女の世紀を旅する
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2002年03月24日(日) 北朝鮮の悲劇(5)  日本人拉致事件の真相

北朝鮮の悲劇(5) 日本人拉致事件の真相
                     2002年〈平成14〉3月24日





●よど号で北朝鮮に渡った赤軍派9名の数奇な運命

今から32年前の出来事である。1970(昭和45)年4月3日、夜7時20分、ボーイング727、日航機「よど号」がまったく灯りのない空港に着陸すると、サーチライトに照らされ、多数の武装した軍服姿の男たちに取り囲こまれた。場所は北朝鮮の首都平壌(ピョンヤン)の美林(ミリム)空港。

よど号をハイジャックした9名の赤軍派学生が機体後部の備え付けタラップから降り立ったが,外は凍てつくように寒かった。よど号犯たちは武装解除され、バスに乗せられた。ほとんど灯りも人影もない暗闇の街をバスは走り抜けた。

バスは北朝鮮では最高級の外国人用の平壌ホテルに着くと、9人は北朝鮮政府の係官から、すぐに取り調べを受けた。「なんのためにわが国にやってきたのか。」と質問された。

「われわれは軍事訓練を受けるために来たのです」とリーダーの田宮高麿(当時27歳,のち病死)が答え、とうとうと世界革命論をぶった。係官は途中で、もう分かった、と制止し、よど号犯たちをレストランに連れて行った。そこにはビールや朝鮮料理のフルコースが準備されていた。それは彼らが四半世紀を過ごすことになる闇の国家への歓迎パーティだった。





●「領導芸術」という名の洗脳技術

よど号犯らは平壌郊外の豪華な「招待所」に収容された。松林に囲まれた平屋建ての建物で、居間にはシャンデリア、集会室や映写室の設備まである。しかし、希望した軍事訓練はなく、金日成の論文をテキストに、北朝鮮で唯一正統と認められている「主体(チュチェ)思想」の講義と討論が連日、続けられた。討論では教授が正解とする結論はあらかじめ決まっており、それに至るまでは何度でも同じ学習が繰り返される。たとえば、一人がサッカーで誤ってボールではなく、相手の足を蹴って負傷させた時は「ボールを蹴るつもりが、、」と反省しては間違いで、「同志のことを念頭におかずに蹴ったことは、同志愛が思想化されていなかった証拠」と自己批判しなければならない。

正解にたどり着くまで、何度でも講義と討論が繰り返されると、いつのまにか、自らの選択で正解を見いだしたように信じ込む。これが「領導芸術」という高度な洗脳技術であった。

約2年の「学習」の後、1972年の正月には金日成(キムイルソン)への手紙を出すことを許され、「日本革命のために、いつでも生命を投げ出しうる革命家へと自らを打ち鍛えていくため、(金日成)首相同志と朝鮮労働党の闘いを最高の手本として、、」と決意を述べた。金日成の後継者の金正日(キムジョンイル)を最高責任者とする特別課が朝鮮労働党の中に組織され、よど号犯を操って対日工作を担当することとなった。





●スケープゴートにされた吉田金太郎

しかし、全員が無事にこの段階に達した訳ではない。吉田金太郎(亡命当時20歳)は、メンバーの中でただ一人学生ではなく、高卒で造船所に就職したペンキ塗り労働者で、組合活動から左翼運動に入っていった人物だった。そしてその祖父は戦前、神戸で裕福な商人だった。

ブルジョワ階級出身で労働者に身をやつした人間が一人だけいる。「族譜(ゾッポ)」を重んじる朝鮮の指導員たちには、これは明らかに不審なことだった。「何らかの意図」をもってよど号犯グ
ループに紛れ込んだのではないか。「相互批判」の過程で、この点をつかれると、吉田は答えられなかった。
ある日、吉田金太郎は突然、姿を消した。急性の肝臓病で入院し、そこで死亡したものとされた。それ以降、彼の存在はグループの中でも触れてはならない禁忌とされた。吉田がスケープゴートにされてから、メンバーは雪崩をうって金日成賛美に身を投じていった。





●「結婚作戦」と,「日本革命村」の形成

よど号犯たちの人間改造、思想改造を完成させるための最終ステップが「結婚作戦」だった。日本人女性を連れてきて、結婚させ、子供を作らせる。妻たちには女性にしかできない任務をさせ、子供たちは人質として、次世代の革命戦士として育てられるのである。

1976年から翌年にかけて、日本で選抜された花嫁たちが北朝鮮に送られた。主体思想研究会や朝鮮文化研究会の女性メンバー、在日朝鮮人を父に持つ娘などであった。彼女らは北朝鮮の見学や旅行と称して欺かれて連れてこられた。「結婚作戦」が真の狙いだと知ったときには、もはや後の祭りであった。よど号犯たちの花嫁となることを「主体」的に選択するしかなかった。選択肢は一つだけなのである。ある花嫁はこんな詩まで作った。

元帥様(金日成)のふところに
はるばる訪ねてきた娘たち
今日の幸せくださった
元帥様を永遠に慕います

やがて次々と合計20人の子供が生まれた。招待所は、料理人、医師、看護婦、保育所スタッフも含め100人ほどの「日本革命村」が完成した。




●1980年にマドリッドで拉致された二人の日本人青年

よど号犯が金日成の戦士として生まれ変わって、ようやく秘密工作が開始された。最初の工作はヨーロッパを旅行している日本人を拉致して、同志を増やしていくことだった。

1980年4月、「よど号」犯の妻、森順子と黒田佐喜子はスペインのマドリッドのアパートに住み、スペイン語の学校に通っていた。そして日本人旅行者を招待しては手料理でもてなした。
その中に札幌市出身のIさんがいた。日大の農獣医学部食品経済学科を卒業したばかりで、スペインの酪農に興味を持っていた。もう一人はMさん。京都外国語大学の大学院生で、スペイン語を磨くために1年間の留学中であった。

5月の中旬、IさんとMさんは、女性たちに誘われて4人でウィーンへの旅にでかけた。彼らの消息はそこで途絶えた。日本の家族は現地の日本大使館に調査を依頼し、マドリッド市警も捜査にあたったが、なんの手がかりも得られなかった。

それから8年も経って、Iさんからの便りがポーランドから札幌の家族に届いた。Iさんが手紙を小さく折り畳んで、北朝鮮ですれ違ったポーランド人に手渡したものらしい。手紙を受け取った人物は、ポーランドに帰ってからエアメールとして投 函してくれたようだ。

手紙には、Mさん、有本恵子さんと3人で助け合って、平壌でなんとか暮らしている、と書かれていた。




●1983年にロンドンで拉致された有本恵子さん

この有本恵子さんとは、83年6月、ロンドン留学中に拉致された女性である。
Iさん、Mさんは招待所に連れて行かれて、拉致された事実を知るや、Mさんは森順子を「色じかけで騙しやがって」と平手打ちにした。駆けつけた「よど号」犯たちがMさんを殴り倒し、部屋に監禁した。

反抗的なMさんの思想改造は遅々として進まなかった。「よど号」犯の妻たちは、「男だけだからうまくいかないのであり、女も連れてくればいい」と提案して、新たに日本人女性の拉致が計画された。その犠牲者が有本恵子さんだった。

よど号犯の妻たちの一人、八尾恵がロンドンの英語学校で知り合った有本恵子さんに市場調査のアルバイトを紹介すると騙して、デンマークのコペンハーゲンに連れ出し、「よど号」犯の一人安部公博を紹介。安部が「北朝鮮で市場調査の仕事をしてほしい」と言って引き合わせてウツノミヤ・オサムと称する貿易会社員(実は、北朝鮮の外交官キム=ユーチョル)に連れられて、有本さんはモス
クワに向かった。
有本さんが友人に出したロンドンからの最後の手紙には、次のような一節があった。

「でも何だかラッキーだったなぁー、こんな簡単に仕事が見つかるなんて思ってもいなかったし、外国で仕事ができるなんて、今、すごくうれしい気分です。・・・」

当時、北欧諸国では北朝鮮外交官が免税特権を悪用して煙草や酒、貴金属などを免税で買っては転売して利ざやを稼ぐ大使館ぐるみの犯罪を行っており、ユーチョルもデンマーク警察に監視されていて、有本さんと一緒の写真が撮られていた。



●消された二人の日本人男女

よど号犯の一人、岡本武はウィーンで国際的な反核運動を盛り上げる工作をしていたが、それが日本の市民運動にもつながったのに自信を持ち、もっと積極的に日本国内に潜入して、活動すべきだと考えた。しかしリーダーの田宮はそれを許さず、かえってグループ内の「総括」で岡本をつるし上げた。
酒でうっぷんを晴らしていた岡本は、ある日、メンバーの一人と喧嘩をしたため、ロープに縛られて床に転がされた。高知県から拉致されてきた岡本の妻・福留貴美子が抗議すると、彼女もロープで縛られた。北朝鮮では、糾弾されている人間を擁護することは、自らの政治生命を断つことである。

岡本夫妻は海に近い別の「招待所」に移され、そこで再度の思想教育を受けた。まだ5,6歳の二人の子供はよど号犯たちの元に残された。ある日、岡本は海岸で漁船を奪って、海上脱出を図ろうとしたが、あっけなく巡視艇に捕まってしまった。1980年代中頃のことである。

この事件のあと、岡本夫妻の消息はぷっつり途絶えた。政治犯収容所に移され、強制労働をさせられていたのである。1988年頃、二人は作業中に、土砂崩れにあって死亡した、という知らせが田宮高麿リーダーのもとにもたらされた。要するに岡本武と福留貴美子は殺害されたのである。




●日本に潜入した柴田泰弘の逮捕

1985(昭和60)年春、よど号犯の一人、柴田泰弘が日本に降り立った。10数年前に北朝鮮に渡った中尾晃という人物になりすまし、その印鑑や戸籍謄本、健康保険証も持っていた。この結果,国内でも大手を振って仕事ができることとなった。柴田は高校生の進路指導の仕事を始めて、多くの高校生の住所、氏名のリストを入手した。さらに、身よりのない子供たちの養護施設へのボランティア活動にも関与した。将来の革命戦士を見つけ、育てていく為の下準備に余念がなかった。

しかし、1988(昭和63)年5月6日、柴田は兵庫県警に逮捕された。偽造旅券で何度も入出国を繰り返していたので、北朝鮮工作員ではないか、との疑惑がもたれていたのである。指紋照合の結果、よど号犯の一員であることが明らかになった。北朝鮮で不自由な生活をしているであろうと思われたよど号犯の一人が、国内に潜入して秘密工作を行っていたことに公安関係者は大きな衝撃を受けた。




●八尾恵の逮捕と,彼女の告白で拉致事件の真相が判明

同年5月25日、今度は横須賀でスナックを経営していた八尾恵が神奈川県警に逮捕された。コペンハーゲンでのキム=ユーチョルと接触していた事実などから、北朝鮮工作員との疑いをかけられていた。神奈川県警はアパートの名義に偽名が使われていることを逮捕理由にしていたが、家宅捜査で工作員としての証拠が発見できる、と踏んでいたようだ。

しかし物証は何も出てこず、結局、住民票への登録が偽名だったとして罰金5万円で釈放された。八尾恵に与えられた任務は、スナック経営で日本での活動資金を作らせることだった。逮捕されても、何も知らないので実害はなく、また捜査の攪乱になると考えられていたようだ。警察が八尾逮捕の裏付け調査に奔走している間に、他の妻たちも含め、多くの工作員たちが日本を脱出した。

八尾恵は75(昭和50)に兵庫県の高校を卒業した後、化粧品会社に勤めていたが、神戸の街で無料の「朝鮮映画を見る会」に参加してから、在日朝鮮人の友人ができ、その後しばらくしてから、行方が分からなくなった。その後、北朝鮮で柴田泰弘の「妻」にさせられ、二人の子供を生んだ。しばらくヨーロッパで工作活動をした後、日本に帰国してからは休む間もなく働いて活動資金作りをさせられていたのである。子供たちを人質にされては、逃げ出す術もなかった。



●闇の国の操り師

有本恵子さんやIさん、Mさんなどは、よど号犯らによる拉致犯罪の直接被害者であるが、この八重恵やその子供たちも間接的には被害者と言えよう。加害者はハイジャックによって闇の国に渡ってしまったよど号犯らだが、真の加害者はかれらを陰で操ってきた金正日である。

人間を洗脳したり、騙したり、脅したりして好きなように利用すべきあやつり人形としか考えていない独裁者が、多くの人々の人生を台無しにしてきた。外務省の田中均アジア大洋州局長が北朝鮮を刺激しないよう拉致疑惑追求を牽制していた経緯があった。しかし,拉致された人々の人権を無視してまで、こういう「ならずもの国家」と国交正常化することに、どのような意味があるというのか理解に苦しむ。

昨年の平成13年5月によど号犯たちの成人した娘3人が帰国した。子供たちは現地の大学に通うなど金正日・独裁体制でのエリートと言われる。また9月にはよど号犯・赤木志郎の妻・金子恵美子が帰国した。旅券法違反で起訴されたが、たいした刑にはならないと読んでのことであろう。

これらの人々がこういう形で公然と帰国することは当然、操り師たる金正日の策略に沿ったものと予想される。ところで,マドリッドで拉致された例の二人の日本人男性のIさんとMさんであるが,非協力的であったため,すでに殺害(病死は言い逃れ)されている可能性が高いと言わざるをえない。

 いやはや,なぜいままで日本政府はこんな重大な事件を数年間もほって置いたのか,なぜ今頃になってようやく有本恵子さんの事件は北朝鮮が関与していると公安当局が発表したのか,対応が余りにも遅すぎるのである。


2002年03月19日(火) ブッシュ政権の対中国政策の転換:台湾独立の死守

ブッシュ政権の対中国政策の転換:台湾独立の死守
                        2002.3.19





●歴史のウソが暴露される時代の節目

 世界の情勢は今、冷戦終結(1989年マルタ会談)後の10年という一つの時代が終わり、新しい時代の到来が次第にはっきりしてくる時期に当たっている。こうした時代の変わり目は、前の時代の体制を維持するために必要だったウソが用済みになって暴露され、今まで信じ込まされてきた歴史観が真赤なウソであったことが判明するものである。

 2002年2月末に衝撃的な暴露をアメリカ政府が発表した。1970年代、アメリカが中国と国交を回復した理由は、一般には「ソ連に対抗するため中国と手を組むことにした」という「敵の敵は味方」の冷戦理論で説明されているが、実はそうではなく、アメリカはベトナム戦争(1965〜73年)の泥沼から脱するために中国との国交回復を必要としていたということが暴露されたのである。

 また、アメリカは中国との国交正常化に際し、最初から台湾の主権を侵害するつもりはなかったという歴史認識が一般的だが、実はそうではなく、「北京政府が中国の唯一の正統政府で、台湾は中国の一部としていずれ併合されるべきだ」という中国政府が以前から主張していた「一つの中国の原則」を容認することを、アメリカは国交正常化に向けた交渉の冒頭から、中国に対して表明していたことも明らかになった。

 こうした事実は、アメリカ合衆国国務長官キッシンジャーが1971年7月、秘密裏に中国を訪問し、周恩来首相と会談したときの機密文書が、アメリカ政府がよって2月末に公開されたことで明らかになったのである。




●「台湾問題を話さなかった」というウソ

 1972年のニクソン訪中の準備として行われたキッシンジャーと周恩来との会談(1971年)は、冷戦が始まって以来初めて米中の指導者が会談したもので、米中両国にとって歴史的転換点となった。

 これまでこの会談については、キッシンジャーは1979年に出版した回顧録で書いていることが歴史的な事実とされてきた。「周恩来との会談では、米中関係の基本となる認識論が話し合われた。米中間には、具体的に解決しなければならない問題がほとんどなかったため、相互信頼を醸成するための抽象的な話し合いだけで十分だったからだ。台湾問題についても、ほとんど話し合わなかった」というのが、これまで歴史的事実とされてきた。

 ところが実際には、会談内容はまったく違っていた。7時間におよぶキッシンジャー・周恩来会談では、冒頭の2時間以上が「台湾問題」に費やされた。周恩来は「一つの中国の原則」を認めない限り、アメリカと外交関係を樹立することはできないと主張した。

 これに対してキッシンジャーは、北京政府が中国の唯一の正統政権であることを認め、「台湾が中国の一部だということは認められない」としながらも、台湾が中国とは別の国として独立すること(二つの中国論)も認めないと明言し、いずれ中国と台湾が統合されることが望ましいと述べ「一つの中国原則」の主要部分を認めた。

 キッシンジャーはまた、アメリカはベトナムから撤退した後、台湾に駐留している米軍の3分の2を撤収すると周恩来に伝えている。中国に北ベトナムへの支援を控えてもらい、アメリカのベトナム撤退を容易にするという策があったと思われる。

 当時すでにベトナム戦争は泥沼化していた。ニクソン政権は、キッシンジャーを北京に派遣する前に、すでにベトナムからの撤退する方針を決定しており、その際に「アメリカの敗戦」という色彩を薄めることが肝心だった。それには中国がアメリカに敵対している状況を変える必要で、中国との関係を好転させるための譲歩として、アメリカは台湾を見捨てる決断をしたのだった。

 キッシンジャーはニクソン訪中後の1973年11月にも訪中して再び周恩来と会い、翌年までに台湾にある米軍の核兵器とU2偵察機、F4戦闘機をすべて撤去する、と表明している。しかも、アメリカがこの撤去を台湾政府に伝えたのは、中国に教えてから半年も経った後だった。


 今年2月末に公開された機密文書の中には、キッシンジャー国務長官が北京に秘密訪問する3カ月前の1971年4月にニクソン大統領と打ち合わせを行ったときの議事録もあった。それによると、キッシンジャーはニクソンに「中国との国交が正常化したら、数カ月以内にベトナムから撤退して戦争を終わらせることができる」という非常に楽観的な予測を主張している。




●台湾の必死の巻き返し

 キッシンジャー訪中の翌年、ニクソン大統領が訪中し、米中関係は正常化した。だがその一方で、台湾側は見捨てられないようアメリカの政界に対して政治献金やロビー活動を強めた。

 また台湾側は、アメリカ政界内部でベトナム戦争終結に反対する勢力に働きかけ、CIAがベトナム戦争をラオスに広げ、それを台湾の特務部隊が支援する体勢を作ろうとした。ラオスは中国のすぐ南にある国で、国民党政権は台湾に逃げてくる前の抗日戦争期、中国南西部を拠点としていたから、この地域の情勢に詳しかった。

 アメリカが中国のすぐ南のラオスで戦争を拡大すれば、米中関係が再び悪化して戦争になるかもしれず、そうなると国民党政権が大陸に返り咲ける可能性が増えるという作戦だったが、ラオスで社会主義政権が力をつけたため失敗した。


 また、建国以来独裁体制を続けてきた台湾の国民党政権は、1970年代後半から民主化を開始し、その後20年かけて民主主義を台湾に浸透させ、2000年の総統選挙で、国民党自身が敗退し、民主化勢力だった民主進歩党の陳水扁政権ができるという状態まで移行させた。

 これもまた、アメリカが理想の政治形態として世界中に押しつけてきた民主主義を率先して台湾に定着させることにより、民主主義の「模範生」である台湾をアメリカが見捨てられないようにする戦略だったと思われる。

 こうした巻き返しが功を奏し、1979年にはアメリカ議会で台湾を見捨てないという「台湾関係法」が通った。アメリカ政府は、中国には「台湾を見捨てる」と約束する一方で、台湾に対しては「見捨てない」と約束するという、二枚舌の状態になった。


 その結果、アメリカの高官が中国政府と会談するたびに、実は台湾の問題について話し合っているにもかかわらず「台湾問題については話し合っていない」とウソを言わねばならない状態になった。2月末に機密文書が公開されてから、こうしたアメリカ外交の難しさは「キッシンジャーの呪い」と呼ばれるようになっている。





●国交正常化30周年を利用する

 今後、この「キッシンジャーの呪い」はどうなるのだろうか。「呪い」の存在が暴露されたこと自体が、その答えを示唆している。

 キッシンジャー・周恩来会談についての機密文書は、作成されてから30年経ったため、機密を解かれることになった、というのが公開の表向きの理由である。しかし昨年の9・11テロ事件以降、アメリカ政府は機密解除したくない文書は何十年経っても公開しないという姿勢を強めており、キッシンジャー文書も公開されなくても不思議はなかった。

 それでは、この文書がなぜ今公開されたのか。
ブッシュ大統領が2月23日に1泊2日という超短期間で中国を訪問したが、この日付は1972年2月23日にニクソン大統領が訪中してから、ちょうど30周年の記念日にあたる。そして、ブッシュ訪中の前後にアメリカのマスコミに出た訪中関連の記事のいくつかは「ブッシュ政権は今回の訪中を機に、中国との関係を過去30年間の束縛から解放し、新しい米中関係を構築していくため」と分析している。

 つまりブッシュ政権は、これまでのアメリカの対中外交が「キッシンジャーの呪い」に束縛されていたことを機密文書の公開によって明らかにし、ニクソン訪中30周年の日にブッシュ訪中で「アメリカは中国との外交関係を大きく転換する」というメッセージを発しているというのだ。

 昨年の9・11テロ事件以来、ブッシュ政権は「アメリカを敵視する国は、どこであってもテロ支援国家とみなす。そういった国には、アフガニスタン並みの軍事制裁をするかもしれない」と言い続けている。

 キッシンジャー以来の米中関係は長年、中国と友好関係を維持することにより、13億人という巨大な中国の消費市場、格安な労働市場から、アメリカが経済的な恩恵を受けることを目的としてきた。

 だが9・11テロ事件以降のアメリカは、そういった考えのほかに「中国が悪の枢軸に入りたいなら、いつでも空爆をお見舞いするぜ」といった挑発的な考え方が出てきた。軍需産業が外交をリードした冷戦時代の対ソ戦略の復活である。

 アメリカは、中国が「親米」を維持しようが「反米」に転じようが、どちらでも対応できる二段構えの状態になった。だから、ブッシュ政権は「アメリカは台湾を守る」と明言しつつ、中国に対して「仲良くしよう」と言えるのだろう。




●逆に米・中・台関係から暴力的要素が減った?

 中国を敵に仕立てる「第2次冷戦」の考え方は数年前から存在しており、アメリカの政界では親中国と反中国の両方の主張が入り乱れていた。だが、経済を重視したクリントン政権下では、中国経済の大きさを無視できなかったため、反中国の考え方は脇に追いやられる傾向が強かった。

 クリントンが1998年に訪中した際は、上海で「台湾の独立を認めず、中国と台湾は別々だという発想も認めず、台湾が国家として国際機関に加盟することも認めない」という「3つのノー」を発表した。これは事前の予定になかったことで、クリントン政権は後から特使を台北に派遣したが、台湾政府を大いに落胆させた。

 これに対し、ブッシュ大統領は訪中前に特使を台北に派遣し「大統領は中国に行くが、それで台湾が見捨てられることはない」とクギをさしておいた。

 ブッシュが訪中した日、台湾独立派の闘士として中国政府から嫌悪されている台湾の呂秀蓮副総統は「クリントンに比べ、ブッシュは実に素晴らしい」と賞賛し「今後は台湾が一つの中国の原則に拘束される必要はなくなるだろう」と表明した。


 以前は北京の高官が演説するたびに「台湾が独立傾向を強めたら軍事攻撃も辞さない」と言い続けてきた中国も、今年に入って高官の演説で台湾問題に言及する際でも「軍事攻撃」を意味する言葉をひかえるようになった。中国政府としてもアメリカと正面から敵対することは国際的,国内的にも得策ではない。それゆえ日本に対するイジメも影をひそめている。

 9・11テロ事件を機に世界は暴力的な様相を強めつつあるが、アメリカ・中国・台湾の三角関係に限っていうなら、逆に暴力の要素は減ったよう
にも見える。「キッシンジャーの呪い」から解き放たれたアメリカのパワーが極東に蘇生したためである。








2002年03月10日(日) 北朝鮮の悲劇4  北朝鮮のミサイル脅威

《北朝鮮の悲劇4  北朝鮮のミサイル脅威》    
                         2002年3月10日






●北朝鮮のミサイル開発の脅威


 北朝鮮が1998年8月31日に発射したテポドンミサイルが,従来にない新型の三段式とわかり,弾頭が日本列島をはるかに越えて三陸沖へ1500キロも飛んだことから,北朝鮮のミサイル技術は意外と高そうだ言われ始めた。

 しかし,北朝鮮のテポドン・ミサイルの原型は,1983年にスカッド・ミサイルB(射程距離300キロ)をエジプトから購入し,それに多少の改良を加えながらコピー生産したもので,エジプトは1973年にソ連からこのスカッド・ミサイルBを提供されており,それゆえ最初にスカッド・ミサイルが開発されたのは,1960年代のソ連の技術水準ということになる。命中精度も高くはないのである。

 とはいえ,現在までスカッドやノドン・ミサイルが生き続けてこられたのは,第一にどこの国も弾道ミサイルを防ぐ方法を開発できなかったからで,よくいわれることだが,真上からマッハ5程度の高速で落下してくる弾道ミサイルを迎撃するには,自分に向かって飛んでくるピストルの弾に,こちらのピストルの弾を命中させるような技術が必要なのだ。さらにこれらの旧式ミサイルなら,安価に簡単に生産できるというメリットがあり,北朝鮮でも製造できたのである。

 北朝鮮のスカッド・ミサイルの改良と生産に,開発援助を提供したのはイランであった。イラン=イラク戦争(1980〜88年)の際に,射程300キロの北朝鮮製のスカッドBを100基購入したことがある。
さらに北朝鮮は推進部分(ブースター)を大型にして,射程を500キロ程度に延ばしたスカッドCを開発し,イランとパキスタンとシリアに輸出して外貨を稼いだ経緯もあった。そのスカッド・ミサイルの胴体部分をさらに拡大させ,推進燃料(液体)を多く積めるようにしたのがノドン・ミサイルだ。ノドンのことを朝鮮語で「労働」という言葉だと思っている人が多いが,本当は地名で咸鏡北道清津市の盧洞にあるミサイル実験場からつけられた名称である。

このノドン・ミサイルでは射程を1000キロ程度に延ばし,弾頭重量も1トンにしている。たしかに性能は向上したが,高度な技術が必要な慣性誘導装置を改良して命中精度を向上させることは出来なかった。ノドンの命中精度は,2200メートルから4600メートルと悪く,ナチスドイツがイギリスに向け4300発も発射したV2弾道ミサイルと同じレベルということになる。アメリカの新型の巡航ミサイル誘導技術なら,2000キロ飛行しても命中精度は10メートル以内で,ピョンヤン市内に住む金正日(キムジョンイル)の邸宅の寝室を狙って発射したら,はずれて隣の部屋のバスルームに命中する程度の誤差にすぎない。ミサイルの精度に雲泥の差がある。




●北朝鮮の弾道ミサイルに対するレーダー実験

 1998年 11月初め、アラスカの沖合いにあるアメリカ領のコーディアック島(Kodiak Island)から太平洋に向けて、テスト用のミサイルが発射された。アメリカ中の軍事レーダーが、このミサイルをどのように捉えることができるかを、確認するためのテスト実験だった。
 この実験はアメリカ国内だけで行われたが、その意味は、日本や韓国など、東アジアに住んでいる人々にとって、見逃すことのできないものだ。発射されたミサイルのコースは、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)からロサンゼルスに向けてミサイルを発射したときに通るコースの一部だった。

 米軍は、北朝鮮がロサンゼルスにミサイルを撃ち込んだ場合に、アメリカのレーダー網がどのくらい早く的確にミサイルの飛来をキャッチできるかを調べたのである。

 8月末、北朝鮮が日本上空を通るコースで弾道ミサイルを打ち上げたとき、日本では「北朝鮮のミサイルで殺されてしまうかもしれない」といった論調があふれ、国中が危機意識を高めた。だが、アメリカ政府のそのときの反応は、冷静、または冷ややかなものだった。

 「北朝鮮がミサイル攻撃の実験をした」と激怒する日本に対してアメリカは「ミサイル実験ではなく、人工衛星の打ち上げかもしれない」という情報を流し、日本側の興奮に冷や水を浴びせた。
 このときアメリカ(クリントン政権)が日本側の危機感を鎮めようとしたのは、北朝鮮が孤立化を強めて、自暴自棄的な攻撃に出ないよう、北朝鮮の行為に対して寛容な対応を取るという融和政策をとっていたからだった。

 ところが、それから2ヶ月、アメリカは、自らの融和政策の効果に対して疑問を抱くようになった。融和政策を続けても、北朝鮮の外交上の危険さは増すばかりだ、という考え方がアメリカ側で強くなった。その表れのひとつが、冒頭で紹介した対ミサイル防空演習につながったのである。




●北朝鮮の「金よこせ」戦略に負けたアメリカ

 アメリカの北朝鮮に対する融和政策の中心にあるのは、1994年にアメリカと北朝鮮が結んだ軽水炉建設をめぐる合意だ。この合意は当時、自前の原子炉を建設してプルトニウムを抽出し、核爆弾を作ろうとしていた北朝鮮の計画を、止めさせるためのものだった。

 「原子炉建設を止めたら、電力不足におちいる」と主張する北朝鮮に対して、アメリカは、プルトニウム抽出がほとんど不可能なアメリカ型の軽水炉を作ってやるから、自前の原子炉を取り壊せ、と提案した。 さらに、軽水炉が完成するまでの間の電力不足を補うために、北朝鮮に対して石油を無償援助すると約束した。

 ところが、この協約には「ミサイル」に関する項目がなかった。核弾頭は作れないようにしても、ミサイルがあれば、その先に化学兵器や通常の爆弾を取り付けて撃てば、日本や韓国、そしてアメリカを攻撃することができる。

 北朝鮮はミサイル開発に力を入れ、パキスタンやイランなどに輸出した可能性が強い。今年、パキスタンが核実験を成功させた後、アメリカは北朝鮮に、ミサイル開発を止めるよう求めた。だが、北朝鮮の答えは「ミサイルを売らないと、国民を食わせていけない。5億ドルくれたら、考えてもいい」というものだった。アメリカは、金を出すことを断った。

 さらに、1998年の夏以降、北朝鮮が新たな核施設を作っているのではないか、という疑惑が持ちあがった。 アメリカの偵察衛星が、北朝鮮の自前の原子炉がある地域の近くで、巨大な穴が掘られ、土木工事が進められていることを発見した。これは、新たな核兵器開発の施設かもしれない、ということで、アメリカは北朝鮮に対して、この穴を査察させるよう求めた。

 ところが、北朝鮮の答えはまたもや「査察させる代わりに、3億ドルをよこせ。それから、もし査察の結果、核兵器用の施設ではないことが判明したら、北朝鮮の国家の名誉を傷つけた損害賠償として、別途金を出すという契約書にサインしなさい」と言ってきた。

 1994年の合意書には、アメリカが北朝鮮の核疑惑施設を査察できる、という条項もまた、なかったのである。アメリカは北朝鮮の「金よこせ」戦略に対抗できず、黙るしかなかった。




●北朝鮮軍の弱体化を突いて「北進」?

 しかも、実は94年の合意事項を守っていないのは、北朝鮮ではなくアメリカの方だった。
 アメリカでは、北朝鮮にあげると約束した石油を買うための予算案が、共和党の反対によって議会を通らず、その点で北朝鮮との約束を守れないままになった。94年の合意だと、北朝鮮は、約束どおり石油を受け取るまでは、自前の核開発を続けても良いことになっていた。

 つまり、石油に関する約束をアメリカが守れない以上、北朝鮮の巨大な洞窟の中で作られているものが核施設だったとしても、合意違反とならないのである。 こうしたことが重なった結果、アメリカ政府は、94年合意に書いてあることを実行しないという選択肢を検討するようになった。つまり、軽水炉も完成させないし、石油もあげない、ということだ。

 その一方でアメリカ軍は11月、「北朝鮮軍の力は、以前よりはるかに弱くなっている」という報告書をまとめた。 かつて米軍は、北朝鮮軍が38度線を突き破って南下してきたら、米軍と韓国軍が反撃して、北朝鮮軍を38度線以北に後退させるまで3〜4週間かかる、という予測を出していた。

 だが、冷戦終結後の10年間で、北朝鮮では武器のスペアパーツが不足し、食糧不足もあって、軍事訓練も以前の半分から4分の1しか実施できていない。そのため今、北朝鮮軍が攻めてきても、ほとんど南下しないうちに米韓連合軍によって叩きつぶすことができるだろう、と報告書は述べている。

 この報告書からは、「北朝鮮軍は弱くなったから、こちらから攻撃してつぶすこともできる」という米軍の隠された主張を、読み取ることができる。



●米の北朝鮮への「ミサイル撃ち込み」戦略の可能性

 こうした論調と歩調を合わせるように、98年11月末に韓国を訪問したクリントン大統領は、スピーチの中で「北朝鮮はイラクと同じくらい危険な存在だ」と述べた。 これも、うがった見方をすれば、イラクと同じくらい危険な存在だから、アメリカが北朝鮮にミサイルを撃ち込んだとしても、それは正当化できることだ、という表明として受け取ることができる。

 これはまた、アメリカがイラクに対して、経済封鎖を続けてサダム=フセイン政権に対するイラク国内の反感をあおるという、これまでのイラクへの封じ込め政策を止めて、代わりにイラクの軍事施設などを、公海上に浮かべた米軍艦から直接巡航ミサイルで攻撃する方法に変えていく戦術と同じやり方に近い。 とはいえ、中東と朝鮮半島とでは、事情が全く違う。朝鮮半島は、1950年代の朝鮮戦争以来の戦争状態が、休戦のままで今も戦争は終わっていない。そして、戦争状態という不安定な基盤の上に、経済成長を遂げた韓国が乗っている。

 同時テロ以来,好戦的となったブッシュ政権(2001年1月発足)のアメリカが言い掛かりをつけて,北朝鮮に一発ミサイルを撃ち込めば、再び朝鮮半島全体が、本格的な戦争になってしまう可能性が大きい。 北朝鮮はすでに、アメリカの対決方針への転換に脅威を抱き、国内で反米・反日キャンペーンを強め、軍は最大限の臨戦態勢を続けている。アメリカにとって戦力が弱体化している北朝鮮を叩くことは恐くない。2002年は「戦争の年」と称しているブッシュ大統領のこと,イラクと北朝鮮に対する対決姿勢を全面に押し出してきている。戦争が起きる確率は高い。

 ただし,問題なのは,言うまでもなく中国がその場合どのような出方をしてくるかである。つまるところアメリカの最大の仮想敵国は共産主義政権の中国であり,そのことを安泰ボケの日本人は忘れてはなるまい。

 台湾の独立維持を絶対死守すると明言しているアメリカと軍事同盟を結んでいる日本に対する中国の剥き出しの敵対政策もやがて強まってくるのは必至だ。台湾は日本の旧植民地として50年間日本に併合され,その統治がうまくいったおかげで,世界で一番親日的な国となっている。台湾問題は日本としても責任があり,けっして看過できない問題だ。

 いまや極東は,北朝鮮と台湾問題の二つの有事をかかえており,日本としても安閑としてはいられなくなった。

 


カルメンチャキ |MAIL

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