Experiences in UK
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2006年04月17日(月) 第140週 2006.4.10-17 エリザベス女王80歳に、エリザベス女王トリヴィア

(エリザベス女王80歳に)
今月21日はエリザベス女王の誕生日です。今年で御年80歳になられます。
英王室のウェッブ・サイトでは、これを記念して「女王に関する80の真実(80 facts about the queen)」というページが開設されています。「エリザベス二世女王は、ウィリアム征服王から数えて第四十代の君主です」から始まって、女王に関する基礎的な情報からtriviaまで紹介されていて、一読すればちょっとしたエリザベス女王通になれます。

(エリザベス女王トリヴィア)
11日付ガーディアン紙は、これら「80の真実」を紹介するとともに、「王室が採用しなかったもの」として独自の10項目を付け加えていました。王室(女王)を揶揄するような項目が目立つのは、左派系紙としての面目躍如というところでしょうか。
タイムズ紙もまったく同様に「王室が採り上げなかった幾つかの真実」として若干の項目を追加していましたが、右派系であるタイムズ紙のものは、穏当であまり面白くないトリヴィアでした。

ガーディアン紙が紹介していた追加の10項目は以下です。
・昨年の政府から王室への公務に係る補助金は、3,670万ポンド(約73億円)にのぼった。
・1964年には、有権者の3割が女王は神によって選ばれたと考えていた。
・ところが、2000年までの間に世論は大きく変化した。女王がいないと英国は悪くなると考える人は、今では44%に過ぎない。
・つましい暮らしをしていることで知られている女王は、使用人たちに対して、宮殿の絨毯が擦り減らないように通路の端を歩きなさいと言っているらしい。
・1978年に反王室派のケンブリッジの学生たちは、エジンバラ公(エリザベス女王の夫でありケンブリッジ大総長)が大学を訪問した際、セックス・ピストルズ・バージョンの「ゴッド・セイブ・ザ・クィーン」を演奏した。
・女王は、米タイム誌の1952年の「マン・オブ・ザ・イヤー」(現在のパーソン・オブ・ザ・イヤー)に選ばれた。
・女王は、クィーンのブライアン・メイ、レッド・ツェッペリンのジミー・ペイジ、エリック・クラプトン、ジェフ・ベックら(ブリティッシュ・ロックを代表するミュージシャン達)に対して、「それでどんなお仕事をなさっているのですか?」と尋ねた。
・2000年11月、エリザベス女王は、バッキンガム宮殿内で働いている者達に対して携帯電話の持込を禁止した。サン紙によると、「女王は、ひっきりなしに携帯電話が鳴り出すことが気に障った」らしい。とりわけ食事中に。
・ある世論調査によると、王室はコストに見合った存在であると考えている人は10人に1人だった。また、王室はよくやっていると考えている人は4人に1人だった。
・女王の朝食時の食卓には、女王の好物であるコーン・フレークの入ったタッパーが置かれている。これは、2003年にバッキンガム宮殿に潜入取材したデイリー・ミラー紙の記者が明らかにしたもの。

ちなみに、今回私が気づいたさらなるトリヴィアがありました。ちょっとマニア向けです。
・エリザベス女王より前にタイム誌の「マン・オブ・ザ・イヤー」(1927年にスタート)に選ばれた女性は一人しかいない。それは、ウィンザー公(エドワード八世)に「王冠よりも恋」を選択させた米国人シンプソン夫人である(ウィキペディア、参照)。
一言だけ説明を加えると、シンプソン夫人はエリザベス女王と因縁のある人物です。エドワード八世は現エリザベス女王の伯父に当たる人物で、シンプソン夫人(すでに離婚暦があり夫がいた)との「許されない」結婚によるエドワード八世退位の結果、エリザベスに王位継承権が回ってきたのでした。


2006年04月10日(月) 第139週 2006.4.3-10 英国の不動産業界に激震?、サー・ジョン・ソーン・ミュージアム

(英国の不動産業界に激震?)
BBCに“Whistleblower”(内部告発者)という番組があります。英国のメディアがしばしばやる手口ですが、インサイダーに成りすましてある組織や会社などの内部に潜入し、その実態を暴くという趣向のドキュメンタリー番組です。
3月下旬にBBC記者が英国の不動産仲介業者に潜入取材した番組が放映されました。その過激な取材手法に興味があったので、先月、私はたまたまその番組を見ていました(番組ウェブ・サイトはココ。潜入取材を敢行した女性記者がなかなか魅力的)。

番組では、数ヶ月間、英大手不動産仲介業者Foxtonsなどに潜入した様子が、隠しカメラなどを通じて生々しくレポートされていました。そこで判明した事実は、衝撃的なものでした。
売り手や買い手を騙して詐欺的な手法で不動産の価格設定をする手法、手段を問わずに会社の利益をあげるべく社員を叱咤している管理職の姿、契約書におけるサイン偽造の手口、パスポート偽造を依頼し成果に対してキャッシュで報酬を支払う様子などが赤裸々に映し出されていました。ある小さな不動産屋では途中でメディア関係者であることがばれてしまい、記者が叩き出される場面までありました。
隠しカメラの映像に出てくる登場人物のほとんどにはモザイクがかけられることもなくそのままテレビで流れており、日本では考えられないような過激なドキュメンタリー番組でした。取り上げられた不動産屋のイメージ・ダウンは必至でしょう。
番組を放映する前に、BBCは各取材(潜入?)先に対してその旨を通報し、コメントを求めたようですが、すべて真実の姿だからでしょうが、強い抗議の声があったわけではなく言い訳がましいコメントが紹介されていました。BBCも堂々たるものです。

この番組、さすがに反響が大きかったようで、5日付のBBCニュースのウェブ・サイトに“BBC documentary shakes property world”という記事が出ていました。議会においても本件が取り上げられたそうです。
おそらく事前にタレコミ情報があり、入念な事前調査を踏まえたうえでの潜入取材なのでしょうが、当の潜入記者含めて、勇気と根気の必要なドキュメンタリー番組作りです。一視聴者として、もっとも効果的でパワフルな、悪徳業者の告発方法だという事も実感しました。

今回、主として取り上げられていた不動産屋のFoxtonsは、ここ数年の間に派手な広告戦略で急速に頭角を現し始めて大手にのし上がった会社のようです。確かに、ロンドンの街角でガラス張りのお洒落な店舗をかまえた同社オフィスは非常に目立ちます。
業界全体の問題なのか、一部の悪徳業者の問題なのかは定かではありませんが、一般のロンドン市民にとっては驚きの事実でした。

(サー・ジョン・ソーン・ミュージアム)
週末にロンドン市内の博物館・美術館めぐりに出かけました。
もっとも印象的だったのが、サー・ジョン・ソーン・ミュージアム(ウェブ・サイトはこちら)でした。同博物館に置いてあった小さなリーフレットのメッセージはこのように始まります。「ようこそ、サー・ジョン・ソーン・ミュージアムへ。ここはロンドンにあるすべての博物館の中でおそらくもっとも風変わりな博物館です」。

この博物館の建物は、18〜19世紀に活躍した著名な建築家Sir John Soane(1753-1837)の住宅兼オフィスです。住宅街の一角にあり、外観はごくごく普通のタウンハウスなのですが、内部に一歩足を踏み入れると、文字通り非日常の世界がこれでもかというくらいに展開されます。これはありがちな誇張された描写ではありません。館内を回っているうちに浮かんでくる言葉は、「偏執狂」=「モノマニア。一つのことに異常な執着をもち、常軌を逸した行動をする人」(大辞林による)です。
ソーン氏は、建築家として若いころから名を成した人物で、シティ中心部の入り組んだ市街地の中にあって巨大かつ荘厳な外観で人目を引くバンク・オブ・イングランドのビルを設計したり、首相官邸ダウニング10内のインテリアを担当したりしたそうです。サーの称号を持っていることからも分かるとおり、当時の名士の一人だったようです。

そんな名士による「常軌を逸した行動」とは、彼の住居内で展開された世界各地の美術品・骨董品の蒐集癖です。止まる所を知らなかった収集癖のおかげで、当初は一棟だった彼の住居は最終的に三棟まで広がったそうです。さらに、それら膨大な蒐集品の陳列方法が尋常ではありません。心理的または物理的な効果をねらって様々な仕掛けが施された忍者屋敷のような空間の中に、古今東西の人類の痕跡を示す品々がびっしりと展示されています。ある部屋には整然と、ある部屋には雑然と置かれた数々の蒐集品は、置き方ひとつで観賞者に対する無言のメッセージを放っているようで、正直なところ、途中で少し気味が悪くなってきます。
展示されているものは、素人目には良く分からないものの、専門家が一生涯の精魂を注ぎ込んで蒐集したものだけあって、かなり貴重なものも含まれているようです。なかでも、中央ホールに横たわるケース入りの石棺はエジプトで出土された王家のもので、内部にびっしりと古代エジプトの象形文字が書き込まれており、間近でみると素人でも息を飲む迫力です。
そう、この博物館は、あのだだっ広い大英博物館の中のギリシャ、ローマ、エジプトなど花形コーナーを、規模の点で数百分の一に凝縮したようなイメージです。質的には劣っていないのではないかと思えます。

ソーン氏は、自らが蒐集した数多の美術品とめいっぱい意匠を凝らしてそれらを展示した住居をまるごと、自らの死後に国に寄贈して一般公開してもらうことにしました。ただし、そこには条件がついており、その条件とは「可能な限り、自分(ソーン氏)が死んだ時の状態のままを維持すること」だったそうです。展示方法にまで及ぶ彼のこだわりを知ることができます。
同ミュージアムは入場無料ですが、ドネーションとして3ポンド程度の拠出をお願いする箱が入り口においてあります。200年近く前のソーン氏の「狂気」を保存して語り継ぐためであれば、高くないドネーションという気がします。
ロンドンで一箇所だけ訪れて驚いてみたいという方には、オススメのミュージアムです。

なお、私にサー・ジョン・ソーン・ミュージアムの存在とその魅力を教えてくれたのは、以前にも紹介したことのある好著、清水晶子「ロンドンの小さな博物館」(集英社新書)でした。小さな本ですが、博物館に興味があるロンドン観光中級以上の方には、絶好のガイドブックです。

(その他)
その後、ナショナル・ポートレート・ギャラリー、サマーセット・ハウス、コヴェント・ガーデン、シアター・ミュージアムなどを回ってこの日の日程を終了しました。
ナショナル・ポートレート・ギャラリーは、有名なナショナル・ギャラリーの裏手にあり、その名のとおり肖像画だけを集めて展示している美術館です。中世(チューダー朝)の時代から現代に至るまで、時系列に従って膨大な量の肖像画が展示されています。その中の一枚として、サー・ジョン・ソーンの肖像画も含まれていました。
美術音痴の私のような人間でもけっこう楽しめる美術館です。ただ、博物館・美術館の類を訪れる際にはいつも感じることですが、その広さには参ってしまいました。
同様のことが、劇場街コヴェント・ガーデンにあるシアター・ミュージアムにも言えます。演劇通にはお腹いっぱいであろうふんだんな展示が果てしなく続くといった按配でした(私はついでに立ち寄ったヤジ馬的な来場者でしたが)。

先週末に続いて敢行した妻と二人で回るいまさらのロンドン市内観光、けっこう新鮮で面白いものです。当家滞在中の義弟にこどもをみてもらえるからこそできるのですが(義弟に多謝!)。


2006年04月04日(火) 第138週 2006.3.27-4.3 昨年夏のスコットランド旅行3

(第八日:アバディーン〜ダンディー)
八日目の朝、インヴァネスから東へと進路をとり、途中でジャコバイトの反乱軍が殲滅された古戦場カロードン(ジャコバイト殲滅は1746年4月)などに立ち寄りつつ、スコットランド北東部の海岸沿いの町アバディーンを目指しました。
アバディーンは、日本と歴史上の縁がある町です。長崎グラバー邸でお馴染みの商人トマス・グラバーはアバディーン出身であり、グラバー氏の取りもちにより、幕末に薩長両藩から何人かの日本人がアバディーンの地を踏んでいるそうです。有名なところでは、長州藩の井上聞多(後の井上馨)と伊藤俊輔(後の伊藤博文)のコンビがアバディーンのグラバー家を訪ねています。

アバディーンで楽しみにしていたのが、ガイドブックに紹介されていた「英国でもっともおいしい」という評判のフィッシュ・アンド・チップスの店です。英国内には、私が知っているだけでも、「英国一うまいフィッシュ・アンド・チップスの店」は十軒くらいあるのですが、アバディーンのThe Ashvaleは数々の賞をもらっているというので、ちょっと信用できるかもしれないと期待をしていました。
果たしてどうだったか。いい線いっているのではないかというのが私の感想でした。
フィッシュ・アンド・チップスは英国を代表する単純なジャンク・フードですが、日本のお好み焼きなどと異なって、実はけっこう店によって品質の違いが大きいものです。The Ashvaleは、五段階評価するならば明らかにAかBのランクに入ると思いました。
店の雰囲気も開放的かつフレンドリーでした。広めの駐車場があり、店内に子供を遊ばせておける施設もありということで、家族で安心して入れる店でした。

この日の夜、ちょっと不思議な体験をしました。
宿舎としてスコットランド東海岸にある小都市ダンディー(Dandee)のB&Bを予約していたのですが、夜の8時半頃に疲れ果てて到着してみると、瀟洒な館から一人の女主人(老婆)が出てきて、「実は、申し訳ないけどうちのB&Bの部屋が都合悪くなったので、近くの別のB&Bを押さえたからそっちに泊まって欲しい」と言われました。「え?」と思ったものの、寝る場所があるのならいいかと安心しつつも、一抹の不安が頭をよぎりました。
我々が予約をしていたはずのそのB&Bは、外見は感じのいい建物なのですが、中に入ってよく見るとロビーの内壁の多くがはげ落ちていて、照明もやけに暗い感じでした。そして、背中をまるめて上目遣いにこちらを見上げる鷲鼻の老婆の他に人影が見当たらず、なにやら不気味な感じがしました。そんなこともあって、呆然と老婆の説明を聞いていたのですが、「うちで食事かお茶でもしてから行くか、それともすぐに別のB&Bに行くか?」と聞かれたので、これも事前に予約してあったはずの夕食をそのB&Bでとっていくことにしました。
案内されたロビー隣のダイニング・ルームは誰もいなくて真っ暗だったのですが、パチッと照明をともすと幼児用のハイ・チェアー一個含めて我々の分のテーブルだけがすでにセットされていました。我々は、老婆ご自慢のお手製スープから始まり、メイン・ディッシュとデザートまでの3コース料理を注文しました。食事を運び込んで来るたびに老婆は我々のテーブルの脇でくちゃくちゃとよく喋ります。60歳を超えた感じにみえる割には、えらく元気です。
子供相手に愛想よく遊んでくれたり、自分の身の上話を語りだしたりという感じで、1時間以上が経過したでしょうか。そろそろ移動しようという頃になって、体調がよくなかった妻がスープだけを飲んでメイン料理にほとんど手をつけなかったことに気づいた老婆は、宿に帰ってからおなかがすくといけないからというので、手早く手製のサンドイッチを作ってラップに包んで持ってきてくれました。
到着当初に我々が感じていた不気味な雰囲気とは対照的に、婆さんの言動は過剰なまでに親切だったわけですが、その極めつけとして、夕食が終わって婆さんが手配してくれたというB&Bに移動しようとした際に夕食代の支払いをしようとすると、「これはいいから」と頑として夕食代を受け取ろうとしませんでした。なんでこの婆さんにただ飯をご馳走にならないといけないのか意味がわからなかったのですが、結局押し切られてしまいました。
その後、車で5分程度の宿まで、婆さんは我々の車に同乗して案内してくれました。我々が新たなB&Bの部屋に入ったのを確認すると、午後11時近い時間だったのですが、ひとりとぼとぼと歩いて帰っていきました。
長い一日の終わりに居心地のいい部屋のベッドに腰掛けて一息ついた時、妻と私はまさに狐につままれたような気分でいっぱいでした。

この話には後日談があります。
当初の老婆の説明によると、我々の宿泊予約を受けて数日後に、上記のように不都合が生じたために別のB&Bに移ってほしいというメールを返したそうです。ところが、その頃には我々はすでにロンドンを離れていたため、そのメールに返信することが出来ず、そのために到着時まで連絡がつかなかったということでした。
しかし、ロンドンに帰ってからメール・チェックをしても、老婆が言うようなメールは入っていませんでした。結果的に何の問題もなかったばかりか、タダ飯までご馳走になったわけですが、ちょっと寒〜い感じのお話です。

(第九〜十日:スターリング)
スコットランド最終日の午前中、最後の訪問地として、スコットランドのほぼ中心に位置する町スターリングに立ち寄りました。
イングランドとの関係を軸にしたスコットランドの歴史を踏まえた場合、スターリング訪問はどうしても外せません。その理由は、映画「ブレイブ・ハート」に描かれたスコットランド独立をかけたイングランドとの激闘のストーリー(1300年前後)の主たる舞台がスターリング一帯だったからです。
古都スターリングの中心には、エディンバラ城さながらに岩山の上にそびえるスターリング城があります。スターリング城からは、はるかに広がる緑の平野と城下町、そして古戦場ともなったくねくね蛇行するフォース川の眺めを一望することができます。また、城から数百メートル先の位置にぬっと地面から突き出ている巨大な塔を遠く望むことができます。これは、「ブレイブ・ハート」の主人公でスコットランド随一の英雄ウィリアム・ウォレスの記念塔です。スターリング城とウォレス記念塔が向かい合っているというのが、なかなかドラマチックな光景です。
この日午後には、いよいよスコットランドを抜けて、イングランド側に南下しました。

十日目、イングランド北東部にある街ダーラムに立ち寄りました。ダーラムは、歴史と文化の香りがする、落ち着いた雰囲気の街でした(ブレア首相が幼少期を過ごしたのもダーラム)。街の中心には、世界遺産に登録されているダーラム大聖堂とダーラム城(現在はダーラム大学の学生寮)があります。ダーラム大聖堂は、質実剛健な印象がする古いタイプの建築様式の大聖堂でした。ダーラム大学は、オックスフォード、ケンブリッジに次いで三番目に古い大学らしいです。
街の中心には賑やかなマーケット広場があり、我々が訪れた日はフレンチ・マーケットが開かれていて、多くの人々が集まっていました。
ダーラム観光を終えてからノース・ヨークシャームーア国立公園を抜けて、車は一路ロンドンに向かい、我々の長い旅は終了しました。

(おまけの感想:スコットランド北部の田舎で存在感を示すEU)
ロンドンで暮らしていて英国がEU(欧州連合)の一員であることを実感することはまれです。日常生活のレベルで言うと、いまだに欧州単一通貨ユーロではなくてポンドが流通していることの影響が大きいでしょう(英国のユーロ参加は当分ないとみられる)。
メディアの論調や政治家の発言などからも、EUに対する批判的な見解や敵対的な意見がしばしば聞こえてきこそすれ、EUへの愛着や友好的なコメントはあまり聞こえてこないのが実状です。

そもそも英国と大陸欧州との歴史的な関係は、表面的にも実態的にもギクシャクしたものでした。ナポレオンやヒトラーに散々苦しめられた経験と、結果としてそれらの脅威を蹴散らしたというプライドが、英国人の対欧州深層心理には刻印されているのかもしれません。そのような心的傾向は、形を変えながらも現在まで続いているようにみえます。
英国はもちろんEU主要国の一つではありながら、いわゆる原加盟6カ国(フランス・西ドイツ・ベルギー・オランダ・ルクセンブルク・イタリア)で発足したEUの淵源となる組織の欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)が発足して約20年も経ってから、ようやくEUの前身であるEC(欧州共同体)に入れてもらうことができたという経緯がありました。英国が大きく遅れてECに参加することになった事情は双方にあったようですが、その溝は表面的にも取り繕われることなく現在にいたっているようにみえます。

さらに、英国と米国の「特別な関係」は、濃淡の波はあったにせよ数世紀に渡って継続して存在しているものであり、英国が欧州にありながら欧州の一員として自他ともに認めにくくしている主因の一つになっていることは、疑う余地なしでしょう。昨年末、ロンドン郊外(うちの近所)のハンプトン・コート宮殿で、EU加盟25か国の首脳が一同に会するEU非公式首脳会議が開催されましたが(英国が議長国)、その前後でも、今後の欧州諸国が目指すべき経済社会モデルは英米型か大陸欧州型かというお決まりの論争がメディアを賑わしていました。
身近な一般ロンドン市民と話をした印象でも、EUは自分たちとは関係のないかなり遠い存在と捉えられているように思えます。

しかし、英国の地方に行くと、ロンドンではほとんど見かけないEUのマークをしばしば目にすることに新鮮な驚きを覚えます。
今回、スカイ島で我々が泊まったB&Bの近くに公共のキャンプ施設があったのですが、そこに翻っていた旗は三本あり、英国の国旗ユニオン・ジャックと青地に白い十字St. Andrew's Crossをデザインしたスコットランド国旗、それに青地に12個の環状の星を配したEU国旗でした。他の場所でもEU国旗を見かける機会が多々ありました。
そして、スコットランド本土の最北端へ向かう途上、海沿いを北上する国道で大規模な道路工事が行われていたのですが、道路わきの看板に目をやるとEU国旗のマークとともに「この道路工事資金はEUのファンドによって賄われている」という説明書きがありました。どうやらこれはEUの地域政策を支える構造基金によるインフラ整備工事のようでした。
こんな辺境の地でEUを実感するというのは奇妙に思えましたが、辺境の地であるからこそEUとの関係が密接だということなのでしょう。他方、人がほとんど住んでいないような場所でせっせとカネをつぎ込まないと存在感を示せないEUって何なんだろうという素朴な疑問も持ってしまいました。
後で調べてみると、スコットランドにはけっこうEUからの資金が流れているようでした。イングランドと大陸欧州(フランス)との確執のなかでつねに取り合いの的となってきたスコットランドという過去の構図が何となく想起されてきます。


2006年04月03日(月) 第138週 2006.3.27-4.3 パットニーがブルーになる日、こどもの英語教育

ロンドンの春も三寒四温でやって来ます。先週終わりから再び少し肌寒くなってきており、予報によると今週のロンドンは「三寒」に当たるようです。

(パットニーがブルーになる日)
毎春恒例のオックス・ブリッジ対抗のボート・レース大会が、2日(日曜)、今年もパットニー・ブリッジを起点にして開催されました(昨年の様子は、05年3月28日、参照)。この日のパットニーの街は、外部からの多くのビジターを迎えてはなやいだ雰囲気に包まれます。

ボート・レースの日程とあわせて街の多くのパブでは、パットニー・ミュージック・フェスティバルなる企画が行われます。それぞれのパブやバーで音楽の生演奏などが行われ、スペシャルな感じになるようです。なぜこの時期にこのような企画があるのか、ずっと不思議でした。
今年このフェスティバルに潜入取材してきた妻の報告から、同企画開催の背景が判明しました。レース後の近隣パブは、どこも普段は見かけない雰囲気の若い男女でごった返していたそうです。彼らは、オックスフォードとケンブリッジの学生ないしは関係者らしく、レースの応援のためにパットニーにやってきて、そのまま盛り上がっていたそうです。彼らに盛り上がる場を提供するというのが、このフェスティバルの実情でした。

妻と一緒に潜入してきた義弟が、たまたま濃いブルー(ダーク・ブルー)のマフラーを着用していたところ、見知らぬ若者から「君はオックスフォードの卒業生か?チアーズ!」と声をかけられたそうです。ダーク・ブルーはオックスフォードのシンボル・カラーであり、ライト・ブルーがケンブリッジのシンボル・カラーとなっているためです。話しかけてきた相手はケンブリッジの学生だったらしく、今年のレースがオックスフォードの勝利に終わったため、祝福の言葉をかけられたという次第です。
義弟はオックスフォード卒業生でもサポーターでもなかったため、気まずげに説明したそうです。改めて周囲を見回すと、店内にはライト・ブルーの色が目立ち、どうやらそこはケンブリッジの関係者がたむろしているパブだったようです。

ロンドンで普段お目にかかれないオックス・ブリッジの学生たちの生態を効率的に観察するには、ボート・レース後のパットニーの街に繰り出すのがいいのではないでしょうか。

(ロンドン市内観光バス)
ロンドン都心部には、海外主要都市と同様に、市内観光のための巡回バスが走っています。先週土曜日、当地に来て初めて市内観光バスに乗ってみました。
ロンドンには同様の観光バスが二系統走っているのですが、今回我々が利用したのはオリジナル・ツアー社の方でした。どちらも概ね同じようなサービスを提供しています。料金が18ポンド、チケットは24時間有効、市内主要観光スポットを巡回しているバスに乗り放題で、バスには日本語を含めたオーディオ・ガイドが付いているという内容です。同じチケットで、バスのみならず、テムズ河リバー・クルーズなどにも参加できます。

各観光スポットについては、さすがになじみのある場所ばかりで新味はなかったのですが、オープントップの二階建てバスに乗ってのんびり市内を回るのは気持ちのいいものでした。
一回だけ途中下車して、行ったことのなかったロンドン・ダンジョン(ダンジョンは地下牢という意味)に立ち寄ってみました。「かなりリアルで大人でも怖い」という評判も聞いていたのですが、びっくりして楽しむお化け屋敷系のアトラクション施設でした。「料金(16ポンド)との見合いで話のネタとして行く価値を検討する場所」ということでしょう。子供だましの施設ではありますが、内部はかなり暗くて、長時間かかるので、小さなこどもは連れていかない方がいいでしょう。

(ある日本人のこどもの英語)
ある日の通勤バスでの出来事。
途中の停留所で、日本人らしき感じのお母さんと女の子(四〜五歳)が乗りこんできました。彼らは私の斜め前の座席に座ったのですが、しばらくして、聞こえてくる女の子の声が英語であることに気づきました。立派なネイティヴ風のこども英語です。
「ほー」と思い、様子をうかがうと、お母さんはナンシー関のでっかい挿絵が入った文庫本を読みながら女の子の相手をしていました。そしてお母さんの方は、もっぱら日本語で女の子に話しかけていました。女の子は日本語も理解しているようでしたが、本人が話すのはあくまで英語であり、はた目にはまったく奇妙な光景でした。

実は二人は親子ではなくて、大人の女性はシッターさんのような方だったのかもしれません。それにしても、あんなに完璧なネイティヴの英語を話す日本人の女の子はどういう家庭環境で育っているのだろうと色々と想像してしまいました。

(長男の英語)
うちの長男はバスの女の子と同年代ですが、あんな完璧な英語は喋れません。それでも、恥ずかしながら最近知ったのですが、長男(四歳)の英会話の上達にはびっくりです。
地元の小学校(レセプション)に昨年秋から通い始めてちょうど六ヶ月が経過し、先週金曜日に二ターム目が終了しました。学校生活は、特に問題なく過ぎているようで、英語ができないなりになんとかうまく溶け込めているのかなと思っていました。
しかし、彼の英語力は、私の想像以上に進歩していたようです。

先日、長男が知り合いの英国人(大人)と会話をする様をしばらくそばで見る機会があったのですが、会話の反射神経という点でははるかに我々(両親)を凌駕していました。頭の中で英作文の作業をするようなことなく、普通に会話のキャッチボールを交わすことができるようになっていたのです。文法的には必ずしも正確ではなく、語彙も少ないのですが、相手の言うことを理解し、コミュニケーションをとるという点において、適切な言葉がよどみなく出てくることにびっくりしてしまいました。
聞くところによると、クラスでは挙手して発言したりもしているようです。まわりと比べて下手であっても、我々と違って英語で会話することへの抵抗感のようなものが少ないのでしょう。
土日を除いて毎日6時間、英語だけの世界でサバイバルしてきているのですから、このくらいできるようになるのは自然なのかもしれませんが、たいしたもんです。

(こどもの英語教育)
日本人駐在員で子供の言語教育をどうするかという点については、様々な意見があります。中途半端に英語の環境に置くよりも、日本人学校などに通わせてきっちりと日本語を学ばせる方が将来的に有益だとか、学校では英語でいいけど家庭では完全に日本語環境にして、親が英語を教えることもやめるべきだとか、あるいは小さいうちに英語漬けにして(可能であれば家庭でも英語を話すようにして)しっかりと覚えさせることが将来への財産になるとか、色々です。

うちはどうかというと、学校は完全に英語の環境にあり、家庭でも日本語と並行して英語を積極的に教えるようにしています。言語教育という点については、どの考え方が正解なのかよく分からないので深く考えていないのですが、我々は地元のこどもたちとのコミュニケーションの機会がなるべく多くなるようにさせたいということに一番のプライオリティを置いています。その目的を実現させるためには英語もできた方がいいという意味で、家庭でもできるだけ教えるようにしてきました(というか、そうなってきました)。

ロンドンの公立学校は多様な民族構成になっていて、彼らとの交流は長男にとって掛け替えのない体験になっているように思います。英語が達者になるかどうかよりも、地元の子供たちと言葉の面で臆することなく対等に付き合って、色々なことを吸収して欲しいというのが我々の願いです。


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