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アンジェラの灰 Angela's Ashes 1999年アメリカ・アイルランド アラン・パーカー監督 フランク・マコート【アンジェラの灰】新潮社クレスト/文庫あり
この原作になったのは、97年度のピュリッツァー賞を受賞した フランク・マコートの同名の回想録です。 マコートは1930年に、 アイルランドからアメリカに移住した両親の長子として ニューヨークで生まれました。 その後、4歳のときに両親の故郷であるアイルランドに行き、 学校を卒業後、電報配達の仕事などで資金を貯めて、 19歳で単身ニューヨークに渡った……とのことです。 その4歳から19歳までの、 アイルランドの貧しいカトリック家庭に生まれ育ったが故の苦悩、 生死の境をさまようような病気の経験、文学的素養の萌芽、 性の目覚めなどなどのエピソードが、 時には笑いを誘うほどにユーモラスに描かれています。 かなりはしょられた箇所もありましたが、 概ね原作に忠実に映画化されていました。
悲惨な状況を全く笑い飛ばしているような、 それでいて世をすねているわけでもない表現から、 マコートの人間としての芯の強さや知性が感じ取れる、 すばらしい作品でした。 私は2度目のお産で入院中、この500ページ以上ある本を、 気がついたら2回も通読してしまいました。 本当は産後は目を使うものではないと注意をされ、 持っていったのがこの本と、 娘が貸してくれた「昆虫の飼育法」という本だけだった せいもありますが。 (御存じですか?本当はカブトムシには、キュウリやスイカの皮は、 エサとしては不適切なんだそうですね)
マコートを含め関係者もまだ御存命という状況ですから、 映画化の際、表現にはかなり神経を使ったと思われますが、 かなり頑張った作品だと思います。 6回出産(うち双子1組)して3人の子供を小さいうちに失う 母親アンジェラをエミリー・ワトスン、 甲斐性なしで飲んだくれの父親マラキをロバート・カーライルが演じ、 子供たちが光っている映画ということで分が悪いにもかかわらず、 全く負けていない存在感を発していました。 イギリスを代表する演技派2人を 起用したかいがあったというものでしょう。
ビデオショップに行くと、フランク少年がぺろっと舌を出している写真が ジャケットにあしらわれたビデオ&DVDがあるかと思います。 これは、欧米の映画のカトリック教会のシーンでもおなじみの、 聖餅(せいべい)を飲み込む練習の風景です。 あれって結局何なのでしょうね? 原作を読んでも、映画を見てもわかりませんでした。 新聞紙を切り刻んだようなもので練習していましたが、 まさか「本番」でも紙製なんでしょうか。 おばあちゃんが、とげぬき地蔵の御札(もちろん紙)を 丸呑みしていたのを思い出しました。
ところで、映画を見ていて、 どうして私が原作にあんなにも惹かれたか、 わかった気がしました。 悲惨の上に悲惨を重ねたような状況下でも、 賢く想像力の豊かなフランク少年は、 いつも何らかのきっかけで笑っている、 そんな顔が容易に頭に浮かぶ気がしたからでした。 真の楽天家というのは、 いつもいつも最悪の状況を考えつつも希望を失わない、 そんな人のことを言うのでしょうね。 例えば、どんな仕事に就いても3週間がやっとで、 わずかな給金はもちろん、生活保護から出産祝いに至るまで、 すべて勝手に飲み代にしてしまう父は完全に人間のくずですが、 フランクは、そんな父親がしらふのときには アイルランドの英雄の話をしてくれることも知っています。 「口ばかり達者で怠け者の飲んだくれ」と揶揄しつつも、 自分なりに父親へ愛と尊敬を向けることを忘れていません。
今回はどちらかというと、映画よりも 原作の売り込みになってしまいましたが、 この辺で……。
1969年5月25日、女優のアン・ヘッチ(ヘッシュ)の誕生日です。 おかげで、彼女がジョニー・デップの妻役で出演した、 次の映画を取り上げる機会ができました。
フェイク Donnie Brasco 1997年アメリカ マイク・ニューウェル監督 ジョセフ・ピストーネ 【フェイク―マフィアをはめた男】集英社文庫
ジョニー・デップは、 実在するFBI捜査官ジョー・ピストーネを演じました。 もっとも、映画の中では、ほぼ「ドニー」の名で呼ばれています。 この映画の原題でもあるドニー・ブラスコは、 あるマフィアの組織におとり捜査のために潜入した際の ピストーネが用いた偽名でした。
邦題「フェイク」は、 マフィアの仲間内で信頼を得るに至ったドニーが、 結局はマフィアとしての「偽物」だったことと、 ドニーが特に心を通わせることになる 左利きの男「レフテイ」(アル・パチーノ)との出会いが、 宝石の真贋の鑑定がきっかけだったことに由来すると思われます。 そこそこいいところを突いていたのではいなでしょうか。
映画が日本で公開された97年秋の当時、 この映画のモチーフとなった ジョー・ピストーネは50万ドルの賞金首で、 原作となった手記発表の記者会見の席にも、 かなり厳重なる変装であらわれた……というような記事を 読んだ覚えがあります。 (多分、今現在も状況は変わらないと思いますが)
囮捜査の過酷さに驚きました。 特命の内容を知っているのはごくわずかな者だけなので、 「仲間」と一緒のとき、FBIの同僚にたまたま出くわしても、 口裏を合わせてもらうことすらできず、 場をごまかすため、チンピラやくざ丸出しで同僚に暴行を働いたり、 「仲間」に使うような粗野な言葉を、 たまたま妻マギー(アン・ヘッチ)相手に使って、 「私の夫は大学を出ているはずなんだけど?」と 嫌みを言われたり(当然妻も特命を知りません)、 任務のため、ほかのすべてを失いそうなのめり込み方でした。
レフティは私生活では大の動物好きで、TV番組を熱心に見たり、 仲間からプレゼントされた「動物」のエサの確保に難儀したり。 「仕事」でマイアミを訪れた面々が、いかにも柄の悪い様子で ビーチではしゃいだり、 上納金の工面に四苦八苦したりと、 何とも言えないおかしみも、うまく演出していました。 ストーリーも比較的頭に入ってきやすいと思います。 心を通わせれば通わせるほど後が辛いことを知りつつ、 人間としてのレフティに惹かれ、 それでも任務を忘れないドニーの姿は、十分涙を誘うものです。
それから、これは個人的な見解ですが、 注目ポイントは、 マフィアの1人にブルーノ・カービィがいることです。 結構情けない最期を迎える役ではありましたが、 『グッドモーニング・ベトナム』での退屈なDJ、 『スリーパーズ』では、主人公ジェイソン・パトリックの父親役、 『恋人たちの予感』で、ビリー・クリスタルの友人で、 キャリー・フィッシャーと結婚する役、 『シティー・スリッカーズ』では、またまたビリー・クリスタルと共演し、 ビリーにしょーもない質問ばかりする友人……と、 かなり多彩な役をこなしていらっしゃいます。 この『フェイク』では、中途半端な散切り頭が鳳啓助ふうで、 何となく憎めない雰囲気を醸し出していました。
「男の友情物語」というジャンルができそうなほど、 その種の映画は多いものですが、 中でも強力にお勧めしたい1本です。
「家政婦は見た!」シリーズの市原悦子さんが、 新聞のインタビューに答えているのを読み、 笑ってしまったことがあります。 というのも、 「自分は本当は家事が苦手で、家政婦さんを雇いたいが、 本当に雇うとしたら、徹底的にリサーチするだろう」 などという趣旨のことをおっしゃっていたからです。 そりゃ……ねえ。 役柄とはいえ自分がすることを、他人にするなとは言えますまい。
『プリテンダー』というアメリカのドラマを御存じでしょうか。 ちょっと前、当地で日曜の夕方(後に深夜)に放映されていて、 私は毎週楽しみに見ていたのですが、 ジョージ・クルーニーの1.5倍くらいくどい顔の二枚目 “ジャロッド”が主人公で、 彼は極秘組織で幼いころから訓練を受け、どんな職業にも就けるほどの 知識と技術を体得するのですが、 あらゆる業界に顔を出し、その世界の悪を暴きながら、 まだ赤ん坊の時分に引き離された母親を探すというような筋立てでした。 医者になりすましたときのエピソードでは、 職務怠慢で患者を見殺しにした同僚に、 フグの毒を「死なない程度に」盛ったケーキを食べさせたり、 方法もなかなかユニークだったのですが、 このドラマ、「家政婦は見た!デラックス版」のノリがありましたね、 こうして振り返ると。 我らが市原悦子さんも、覗き見とお節介には困りものですが、 とりあえず、正義の味方ではありました。
市原さんもジャロッドも、第一印象は「感じのいい人」であり、 また、「悪にとっての脅威」であるだけで、 何の落ち度もない人にどうこうしようということはありません。 信頼をかち得ようとする人間は、第一印象は十分過ぎるほどよくて 当たり前かもしれませんが、 その本当の目的が那辺にあるか、考えてみれば恐ろしい話です。 (市原さんの場合は、たまたま覗き見て知ってしまうという状況ばかりですが)
今日取り上げさせていただく映画の 主人公ペイトン(レベッカ・ディモーネィ)も、 ちょっと見には、美しくて優しそうな女性でしかありませんでした。
ゆりかごを揺らす手 The Hand that Rocks the Cradle 1991年アメリカ カーティス・ハンソン監督
今、ここに書き出すまで忘れていましたが、 監督が、あの『L.A.コンフィデンシャル』と同でした。
この映画、サスペンス映画としての演出もさすがにうまいのですが、 まずはタイトルがいいと思います。 原題を日本語に直訳している作品って、この頃珍しいほどですが、 原題さえよければ、小細工なしで十分イケるという典型ですね。 (モトネタはマザーグースかな?) センスのいい独自路線の邦題というのも結構難しいもので、 評判になったものほど内容とかけ離れている気がするのは なぜでしょうか。 (答え・ぜぇんぶ、原題自体が悪いせいです)
かかりつけの産婦人科医の手つきに不審なものを感じ、 夫の後押しもあって、セクハラ容疑で医師を訴えて勝った 裕福な人妻を、アナベラ・シオラが演じていますが、 この人は、最初はどちらかというと「憎まれ役」かもしれません。 というのも、裁判で負けた医師は、それを苦に自殺を図るのですが、 この医師にも妊娠中の妻ペイトンがいました。 ペイトンは、夫の自殺にショックを受け流産してしまった上に、 自殺のために死亡保険金も支払われず、 何もかも失ってしまいました。
一方のアナベラ演じる人妻は、その後かわいい女の子を出産し、 持病の喘息を除けば何1つ不自由のない、 幸せだけ食べて生きているような生活をしています。 そんな中、娘のベビーシッターとして訪れたのがペイトンでした。 見るからに美しく優しげなペイトンに娘もすぐ懐き、 簡単に家族の信頼を得てしまいました……が?
ここまで書けば、 「この映画はサスペンス」だとジャンルを断定するのみで、 あとは見て堪能していただくしか思います。
それから、ペイトンの行動に一番最初に疑念を抱いたのが、 アナベラ・シオラ(役名が出てこない)の友人で、 不動産業に携わる女性でしたが、この細長い美女に御注目ください。 最近はオスカーノミニーの常連でもあり、 『ハンニバル』主演でも話題のジュリアン・ムーアでした。 彼女って、線は細いながら、一度見たら忘れない何かがありますね。 女優としては、かなりオイシイ個性ではないでしょうか。
2001年05月21日(月) |
女人、四十 。(にょにん、よんじゅう) |
金曜深夜、当地のローカル局で放映された香港映画が ちょっと興味深かったので、 今日はそれを取り上げることにしました。
女人、四十。(にょにん、よんじゅう) Xiatian De Xue 1994年香港 アン・ホイ監督
タイトルだけは、以前から聞いたことがあり、 アルツハイマー病の老人を介護する話だということも、 情報として持ってはいたのですが、 実際に見てみたら、 泥臭さ、世知辛さ、人間臭さ、そしてユーモア、 どれをとっても予想以上でした。
トイレットペーパーを輸入する会社の営業部長をし、 家庭もしっかり管理しているメイは、 横柄で横暴な舅とソリが合いません。 (痴呆のための奇行というのもあったのですが) が、明るく気丈だった姑が突然亡くなり、 舅の面倒を夫のきょうだいたちから押しつけられて しまいます。 気弱な夫は全く頼りにならず、 息子は家の手伝いが忙しいために彼女に振られてしまい、 (結局、戻ってきますけど) 舅はデイサービスなどの老人施設でもトラブルメーカーで、 そこへ持ってきて、会社にもOA化の波がやってきて、と、 内憂外患の状態に陥り、 メイは心身ともに疲れていました。
これだけ読んで、この映画を見たくなる人がいるとは、 自分でも思っていません。 私が惹かれたのは、メイの「活力」みたいなものです。 彼女は、こんな状態の中でも、 いらだたしげに愚痴をこぼしたり、 息子に「避妊はちゃんとするのよ」と冗談を飛ばしたりして、 とにかく、「無駄なエネルギーをいっぱい使っている」のです。 もちろん、人並みに体力は消耗するのですが、 いつも生きた人間の顔をしている、すてきな女性だと思いました。
そんなメイの息子アレンは、今風の若者というにはちょっとダサめで、 いかにも彼女にいいように振り回されていそうですが、 弱音ばかり吐く父親を元気づけたり、 ヨロヨロになってしまったおじいちゃんの若い頃の軍功を聞き、 純粋に憧れの目を向けてしまうなど、 本当に好いたらしい奴なのです。
また、痴呆のために奇行の目立つこのおじいちゃんが、 軍人上がりだけあり、やたら逞しいというのも、 不謹慎ながら笑える設定でした。 貧弱な息子(つまり、メイの夫)を泥棒と間違えて ふんじばろうとするシーンなど、 思わず笑いを誘います。
姑の葬儀のシーンでも、興味深い描写がありました。 中国の習慣で、棺桶の中に故人が生前好きだったものの 紙細工を入れる……というようなことを、 以前聞いた記憶があるのですが、 そのセールスに、まさに葬儀の場にまで来る人がいるのには さすがに驚きました。 ベンツの最新モデルに携帯電話、 「地獄の沙汰も金次第」ということで、カードまで! そんなふうに今様にアレンジされながらも、 そういう習慣というのは連綿と続くという意味か、 はたまた、割と最近できた習慣なのか、 その辺はわかりませんが。
悲惨な状況を描いても、 何だか輝いている映画というのがありますが、 (最近のイギリス映画に多いですね、何となく) そういう作品というのは、あれこれ想像したときに、 登場人物の笑顔が簡単に浮かんでくるものなのだと、 改めて思いました。 自己憐憫という意味ではなくて、 辛いときに自分の辛さと堂々と向き合い、 ※「どうして自分ばっかりこんな目に遭うんだ~」と 口に出して言う勇気のある人間は、 同時に、どんな状況でも笑うことができるんじゃないでしょうか。 私は、かなりの自己弁護の意味も込め、 喜怒哀楽を明確にすることを尊びたいと思います。 そして、そんな人物が出てくる映画が好きです。
明日5月21日(※2001年)、 カンヌ国際映画祭の結果発表があります。 日本からは10本が出品されたそうですが、 出品作の監督の中に、 「是枝裕和(これえだ・ひろかず)」という名前があります。 95年、ヴェネチア国際映画祭金獅子(金のオッゼラ)賞を受賞した、 宮本輝原作の映画化『幻の光』の監督でもありますが、 今日は、同監督の99年の作品を御紹介します。
というか、2年前1999年5月20日、 78歳で亡くなった喜劇俳優の由利徹さんを 追悼する意味で取り上げようと思ったのですが、 ついカンヌの名前に引っ張られ、 まずは監督の紹介と相成りました。 ただ、正直申し上げれば、 私は是枝監督には興味がありますが、 カンヌには毎年余りそそられません。 映画ファンの風物詩として出したかっただけです。
ワンダフルライフ After Life 1999年日本 是枝裕和監督 是枝裕和【小説ワンダフルライフ】ハヤカワ文庫
私は寡聞にして知らなかったのですが、 人は死ぬと、あの世の入口で裁きを受けるのではなくて、 「生前、最も印象に残った想い出」について面接官に聞かれ、 それを映画として撮影してもらい、 上映会鑑賞後、全く「この世」の記憶が抹消され、 「あの世」に旅立っていくのだそうです。 面接官になる人々は、想い出を選べなかった人、 選ぶのを拒否した人たちです。
どの宗教観にも当てはまらない、 この発想に、まずは強く惹かれましたが、 これは「それ」だけのワン・アイデア映画ではありません。
死ぬというのは特別なことではないなあと、 改めて思わされるのは、 妙な話ですが、「死んだ人」の中には 見るからに健康そうな美少女もいれば、 大往生だったのでしょうねと思わせる御老体もいます。
ベテランの谷啓、 自分が死んだとき3歳だった娘が成人するまでは 「あの世」に行けないという寺島進、 ひょうひょうとした内藤剛志、 若い美青年に見えて、実は70を超えているARATA、 (20代で戦死し、何十年も想い出を選べなかったので) どうしても素直になれない小田エリカが 面接官として登場します。 想い出を選ぶ方の役者さんは、 一部を除いてほぼ素人だそうですが、 人間、あんなに自然に振る舞っても、 結構映画の世界に溶け込めるものだなと、 妙に感心しました。
全体に静かで抑揚に乏しいけれども、 妙にコミカルなシーンもあり、 「ドキュメンタリー調のフィクション」というジャンルがあるとすれば、 その中でもかなり成功しているのではないでしょうか。 国際的な評価も高く、 ハリウッドでリメイクという噂も聞きましたが、 それだけは勘弁してほしいと思いました。 国民性を云々する気はありませんが、それでも、 日本人監督のデリカシーが生んだ傑作だと思いたいのです。
ところで、由利徹さんの役ですが、 とにかくエロジジイという設定でした。 「おネエちゃんミシュラン」が頭の中にしっかりあり、 胸が小さくても、スリムな女の方がぐあいがいい云々、 面接官をうんざりさせるほどに「こればっか」なのでした。 それこそが生きている証だったのでしょう。 誰も由利さんを責められません。
たまたま私はこの映画の予告を、 由利さんが亡くなって日が浅いときに偶然見たので、 何だかどきっとしました。 もしも『ワンダフルライフ』の世界が本当にあるのなら、 素顔の由利さんは、どんな想い出を選んだのでしょうか。
個人的に最も印象に残っていることの1つに、 内藤剛志がいれたあつあつの紅茶の描写があります。 もあっと湯気が上がって、 今まで映画の見たどんな紅茶よりも熱くておいしそうでした。 イギリス映画ですら、おいしそうな紅茶が拝めるシーンって 皆無に近いと、私は思っているのですが……。
今日5月19日は声優の大塚芳忠さんの誕生日だそうです。 1954年生まれといいますから、47歳ですか。
大塚さんといえば、海外ドラマファンには、 「フルハウス」のダニーパパの声で 特におなじみだと思いますが、 93年制作のアニメ映画『ぼのぼの』で、 スナドリネコ役を担当なさっています。 いつも洞穴でごろごろしていて、何があっても慌てず、 それでいて、主人公ぼのぼののどんな悩みも 「レモンドロップのように」消してしまう、 (『オズの魔法使』見ましたか? 主題歌Over the Rainbowの この部分の歌詞、好きなんですよ~) そういう頼もしい(と見えないところがまたいい)キャラクターです。
ぼのぼの(アニメ) 1993年日本 いがらしみきお監督 いがらしみきお【ぼのぼの】竹書房(続刊中)
まず、この映画の原作「ぼのぼの」を御存じでしょうか? 86年から竹書房の4コマ誌に連載されている、 4コマコミックのカリスマ、いがらしみきおさんの作品です。 コミック本も20巻まで刊行され、絵本も数冊出ています。
また、テレビアニメ化もされ、ビデオも出ています。 1編15分足らずの短編アニメですが、 沖縄民謡を思わせるBGMに乗って、 テンポよく見せてくれていました。
ぼのぼのというのは、主人公のラッコの名前です。 小さな小さな、でもとても大切な疑問をいつも抱きながら生きていて、 ちょっとどんくさいけれども、好ましい少年です。 「いぢめる?」が口癖で、 ちょっと自虐的なところのあるシマリスくんと、 喜怒哀楽の表現がラテン系のアライグマくんが仲良しさんです。 その他、味のある動物キャラクターが多数登場しますが、 単なる動物を擬人化したお話ではなく、 よく表現されるのは、「哲学的だ」ということです。 個人的には、「深いなあ。哲学だなあ」と思いながら読むというより、 大声で笑いながら読んだ後(笑えるまんがですから)、 何だか自分でも説明のつかないことを考えていたりして、 哲学というのは、とことん思考することなんだなあと、 身をもって体験できるところが「哲学的」だと思います。 (哲学というか、禅問答的になってきた気もしますが)
映画版のポイントになっているのは、 ぼのぼのたちが住む場所を、 今まで見たこともないほど大きなジャコウウシが通るらしい。 その牛が通った後、何かが変わるらしい……、 そんなうわさでした。 「何か」が何なのか、確たる結論が出るわけでもなく、 あくまで観客に宿題を残しつつ終わっていきますが、 宿題を拒否する自由も与えてくれたような、 そんな優しい幕切れでした。 そこで、大沢誉志幸の「初恋」という曲がしっとり流れます。
この映画には、ほとんどストーリーというものは存在しない気がします。 といって、もちろんオハナシとして破綻しているわけではありません。 あくまで、「ぼのぼの」でしかあり得ないようなテンポで、 「ぼのぼの」の世界以外では成立しないような文法の中で、 周りを気にせず進んでいきます。
私はこの映画、市民文化センターの大ホールで見ました。 かわいらしいキャラクターのCMが功を奏してか、 場内はちびさんたちでいっぱいになっていました。 (普通は中ホールでも空席が目立つような類の上映会なのに) かなりベタベタなギャグも多いので、 遠慮のない笑い声が会場に充満していたのが印象的ですが、 彼らの頭の隅っこに、説明できない何かが残ったことだろうと 思いたいと思います。
音楽担当は、ゴンチチでした。 「ぼのぼののテーマ」「アライグマのテーマ」など、 アコースティックで聞いていて安心できる旋律は、 しばしばテレビのバラエティ番組などでも BGMとして使用されています。
いつもなら、「〇〇な方に」「△△がお好きな方に」お勧め、 というような表現をするところですが、 この映画だけは、見る運命にある人は放っておいても見る、 そんな気がするので、敢えて「お勧め」はしません。 でも、レンタル店のアニメの棚を探してみてください。 一緒にテレビアニメ版を借り、そうなると原作が気になって、 気がついたら古書店で80年代に出た分を探す日々…… というような「ぼのぼのジャンキー」が1人でも増えれば幸いです。 ついでに、竹書房の「まんがくらぶ」は毎月4
1年前の日記を読んでいたら、この名前が出てきたので、 ちょっといい映画だったし、御紹介させていただきます。
こねこ The Kitten 1996年ロシア イワン・ホポフ監督
モスクワの結構裕福そうな音楽家一家の家から、 仔猫チグラーシャが行方不明になり、 (トラちゃん、といったニュアンスの言葉…らしい) 猫の調教師にチグラーシャが保護されている間、 一家はチグちゃんの消息についてあれこれと想像し、心配し、 とるもの手につかずという風情。 一方のチグちゃんは、大勢の「野良仲間」とともに、 結構楽しげに生活しているけれども、 ある日、テレビで自分が「尋ね猫」になっていると知り、 仲間の力をかりながら、懐かしの我が家に帰る、 そんなストーリーです。
猫の調教師を演じた男性は、私生活でも本職さんだそうで、 大勢の猫に囲まれ、決して豊かとはいえない生活の中で、 猫にエサを与え、本当に尊重してかわいがっている様子が、 非常に好ましいものでした。 「ペット譲ります」「ペット求めます」といったやりとりが、 街の広場のようなところで定期的に行われているらしい、 ということがわかるシーンがあり、 モスクワ市民の生活がちょっと覗けるのも興味深いところでした。 ハリウッド映画なら、もっと派手に小器用に演出するのでしょうが、 特撮・CGなしであそこまでできるのは大したものです。 そう、猫って結構賢くて器用なんですよね。 1シーンだけ、やや暴力的なところもありますけれども、 おおむねほのぼのとしていて、小さな子供に見せても差し支えないし、 本当にキュ~~トでラヴリーーーな「猫好きのための映画」です。 猫はあんまり…という方も、そもそも動物映画は苦手という方も、 「結構かわいい奴らじゃん」と思えるかもしれません。 何となく、映画の世界では犬に比べて分が悪い感のある猫ですが、 この映画は買いです。 でも、「仔猫物語」のチャトランもかわいいですね。 小5の娘が使っている学習ノートは、「ムツゴロウシリーズ」で、 動物の写真や、「チャトラン」や「ブースケ」といったおなじみさんの 小さなカットが隅っこに入っていたりして、 方眼紙や細い罫が入ったタイプなどは、 大人にも愛用者がいるかも?と思うほどキュートです。 あのノートに使われている写真のチャトランって、 一体何代目でしょうか? あの映画がもう15年も前の作品で、 映画撮影中にもちょこちょこ代替わりしていたでしょうが。 そういえば、「こねこ」のチグちゃんも、途中、 明らかに「小さく」なったりしていますが、 逆に考えれば、よくあんな美しいトラ猫が、 何匹か知らないけれどもよく調達できたものです。 「財政難にもめげず、スタッフは健闘した」らしいので、その賜物でしょうね。 ちょっと話は逸れますが、「101」のダルメシアンの子犬たち、 (101匹のうちの99匹…かな) 実際の撮影には200匹くらい使われたそうで。 『ベイブ』でも、子豚はいとも簡単にウマソーに太ってしまうので、 結構な数の子豚を用意したようですし。 そういえば、『ベイブ』に登場する猫って、本当に嫌な子でしたね。
2001年05月15日(火) |
ブロードウェイと銃弾 |
1951年5月15日生まれの チャズ・パルミンテリーがギャング役(小物)で出演し、 アカデミー助演男優賞にノミネートされた、 この映画を御紹介します。
ブロードウェイと銃弾 Bullets Over Broadway 1994年アメリカ ウディ・アレン監督
1920年代のブロードウェイ。 主人公は、舞台脚本家デヴィッドですが、 この役を、アレン作品「霧と影」に続いての出演となった ジョン・キューザックが演じていました。 デヴィッドは、 才能の行き詰まりを感じているところにもってきて、 新作の舞台に、ギャングの情婦(ジェニファー・ティリー)を 女優として出演させるように押しつけられ、 演技はできないわ、台詞に文句垂れるわの彼女が、 新たな悩みの種になりました。 その情婦の用心棒としてやってきたのは、 粗野で無教養な男チーチ(チャズ・パルミンテリー)ですが、 彼が舞台の稽古を見ながら、ほんの思いつきで発する プロットや台詞のアイデアは、なかなか着眼が鋭く、 デヴィッドがそれに従うと、 舞台は目に見えてよくなっていきます、 ……と言いたいところですが、 自分のアイデアが取り入れられ、 だんだんよくなっていく脚本にその気になったチーチは、 「よりよくするためにはあの女が邪魔だ」と 言い出します。 ギャングの男が「邪魔だ」と発言するということは、 次の展開は……ですね。 さて、チーチがとった手段は? そして、チーチを当てにするようになってしまったデヴィッドの、 脚本家としてのプライドは?
このストーリーの流れの中でも、 サービス精神旺盛なアレンは、 20年代の空気を観客に伝えんとすることに 余念がありません。 だから、ちょい昔のコスプレ映画好きにもお勧めです。
言葉遣いは乱暴だし、繊細さのかけらもないような チーチを演じたチャズ・パルミンテリーですが、 実際は、ロバート・デ・ニーロが初監督した映画 『プロンクス物語』(93)の脚本を書き、出演もするという、 本当にこっちの方の才能にも恵まれた人のようです。
物を書くという行為は、 言葉を何らかの方法で操れる人ならば、 誰にでもできます。 (自分で書くのが億劫だ、 何らかの事情で書けないという方は、 口述テープを私のところへお送りいただければ、 幾らでも反訳して差し上げます〈有料〉) が、舞台劇として魅力のあるもの、 どこか説得力のあるものとなると、 そつなく書くだけでは芸がないし、 トレーニングや慣れではカバーできない ひらめきというか、 天賦の才能の領域に行ってしまうこともあり、 物書きになろうと志した人間が、 自分にそれがないと自覚してしまうのは、 何より恐ろしいことでしょう。 デヴィッドの場合はどうだったか? そこのところがちょっとほろ苦味ですが、 おおむね小粋で楽しめるコメディーでした。
今日5月13日は日曜日……ということで、 5月の第2日曜日、「母の日」に当たります。 「母」を描いた映画は、どちらかというと昔の日本映画に 多い気がしますが、 例えば“ヤルセナキオ”と揶揄され、 最初は本国での評価が不当に低かったという成瀬巳喜夫の、 ずばり「おかあさん」というタイトルの映画がありましたし、 「いわゆる母子モノ」とくくってしまえるほど、 母の無償の愛の美しさとか、「瞼の母」系のお話とかは、 枚挙にいとまがありません。 外国映画に目を転じれば、 近作ではスペインの「オール・アバウト・マイ・マザー」が 日本でも大評判になりましたね。 (私にとっては、見たいと思ったときに限って 塞がっているビデオの1本です) 親しみのあるアメリカ映画でも、 「愛と追憶の日々」のシャーリー・マクレーン、 「ステラ」のベット・ミドラー、 「フォレスト・ガンプ」のサリー・フィールド、 「母の眠り」のメリル・ストリープ、 「ディープ・エンド・オブ・ジ・オーシャン」のミシェール・ファイファー、 「ここよりどこかで」のスーザン・サランドンなどなど、 実力派の女優たちが、泣かせたり、イラつかせたり、共感を呼んだり。 「笑わせるお母さん」というのもいて、 これは私のある種の目標でもあるのですが、 「パンチライン」(日本未公開・ビデオでどうぞ)のサリー・フィールド、 「ディス・イズ・マイ・ライフ」のジェリー・ガブナーなど。
でも、どの女性にしても(ミドラーですら!ファンの方、済みません)、 何しろ女優さんだから、あんな人がお母さんだったらステキだろうにと 思わせてしまいます。 ちなみに、私にとって「母親になってほしい女優№1」は、 ダイアン・キートンです。 皆さんはいかがですか?
今日御紹介する映画は、大分古くなりますが、
ママの想い出 I Remember Mama 1948年アメリカ ジョージ・スティーブンス監督
貧しいけれど肩寄せ合って生きているフィンランド移民一家のお話ですが、 この母親が、一家の美しさと優しさを一手に引き受けているような女性で、 その上、困ったことがあったときに、おっとりと手をこまねいていることなく、 なかなか駆け引き上手な一面を見せるところがステキです。 母親の愛情をたっぷりと受けて育った長女が、 小説家になり、自分の家族を回想するというような構成でした。 「思い出すのは、ママのことばかり」なんですけどね。
「若草物語」のジョオや、「足ながおじさん」のジルーシャも、 有り余るような文才を何とか認めてもらおうと、 身の丈に合わないような物語を書いて、 「もっと自分にしか書けないものがあるはず」ということに気づいたとき、 立ち戻るのは、自分のルーツというやつでした。 この長女とて同じことです。 だから、物書きでいたい、物書きになりたいと熱望する人にも、 何らかの刺激になる映画ではないかと思います。 安易な私小説という意味ではなくて、 自分の目で見たことを自分なりに表現するというのは、 案外難しいものです。 それでいて、やっぱり自分にしか書けないことであることも間違いなく、 持っていき方次第で、大変な傑作にもなり得るわけで……。 戦争に巻き込まれたような経験がなくても、ごく平凡な生まれいででも、 殊更なんてことない人生だったように見えても、 何か胸を打つものを書くことはできるはずです。 (と、思いたいなあ、自信ないけどね)
この一家は、貧しい家計を協力し合って支え合っていますが、 今月はこれにこのくらいかかるから…と、 緻密に計算して、決めゼリフをママが言います。 「今月も貯金を崩さなくていいわね」 でも、その言葉に隠された本当の意味に、 子供たちは全く気づきません。 気づかせないのが、ママ(とパパ)の分別というやつだったのでしょう。 子供たちは、自分の家が貧しいことを自覚はしているけれども、 したいこと、欲しいものがあると、 諦めざるを得ないことと、自分の力の範囲でできることを見極め、 賢く対処するすべを、おのずと学ぶのでした。
「うちはお大尽じゃないんだからねっ」と、 何か金銭の絡むことがあると、すぐにカリカリ、イライラする 己に置き換えてみると、全く恥ずかしくなります。 あの母親の優雅さは、まねしようにもできませんが、 せめて、夫や子供たちに「私に任せといて」と言える程度には、 恥ずかしくない仕事をして、給金を受け取りたいものです。
2001年05月12日(土) |
ユージュアル・サスペクツ |
1966年5月12日、役者兄弟ボールドウィンの四男、 スティーブン・ボールドウィンが生まれました。 で、彼も出演している、実に男臭いサスペンスの傑作を 御紹介いたします。
ユージュアル・サスペクツ The Usual Suspects 1995年アメリカ ブライアン・シンガー監督
「『ユージュアル・サスペクツ』2度見てね!」 これは、劇場で売られていたパンフの扉のところにあった、 監督ブライアン・シンガーのサインに添えられていたコメントです。 この言葉に従ったわけではありませんが、 私はこの映画劇場で1回、ビデオでも2回くらい見ました。 大ドンデン返しがある映画であるにもかかわらず、 見るたびに「ほぉ~」と感心してしまいます。 もちろん、見るたびに展開が変わるわけではなくて、 何度見ても同じ映画なのですが、 本当によくできているなあと思います。
役者陣も豪華でした。 そもそも「ユージュアル…」(いつもの容疑者)とは、 主役級の5人、 ケヴィン・スペイシー、ガブリエル・バーン、 スティーブン・ボールドウィン、 ケビィン・ポラック、ベニチオ・デル・トローのことです。 こうして列挙したら、何とオスカー受賞者が40%も含まれていました。 スペイシーはこの作品で助演男優賞を受賞し、 99年度に「アメリカン・ビューティー」で主演男優賞を受賞しました。 そして、「トラフィック」でのベニチオ・デル・トローの 助演賞獲得は、記憶に新しいところです。 ついでにいえば、取り調べの刑事を演じるチャズ・パルミンテリーは、 ウディ・アレンの「ブロードウェイと銃弾」で、 助演賞にノミネートされました。 オスカーには縁がないものの、 あの渋さがたまらないピート・ポスルスウェートも、 重要な役で出演していました。 ブライアン・シンガーはゲイということも知られていますが、 そのせいか?渋い豪華キャストでありながら、 女っ気というものが全くありません。 強いていえば、ガブリエル・バーンの恋人で 弁護士役のスージー・エイミスがいましたが、 正直言って、三、四十代のそこそこ美人女優なら、 誰がやっても同じというような役でした。 あとは、「警察の似顔絵描きのヒト」とか、「病院の看護婦さん」とか、 役者の顔や名前よりも、その役柄で辛うじて覚えているという人が、 ちょっと出るくらいです。
サスペンス映画らしく、いわゆる推理上ミスリードを誘う シーンもありますが、 もちろん、ここでは言えません。 多分「2度見てね」というのは、そういう意味ではないでしょうか。 まずは気持ちよくだまされ(だまされない人もいるかもしれませんが)、 2度目には、自分がどこで判断を誤ったかを検証するという寸法です。 すばらしいアイデアに基づいてつくられているので、 まさかこれをパクろうという映画人はおりますまい。 うまいこと換骨奪胎できた人がいたとしたら、 その人はブライアン・シンガー以上の天才です。
おまけで1個だけいえば、 この映画には、日本人だけが不審に感じる名前ネタがあります。 これも、ここで言っちゃうと、見たときの楽しみが半減するので、 言わないでおきます。 「頭文字〈イニシャル〉Kに要注意」とだけ申し上げましょう。
2001年05月11日(金) |
サイダーハウス・ルール |
1年366日、毎日の誕生花というのがあるそうですね。 で、本によって若干ずつ違うかもしれませんが、 一応今日5月11日の花は、「林檎」だそうです。 ひょっとして、温暖な地方の方は ごらんになったことがない光景かもしれませんが、 林檎の花が白く咲き誇るさまは、 何とも清らかで、心温まるものですよ。
そこで今日は、林檎園が舞台になった映画を御紹介します。
サイダーハウス・ルール The Cider House Rules 1999年アメリカ ラッセ・ハルストレム監督 ジョン・アーヴィング【サイダーハウス・ルール】文春文庫
原作は、いわゆるジョン・アーヴィング三部作の1本です。 既に映画化され、高く評価されているあとの2本は、 「ガープの世界」と「ホテル・ニューハンプシャー」。 私はこの2本とも、原作も映画も大好きです。 「サイダー…」だけは不可能といわれながらも、 かなり以前から映画化の話はあったようです。 今年で四十路のマシュー・ブロデリックが主演候補という記事を、 80年代に読んだことがあるので、 これが走りだったのではないかと思います。 そして、あのレオナルド・ディカプリオも、 ちらりと主演のウワサがありました。 レオ君は、あの「ブギー・ナイツ」主演の話もあったそうなので、 話題作やらいわくつきの映画については、必ず出る名前とも言えます。
原作の発表からようやく16年、 なんと、アーヴィング自身がものした脚本で、 監督があのラッセ・ハルストレムで、 主演は、地味ながら一度見たら絶対にその演技が印象に残る トビー・マッガイアです。 「カラー・オブ・ハート」や「アイス・ストーム」の 彼の演技はすばらしかった! そして、脇ながら重要なラーチ医師役は、 ショーン・コネリーには蹴られたものの※ 負けず劣らずの貫祿のあるマイケル・ケインというじゃないですかっ。 これで期待するなという方が無理ではないでしょうか? ※コネリーとケインは同じスコットランド出身で親友同士で、 ケインは、自分にラーチ医師のオファーがあったとき、 コネリーに、「君、この役断らなかったか?」と電話した、 というようなことを、インタビューで答えていました。
テーマの1つは、いわば少年の旅立ちみたいなものです。 何度里子に出されても、孤児院に舞い戻るはめになる ホーマー少年は、持ち前の聡明さで 孤児院のスタッフにも子供たちにも、みんなに愛され、信頼されます。 ラーチ医師の助手として医術や医学的知識を授かるものの、 ある日訪ねてきた若いカップルに気に入られ、 彼らの誘いで孤児院を出て、 林檎園で働きながら、外の世界というものを知ります。
ラーチ医師は、尊敬すべき医者ではありますが、 若い頃の経験から、 女性の痛みや苦しみに変に理解があり、 女性たちを抑圧から解放する手助けをしているのですが、 それを手伝っていたホーマー少年が、 医師の行為に疑問を持ったのが、 旅立ちのきっかけともいえました。 抑圧の手助けとは何か?は、 興味のわいた方のみ見て知ってください。 ちょっと私の口からは言えない内容です。 ネタバレというよりは、心情的なことですが……。
映画としての出来は最高です。 素直なつくりで、画ヅラも美しく、 ある要素を除けば、大抵の人が、 「ああ、いい映画を見たなあ」という感慨に浸れるんじゃないかと。 ところが、その「要素」が余りにも大き過ぎて、 それだけで拒否反応を示す人も多いんじゃないかと思うほどです。 そして私の正直な感想は、 「原作と切り離して見られたら、どんなによかったか」 でした。 むしろ、原作に嫌悪感を示したような人の方が、 映画は好ましく思ったのでは?と、個人的には思います。
そんなわけで、分かりきったことを言うようですが、 やっぱり原作のある映画って、まずは映画を見て、 その後原作を読んだ方がいいと思いました。
とはいえ、ヴァージニア・ウルフ原作の「ダロウェイ夫人」みたいに、 原作読んでやっと訳がわかるシーンばっかり というような映画もありますが、 そういう作品は、んもう、ノれるか否かだけですね。 私はどうも、狐につままれた気分になりました。 人間の「意識の流れ」というのは、ああも不可解なものでしょうか? そういえば…… 「クレヨンしんちゃん」映画の何作目かで、 人の心をいともたやすく読んでしまうため、攻撃を先々まで読まれ、 非常に手ごわいという敵が登場しましたが、 その敵も、しんのすけ・ひまわりの野原兄妹の「意識の流れ」は読めず、 混乱してしまうのでした。 でも、「オラとひまわりの頭の中を読んでみろ!」と、 敢然と敵に立ち向かうしんちゃんの姿は、 清々しく感動させてくれますけどね。
5月10日から1週間、愛鳥週間だそうですね。 鳥というと、どうも苦手という方も結構いらっしゃるようですが、 私は見るのも食べるのも好きという、無節操でよくいる「トリ好き」です。 小学生のころ、学校の前で怪しげなおじさんが売っているヒヨコを買い、 毎日ハコベなどの草を摘んで、えさとして与えていたことがありました。 ただ、私なりに一生懸命世話をしたはずなのに、 成長してからの行方がとんと思い出せないのです。 大抵は、農村部の親戚のところに預けたりするのでょうが、 それもどうもピンと来ないし、 「さあ、今夜はごちそうよ」というようなこともなかったし、 どうなっちゃったんでしょうか、あの子。 飼った経験というと、この程度なのですけど、 例えばレース鳩や伝書鳩のオーナーなどというと、 人生賭けているような感じの方もいらっしゃるようですね。
で、鳩の世話が唯一の楽しみみたいな、 でも、とても心優しい青年が登場する映画を思い出しました。 その青年役をやっていたのは、ユアン・マッグレガーです。 McGregorという姓は、正確にはどう発音すればいいのか、 実はよくわからないのですが、 巷でよく見る「マクレガー」は、 「3文字目のGはどこ!?」と、すごい違和感を覚えるし、 「マグレガー」も何となく……なので、 個人的に「マッグレガー」とさせていただきます。 もっとも、本文中では「ユアン」と呼ぶと思いますけれども。
リトル・ヴォイスLittle Voice 1998年ギリス マーク・ハーマン監督
もともと舞台ミュージカルである本作は、 脚本家がジェーンの物真似の才能に惚れ込み、 書き下ろしたのだそうです。
美人というよりは、不思議なムードが印象に残る、 ジェーンの歌声は「聞き物」です。 興行師マイケル・ケインは、おそるべき俗物ぶりだし、 ブレンダ・フリッカーときたら、この母親の娘として生まれてきた ジェーンに同情したくなるような女性ですが、 ジェーンが、好きだった父亡き後、唯一心を許す青年は、 電話屋さんのユアンでした。 仕事仲間に吹き込まれた悪知恵で、 最初はジェーンを口説こうという下心でもって近づいてきますが、 内に籠もりがちなジェーンの寂しげな目を、 何とか外に向けさせようと腐心していました(健気なもんです)。
リトル・ヴォイスというのは、 ジェーン(役名はローラ)に母親がつけたニックネームです。 略して「LV」と呼んでいました。 いつもおどおど小さな声でしゃべるから、という意味のようです。 ところが、父が残した古いレコードに合わせて歌うとき、 彼女はジュディ・カーランドにもマリリン・モンローにもなれました。 彼女で一儲けしようと企んだマイケル・ケインは、 自分に気がある中年女(ブレンダ)をもいいように利用しました。 彼がこの役で各種の映画賞のノミネートや受賞をかちとったのは、 「演技に見えないほど嫌な奴だったから」じゃないかと思います。 「サイダーハウス・ルール」の医師役より、 2個目のオスカーはこちらで獲るべきだったとさえ思います。
全体の印象は皮肉で、後味は最低の映画ですが、 エンディングがやたらさわやかでもありました。 好き嫌いは分かれるところだと思いますが、 一応ある種の秀作としてお勧めです。
2001年05月09日(水) |
あなたがいたら/少女リンダ |
5月9日、「59(ゴーキュー→号泣)した映画」という、 さぶいダジャレに基づき、 次の作品を御紹介します。
あなたがいたら/少女リンダ Wish You Were Here 1986年イギリス デビッド・リーランド監督
今やミニシアターの老舗ともいえるシネスイッチ(銀座)の こけら落としがこの映画でした。 当時フジテレビで放映されていた天気予報で、 この映画の映像が使われていた覚えがあります。 週に1,2日しかテレビを見られない環境にあった私は、 その印象が特に強いのですが、 覚えていらっしゃる方、いませんか? エミリー・ロイドがスカートを軽くたくし上げ、 髪をなびかせて、自転車をこいでいました。
1951年のロンドンが舞台です。 性的に奔放な印象を与えるせいか、 少年たちから興味本位の目で見られやすい16歳のリンダを、 16歳のエミリー・ロイドが堂々と演じていました。 でも、リンダの初体験の相手は、 父親の友人で映写技師の中年男でした。 大好きだった母親を亡くし、 大嫌いな父親が自分を抑えつけようとすることにムカつき、 お行儀のよい妹にも何だか腹が立って、 彼女はいつもイライラし、 どこに行ってもトラブルメーカーになります。 父親の友人と寝たのも当てこすりだったのでしょう。 最初は必ずしもその男を好きだったわけではないけれど、 体のつながり以上のものを、知らずに求めるようになります。
結果、彼女は妊娠しました。 「町一番の名人」を自認し、ろくな避妊もしなかった中年男は、 この事実に狼狽し、「本当に俺の子か?」と、 一番言ってはならないせりふを言ってしまいます。 こんな状況で、彼女に中絶手術を勧める親戚の女性が、 亡き母を除けば一番まともな登場人物に見えました。 (事実、そうでした) そして、彼女が選んだ道は? こう書くと、「ああ、産んだのね」と 言われるのを待っているようなものですが、 そんなふうに読めてしまうほど、ありがちなお話ではありました。 が、私はこの映画でボロボロに泣いてしまったのです。 今となっては、「そういう体調だった」というよりほかはありません。 大好きな映画でありながら、 皆さんにお勧めしたいとは言い切れない部分が多いです。
私が見たのは、封切りから少し遅れ、 後楽園の中の映画館でしたが、 当時からつき合っていた相方が一緒でした。 正直言って、ちょっと奇天烈な映画につき合わさせて、 結構苦痛だったかもしれませんが、 涙も洟も一緒になって顔をべしゃべしゃにし、 それをティッシュでぬぐっていた私の手を握ってくれました ……はいいのですが、 ティッシュを握っていた方の手を握ったのでした。 後になって聞いたら、 「それはわかってたけど、ああなると引っ込みがつかなくて」 ということだそうです。
ところで、この映画のパンフレットには、 音楽評論家のピーター・バラカンさんが寄稿なさっていました。 (別件ですが、以前「イギリス人の感覚がよくわからない」 ということで、少し取り上げたことがありました)、 バラカンさんによると、原題Wish you were hereは、 イギリス人がよく使う表現で、 例えば旅先から出す絵はがきなどにこの一文を添えると、 「一緒に来たかった」という趣旨の社交辞令になるんだとか。 「あなたがここにいたら」と訳すと、 ちょっとロマンチックな想像をかきたてられますが、 「こういう慣用表現をタイトルに使うあたり、 どこにでもあるありふれた話だという ニュアンスを出したかったのでは?」 というのがバラカン説です。 そこまでハスに構えて見なくてもいい気もしますが、 今思うと、90年代に日本でも続々公開された、 イギリスの市井の人々を描いた秀作の 前哨戦だったのかもしれません。 監督デビッド・リーランドは、 近いところでは『スカートの翼ひろげて』の監督でもあります。 ほかの監督作は存じませんが、 イギリスの古きよきノスタルジーを 自分なりに撮るのが向いている人なのでしょうか。
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