マニアックな憂鬱〜雌伏篇...ふじぽん

 

 

好評!憂鬱を棚からひとつかみ<ダービー前日篇> - 2003年05月31日(土)

(1)はなわの「佐賀県」という歌を佐賀県民は意外と喜んで聴いている。

(2)というか、話題になるだけでけっこう嬉しかったり。

(3)松雪泰子のみならず、牧瀬里穂も佐賀出身疑惑アリ。

(4)台風が来て、一番心配なのが東京競馬場の馬場状態という悲しき競馬者。

(5)カツハル、ダービー勝ったらデムーロにラリアートだ!

(6)もし武豊が勝ったら、「マイルカップとオークスはダービーの予行演習」とか言うんじゃないかと、想像するだけで腹が立つ。

(7)うどん屋で「みどりのマキバオー」を読んでいたら(カスケードとの最後の対決)涙が出そうで困った。

(8)現実の競馬では、負けすぎて血も涙も枯れた。

(9)いくら土曜日の午後でも、僕に整形外科の疾患がわかるわけないじゃないか。

(10)テキコン決勝戦で、こんなにピリピリしているのは参加者だけなんじゃないかという危惧と、こんなに盛り上がれる立場でラッキーという気持ちが半々。




...

台風の夜の女性心理。 - 2003年05月30日(金)

 えーっと、テキコン終わったら、うちのサイトはどうなっちゃうんでしょうね。
 いきなり万博跡地みたいになっちゃうのかな、と不安になったりならなかったり。

 ところで、今、台風が接近してきているわけなのですが、僕の記憶の中で、もっとも印象的な台風の夜は、大学1年生で、1人暮らしをはじめたばかりの頃でした。
 僕は、停電の家の中で、どうしようもないなと布団に入って寝ようとしていたのですが、そのとき電話が鳴ったのです。
 こんな台風の中、誰?
 そう思いながら受話器を取ると(当時は今みたいに携帯電話は普及しておらず、固定電話を取ることには、不安や面倒くささよりも、期待が上回っていた時代ですから)、同級生の女の子の声。
 「どうしたの?」
 「う〜ん、台風で真っ暗になって、なんだか怖くって…今、話しても大丈夫?」
 
 そうやって、とりとめの無い話をしているうちに、夜は更けていったのでした。
 
 僕はそのとき、「女の子というのは、台風や暗闇が本当に怖いのだな」ということを知りました。
 弱虫だなあ、などと呟きつつ、内心、うちに電話をかけてくれたことを喜んでいたりして。
 
 結局、その女の子とは、それ以後も何もありませんでしたが(というか、ずっと仲の良いトモダチだった)、今でもたまに、あのときのことを思い出します。

 雷が鳴ったときに、枕に抱きついたようなものなのかもしれないけれど。



...

インターネットとリアルワールドのあいだに。 - 2003年05月29日(木)

 結局、自分はネットに何を求めているんだろう、なんて考えたりする。
 当直中にでもできる単なる娯楽、なのだろうか?
 よく、「日常世界では知り合えないような人と友人になれる」というようなことを書いている人がいるのだが、僕自身は、オフ会に出たことはないし、今後もたぶん出ないだろうと思う。
 「テキストコンテスト」の最後の晩餐は、行きがかり上、出られるものなら出たかったのだけれど。

 率直なところ、サイトで「この人とならトモダチになれる」と思う人の数は、そんなに多いわけではない。
 たまには、書き込みなんかで「この人は、きっと実社会でも自分の話ばっかりする人なんだろうなあ」などと思うこともある。
 サイトを持つこと、いや、掲示板に書き込みをすること自体がひとつの自己表現であり、自己顕示欲の発露ではあるのだが。
 たぶん、大部分のネット上の人々は、現実社会では、サイト上での人格ほど饒舌でもなく、反社会的でもなく、正義感が強くもないと思う。
 僕だってそうだ。

 なんだか、僕はときどき怖くなるんだ。
 近未来の人間には、「マトリックス」に支配された人たちのように、「現実」が必要なくなるんじゃないかって。
 産まれてからすぐネットの使い方を覚え、ネット世界での出世を目指すのだ。
 「そこにはリアルがない」とか言う人がいても、考えてもらいたい。
 狩りも農耕もせずに、野球をやったり、書類を作ったりするだけで生きていける現代社会は、古代人からみたらバーチャルな世界じゃないか?

 人間は年齢じゃないとは思うけれど、やっぱり30過ぎて「非モテ」とかいうのに付き合ってるのはちょっと辛い。僕は別にモテる男じゃないが、もう、そんなことはかなりどうでも良くなっているんだ。若者の「非モテ」とかいうのは、たぶん、「その時期」が来ていないだけのことが多いしさ。
 おやつの時間の直前に、「はらへった〜」と騒いでいる子供みたいなもんさ。
 いずれ与えられることをなんとなく信じつつ、空腹の海を漂う。
 大人は、今食べられないと、もうこの空腹から逃れられないということを知っている。「はらへった〜」なんてアピールする余裕なんてない。
 
 僕は「僕のことを構って!」と世界のこちら側で発信し、君は「私のことを構って!」と世界の向こう側で発信している。相手の話など、お互いに訊いちゃいない。
 でも、二人はつながってると思い込んでる。

 きっと、そんな思い込みをエネルギーにして、今日もメールは飛び交い、地球は回っている。


...

日本で一番分厚い文庫本? - 2003年05月28日(水)

 今日、ちょっとしたトラブルがあって、鍵の110番の人にお世話になったのだけれど、その人の車の助手席のシートの上に、やたらと分厚い文庫本が置いてあった。
 僕がどうしてその本に興味を持ったかというと、僕の今までの記憶の中で、いちばん分厚い文庫本は司馬遼太郎の「歳月」か、「東海林さだおの弁当箱」というエッセイ集だったのだが、このシート上の文庫本は、それに匹敵する厚さ。
 シャレにならない状況ながら、僕は、その文庫本が何なのか、それが気になって仕方がなかった。
 で、それとなく確認してみたら、京極夏彦さんの「鉄鼠の檻・文庫版」という本だったのです。
 いやあ、あれは分厚かったなあ、びっくり。1000ページくらいあるんじゃないかなあ。
 日本でいちばん分厚い文庫本って、何ページくらいあるんだろう。
 まあ、あれだと持ち歩くというよりは、単行本より安いというのがメリットになるんだろうけど、どうして分冊しなかったのだろう?

 僕も、大学の前半くらいまでは、本もゲームも長く楽しめるほうが好きだったんだけど、最近は、早く終わって密度が高く楽しめるものが好きになってしまったよなあ、などと思いつつ。
 



...

「自分は口が悪いから」と言い訳をして悪口を言う人。 - 2003年05月27日(火)

 僕が現在住んでいる街は、九州の中でも気が荒い人が多いことで知られている。
 交差点で車がちょっと逡巡したりしていると、後ろの車からは怒涛のようにクラクションが鳴らされるし、ひどいときには、「なんたらかんたらー!!」というような罵声すら飛び交うのだ。
 こういう光景を眼にするたび、僕は、「○○の人間は、気が荒いけどアッサリしていてつきあいやすい」みたいな論調を思い出して厭になる。
 要するに、話せばわかるいいやつだから、道で怒鳴ったりしてもいいのか?と思うのだ。
 高倉健さんの「不器用ですから…」というのは、たぶん僕の世代以上のひとにとっては耳慣れた言葉だと思うのだけれど、僕はああいう言い方って、好きじゃない。
 (もちろん、高倉健さんのことが個人的に嫌いなわけじゃないけど)
 物事をやる前に、「私ってバカだからさ〜」とか言うのと一緒で、先に言い訳をしているように思えるのだ。失敗してもいいように、あらかじめ言い訳しておくくらいなら、失敗しないようにすればいいのに。
 
 まあ、要するに僕は「九州人は気が荒いけど不器用で根はいいやつ」みたいな幻想を盾に、僕のような善良で小心な通行人に不快な思いをさせる人間が大嫌いなだけ。
 「態度もきちんとしていて、心優しい人間」のほうがはるかに立派なはずだからさ。
 同じように「オレは口が悪い」と言いながら、言いがかりのような悪口ばっかり言ってる人も嫌いです。
 自分でわかっているなら、あらかじめ言い訳する前に直す努力をしろよ…


...

「野球」を一層つまらなくするプレーオフに、何の意味があるのか? - 2003年05月26日(月)

 プロ野球のパ・リーグが、来年からプレーオフ制度を導入し、ペナントレースで3位と2位のチームがまず闘い、その勝者が1位のチームと闘ってリーグ優勝を決めるという。
 コレを導入したのは、「パ・リーグを盛り上げるため」なのだそうだが。
 
 確かに、この制度はアメリカでは一般的で、メジャーリーグやバスケットボールのNBAは、この制度で盛り上がっている、ように思う。
 しかし、昨年のメジャーのワールドシリーズのように、ワイルドカード(各リーグの2位のチームの中で、最も成績が良かったためにプレーオフに進めたチーム)同士の対決になったりすると、僕の感覚では、何のためにシリーズを闘ってきたのか?という気がものすごくすると思うのだが。
 もちろん、一発逆転の魅力はあるのかもしれないが、どうも、日本人の「苦労を重ねて優勝」というのを愛する一般的な感覚からすると、「ペナントレース2位だから優勝!」なんてのは受け入れがたいと思う。
 
 プレーオフの盛り上がりのために、ペナントレースを犠牲にするなんてバカげているし、メジャーに比べてチーム数が少なく、6チーム中3チームがプレーオフに進出できるなんてヘンだと思う。
 むしろ、戦力の格差をなるべく小さくして、実力が均衡するようにしたほうが、プレーオフでの理不尽な一発逆転劇より、遥かに野球が面白くなると思うんだけどなあ。
 今のままでは、パリーグでプレーオフに出る3チームは、ペナントレースで決めるまでもないんじゃないか?

 だいたいみんな、「メジャーリーグは面白い」とかいうけど、ほんとにそんなに面白いの?
 ヤンキースなんて、凄い選手ばっかりで、かって当たり前のチームだし、あんなに戦力差があっては、どうしようもないんじゃないかなあ。

 僕はけっこう、勝つために権謀術数を駆使する日本野球が好きです。

 ま、犬軍団とか猫軍団のおかげで、最近は全然面白くもなんともないけどね。
 「打倒巨人!」とか言ってる猫軍団の監督がやってることは、単なるプチ巨人だよ。
 
 


...

アドマイヤバカに乗られた女。 - 2003年05月25日(日)

 オークス、ダメだこりゃ。

 いや、スティルインラブは、最初から買わないつもりだったのだ。
桜花賞のレースぶりからは、マイルがベストだし、人気を考えたら、切るほうが得策だと判断したのだ。
来たものは仕方が無い。僕が思っていたより、スティルインラブははるかに距離に融通が利く(たぶん、アドマイヤグルーヴを意識して後方で矯められたのも幸いしたんだろうけれど)、強い馬だったということだ。
 しかし、2着がチューニーだったり、以下シンコウルビー、ヤマカツリリー、などという結果を見ると、予想なんてのは全くどうしようもないもんだなあ、とは思う。チューニーは、輸送がダメなんだなあ、ということは終わってみて理解できたわけだが。

 さて、アドマイヤグルーヴについて語らないわけにはいかないだろうな。
 僕は去年のシャイニンルビーで、「桜花賞で最後切れる足を使えたからといって、距離が伸びることが必ずしもプラスになるとは限らない」ということを学んだ、はずだった。
 ゲートがひょっとしたら悪いんじゃないか、という噂もあったし、裂蹄もあると噂されていた(らしい)。それをレースが終わったあと大坪元雄が偉そうに語っていたのは、ヤツがこの場にいたら少し早めに人生の幕切れを味合わせてやろうと思うくらい腹立ったけど。
 しかも、武豊は、マイルカップに引き続きの絶対に届かない位置からの直線一気の戦法。単勝1.7倍の馬でだ。
 ゴールデンキャストは、終わってみれば一か八かという馬だったから仕方ないのかな、と思ったけれど、今日のレースはもう、何の言い訳もできまい。
 「馬が行ってくれなかった」にしても、見せ場くらい作ってみせろよ。
 東京競馬場がいくら直線が長いからって、スローペースで直線一気が決まるなんて妄想に決まってるじゃないか。
 グルーヴはお母さんほど強くないし、血統構成的には、ダイナカール+サンデーだと、モノポライザーのように、マイルから中距離馬になってしまうのかもしれない。
 
 結局、オグリキャップやトウカイテイオーの奇跡が記録に残るのは、実は、競馬の日常というのが、そういう奇跡を踏みにじり続けているからだ、という現実を忘れてしまうことがなんと多いことか。

 武さん、早くまたフランスに行ってください。
 あなたに、アドマイヤバカの称号を贈ります。

 それにしても、桜花賞で世話になったスティルインラブにやられるとは…
 愛っていうのは、意外とシブトイものなのかもしれない。
 秋は素直に応援します。
 とか言ってると、愛は終わってたりするわけで。






...

「都会人は情が薄い」とか言うけれど。 - 2003年05月24日(土)

 久々に博多の町を歩いた。
といっても、ほんの2時間くらいだったんだが。
しかし、前夜の酒が少し残っていたせいか、激烈に疲れてしまった。
都会人は情が薄い、なんて言われるけれど、駅にはオジサンが転がっているし、なんかわけのわからないポケットティッシュや試供品が配られ、募金を求める人々の声がする。
 いちいち相手をしていては、めんどうなことこの上ない。
 でも、いちいち拒絶していくのは、慣れていない人間にとっては軽い罪悪感が積み重なるものなのだ。
 というわけで、メインストリートをちょっと歩いただけで疲れたし、店に入っても、店の中で試供品とかを配っているのだ。
 相変わらずヤフーBB無料お試しセットの人はいるし。
 さすがにあれだけやってれば、欲しい人にはもう、行き渡ったと思うんだけど。
 「都会人は冷たい」とか「情が薄い」のではなくて、都会で生きていくには、そういった他人とのちょっとした接点を意識しないように適応していかなければいけないんだろうなあ、と思う。
 本当に、「僕のことは放っといてくれ!」とつくづく思うよ、人間嫌いの田舎者としては。



...

本当の「カルピス」の味。 - 2003年05月21日(水)

 昨日、某ファミレスのドリンクバーで、久々にカルピスを飲んだ。
 カルピス「ウォーター」じゃない、ただのカルピス。
 飲んだ感想は、ああ、カルピスはこんなに甘くて、酸っぱかったよなあ、
というものだった。
 僕が子供のころ(って、もう20年以上前とかになるのか…)、カルピスは、
お中元の品などとして冷蔵庫に(運がよければ)鎮座し、何かのイベントの際に振舞われたものだった。
 そして、当時は今みたいに缶ジュースが世間に満ち溢れていない時代だったから、
カルピスは非常に貴重なものだったのだ。
 僕たちの前に出てくるカルピスは、常に薄くて甘味はほとんどなく、酸味ばかりが残っているような代物だったけれど、それでも僕たちにとってのカルピスは御馳走だったのだ。
 カルピスという会社自体は、カルピスウォーターによって蘇ったのだけれど、あれは、サッパリしすぎていて、たぶん僕が昔飲んでいたカルピスじゃなかったのだ。
 そのうち、「カルピス・クラシック」が出るんじゃないかなあ、と思った夜だった。
 想い出は、いつも甘くて酸っぱい。
 


...

簡単そうに見えますが、とても大事な仕事です。 - 2003年05月20日(火)

学会なんてものがあるせいで、僕らの仕事は終わらない。
まあ、今回は「お迎えする側」なので、それはそれで別の苦労があるわけなのだが。といっても、下っ端はたいしたことないんだけど。

それで、今日、そのマニュアルを読んでいたら、
「照明係」というところが目に付いた。
そこには「簡単そうに見えますが、とても大事な仕事です。
集中力を切らさないように、演者の話をよく聴いていてください」と書いてあった。
学会発表の会場というのは、スライド上映(今はPCもかなり多いのだけれど)が始まり、演者が話し始めると照明が落ち、演者の発表が終わると照明が点いて質疑応答、という流れの繰り返しなのだ。
しかしながら、僕らも他の大学の先生の講演でスライド係をやったりするのだが、居眠りしてしまったりすることもけっこうあるのだ。
業者の人は、この仕事に慣れているとはいえ門外漢。
たぶん、医者の学会発表をずっと聞いているのは、かなり辛いのではないだろうか。
そんな中、スムースに照明を点けたり消したりするのは、非常に大変な作業なんだよなあ。
異常がなくて当たり前の簡単そうに見える仕事。

簡単そうに見えることが実は重要で難しいということは、けっこう身近にあるような気がする。
少なくとも「部屋が暗くなると眠くなる症候群」の僕には無理だ。
それとも、中途半端に聴こうとするから眠くなるのかなあ…


...

困ったときの小さな憂鬱特集(2) - 2003年05月19日(月)

・僕は「愛こそすべて」なんて人とはトモダチにはなれない。
 それは、裏切る奴の常套句だからだ。

・阪神が強くなったというより、周りが弱くなっただけだと思う。

・t.A.T.uのいろんな話を耳にするたびに、ロシアってそんな国だったのかな?という気になる。いつまでもコルホーズじゃないだろうが。

・他人の「死にたい」というテキストを嘲笑ってずっと読んで時間を過ごしていたら、結局一緒に死のうとしているのと同じことではないのか。

・もうみんな、イラクのことはどうでもいいようだ。

・パナウェーブは、たぶん最初からどうでもよかった。

・ほとんど仕事できてないのに、もう15時だ。
 しかも、これから診断と講義がある。明日はプレゼンだ。

・ここのタイトルは「マニアックな憂鬱」なのだが、ほんとうに鬱なときには、これを書くのがいちばん辛い。


...

それはもう、すでに鬱とは言えない。 - 2003年05月16日(金)

 「発掘!あるある大辞テン」によると、日本人の87%は、軽い鬱状態だということだ。
 このCMを観て僕は思ったのだが、それって、その「軽い鬱」とやらが「正常」なんじゃないかい?
 むしろ、「日本人の13%が躁状態(もしくは重い鬱)である」というほうが、事実により近いのではないだろうか。
 とはいえ、僕は毎年この時期には5月病に襲われ、鬱文章を書き散らかしてしまっている。胃薬が手放せない。
 
 今日の「ブラックジャックによろしく」で、「みんな比較的(この表現が、テレビ的良心ってやつだな、きっと)ラクな眼科や耳鼻科に研修にいきたがるのよね〜」と皆川さん(国仲涼子)が言っていたが、現場の人の話を聞くと、眼科や耳鼻科の研修だってかなりキツイ。手術がけっこうあるし、大学なら夜間の急患だって来る。
 眼科などは、早くひとりで診療できるように最初にかなり鍛えられるらしい。
 大学病院でもなければ、複数の眼科医を抱える病院なんて、そんなに無いから、早くひとりで診療できるようにしないと外に出せないのだ。
 
 要するに、眼科や耳鼻科がラクなんじゃなくて、あのNICUが超激烈にキツイ職場だということなんだ。


...

「男女間に友情は成立する!」とは、思えない… - 2003年05月14日(水)

 ラジオを聴いてたら、こんなメールをDJが読んでいた。
 「今まで30年間、仲間どうしで恋愛関係に発展したこともなく、ずっと友達として続いてきた8人の仲間たち。私は自信を持って言い切れます。
 『男女間にも友情は成立する!』って」

 ああ、いい話ですねえ。とDJは、やや苦笑しながらこの話を読んでいたのだが。

 僕は、これを聴いていたのだが、たぶん、この幸せな投稿者を除く仲間たちは、お互いに恋愛感情を抱いていた時期があったのではないだろうか?
 「男と女に『友情』が成立するかどうか?」
というのは、とても難しい問いではあるけれど、僕は、男女間に純粋な友情なんて存在しえないのではないかと思う。もちろん、肉体関係なしの「愛情」は存在しえるのだが。

 友情というのは、愛情と全く違うものだと考えている人がいるみたいだが、友情と恋愛は、両方とも「情」という字がつくことでもわかるように、そんなに明確に区分できるものじゃない。
 「この人と一緒にいたい」とか「この人のためなら、時間や手間を使ってもいい」という情動という点では、友情と恋愛は、基本的には同じものだ。
 肉体関係のあるなしというのは、まあ性的趣味というのがあるから、同性ではダメという人もいるだろうしね。

 「愛情」がなければ、友人としてつきあっていけないんじゃないかなあ。
 それは、異性、同性関係なく。
 僕は友人の女性には、やっぱり「いいなあ」と男として思う部分が必ずある。もちろんそれはセックスアピールだけじゃなくて、気配りの細やかさであるとか、ものの見方に触発されることもあるわけで。
 極論すれば「いざとなれば、寝てもいい」と思うような異性じゃないと、僕は友達にはなれないと思う。もちろん、お互いの背負っているものや今後の関係などの要因を考えると、そこまで踏み込めないというのが現実なのだが。
 恋人と非恋人は、基本的に白黒つけないといけないが、友達は何人いてもいいし。言葉は悪いけれど、恋人にはできないが、そばにいてもらえると嬉しいくらいの人、ということなのだろう。
 
 要するに、「肉体関係に至らない、もしくは、そういう形態をとらない男女間の愛情がある」という解釈。
 
 「仲間内でつきあわなかったからずっと友達でいられた」
という結果論と「友達だから、ずっと恋愛関係に発展しなかった」というプロセスの解釈は、実は別のものだ。
 たぶん、結果的にカップルが成立しなかっただけで、恋愛感情を持っていた人はいたんだろうなあ、と思う。
 それとも、薄いつきあいだから、なんとなく続いてきたかのどっちかなんじゃないかなあ。

 「愛情のない友情は、成立しない」
 だが、誤解しないでほしい「肉体関係のない愛情は、存在する」のだ。
 
 ある意味、そういう観念的な愛情ほど厄介なものはないのだが。



...

新規開店の店には寄り付きたくない理由。 - 2003年05月13日(火)

 今朝「めざましテレビ」を観ていたら、韓国では新しい店の開店のときに、女の子2人組みのダンサーが店の前で踊るのが流行っているらしい。それを観ながら、「その店には、僕なら絶対入らないな」と確信した。
 日本で言えば、ガソリンスタンドの新規開店時に、ずっとバイトの若者が入り口で旗を振っているような感じだろうか。あれは、見ていて「きついだろうなあ」と痛々しいし、やっている本人も「かったるいなあ」というような顔をしていることが多い。
 それに、ヘタにそういうスタンドに入ると、かえってジャマになりそうな景品をくれたり、会員カードを作ることをしつこく勧められたりするから面倒なのだ。
 そういえば、昔、新規開店のパスタ屋に入ったのだけれど、食べ終わった後、店の主人と奥さんが出てきて「いかがでしたか?」と真剣な顔で聞いてくるので困ったことがある。
 要するに、「どうってことの無い味」だったからだ。
 「おいしかったですよ」と言いながら、もう来ないだろうな、と思うのは後ろめたい。
 
 「貧乏脱出作戦」では、「客とのコミュニケーション」をしきりに勧めているのだが、僕は、客に何かを強要する店は好きじゃないのだ。
 だから、吉野家とかで店員に話しかけまくっている酔っ払いを見ると、なんだかとても居心地が悪くなるのだ。


...

内田恭子アナの「キモッ!」に勝手に失望した男。 - 2003年05月12日(月)

 週末の夜寝付けなくて、ネットをやりながらテレビを点けていたら「ジャンクSPORTS」のゴルフ大会を放送していた。
 それを観ながらキーボードを叩いていたのだけれど、一箇所ものすごく気になったところがある。
 そのホールは、子供言葉(女言葉だったかな?)で喋らないと一回千円の罰金だったんだけど、「〜でちゅ〜」とか喋っているスポーツ選手たちに、内田恭子アナが「キモッ!」
と一言発したのだ。
 今調べてみたら、内田アナは26歳(もうすぐ27みたい)。
 僕と5つくらい違うということになる。
 この「キモイ」という言葉、一体いつごろから使われ始めたのだろうか?
 少なくとも僕が24歳で大学を卒業したとき(6年くらい前)には、この言葉を使う後輩はいなかったような気がする。当時から首都圏では常用されていた言葉なのだろうか?
 それとも、その後急速に使われ始めた言葉なのかなあ。
 前の病院で働いていた看護師さんは、20代前半では、みんな使っていたような気がするのだけれど。彼女たちは高校くらいから使っているような感じだった。
「キモイ」なんて言葉、20歳過ぎてから新たに使うようになるのだろうか、限りなく謎だ。
 翌日「さんまのまんま」に出ていた上戸彩が使っていたのは、なんとなく納得できたのだけれど。
 まあ、正直言って、アナウンサーが仕事中に使う言葉じゃないだろ!と少し内田恭子にツッコミたかっただけなんだけどさ。
 もともと僕は、「ドラクエ」じゃなくて「ドラゴンクエスト」だろ!と中学時代は心の中で毎回抵抗していたくらいの略語嫌いなので、単なる言いがかりなのかもしれませんが。



...

一年に一度くらい「母の日」に参加してみるのも悪くない。 - 2003年05月11日(日)

 今日は「母の日」であるわけだが、申し訳ないことに、それに気が付いたのはつい先日、デパートの「母の日コーナー」を見かけたときだった。
 
 僕にとって、「母の日」が単なる日曜日になってから、もう何年になるだろうか。
 外国では「胸に白いカーネーションの花を挿す」なんて言われていたけれど、自分の親がこの世にいないことを対外的にアピールすることに僕は意味を感じられないから、そんなことをするつもりはない。

 僕は、いわゆる反抗期を除いては、毎年カーネーションを母親に贈っていたのだが(他のものを選ぶのがめんどくさい、という理由が大部分)、母親は飽きもせずに嬉しそうにそれを受け取り、実家に帰るとそれからしばらくは、そのカーネーションが丁寧に手入れされて飾られていた。
 寮生活やら遠くの大学やらで、中学卒業以来あまり家に寄り付かなかった子供としては、せめてもの親孝行、だったような気がする。

 たまには「母の日」なんて俗なイベントに参加してみるのも悪くないよ。
 「男が花屋なんて…」と思うかもしれないが、だいじょうぶ。
 花屋には今日は、大勢客が来るのだし、店員は忙しいから、いちいち「カーネーションを買う男」の顔なんて見ていない。
 世間の人々は、ハードマザコンレベルじゃなければ、身内を大事にする人間を評価しこそすれ、不快感を覚えることはない。
 そして何より、世間の母親の大部分は、この日をけっこう楽しみにしている。
 でも、僕の友人は、母の日のプレゼントを持っていったら「無駄遣いないで、返してきて!」と怒られたそうだ。まあ、何事にも例外はある。

 
 
 


...

デーブ大久保、頼むから解説者はやめてくれ。 - 2003年05月09日(金)

 今日、車で帰りながらラジオの野球中継を聴いていたのだが。
 解説はあの「デーブ大久保」だった。
 場面は5対4、巨人1点のリードで9回2死一二塁。
 マウンドには巨人の抑え河原で、バッターボックスには中日の新鋭蔵本。

 第一球。河原は変化球で簡単にワンストライク。
 それを見てデーブ大久保はのたまった。
 「この場面で代打で出てきて、初球のあんなストライクを見逃すような
消極的な気持ちでは打てませんよ」
 さらに、カウントは進んで、2ストライク。
 デーブいわく、
 「まあ、このバッターなら100%フォークで三振、ゲームセットですね。格が違うよ」

 その次の瞬間、蔵本は見事にレフト前に同点タイムリー!
 デーブ、掌を返して
「いや〜これは参った。僕の予想以上に蔵本はいいバッターでした!」

 このひとの解説には、いつも笑わしてもらっている。
 以前プロ野球ニュースで
「野球にキャッチャーのリードなんて関係ないんですよ。
 せいぜい、1試合に1点違うかどうかなんですから」
と堂々と言っていたのには、大爆笑したし。
 チーム防御率が1試合に1点違えば、優勝するはずのチームがBクラスに転落してもおかしくない。
 野村監督が聞いたら、悶絶する発言。
 デーブ、キャッチャーだったんだろう?

 ちなみに、あのいかにも頭が悪くて、強きをあがめ、弱いもの苛めをしそうなデーブ大久保のことは、僕は吐き気がするほど嫌いだ。
 でも、巨人にいたというだけで、あんなたいしたことない成績で、
今も解説者をやっている。

 タレント稼業は仕方ない(僕は観たくないが)。
 でも、頼むから解説者には解説ができる人を呼んでくれ。

 


...

ネットビジネスHPの悲しき「幸福の雛型」。 - 2003年05月08日(木)

 サイトをやっていて、自分のアドレスを公表している人間にとって、
腹が立つのはやっぱりスパムメールとか、掲示板へのネットビジネスの書き込みではないだろうか。
 「面白いホームページですね。私のところにもぜひ遊びに来てください」
 リンク先→ネットビジネスの紹介ページ
 というのは、チャーリー浜が出てきて「ごめんくさい」をやるのと同じくらい確実な事象なのだ。

 僕個人へのメールならゴミ箱に投げ捨てればいいのだが、サイトへの書き込みは、もし万が一、うちのサイトのゲストが引っかかったら…とか思うと放置してもおけないので、イライラしながらネットビジネス書き込みを消去することになる。

 あの手のネットビジネス宣伝サイトの作りはほとんど同じ。
 「違法ではない」と強調しながら「仕事の内容は、資料請求しないと一切わからない」ようになっており、宣伝サイト上には「喜びの声」だけが掲載されている。

 しかし、ああいうのって雛型があるのかもしれないが、そういうページに掲示板の書き込みを消去する前の確認のために行ってしまったときに思うのは、どれも同じような「幸福な生活」を提言していることだ。
 一日にちょっとだけパソコンでネットビジネスをやるだけで、あっという間に借金が返せ、海外の別荘でビーチに寝そべって暮らせるような人生。
 
 …あの、絶対にありえないことですが、本当にそんな生活をしたとして、それって幸せなんですか?
 僕は、そんなくだらない「幸福」なんて、まっぴらごめんです。
 ビーチでのんびりしてるのが楽しいのは、日頃の激務を忘れられるからであって、別に一年中そんなことをやっていたって楽しいとは思えん。

 でも、それが一般的な「幸せな生活」のイメージなのかなあ。
 少なくとも、他人を騙そうと思うなら、もうちょっと頭を使ったほうがいいんじゃないかなあ。

 ああ、すでに騙されている人たちが大部分なのか。

 



...

棚からひとつかみ<憂鬱篇> - 2003年05月07日(水)

困ったときの、棚からひとつかみ。
僕が日ごろ溜め込んでいる憂鬱ボックスの中から、アットランダムに御紹介します。

(1)「ご利用は計画的に」できるようなやつは、最初からアコムには行かない。

(2)今日テレビに出ていた北朝鮮から脱出してきた人は、「俺には仕事もないんだ!」と絶叫していたけれど、たぶん仕事がないのは北から脱出してきたからではなくて、性格的な問題なんだと思う。
 おまけに、破れたジーンズを責めていた彼の髪は、綺麗に染められていた。

(3)「ダイヤモンドガール」のあまりにご都合主義的な毎回のストーリーは、脚本家も歯が浮いていると思う。あんなので改心するヤツはいない。

(4)森山直太郎の「さくら」は、売れるまではすごくいい曲だと思っていたけれど、売れてみるとどうしてここまで売れたのか謎。

(5)どんなに内容を頑張ってみても、更新報告に「モーニング娘。」というキーワードをを挿入することにはかなわない昨今。

(6)「野球選手は野球だけして暮らせていいなあ、と思っていたけれど、ベンチの清原を見ていると、野球をしなくても暮らせるのだなあ、と感慨深い。



...

保田圭は、モーニング娘。の2番打者だった。 - 2003年05月06日(火)

 今日の職場での話題。
「モーニング娘。の(保田)圭ちゃん卒業しちゃったけど、これからどうやって生活していくんだろう…」
 この発言を否定するものはいなかった。
 どうも、保田圭の「卒業」については、本人は「新しい可能性を探しています」と言っていたそうだが、「リストラ」というイメージがつきまとっている。
 「保田ひとりじゃ、芸能界でやっていけるわけないじゃん」
というのが、大部分の人のコンセンサスだと思われる。

 でもなあ、僕はけっこう、この半年くらいの保田圭は好きだった。
 「逆人気ナンバーワン」と言われていた彼女だが、おそらく自分自身でもそれを自覚して、苛められ役、笑われ役に徹していたような印象がある。
 いかにも「ナンバーワン争いをして戦う乙女たちの中和剤」のような印象で。
 野球チームでのバント上手な2番バッターのような存在だった保田圭。
 彼女の存在は、意外とモーニング娘。の中では大きかったと思うんだけどなあ。

 しかしながら、そういう「小技」っていうのは、大組織の中でこそ生きてくるわけで、「つなぎ役」を失ったモーニング娘。にとっては痛いと思うのだけれど、結局、ソロになった彼女には「やっぱりダメじゃん」と周りに言われるような末路が待っている可能性が高いのですが。
 
 


...

「敏腕記者」≠「人格者」 - 2003年05月05日(月)

 毎日新聞の記者が、空港に爆発物を持ち込んだという事件について、毎日新聞の上層部は、「新聞記者という職責にありながら」という謝罪をしているようだ。
 この記者は、今まで報道関係の賞を受賞している「敏腕記者」だったそうなのだが…
 
 この報道をきいて、「記者でありながら…」というのに、僕はちょっと違和感を感じざるを得ないのだ。
 
 大学時代に、弓道をやっていた。いわゆる「精神面を鍛えられる武道」ではあるのだが、僕が自覚したのは、いかに自分の精神が揺れやすいか、ということだけだった。
 練習では適当でも本番では当てまくるヤツもいるし、もちろんその逆もいる。そして、成績を残せる人は、少なくとも「いいヤツ」よりも、我が強いやつとか、プレッシャーに強いヤツ。
 やっぱり、向き不向きはあるし、別に精神が鍛えられるわけじゃないのだ、あれは。大事なのは、人柄の善し悪しよりも、精神の揺れの少なさ。

 ところで、記者という職業、とくに戦場で活躍するようなスクープ記者に必要な要素とは何か、それは、常識よりも好奇心であり、傲慢なまでの自尊心、功名心だと思う。
 弾に当たった子供をみつけて、助ける前にカメラを向けるような人間こそ、スクープ記者として適正があるのだろうから。
 だから、有能な記者であるからといって、別に人格者であるわけはないし(むしろ、違うのが普通だと思う)、記者という職業でありながら…とかいうのが、果たして妥当なのかどうか。

 記者として優秀であることと人格とは、少なくともスクープ記者と呼ばれる種類の職種では、まったく関わりがない。
 だからといって、彼のやったことは無責任極まりないという事実には何も変わりはないし、亡くなった係官は彼が殺したとしか考えられないのだが。

 


...

「南くんの恋人」のことを想い出した。 - 2003年05月04日(日)

 昨日、高橋由美子を観てきたのだけれど、
その舞台のパンフレットの中で、松たか子が高橋由美子の紹介のところに
「本人に会った翌日に、『南くんの恋人』の再放送を観て、不思議な感じだった」
というコメントを寄せていた。
 
 それを読んで思い出したのだけれど、僕も観てました「南くんの恋人」。
 高橋由美子が小さくなってしまう女の子ちよみ(だったよね?)を演じていて、南くん役が武田真治。
 最初は、「こんなガキっぽいドラマ、観てらんねえよ」と突っ張っていたんですが、なぜかものすごくハマッてしまい、家族に隠れて観ていたんだけど、最終回は号泣した記憶がよみがえってきました。
 たぶん、テレビで泣いたのはこれと「ハクション大魔王」の最終回、あと「ナウシカ」のビデオくらい。

 結局、ちよみは元の姿に戻ることもかなわず、命が尽きて死んでしまう。
 ある意味、救いようのない話なんだけど、これ以上の純愛物語は、たぶんないのではないかと。
 小さくなってしまって、誰かの庇護がないと生きられない人間との愛。
 オトナの色恋には、やっぱり肉欲とか金銭欲とか惰性とか、そんなものが絡んでくるのですが、「小さな恋人」とは、体で交わることはできない。
 本当に残酷だけれど、美しい愛の物語。
 そうか、僕はあのときの高橋由美子が好きだったんだな。
 いつの間にか、忘れてしまっていた。

 「南くんの恋人」の原作は、かの内田春菊さんです。
 最初にそれを聞いたときは、ちょっと意外だなあ、と思ったのだけれど。



...

憲法記念日だから、憲法について書いてみる。 - 2003年05月03日(土)

 憲法記念日だから、憲法のことなど書いてみようかな。
 先日、小林よしのりの講演を聴きに行ったときに、地元の古賀某という代議士が話をしていたのだが、
彼は、こんなことを言っていた。
 「今の日本の憲法は、国民の権利はたくさん規定されているけれど、
国民の義務は3つしかない。たったの3つですよみなさん!
今の日本人は、権利ばかり主張して、義務を果たそうとしない」

 これが元幹事長のコメントであるということに、僕は失笑と暗澹たる気持ちを禁じえない。

 というか、この人は大丈夫なのか?と思う。
 またそれに、パラパラとだけど拍手する人々とかもいるんですよね。

 国民の三大義務というのは「勤労・教育・納税」だ。
 で、権利については、「健康で文化的な最低水準の…」(言い回しの違いはお赦しを)をはじめとして、確かに、たくさん規定されている。

 でもね、そんなこと「3つだけだから少ない」、というのは馬鹿げた話だ。その三大義務以外に、強制力がある義務として国家が国民に要求すべきものがあるとは思えないのだ(まさか「徴兵」ですか?)
 だいたい、そんなものを数字で比較すること自体が詭弁。
 三大義務には、それに付随するさまざまな詳細項目が付随してくるし、権利の項目が多いのは、それだけ明確に規定しないと権利というのは破られやすいものだからだ。
 それを捻じ曲がった数字で比較するなんて、たとえば、近所の公園も東京ディズニーランドもたった一つの遊園地で同じじゃないか!とか言っているようなもので。

 昔、JFKは、「国家が国民に何をしてくれるかではなくて、国民が国家に何ができるかを考えよう」と演説した。
 それは、僕にも伝わってくるのだけれど。

 ただね、この演説は、「国民が国家をつくっている」という原則に基づいているものなのだ。

 某代議士はいみじくも仰った。
 「国民があって国家があるのではなくて、国家があって国民がある」
 それって、民主主義じゃなくて、全体主義そのものじゃないか?

 時代によって憲法が変わっていくのは、仕方が無い面もあると思う。
 でも、「憲法改正」を訴える人の主張の多くは「憲法改悪」。
 だいたい、戦争をしようとする人の大部分は、自分が戦場に行かなくて良い連中なんだよなあ。

 


...

医療ドラマの業界人的な愉しみ方。 - 2003年05月02日(金)

 今日同僚の医者と話していたら、医療ドラマの話題になった。
 今、「振り返れば奴がいる」の再放送をやっているのだけれど、
その中で、織田裕二演じる天才外科医司馬先生が、ある難しい病気のことで悩んでいて
「えーい、わからん!」と読んでいる医学書を叩きつけるシーンがあるらしい。
 それで、そのとき司馬先生が読んでいた本が「標準外科学」だったという話で大笑いしてしまった。
 そりゃ、わかるわけない!

※一応、医療関係者以外の方に。
 「標準外科学」というのは、要するに学生が勉強するためとか、医者が、ごく一般的な病気についての知識を得るための本なのです。
 まあ、歴史学者が「マンガ日本の歴史」を叩きつけているようなものと考えていただければ。



...

演じ続ける人々の「告白」する人生。 - 2003年05月01日(木)

書店には「告白本」が溢れ、ネット上は他人の「秘密」で埋め尽くされている。
僕は人並み以上に本を読んでいると思うのだけれど、この手の「告白本」には、
まったく興味が無い。
あんなの読むなんて、時間のムダだとしか思えないし。

なんだか、いままでの経験を告白しているのではなくて、
「告白するための人生」を送っているような気がしてならないのだ。
だいたい「聞いて聞いて!」っていう前置きで始まる「告白」が、
面白かったことはないもんなあ。
わざわざ本を完成させてから離婚するなよバカ、とか思うし。

「リアルに回帰せよ」と言いたいところなのだけれど、ほんとうのリアルというのは、
たぶん原始時代の人類がやってきたような、狩猟と農耕と生殖の人生なのだろう。
それもちょっと、ついていけそうにない。

結局、僕たちがリアルではない、と考えているものこそが今のリアルで、
本当の自分じゃなくて、演じている自分だ、と思っているものが僕たちの人格なのだ。
そして、みんな死んでしまう瞬間までそのことに気付かない。

そう書きながら、「本当はこれも夢かも…」とかふと思う自分が哀しい。



...




My追加

 

 

 

 

INDEX
past  will

Mail Home