マニアックな憂鬱〜雌伏篇...ふじぽん

 

 

「建前」の逆襲 - 2004年11月29日(月)

 昨日の夜テレビを観ていたら、まだ内定をもらえていない大学4年生がとりあげられていて、おとなしそう(って言っても、最近の若い男ってネックレスとかしてるんだよなあ)な主人公A君が、なんとか内定をもらうために悪戦苦闘していた。彼を担当した人材派遣予備校の社長(もともと大企業の人事担当だったらしい)は、「最近の企業、とくにベンチャー企業が求める学生は、学歴よりも明るさとかバイタリティだ」と言っており、A君に対して「暗いんだよなあ…」と嘆いていた。僕からすれば、面接で「自分の長所はなんですか?」と問われた際に「私の長所はこれこれです」なんて流暢に喋れる人間なんていうのは、あまり信用できないか、よく練習してきたね、という気持ちにしかなれないのだけれど。

 こんな記事をみかけて以来、「身も蓋もない」という言葉の意味を、ずっと考えていたが、本屋であのライブドアの堀江社長の著書を流し読みし、この番組を観て、少しわかってきたような気がする。堀江社長の著書「稼ぐが勝ち」という本には、とにかく「金を稼いで、力を持て!」というようなことが堂々と書いてあるのだ。そう、堂々と。もちろん、堀江社長の著書は、こんな扇情的なものばかりではないし、この手の「金を稼いで幸せに」というハウツー本というのは、過去にもたくさん出版されている。でも、ここまで「金を稼ぐことの正義」を力説してみせて、グラビアアイドルとつきあって「男のロマン」を体現してみせられる人は、あまりいないような気もする。
 結局、そのTV番組内では、企業の偉い人が集まるバーみたいなところでバイトし、「大人との社交術」を身につけたA君は、某ベンチャー不動産会社への就職が決まってハッピー・エンドとなった。ただ、彼の今後の人生が本当にハッピーなものになるかはわからない。

 僕は正直、「本音で生きることの正義」ばかりが珍重されるということに、ものすごく違和感を感じている。そもそも、彼らは「バイタリティのある人」と言っているけれども、矯正されたA君は、「感じのいい人」にはなっていたけれど、それは初見の印象の良さだけであって、本質的な「バイタリティ」とは違う種類のものなのではないだろうか。
 「テンション上げていこう!」と叫んでいる若者は、何かをやるためにテンションを上げるのではなくて、単に興奮状態になって、やり場のない勢いに身を任せているようにしか思えないこともある。「スーパーフリー」なんて、まさに、そういう付け焼刃のバイタリティ幻想に支配された人間の集団じゃないのか。
 そりゃ、僕だって「企業倫理」なんて、キレイ事だとは思う。とはいえ、そういうキレイ事や理想論を公の場では押し出してみせるくらいの「羞恥心」というのは、けっして悪いことではないはずだ。「楽天」の三木谷社長は、堀江社長に比べると、たぶん、「本音を前に出すことのリスク」のようなものを理解している人なのだろう。もちろんそれはそれで、前世代的でもどかしい印象もあるのかもしれないが。

 さらに、僕の「本音で生きる」ということに対する抵抗感はどこからきているのかと考えてみると、それはどうも、僕は語るべき「本音」を持っていないのではないか、ということに思い当たった。さっきの「自分の長所」の話ではないけれど、僕は「お金さえ稼げば、人は幸せになれる」だとか、「無能な連中に対して、気を遣う必要なんてない」というような「哲学」を持っていない。「お金だけが幸せじゃないだろ?」とか「みんなにできるだけ優しくするべきなんじゃないか?」というような、「ひとつの志向に反対するテーゼ」がつい浮かんできてしまうが、その逆説だって、自分で信じ切れているわけでもないのだ。それは、他人に否定されることに対する防衛本能みたいなもの、なのかもしれないけれど、どんなに僕の殻をむいていっても、そういう「過激な本音」というものは出てこないような気がする。「本音で言ってみろ!」って言われても、そんなものはそもそも僕の中には存在していなくて、服を脱いだら「銀河鉄道999」の車掌さんのように空っぽになっているんじゃないか、とすら思う。
 というわけで、人間は立派な、あるいは過激な「本音」を抱えていきているはずだ、というような強迫観念というのは、僕にとってはひどく窮屈に感じられる。そして、そういう他人に語れるほどの本音を持っている人がうらやましいのだ。
 でもなあ、そういう「ありもしない本音の生き方」を強要される社会というのは、それはそれでやりにくいような気もしなくはない。「本音がない社会は不幸だが、本音を必要とする社会は、もっと不幸」なのではないだろうか?
 現代は「本音」こそが「建前」なのかもしれないよ。

 ヨン様ことぺ・ヨンジュンさんの言動を観ていると、あれこそ「究極の建前」なのではないかと思えてくる。内心「うざいよこのオバチャンたち…」と言いたいことだって、あると考えたほうが自然なことだ。
 そして、「ヨン様」に熱狂するファンだって、そんなことはわかっているはずなのに。それでも、彼らは「ヨン様」に「本音」を求めたりはしない。
 僕には、「ヨン様ブーム」って、「建前の逆襲」に思えてしょうがないのだ。

 「本音」って、疲れない?


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「距離感」というようなもの。 - 2004年11月26日(金)

 テレビの企画などで、「有名ミュージシャンが、あなたひとりの前で歌ってくれます」だとか、懸賞で「抽選に当たった、20名の前だけでのライブ!」とかいうのがあるのだが、僕はそういうのを目にするたびに、「いくら好きなアーティストでも、こういうシチュエーションで聴くのは辛いんじゃないかな」と、つい考えてしまう。もしそんな状況になったら、たぶん、観客としては、ものすごく嬉しそうな表情をしたり、幸せそうな気分になったりしなければならないだろうから。
 そして、「一生懸命、楽しそうに、嬉しそうにしなければならない」という強迫観念めいたものは、たぶん僕の顔を引きつらせ、曲そのものよりも「今、自分は楽しそうな表情になっているのだろうか?」というような自問自答ばかり繰り返していることになる。

 仕事で実習の学生と一緒に行動することがある。何も知らない学生に細々としたことを教えるというのは、けっこう手間がかかる割には自分に返ってくるものが少ない仕事だ。とはいえ、偉い先生と部屋に二人っきりで仕事、というような状況で、彼らが仕事を見学に来ていたりすると、非常に気が楽になるのも事実だ。二人だと会話の糸口が見つからなかったり、張り詰めていて息苦しかったりする空気も、学生というエッセンスが混じることによって、けっこう和らいだりするのだ。ときどき質問をして「こんなことも知らないのかまったく!なんて軽くいじってみるのも(上の先生によっては、かえって緊張感を高めるようないじりかたをする人もいて、それはそれで困るのだけど)アクセントになったりするし。
もちろん僕とその上司の仲が悪いわけではなくて、やっぱり上司と部下という関係には、一定の距離感というのが必要で、そういう「馴れ馴れしくしすぎてはならないけど、よそよそしくなりすぎてもいけない」という距離をキープするのは、一対一だとなんだか僕にはひどく難しく思える。
中学校くらいのとき、いつも一緒に遊んでいるグループの中で、そのうちの誰かと二人きりになると、仲がいいはずなのに、なぜか二人になると何を喋ったらいいかわからなくなってしまう、そんな感じ。実は、ふだんはあまり喋らないような「目立たない人」がひとり欠けてしまっただけで、場の雰囲気がガラッと変わってしまいことは少なくない。

 よく行く店で「常連」という扱いをされるのもイヤだ。定食屋で「これ、サービスね」ということで、ちょっとした料理が出てきたりすれば、そういう「善意」に対しては、やっぱりこちらも「善意」で返さなくてはなあ、なんて思し、そういうのって、かなりプレッシャーなのだ。美味しくもない料理でも美味しそうに食べなければならないし、たとえ美味しかったとしても、お愛想のひとつも考えなくてはならないのは、非常に辛い。世間話などされても、非常に困る。床屋にしても、「なるべく、早く、喋りかけられない」というのを重視しているくらいだ。

 まあ、僕の場合は平均より「遠め」が、他人との心地よい距離なんだろうと思うけれど、サイトとかをやっていると、ちょっと困惑することが多いのも事実。相手が悪いというのではなくて、そういうギャップみたいなものは、文章で伝えるのは難しいものみたいだから。
 とはいえ、無視されると寂しいし、まったくもって自分とか他人というのは、よくわからないものだなあ、と思う。要するに、「自分から声をかける勇気はないけれど、向こうのほうから声をかけてくるような女の子じゃダメ」というような、出口のない堂々巡りを繰り返している、というわけだ。

 こんなことをわざわざ書いて発信しているのには、やはりそれなりの「理由」があるには違いないのだけれど、こんなの、どう反応していいか読んだ人もわからないよね。



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愚痴るのに、安全でも適切でもありません。 - 2004年11月17日(水)

(1)どんなイタズラ電話や勧誘電話にだって、真面目に応対するのが「誠意」というものだろう。残念ながら、そういう「誠意」に対して返ってくるのは誠意ではなくて、「つけこんでやろうという悪意」ばかりなのだが。


(2)高級なケーキ屋では、「閉店寸前だからといって、売れていない商品を半額にしたりすると、正規の値段で買う人がいなくなるから、絶対に値引きはしない」という話がある。本当は、自分の価値を上げようと思えば、「安売りしない」ほうがいいのかもしれない。周りに気を使って雑用を引き受けていたら、いつのまにか雑用は自分のところにばかりまわってくるようになるものだから。


(3)長年のつきあいの友人に「(彼女が昔つきあっていた)後輩が結婚するよ」とメールをした。もちろん、昔のことには触れずに。返事は「そうですか、○○も結婚ですか」という色の無いものだった。彼女の心の動きはわからないが、彼女にそれを伝えるべきだったのか、そして、それを伝えるのは僕の役割だったのかと、今でも悩んでいる。
 実際は、本人にとっては、「ああそう」ってレベルのことかもしれないのだけど。


(4)大塚愛の新譜がもう出ていて驚いた。どうやら、多少寿命が短くなっても、使えるうちに消費しつくすという戦略のようだ、と思った。


(5)今日のサッカー日本代表戦、僕には何が面白いのか全然わからない。
まあ、怪我したりカードもらったりしない程度にがんばったらいいんじゃないかな。


(6)「弟」って、今夜だったんだなあ。あまりに宣伝されつくしていて、観る前にすでに飽きた。


(7)エリザベス女王杯の結果とハズレ馬券を見ながら、僕は自分が「ずっとすべてのものが変わらないでいてもらいたい人間」なのだなあ、とつくづく思った。


(8)ドラフトで15歳が指名されたのだが、どうして高校を卒業するまで待たなかったのだろうか?「当たればラッキー」くらいの気持ちで獲得したのだったら、ちょっとなあ。


(9)語学というのは、本当に難しい。文法としての正しさだけではなくて、その状況で使うのが妥当な表現か?とか、どちらの言い方が一般的か?なんて考えはじめたらキリがない。でも、そういうのってどの本にも載ってなくて、現地に行った人じゃないとわからないんだよなあ。


(10)飲んでいたら、カウンターに出会い系ではじめて会ったとおぼしき30くらいの男と35くらいの女(既婚らしい)が座っていて、その女が「私って、恋愛が切れたことがないっていうか、恋愛してないとダメなタイプなんですよね」と言っているのを聞いて耳ダンボ。ここは「アバンティ」かよ!
大学時代に、「ほんとうに『〜ザマス』と言っているマダム」を見かけて以来の衝撃。


(11)よし、全艦隊、逃げろ!




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Between the Lines - 2004年11月13日(土)

(1)クレメンス商法

 40歳をこえても凄い投手であり続け、今年もサイ・ヤング賞を獲得したロジャー・クレメンスだが、僕はどうもこの人の往生際の悪さが気にかかる。去年も「99%引退」と言ってヤンキースとの契約を解除してアストロズに行ったし、今年もまた「99%引退」と言っている。個人的には、まだ十分やれる力もあるのだし、1%の未練があるのなら、現役を続ければいいと思うのだが。
 なんだか、僕が中学校のころ近所にあった、毎週「店じまいセール」をやっている靴屋と同じような気がするよ。いつも「開店セール」と「閉店セール」をやっている某紳士服店とか。
 「駆け引き」なのかもしれないし、小さな店がやるならネタとして認知するのにやぶさかではないけれど、クレメンスさんともあろう人が…と、ちょっと哀しい。


(2)不倫の裏側

 「好きになったのだから、仕方がない」とか「かまってくれないパートナーが悪い」とかいう言葉に「その通りだ」と全面的に感情移入してしまう人は、「アラファトが死んだから、パーティよ!」と歓声を上げるイスラエル人を「酷い」なんて言えないはずだ。不倫カップルの羅には、「不倫をされている人」が必ずいるはずなのに、一方からの観点だけで判断できるものでもあるまい。


(3)視点

 とはいえ、「いろんな観点からみる」というのをつきつめていくと、結局のところ、「流れに身を任せるしかないのかな」というような気もしてくるなあ。


(4)ソフトバンク・ホークス

 地元民は、「球団が福岡から動かないならいいや」という感じで、みんな冷静。しかしながら、「ソフトバンク・ホークス」となると名前が長くで呼びにくいし、応援歌の「若鷹軍団の歌(正式名称は違います)」の締めの「われら〜の われらの〜 ダイエーホークス〜」がどうなるのかが危惧されていて、「ソフトバーンク ホークス〜」は言いにくいよなあ、なら「ビービ〜 ホークス〜」ならどうか、とかそういう話になっています。それよりなにより、福岡ドームで、あの赤い袋をお姉さんたちが配ったりするのかなあ、なんて想像すると、なんだかねえ。どうみても、もう貰うべき人は貰い尽しているし、見ていていたたまれないんですけど。


(5)楽天的な人々

 「秋には、田尾監督を胴上げできるように!」って某選手が言ってましたが、たぶん発言している本人も、そんなことが可能だとは思っていないに一票。少なくとも今年に関しては、パリーグの他球団は、「いかに楽天相手に取りこぼさないかだな」と考えているのでは。


(6)震災の教訓

 新潟でボランティアのふりをして取材自粛地域で取材をしていた人たちは、関西テレビのスタッフなのだという。この人たちは、阪神淡路の震災をどういう気持ちで報道していたのだろうか。


(7)中東和平

 ブッシュ大統領は「4年で新国家を」と言っているらしいが、他所の国の意向というか気まぐれみたいなもので「国」とかをつくられてしまう状況というのは、それだけで悲劇だ。


(8)青木さやか

 まったく同じような芸風なのに「今、売れている」という先入観があると、傲慢な感じに見えるような気がする。



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ここにはない「スタンダード」 - 2004年11月08日(月)

 5年前と比べたら、「普通の人」が個人サイトで情報発信する時代になってきたのだと思う。とはいえ、あまりにこの世界に浸っていると、巨大な勘違いをしてしまいがちになる。
 そう、世界は極論に満ち溢れているのではないか、という勘違い。

 現代はごく普通の人たちがインターネットを使う時代にはなったんだけれど、個人サイトはどうだろうか?僕が思うに、個人WEBサイトを作ろうと考え、そしてそれを長く続けられる人には、大きく分けて2種類ある。
 ひとつは、書くことが好きな人、そしてもうひとつは、なんらかの不満を抱えながら生きている人。もちろん何の不満もなく生きている人がこの世にいるわけもないから、この場合は、「一定以上の不満」と考えてもらいたい。
 アメリカ大統領選のブッシュ再選に関して、反ブッシュ派は大きな失望の意を表明し、それはWEB上でも大勢を占めているかのように思える。でも、実際に過半数の得票で当選したのがブッシュだというのは、動かせない事実だ。「現実を追認しているだけの人」は、あえてWEB上で発信することはない、のかもしれないが、裏を返せば、「現実に不満がある人のほうが、WEB上で情報発信をしている」とも言える。「今のままでいい」と考えている人は、あまり大声で自説を主張したりはしないものだ。

 それに、僕たちが日頃目にするようなサイトは、「人気サイト」がほとんどだ。一般的に人気があるサイトというのは、笑いを志向するものや専門的な情報が書いてあるもの以外は、誰かが驚くような突飛なことが書いてあったり、極端な内容だったりしがちだ。そうでもないと「目立たない」から。残念ながら、普通のことを普通に書いても、そんなのは誰も読んでくれはしない。もちろん書き手が有名人であれば話は別だけど。

  「WEB上ではこんな意見が主流を占めている」という情報に対しては、ある一定のバイアスがかかっていると考えておいたほうがいいだろう。そもそも、自分からアンケートに答えようと思う時点で、対象群としては、「ごく一般的な人々」とかけ離れてしまっている可能性もあるし。
 そして、WEBというのは、「極端な意見の吹きだまり」でもある。「毒舌」の名のもとに、目立つため、アクセスを集めるためだけの露悪的な「本音」(そんなの全然「本音」じゃないと思うけど)が書かれていて、多くの人があきれて関わろうとしないから批判が少ないのに、一部のシンパの賞賛で「自分の正しさ」を増幅している場合だってある。

 そういうのが必ずしも悪いといっているわけじゃない。それもWEBサイトのひとつの醍醐味だと言えなくもないし、そういうものの中に「本音」が隠れていることも多いのだろうから。
 ただ、ひとつだけ言えることは、そうやってWEB上で大声で叫ばれていることが、「この世界のスタンダード」ではない、ということだ。少なくともアメリカにはブッシュを支持している人は選挙に勝てるくらいたくさんいるのだし、イラクでの一連の人質事件に対しても「自己責任だ!」なんて声を荒げて人質たちを批判する人は、僕の周りにはほとんどいない。それは「建前」だと言われるかもしれないが、僕はそういうぬるま湯の世界に安堵してしまうタイプの人間だし、他人に対して表立って言えないようなことなら、WEB上のほうが「偽悪」だろう。

 今回のアメリカ大統領選挙の結果をみていると「ネットを駆使する、前衛的な人々」の声というのは、実際は同じようなインテリ層にしか届かず、そういう「閉鎖的で難しい言葉を使う、よくわからないけど声の大きい偉そうな奴等」への反感が、世界を色分けしているのではないか、という気持ちにすらなるのだ。
 日本では、小泉首相が「正しさ」よりも「わかりやすさ」で人々に支持されているように。
 わからなければ、支持しようがないものね。

 実際「わかってくれない人」あるいは「わかろうとしてくれない人」というのは少なくないし、それはもう、これだけ多くの「声の届く範囲」を得てしまった現代人の宿命なのかもしれない。
 でも、自分の望む世界に近づけるために多数派工作をするならば、もっとみんなにわかりやすくするべきなのだろうと思う。
 「難しい言葉を使って自分を偉く見せようとする人々」」と「他人を罵倒することによって快哉を叫ぼうとする人々」が、この世界の主流派ではない、そう思いませんか?
 もちろん、WEB上の言葉というのもバカにはできない。1日500アクセスのサイトでさえ、そこらの学校の校長先生よりも、いろいろな人に話を聞いてもらえているというのは厳然たる事実だし。
 とはいえ、校長先生がどんなに生徒たちの前でいい話をしたところで、世界は何も変わらない。それもまたひとつの現実なのだ。
 
 どうせ世界の半分は、「わからずや」でできているんだけどさ。



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「話せばわかる」という理想と「話が通じない」という現実 - 2004年11月04日(木)

 「話せばわかる」と本当に思っている人というのは、現代の日本にどのくらいいるのだろうか?いや、少なくとも僕は高校生くらいまでは「正しいことを正しい方法で説明すれば、きっと誰でもわかってくれるはず」だと信じていた。でも、30過ぎてみると、それは「幻想」なんだろうなあ、と思う。
 そう、「核の仰止力」なんてバカバカしい、と言いつつも、実際その「バカバカしさ」に実効力がないとは言い切れない。香田さんの訃報とネットで流されているという映像の話を聞いて(僕はその映像を見ていないし、見ない。テロリストが見せしめに録った映像を見ること自体が相手の思う壺だろうし、僕が香田さんや遺族だったら、そんな姿を他人に見られたくないだろうと考えるから)、ちらっと、「そんなテロリストたちなんか、核兵器で跡形もなく抹殺してしまえ」と考えた。
 もちろん、そのあとで、「いや、核なんか使ったら地球環境が…」と思いなおし、その後で、「結局、テロリストの命よりも自分が生きるのに必要な地球環境優先だよな…」と自嘲した。

 「話せばわかる」という言葉には、確かに真実が含まれている。
 それは、話をすることによって、「話が通じる相手かどうかがわかる」ということだ。要するに、「話す意味がある相手」と「話すだけ時間のムダになる相手」という2グループに分けるのには有効である、ということ。
 もちろんこの2グループにはグレーゾーンが存在しているし、ひょっとしたら、どんな相手だって、時間をかけてじっくり話し合えば「落としどころ」はあるのかもしれない。でも、「この人は根っからの悪党じゃないんです!」と言われても、「根っこまで掘らないと悪党じゃないことが証明できないのなら、それはもう悪党の範疇だろ?」という気もする。
 
 たぶん、僕が子供のころの日本人は、みんな建前だけでも「話せばわかる」と言っていたような記憶がある。しかし、今となっては、「話すだけムダな相手がいる」ということをほとんどの人が悟っているのではないか。
 そして、自分が傷つけられる前に、なんとかパトリオットミサイルで相手を迎撃しようと構えているのだ。

 もちろん「話せばわかる」相手もいるはずだ。
 でも、現実的には普通の付き合いの範囲というのは、「話さなくてもわかる」というレベルに留まることが多いし、それでもあまり困ったことにはならない。そもそも「話してみる」ことすらないから、「話せばわかる」かどうかすら、よくわからなくなってもきているのだ。

 ひょっとしたら、「話せばわかる」と信じきれる人間が、最後には勝つのかもしれない。坂本竜馬とか、ガンジーみたいな。
 
 それにしても、人間の声の大きさや脳の重さの進化に比べて、僕たちが「話すことができる人」の範囲は、あまりに広がりすぎてしまっている。
 そして、「どうして話が通じないんだ…」と考え込んでも、その答えは誰も教えてはくれない。

 こういう「話の通じない人」とうまくやっていく唯一の手段があるとすれば、「相互不干渉」しかないのかもしれない。
 それをみんなは「退化」だと言うのだけれど。
 


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