ふうこの英国留学日記-その後

2003年09月17日(水) 帰国チケット&ネット中毒


13日に大学の寮から追い出され、三週間ちょっとコヴェントリーの友達の
フラットに住むことに。住むと行っても大半を旅行しているので
実際の滞在は10日ちょっとなんだけどね。
家賃は家主との交渉の結果さん23日間で140ポンド(=25000円)と
と安くしてもらった。

引越しが終わったと思ったら明日からウィーン、プラハ旅行です。
このあたりは全く行ったことがないので、とても楽しみ。
あこがれの街だわ。

あと、昨日要約帰国チケットの支払いを済ませました。
これで誰が何といっても(誰も何も言わないが)、なごり惜しくても
とにかく日本に帰る日は変えられない。

ところで、その家賃30000円以下の部屋にはもちろんインターネット
コネクションなどなく、さらに電話線すらないので人とのコミュニケーション
の手段は携帯電話のみ。。。私は携帯があまり好きではなく今まであまり
使わなかったけど、こうなってみると持っていて良かったと実感。

それ以上に、コミュニケーションの手段をいかにネットにばかり
頼っていたかということに気づかされた。友人、知人との連絡もさながら
旅行のチケットも本の売買もすべてネットでやっていたので、毎日ネット
が普通に使えない!という状況に非常に不便を感じる。

インターネットが使えない家にずっと住んでいた友達は、私のことを
ネット中毒だというが、こうなってみるとうなづける。。。

私は旅行中でもないかぎり、一日足りともネットなしでは落ち着いて生活できなく
なっているのだ。これはどうしたものだろう。

私はイギリスに来る1年前からほとんどTVを見なくなった。TVを見なくなった変わりに圧倒的にネットにつながっているパソコンの前に座っていることが多くなった。映画はパソコンのDVDで好きなものを借りてきて見ればいいし、ニュースはネットで読むか、ラジオで聞くかのどちらかだ。

それに友人との連絡は圧倒的にメールかチャットが多く、エアメールを書いたり
自宅の電話番号を知っていてかけたりすることもめっきり減った。
e-mailや携帯で連絡取り合うことの便利さは、住所が変わっても知らせる
必要がないということである。
この3年間で私は7個所の場所に住んだが、そのたびに友人、知人に新しい
電話番号や住所を知らせることはまず面倒くさがりやの私には不可能に近い。

ところが今は私がどこにいようと、インターネットにつながったパソコンさえあれば相手の友人が世界のどこにいようと私たちは連絡を取り合うことができる。
この状況はまったくもって自由なコミュニケーションの形を可能にした。

どこからでも個人として自由に誰かにメッセージを送ることができるのだ。

だが、いくらネットやメールが発達したからと言ってface to faceのコミュニケーションと比べればそのコミュニケーションの量と質が違うのは明らかだ。virtual Kissという言い方があるが、Kissをネットで送ることはまず不可能だ。

生身の人間には生身のコミュニケーションが必要だと思う。ネットを通じて
できることは限られている。ネット中毒の私がいうのもおかしいが、ネットでばかりコミュニケーションしている若者はダメになると思う。

寺山修司は「書を捨て町へ出よう」と言ったが、21世紀は、「ネットを捨て町へ出よう」という言葉が必要かもしれない。

明日からの旅行ではネット無しの生活に徹しようと思う。異国の町を、人々を自分の目で見て感じたい。





2003年09月07日(日) ビートルズの街 Liverpool


あと数日で日本に帰るというビートルズマニアの友人と一緒にリバプールへ日帰り強行ツアーに行ってきました。朝8時に出発し、戻ったのは夜中の12時。

リバプールまでバーミンガムから電車で2時間。ビートルズの博物館Beatles Storyを見終わったあと、彼らが出演していたライブハウスの近くの古いパブでランチをし、その後バスでストロベリーフィールドとペニーレーンに向かう。バスの運転手さんにストロベリーフィールドに行きたいと話すと、近くになったら教えてあげるからというのだが。。。地図も路線図も持たない(日曜でバス会社のインフォメーションは閉まっていた)私たちは不安にかられ、周囲の人にどこで降りればいいのか聞き始めた。すると人によって言うことが違う。リバプールのおじさんたちは親切で訛りの強い英語で、いや、あそこから言ったほうがいい! いや、ここで降りてあとはタクシーで行くべきだ!とか話し合いが始まってしまった。結局、私はバス運転手のいうことにしたがって彼がここが一番近いといったところまで乗ったのだが、もう1人のおじさんは降りるとき。。。バスの運転手に「おれは**から行ったほうがいいと思うんだがね!」とまだ言っていた。旅して思ったのは本当に北イングランドの人たちは親切で、話しやすくて道を聞いてもすごく親身になってくれる。。。ここには南イングランドとはまた別のイングランドの顔がある。

このストロベリーフィールズという歌に歌われている場所はジョンが母を亡くしたとしばらく預けられていた救世軍の孤児院で、その後ジョンの資金援助により再建され、今もオノ・ヨーコによる寄付よって存続し孤児院として機能しているらしい。リバプールもこのあたりの郊外の住宅地になると街路樹は古く大きな木が多く緑に溢れ、レンガ作りの塀や大きめの家が並びのどかで美しい光景が広がっていた。その後、ペニーレーンに行ったが、そこも木々に囲まれた美しい坂道でこの歌が好きな私には、この郊外の美しい自然の中でポールも、ジョンも
幼くして母を亡くし多感な少年時代を送ったのだなあ。。。それが彼らの音楽を生んだのかと思うと感慨が深かった。

スティングもビートルズもアメリカでは決して生まれない。このリバプールの曇った空の下、湿った港町特有の空気の中のさびれた町並み。大きな木々に囲まれた古いレンガ造りの住宅街。腕に刺青を入れた男たちが夜な夜な集まる薄暗いパブで飲む苦くて重いエール。Warwickのキャンパスでは味わえないリアルなビートルズのイギリスを垣間見ることができたように感じた。

街に戻ってから電車の時間までのひとときをビートルズの出演していたライブハウスThe Cavern で過ごす。暗い階段を地下に下りていくと親しみのあるメロディが-、というのはちょうどビートルズのコピーバンドが演奏していたのだ。
二曲目はちょうど、Strawberry Fields Foreverだった。

Living is easy with eyes closed, misunderstanding all you see.
It's getting hard to be someone but it all works out, it doesn't matter much to me.
Let me take you down, 'cause i'm going to strawberry fields.
Nothing is real and nothing to get hungabout.
Strawberry fields forever.

目を閉じてさえいれば人生は楽さ 目に目えるものすべてを取り違えてしまう
何者かになるのはむずかしいね でも全部うまくいくさ
そんなことは僕には問題じゃない
僕を行かせてくれ、僕はストロベリーフィールドに行くんだ
なにもかもがリアルじゃない 何もぐずぐずすることはない
ストロベリーフィールドは僕の中にずっとある

ビートルズの歌詞は翻訳するのが本当に難しいと思う。
歌詞を読むと彼らの知性とセンスに圧倒される。
シンプルな英語なのに様々メタファー、イメージの創生の連続がそこにあり、
どう解釈するかは難しい。

一日ビートルズを口ずさみながらリバプールを回って、ここの街でみるような
さびれた古いイギリスの雰囲気を自分がとても愛していること、そして音楽の
力を改めて思い知らされた気がした。この街の小さな家で生まれた4人がメロディを
通して世界を熱狂させる存在になった。彼らの影響は今も強く受け継がれている。
これは一つの奇跡の物語だという気がした。



2003年09月04日(木) 東京の私


帰国の準備を進める中で、ロンドンとノリッジに行ってTOEICを受けたり、古い友達に会ったり、人に会って就職の話をしたりして。。。いろいろ考えさせられた。

もう、丸二年以上まったく働いていないの就職のことではどうしたものか、不安がよぎる。
こちらに友人には、英語力アップのためにも、こっちでしばらく働いてみるべきだ。。としきりに薦められたが、とにかく日本に帰ろうとやっと心を決めて少し楽になった。

あとつらいのは友達との別れである。アルベルトPhDを続けると言っていたのに、彩子が日本へ帰ってしまったら、淋しくなるから僕もしばらくイタリアに帰ろうかなと言い出すし、他にもお別れを言わなくてはいけない人がいっぱいいて辛い。

東京に帰ったらどんな生活が待っているのか。。。
何が私にとって一番大事なのか。。。

自分のことを自分で決めるのが一番難しい。


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