ふうこの英国留学日記-その後

2003年03月28日(金) ニューヨークタイムズの課金制度


30日から4月3日まで4泊5日でイタリアに行ってきます。
中3日はアルベルトと現地で合流し、一緒に(と言っても、彼は自宅や叔母さんの家に泊まるので、私だけB&Bに泊まる)に旅行することになっている。

イタリアに行くのは楽しみなのだが、ニュースに関するエッセイが遅々としてすすんでおらず、部屋に一日こもって多岐にわたる資料と奮闘していたら、もう頭痛が痛いのってなんの(って言いたくなるくらい混乱している)。

しかもニューヨーク・タイムズの記事を使おうとしたら、ウェブでは要約とタイトルしか見れず、本文を読みたいなら記事一つにつき2.95ドル払えと来たもんだ。
なんだかしゃくに障ったので、図書館に行き同じ会社が編集してるヘラルド・トリビューンの過去の記事から手と目で探して、お目当ての時事に関する記事を手に入れたら、腹の虫も治まった。うちの大学も、ル・モンドとか置くなら、国際的研究に秀でた大学だって広告打つくらいなら、ニューヨーク・タイムズくらい図書館に置いておけ!!と思った。

まあ、記事一本テキスト配るだけで、3ドルとは、さすが天下のニューヨーク・タイムズいい商売してまんなあ。でも、読めないというと読みたくなるというのが人間。気になる本について、ニューヨーク・タイムズに面白そうな書評があったので、やはりお金を払ってでも読むべきかどうかいまだに悩んでいる。



2003年03月27日(木) フィンランドはまだ雪の中


先日、フィンランドに帰ってしまった友人にメールを書いたら、すぐに返事がきていてとても嬉しかった。彼女は半年ぶりに故郷に帰ったばかりで、1人暮らしの家ですぐにインターネットができないかも、と言っていたので、あまり返事は期待していなかったのだ。

今日は、多くの友人から連絡やお誘いがあり嬉しかった。
日本人と韓国人の女友達からは別々にディナーのお誘い。
他、イギリス人の友達からもランチに誘われ、イタリアのアルベルトからも電話をもらった。
でも、一番嬉しかったのは、「フィンランドではまだ雪が積もっています。」
という彼女のメールだった。

彼女は交換留学生だったので、私たちより一足先にコースを終え、フィンランドに戻った。そして、フィンランドの自分の属している大学で比較文学の修士課程を続ける。
彼女はうちの学部の学生の中では、特異な経歴の持ち主で、医学部卒業後緊急医療の医者としてフィンランドの病院に勤めた後、国境なき医師団に参加し、エルサルバドルに2年間いたという。英語とスペイン語とスウェーデン語ともちろんフィンランド語を話し、山を歩くのが趣味という人である。
彼女と最初に話した時の印象は強烈だった。正直、頑固で変わった人だと思った。
クラスでグループディスカッションをしたときに、あなたが英語でよく読むものはなんですか?、それを読む目的はなんですか?という一般的な質問にたいして、新聞とか教科書とか他の人が答える中で、彼女は最新の情報を得るためにサイエンスの専門雑誌を読むと言った。それ以外の雑誌はあまり読まないと。
くだらない雑誌を色々読む私はそれを、珍しく感じたので、それは珍しいね。と言ったら、どこが?私にとっては当たりまえです。と彼女に言われ、ちょっと趣味に偏りのある人なのかなと思った。
今から思えば、私の了見は狭かったと思う。文系の学部だが、サイエンスに興味を持つ人がいてもおかしくはない。

だが、その後、彼女がアルベルトのフラットに引っ越してから、顔を合わせることも増え、親近感を感じるようになった。アルベルトから彼女が実は緊急医であることを聞くと、彼女に対する謎が解けた気がした。
ある日、2人で話しているとき、彼女は私に自分が医者であることを自分から私に話してくれた。私はアルベルトからは聞いていたが、知らないふりをしていたので、彼女からそのことを話してくれて嬉しかった。医者だというと何で今さら文学や翻訳を勉強するの?と言われるけど、緊急医はとても辛い仕事で、長い間働いてきて、他の事を勉強してみたくなったのよ。と彼女は静かに言った。彼女はSF小説が好きで、将来SF小説を訳せたらいいなと思っているとも言った。私は、思わず、すごくいいね。と今は医療ネタのSF小説も増えているし、医者から小説家になる人もいるしね。と強く頷いた。
私は彼女の考え方がとても好きだと思ったし、本当に彼女が将来SF小説の翻訳家になったらなんて素敵だろうと思った。

彼女へのメールの最後に、「アルベルトはあなたがいなくて淋しいとうるさいくらい騒いでいます。もちろん私も同じ気持ちです。夏には休みをとって、ぜひイギリスへ戻ってきてください。皆で待ってますから。」と書いた。
 
彼女は「そう言ってくれてありがとう。仕事(医者の)しだいだけど、夏にはぜひ休みをとってイギリスに行きたいと思っています。」と書いていた。

来週はスキーに行くそうだ。



2003年03月26日(水) 侵すこと、侵されること


イギリスも、もう暖かくなって、先日の日曜は友人と一緒に外でランチをしました。サクラも満開で。。。暗くて長い冬と比べ、こちらは春になると一気に、日照時間ものび、日々は明るい光に包まれはじめました。

太陽の光、緑、鳥たち、咲き誇る花。戦争のことで憂鬱な気持ちになっていてもたってもいられなくて、1人で歩き回っていたら、自然の中に安らぎと包容力を見出したみたい。人間はなんてちっぽけなのかな?と嬉しくなる。でも、なんて破壊的な動物なんだろう?と悲しくなる。

一つの生命として、この世界の一部であることは、それ自体とても祝福されたものであり、同時に、自分がこの世界の一部であることを忘れてしまって、目の前の利益やプライドのために、その世界にダメージを与えてしまうのは愚行としか思えない。

私は戦争に反対する。キレイごとだろうといわれようが、反対する。
私は、戦闘機を見て興奮しない。うんざりする。
他人の生活、そして自分自身の生活を暴力で破壊しえる戦争に関する装備すべてを
心から嫌悪する。恐ろしいものだと受け止める。

戦争が起きると人間の心理は大きく二つに分かれる。
侵されることを想像する人間、侵すことを想像する人間。
私は、イギリスや、アメリカが好戦的なのは、かれらはいつも「侵す側」にたってきたからだと思う。
私の中での戦争のイメージは、祖母が経験した東京大空襲で逃げまわり、追いつめられて、黒焦げになった人々であり、生き延びても放射能汚染による持病に苦しみつづけた広島・長崎の人々の手記であり、中国人に刀を振り下ろした日本人兵士の写真が語るものである。

そこには、国と国との争いの中で、なすすべもなく、命とその生活を脅かされた人々がいる。

私には今、日本にいる人たちが北朝鮮に対してどれくらい脅威を感じているのか、正直わからない。北朝鮮に対する脅威が日本のアメリカ支持の大きな理由なのだろうか、しかし、アメリカを支持することは、北朝鮮の暴走を食い止めることに繋がるのだろうか。
イラク侵攻の当事国であるこの国にいると、イラク関連のニュースばかり入ってくるので、それに対して何かを感じずにはいられない。

私は戦争に反対である。



2003年03月25日(火) 食べることは生きること

うーん、最近、イースター休暇に入り、授業がなくなって暇になるはずか、忙しい。
3月だけで2回、日本料理を教えてと頼まれ、まあ要するに教えながら、何か作って欲しいということなんだけど、それぞれ10人分近い料理を作った。
材料も頼んできた友達が全部私に聞いて、前もって用意していたので、私は道具とレシピのメモしか準備しなくていいのだが、10人分の料理を3品くらい作るというのはそれなりに、時間がかかる。

まあ、作るのはいいのだが、教えるのは大変で、ある南米出身の男性はまったく料理をしたことがないので、鍋に塩をふってるだけで、塩はどれくらい入れるの?って聞くならいいのだけど、それは何を入れてるの?と聞いてくる始末。
そういう感じで、ずっと質問が続く。いちいち教えるなら、自分でやったほうが楽なのよ。。。と言っていた母の言葉を思い出す。

エリートの中にはメイドのいる生活に慣れているせいか、または家事は完全に母親に頼っていたせいか、洗濯や料理がまったくできない人が結構いる。これは見ていて一個人として情けなく感じる。私は、家事はまったくいい加減だけど、洗濯機の使い方や、簡単な料理などは、環境が変わっても、(と言っても、日本、アメリカ、イタリア、イギリスだけだが)どうに自分でできる。最低限自分の身の回りのことはできるようにならないと、それは勉強以前に大事と言っていた、うちの両親は正しかったと今になって思う。
洗濯とか最低限の料理を男女かかわらず教える、日本の学校教育における家庭科の授業は無駄ではないいとつくづく思う。

料理については、私の育った家が特殊なのかもしれないけど、最低限なぜ自分で、できないのかと不思議になる。
私の友達は、料理にかんして、私はうるさいからと一緒に料理はしたくないと言っていたけど、そうかもしれない。学校生活の中で唯一、家庭科の調理実習だけは仕切っていた気がする。

でも、安くて、簡単に、そこそこ美味しいものを自分で作ることができるというふうになることは、人生を楽にする気がする。

美味しくても準備に何時間もかかったり、材料が高かったり、するのは日常食にはなりえない。服と同じで、パーティーのときしか役立たない。
日常食なら、30分くらいで、ありあわせのもので、とりあえず、ほどほどに美味しいものを作れるというのが望ましい。

私にとって、食べることは生きることそのもの。だから妥協できないのだと思う。
何を作り、食べるかは、料理教室で習うレシピではなく、自分のコンディションに合わせてアレンジしたい。



2003年03月22日(土) インターネット・リソースによる客観性の確立


相変わらず、「ニュース翻訳における客観性の分析」というテーマに取り組んでいるのだが、ちっともはかどっていない。
ニュース分析と翻訳理論を結びつけることに難しさを感じている。

ただ、当たり前のようなことなのだが、先進国ではインターネットが当たり前のように人々の生活に入り込んでいる今、人は情報源をマスメディアに頼らなくても様々な情報にアクセスし、戦争や、政治問題、環境問題などに関しての客観的な見方を持つことが容易になった、ということをしみじみと感じる。

ニュースの客観性といったとき、私は政府による検閲や、マスコミと政治や経済の癒着関係をまず思い浮かべたし、メディア学のニュース分析の基本的前提は「偏りのないニュースなどない」という一文に凝縮される。

しかし、哲学的にいえば、個人が何かについて判断したり、意見を持ったりするとき、それはすべて主観なのであり、人の判断や思考回路は客観的になろうとすることは可能だが、まったくの純粋な客観ということ自体がありえないのだ。

そこで問題は、コミュニケーションの過程よって、どのようにして、人は客観的な視点を確立していくことができるか、そして、どうそれを表現するのか?または、逆に事実と言われる証拠のある状況が、その表現の過程において、どのようにねじ曲げられ、客観性を失っていくのか?ということになる。

客観性を持つために一番有効なことは、その事象に対して、様々視点があるということを知ることだ。自分の見方と違う視点を知ることで、対象を立体的にみることができる。円錐が上からみれば、円形だが、横から見れば三角形に見えるように、物事を立体的にとらえることができれば、違った見方が自然と見えてくる。
そして、様々な人の視点に触れることができるという点で、インターネットは個人が世界を客観的にみることを、今までにはなかったどんなメディアより可能にしたと思う。

面白いのは、インターネットが、膨大な個人的な情報、つまり極めて多くの主観を提供していることだ。社会的公平と客観性を売りにしていたはずのマスコミが、主観的に物事語ることをゆるされていないように見えながら、実際にはコントロールされた情報と共に、極めて主観的な視点しか提供していないということは衆知のものであり、逆に基本的に極めて主観的で、公平さを売りにしていないネット上の個別の情報の方が、よっぽど客観的に物事をみる視点を与えてくれる。客観性を演じながらも主観的なマスコミと、複数の主観から客観を確立することを可能にするネット、そこには主観に徹することでしか、客観に到達する道はないというパラドックスが見える。

客観的視点を持ちたいと思ったら、まず自分の視点を定めること。インターネットの上の膨大な上は、私にそのことを教えてくれた。

インターネットがなかった時代、人々がアクセスできる情報は今よりもずっと限られたものだったので、マスメディアで報道されるニュースの客観性を疑うことに意義をみつけることは簡単だったろう。
だが、インターネットというメディアを得て、相対的に、情報が増えて大新聞やTV局といったマスメディアへの依存度が下がりつつある今、メディアを研究することは、またさらに違った人間の活動形態を暴くものでないと面白くないような気がする。



2003年03月19日(水) 世界の終わりは君と一緒に・・・


ついに、戦争が始まる。
ブッシュのフセインへの亡命勧告が48時間たって時間切れになった、本日のイギリス時間深夜1時。私は落ち着かない気持ちで、寮のキッチンのTVの前に行き、ニュースを見始めた。

戦争が始まったといったからといって、すぐに私の住む街が攻撃されるわけでもなく、悲痛な気持ちとは裏腹に明日の朝も、私はいつもと変わらない朝食を食べるのだろう。今日、食料の買出しに行って帰って来たら、ギリシャ人の女の子のフラットメイトに、「ふうこは戦争が始まるから食料買いだめしたの?」とからかわれた。ああ、戦争がある国ではそういうこともありえるんだな、と思った。

アイルランド人の女性にに晩御飯を招待されていたので、夕方は彼女のフラットに出かけたのだが、日本はアメリカをサポートするって宣言したんでしょ? どうしてだと思う?と質問されてうまく答えられなかった。経済的、軍事的理由で、日本はアメリカには反対できないわよね。とイギリス人の女性に言われて、そうだね。と頷くしかなかった。

イラクの国民はいまどんな気持ちで時間を過ごしているのだろう。
数時間後、数日後に自分の住む街が戦場になるという可能性の中で、何を思い、誰と話をし、食事を共にしているのだろう。

バグダッド市内に住むイラクの男性のインタビューを見た。
「私の家も、仕事もここにあるし、家族もいる。仕事を捨ててどこに行けっていうんだ。そうしたら、家族はどうやって生活していくんだ。ここにいるしかないんだ。」というようなことを彼は言っていた。

私はいろんな人に頼ったり、助けられたり、して生きているけれど、明日私が死ぬかもしれないという時になって、この人のために自分は死ぬわけにはいかないと思えるような相手がいないかも。。。と思った。
私にとって死んで欲しくない相手は何人もいる。私は彼らを必要としているけれど、反対に私を必要としている人はいるのだろうか?

世界の終わりは君と一緒に、と思えるような相手、最後に、ありがとう、愛していると伝えたい恋人がいないのはつまらないな。。。と思った。



2003年03月18日(火) パソコントラブル


愛用ノートのパソコン(VAIOPCG)がいよいよ壊れかかっている。

Enterキーの反応が悪くなってしまったのだ。
充電もできなくなってしまった。
キーボードを剥がして、中の肉球のようなシリコンを直接触ってみるが
やはり反応が悪い。こうして日本語を打っていると変換を固定するために
Enterを使うので、Enterが3回に一度、しかもゆっくリ深く押さないと反応しない。これははとても効率が悪い。

IBMを使ってる友達はもう3年以上も同じコンピュータをずっと使い続けているのに。。。このパソコンはまだ、前回修理して、キーボードを取り替えてからから
まだ1年半しか使っていない。VAIOはなんて脆いのかしら。
私がパソコンのハードユーザーのせいもあると思うが、VAIOの特にB5以下のものは衝撃にも弱いし、キーボードの耐久性も低いと思う。
もうすでに、真ん中のあたりのキーボードは文字が薄れて消えてきてしまっているし、Enter以外の他の文字キーもかなりガタがきていて、斜めになってしまったりしている。

このパソコンを使い続ける方法としてはUSBの外付けキーボードを買うしかないのだが、どうしたものか・・・
夏までと割り切って、こちらで中古のパソコンを買うという手もある。
でも、日本語キーボードに慣れている私にとっては、OSからキーボードまですべて
英語のパソコンと言うのは操作性の面で、効率がわるい。

パソコンのトラブルにはいつも非常に悩まされる。それくらい、パソコンに依存しているという証拠なのだろう。私はパソコン無しでは暮らせなくなってしまっていると気付く。どんなものでも、それがないと辛いというものを持ってしまうと、人は不安にかられる。それが無くなったらどうしようと思うからだ。

きっと、それは思い過ごしで、私はパソコンが無くても生きていける。
でも、私は、コミュニケ−ションと自分思いを表現するWritingの道具として自分のパソコンがあるとほっとする。自分専用のパソコンが無いと落ち着かない。

それは昔の人にとって、愛用の万年筆のようなものかもしれない。
このパソコンのキーボ−ドからこの日記のすべての記述は生まれたし、
英語の論文も書いてきたのだ。。。。



2003年03月15日(土) 戦争回避の可能性関して


経済的展望に基づく戦争回避の可能性を考えていたところ、とても共感できる記事をネットで見つけたので紹介します。

イラク侵攻とドル暴落の潜在危機 by 田中宇
http://tanakanews.com/d0311iraq.htm

特にこの記事の中の

「アメリカが世界から見放され始めたら、ドル暴落は空想小説の世界から出て現実の問題となり、時間の問題になる。アメリカの中枢部は、この危険に気づいているはずだ。私が「アメリカは開戦できない」と思うのは、そのような理由による。」

というところには励まされた。私もそう思いたい。アメリカの中枢部は国連の決議案なしに開戦することは、アメリカにとって経済的な面ばかりか、国際的な信用面での損失が大きすぎるということを気付いているだろうし、その圧力が軍部にストップをかけると信じたい。

彼がこの記事の中で述べているように、アメリカという国にとって利益をもたらさない戦争を、アメリカのごく一部の人々の権益のためにするのは、馬鹿げているとしか思えない。パパブッシュでさえ、アメリカ単独でのイラク侵攻に反対を表明しており、すでに多くの人がこのことに気付いている中で、国連の決議を無視して開戦したあかつきには、ブッシュは歴代の大統領の中でもアメリカン・パワーを失墜させた大統領として歴史に名を残すことになるだろう。

ブッシュ大統領へ、歴史に汚名を残したくなかったら、今回の戦争は勇気をもって開戦をとどまるべきだと思います。今イラクを侵攻することはアメリカの信用の失墜と、経済的損失と、世界情勢に混乱を生むだけです。

99%の人が開戦は不可避だと言っても、私はまだ戦争回避の可能性を信じてる。
世の中は不条理なことばかりだとわかっていても、個人として、基本的に馬鹿げた不条理にまかりとおって欲しくはないから。
これで、近いうちに英・米が開戦したら私は落ち込むだろうなあ。



2003年03月14日(金) 世界経済は脆弱にして。。。戦争は。。


今日の授業の後で、昨日間違った情報をくれた先生に、先生の言った本にはその論文が掲載されていないこと、図書館にあるこのアカデミックジャーナルのこの年のこの号に掲載してあったのでコピーして手に入れました。と報告し、メモを見せるとすると、私以外の何人かの生徒にも間違った情報を話していたらしく、あら!と私のメモを。。。ちょっと貸して。。。とメモっていました。
こういう指摘って、嫌がる人もいるけど、私の担当教官は気のいい人で、変なプライドも誇示せず、ありがとう。間違った本を教えた他の学生にはメールしておくわ。と喜んでいた。

さて、最近、エッセイでニュースのことを取り上げることもあって、ニュース分析の本や、ウェブのニュースをよくチェックしている。

今日、最も目を引いたのは
「アメリカが国連決議案の採決をまたずに攻撃をする可能性がある」というニュースと、欧州委員会による「世界経済は現在、戦争に対する脆弱さが非常に高まっている。原油の供給状況も、金融システムのストレスも、前回も湾岸戦争当時より厳しい状況で、戦争による政治的不透明が景気の回復を遅らせるだろう」という経済に関する見通しである。
前者のニュースに関しては、そこまできたかアメリカ!!という感じ。
後者に関しては、私でも、現在と湾岸戦争当時では経済状況が違いすぎるということを理解できるのに!!と思った。
回復が遅れるだろうというのはまだ希望的観測でどころか、今大きな戦争が起これば、その政治的・社会的影響から、中東の国々・米・英・日本はもちろん、様々な国の経済が壊滅的な打撃を受けるだろう。
環境保全を訴えるとき、倫理では無理!経済的視点から語らないと。。。と言うが、戦争を回避すべきだというのも、経済的理由が一番有効な気がする。
米・英は戦争の準備に莫大な費用を使ってしまっているので、戦争をすることでしかそれがペイする可能性はないので、もうするしかない。というのは簡単に予想できる理由だが、長期的な見通しの上で、ロスが大きいと判断すれば、ある程度の損は覚悟で手を引いたほうが賢いことも多いと思うのだが。
企業経営でも、これだけ予算を使ったのだからと儲からない事業を続けるより、さっさと撤退したほうが痛手がすくなく、損を回復をしやすいこともあるだろう。

政治の世界は目に見えない利益と権力が結びついていて、非常に理解するのが難しい。このただでさえ、世界情勢が経済的にも政治的にも不安定なところに、アメリカは今までと同じような自国のやり方をつらぬいて、無理に開戦することで、何を得られるのだろう? フランスはアメリカにストップをかけようとすることで何を得るのだろう? 文化国家としての存在感の明示。EUでのリーダ―シップ? 曖昧な態度でアメリカ側につくしかない日本は、得ることはなしにただ何か失っていくだけな気がする。。。。

何かもかもが、失われていくばかりね。。。。と虚しく感じていたところに、クラスメイトのマリアから5月に結婚することになったとおめでたい話が。彼女はアルベルトとも仲のいいイタリア人で、相手はイギリス国籍。でも挙式は彼女故郷、ピサの近くの街でするという。ウェディングドレスはもう注文してあるんだけど、イタリアに行って試着して、寸法合わせなくちゃと嬉しそうだった。
でも、政情が不安定なのでハネムーンの行き先に悩んでいるらしい。
結局、アンチアメリカのカップルの新婚旅行は遠出はやめてパリということになりそうだと言っていた。



2003年03月13日(木) 歯痛とカリフラワーのパスタ

数日前、いやーな感じがして目が覚めると左の奥歯の周りの歯肉が腫れあがり、痛くなっていた。歯を力いれてかむと痛いし・・・と思っていたら、何をしなくても、つばを飲み込むだけでズキッと痛くなってきた。。。。

イギリスは歯医者はやばいと聞いていたので、あせったが、よく歯を磨いて
イソジンで口を何度もうがいした。。。しかし、痛くて、ご飯が食べられないので
痛み止めを飲むことに。去年、日本で風邪をひいたときに医者でもらった、喉の痛み・炎症止めを発見。試しに飲んでみたら、数時間で痛みは鈍いものにかわり、
次の日には薬を飲まないでも平気になった。
今日、授業でクラスメイトに会ったら、やつれてるねー、勉強のしすぎじゃないの?と言われた。歯のせいかな? 睡眠不足のせいか? たしかに、ここのところ不規則な生活と、課題に追われて、疲れ気味で、歯痛も体全体の不調から来てるのかも。。。

といいつつ、歯の痛みもどうにか治まったので、今日は9時まで図書館で奮闘。だって、先生が、「そのテーマで書くならこの論文を読めばいいわ」といいながら、間違った情報をくれたおかげで、論文を探し出すのに2時間もかかってしまった。というのも、今日先学期の成績をもらい、その後、先生と修論のチュートリアルで会ったときに、エッセイの点数の話になって、私の先学期のエッセイは論文の構成を改善すればDistinction(成績最優賞)をとれるくらいの内容はあったから、今度はちゃんとアウトラインとドラフトをもっと早めに私に見せて、そこを改善できるようにがんばってと言われて嬉しかったので、ついはりきってしまったのだった。

図書館でウロウロしてたら、アルベルトとばったり。
次の課題で、私とたまたま同じトピックを選んだそうで、一緒に資料を探したり、コピーしたりしていたが、9時過ぎに、おなかも減って、疲れきったので、寮へ帰ってパスタを食べることに。同じく腹減りを訴える彼に、
私「今日は、昨日作ったパスタソースの残りを食べるんだー。」
彼「何ソース?」
私「トマト、オリーブ、にんにく、玉ねぎ、海老、バジル。。。のソースだよー」
彼「ああ、信じられない、君は日本人なのにどうしてそんなのが作れるんだー」
私「食べたい?」
彼「そんな、どんなソースか散々話しておいて、食べたくないって言うわけないよ」
私「はは。じゃあ、食べにおいでよ。どうせ、パスタ茹でて混ぜるだけだから。。。」

というわけで、パスタを一緒に食べました。イタリア人の彼曰く、パスタはとてもパーソナルな料理で、それぞれの家庭や人によって好みがあるそう。彼は、君の料理は、僕の姉料理みたい!とても喜んでくれて、春はカリフラワーのパスタをが美味しいから作るといいよと提案してくれました。



2003年03月12日(水) The Hours 美しい瞬間


アカデミー賞ノミネート・作品「The Hours」(邦題 めぐりあう時たち)
を観た。
久々に心を打たれるアメリカ映画を見たという感じがした。
映像も音楽も美しい映画だが、そこに溢れる女性たちが語る言葉が何よりも素晴らしい。
この映画はヴァージニア・ウルフの「ダロウェイ夫人」をモチーフに
イメージをひろげて、異なる時代と場所に生きる三人の女性の1日を描いた物語。

それぞれの人生の時、誰でも何度かは経験するような美しい朝。
まばゆい、愛する家族、咲き誇る花の香り。
これから素晴らしい時がはじまるという予感を感じることの幸福。
そして、その日常生活の中に潜む死の影。人生は常にドラマチックだ。
自分は何のために生きているのか? 生きていて欲しいと思ってくれる相手が
いるから生きているわけではない。 愛は人を幸福にするがどこまでも
人は孤独で、その精神の、肉体の病は誰にも救えない。

傍からは、何の変化もないように見える日常の中で、登場する女性たちの精神は
葛藤し、生と死のはざまで揺れ動き、二度とない今日1日を送る。

死を選んでも、生を選んでも、精神の暗闇で1人孤独感じて苦しんでも、それは私の権利。と劇中のヴァージニア・ウルフは言う。

すべてのものは過ぎ去って、失われていくが、人生には美しい瞬間があるということ。死や喪失は悲しいことだけれど、人生のその時にあった幸福や愛は不変のもの。安易な感傷ではなく、人の生の事実として豊かに深くそのことを感じさせてくれる映画だった。

ある程度の年齢以上の多くの女性なら、こんな風に自分の人生に惑い、精神的にギリギリのところでどうにか生きることを選択した経験があるのではないか?と思う。






2003年03月07日(金) ブッシュの演説


BBCニュースでブッシュの昨日ワシントンでおこなれた会見を見た。

一言で感想をいうと、「胸くそわるい」。
戦争をしたくて仕方が無いんだな。どうころんでも、アメリカとしては戦争するつもりなんだな、というのが伝わってきた。
その理由としてSeptember 11を挙げているのが気に食わない。

BBCのレポーターは、ホワイトハウスは孤立しているように見える、と言っていた。アメリカは仏・独・露、そして中国の反対を押し切ってまで戦争を始める気なのか。。。大国が国連の決議を無視することができるなら、国連の決議に意味がなくなってしまうのではないか?

などと、ぶつぶつ心に思う。私にできるのは、武力行使反対の署名やデモをする友達を応援することくらい。どうしようもなさに何か落ち着かない気分になる。
戦争が始まるのは恐ろしい。嫌な気分だ。



2003年03月06日(木) Shoah ショアー 想像力についての考察

先週ショアーを観たと書いたが、今日の授業でショアーについてのディスカッションがあって、いろいろなるほどと思ったことがあった。

ショアーがドキュメンタリーの手法として優れている理由として、
ナレショーン、音楽、古い写真、映像などが一切加えられず、
実際に監督のランズマン彼自身がが会った生存者たちの証言を淡々と
記録しているということが挙げられる。

証言者に対するインタビューの仕方や質問、そして彼ら証言を引き出すための、記憶の扉を開ける引き金となる何か、例えば場所や状況などの
与え方が、自然な流れに見えながらも、話し手の証言者と聞き手の観客を想像の中の過去へと引き戻す。残酷な写真や、実証証拠無しに、装飾なしに語られる証言者の言葉は私たちの頭の中でイメージを結んでいく。

歴史の本に語られているホロコーストの、いつ、どこで、だれが、どれくらいの人を殺したか?というような情報は、この映画が与えてくれるような現実感を私たちに呼び起こさない。フォーマルに語られる「歴史」ではなく、個人の経験の語りとしての真実性がここにあるように感じた。それは私たち個人の生の経験と結びつき、安易に感情に訴えることを避けながらも、そのイメージは心に深く沁みこんでくる。

ショアーのエンディングにはアウシュビッツのゲートの白黒写真が映し出されるが、カメラはその中には入らない。ただ、そのゲートの中で何が実際にあったか?その写真は想像を促すだけだ。これが私にとってはとても恐ろしかった。

彼のこの手法は人間の想像力と記憶力よってはじめて効果を発揮する。
想像力を喚起させるということほど、強いメッセージを伝える手法は無いのかもしれない。

私が子供の頃、一番恐れていたのはは、「ナルニア国ものがたり」に出てくる、想像した恐ろしいものが実際に現れるという逸話だった。挿絵に描かれたどんなおそろしげな怪物よりも、自分が想像しうる限りの恐ろしいものが目に見える形になってしまうというのは、逃げることができない。想像してはいけないと思うほど、頭は働き、どんどん考えてしまう。人は想像することを制御することはなかなかできないものだ。

想像力は人が世界を認識し、生存しようとするために必要な、人類がもちうる偉大な能力のひとつだと思う。誰でも自分が経験していないことはわからない。ただ想像することができるだけだ。と同時に、想像力は諸刃の剣で、それによって人は救われもするが、苦しみつづけることもある。
事実と想像というのは、一見正反対のことのように見えるので、ドキュメンタリーのもちえる事実性アピールするために想像力にたよるというのは、矛盾しているようにみえるかもしれない。しかし、事実を理解するために想像力は不可欠なのだ。
想像力の介在しないところで、何かを伝えるということ、理解するということは不可能なのだと思う。
こういう意味で、翻訳作業というのは想像力に頼ることが大きい、プロセスなのだなと。。。自然と頭の中で翻訳のことに結びついた。

ちなみにショアーの監督のランズマンはこう言っている。
「ヨーロッパ・ユダヤ人絶滅政策は
今日伝説的・神話的次元の知識の対象になってしまっている
伝説に思い出を対置しても、伝説を打ち破ることはできない
伝説に止めを刺すためにはただ伝説を、
できるならば、想像を超える現在と伝説の源泉ともなっている現在とを
突き合わせる方法しかない
そして、そこに至る唯一のやり方とは、過去を現在としてよみがえらせ、
過去を非時間的なアクチュアリテ(現代性)の中に復元することである」




2003年03月05日(水) ニュース分析と出版事情


次のエッセイでとりあげるトピックを決めて、本格的に取り組み始めた。
お題は「ニュース翻訳における客観性の分析」。
イラン関係のニュースを英・米・日の7,8のメディアのウェブサイトからプリントアウトしたり、図書館でコピーしたりして、比較する資料を集めている。
イラクにおいて、すでにアメリカの空爆によって市民が6人死んだらしい。とのニュースを見つけた(発信元はイラク国営通信またはイラク軍)。昨日の時点で、ロイター通信とガーディアン(イギリスの左派新聞)でしかこのニュースを見つけられなかった。米と日本のメディアでは一切これについての報道はなし。
これについて、日・英・米のニュースを比べたいと思ったのに、日本のメディアは報道さえしないんだから、翻訳文にみれれる客観性を分析する以前の問題。何が翻訳され、何が翻訳されていないのかということ考えさせられる。

余談。メディア関係の書籍はなぜかおしゃれだが値段が高い。専門書は日本でも高いが、ペーパーバックで一冊20ポンド(4000円弱)は高すぎ!!でも、図書館になくて必要なものは買うしかないとあきらめ。。。もう、6冊の本を購入。今月はもう100ポンド以上本代に消えた。。。今月は本と食べ物以外一切の買い物を断とうと思う。

まあ、本は学生には何よりも必要なものなのでしかたないが。。。イギリスに住みたくない理由の一つに本が高いということをあげてもいいと思う。
小説のペーパーバックで1冊1000円以上というのは納得がいかない。思うように本が買えないのはストレス。日本の本は安いし、軽いし、きれいだし、読みやすいし、紙も印刷もいいし、本好きにとっては日本っていい国かも。
まあ、こちらでも、古本屋はあるので、探せば安く買えるのだろうけど。。。。よく事情がわからないので、欲しい本が見つけられないのです。。。



2003年03月04日(火) 春眠暁をおぼえずとも映画を観る


眠い。最近非常に眠い。
でも、ふとんに入ると眠れない。
昼夜逆転してしまっているのね。。。

眠くても相変わらず映画漬けの日々。
映画を観ていると眠くないし、勉強から逃避できるし。。。
でも、今映画の字幕翻訳の課題にチャレンジしていて
今まで数多くの映画を字幕で観てきたのが感覚として
役にたっていると感じる。

さて、この10日間でみた映画はなんと。。。6本

一本目 「戦場のピアニスト」
期待が大きすぎたのか、思っていた以上の感動はなかったが、
ドイツ軍に侵略されたときのワルシャワのゲットーの実体が描かれていて
それがなんともショッキングだった。想像を絶する。
ちなみにこの映画はドイツ語の部分だけが字幕。ポーランドの人たちは皆
英語を話しています。

二本目「Nine Queens」(アルゼンチン映画)
詐欺師の男2人組みが繰り広げるドラマ。最後のどんでん返しには笑った。
映画としてはとても面白いが、こんなにアルゼンチンは犯罪だらけなのか?
一瞬もウカウカしてられないのね?と思った。
でも、出演者も魅力的だし、ストーリーもテンポがよく、思わぬ佳作。

三本目「Shoha(ショアー)」
これは授業の一環で観た。ナチスによるホロコーストについての有名なドキュメンタリー映画。9時間半の長編だが、授業の参考資料として最初の二時間だけを観た。
ドキュメンタリーの手法としてはとても優れていると思う。
ホロコーストについての映画を一週間に二本も観ると、知識がリンクするので
理解は深まるのだが。。。。極めて暗い気持ちになる。
アウシュビッツの生き残りの1人が語った。。。
今となっては自分がここに昔いたことが信じられないと。
映画をみる私は、そんなことがあったとは信じられないと思うのは当たり前だろうなと思った。私も信じたくはない。

4本目「ロスト イン ラ・マンチャ」
私の好きな監督テリ−・ギリアムの「ドンキホーテを殺した男の」のメイキング・ドキュメンタリー。この本作はいろいろな事情が重なり50億円という制作費をつかいながらも製作中止に。その撮影準備から製作中止にいたるまでの過程が描かれたドキュメンタリー映画。本作がないメイキングムービーというのも珍しいだろう。
偉大な監督は大いなる夢見人間で現代のドンキホーテなのかもしれない。
彼の初期の出世作は「嘘つき男爵」の話だったしね。
でも、もしこの「ギリアム版ドンキホーテ」の映画が完成してたら面白いモノになっていたであろうことは、間違いなく、ギリアムファンとしては痛々しい思いでいっぱい。

五本目「ジョイ・ラック・クラブ」
これはTVでやっていたので観た。女性には評判の高い映画だと思うが、うーん、私にはイマイチはまりきれなかった。ただ思ったのはいつの時代も女性の悩みは変わらないなあと。結婚や出産、子育てはいつも女の物語なのか?母から娘たちへ、その痛みと愛は受け継がれる。この映画に出てくる男たちの影の薄いこと。

6本目「CHICAGO」
これは大学のアートセンターまで観にいきました。といっても3ポンド(600円)なんだけど。楽しみにしてたし、やっぱり楽しめた。
キャストもレニーがロキシーはミスキャストなんじゃないの?ロキシーはもっと悪女っぽい美人じゃないと。。。と思っていたが、彼女の奮闘ぶりにほぼ満足。。。とはいいつつ、やっぱりちょっと不満かな。
以前、NYのブロードウェイでCHICAGOのミュージカルを観たときも、ヴァルマ役には大満足だったのだけれど、ロキシー役はあんまりかっこいい女性じゃなかった。いつか。。。素敵なロキシーのキャストでもう一度このミュージカルを見てみたいと思う。
ミュージカル映画としてはすごく良く出来てるし、場面の変換や挿入の仕方もかっこ良かったと思う。でも、フォッシーの映画としてはやはり「キャバレー」のほうがずっと魅力的で、彼の舞台を映画化したものは、彼が直接監督をしたあの映画を超えることは難しいのかも。。。と思った。


 < 過去  INDEX  未来 >


ふうこ [MAIL]

My追加