ヤホー☆転勤が決定したYO!!ヒューヒュー!!
ということで、今後は福岡からコンニチワになります。 でもまだ本部で新店書類の整理などがあるので、まだウチにはおりますが、 今週〜来週に福岡へ物件を見に行って決めて、来週〜再来週には引っ越し也。
この土地も色んなことがあって楽しかったなぁ。 向こうに行ったら、まずはネット繋ぐよう頑張りますわい。
ちなみに、 一昨昨日=上司の送別会 一昨日=元同僚からの誘いで飲み 昨日=パートさんの歓送迎会 今日=同僚からの誘いで飲み
と、大分なんか皆気を使ってくれているようです。 まだ公にはできないんやけど……皆察してるっぽいナァ。 レジの女の子が、ロッカールームで「行かないでください〜」と泣いてくれたんだが、まだ公情報ではなかったから 打ち明けるわけにもいかず「いやぁ、まだ決まったわけじゃないし」としか言えんかった。 本当は決まってんのに。
この日記を書きながら、学校をギリギリで卒業して、今の所にパートで入って、社員に上がって、新店舗のスタッフとして頑張る機会が与えられたわけですけども そうやって、この日記とともに成長してきたんだなぁと思うと感慨深い。 いやいや、まだまだ書きますけどね。 今後は新店舗のグチみたいなんばっかりになりそうだが(笑)。 とりあえず、桜島と阿蘇山には絶対登る。 あと熊本行く。
2007年10月01日(月) |
江戸東京博物館[文豪・夏目漱石〜そのこころとまなざし] |
2007年9月26日〜11月18日まで開催の夏目漱石展に行ってきた。 その感想を、マニアックに色々書いていきたい。
天気は曇り、それどころか小雨。某有名な雨の慕情とでもいいましょうか、小雨に晒される漱石先生の看板やポスターの物憂げな風貌、佇まいには頗る風情溢るるものが感ぜられました。 会場の人の入りは中。資料を見ながら進むと、時折人が立ち止まって見ているところに突き当たるといった具合です。 年齢層は3歳〜それ以上と幅広く、お爺さんがモールスキンのような小さな手帳とボールペンを片手に熱心に見ているのを見て、とても感動しました。自分は例のA5サイズのノートとセピアインクを入れた加藤製作所のセルロイド万年筆(ペン先M)で、感想などを色々記入しながら廻りました。記入しながら廻るような人間は、そのお爺さんと自分くらいなもので、稀有な存在であったと思われます。 だからなのか、学芸員か係の者か解りませんが、彼らは我らの周辺を矢鱈とウロついていたように思えます。 子供が走り回るのを親が叱る「こら!○○!」といった風景も見られ、比較的子煩悩であった漱石先生を思うと非常に微笑ましく感じました。
展示会場に入ってまずは、漱石先生人形がお出迎えしてくれます。予想以上に大きくて愕きました。本当に漱石先生の身長(百六十センチ位)で作られていたのでしょうか。非常に気になります。また、骨格などから声紋を判断し、声を再現したものが流れておりましたが、どこかで聞いたことのあるような声でした。また、それが本当の漱石先生の声だとしても何ら違和感など感じない声でした。 漱石展には色々な写真が展示されていましたが、その中の殆どをすでに自分はヴィジュアルブック「孤高の国民作家・夏目漱石」で存じていました。 ですから、その場でショックを受けて立ち竦むなどという事にならずにすみました。漱石先生は、幼少時代よりあまりにも美しかったのです。←病気です
漱石先生の残した本やノートは、びっしりと英文が書かれているものが多いのですが、それでも欄外には講師の似顔絵や、批判などを落書きしておりました。基本的に真面目だった漱石先生の、落語好きといった一面をそういった遊びで垣間見る事ができます。
明治22年に英語会でのスピーチをしているのですが、題材が兄の死に関してでした。漱石先生の兄は二人おりましたが、二人とも若くして亡くなっております。 その長兄の死を悼む英文が綴られておりました。要約すると「兄は美しく、威厳に満ちていた。病床に居る彼を見舞い、少しでも痛みが和らぐようにその日にあった出来事を面白可笑しく話したりもした。彼の笑顔は他人には恐ろしく見えたかもしれないが、自分にとっては心が暖かくなる優しい笑顔だった。彼は最期に「勉強するんだよ」と言って亡くなったが、私は今でもその言葉を忘れてはいない」といった具合です。 繊細な英字で事細かに書かれたその原稿を見て、自分は胸の奥が熱くなりました。
また、松山出身の正岡子規と一緒に、松山での教師時代に暮らした愚陀佛庵(ぐだぶつあん)の写真などもありました。松山に移転し現存しておりますが、自分は松山滞在時に何故一度もそれを見ようとしなかったのか、己の愚を呪います。子規さんをなめておりました。申し訳ありませんでした。>子規さん
そのほか、英国滞在時に購入した本なども大量にありました。大きな本棚に並べられたそれらを見ていると、まるで自らが漱石山房に迷い込んだような錯覚に陥ります。そして、頗る幸せな面持ちで眺めておりました。その中のひとつに、戯曲「ハムレット」がありました。しかもその本に、ミレイの描いた鮮やかな(自分の好きな)オフィーリアの挿絵があったのです。オフィーリアといえば、自分が中森明菜のオフェリアを十八番にするくらい好きなのです。これはどうでも良いです。 話しが逸れましたが、有名なそれを目の前にし、自分は思わず硬直しました。そして、漱石先生がラファエロ前期の絵画を愛していたことも知りました。そして、自分は一人静かな興奮に身を潜めました。 以下のリンクは有名なオフィーリアの画像に飛びますが、若干リアルなので苦手な人も在るかもしれません。オフィーリアはこの時点で心神喪失状態であり、又は既に死亡しております。然し美しさには息を呑むしかありません。 http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Millais_-_Ophelia.jpg
それらの書物には色々な走り書きがしてありましたが、ジョン・クロージャー著「知性発達の歴史」にある「Negative」という文章に鉛筆で線を入れており、その外に「ソンナ者ヂャナイヨ」とツッコミ書きをしていたのには吹き出しました。前編小さな文字の英文はガラスケースの中に在り、顔を近づける事ができなかった為読解できませんでしたが(決して自分は英語が読めぬわけではありません。断固としてありません。)おそらく知性発達におけるネガティブなものが云々、といった内容であったのでしょう。どこにどんなツッコミをしたのか大変興味がありますので、今後入手して読み解いていきたいと思っています。 また、英文の読解に長けた先生であっても解らない英文や単語は多数あるようで、鉛筆で線を引いてはハテナマークを記入していたりする拘り様でした。その拘り、しつこさは結果として漱石先生を病ませ、或は文壇での地位に押し上げていくのです。
さて、英国から帰国したものの、漱石先生は精神を病んでおり、その養生の為にも小説を書き始めます。そこで松山出身の高浜虚子の登場です。虚子キターといった具合です。漱石先生は大学で教授を務めながら、「吾輩は猫である」を創作し始めます。その後「生活の為にしてきた」という教授を辞して、朝日新聞社へと入社します。 入社の年俸は破格でしたが、結局漱石先生が金持ちといった存在になることはありませんでした。妻の家への仕送りや、自身の養父への仕送り、門下生からの無心など、漱石先生の周囲には金の無心が絶えなかったといいます。ですので、自分は、漱石先生に対する「巨額の年俸を貰っておきながら云々」といった批判に対しては断固として賛同することができません。
朝日新聞社に入社し、ユーモアを交えた入社の辞を掲載すると、新聞小説「虞美人草」が始まります。 (虞美人草:主人公宗近は親友甲野の義理の妹藤尾(ふじお)を好きだが、藤尾は男達を翻弄し、母親(甲野にとっては義理)とともに甲野を追い出し、甲野家の財産を横取りしようと画策する。はたして藤尾は悪いのか?といった具合の昼ドラ小説。自分はかなり大好物。) 虞美人草は一大ブームを巻き起こしましたが、漱石先生が「小説の題名は虞美人草にしました」という文章を新聞に掲載しただけで『虞美人草浴衣』や『虞美人草指輪』なるものが販売されたという話しには驚かされました。今まで自分は、それらの存在を知っていたものの、虞美人草の盛り上がりとともにそれらが出たのだとばかり思っておりましたので、思わず舌を巻くしかありませんでした。 また、今回見られて本当に嬉しかったのは、虞美人草に対する読者からのファンレターです。これは本当に貴重なものを見させて頂いたと思っております。ファンレターには、虞美人草を読んで(まだ掲載中と思われる内容)の感想が在りました。 そこには、興奮冷めやらぬ様子で描いたと思われる文章がかなりの長文で綴られております。初めはまるで子供の感想文のように内容をつらつらと要約した文章でしたが、そのうち「藤尾は酷い女だ。火刑になるべきだ」などといった藤尾批判に発展していました。100年前の人の感想がそこにあります。自分はまるで自身の文章批評をされているかのような気持ちになり、手に汗を握りながら、その読みにくい文章を必死で読み解きました。100年前の人の感想を現在でも理解できるというのは、とても素晴らしい事ではないでしょうか。漱石作品に対する愛情を時間を越えて感じる事ができました。
そして、漱石先生の遺品のコーナーには、漱石先生が使用していた羽織や袴などがありました。全身が総毛立ち、思わぬ震えが襲います。自分は涙が込み上げるのを必死に我慢しました。何でしょうか、この狂おしさ。今ではやはり病気だと自覚しておりますが、当時の自分はそれを見ているだけで頭が真白になるといった具合でした。 サカリがついた熊のように展示のガラスケースの前を散々ウロついた後、漱石先生の趣味だったという広告の切り抜きを見ました。それが漱石先生の趣味だということも今回初めて知りましたが、何しろ驚いたのはその切抜きの正確さでした。ハート型や円など、寸分の狂いもなく切り抜いてあります。また、それが色鮮やかに残っているのです。その几帳面さと自分のザックリとした性格との違いを痛感し、感嘆の溜息を漏らすしかありませんでした。
そして、漱石先生は最期の時へと近づいていきます。 漱石先生の死後、長女の筆子と結婚することになる門下生小宮豊隆が、当時漱石先生を「お父さん」と慕う手紙に対する返事に「僕をおとっさんにするのはいいが、そんな大きなむす子があると思うと落ち着いて騒げない。僕は是でも青年だぜ。中々若いんだからおとっさんには向かない。兄さんにも向かない。矢っ張り先生にして友達なるものだね。」と、なんともチャーミングな返事をしています。それを見た瞬間に、もう自分の心はキュンキュンいたしました。 そして、漱石先生の家族写真などもありました。何度も見ている写真ですが、その中にある五女の「ひな子」さんの写真のパターンは一種類しかありません。ひな子さんは、一歳八ヶ月にして突然亡くなっています。漱石先生はかなり落ち込んだと言います。自分はひな子さんの写真を見る度、切ないのですがとても幸せに思います。とにかく、飛び切り可愛いのです。その可愛らしさは、子供の写真の中でも群を抜いており、類を見ません。とにかく可愛いと思います。
そして、創作の面では「心」の装丁など、漱石先生自身が全てを手がけているというのも今回初めて知りました。絵から、何から全てです。愕きました。 明暗の反古された原稿用紙の裏面には漢詩が書いてありました。小説に真っ向から取り組んだ後には、ストレス解消の為に裏面に漢詩を書いていたといいます。愚なる自分から見れば、漢詩を考えるのにストレスが溜まると思ってしまいますが、漱石先生はそれがストレス解消だったのでしょう。寧ろどんどん反古してしまって構わないくらいの勢いだったのではないでしょうか。 そしてデスマスク。死後3時間で石膏を盛り、制作されたそうです。ずっと寝ていたからか、その顔からは肉が削げ落ちていましたが、とても穏やかな表情でした。自分は前後左右から眺め、在りし日の漱石先生をそこに思い浮かべました。そして、後ろ髪を引かれる思いで、会場を後にしたのです。
会場の外では、漱石先生グッズが販売されていました。 もちろん色々購入しました。なにこれ、デジャヴ?ミュシャ展のデジャヴ?と思いましたが、あまり気にせず買い物に没頭することにしました。今回購入したのは以下です。 *文豪・夏目漱石〜そのこころとまなざし〜公式ガイドブック *坊ちゃんの時代(坊ちゃんが出来るまでの漱石先生マンガ) *吾輩は猫であるダブルファイル(「吾輩は猫である」の挿絵や装丁などの絵。猫まみれ) *「吾輩〜」「虞美人草」マグネット。 以上です。自分はどれだけファイルを集めれば気がすむのでしょうか。馬鹿です。
とにかく、本日は萌えました。そして、これを書くのに2時間を要しました。阿呆です。
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