「スター・ウォーズ・トリロジー」の悲しみ - 2004年09月26日(日) 「スター・ウォーズ・トリロジーDVDボックス」が発売されていた。 考えてみれば、この3部作が映画館で上映されたのは、それぞれ1977年、80年、83年で、僕は当時小学生だったのだ。 そういえば、この映画が最初にテレビで放映されたときは、オーケストラが出てきてテーマ曲を生演奏したりと、すごい騒ぎだったのを覚えている。 そういえば、せめて音だけでも録っておきたいと、音声出力にケーブルを差して、音だけ録音したりもしたっけなあ。 中学生のころ「スター・ウォーズ」マニアの友人と僕は、この映画をなんとか自分のものにしたくてしょうがなかったのだけれど、ビデオの機械そのものがまだそんなに普及しておらず、「レンタルビデオ」という概念も存在していなかった時代だから、テレビ中継を録画するチャンスをひたすら待っているしかなかったのだ。 ビデオが発売されても、1本1万円以上だったし、当時の僕たちには買えるようなシロモノではなかったし。 それからレンタルビデオ店の普及によって、僕たちは比較的簡単にこの映画を観られるようにはなり、今ではDVDで3作まとめて1万円で買えるようになった。 1万円という金額は、30を過ぎた僕にとっては、中学生時代のように「手の届かない金額」ではないし。 この20年間は、その前の20年間に比べたら、世界はそんなに大きく変わっていないような印象を僕は持っていた。 ものすごく速い移動手段ができたわけでもないし、社会制度が大きく変革されたわけでもない。生活を激変させるような電化製品が登場したわけでもない。 でも、考えてみれば、こうやっていつでも好きな映画を安価に観られるようになったし、贔屓のチームの途中経過を知るためにキライな巨人戦を観る必要もなくなったし、夜にお腹が空いたらコンビニに行けば済むようになった。 夜中に面白いテレビが無くなっても、DVDやゲームで好きなように時間を消費することができる。 僕はこの20年くらい、常に「自分がやりたいけどやっていないこと」を抱えていて、「今日はヒマだなあ」と考えることがない。それは、仕事が忙しいだけではなくて「観るつもりのビデオ」とか「やるつもりのゲーム」などを常に抱えている状態だからだ。 「スター・ウォーズ・トリロジー」が、もし20年前に出ていたら、僕は行列してでも買ったと思う。でも今は、「いつか観るだろうから、とりあえず買っておこうか」という感じでしかない。 こうしていろんなものが簡単に自分の手に入っていくのは、嬉しいような、寂しいような。 それらを片付けていくための時間というのは、20年前の人間とほとんど変わらないわけだし。 ひょっとしたら、実感としての「人生の長さ」って、どんどん短くなっていっているのかもしれない。 ... 「誰かのおかげで生きている」という幸福と不幸 - 2004年09月21日(火) 「中島らも公式ホームページ」に載っていた、中島美代子さん(らもさんの奥さん)のコメントの一部。 全文はコチラに載っています。 【らもは「おれはみんなの笑顔で生きているのだ」と白状したことがあります。 幸せだったんです。 今までどうもありがとうございました。 皆さまもどうぞ、笑顔の絶えない毎日をお過ごし下さいませ。】 〜〜〜〜〜〜〜 この文章を読んで、「ああ、らもさんは「幸せ」だったのだな」と僕は素直には受け取れなくて(美代子夫人には、全然他意はないと思うのですが、それだけになおさら)。 「みんなの笑顔で生きている」というのは、要するに「自分で自分に満足することができなくて、他人からの反応だけが、自分を満たす「エネルギー」だったということだったのではないかなあ、とか考えてものすごく悲しくなってしまいました。 オリンピックでも、「自分のためにがんばります」とか言うのが最近は流行っていて、「国民のために」とか「誰かのために」なんていうのは、なんとなく時代錯誤的な印象を僕は持っていたのだけれど、それは「優等生的な発言」だけではなくて、中には「誰かに満足してもらえないと、自分ひとりの内部だけでは満足できない」とう人が必ずいるのだろうと思えてきました。 いや、「自分で自分を褒めてあげる」というのは、本当に難しいことで、たぶん、自分で求めるものが高くなればなるほど、「他人の反応がないと、満足していいのかどうか、自分でもよくわからない」ようになってしまうのではないかな。 「みんなの笑顔でしか生きられない」というのは、なんて優しく、そして哀しい人生なのだろう。 ... 村上春樹『アフターダーク』の感想(注・激しくネタバレ) - 2004年09月14日(火) ※以下の村上春樹「アフターダーク」の感想は、激しくネタバレしているので、まだ未読で、今後読まれる予定の方は、読まないことをオススメします。 『アフターダーク』を読みながら、「これが村上春樹の話題の新作じゃなかったら僕はこの本を最後まで読むだろうか?」と考えていた。 正直、『アフターダーク』は、単体であまり面白い作品ではないと思うし、村上さんも別に面白さを意識しているわけではないだろう。そもそも、『アフターダーク』には、村上さんの「迷い」みたいなものが垣間見られるような気がするのだ。 演劇の脚本のような視点ではじまるこの作品を読んでいて、デニーズのチキンサラダについての高橋のセリフのところで、僕はようやく一安心した。 「ああ、これはやっぱり村上春樹の書いた作品だな」と。 逆に言えば、そこまでは、「何だこれは?」と考えながら読んでいたから。 基本的に『アフターダーク』は、「何も劇的なことは起こらない物語」だ。もちろん、中国人の娼婦が襲われるのは「事件」じゃないのか?とか言われたら、それはたぶん事件なんだろうけど。 そして、この物語は「何かが起こりそうな予感」だけが延々と続いていって、そのまま終わりを告げる。もちろん(小説世界内での)現実は続くのだろうけど、やや尻切れトンボなイメージすら残して、物語は終わる。 僕が村上さんの作品を初めて読んだのは、高校時代の『ノルウェイの森』だった。当時大ベストセラーになったこの小説を読んで思ったのは、「大学生って、こんなに毎日恋愛とかセックスとかして暮らしているのか?ということだったのだけれど、今でもときどき読み返すと、新しい発見がある小説だ。 少なくとも『ノルウェイの森』をはじめて読んだときの僕には、「だれかがスッと消えていく井戸」の存在なんて、フィクションだと思っていたから。 それから、さかのぼって「風の歌を聴け」から初期作品を読み漁り、「ねじまき鳥クロニクル」までは、リアルタイムで、ほぼ全作品を読んだ。 僕も年を取るにつれ、村上作品への見方というのは変わってきた。 まず最初にハマっていたときは、この作品の主人公は僕なのではないか、なんて感じていたものだった。現実とうまく折り合えないことを自覚しながら、完全に現実から外れてしまうほど特別な人間でもなく、意外とそのボーダーラインの上でバランスがとれてしまっている生きかた。 『ノルウェイの森』で、直子はワタナベ(主人公)に、「あなたは私とキズキ君を現実と結びつけるための唯一の手がかりなのよ」と言っていた(セリフの詳細はうろ覚えなので、正しくないです)、そういう立場になった経験もあったしね。 しかし、社会人になったくらいから、「村上作品の主人公というのは、作品世界の中でしか生きられない存在なのではないか?」という疑問を持つようにもなったのだ。 そもそも、作品内では、「僕」の敵と味方しか登場しないけれど、現実の大部分は、「僕」という存在を石ころのように無視して、まったく歯牙にもかけない(要するに、「敵」とか「味方」とか、そういう意識すらない人々だから。 村上さんは、『風の歌を聴け』で、そういう「現実と折り合えないけれど、適応はしている人間」(あるいは、「適応できないと自分で思いこんでいるだけの普通の人々」)の姿を描いた。ただ「そういうものがあるのだ」と描いてみせれば、みんな「そう、そうなんだよ!」と頷いてみせた。 たぶん、人気作家になったことは、村上さんにとって、喜ばしいことであったのだと同時に、いろんな否定的な言葉も耳に入ってきたのだろうし、それに対する悩みもあったのだろう。僕は村上春樹作品のなかで「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」がいちばん好きなのだが、この作品の最後は、自分はそんな特別な人間ではないかもしれないが、それでいいんだ、という「静かな自己肯定」が伝わってくる。これは自分に言い聞かせていたのだろうか?と僕は思ったし、僕自身も予想していた結末とは違っていたのだけれど、なんだか不思議に救われたような気分になったものだ。 そして、「ノルウェイの森」。これは、喪失と再生と俗世への回帰の物語なのだろうと思う。実話かどうか?なんて村上作品で想像すること自体野暮なのは承知の上で考えるに、「直子のような人」が、たぶん、身の周りにいたのではないだろうか?ああいう、ふたりで東京の街を延々と歩き回るような描写は、「体験していないと書けない」のではないかと思うから。 阪神大震災、オウム事件を機に、村上さんの作品は、より「現世的」になってきた印象がある。ある人が「村上春樹は、震災という大きな人々のうねりを現場で体験していたのに、どうしてオウム事件のことにばかり言及して、震災のことを書かないのか?」と批判していた。 僕は、単に「震災というのは、村上さんにとって書くべきテーマではなかった」からなのだと思うのだが。 とはいえ、村上さんはオウム事件に対して、地下鉄サリン事件の現場にいた人々への取材から『アンダーグラウンド』という大著を書き、加害者側のオウム信者に綿密なインタビューを行って、『約束された場所で』というインタビュー集を残した。 この頃から、村上春樹という人は、「現実と自分とのかかわり」というのを強く意識していたのかもしれない。あるいは、「大作家・村上春樹」は、もう隠者ではいられなくなった、ということなのか。そして、村上さんの側からも、現実に対するアプローチを行うようにもなってきている。 「現実とうまく折り合いをつけて生きる」ことから「生きていくために、変えられる現実なら、変えていきたい」という積極性、のようなものが生まれてきたのかもしれない。 あるいは、ちょっと穿ったみかたをすれば、初期の作品は村上さんが書きたいことを書けば「新しい小説だ」とみんな感心し、「ノルウェイの森」「国境の南、太陽の西」くらいまでは、書きたいものを書いたら時代の空気にちょうどフィットしていたのに、村上さんも年齢を重ねるにつれ、「自分の書きたいもの、書けるもの」と「時代」とのギャップを感じるようになったのではないか、という気もするのだ。『アフターダーク』は、「作為」とか「苦心」みたいなものが、ものすごく伝わってくる作品だから。 『アフターダーク』は、ある種実験的な作品であり、「やおい(ヤマなし、オチなし、意味なし)文学」(一般的に常用されている「やおい」とは違うけどね)なのかもしれない。 僕はマリのようなちょっとひねくれた女の子は好みではあるけれど、街の「アフターダーク」の現在は、この作品で描かれているほど若い女の子に優しくはないだろうな、という気もするし、マリがエリに対して思い出した温かい記憶があまりにベタなので、「もうちょっと何か意外な状況を思いつかなかったのか」と言いたいくらいだったし、白川も覆面の男も高橋もコオロギも、みんな中途半端な感じがした。 とはいえ、村上さんは「都会の夜の恐ろしさ」を描きたかったというわけではないだろうし、むしろ、「都会の夜というジグソーパズルのピースを埋めていく作業をやってみせた」というだけの小説なのかもしれない。そして、中途半端なのは、もちろんそれを狙っていたわけだ。 さまざまなサイトで『アフターダーク』の感想を読んだのだが、続編を望む声がけっこう多かったのに驚いた。この話は、この「中途半端さ」こそが重要で、それは「余韻」のようなものなのだ。「物語には続きがあるけど、明示されない」からこそ、読んだ側には印象に残るに違いない。 『アフターダーク』自体は、僕はあまり面白いとは思えなかった。1400円出せば、もっと「面白い小説」はたくさんあるだろう。 でも、村上作品の流れのなかで考えると、これはきっと、ひとつの「過渡期」なのだろうな、という気がして、確かに興味深い作品ではあるのだ。 おそらくこれは、「自分の周りの世界に対する、新しい向き合いかたの胎動」みたいな位置づけなのではないかと僕は思う。 とはいえ、「苦心している、がんばって書いている村上春樹」が伝わってきてしまうのは、昔からのファンとしては、若干寂しさを禁じえない。水の下で一生懸命泳いでいるのに、水の上では優雅な白鳥のようなスタイルが、村上作品の美学だというイメージがあったから。 これは「進化」の過程だと、信じたいのだけれど。 ところで『アフターダーク』でいちばんビックリしたのは、「村上さん、スガシカオとか聴いているんですか?」っていうことでした。ひょっとしたら、編集者に「今流行りの若者向けの音楽は?」と聞いて、その受け売りなのかもしれませんが。 ... もうちょっとだけ、世間は甘くてもいいのだと思う。 - 2004年09月09日(木) 仕出し弁当の店が、一軒だけやっていた。 火曜日のお昼くらいが台風16号のピークで、外はもう今までに見たことがないくらいの突風と豪雨だったのだけれど、その店の弁当は、20分遅れで僕たちの手元にやってきた。 その弁当は、いつもと変わらない中身だったのだけれど。 僕はその弁当を食べながら、なんだかちょっと申し訳ないような気分になっていた。 台風なんて夕方には僕たちのいる場所からは去ってしまうし、そうすれば食事をする場所はいくらでもある。 それなのに、「お昼にごはんを食べたいけど、外は台風で出られない」という理由で、あんな状況のなかで、弁当屋さんに配達を頼むことは、はたして正しかったのか。 もちろん、そんなのに正しいも何もなくて、向こうだって「こういう機会に、新しい顧客を開拓したい」とか「他所がやってなければたくさん売れる」とか「いつも注文してくれるお客さんたちが台風で昼ごはんが食べられなくて困っているだろうから、なんとか配達する」とか、いろんな理由があるんだろうと思うし。 とはいえ、僕は、あまりに「サービスが当たり前になっている社会」に対して、不安というか、なんだか居心地の悪いものを感じる。 お正月も普通に営業している店や台風のときも「24時間営業」のコンビニ。災害対策に従事する人や医療関係者は、「台風だから」という理由で休んでもいられない(というか、こういうときにこそ必要とされる)けど、仕出し弁当の店やコンビニとかは、勤めている人の危険を顧みずに営業するほどのメリットがあるのかどうか。 僕は、「そんなときくらい、台風を避けて家で防災対策をやったり、もしくは安全な場所で休んでいればいいのに」とか、つい思ってしまう。 たぶん、そういう機会っていうのは、ある種の「ビジネスチャンス」ではあるのだろう。 でも、「今日は危ないからやめときますね」とお店の人が言って、「こういう日は、ムリして営業しなくてもいいんじゃない?台風が行っちゃうまでご飯食べなくても、飢え死にはしないと思うし」って、お客も返してあげられるような世の中だったらいいのなあ、と僕は思う。 こんな世の中にだって、せめてそのくらいの「甘さ」があってもいいんじゃないかな。 ... ファントム・ペイン - 2004年09月06日(月) 以前、中島らもさんのことを書いたときに、こんなリアクションを何名か野方にいただいた。 「中島らもみたいな麻薬orアルコール中毒で、大麻推進派の人をあなたは擁護するんですか?」 それは、僕にとってはなんだかとても答えにくい「問い」だった。 らもさんが書いたものは、むしろ読むことによって麻薬の恐ろしさを実感できるものだと思っているし…なんて答えたのだけど、実際は「でも、らもさんが書くものは面白いし、らもさんの生き方には、僕をひきつけてやまないものがある」というのが率直な気持ちだった。 「作品と作者は別人格」かどうかには、異論があるところだろうし、らもさんが「麻薬(とくに大麻)推進派」であったという点からすれば、「そういう人間を支持するのはおかしい」という意見は、けっして異常なものでもないし、むしろ常識的なものだろう。 渡辺恒雄という人がいる。 彼は巨人の前オーナーで、日本プロ野球界一の実力者であり、おそらく日本野球界最大の悪役だろう。アンチ巨人の僕にとっては、まさに憎悪の対象なのだ。 しかし、僕はこんな話も聞いた。 ナベツネというのは、ああいう暴言ばかり吐いているようだけれど、自分の部下には非常に優しいし、「何があっても最後まで責任を持って面倒をみる男」なのだという。 確かに、世間的に言い尽くされている「負の面」だけしかなければ、あの年まで球界の実力者として君臨できるわけがない。 「自分の手下だけをかわいがる」というのがトップの態度としてどうなのか?というのは、確かに疑問ではあるけれど、少なくとも「味方になってくれれば、これ以上ないくらいに頼れる男」なのだ。 サイトをやっていると、さまざまなリアクションをいただくことがある。 それは、僕にとってありがたいと同時に、ひどく怖いものだ。 メールをいただいても、タイトルから感じられる「空気」によっては、開封することすら避けたり、何行か読んで「ヤバイ」と思ったら、それ以上は読まないようにすることだってある。 「どんな批判だって受ける」と言えるほど、僕は強くはないし、「あなたは私を傷つけた」と言われて「読むほうが悪い」と完全に開き直れるほど悟りきってもいないし。 もちろん、褒められるのは嬉しいけれど、その一方で、なんだか、自分の「虚像」みたいなものがどんどんできあがってしまって、何をやっているのか自分でもわからなくなることがある。 いずれにしても「そんな人間じゃないのになあ」という違和感は、どんどん大きくなっていくばかり。 多くの人は、僕の虚像の、さらに一面だけを見て、褒めたりけなしたりしているのだし、僕自身も、たぶん同じことを周りの人に対して日常的に行っているのだ。 ロシアの学校占拠事件を見て、「なんでテロリストたちは、あんな酷いことをするのか?」と思った。 でも、そういう感性すら、所詮「とりあえず平和で食物に困らない日本に住んでいる人間のもの」という前提条件に強く影響されているものだ。 テロリストだって、好き好んで子供を殺したいと考えているとは限らないし、彼らの置かれている立場は、「黙って殺されるか、自爆テロをやるか」の二者択一なのかもしれない。 少なくとも、「テロリスト遺伝子」なんていうものが、人をテロリストにしているわけじゃないだろう。 しかし、それでも僕はやっぱりテロはあってはならないことだと思うし、許せないと思う。人は、自分の「背景」から逃れることは難しいし、公平であろうとすることが、結論を放棄することになる場合だってあることも僕は理解している。物事に対して、すべての角度から見ようとすれば、今夜の夕食のメニューですら一生かけても決められないかもしれない。なんらかの「立脚点」がないと、生きるというのは本当に不安定で。 僕はたぶん、自分の望む「あるべき自分のイメージ」のようなものをネット上に作り上げて、その虚像が傷つけられることに対して悲しみとか、憤りを感じているのだろう。 その反面、そんな「あるべき自分」が実際の自分とはかけ離れたものであるということに、自分でもイヤになってみたりもするわけだ。 結局、ネット上で誰かが100%一方的に被害者だったり加害者だったりすることなんて、まずありえない。 「誰かに傷つけられた」という言葉もまた、誰かを傷つけていることだってあるのだ。 どうしてそれでも書こうと思うのか、自分でもよくわからない。 ただ、そこに「痛み」を感じる心が残っているのを実感できるのだけは、紛れもない事実で、それは、「生きている実感」みたいなものなのかもしれない、とも思う。 ...
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