気ままな日記
DiaryINDEX|past|will
2003年09月27日(土) |
ファインダー越しの風景 |
中2の息子の通う中学校の体育祭があった。 小学校の運動会では、お父さんもおじいちゃんもおばあちゃんも、家族総出で朝も早よから場所取り、ゴールの位置ではビデオ構えたお父さんお母さんが、白線の規制もなんのその、だんごになって我が子の晴れ姿を写し取ろうと必死になっていた。 でも、中学校ともなると、観に来るのは大抵お母さん。あとはおじいさん、おばあさんがちらほら。子供は子供たちだけで盛り上がっているので、お母さん同士の社交の場になっている。 わたしは、この、子供を通じたお母さん同士の関係ってもんに、とんと無縁なもんだから、自分の中学校の頃に思いを馳せたりなんかしながらボ〜ッと観戦。 障害物競走では、網をくぐる姿を写真に撮ろうと構えたはいいけど、撮り終ったらすっかり子供は先を走っていた。 ゴールの瞬間もそうだけど、ここぞという場面をずっと残しておきたいと、わたしはすぐにカメラを構えてきた。 そういう大事な場面、いつもカメラのファインダー越しに見ていた。 1枚の写真という形に残すことで頭が一杯で、この目で、生の姿をちゃんと見て実感して味わってこなかったような気がする。 だから、あとで振り返ってみてもゴールの瞬間どうだったかしら、子供の表情はどうだったかしらと思い出そうとしても思い出せないのかもしれない。
最近ひとりでカラオケボックスに寄り道することに凝っている。 友人と一緒というのもそれはそれで楽しいが、前々から予定を調節しあったり何時間も時間がとれないなんていうことが多くあんまり行けない。 思い切り発散したい!!思い切り歌いたい!自己陶酔したい!!ていう衝動が日中突如沸き起こってくることがあって、そういう時には、このひとりカラオケが実に手軽かつ快感でよろしい。 店によっては、ひとりではいりにくい店もあるけれど、個室にこもってしまえばこっちのもの。音程が狂おうが、思い切り低音に調節しようが自由自在。 今日も帰りに立ち寄る。 チューハイ一杯で小1時間、休むことなく歌いづめ。 中島みゆきの歌を、ケンカうっているように歌い、テレサテンの歌をしっとりと歌えるようになりたいのだが、日頃怒鳴る相手もいないし、大声出す機会もないせいかどうもふやけたような声しか出ず、迫力に欠ける。 でも、いいの。やっぱりのってくると実に気持良い。また行こ。
大ぶりの書棚を買うにあたり、不用な本の処分をした。 本は、もう読まないとわかっているものもなぜか捨て難い。 古本屋に持って行っても二束3文と聞く。 しかしここで見切りをつけないと自分の座るスペースさえなくなりそうである。 整理しはじめると、へ〜、こんな本いつ買ったかしら??と中身さえ覚えていない本がザクザク。 もう2度と読むことはないだろう育児の本、タイトルに惹かれてつい買ってしまうのだが、読み終わるとそれだけで安心してしまって、さっぱり身についていない、「生き方本」のたぐい。 特集記事に惹かれて次々買い、結果的には同じようなテーマばかりが集まってしまった「婦人公論」 その時々でマイブームとなった作家たちのエッセイや小説。 ついでに幼稚園の頃から途切れ途切れではあるけれど続けている日記まで出てきたりして・・・。 環境によって、微妙に興味の対象は変わっていたりするけれど、基本的なところは変わっていない。 同じようなことでつまずいて同じような理屈こねているわたしがいる。
本屋を散策していたら、「ひとを嫌うということ」(角川文庫)という本が目に飛び込んできた。 で、ちょっと立ち読み。 「嫌い」という感情は、そもそも理不尽で説明のつかないもの、自然な感情なので否定するものではない。自分が嫌いな相手からでさえも嫌われたくないって思うふしが、我々にある・・・というところを読んだら、惹かれたので購入した。 すべての人に好かれようなんて思っていなかったけど、それって裏をかえせばひとりの人から積極的に嫌われる可能性もあるってことで、そっちの方は、今まで考えてもなかった。 「嫌う」というマイナスな感情は、職場のようなところでは表に出さないのが常識だったし、プライベートな場面でも、嫌われるほどには人間関係を深めてこなかった。 だから嫌われ慣れてない(というか自分で気づいてないだけかも)。そのくせ自分は他人のだれかれを嫌っていたりする。 自分の「嫌い」も、相手からの「嫌い」も、それはそれとして自然な感情として流せればちょっとは楽になるかなあ。 本屋さんに行くといつも思うけど、自分にとって今関心のあるテーマを扱った本って、膨大な量の本の中からでも、なぜかオーラを発していて不思議と目にとまるものよね。
|