「可能性」が失われた夜に。 - 2005年01月12日(水) 現実を思い知らされて、酔えない酒を胃に入れて帰ってきた夜。 「何落ち込んでるの?だいたい、そういう出世欲なんて、もともと全然ないくせに。偉くなったらなったで人を押しのけなければならないことも多いしさ、かえってめんどくさいだけだよ」 彼女は、僕のことをよく知っている。あるいは、僕以上に。 確かにそうなのだ。僕は今まで自分が偉くなるための努力というのに積極的ではなかったし、そうやって他人と陣地争いをするくらいなら、別に食うのに困るわけでもなし、自分の畑をひっそりと耕せばそれでいいと思っていた。良い言葉でいえば「無欲」悪い言葉で言えば「甲斐性なし」。 いや、本当に自分でも意外だったのだ。この世界の上のほうに僕の居るべき場所がない、というのを知って、こんなに落ち込んでしまうなんて。 「偉くなれなくてもいい」と自分では思っているつもりでも、「もうお前は、偉くなれない。少なくとも頂上にはお前の居場所はない」という現実をつきつけられるというのは、なんだかとても辛いものだ。 「できなくていい」はずのことでも、「できる可能性がない」ことを思い知らされるというのは悲しい。そしてたぶん、僕は自分でたいした努力もしないで、結果がどこかから勝手に転がってくるのではないか、と「そんなの興味ない」というポーズで予防線を張りながら、浅はかな期待をしていたのだ。「やればできるはず」という無意味なエクスキューズ。 「それはそれでいいんじゃない。あなたは偉くなりたいのかもしれないけど、人に命令するのには向いていないから。」 彼女の言うことは、ものすごく正しい。 でも、自分でもわかっていたはずのその事実をあらためて受け入れるのは、やっぱり辛い。 ... 「容赦」は人のためならず。 - 2005年01月07日(金) あけましておめでとうございます、とか今さら。 以前ラジオのインタビュー番組で棋士(将棋を指すことを生業としている人)が、こんなことを言っていた。 【「いや、羽生さんとかは本当に強いんですけど、あれだけタイトルを独占するには、実力だけじゃなくて、プラスアルファが必要になるんですよ」 インタビュアー:そのプラスアルファって、何ですか? 「うーん、うまく言葉にできないんですが、相手に『この人になら負けてもいい』って思わせること、ですかね。それは、『信頼』と言い換えてもいいんですけど。将棋というのは、相手の王を詰めないかぎり、『参った』と相手が言ってくれない限り終わらないゲームですから。 将棋の終盤というのは、もう残り時間も何分とかいうレベルになるし、実際のところ、絶対有利な局面でも、一手間違えば形勢逆転、なんてことも起こりえるわけですよ。いくら将棋指しだって、人間ですから。 でも、日頃から敬意を払われている人や愛されている人というのは、そういう局面になったときに、対戦相手のほうから早めに「参りました」と折れてくれるんです。逆に、日頃憎まれたり、『こいつになら勝てる』とナメられたりしている人は、対戦相手もなかなか『勝負を投げて』くれないわけです。そうすると、おのずから『奇跡の逆転劇』というのが起こってしまう可能性も出てくるんですよ。そういうものの蓄積が、最終的に勝負を分ける重要なファクターになってくるんじゃないかなあ。もちろん、実力がないと、無理ですけど。】 将棋の世界と一般社会は違う、と言われるかもしれないが、僕はこのインタビューに考えさせられるところが多かった。「勝負というのは、相手を徹底的に打ちのめさなければならない」という考え方が普通になっているような気がしていたけれど、実は、本当に高いレベルでは、そういう「手心」というか、「間合い」みたいなものだって大事なのだ。 いろんなサイトを読んでいると、「容赦のないサイト」が目に入ってくる。 「書くべきではないこと」を鬼の首を取ったように書いて、「これが真実だ!」と叫んでいる人もいる。 でもね、僕はそういうのって、やっぱり品がないと思うのだ。愚かな決め付けで誰かを傷つけるのは、やっている本人には楽しいことなのかもしれないが、僕はそういうのは嫌だ。「知っている秘密」を訳知り顔で大声で話してアクセスアップを果たすくらいなら、「知らないふり」をしていたいと思う。 誰かを救うための真実ならともかく、誰かを傷つけるためだけの真実を積み重ねていくというのは、長い目でみれば、けっしてプラスにならない、そうであってもらいたい。 WEB上では、饒舌さだけが尊ばれる。 でもね、「沈黙」というのもまた、ひとつの「言葉」なのだよ。 まだまだ道は遠いけれど、誰かを徹底的に打ちのめす人間であるより、誰かに「負けました」とキチンと頭を下げたり、勝ちを譲ってもらえるような人になりたい。 自分も相手も焼け野原になった挙句に勝っても、何の意味もないのだから。 ...
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