかってん。はよあいたい」 「ほな、福田さんの好きなもの作って待ってます」 「うん。楽しみにしとる」 電話口の向こうでの川島の笑う気配が嬉しくて、福田も小さく微笑んだ。
それから数時間後、行きよりも多くなった荷物を手に、福田は川島の部屋の前にいた。 インターフォンを鳴らしても出てこないことに不安になりながらも、川島から預かった鍵を鍵穴に差し込む。かちりと呆気なく開いた扉に、そういえばこの鍵を使うのが初めてだと気がつく。ドアを開ければ、確かに人のいる気配。なのに川島の出てくる気配がない。 「かわしま?」 恐る恐る台所に足を踏み入れると、火のついた状態でかけられた鍋。牛筋煮込みの匂いに空腹中枢が刺激される。だがそれよりも川島はどこだと周囲を窺えば、いきなり背中から抱きしめられた。あたたかな感触と、一日しか離れていなかったのに懐かしく感じる匂い。 「おかえりなさい」 「ただいま。川島、お土産買うてきたで」 包まれた体温と流し込まれる低い声がリアルで、川島だ、と実感する。それだけで心が軽くなる。振り向いて目が合えば、川島はくしゃくしゃの笑顔を浮かべていた。荷物を丁寧におろして、その中から小さな包みを取り出す。 「まずは、はい」 「あ、ばあちゃんの漬物や」 「うん。時間があったから行ってみた」 嬉しそうに受け取った姿が子供みたいで、ばたばたしたけど行ってよかったなぁ、と福田が笑えば川島は照れたように頬を緩ませる。 「あとな、これなんやけどよかったら使うて」 合鍵を無くしたくなくて仕事の空き時間に購入したキーホルダー。レジに出そうとしたとき目に付いたのは、川島が好きだと公言するドラえもんのストラップだった。子供っぽいだろうか、と一瞬だけ迷いつつも、結局手に取ったそれを川島に手渡せば、その手ごと川島の手のひらに包まれる。 「ありがとうございます」 嬉しいですと、自然に近寄せられる唇を待てば、やかんの沸騰を知らせる甲高い間抜けな音が響き渡る。絶妙ともいえる間がおかしくて、おでことおでこをくっつけて笑いあった。
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kaleidoscope【36】 2007/10/05 Kanata Akakura
最初にその手を離したのは、どっちが先だったのだろう。
離れてしまった手のひらに、僅か互いの熱が残っていた。まるで拒絶するように手を払われて、手首を庇う福田の右手の中には、止め具の外れた腕時計が、寸でのところで留まっていた。勢いでずれたその細い手首に、暗がりで僅かに気が付く、もう消えそうな赤い痕を認めた。昨日今日で付いたものではないらしいそれは、新しい腕時計のせいではないと分かったから、恐らく自分のブレスレットによって、傷つけられたものだと知った。 激高する感情とは裏腹に、妙に冷静な思考でそこまで考えた徳井は、それで急速に、気持ちが冷めていく自分を自覚する。我に返ったついでにここがタクシーの中だった事も思い出して、ちらりと運転手の様子を窺えば、夜も深まりかけた時間帯に、仕事仲間らしい男二人の痴話喧嘩を、見て見ぬ振りでやり過ごしているようだった。その事にまた少し、平静を取り戻して、徳井はやっと体を動かし、椅子の背もたれに深く体を預ける。ふう、と大きく息を吐けば、こちらも隣で俯く福田の気配。 「…ごめん、」 謝って欲しい訳ではないのに、場違いな福田の謝罪が遠慮がちに届く。おまえが罪を犯しているのなら、何をどう、償ってくれるの。自嘲気味にそんな事を考えた徳井は、もうやめよう、と思った。 福田の手首についた擦り傷は、たぶん例の腹痛騒ぎの時についたものだろうと想像がついた。何がどう展開してそうなったのかは知れないけれど、ひどく苦しんだらしい福田は、そうやってブレスレットを強く握っていたのだろうと思う。縋る物がそれしかなかったのか、それともはなから、それにしか縋るつもりがなかったのか。 そして徳井は、自分も同じだったと気付く。 互いが互いの代わりにブレスレットを身に着けて。いつしかその意味を摩り替えて。そうやって、どんどん自分達は離れてしまっていたのかも知れない。もはや大切なのは福田であり徳井であったのか、それとも自分達のブレスレットであったのか、分からなくなっていた。 だから、福田の腕からブレスレットが外された事に、こんなにも自分は動揺をして。新しい腕時計にこんなにも嫉妬をして。置いていかれるのが怖くて、だから。 「俺こそ、ごめん」 例えば今日、徳井の腕にないブレスレットの存在に、福田は気付いただろうか。気紛れにつけられるその意味を考えて、勘繰って、そして時に傷付いただろうか。 苦しめたのだろうと思う。自分のせいで、福田はよほど、苦しんだのだろうと思う。逃げる徳井の背を追って、いつも。それでもまだ、逃げようとする自分を徳井は認めざるを得なかった。ここに来ていまだ肝心の事が、聞けない。 「……の事、」 「え?」 「―――いや、ええわ」 川島の事が、好きなんけ?
聞きたかったのに、どうしても聞けなかった。
*
その後、ラジオの収録を終えて、スタジオを出た頃にはもう、日付が変わってしまっていた。 大阪のマンションはそれぞれもう、引き払っていたから、用意されたホテルへの道をまた、タクシーに同乗する事になる。プロなのだから、収録は普段と変わらないトーンを装って、ソツなくこなしたつもりだったけれど、狭い車中に入ってしまえば、今度はもう、交わす会話もなかった。 先ほどよりもっと深い闇に照らされて、徳井の顔にも、福田の顔にも色濃い疲れが滲む。それを互いが意識しつつ、心配をしてさえ、かける言葉が出て来ない。短い時間で辿りついたホテルの前で、領収書を切って。無言で中に入り、それぞれ与えられた部屋に向かう。たまたま隣合わせだった部屋同士の真ん中で、一瞬だけ立ち止まった。 「…ほな、また明日」 「うん。おやすみ」 一足先にドアを開けて、中に入っていく福田の背を見送った。 その背中が振り返らない事を少しだけ寂しいと思った徳井は、きっと、なにもかもが手遅れなのだと思う。また明日、と言った声の響きも、もはや新鮮ではありえなくて。心穏やかにさせる術もない。それでも、必要以上に疲れた表情を浮かべた福田が今晩、安らかに眠れればいいと、今更のような事を思った。 本当は、いつだって思っている。
そこにいるあなたが、ただ穏やかでありますように。
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kaleidoscope【35】 2007/10/03 Toshimi Matsushita
まるで隠れん坊をしているみたいだ。 見つかりたくない。見つかりたい。……早く見つけて。 子供の頃よくした矛盾しきった遊びに思いを馳せて、現実から逃避しようとした福田の手に微かにかかる負荷。
「逃げないで」 繕うことのない生のままの徳井の言葉が福田の耳朶を打つ。 福田は何もいえなかった。こんな至近距離では聞こえないふりでやり過ごすこともできない。 「頼むから、そばにおれよ」 お願いやから、と捉まれる手の力が強くなる。縋られていると思った。何でこんな急にだとか、徳井らしくないだとか、色々なことが頭の中でぐるぐるする。そのとき不意に浮かんだのは徳井とは違う体温の掌だった。体の割りに大きな川島のてのひら。 「ずっとおったやんか。これからもおるよ」 ようやく返した言葉は、緊張のせいか口がカラカラになって、情けないほど掠れていた。徳井の顔がくしゃりと歪められる。今度こそ泣くんだと身構えれば、徳井は視線を逸らして黙り込む。その先にあるのは川島の腕時計だった。釣られてそこを見れば、対向車のライトが文字盤に反射して、また少し時が進んだことを福田に教えてくれる。 「……うそつき」 「とくいくん?」 徳井の指が意思を持って腕時計に触れる。外されるんだと気づいたとき、福田は反射的にその手を振り払っていた。自分のとった行動が信じられず呆然とする福田を、徳井はひどく昏い静かな目で見ていた。感情が死んでしまったかのような無表情。代わりにその整った顔に浮かぶのは圧倒的な虚無。 せめてもと左手を腕時計ごと押さえれば、徳井の指がそこに伸ばされる。熱を持った指先がこじ開けるように動くのを他人事のように哂うと、徳井は器用に止め具を外してしまう。 「やめろや。お願いやから、やめて」 いっそ優しげに微笑ってみせると、福田の口元が戦慄く。
ふくだ、と呼ばれた名前は断罪するような響きに満ちていた。
*** **
後藤は一人眠れない夜を過ごしていた。
アルコールのせいで鈍った思考回路は埒も明かないことばかり追ってしまう。徳井のこと。福田のこと。川島のこと。 人を好きになる。それだけのことなのに何でこんなにも難しいのだろう。 後藤自身、愛だとか恋だとか語れるほど経験値が高いわけでもないのに、現在進行形でどつぼに嵌っているあの二人の、いや三人の関係に首を突っ込んで。何がしたいのか分からないといいながら、本当は薄々気づいていた。徳井のどこか不安定な魂にどうしようもなく惹かれていることに。それは恋でも愛でもないのかもしれない。だからといって同情や憐憫で面倒を見るほど後藤はお人好しな人間ではないつもりだったから。 後藤がした行為は小さな親切大きなお世話を地で行ったのかもしれない。それでもかまわなかった。このまま静かに歪んでいく徳井を見ているだけなのは耐えられなかったのだから。 そして硬直しきった二人の関係を、後藤の手で変えることが出来ないのなら、川島の手を借りるだけだ。 まっすぐに福田のことが好きだと笑った川島なら大丈夫、と直感的に感じた。今はまだ混乱もしているようだったけれど、きっと乗り切っていくのだろうと素直に思えた。少なくとも川島は目をそらしていなかったから。誤魔化すことをせず福田と向き合っている限りはきっと大丈夫だと。 「ほんまに世話の焼けるやつらやのう」 ふっと口元を歪ませて、後藤は静かに笑った。
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kaleidoscope【34】 2007/09/24 Kanata Akakura
福田の手を握ったまま、徳井はぼんやりと考える。
聞きたい事は山のようにあった。言いたい事も。福田はリハビリだと言ったけれど、術後の病人だってそんな急に回復する訳じゃない。それでなくとも長いコンビ生活でじわじわと変わってしまった関係性が、気持ちひとつで改善するとも思えなかった。 だから、言葉よりむしろ、繋いだ手から伝わる熱のほうが、より内心を伝えられる気がした。冷たい手は、けれど夏の湿気もあって少し汗ばんで熱もっていて、少なからず福田も緊張しているのだと思えた。握手をしたままの不自然な体勢で、車窓を眺める福田の表情は、夜のヘッドライト程度では窺い知れなかったけれど。 強く握るでもない、けれど撫でるのとは違う。手を繋ぐ自分達は、ただそれだけの動作で、相手の存在を確かめる。 いつからか摩り替わってしまっていたのだろうと思う。お守りというよりは、身代わりのように触れていたブレスレット。縋るように、祈るように、時には愛を囁くように。そうやって、触れたかったのは福田のブレスレットではなく、福田自身の筈だった。 好きなのに。愛しているのに。 もはやそれだけでは収まらない気持ちを持て余す。メロドラマのように福田を愛でて、独占したい。誰にも渡したくない。いつも、空気のように隣にいるのは福田だったから、永遠にそこにある事を望んだ。離したくはなかったから、共に歩む事と引き換えに、一切の愛憎を手放してしまったのかも知れない。 ずっと一緒にいる為に、それはもう、気が遠くなるほど長い時間を傍にいて過ごす為に。事を起こすのも、荒立てるのも出来ず、喧嘩をすることすら恐れてやってきたのだ。思えば随分と臆病だった自分達は、根本から間違っていたのだろうか。 傷付ける事を恐れて、多少の事は胸に仕舞って。時に我慢をし、時に悟り、時に諦めて、そんな風に。それだけ福田が欲しかったのに、そのせいで自分達は、何か大切なものを置いてきてしまった。今さら取り戻せる筈もないから、今、徳井は眩暈がするほどの絶望を覚えていた。ぎゅ、と目を瞑るとこめかみが痛む。ちりちりと焼け付くような痛みは、気が狂うほどの福田への想いだったか。 考えに耽ったせいで、繋いだ手に力が篭った。徳井が目を開けたタイミングで、窓から目を離した福田が、窺ってくる気配があった。 「どないしたん。気分でも悪いんか?」 ヘッドライトに照らされた徳井の顔色が、随分と青白い事に福田は気が付く。さっきもしみじみ思ったのだけれど、最近また少し痩せた気がする徳井は、目の下のクマも目立って、殺気立つ印象すら覚えた。何に対して苛立っているのか、分かるようで、実は分からない振りをしているだけかも知れないと福田は思った。 「…いや、大丈夫や」 ありがとう、と徳井は言った。それは随分と弱々しい声だったから、徳井が泣いているのかと思った。 「徳井くん?」 もう少し首を動かして、今度ははっきりと徳井に目を向けた。泣いているようでも涙は流していなかった徳井は、漆黒の目を滲ませて福田を見た。タクシーの狭い後部座席で、至近距離で目が合って。随分と久し振りに互いの顔を見た、と思った。 「―――ごめん」 「何が?」 遅れてやってきた謝罪は、何に対してのものだったのか。聞いた福田に対して、徳井は曖昧に笑う。 ごめん。こんな俺でごめん。笑えなくてごめん。苦しめてごめん。狡くてごめん。臆病でごめん。…好きでごめん。 今、福田に伝えたい事は何だっただろう。 言いたい事はありすぎて、何からどう伝えればいいのか分からなくなっていたから、言葉にしなくても、繋いだ手から気持ちが伝わればいいと思った。福田が好きなのだと。ずっと一緒にいて欲しいのだと。 「とくいくん」 福田の自分を呼ぶ声が、どこか遠くに聞こえる。こんなに近くにいるのに不思議だと思った。 手を握る。手のひらいっぱいに福田の手を包み込めば、ひんやりと固い腕時計に当たって。誘われるように視線を落とすと、ライトに照らされた文字盤がつるりと光った。 ぽつん、と呟くように言葉が滑る。小さなその独白は、小さすぎて福田に届いたかどうかすら、分からなかったけれど。
「…俺から逃げんといて」 逃げているのはむしろ自分の方なのに。おかしいな、と徳井は思った。
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kaleidoscope【33】 2007/09/23 Toshimi Matsushita
一足早くタクシーに乗り込んだ徳井は、福田が来るのを待たず目を閉じる。 そうして瞼の裏に浮かぶのは結局福田の笑顔だった。
思えば、考え方も趣味もまったく違うのに一緒にいると一番安心できる相手だった。 学生時代はむしろ人見知りの徳井をフォローするかのように何くれともなく世話を焼き、勉強でも部活でもソツなくこなし、仲間内でも早いうちにさっさと彼女を作っていた福田。徳井にとってはある意味で出来のいい弟のような存在だった福田。福田が能天気に笑っているとそれだけで嬉しくて、笑わせたいがためにあほな事ばかりやらかしていた。笑いを生業にした一因ももしかしたらそこにあるのかもしれない。福田が隣で笑っている限り、自分は大丈夫だと確信していた。 それがほんとうにどの時点で拗けてしまったのだろうか。なまじ言葉にせずとも伝わる分、気づけば、一番肝心な部分で言葉にすることが減っていた。気づいたからといって一度築いたスタイルを崩すのはひどく億劫で。だからといって、共に過ごしてきた27年間を今更なかったことにはできないし、するつもりもなかった。それは福田も同様だったに違いない。 もしも福田に対して、好きだとか愛しているだとか、伝えていたらまた何かかわるのだろうか。今からでも遅くないのだろうか。 先ほどの福田の乾いた声に、徳井は正直、切られたと感じた。何が、というわけではない。自分でもよく分からないままに福田に置いていかれると思って理不尽ともおもえる胸の痛みを覚えた。 堂々巡りに倦怠感を覚えた徳井の思考の糸が切れた頃、福田もタクシーに乗り込んできた。
窓硝子に映る福田の顔は、先ほどの怒りを滲ませたものではなく、どこか思考に沈んだ表情だった。時折、腕時計に目をやっては遠い目をする福田が不意に徳井を見つめてきた。意を決したように開いた口からこぼれた自分の名前が聞きなれない言語のように聞こえる。 「さっきは、いや、ちゃうな。ほんまに、ごめん」 ここ最近よく見せる取り繕うような表情ではなく、剥き出しの福田の顔。先ほどの怒りの炎が燃えている状態よりは穏やかな、だけどどこか迷いのある福田の声。 「別に謝らんでもええよ」 お前が謝ること違うし、と続ければ福田は首を振る。 「言葉にせな伝わらへんて、小杉さんに思い出させてもろてん。せやからお互いリハビリしようや」 な、とぎこちなく微笑んで左手を差し出してくる。ブレスの代わりにはめられた腕時計が徳井の視神経を焼く。福田のものではない、新品でもないそれが、川島のものである事実。それを大事そうに撫でていた福田の右手。つきりと痛む胸。 「言い過ぎて、ごめん。とりあえず仲直りの握手しよ」 「……ん」 子供の頃から、自分たちは喧嘩と言うものに対して異常なほど恐れを抱いていた。だから小さなものを含めても数えるくらいしか喧嘩の記憶がない。それだけに喧嘩の後というシチュエーションは戸惑ってしまって、どうしていいのか分からない。たいていは福田のほうが折れて、依怙地になりかけた徳井の元に半べそでやってきて「とくっちごめん」と謝ってくることが終結の合図だった気がする。 だが先ほどのやり取りが喧嘩かというと少し違うような気がした。喧嘩慣れしてない自分ですらこれは違うと思った。だからと言ってとことんまで喧嘩する勇気は持ちあわせてはいなかったから、福田の差し出してくれた手に縋るように手を伸ばす。 「ふくだ」 「なに、とくいくん」 「しばらくこうさせといて?」 子供の頃よりも成長した手は、自分と同じ性別のものらしく、しなやかではあるが筋張っていて硬い。イメージに反して少し冷たいその手が久しぶりで気持ちよくて、不意にこの手がずっと欲しかったのだと思い出した。
*** **
川島はもう一軒行こうという後藤の誘いを辞退して、部屋に帰ってきたことを後悔した。 まだまだ暑い日が続いているはずなのに、ドアを開けた瞬間、見慣れたはずの部屋に冷え冷えとした印象を覚え川島は立ち尽くす。 福田が来る前のこの部屋はこんなにも空虚だったのだろうか。 慌てて部屋に駆け込むと、全ての部屋に明かりを灯し、テレビをつける。部屋が妙にまぶしい明かりと、ざわざわと無意味な音に満ちて、ようやく川島は少し落ち着きを取り戻す。お化けに怯える子供のような行動に突っ込んでくれる人がいないのが物足りなかった。 それでも川島は先ほどの福田との会話を思い出し、のろのろと台所に立つ。 鍋の中身が大丈夫そうなことを確認して皿に移せば、これが現実だと言う実感が湧いてくる。 福田がいないことに欠落感を覚える自分を鼻で笑ってみても、込み上げてくる寂しさはいかんともしようがない。
「福田さん」
川島の口からこぼれた名前は、祈りにも似ていた。
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kaleidoscope【32】 2007/09/22 Kanata Akakura
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