■求めても 得られぬものは 求めない■
あきらめた、というわけじゃない
【生き様の合理化】
そういう前向きな考え方だ
生きてきたということは 生きてゆくということは
良い意味での出会いと『かかわり』が増え 悪い意味での別れづらい『しがらみ』が増えることだ
増えすぎる、と言ってもいい
その故は 人という生き物が「寂しがり」だからに違いない
そしてまた、欲が深いことの現れなのだろう
一人になるのが寂しくて どうでもよい人まで抱きかかえようとする
一人になる強さを持たないままに 上辺の優しさで紡いだつながりの弱さと脆さは 一人でいながら生きるよりも己を傷つけるのだ
吟味・整理
これを疎かにしていると 傷ついたり悲しんだりが増える
もうボクは、【あっけらかん】としていたい(笑)
心の底から求めていても 物理的に手に入れられないものに
心を割く時間は余っていない
ジレンマに苛まれる時間も余っていない
この年になって「ヒマ」な人なんて稀だろう(笑)
たとえ 本当の優しさを感じる人であっても 実際にそばにいなければ『その人はいない』のだ
たとえ そばにいようとする意思と願望があろうとも 物理的に不可能ならば『その人はいない』のだ
「達者で暮らせよ♪」と心の底から願うこと
それが今のボクを必ず強くする
| 2011年06月17日(金) |
【自由】という【逃げ口上】 |
自由と無法を履き違えては 軽く蹴散らされる命 理由と無能を棚上げしては 罪作りなたらい回し
※フジタスミト 詞・曲「サル」より
【自由】
なんて美しい言葉だ
何ものにも囚われず 思うがままに生きること
根本では素晴らしい意味をなすこの言葉は そのあまりの美しさにより人の【甘え】まで抱きこむ
【自由】は私的に都合よく解釈することによって
『社会秩序から逃げている自分を正当化する手段』に利用される
他人への迷惑を甚だ棚上げしながら 個人の都合と利益を優先する人間が言うところの【自由】は
ただの『一人よがり』でしかないのだ
「法=ルール」は そうしたエゴイズムの暴走を制御するためにある
法の世界に生きる人間は無法な世界を標榜するが 法が何ゆえにこの世に生まれたかと考えると簡単だ
秩序で制御しなければ「人は命を奪い合う」からだ
動物なら食べるためだけにしか殺さない ※子どもを守るなどの一部例外あり
利害関係や恨みつらみだけで殺しあう
これは人間だけが持つ残酷な性だ
人は道徳的に守るべき抑制のなかで 【人を思いやりながら日々を生きる】のだ
自分勝手な自由を謳歌して無秩序に暮らす人間は 社会秩序を守って暮らす人間に生かされているのに さも「自分の力だけで生きている錯覚」をしている
ともすれば自分が蔑み貶める人間に 実は依存しながら日々を生きているという滑稽を 面と向かって笑われないだけでも儲けものなのだ
自由は【秩序に抑制された真心の不自由】の上にあるべきものだ
最近は「大の大人」でさえ 目に余る酷い人間が増えてきた(気のせいじゃない)
これは幼少期の情操教育の現場において 自由の履き違えが適用されて 育つ子どもが増えていることも一因だと考えられる
知識も経験も微量な子どもたちが 将来に適切な自己判断が下せるように 秩序と抑制のなかで義務教育を受ける
こんな「当たり前」のことにまで 最近では履き違えた自由が適用されている
子どもたちの可能性を広げる
この非常に美しい謳い文句には 残念ながらケチのつけようがなく(笑) 表向きには本当にその通りだ
このことで一部に天才は必ず生まれる
でも世の中は天才ばっかりでは回らない
世の大半は凡人により構成されていて 社会のルールに準じて慎ましやかに暮らす
そのための準備段階として 秩序と抑制を伴う義務教育は「当たり前」だ
【家のちょっとした用事を優先して平気で学校を休む】
今ではこれが普通で 学校を休むことに良心の呵責や 落ちこぼれを危惧する不安など微塵もないらしい
以前に子どもを持つ知り合いが
「土日だと混むから学校を休ませてBBQ行った」
そんなハナシをきいて絶句した
正直に言うと・・・
「こんなアホな親に育てられて気の毒に」と思った
ボクらの時代はどうだった?
少々体調が悪いと主張しても親は聞き入れず
「学校休むなんてけしからん、早よ行ってこい!」
それが本当は普通、なのだ
子どもの将来を考えたら 詰め込むべき機会に知識を詰め込むことは 将来に必ず独り立ちする準備として不可欠なのだ
非常に低確率な「一人の天才」を生むために 子どもの創造性を育むという綺麗事を掲げて 秩序や規律の箍を緩める教育の現場が増えているのだ
ボクも勉強は嫌いだった
しかし、勉強しておいて良かったと思うことがある また、勉強しといたら良かったと後悔することが多々ある
目の前にある嫌いで仕方のないものが 将来の自分の創造性の地盤を作っていることを 子どもはきっと理解も納得も出来はしない
だから秩序と規律が必要なのだ
親も教育者もこの部分を履き違えてはいけない
もういちど言おう
酷い大の大人が増えてきた
これは気のせいじゃない
もう手遅れなのかもしれないが 【立ち戻る必要がある】とボクは思う
拝金主義で成り立つ現代社会であることは 気に入らないとはいえ今や当たり前になってしまった
襤褸を纏えど心は錦
清貧であれと願う気持ちは持ち続けるべきだが 貨幣経済のシステム真っ只中で暮らすボクゆえ そりゃお金はあるに越したことはないと正直に思う(笑)
お金ですべてを買うことは決して出来ない
でも・・・ お金にしか目がない人間なら お金さえ持てば相当の欲望が叶えられる時代だ
だから「金こそ正義」と悪びれもせずに胸をはり 勝つ為なら手段を選ばない輩が幅を利かすようになる
背中から相手を斬るような真似を平気でする
「潔い」という言葉が何処にも見当たらない
法に触れなきゃ何をしてもかまわないのだ
もはやこれが当たり前のようになり 錯覚を起こした後に麻痺した人間が後に続く
近年このメンタリティの変化に 甚だ落胆している人も多いだろう
ズルい手段でお金を得ている人は ボクらが知らないだけで本当に沢山存在する
例えば【生活保護不正受給】のように 社会的弱者の立場から本当にお金を必要とする人のそばで その立場を利用して働かずにお金だけを手にする輩がいたり
例えば【募金と称した搾取システム】のように 公然と善意を前面に出して喧伝する募金にも関わらず 実はその団体が利益を上げて潤う仕組みを持つなど
ネットのメリットでだいぶ明るみに出たとはいえ そうしたズルい手段でお金を得るシステムに限りがない
お金はあるに越したことはない
しかし、そのお金を得るためなら何をしても良いはずがない
「人として」
その健全な秩序を遵守してこそ【人】たりえる
敢えて言うなら その秩序を無視する輩は人たりえずと言うことだ
貧乏人のひがみに聞こえたら仕方がないが
真っ当に生きて貧乏ならばそれもよし
と、少し意地をはってみる(笑)
| 2011年06月07日(火) |
「手を合わせる」を日常に |
1年三ヶ月ぶりに「ひびき」
パスワードやらが分からなくて困った(笑)
某SNSから退会して ほんの少しネット界に生まれた余暇を用いて 気まぐれに綴っていきたいと思います
「がれき」との住み分けとか、あんまり考えません(笑)
読んだ方が抱く気持ちは どうか読んだ方の胸の内にとどめてください
【読み捨て】で、どうぞ宜しくお願いします ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今年2011年の初めから、 ひとつ始めて続いていることがある
思考を必要としない経過時間を「南無阿弥陀仏」で埋める
※決して宗教にハマったわけじゃない、誤解なきよう
たとえば �,�風呂で湯船につかっている数分 �△�布団に入って眠気がくるまでの数分
頭をめぐらせることない時間が生まれたとき ボクは「南無阿弥陀仏」を連呼するようになった
誰も見てないところでは手を合わせながら、だ
きっかけは2010晩秋にあった叔父の法事だ
その時のお参りはいつもと少し違った
毎回「はい、仕事、仕事」的に経を読み上げる なんとも私的には尊敬出来ない坊さんなのだが(笑)
その日の最後の「南無阿弥陀仏」連呼がやたら長かった
ボクはいつも坊さんと一緒に声を出して拝むのだが その日は息苦しくなってしまうほどにすこぶる長かった
最初のうちは「長い、しんどい、もうええやろ」 てな具合に色々と私心めぐらせる余裕があったのだが
いつのまにか私心が削がれて ただ「唱えることだけ」が残っていた
余計な感情や思考を 差し挟む余裕もなくなるほどに動作を続けると どうやら脳内麻薬が出るようで(笑)
それに味をしめて始めたのだが・・・
今では口で「南無阿弥陀仏」と連呼しながら 頭で別のことを考えられるほどに慣れてしまっている始末(笑)
ね?決して信心が根拠で拝んでないでしょう?(笑)
ただ、日によっては なんとなく心落ち着くときがあるのは確かだ
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そして春から、この南無阿弥陀仏連呼以外に ボクは毎朝かならず二度手を合わせるようになった
まず、朝起きたら部屋のカーテンを開けて 窓越しの太陽に向かって朝日を浴びながら拝む
「すべての生命の源は【太陽】である」
これは、とある明治期の新興宗教の教えで たまたまその文献をネットで興味深く読み 言われてみれば確かにそうだな、と思ったことと 睡眠学における体内時計のリセットの理にもかなう
そうして太陽に手を合わせたあとは
寝室の高いところに祀ってある 「今宮神社」さんのお札に対して
二礼 二拍手 「今日も宜しくお願いします」と合掌 一礼
というのを毎日欠かさずやっている
たまたま今年、町内会の役回りで 今宮神社さんの護符をもらいにいった
もらいに行った人は 町内に配るペラペラのコピー護符ではなく(笑) しっかりとした色紙に手書きの護符をもらうのだ
この護符をもらったことも何かのサイン
そんな気がしている
折りしも東北関東大震災で被災された方 お亡くなりになった方もおられる今日だ
なんの信仰心も持たない【似非】に過ぎないとはいえ
手を合わせるということに ボクなりの意味を持って続けていこうと思う
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