count down to the end/A[mail]
|
二人のはじまり 10■2002年03月30日(土)
「わたしはもっともっと傷つかなきゃいけない。」
僕はその意味がわからず、どうして?ときいた。
生徒は答えの代わりに、今まで彼女自身が体験してきた「傷」を語った。
彼女はもう、あまりに多くの傷を受けていた。
聞き終えたあと、僕は慰める事も出来ないくらい状態だった。
人が受けた傷なのに、自分がそれを受けたように苦しんでいた。
自分のことのように辛い、僕はそう言うのが精一杯だった。
二人のはじまり 9■2002年03月29日(金)
生徒とは携帯の電話番号とメールアドレスを交換していたため、よく連絡を取るようになっていた。
もっとも、連絡といっても事務的なことではなく、たいがいは生徒が今日あったことやら何やらを報告してくることが多かった。
そして僕は、なお生徒を女性としてみることはなかった。
ある日、昼間に数通来るのがきまりになっていたメールがぱったりと止まった。
その日は彼氏に会う日曜ではなかったので、僕は不思議に思っていた。
それくらい、僕にとって生徒と関わっていることが日常的であり、当然になっていた。
そして、夜に電話が来た。
通話が始まっても、生徒は何も話さなかった。
僕は生徒の名前を呼んだ。
それでも彼女は答えなかった。
どうした?
「…」
どうした?大丈夫か?
「先生」
弱い声だった。
「また、やっちゃった。」
生徒は語り始めた。
その日、街を歩いている時に男に声を掛けられ、そいつの言うがままにホテルへ行ったこと。
そこで何かの注射をされて、気持ちが悪いということ。
僕はあわて、彼女の体調を聞き出し、病院へ行けと怒鳴った。
「いいよそんなの。連れてってくれる人がいないし。」
だったら、僕が送っていく。用意しろ。
「いいよ。今夜これから彼氏に会うんだし。」
病院へ行く、行かないの言い合いになった。
明らかに彼女の声は弱かった、それでも彼女は彼氏に会うことを考えていた。
生徒が、大丈夫、と言うのでいい加減僕は病院へ連れていくことを諦めた。
具合が悪くなったらすぐ僕に連絡せよ、とだけ約束して。
彼女はまた話し始めた。
春休みで、やることがない。
彼氏は仕事で忙しい。
もともと学校でも浮いているので「友達なんていないよ」という。
「だから、誰かに付いていくの。」
そんな…。
暇つぶしにしては、君は傷つきすぎてる。
「これくらいなら、まだいい方でしょ。」
生徒はそこで語気を強めた。
「これくらいじゃ傷ついたのうちに入らないって。わたしはもっともっと傷つかなきゃいけないの。」
二人のはじまり 8■2002年03月28日(木)
前の日は公園を歩き、その翌日は夜に生徒の指導だった。
手の自傷があって以来、僕は彼女のことばかり考えていた。
玄関のインターフォンを鳴らすと、しばらくして生徒が出迎えた。
部屋にはいると、生徒はこたつに入り、たばこを吸った。
3月も終わろうとしている時期に、こたつは似合わなくなっていた。
その日の指導は、生徒が右手を使えないために、進みがゆっくりだった。
生徒は時折、折れた右手を確認していた。
「骨を固定するためにね、今日、病院で針金を刺されたの。痛いよお。」
包帯の隙間から見えた、アルミ製のギプスが放つ気味の悪い光を僕は忘れられない。
指導が終わった後。
「先生、告白した?」
生徒は、僕が気にしていると言った元彼女のことを持ち出した。
してない。ここ数日はそんな気分じゃいられなかったし。
「なんで?私?」
まあ、そうだね。
「なんで、そんなに気にするの?他人事じゃん。」
気になることは気になるんだよ。
「じゃあ、好き?私のこと。」
いや、そうでもない。
「ああもう、じれったいなあ。じゃ、何、私は先生に振られたってこと?」 振られたって…
「だってそう言うことじゃない。だって、先生、私のこと好きじゃないんでしょう?」
生徒としては、好きだよ。
「もういい。もうお別れだね。私、振られた人には二度と会わない主義だから。帰って。もう来ないで。」
生徒の目が本気で怒っていた。声がいつもと違う低いトーンになっていた。
しかしだな…
「帰って!帰れ!」
生徒は座りながら、僕を腕で押し出そうとした。
けれど、180センチを超える僕の体に対して、その試みがむだと分かると生徒はうつむいて黙った。
おい。
僕が問いかけても、生徒は返事をしなかった。
ただ、生徒の表情から感情が消えてゆくように見えた。
唐突に、生徒は包帯の結び目に手を掛け、包帯をほどき始めた。
おい、やめなさい。
「やだ。」
やだ、じゃない。そんなことしちゃだめだ。
「いい。私の手なんだから私の勝手でいいでしょ。」
包帯はどんどん解かれてゆく。それでも患部である薬指と小指の付け根はまだ見えなかった。
よくない。やめろ!
とっさに僕は両手で彼女の両腕をつかみ、包帯から左手を離させた。
「離して!離して!離せ!大きい声出すよ。」
止めるか?
「分かった、止める。止めるから離して。痛い。」
僕は彼女の両手首をいやというほど握っていた。
彼女が痛がったので、僕は手を離した。
生徒の両手首には、僕の手の跡がはっきりと赤く残っていた。
僕は我に返って、その力の入れ具合に驚いた。
僕は目のあたりを片手で覆うようにしてこたつのテーブルに頬杖をついた。
心臓が動悸していた。
しばらく、二人も何も言わず、何もせずに、緊張が収まってゆくのを待った。
生徒はほどけた包帯を巻き直し始めた。
僕は言った。
どうして、そんなことする?怪我がひどくなるじゃないか。
「いいの、見たいの。自分がどれだけやったか。それに見せたいの。先生に。」
どうして?
「いいから。見せたかったの。ねえ、上手く巻けないんだけど。」
そう言って、生徒は右手を差し出した。
僕は、巻くには巻いたが、やり方を知らないので、包帯はあまりに緩かった。
生徒は出来映えの悪さをひとしきりののしった後、包帯のたわみの間から患部をのぞき込んだ。
「ほら、すごい。見て見て。」
僕も見た。指の付け根にはワイヤを入れた切り口、青あざ、そしていくつかの傷があった。
物で叩いた結果、そこは潰れたようになっていた。
こんなになるまで叩いたんだな。
「人間の体って、意外と丈夫だよね。」
もう、やっちゃいけない。分かった?
「はいはい、分かった分かった。いちいちうるさいなあ、親じゃないんだから。」
23時を過ぎ、僕は帰り支度をしていると、生徒が言った。
「ね、先生、キスしよう。」
え?
「ねえ、キス。」
馬鹿言うな。
僕は笑って彼女の部屋を出、明るく照らされた廊下を歩き始めた。
「先生。」
生徒はそう言って廊下の証明を消すと、僕の前につつつと寄ってきて目を閉じた。
小さな唇を僕に向けて。
はいはい。またな。
僕は生徒の肩を叩いて階段へ向かった。
「なんだ、つまんないの。」
振り返ると、ふてくされ気味で生徒は僕の後を追ってきた。
挨拶を交わし外へ出、僕は彼女の部屋を見やってから帰った。
二人のはじまり 7■2002年03月27日(水)
前日の約束通り、僕らは会った。
家から少し離れた場所で彼女を車に乗せ、このあたりでは大きい、近くの公園へ向かうことにした。
3月中頃で大分暖かだった。
「これ、可愛いでしょ?」
僕の車に乗り込んだ生徒は、手のことに触れる前に着こなしのことを持ち出した。
肩を大きく出したその服と、セブンのジーパン。
可愛いね。かっこいい感じもあって、ブリトニー、かな。
「でしょう。でもね、この間、この格好してたら、お姉ちゃんに専門学校のCMの子見たいって言われちゃって。微妙だよね。」
ははは。
コンビニで飲み物と生徒のマルボロ・メンソールを買い、公園を歩いた。
生徒が鞄を持ちにくそうにしていたので、僕が代わりに持った。
なんだか、恋人のようなことをしているな、と思った。
しばらく歩いた後にベンチに座り、生徒はライターの火をつけようとしたが、利き手でない左手では上手く点火できなかった。
火、つけるのも大変になったな。
僕はこの日初めて手の怪我のことへ話題を振った。
「ま、ね。」
昨日はよく眠れた?
「寝たねえ。以外によく寝た。」
驚いたよ、本当に。怪我の程度はどれくらいだって?
「ギプスがとれるまで1ヶ月くらい。医者に言われたよ、君はボクサーかって。」
それくらい何度もぶつけたんだ。
「あ、でも親には階段から落ちたときに手をついたらこうなったって言ってけどね。彼氏にも、一応、そう言ってあるし。で、夜中なのに“大丈夫?今から行くから待ってて”とかやたら心配するし、いろいろ聞こうとするし。ああもう、面倒くさくって。私は大丈夫だから、あなたは明日の仕事に備えてって、言っても聞かないし。」
そりゃ、彼氏は心配するだろう。でも、自分で折ったとは言わなかったんだ。
「あの人だと、理解できないと思う、自分で骨を折ったって言っても。先生はさ、なんか、何言っても良さそうじゃん。だから言うけど。だいたい、異常じゃん?自分で自分の体を傷つけてるんだよ。」 僕は思った。異常かどうか。ただ、彼女は手を折らずにはいられないくらい追いつめられていたことは事実だ。
彼氏には余計な心配を掛けたくない、か。
「そういうこと。」
彼女は新しいたばこに火をつけて、吸った。
顔を上向きにして、吐いた煙を目で追う姿は、傍目にはかったるく見える。
「先生は吸わないの?」
ああ、煙にむせちゃて。
「子どもだなあ。」
生徒は棒きれをつまみ上げ、地面に”Rip Slyme”と書き込んだ。
この前、シングル出たよね。
「私買ったよ。pez君、大好き!」
生徒は次に”Radiohead”と書いた。
聞かせてもらってます。でもね、一曲目と二曲目にはまってて、それ以降聞いてないんだ。30分くらい、リピートでparanoia androidを聞いてたりしてる。
「みんなあれがいいって言うよね。私はkarma police最高!なんだけどね。でも先生、やばいよ、レディオヘッドなんか連続で聞いてたら。」
確かにね。気分が暗くなり過ぎないうちに止めるようにするよ。
しばらく音楽談義をして公園を出、彼女を家まで送った。
じゃ。な。
「じゃあね。また明日、先生、家に来るんだよね。」
ああ、そうだよ。
「じゃあ、あれだね、これで三日連続で先生に会うことになるね。バイバイ」
ははは。バイバイ。
二人のはじまり 6■2002年03月26日(火)
車の中での電話は30分ほど続いていた。
外は雨が降り出し、雨粒が屋根を打つ音がだんだんと大きくなっていた。
「ねえ、どこ行く?」
生徒はまた同じことを聞き始めた。
馬鹿なことを言うんじゃない、手を怪我したばっかりだろう。今日は休みなさい。
「やだ。」
それに、もう12時過ぎたよ。家の人が心配するよ。いや、こんな時間に出してくれないだろう?
「え?そんなの関係ないよ。あの人達は別に私のこと気にしてないから。」
そうなの?
「そうだよ。普通、普通。」
僕は返事に窮していた。
そのとき雨足が激しくなり、雷鳴まで聞こえ始めた。
嵐とはこのことだな、と思った。
「先生、雨すごくない?っていうか、大丈夫?」
まあ、大丈夫だよ。車の中だから。
「でも、なんか、もう、いいや。今日は無理だよね。明日は?」
そうだな。天気も良くなるだろうしね。そうしよう。 今日は休みなさい。
「はーい、なんか電話しちゃってごめんね。」
ああ、でも、ほんと、君が無事で安心した。
僕らは午後に会う約束をして電話を切った。
二人のはじまり 5■2002年03月25日(月)
「好き」
え?
「だから、先生のことが好きなの。」
僕は、わけが分からなかった。 「好き」だという言葉の意味が理解できなかった。
「ねえ、先生、私のこと好き?」
ああ、僕はどの生徒も好きだよ。
「そういうんじゃなくて、好きかどうか聞いているの。ねえ、好き?」
君は大切な生徒だよ。
「そういうんじゃなくて、もう…。」
そんな問答を繰り返していた。 僕はそのとき生徒にたいして好きだとかいう感情は持っていなかった。 当時の僕は少し前に再開した高校時代の元彼女のことを思っていた。 別れてからも何年も意地の張り合いで、一月前に会ったときも、お互いにそのうちいい恋人を見つけるとかなんとかと見栄を張っていた。
「ね、先生、聞いてる?付き合おうよ。」
付き合おうにも、君には彼氏がいるじゃないか。
「それはそれ。」
わからないな。君には好きな彼氏がいる。そして彼氏は君を大切にしている。それでいじゃないか。 「分かってないなあ。わたしは先生のこと好きだっていってるの。だから、付き合うべきなの。」
男はみんな君のことを好きになると決まってるのかい。
「そう、だってみんな私のこと可愛いって言ってくれるんだよ。好きだって言ってくるんだよ。先生だけ違うなんて許せない。」
君は可愛いし、好きだよ。
「生徒としてってことでしょ?」
まあ、そうだね。
「そういう好きは要らないってば。」
しかし…突然そんな風に言われても戸惑うよ。
「先生、付き合っている人いないの?」
いない。
「好きな人とかは?」
まあ、いることはいる。自分がその人のことを好きなのかどうか不確かだけど。
それで僕は、生徒に元彼女のことを話した。
「そう、じゃ、先生はその女の人に告白してよ。」
しかし…そんな風に言われても…
「告白しなきゃダメなの。」
…分かったよ…。
話題はこのあたりで変わり、再び今から会う?という話になった。
二人のはじまり 4■2002年03月24日(日)
生徒とのはじめての電話での会話は続いた。
僕は乗っていた車を近くの公園に停めて話していた。
「先生・・・。」
どうした?
「私、指の骨折っちゃった・・・自分で。」
自分で?
「うん、壁にねぶつけたり、物で叩いたりしたんだけど、なかなか丈夫なものだね、人間の骨って。」
このときの生徒は、まるで彼女の精神が別の場所に遊離して、残った肉体だけがかろうじてぱくぱくと喋っているようだった。
「右手の小指と中指がね、くたんと曲がって動かなくなったの。」
僕は、事態の重大さを知りながらも、彼女と同じように感情を表に出さず、驚くほど冷静だった。
手当ては、今はもう大丈夫かい?
「うん。病院行ってきた。お父さんに連れてってもらった。自分でやったとは言ってないよ、階段でよろけて手をついたら折れたって言った。びっくりした?」
驚くよ・・・でも今は無事だとわかって安心してるよ・・・。
「ごめんなさい。」
大丈夫だよ。何があった?話なら付き合うよ。
「今度ピアノのコンクールがあるんだけど、今回は絶対に上手くいかないと思うの。今まで結構、賞とか貰ってたわけ。だったら次は、前回よりもいい成績残さなきゃいけないでしょう?でも、今回はダメだと分かるの。絶対に上手く弾けない。」
生徒の少し語気が強くなってきていた。
「失敗するのがわかっててやるのは馬鹿みたいじゃん、それに、これで発表会とか出るのを止めれば、周りには『あの子は途中でピアノを辞めたけどあのまま行けば凄いことになったかも』みたいな風に言われるじゃない。逆に失敗したら、『あの子はこの程度でおしまいか』とか言われるんだよ。そんなんだったらもう出ない。勝ち逃げだよ。でも、指折っちゃったから、もう出られないよ。」
僕は返答に困っていたが、とにかく自分の気持ちを伝えた。
ピアノの事は、なんとも言えないけど、それよりか、手のことが心配で心配で仕方ないよ。
「ごめんね。そんなに心配した?」
心配だよ!
「だったら、今から私に会いに来る?私のことが心配なんでしょう?」
こんな時間に?
もう日付が変わろうとしていた。
「先生。」
ん?
「好き。」
二人のはじまり 3■2002年03月23日(土)
何度目かの指導の後、緊急の連絡先にと、生徒に携帯の番号とメールアドレスを教えた。
その日以来、生徒からはときどきメールが来るようになった。
確か、その頃僕は、彼女に“ふつうに”先生らしいメールを返していたと思う。
意識することなど何もなかった。
生徒には彼氏がいて、しかも生徒はその彼氏にどれほど愛されているかをよく聞かされていたから。
僕は教科の指導方針、志望校の選定などのことで頭が一杯だった。
ある晩、車で家に帰る途中に携帯が鳴り、それは生徒と僕が電話で話す初めての時だった。
「もしもし、先生?」
初めて聞く声だった。
いつもの勢いあるトーンではなく、感情の抜けた消えてしまいそうな声。
その声に驚き、しばらく何も言えなかった僕だが、ようやく返すことが出来た。
あ…ああ、こんばんは。
しかし、僕はとぼけた答えは生徒の耳には入っていないようだった。
二人のはじまり 2■2002年03月22日(金)
最初の指導を終え、僕は生徒と話ができたことに安心していた。
どんなバイト・仕事または学校であろうと、その場での人付き合いは重要だと考えている。
生徒とは、休憩や指導の後に音楽や本の話をした。
しかし話題はいつしか趣味からプライベートな部分へ移った。
その日彼女の部屋の棚に、いつもの本や消臭剤とともに、ライトグリーンの小さな小箱があるのに気付いた。
一目で“それ”と分かるものだったが、僕は何も訊かずにいた。
関心がなかったのだ。
しかし、生徒が自ら話題を振ってきた。
「それ。」
ん?ああ、ネックレスか何かかな?
「彼氏に貰ったんだぁ。毎月、必ずプレゼントをくれるんだよ。」
大切にされているねえ。
そう僕が言うと、生徒は溢れんばかりの笑顔で「うんっ!」と答えた。
幸せそうだね、生徒の幸せそうな顔を見て僕は素直に嬉しかった。
この頃の僕は妹を思う兄、そんな気持だった。
家庭教師としては理想的な姿だった。
しかし、二人のこんな牧場的な関係は長く続かず…。
はじまり■2002年03月01日(金)
きっと、街のどこかですれ違うだけだったら、顔すら合わなかっただろう。 僕はうつむいていて、君は前を見ていて。
でも、現実には二人は知り合って。
ただ、君には、別に付き合っている人がいて、 僕は家庭教師で、君は生徒という間柄で。
お互いに「好き」と言った。
|