::::::Hiroya::Monologue::::::

2000年10月03日(火) 憩い・・・・

確かに今まで色々な女の子と付き合ってきたし、いろいろな経験もした。
必ずしも楽しかった事ばかりでもなく、それなりに苦しかった事もね。

でも今は生きてるし、そんな想いも今は普通に語れる。

それを考えると、「あ、あの時の恋は所詮、そんなもの?」って。
よく女の子が振られたりすると「1週間何も食べれなかった」とか
痩せた、太った、体調壊した、気が狂った、人様々・・。

でも生きてる。 じゃあ「この人と別れた時、死ねばいいの?」って
そーいう事でも無いんだけど・・・それは「麻疹」でしょ?って。
昔から決めていた事があって、「愛してる」という言葉の使い時。
人生で三回言えば良いと思っていた。そうそう軽く口に出して言う
言葉じゃないと思っていたから。

本当に彼女を愛してると感じたとき。「愛してる」
その彼女と結婚を決めたとき。   「愛しているよ」
その彼女と最後の時を迎えるとき。 「愛していたよ」
残念ながら、不容易にもその言葉は数回使って来てしまったけど(笑)。
究極の愛ってなんだろう? この歳になって思うこと・・・・・・


それは「憩い」。


究極の愛って、憩いと同じなんじゃないかなぁって。与えられた物全て
それを心地よいと思う。語りかける言葉、仕草、態度、考えかた。全て
に共感でき全てを許せる。 「負」が無い事なんだよ。
俺にとっての憩いは映像に出来るほどしっかりした実体を持っている。
部屋の真ん中に椅子があり、そこに俺が座る。究極の愛を持ち得た女性が
俺の肩に触れ、去り、膝に座り、去り、跪いては、去り、接吻を繰り返す。
いやじゃない。寧ろ心地よい。俺の回りをはっきりとした実体のないまま
動き続ける。語りかけ、聞く耳を持ち、そして触れていく。俺が椅子から
立ち上がると、その実体は消え失せる。自分勝手な考えに見えるだろうけ
どその実体を存在させているのも「俺」。与える愛が、その実体を作るの
だと思っている。

恋愛には、必ず「負」がつきまとう。これは苦手。特にジェラシー。

ジェラシーはタダの「欲」。それも自分勝手な欲。たちが悪い。
ジェラシーを満たす事は不可能。ジェラシーは根拠のない空想に対して
起きてる事がほとんどだから。

「じゃあ、どうすればジェラシーを起こさないようになるの?」

答えは1つ。「信じること」。疑わない気持はジェラシーを封じ込める
事が出来るよ。「俺の事を信じてくれよ!本当に君が好きだからさぁ」。
そんな言葉、言わなくとも愛は伝わるはず。目を見れば、相手がわかる。
言葉1つ、仕草1つ。その中に「自分に対する愛」を感じられるはず。
感じられないのなら、その恋愛はいつか終わる物と思って良いと思う。
「愛されていないのに愛し続ける事は、相手にとって負担」。これ俺の
恋愛学。


別れ際はすっぱりと。100%のイニシアチブを持てないのなら、愛してい
たくない。愛して欲しくない。片手間な愛は、労力の無駄。

凄く簡単な事。相手を信じ、愛し、敬い、同じ時を過ごせることに喜びを
感じれば、そこに「究極の愛」を育てる事が出来るかもしれない。

逢った瞬間に「運命」を感じる事はそう少なくない。瞬時に相思相愛。
ただ、付き合って行く過程で、その運命は、ただの「一目惚れ」だと
気づく。 問題は「運命」を感じた後に「憩い」を与えられる相手か?
与えてくれる相手か?  信じること。信じて貰えること。
与えること。与えられること。一方通行では無理。同じレールを歩み
同じ事を感じ、同じ事を想う。
あえて1つだけ、今までの人とは違う「運命」を感じることがあるとす
れば、それは「時の流れるスピード」。これが同じに感じる時。歩みが
一緒。


その時、俺の中に「憩いを持ち合わせた女性」が依存しはじめる。 
                      

       唯一の証。  唯一の証拠。







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