文
- 痩せ犬
2004年05月31日(月)
こどもは 首の長い自転車にまたがって 坂を登っていた もうつかれた と おもちゃのラッパのような声で呟いて自転車を降りた 後からもうひとりのこどもが 胴の低い自転車で追い越していった 前から足の長い黒い犬が歩いてくる 先のこどもはその痩せた犬を睨むようにしながら 後のこどもの背中をじっと見ていた
- きみはこの夕闇をみたか
2004年05月18日(火)
五月の夕暮れは、南国の果実をてのひらの上でゆっくりと潰す快感に似ている。粘りけのある果汁が指のあいだをこぼれ伝い落ちていくように、夕陽はゆるやかに宵に移っていくのだ。 単に夕焼けの色から連想しているだけかもしれない。湿気に満ちた夕風のせいか。ゆるく体を揉まれているような奇妙に心地よく、気分が違えばきっと不快にも思うに違いない温度は五月のものだ。 近所の中学校は最終下校時刻を告げる音楽を流し始めた。木管の円い音が、茜色の雲の中に融けていく。ボレロ だ。 あの緋色の雲は溶け落ちて、いきものの体液のようなあたたかい雨になるだろう。 そろそろ帰ろうか、そう思い立ってわたしはとうとう腰を上げた。気分転換の散歩にと家を出たのは午後の四時ごろだったと覚えていたから、もう三時間も何もせずにただ歩いて、座って、空を見上げていたことになる。 家からの連絡はまだない。
夜に落ちる夕闇のスピードには追いつきようもない。ひろびろと頭上に広がった空は、わたしの歩いていくその方向のみを残してもうほとんどすべてが深い藍色に染まっていた。わたしの足元から家へと伸びる道の左右には暗い鏡のように水を張った若い田があり、田の向こう遠くにやはり暗い雑木林が広がっている。藍色はその林の上辺すれすれに、薄紫から赤みを帯びて途切れる。あのかすかな燈の中に、家があり、そこに今日、新しい命が生まれるのだ。家からの連絡はまだない。 一本道はとうとうと続く。田のほかには何もないこのいなかでは、陽の落ちた屋外を歩くものなど少ない。まるで不偏の孤独のような遠い道を、しかし向こうから人が歩いてくる。ちらり、ちらり、呼吸するように強まり弱まりしている灯は、おそらくは煙草だろう。男だろうと思った。小さな歩幅でせかせかと歩く様子が神経質な感じを受けた。すれ違う段になって、わざわざ男は道の傍に寄り、わたしに進路を譲った。小さく頭を下げて、互いに顔をそむけて行き違う。男の顔は薄暗くはっきりしなかったが、心なしか口元と指先だけが明るく見えた。煙草を挟んだ唇は薄く、美しいかたちをしていると思った。 ちらちらと細かく揺れる煙が流れてくる。一本道を反対の方向へ歩いていくわたしと男の距離はだんだんと離れていくというのに、煙はくるくるとわたしの周りをまわってしつこく纏わりついた。 道の両脇の水田から蛙の声が空に昇っていく。闇を押し上げようとしているようだ。焦らなくとも、朝はすぐに巡ってくるだろう。新しい日が始まることを、きみが生まれくることを、今はっきりと祝福しよう。 黒い鳥がつうと空を横切っていった。男の煙草の香りがバニラに似ていたことに気付いた。
- Rose Du Mai
2004年05月15日(土)
ざあっと音を立てて風が枝葉を凪いでいった。洗濯物を取り込もうと上がったマンション屋上の干し場からは、道路を挟んで向かいにひらけた運動公園がよく見下ろせた。冬枯れの灰色から一気に新緑に芽吹いた四月には目が痛くなるくらいの鮮やかさで迫った銀杏や花水木が、今日は黄ばんで褪せて見える。ざあっと耳元を撫でていく風が温い。靡いて頬に落ちかかった髪をかきあげて後ろに流す。指に絡まる髪はじっとりと重い。雨が降りそうだ。 風をはらんで膨らむシーツは、洗濯したてのはずがどうも色味がすっとしない。天気が好くないせいだ。空は薄い雲によって切れ切れに覆われている。光はたしかに降ってくる。けれどもそれはずいぶんとしらけてよそよそしく感じられた。 洗濯バサミを外して、物干し竿からシーツを取り込む。木綿の布地は想像した通りまだ薄ら冷たいままだった。洗剤の匂いがする。もう少し干していたいけれど、このあと天気は更に崩れる見込み、という予報を聞いた。ひとつため息をついて、ばっと両手を広げる。どの色も現実感を持たない視界の中で、やはり真剣みのない白が流れはためく。 強い風が吹いた。あ、と思ったときにはもうシーツは風に絡めとられていた。シングル半の大きなベッドを覆う大きなシーツが、生き物のように空を舞った。次の瞬間には屋上のコンクリートの上に落ちて、もがきながら不恰好に転がっていく。すぐに屋上の端に到達して、視界から消えた。落ちてしまったのだ。 あっけにとられていたのは数秒で、「拾いに行かなければ」と思う前にもう階段を駆け下りていた。 せっかく洗濯したというのに、雨ざらし吹きさらしの屋上をあれだけ転げまわれば、もう一度洗いなおさないことには上に寝られそうにもない。屋上だけならまだよかった。道路の方に落ちたとなると、車や人に踏まれていることも考えられるだろう。すぐに取りに行ったとしても、休日の昼下がりだ。あまり奇麗な状態で拾えるとは思えない。自分のうかつさを悔やみながら道路に下りて、低気圧の強風の中でどこかに落ちているはずの白いかたまりを探した。 シーツは運動公園の中にあった。まだ人に踏まれたような痕跡もない。安堵して、けれども洗濯しなおさなければならないことに変わりはないのだと思いついて気が萎えた。 拾い上げると、ぱらぱらと砂が落ちた。運動場だけあって、水はけの良さそうな粒のそろった砂だった。粘着力のあるものではない。叩けばだいぶ落ちるだろう。ある程度奇麗にしてから部屋に持って帰ろうと、ぐるぐるに絡んでまるまったシーツをほどいて広げると、はらり、と一枚の紙切れが地面に舞った。 それは象牙色をしたカードだった。HAPPY BIRTHDAY、と青で印字された下に、手書きの黒文字の一行が添えられていた。 「五月のばらを愛するように、きみに誠実であろうと思う。」 はじめ無感動に、そして次につくづくとその文字を見詰めた。シーツが屋上から落ちて運動公園まで転がってくる間に、どこかから引っ掛けてきてしまったのだろう。しかし返すあてもない。 カードを裏返してみた。プロヴァンスローズが一輪、描かれていた。 表に返してみる。そしてまた、裏に返してみた。 風が温く耳元を撫でていった。いつの間にか落としてしまっていたシーツを拾うと、指先に感じた水気が気化して、すっとするような涼やかな気持ちになった。 わたしはカードをジーンズのポケットにしまった。シーツを抱えなおし、運動公園からマンションに向かった。シーツは奇麗に洗いなおしたら、乾燥機にかけてすっきりしよう。 自分の部屋に上がる階段の途中で、ぽったりと目を引く桃色の花びらを見つけた。 拾い上げると、かすかに動いた空気の中に、甘いばらの香りを感じたように思った。 指先に触れた花びらはしっとりと、動物の舌のようにしなやかだった。
- 機械のように黙々と
2004年05月12日(水)
眼を閉じると岩屋の天井のようなごつごつとしたテクスチュアが広がる。貧血を起こしているのだと気付いてはいたがそれはどうしようもないことで、安静にして嵐が止むのを待っている。 頭の中では不安定な独楽が回っている。よろめきながらもけして倒れず、だからこそこの頭蓋の中は平穏を取り戻すことができんのだ。 テーブルの上には珈琲カップが置かれている。白い陶製で、底と筒の継ぎ目がひどく滑らかに仕上げられている。カップに残った珈琲は濃く、橙色を帯びて冷めていた。揺れる視界を泳がすように、手を伸ばす。かつんと音がした。しばらく切っていなかった爪がカップの持ち手に触れて、滑る。宙を二、三度引っ掻いて、爪は細く冷たい陶器を掴んだ。 眼を閉じると意識が渦を巻いてちぎれるような気がした。岩屋の天井は流れていく。細く長く続くこの洞は、ひどく奥深い。所々が大きく隆起した黒い無機質の塊は、奥に進むにつれて益々無骨になり、荒々しい形になる。天井は益々低くなる。 この洞の先は、行き止まるだろうか。気がつけば両側の壁も段々と自分の身幅に迫っている。ごつごつと、黒々と、この細い道は、けれども終わらない。終わりはないのだ。道は狭まって、いつかうねり、沈み、ただの闇になる。 闇は独楽の軸に結びついていた。くろくろと、けれど倒れることのない独楽に、意識は巻き取られていく。 カップの下に敷かれた受け皿の傍には灰が落ちている。両の瞼を押し開くと、当然のようにテーブルには珈琲カップがありすぐ傍には灰皿があり、右手には吸い差しの煙草をつまんでいた。灰皿に灰を落とす。ち、と小さな火が散る。唐突に嫌になってその小さな火は潰し消した。灰皿にはぞっとするほど汚い、炎の遺骸が捨てられている。 立ち上がって、吸殻を捨ててくれるように店主に頼んだ。足元の感覚はもう戻っていた。店の中には天井があるが、コンクリートと断熱材と紙とでできた平坦で終わりのある区切られたものだ。頭の上がすっかり吹きぬけたところへ出ようと思った。会計を済ませて店の扉を開いた。 がりがりと音を立てて血管の壁に毒物がぶつかって流れていく。外はもう暗かった。わたしは時間を刻んでいた。
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