Comes Tomorrow
ナウシカ



 ハンセン病について

まず、私が初めてハンセン病を知ったのは、高校を卒業して看護学校に入った時(1989年)です。
昔はライ病と呼ばれ、感染力が強いと思われ、忌み嫌われていた病気であると。
それで国が隔離政策をして、ある島に患者を収容したと。

でも実際は、感染力は弱く、ほとんど人に伝染しない病気であること。
治療法も現在ではあり、後遺症はあるものの、隔離してまで治療するような病気ではないと、ハッキリと医師の先生から聞きました。

そして、国が作った隔離政策は、とんでもない悪法なのだと習いました。
どうして、あんな悪法ができたのかわからないけど、当時は間違った認識、偏見などもあったのかな〜可哀想な患者さん達だと、先生の口から聞いたんですよ。

そういった講義を聞いて、私はハンセン病に何となく興味を覚え、テレビのハンセン病に関する特集や、ハンセン病の方をモデルにした映画などを観ました。
確か、出演俳優さんは、酒井美紀、渡部篤朗、岸田今日子だったと思います。
映画のタイトルは忘れました。

ハンセン病に限らず、差別的な扱いを受けている人たちはたくさんいます。
精神病の人も、昔は精神病院に隔離され、人間扱いされていない時がありました。
治療と言えば、電極を身体に付けられて、電気ショックを与えられたり!

でも、これも過去の話ではなく、現在ある病院の中にも、患者を薬漬けにして廃人同様にしてしまったり、ベッドに縛り付けたり、閉鎖病棟に隔離したり(治療の域を越えた場合です)、それだけではなく虐待を加えたりと、現に存在していたりします。
親に捨てられたり、虐待された子供たちが入るような施設でも、スタッフなどによる施設内虐待があると言います。

心ある人たちで運動はされていますが、なかなか広がりが見えないのが現実です。
だいたい行政との癒着なんかがあり、表には出てこない問題だったりする訳です。
ほんとに怒り心頭ですね!

何とか、より良い社会にしていきたいものです。


2005年03月31日(木)



 ハンセン病の勉強会

ハンセン病の勉強会に行ってきました。
全部ではないけど、私のメモの一部を、ここに記します。
園とは、ハンセン病の人たちが隔離されていた島を指します。
これはハンセン病回復者の話です。

******

園の学校の先生は、皆ハンセン病だった。
子供たちは、12〜3歳で発病する子が多かったので、その年頃の子が多かった。
先生は、治療で授業を抜けることが多かった。
治療優先なので、それは許されていた。
先生自身、ハンセン病であったため、何の希望もなく、子供たちにも、そのような教育をすることができなかった。

自分は22歳で定時制高校に入ったが、30歳ぐらいの人もいた。
皆、学びたいという気持ちがあったので、すごい競争率だった。
入学時の平均年齢は19歳だった。

ハンセン病は、いつ発病するかわからない病気。
姉は、見た目、全然ハンセン病という感じではなかったけど、検査で、それがわかり連れていかれ、帰ってこなかった。
自分もハンセン病ではないかと、親はわかっていたようだが、姉のことがあるので、全然医師に診せなかった。
検査も受けなかった。
自分が園に行く時は旅行気分で、すぐに帰ってこれると思っていた。
でも親なんかは、深刻な顔をして、『身体に気を付けてな、達者でな』という感じで、不思議に思っていた。
誰も、自分がもう帰って来れないなんて教えてくれなかったので、まさかもう帰れないなんて思いもしなかった。

園の中で、間違いというのではないけど、子供をつくる人がいた。
そんな人は、すぐに子供を堕胎させられた。
堕胎できないぐらいお腹が大きくなった場合でも、生まれてすぐ殺されて、ホルマリン漬けにされた。
旦那さんがついて来てて、子供ができた場合でも、里子に出すからと騙されて、実際には解剖に出されたり、殺されたりして、ホルマリン漬けにされた。
子供を解剖して、ライ菌がでないかどうかの検査もされた。
ライ菌は出たりしたが、これも生まれる時に母親の血液なんかが付着して、ライ菌が出たのかもしれないし、定かではない。
そういった検証もしていかなくてはならない。
(ハンセン病は伝染はしますが、遺伝はしないと言われています…看護の教科書にそう書かれてました)

医師は、ハンセン病は隔離する必要がないと、なぜ言ってくれなかったのか、すごく腹が立った。
医師も、島に隔離されていて、世界に目を向けることができなかったのか?
人間を人間と見ない、犯罪者扱い。
隔離は間違いというが、間違いではない、人間として扱わない、これはいったいどういうことなのか?
どのように言ったらいいのか、言葉が見つからない。

(インタビュー記者発言)
『日本の問題をクリアーにするのも大事であるが、朝鮮半島では、島に連れていかれて焼き殺されたり、騙されて船に乗せられて、わざと沈没させられたりした。
日本の名誉回復から、さらに運動を広げていきたい。
これで終わりではなく、今、スタートラインに立ったところである。』

自分は、ハンセン病は治ったと言われたけど、社会復帰もしたけど、『ハンセン病が治った』とは、よう言わんかった。
どうしても言えなかった。
裁判を起こして、本当のことが言えるようになって、やっと心が解放された。
この時が、本当の社会復帰だと思えた。
裁判に勝ったことも嬉しかったけど、支援者たちと、肩を抱き合い、手を握り合い、それで心が溶けた。
そのことで、裁判をして本当に良かったと思った。

最後に、『人間の尊厳を傷つけるようなことは、絶対あってはならない』と言いたい。
障害者は、そのままで生きられて、健康な人は、その人を助けるような、そんな社会になってほしい。
ハンセン病は、本当は怖い病気ではないのに、国の政策として、国民に知らしめて隔離していった。
医師や看護師、その他の人たちの対応は、国が政策として『こうしなさい』と定めたもの。
それぞれの人が、そのような気持ちでしたのなら、まだわかる。
でも、そうではなくて、国がそうさせた。
これは間違いという言葉では片付かない。
間違いというものではない、適当な言葉が見つからない。


2005年03月30日(水)



 はぁ…はぁ…息が…

こないだ耳鼻科に行って来たんですよ、ノドが詰まったような感じで息苦しかったんで…
で、鼻からファイバースコープ(小型カメラ)を入れて、ノドの奥を見てもらったんですが、声帯が赤く腫れていたとのこと!
これで気道が狭くなって息苦しかったんですね〜
原因がわかって、取り敢えずはホッとしました。

薬をもらって飲み始めると、だいぶ楽になってきました。
てっきり喘息が酷くなったのかと思ってたんで、安心しました。
それで、医師の話では、ノドを休めないといけないと!?
なるべくしゃべるなってことなんですけど…小さい子がいる家では、声を出さずに過ごすことなんて不可能!
昨日も普通に、『こらぁ〜何してんの!』『喧嘩しないの!』『もう〜何触ってんの!散らかさないの!ちょっと片付けなさい!』の連呼でした。

はぁ〜子持ちの母親を黙らせるなんて〜そんなの無理ですから〜残念!


2005年03月29日(火)



 祈り

祈ってる…ただ祈ってる。
苦しくて苦しくて…
こんなに苦しい気持ちは、ほんと何年ぶりだろう。

自分の気持ちに決着をつけるべく祈ってます。
何をどうしたいのではなく、ただこの苦しさから逃れたくて…

結果は、いつ出るかわからないし、予想もつかないけど、この日を振り返った時に良かったって思える自分でいたいよね。


2005年03月28日(月)



 絶望の中の幸福

ふと思う。
絶望の中に、ちょびっとある喜び、嬉しさ。
悲しい涙の中にある、得がたき気づき。

ただ高く高く空を飛びたいと見上げてた頃。
息が切れても走り続けた頃。
それはそれで青春だったけど…

今、地を這いつくばって、顔は泥だらけになって、衣服はボロボロになって、空も見えない、星も見えない、そんな時に気づく真実ってあるんだなって思える。

ありがとう、ありがとう。
人生に乾杯!

2005年03月25日(金)



 I will

今日、子供たちと一緒にお昼寝をしていて、変な夢を見ました。
誰かのお葬式に行くのに、香典を用意してるんですが、何度も書き損じてしまって、書いてるうちに訳がわかんなくなって、誰のお葬式に行くんだか、なんか焦ってしまって…

あれは…自分の香典だったのかもしれないな…
一つの季節が終わりました。
新しい自分との出会いと別れ…

また新しく歩み出さなければならない。
生きていかなくてはならない。
夜の闇に、旭日を探さなければならない。

喜びが大きかったがゆえに、悲しみも大きかった。
これからも続くであろう喜びと悲しみに、深く感謝しながら、私は成長していきたい。
私はまだまだ人生の半分も生きていないのかもしれないし、何事かを成し遂げていかなくてはいけないし、歩みを止める訳にはいかない。

見ていて下さい。
歩みは遅いかもしれないけど、確実に前に進むから…
ありがとう、ありがとう、本当にありがとう。
そして…ごめんなさい。
こんな私を許してほしい…


2005年03月22日(火)



 ああ〜やばい!

明日だよーとうとう明日が来ちゃうー
そう…確定申告です。
生まれて初めての確定申告なのに、ギリギリの今日、申告用紙を税務署から貰ってきましたぁー

ふぅ〜あまりにも、のんびり構えすぎてました…
今日は徹夜?かな?
とにかくマルサが、うちに来ないように、ちゃんと書きましょう!

2005年03月14日(月)



 感謝

今日は言いたいことを、全てぶちまけました。
それでスッキリしました。
泣いたり笑ったり怒ったりと、目まぐるしく忙しい感情でしたが、こんなことは、これまでの私の人生において、初めての経験かもしれない。

私の場合、感情が表せないだけでなく、感じない、自分でも気づかないことが最大の障害であったので、このアップダウンは反動だったのかもしれない。
でも、カウンセラーは『普通のことだよ』と言ってました。
また『頭でこうすればいいって、わかっていても、どうしてもできないこと、どうしようもないことってあるよ』と言ってくれました。

数々の悲しみが押し寄せて、想像だにしない自分の感情に押し流されて、私はまた暗い奈落の底に沈んでしまうのかと思っていたけど、思うがままの感情を出せたことで、それを我慢することなく、吐き出せたことで、自分のことを心から受け止めることができました。

悲しい時は泣く、怒る時は本気で怒る、嬉しい時楽しい時は心の底から笑う…
そんな当たり前のことができなかった今までの私。
環境的に、出すことを許されなかった私の感情。

今、自由に解き放たれ、心の平安を感じています。
私を助けてくれた人、見守ってくれた人、気づきを与えてくれた人、しいては私を苦しめた人でさえ、私をここまで導いてくれたんだと感謝できます。

ここに乗り越えつつある自分がいる事実。
もうそろそろ話せそうかな?
確かに、まだ問題は山積みだけど、ちゃんと受け止めていけるだけの自信っていうか、覚悟というか、そんなものが沸々と湧き上がってきます。

『自分自身に生きよ』
これは人生の師匠の言葉。
今、深くかみ締めています。

長いような短い人生だもの。
泣いたり笑ったり、ジタバタしながら、私は、自分の信じるもののために、一瞬一瞬を真剣に生きていきます。

夢は限りなく大きく高く、希望を拾って歩きながら、これからも生きていきます。
これで、いい報告ができそうだ♪


2005年03月11日(金)



 顔がボロボロになる日が続く

今日は月1のカウンセリングの日でした。
うつ病になってから6年、私は一度もカウンセリング中に泣いたことがありません。
かなり、他では言えない本音を、そこでは吐いていますが、涙一滴流したことがなかったんです。
ですが…今日は初めて泣いてしまいました。

話している最中に、どうしようもなく込み上げてきて、我慢しようと思ったんだけど、泣くのを我慢してると、話したいことも話せなくなってしまうので、(えいっもういいや!)と泣いてしまいました。

ここのところ、ジェットコースターのようにアップダウンがきつく、不安定な日が続いていました。
その時々でキッカケがあるにはあるけど…

うん…もうこれ以上、書けない。
いっぱい書きたいことがあって、カウンセリングから帰る途中、頭の中で整理してたんだけど…ちょっと疲れました。

ではまた…


2005年03月10日(木)



 依存性

人にしろ、モノにしろ、一時の心の安定は得られても、それは不確かな安定だ。
癒しの要素はあるんだけど、やはり自己の幸福感を何かに委ねているので、自ら幸福感を感じとるのとは違い、人やモノに流される、乱される、なかには侵される。

子供は、親など保護してくれる者に依存している。
依存していないと生きてはいけない。
私は、いつも、その依存から逃げたかった。
依存しなくても、ある程度、生きていけるだけの人間に早くなりたかった。
早く大人になりたかった。

強く強く、一人、大地に両足をつけ、立っている人になりたかった。
だけどやはり、人は何かに依存していないと生きてはいけないのか?

依存…しないではいられない時がある。
知らず知らずに依存してる時がある。
依存しなければならない時がある。

弱音を吐き、本音を語った。
人前で泣けない私が泣いた。
どっと疲れた。
依存は疲れる。
する方もされる方も…

依存…それは自分が主体じゃないから嫌だ!
自らの行動などにおいても、主体的に感じる喜びや幸福とは、ほど遠い。
依存から早く解放されたい。


2005年03月09日(水)



 心配して下さる方へ

私は意外と元気です。
こんなに早く立ち直れるとは、正直思いませんでした。
一瞬(ああ…死にたい)とも思ったけど、この一週間ほど止め処なく涙を流し、複雑な感情を否定するのでも、抑圧するのでもなく、素直に受け止め、静かに受け入れつつあります。

私が早く立ち直れたのには、ある人の力が大きいです。
私のあるがままを見据え、受け止めてくれる人。
どんな私であっても、肯定してくれる人…そんな人は、これまで出会ったことがないです。

その人の前では、自分を守る必要もなく、演じる必要もなく、大人になる必要もなく、理不尽な我侭も時には言え、その時々の感情のままにいられる。
それが、どれだけ楽で、どれだけ私が救われたかわかりません。

その人が、なぜ私の目の前に現れたのか?
この時のためだったのかと思ったほどです。

これまでも、その時々で、いろんな人が現れ、私を助けてくれました。
そういう人に限って、私の目の前からいなくなってしまうんですが、リレーのバトンのように、次から次へ現れては消え、私の中で温かなものが残る。
一種の喪失感は味わいますが、もう絶望の淵に追いやられることはないように思います。

私は、なんて幸福者なんだろう。
こんなに幸福であっていいのか?

Travellers in dreams.というカレンダーの2月のページに、こんな言葉が書かれていました。

『人生には必ず終わりが用意されている。
泣きながら生まれついたあの日を
最後は微笑みながらふり返れる自分でありたい。

”今をどう生きるかが大切なんだよ”

あなたがくれた言葉を胸に
もっともっと一生けん命になってみようと思う。』
Lyrics by TOMO.

この言葉が、今の私にはとっても染み入ってきて、3月になった今もめくることができずにいます。


2005年03月04日(金)
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