口唇炎と別れたい
     2004年02月28日(土)

 目がさめて、あ、と思うと、口唇炎が出来ている。気になって何度でも舌で確かめてしまうので、はじめは小さな異物感だった口唇炎はあっというまに赤く不恰好なできものに成長してしまう。この赤さというのが実は美しいと思っている。熟れすぎず未成熟でもないグミの実の透明な赤なのだ。口の中の粘膜にできた腫れ物はどうしてこう奇麗な色をしているんだろう。
 膿んでくると別である。膿は体の何処にできたとしても黄色い。汚れた黄色は腐敗の色だ。汚らしい。水気を含んだかさぶたもこの色。やわらかいかさぶたはつい剥がしたくなるから傍迷惑で嫌い。
 口唇炎は炎症が進むと皮が破れて当然その後はかさぶたになる。唇にできたかさぶたは憎い。笑ったりイ段の発音をしたりして唇を横に引くと切れる。血が出る。痛い。
 粘膜に覆われた部分というのは伸び縮みする部分である。唇だってそうだ。けれども唇やら粘膜やらを怪我してできるかさぶたは伸縮性に欠ける。どうして臨機応変に回復する方法を選べないのだろう。口唇炎ができるとそんなことばかり考える。理不尽なのはわたしの方だという自覚はある。
 唇や口の周りに吹き出物ができるのはビタミンが足りないのだとか胃が悪いのだとか言われる。唇に外傷を作るせいでもある。唇を噛む癖がある。煙草を吸う。食事が不規則。原因ならいくらでもある。けれども口唇炎口角炎口内炎ができたときほど煙草は吸いたくなるし気になるから唇も噛む。治らない。ビタミンを錠剤で摂る。効能・効果にしっかりと「口内炎、口角炎、口唇炎」と書いてある。これは効く。煙草を吸っていても食事を摂っていなくてもなんとなく二週間程度で治る。唇を噛んでうっかり口唇炎を食い破ってしまうと治らない。この場合は一月半ほどかかる。その間無表情で出来る限り唇を動かさないように過ごさなければならなくなる。不便だ。
 口唇炎は寝て起きるといつの間にかできている。出来るときが唐突なのと同じくらい治るときもあっけない。寝て起きたらいくらかよくなっている。ということは睡眠が必要なのか。寝ていれば治るのか。口唇炎ができている間はずっと寝ていればそれだけ早く治るのか。気になって仕方がない。それもこれも今口唇炎ができているからである。今わたしの気を一番引くもの、口唇炎。これだけ気にしているといっそ恋愛気分ではなかろうか。初期の見た目は結構好き。でも末永く付き合いたくはない。むしろとっとと別れたい。ではなくて早く治って欲しい。
 口唇炎は治っても癖になる。同じ場所に何度でも出来るので注意が必要だ。別れ汚い恋人である。ぱっと見としおらしい態度に騙されてはなりません。こいつは腐ると黄色くなるぞと自分に言聞かせましょう。他人に微笑むことまで邪魔をします。口唇炎と別れるためには生活の改善から。下手に傷つけると後を引くこともお忘れなく。
 そんなことを考えながらやはり気付くと口唇炎に構っている。
 口唇炎は別れ難い。

     つないだ手
     2004年02月27日(金)

 四歳まで、父は私の髪を他人に絶対に触らせようとしなかった。


 一ヶ月に一度、月のはじめの土曜日の午後、私と父は連れ立って出掛けていた。
 その頃に住んでいた家は、郵便局の社宅で、母と父と私の三人きりで住むにも小さすぎる、六畳一間の独身局員用の部屋だった。
 父と母が結婚してから私が生まれた後五年ほどは、週末になると電車を頼りに外出してばかりいた。
 「きれい」も「きたない」も「おもしろい」も「つまらない」も言葉で伝えることができないような幼い頃に、私は両親から、彼らの出来うる限り最大の範囲で、私がそれから生きることになった世界のいろいろを見せようとしてくれていた。


 いつも三人でいた。


 月のはじめの土曜日には、私と父だけで出掛けていた。
 家計簿を広げる母に断りを入れて、玄関を先に立った父がドアを開きながら私に手を差し伸べる。

 「おいで」

 いつも封書や葉書を扱っている父の手は、紙に色をすべて移してしまったように白く綺麗で、今のように傷だらけで節くれだってなどいなかった。


 駅まで歩く方向から、途中で狭い脇道に入る。車が通れば人は脇にも下がれないほど狭い道で、ここは危ないから、とひとりで私を通らせるようなことはついに無かった。道なりにただ歩いていけば、目的地に着くことが容易にできる「お出掛け」だったのに。

 店の中に入ると、私と父が来ることを承知していたおばちゃんが、笑顔で私を手招きする。
 ぽん、ぽん、というよりは、お米を研ぐ手つきのように、ぐるっと頭の上で髪を掻き流すような撫で方で、私よりも見ている父の方が顔をゆがめて笑っていた。
 三つしかない椅子のひとつに腰掛けると、おばちゃんがケープをかけてくれる。
 おかっぱにした髪の毛の、前髪とうしろをそろえるだけの毎月のお仕事を、おばちゃんは私と父の事情をみんな知った上でこなしてくれていた。
 後ろ髪をそろえてもらっている間、私は店の中を観察していた。
 入り口にある傘立てから順に、壁の上の方にかかった連絡用の小さな黒板、足元に置かれた消火器の箱、扇風機。
 一ヶ月で変わったものが何も無いのを確認すると、奇妙に安心する気がした。

 首のうしろではさみが鳴っている。

 お父さんは控えの椅子に座って雑誌を読んでいる。髪を切ってもらうわけではなくて、私の前髪と襟足が綺麗な一直線になるまで、ただじっと待っている。


 四歳までは、お父さんに髪を切ってもらっていた。
 親戚のおばちゃんの床屋さんでは、お店の部分と生活する部分が半分くらいくっついている。玄関はお客さんが入ってくる入り口と一緒。


 お父さんは郵便局でたくさん嫌な思いをしているんだ。


 髪を切るためにおばちゃんの所へ来るのは、お父さんと一緒じゃなきゃ駄目でお母さんは来なかった。
 お父さんとお母さんはとても仲が良くって一緒にいるのは楽しくてしあわせなんだと言っていた。


 でも一緒の人から生まれたんじゃないから、触っているのが嫌なんだって言ってた。


 お父さんはおばちゃんに私の髪を切ってもらうようにして、私の髪に触らなくなった。
 いつ手をつないでくれなくなるんだろう、今日はおばちゃんは何の味のガムをくれるかな、
 その二つのことを同じように考えながら、いつもいつも店の中を観察して確認する。

 今月はまだ変わっていない。

 今までに見た世の中のいろいろなものより、おばちゃんの店の中のいろいろなものの方が、私にたくさんの印象をくれた。





 おとうさんが、半分お母さんの血が入った私に触ってくれなくなる日は、


 いつ、


 いつ、


 いつか。   いつか来るんだろう。





 ぐるぐるまわるまぶたの裏の色彩の中から、前髪を切るはさみの音が聞こえてきて、止まる。


 目を開いたそこにはおばちゃんもお父さんも誰も彼も色さえも無くて、

 私は汚れた椅子の上で大きくなった体を丸め、

 久しぶりにぼんやりと、私を見つめた父の顔を思い出してみた。

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