ふうこの英国留学日記-その後

2002年04月29日(月) またまたエッセイ締め切り前


というわけで、かなりやつれております。
もう、会う人、会う人に、疲れてるねー。と言われる始末。

週末の二日間で3000word書きました。しかし、今回のエッセイは5000wordなのでまだ山の6合目。しかも、書いた分も大幅に訂正しなくちゃいけないし・・・、要するに、とほほの状態でございます。

しかし、サンドイッチや他の食べ物を差し入れてくれたK、中国のお土産のお茶を私のフラットまで届けてくれたのに、忙しそうだからと話もせずに帰ったJ。
本当にありがとうね。 夜はKの持ってきてくれた、トマトを食べ、Jのお茶を飲みながら勉強しました。。。
あと、宇多田ヒカルのCDと江国香織の新刊を日本から送ってくれたM、本当にありがとう。ちゃんと息抜きに楽しんでますよお。

私が、一番生産的になっている状態の時って、あまり時間を意識しなくなるので、おなかが減ってどうしようもなくなるまで食べず、眠くて頭が回らなくなるまで寝ない。。という状態になります。
そして、集中がふっと途切れると、ものすごーく疲れている自分を発見します。

英語で書いていて思うのは、いっぱい読めば書ける!!ということ。
子供のとき、国語の先生が読書こそ国語力をつける一番の近道。。。と言っていて、何まどろっこしいこと言ってるのよ! と思ったけど、外国語に置き換えてみると、まさに、その通り。と実感します。

問題は、英語の読解力がなくて、十分な量を読みこなせないこと。読んでも、複雑なところは意味がわかんないこと。言葉って本当に難しい。。。
エッセイを書くときは、資料の論文を要約したり、書き換えたりしないといけないのできちんと意味をつかんでないと、それが出来ないのです。ひえー
論文の要約なんてさー、私の頭脳だと日本語でも難しいのに・・・

イギリスで8ヶ月勉強したら、英語がすらすら読めるようになる・・・なんてことは私にはまったく起こっていません。「もう、辞書なんかひかないでだいたいなんでも読めるんでしょ」などと簡単に言う人は、言葉を真剣に勉強したことがないでしょう?って思ってしまう。

果報は寝て待て
あとは野となれ山となれ   というフレーズが頭をかすめる今日、

でも、その前にもう少し 千里の道も一歩から ということで、
がんばらな あかんわ。 



2002年04月26日(金) 相性とは?


人間同士相性というのもがどうしようもなくあると思う。

私は最近、ある特定の人物と一緒にいると自分が非常に疲弊することに気がついた。そして、その人物の欠点ばかりが目につくのだ。

人のことを嫌に思ったりするそういう自分が嫌で、どうにかそういう人とも仲良くやって行こうと努力をしてきたが、一緒にいると相手はどんどん元気になり、私はなんか倦怠感すら感じるようになっていく。

人間の体は自分が思っている以上に恐ろしく正直なものだ。。。その人物と会わなければ、一緒にいなければ、肩の荷が降りたような気分になり、一緒にいるとどんどん自分のエネルギーが吸い取られていく感じがする。

以前、やってみた東洋の占いで人をいくつかの型に分ける方法で、睡穴という型があった、私は悟穴タイプで、人と話したりして、エネルギーを外に出せば出すほど、元気になるらしい。しかし、睡穴タイプの人間というのは一見、のんびり無害に見えながら、人からエネルギーを奪うばかりらしい。悟穴の人間は睡穴タイプの人間に気をつけましょうと、書いてあったのを思い出した。

きっと、彼女は私にとっての睡穴の人間なのだろう。 限られたエネルギーを奪われないよう気をつけなければ。。。 自分の身を守るためには苦手な相手と距離をおくことも必要よと言ってくれた年上の友人のアドバイスが身に沁みる今日でした。。



2002年04月25日(木) イライラは美容の敵


今日は久しぶりにイライラしてしまった。
というのも、わけあって、イギリスで普段つかっている携帯電話が繋がらなくなり、こういうときに限って、急いでしなけらばならない連絡があったりして、
非常に不便している・・・・

それも、もう一週間前に携帯のショップ手続きに行って、つなげてくれるよう頼んだのに、その日の夜にも使えるようになるかもしれないと、担当者は言っていたのに、それにもかかわらずまだ、つながらない。。。

しかも、エッセイを来週までに2本5000word以上書かねばならず、バスで30分もかかる携帯ショップのある町まで行っている暇もない。

家族や、彼からは早く直すようにといわれているのだが、どうしようもなく・・・

イライラしている自分は余裕がなくてぎすぎすしていて、嫌。

なんていいながら、晩御飯も食べずに勉強し、9時過ぎに空腹に耐えかねて
キチンへ行ったら、友達のカップルがちょうどカレーを作っていて、今から作るなら一緒に食べる?と誘ってくれた。。。。
こういうときは、無理しないで、ありがとう、喜んで食べさせてもらうわと素直な私。
もちろん、彼らとの食事を楽しんでいる間にイライラはふっとび、元気になった。そして、食事を終えるともう夜の11時。好きな人たちと食べる食事は美味しくて
こういう時間が私のエネルギーになっていると思う。

好きな人と一緒にご飯をたべることは、私にとってはとても大事なこと。
そして、それはとても贅沢なことなのだと思う。

あなたが今食事をしていて楽しい相手は誰ですか?それがもしかしたら一番大事な人かも知れません。



2002年04月24日(水) 合格通知

私は今は美術史を専攻しているのだが、今年の秋から来年にかけて、専攻を変更して翻訳学を勉強しようと思って、いくつかの大学院の翻訳学の修士課程に申し込みをしていた。
一昨日、今いる大学の翻訳学科からとても満たせないような高い条件がついた仮合格通知をもらい。。。これじゃ専攻変更はやっぱり無理かも・・・
とかなり落ち込んでいたのが、本日の夜、第一希望だったほかの大学の大学院からコースディレクターがあなたの願書に興味を持ち、今年の秋からのコースに受け入れることを決まりました、近いうちに正式な通知がとどくはずです。というメールがもらいました。

最初は、びっくりしたけど、すごく嬉しかった。その大学Warick大学は一般的にイギリスではもっとも研究成果の高い大学の一つで、今日、メールを受け取ってからタイムズの文科系大学ランキングで調べてみたら、全英第6位の大学だった。

今いる大学には友達も大勢いるし、環境にも慣れているので離れるの淋しいが、私は他のところに行く運命なのかなー?

まあ、まだ最終的にwarick大学に行くと決めたわけではありませんが、ほぼ今後の進路は決まったということで、心からほっとしております。

ああ、いまや合格通知もメールの時代・・・以前に仕事していたとき、「すべてはその一通のメールから始まった・・・」というキャッチコピーを使ったけど、まさにその通り。私の人生も一通のメールで左右されてしまうことを実感した、今日でした。



2002年04月23日(火) 個人に対する社会における評価

私は今年の秋から大学院の違う科目のMA(修士課程)で勉強をしたいと思っていて、その願書をベニスに行く前に提出しておいたら、戻るなり昨日返事を受け取った。

基本的にはそのコースのディレクターは私を受け入れてくれる方向にあるのだが、それに付けてある条件が厳しく、今の私の英語力と成績ではかなりおぼつかない。

学校の成績なんて・・と思ってきたが、自分の成績が低くて自分の望むコースに入れないというのはなんとも、つらく落ち込んでしまう。
きっと、残りのテストとエッセイですべて、すごくいい成績をとれば無理な基準ではないのだが、今の私にはとてもそれを成し遂げられる自信がない。

どうしたらいいんだろう?

そんなことを言っている間にも勉強したほうがいいのはわかってる。

私たちは本当に数値に置き換えた価値基準の中で生きている。
学校では点数が数点も上下するだけで、大騒ぎし、会社では給料やボーナス、今月の業績を気にし、様々なことが数値に置き換えて測られている。

私がどんなに試験に出ないアートの本を読んでいたって、アートヒストリーの授業でいい点はとれない。試験という局面ではその人がいかに、普段から努力してその分野の知識をつけているか?というより、その時間内で満足いく答えを提出することが求められる。

試験に落ちて自殺するなんてばかげている。。。と思ういっぽう、試験を前にして
きわめてナーバスになってしまう自分がいる。

「大切なことは目に見えない」と星の王子様は言う。
数字で人を測るのは悲しい、ばかげていると思う。

でも、私の成績が悪くて希望するコースに入れなかったら、それはどうしようもなく私自身の責任だ。そして、今私の生きている環境では大学の成績は未来を左右する大事な指標になっている。

いやだと思いつつも、こういう近代的な社会で生きて勉強することを選択している私は、その価値観から逃れることが難しい・・・・実際は今すぐにでも逃げ出したいくらいなのに。この重圧から、すべてが数値化されてしまう世界から

ふうちゃんに会いたい、彼女だけはいつも私を社会の価値観から切り離して、私そのものを感じてくれる。そして、彼女のぬくもりを感じながら今はただただ眠りたい。
(追記:ふうちゃんというのは、私の実家で飼っている雌猫のことです。10年前に私が井の頭公園で拾いました。私のふうこというHNはもちろん彼女から拝借)

受験生のみなさん、がんばってくださいね! 大学受験の時にあんまり頑張らなかった私は、今ごろイギリスで試験のプレッシャーに悩んでおります。。。



2002年04月19日(金) アリヴェデルチ ベニス

朝はゆっくり9時近くに起きた。Mはもうとっくに起きて朝ごはんを済ませていた。
私は起きて、シャワーを浴びて、朝食を終えるとサン・ジョルジョ・マッジョーレへ。
先日、団体で来た時に見逃した、カルパッチョの絵が気になっていたにで、それを観るのと鐘楼に登りたかったのだ。カルパッチョの絵はどこにあるのかわからなかったので、係員に聞くと、個人的にその絵の飾っている部屋まで連れて行ってくれた。
部屋の中には私1人で、絵と静かに向かいあう。この絵も竜を退治するサン・ジョルジョを描いたもの。同じ画題でもスコーラにあったのと構図などがかなり違う。私が見ている間にフランス人のおじさんが1人入ってきて、私にスコーラのカルッパチョは観たかと聞いて来たので、昨日行きました、比べると面白いですね。と答えると、「私はあっちの方が好みだなあ」と言ってさっさと出て行った。
その後、鐘楼に登ると天気が良いせいか日本人のカップルが何組もいた。新婚旅行かな?などと思いつつ、日本にいる彼のことを思ってちょっと淋しくなった。
天気がとても良いので鐘楼の上はとても気持ちよく、眺めも素晴らしいものだった。
ああ、この美しい島々から成り立つ国を後にするんだと思うと少し淋しいと同時に、遠く離れた東の果ての日本からこんな場所に来て17日間も過ごした自分を不思議に思った。

鐘楼を降りると教会を出て、ベニス本島に渡り、サン・ザッカ―リアの前からサン・マルコ広場を横切り、そこからトラゲッタという渡し舟でサルーテ教会の近くへ渡った。途中、友達へのみやげ物を少し買ったり、ブラブラ太陽と海のまぶしさを楽しみながら歩く。
サルーテの方から、ペギー・グッゲンハイムのミュージアムショップにより、ここオリジナルのペンをまたお土産用に追加で買う。書き味を試したり、色を選んでいる間、店員と話が弾む。「そのペンはいいわよ、ベニスならではのゴンドラとペギーグッゲンハイム美術館の建物が両方モチーフになってるし、しかもペギーの笑顔までついてるんだから」
そして、水上バスの乗り場へ行き、ジュデッカ島のアパートへ。
ルームメイトのMはまだ戻っておらず、1人で台所やトイレ、片付け、ゴミの始末などをする。1時過ぎにMが戻ってきて、家具の位置を元にもどして出発。

空港からHさんと日本にいる彼に電話。Hさんは留守でご主人にお礼を言う、彼のほうはミラノの事件で少し私のことを心配していたところだと言っていた。

バイバイベニス。と眠っている間にアムステルダムのスキポール空港へ。
空港からタクシーに乗って、夜10時ころに大学の寮に帰宅。ほっとしたところでメールをチェックするとこの大学にいる一番仲の良い友達の誕生日パーティーが夜の12時から開かれるというので来るようにというメールが。というわけで休む間もなくベニスで買った誕生日プレゼントとカードを持って、彼女の部屋へ。12時前につくともう10人近くの人が集まっていてみんなで12時になるのをカウントダウンして彼女の誕生日を祝う。そして、イタリア人の友達の作ったティラミスを皆で食べる。

みんなで一時半くらいまで彼女にプレゼントをあげたり、カードを紹介したり、おしゃべりしたり。2時近くに友達に送ってもらって部屋に戻り、爆睡。



2002年04月18日(木) ユダヤ人の歴史とイタリア人よりイタリア料理のうまい日本人

フィールドワークも授業がある日は今日で終わり。長かったような短かったような。。。しかし、なんだか疲れが溜まっていて、団体行動をするのは二週間が限度かも?と思う。

今朝はベニスに新ゲットーにあるユダヤ美術館(Jewish Museum)へ。ちょっと遅刻した私たちは走りに走って、汗をかきかきゲットーの広場に到着。今日も良い天気で暖かい。
ユダヤ美術館はとても小さく、観るものは私にははじめてのものばかりで、正直よく理解できなかったけれど、係員による英語のガイドツアーがとてもわかりやすく、興味をそそられた。Synagoguesと呼ばれる、ユダヤの教会がビルのなかにいくつもあって、ユダヤ人の信仰の厚さと、彼らの迫害されつづけた歴史を感じた。
ベニスは中世ヨーロッパで信教の自由を認める数少ない場所だったが、ユダヤ人はゲットーに住むことを強制され、夜間はゲットーの門は閉ざされ、外部に出ることを禁止されていた。その限られた居住区の中に彼らはビル中ににSynagogues(シナゴーグ)を作り、彼らの信仰生活とコミュニティー築き、守ってきたのだ。
第二次世界大戦の時には、ナチスにより200人以上のユダヤ人がベニスのゲットーから連れさられ、戻って来たのはたった4人しかいなかったという。新ゲットーの広場の壁には、その二度とベニスの地を踏むことの出来なかった犠牲者の名前が刻まれた記念碑が建っていた。
お昼は天気が良いし、最終日でもあるので、ここは観光客っぽくサン・マルコ広場のカフェ・フローリアンで過ごすことにする。このカフェはカサノバも、バイロンも、プルーストもここでコーヒーを楽しんだというベニスで一番老舗。カフェでのクラシックの生演奏を聞きながらゆったり、のんびり。
午後は、イコン美術館へ。ここで、ビザンチン美術のイコンをいっぱい見る。イコンはコピーして同じものを作ろうとするのでマリアのおんなじ顔がいっぱいあってなんだかおかしかった。
午後3時、今度はスコーラ・サン・ジョルジョへ行き、カルパッチョの聖人の生涯のシリーズを見る。私はドラゴン退治をする聖人、サン・ジョルジョの絵がお気に入り。姫を助けるためにドラゴンを殺すというのも、中世騎士物語りのようで見ていて楽しい。
しかし、実際はドラゴンは異郷の象徴で、姫はその町の象徴だというので、異教を信じる町をキリスト教が武力によって支配し、キリスト教に改宗させたというキリスト教の勝利を勝利を象徴的に描いた話だという。
とにかく、カルパッチョはお気に入りの画家なので、ここは面白かった。
ここを見終わってまとめの話を先生から聞くともう5時過ぎ。
最終日だということもあって、みんなでバーに行くことに。先生を囲んで話をする、イギリス人のクラスメイトからは日本のことを聞かれたりしてとても楽しかった。ビアズリ―が好きだというクラスメイトが、ビアズリーにおけるジャポニスムの影響を語ってくれたり、雑誌で見たけど日本のスクールガールはすごく不思議なファッションをしてるねと言われたり。
男のクラスメートがワインをおごってくれて、二杯も飲んだら、疲れと空腹のせいかかなり酔っ払ってしまった。6時半過ぎに解散し、Hさんに電話。今から行くと連絡をする。
7時過ぎにHさんの住むリド島に着き、手土産に閉店間際のジェラートショップに立ち寄り、ジェラート二種4人分を詰めてもらう。溶けないようにと早歩きで彼女の家に向かい呼び鈴を押すと、窓から顔を出して迎えてくれた。ひとまずジェラートを冷凍庫にしまうと、彼女と散歩がてら彼女のイタリア人のご主人を近所のバーまで迎えに行く。
ご主人はジェラートが大好物で、私がジェラートをお土産に持ってきたことを彼女がイタリア語で話すと、「それはでかした」と言っていた。
もどって三人で食事、今日は来ることがわかっていたのでフルコース用意したのよという。ああ、彼女の料理は素晴らしかった。まず、前菜に茹でたカリフラワーにナスとピーマンの塩漬けを合えたもの。からすみのスライスとにんにくのパスタ。次にルッコラとトマトのサラダ。そして白身魚にトマト、パセリ、セロリのソースのかかったものをポテトで囲んでおーぶんで焼いたメイン。そしてデザートは焼き洋ナシと私のお土産のジェラート。美味しいので、これ以上は食べられないというところまで食べてしまった。シンプルだけど、塩かげん・茹で加減、バランスがとても良い料理ばかり。正直言って、Hさん連れて行ってくれたレストランよりも美味しいと言うと、「イタリア料理はシンプルだからちゃんと作れば、家庭料理の方が美味しいのは当たり前」と言っていた。

この夕方、ミラノにて小型飛行機がビルに突っ込んだ事件が起こり、三人でテレビに釘付け。第二のNYかとイタリアのマスコミも最初は驚愕していたようだった。

夕食のあとは、リビングに移ってコーヒーを飲みながら女同士で日本語のおしゃべり。話題はHさんのパソコンの話、私のプレゼンの話、キリスト教についての話。人生についての話。外国に住むということなど。あっという間に時間は経ち、11時半となったのでHさんが水上バスに時刻表をチェックしてくれたところ、なんと11時40分のリド島発が終バスということに気づき、慌しく別れのハグをして彼女の家を後にする。

アパートに戻ると、Mもさっき帰ってきたばかりでシャワーを浴びている最中だった。ベッドに入ってから夜中の3時までかかって塩野七生の「海の都の物語下巻」を読み終え満足して眠りにつく。



2002年04月17日(水) ラブラブ・カップルin ベニス

今日は、サン・ジョルジョ・マッジョーレで10時集合だったので朝はこれまでで一番ゆっくりできた。この教会はその小さな島に独立してあり、しかも、私たちのアパートから水上バスで三つ目だったので行くのも楽。ここはリアの解説。彼女は私たちのクラスでももっとも勉強熱心な学生。私は前回のプレゼンで少しこの教会について勉強していたので普段よりは彼女のプレゼンに対しては理解度が上だったと思う。
私は基本的にこの教会が好きだ。ファサードも内壁も同じパターンの白亜のイストニア石でできており、その後ろの外壁一般は赤く塗ってある。修道院も併設していて、教会の後ろには美しい回廊が二つあり、その周りを修道院の庭と畑(?)が取り囲んでいて、なんとも平和な美しい風景。ベネディクト派の修道教会だが、なんとも修道士の禁欲的な美しい生活が連想できるような島の風景だ。
午後はアブリルによるカ・ドーロとハリーによるグリマーニ邸のプレゼンテーション。
まず、カ・ドーロの運河をはさんで向かい側に集合し、そのファサードを眺めながらアブリルの発表を聞く。天気が良く、みんなサングラスをして運河沿いに腰掛けながらのプレゼン。
ハリーのプレゼンもなかなか長くて内容があった。そんな一生懸命勉強しているように普段は見えない彼だけど、やることはやってるのね。という感じ。フィオナとハリーのカップルはベニスに来てからもうラブラブで、移動の時にハリーがお姫様だっこでフィオナを運ぶ始末。ベニスにはカップルが似合うので二人も盛り上がったみたい。フィオナは私にまで、「Harry is so sweet!」ってのろけてくるし・・・

夕方、Hさんに電話して、明日の晩の晩御飯にまたおよばれすることに。
今日は、真面目に帰って家でツナとズッキーニのパスタを作って食べた。



2002年04月16日(火) レオナルド再び

今日はサン・ジョパンニ・エパウロの前のコレオーニ将軍の騎馬像の前で集合。ジョパンニ・エ・パウロ教会については金髪のほうのケイト(このクラスには二人のケイトがいるので)が担当。最初照れていたがなかなかしっかりまとめていた・・・ようだった。というのも、とても静かな教会のなか説明の声も小さくならざるを得ず、よく聞こえなかった。隣にいた人ぐらいしかよく聞き取っていなかったのでは?と思うくらい。あと、やはりイギリス人の普通の若い女の子の話は聞き取りにくい、声が高くて細いうえ、早口。
これはつらかった。そして、あまりのわからなさにケイトが参考資料にしていた、この教会の内部で売っているこの教会についての解説書を購入。これで彼女が発表した4つの記念碑について読めば内容がわかるだろう。
そのご、午後にプレゼンを控えちょっとピリピリしたMと一緒にカフェで勉強。お昼は先日行った、リアルト橋の近くの天津という中華レストランへまた行きアジアの味を堪能。(ラーメンと餃子を食べた)そして、食後もうろうろせずまたMの発表するフラーリ教会の近くのカフェで勉強・・・していたのはMだけで私はこのとき眠たくてうとうとしていただけだった。3時から5時くらいまでじっくりフラーリのMと先生による解説が入り、終わるともうぐったり。しかし、風邪がだいぶ治ってきた私としては母に頼まれたお土産の買い物がしたくて、またリアルト橋のほうまで行った。いいものが見つかったが一つに絞るのに最後、色で悩んだので母に電話で聞いてみることにして、買わずに今日はアパートに帰る。

つかれてぐったりしてしまい、Mが作った晩ご飯に便乗させてもらう。なかなか美味しいパスタだった。
ふたりとも疲れきっていたのにもかかわらず、やっと両方のプレゼンが終わった開放感からくだらないイタリアのオーディション番組を夜中まで見続ける。Mはレオナルドというダンサー志望の十代の男の子に惚れこんで、「綺麗な顔だねー」とうっとりしていた。
しまいには、画家になって彼をモデルにしたい。。。写真よりもながく彼を見ていられるから・・・とかなり妄想が入っていたが。
しかし、Mのこれ以前の一番のお気に入りはベッリーニの受胎告知の天使ガブリエルの横顔か、フラーリ教会にあるティッツィアーノが描いたレオナルドという中世の貴族の少年だったので、それに比べればだいぶ生身の男性に近づいてきたので、まだ、良くなったのかもとも思う。
12時までその番組を見て、寝た。



2002年04月15日(月) 私のプレゼン―ミラクルその2

今日から、フィールドワークも第二週。
朝、昨日の疲れか眠くて仕方がないが、7時半過ぎに起きて、着替えて軽く朝ごはんをたべるとすぐに出発。集合場所のサルーテ教会には9時15分前に着いてしまった。
サルーテについては自分のプレゼンの準備とダブったため、予習していなかったせいで、マギーの説明もよく分からなかった。熱と眠気のせいで、いつもより集中力がないせいかもしれない。
サルーテの後は、アカデミア美術館へ。キリスト教絵画の図像解釈についてのマギーの質問にいくつか答えたら「あやこは図像解釈が得意ね」というようなことを言われて照れた。イギリス人のクラスメイトたちは、「へえー」という感じでちょっと恥ずかしかった。
しかし、アカデミアでの後半の話は、天上界の階級についての話などになりかなりついていけなかったので、先ほどの恥ずかしさどころか理解できなくて落ち込んでしまった。
そんなうちに、12時を過ぎ解散。午後は私がプレゼンをする某教会に3時集合となった。
Mといきつけのバールにてランチをし、その後インターネットカフェでメールをチェック。
そしてカフェで原稿を広げてプレゼンの準備。最後の10分で読んでいたところに使えそうな情報が見つかり、あわてて付け加える。プレゼンの会場に行く途中でランチタイムにワインを飲んで酔っ払ったらしいクラスメイトたちに出くわす。私がプレゼンをすると聞くと、「それは楽しみ・・・うふふ」という感じ。マギーは「Disgusting people」
とランチタイムのワインで酔っ払った生徒たちをしょうがない生徒たちね、という感じで苦笑していた。
みんなはランチタイムのアルコールのせいもあって、乗りのりの雰囲気。私のプレゼンもみんなの好奇心旺盛な視線の中で、(中には私の原稿を後ろから覗き込み私が言葉につまったり発音を間違えたりすると小声で教えてくれた人もいた)あっという間に終わった。
私は、ほっとしながらも、イギリス人の生徒たちのこの興味深々の雰囲気は、結局は私を馬鹿にしてるんだな、と感じて落ち込んでしまった。所詮、さるまわしの猿か。猿が上手に発表できたら、お上手とほめているようなものか。猿でなかったら子供お遊戯か・・・
まあ、発表が終わると落ち込むのは仕方がないことかも知れない。。。
まあ、1人でも質問をしてくれたのが救いかな、それに対してなんとなく答えられたし。
私の発表の教会を見学し終えると、その後サンタ・マリア・フォルモーザに見学に行った。
ここについてはよく覚えていない・・・

その後、食料が足りなくなっていたので、Mと一緒にスーパーで食料を買い込んでアパートに戻る。Mは疲れて仮眠。私はプレゼンが終わって多少ほっとしていたので、パスタを作ってMが起きたあと、一緒に食べた。食後、明日プレゼンのMは一時まで勉強。私はシャワーを浴びて、イタリア語版の「ジョー・ブラックによろしく」をTVで見て、12時くらいに眠った。



2002年04月14日(日) プレゼン前夜

朝8時半ごろまで寝ていたが、Mが起きて朝食を食べ始めたので、私も起きることにした。
彼女は今日、トルチェッロという船で片道一時間半もかかる場所へ行く予定。私と話をしながら準備をし、9時過ぎに出て行った。私は明らかに調子が悪かったので、またベッドにもどり眠ったら今度は起きたらもう12時過ぎ。今日は、私が買い物に行くと約束していたので、熱っぽい体をひきずり、近所のスーパーへ。しかし、日曜で閉まっていたので、船に対岸のスーパーの袋を持っていた人がいたこともあり、その対岸のスーパーへ水上バスを乗り換えて行くことにする。広いスーパーをうろうろしているとクラクラしてきたので、とりあえず、最低限必要なものを買い、また水上バスでアパートのある島へ戻る。
ベニスは先週の悪天候が嘘のように、とてもいい天気で、明日のプレゼンの準備と風邪さえなければ、格好の外出日和なのに・・・とうらめしげに海を眺める。しかし、買い物に外にでただけだが、3回も水上バスに乗ったのでそれなりに海と空の美しさを味わえ、こういう日常の生活で、ベニスを感じるのも悪くはないなどと思う。
部屋に戻って、遅い昼食を作って食べるとるともう3時。今日のパスタは我ながらなかなかの出来。そして、午後はまた眠る。寝汗をかいて目を覚ましたのはMが帰宅した6時前後。
Mは好天の中のトルチェッロを満喫したが、船にすこし疲れたようだった。
夜は、食事も食べずに勉強。かなり熱っぽかったので勉強するのが辛かった。鏡を見ると顔が赤いのわかった。10時くらいに少しお腹が減ったので、パンにチーズをはさんで食べた。結局1時まで起きて、プレゼンの準備を終える。食卓しか机代わりに使えるものがなく、その食卓までも電源が届かなかったのでなんと、台所の調理台の上で、にんにくと包丁たての間にパソコンを置いての作業。
こんなリゾート用の別荘に泊まって、夜中までこんな風に仕事や勉強をする人はいないのだろうなあ、などと思う。結局1時半まで勉強して、プレゼンの準備を終える。
昼間あんなに寝たにもかかわらず、疲れきって2時ころ就寝。



2002年04月13日(土) ミラクルその1

朝もゆっくり8時過ぎに起きる、風邪気味で寝汗をかいたので、9時からシャワーを浴び、10時から日記を書き、12時にサンタ・マリア・フォルモーザの広場でHさんと会う約束をしていたので、11時過ぎに出かける。熱っぽいせいかなんだか頭がぼおっとしていてつらい。天気が悪く、寒かったらHさんとの約束もキャンセルさせてもらおうかと思っていたが、ひさびさの晴天に誘われて外に出たような感じ。
ヴァポレットでサン・マルコ広場に着くと、アクア・アルタ(海面上昇)により、広場は水浸し。海に近いあたりは板を渡した歩道の上しか歩くことができず、広場は大混乱。広場を抜けるのが距離的には近道と思ったが諦めて、他の道から待ち合わせの広場に向かったら少し遅れてしまった。Hさんとは無事に会えたが、私が約束を間違えたのではと心配されてしまった。
私が風邪気味で喉のいたみと熱っぽさを訴えると、彼女もこのところの冷え込みで同じように、喉をやられたという。一緒に薬やへ行って、イタリア語の通訳をしてもらって風邪薬を買う。昨日買ったトローチはめちゃめちゃまずい(舌がびりびりしびれる)くせにのどにはいまいち効いていない気がしたが、今日行った薬局は今日買った薬を飲みながらそのトローチも続けて飲めという。
とりあえず、私が座りたがったので「マスカロン」というHさんおすすめのレストランに行き、鰯のマリネ、イカの卵、グリーンピースなどの前菜と、オマール海老を丸ごと使ったなんとも豪華なパスタをごちそうになる。その間、私の将来のことなど、海外で働く上のアドバイスなど。いろんなためになる話を聞き、またまた、いろいろ考えさせられてしまった。
その後、一緒にインターネットカフェに行き、私とHさんを引き合わせてくれた姉にメールを書いたり、HPを一緒にチェックしたりした。
一時間ほど、インターネットカフェにいたら、私は熱のせいか頭がくらくらしてきたのでとりあえずカフェへ。シチリア産の赤いオレンジのしぼりたてのジュースをのんで一息。これはとても濃くて美味しかった。ビタミンも豊富そうで風邪に効きそう。
その後、サン・ジョパンニ・エ・パウロ教会にてベリーニの祭壇画(これは修復からもどってきたばかりで見れたのはとてもラッキーだった)その他の絵を見ながらキリスト教美術についての見解を語り合う。これはとても貴重な体験だった。
その後、私が月曜日にプレゼンを行なう某教会へ二人へ行き、一緒に見てもらいながら、中の彫刻や絵画をガイドを読みながら説明すべき箇所をチェックする。
Hさんは以前、イタリア内の観光ガイドをやっていただけあって、さすがにキリスト教美術に詳しく、私はとても助けられた。その上、Hさんが管理の人に交渉してくれ(「この子は学生で、この教会について調査に来ているので特別に見せてあげてくれないか?」と頼んでくれたらしい)、教会の閉まる時間まで待てば、二階のパイプオルガンのフロアと地下の聖骨堂にいれてくれることになった。
10分ほど見学しながら待つうちに閉館となり、私1人、もともと某有名画家の「受胎告知」の扉絵があったというオルガンのバルコニーに登る。そこから見る教会の内部はとても綺麗で、下から見るものとは違っていた。教会で売っている内部の絵葉書はこのバルコニーから撮影したものだということもわかった。この教会の祭壇は床から階段を10数段上った高い位置にあるので、このバルコニーから見ると、ちょうど、真正面に祭壇がくるのだ。
聖骨堂の中にも、この教会の設計者で、彫刻家でもある**のレリーフがあり、これを見ることができたのも嬉しいことだった。さらに、19世紀の大幅な修復のさいにどこに使われていたのか不明になってしまったという大理石の文様のレリーフも地下に飾ってあり、興味深かった。
その後、Hさんのイタリア語での質問と、私が英語でした質問にその係員の人はそれぞれ丁寧に答えてくれ、(返答はすべてイタリア語だったので私はHさんの通訳がなければまったくわからなかった)とても、参考になった。
教会を出ると外はにわか雨。しばらく、その教会のアーケードの下で、教会について今日聞いたことのおさらいをする。その後、雨が上がったので、サン・ザッカ―リア教会へ寄って、またまたベッリーニの他の祭壇画を見る。
晩御飯に誘ってもらい、また船に乗って、Hさんのお宅へ。疲れて自分で晩御飯を作る気力もなかったので嬉しい申し出だった。しかも、彼女はとても料理が上手い。家に戻ると、もうご主人がお腹をすかせて待っていて、二人で魚介のリゾットを作り始めた。
車えびのような立派な海老の身と白身魚をいっぱい使って、その海老の頭と魚で取ったスープで作ったリゾットはレストランで食べたものよりも数倍美味しかった。
そして、リゾットの後は、グリーンアスパラガスとポーチドエッグのパルメザンチーズとバターソースがけ。これもシンプルながらとてもいきいきとした味。
飲み物は辛口のプロセッコ(べネツィア近郊名産のスパークリングワイン、フルーツの香りが強い)。
食事を終えて、おしゃべりをしていたらもう9時。私は体調がいまいちなので早めにおいとまさせて頂く。9時半お宅をでて水上バスを乗り継いで、10時半近くに帰宅。同居人のMは私の帰りが遅いのでちょっと心配していた。
疲れたので、遅くならないうちに就寝。



2002年04月12日(金)

やはり、朝から具合が悪い。喉が痛い。イギリスから持ってきたのどあめをなめつつ出かける。朝食もヨーグルトくらいしか食べられなかった。
今朝も横殴りの雨、悪天候のなかサンロッコへと急ぐ。9時5分前には全員集合し、マギーも喜んでいた。
アリスに解説でサン・ロッコをまわりはじめる。あとはマギーによる絵一枚一枚の解説を聞く。前よりだいぶ絵の内容が図像解釈学的にわかるようになったと思う。一階は、マリアの生涯。二階はキリストの生涯についての油絵が壁を取り囲んでいる。以前に来た時は圧倒的な絵画の量とその重圧感に負けてなんだかぐったりしてしまったが、今回はマギーの説明もあり、一つ一つの絵の意味を理解しながら読むとやはり面白い。特に、堕天使ルシファーが男性的な筋肉質の肉体に、歪な乳房をもって描かれており、両性具有の天使(普通の天使とはちがって、フリークス的に)として、明確に描かれているのが興味深かった。
ほかはベニスのポイントとして元娼婦のマグダラのマリアを書いてあるものがあり、当時ベニスでは公娼として売春が認められていたので、娼婦もキリスト教徒の信者として受け入れられる土壌があったことを表しているらしい。(日曜日ごとに教会に通う娼婦の姿を想像するとなんだか不思議だが、そのような光景が見られたようだ)
サン・ロッコの教会は大理石のルネッサンス様式で、外観は美しいが内部はスコォーラに比べると簡素な作り。その後、スコォーラ・サン・ジョパンニ・エヴァンジェリスタの概観(これもルネッサンス様式)を見に行き、マギーの解説を聞いて、解散。
とても寒く、Mと中華料理を食べ、インターネットカフェに行き、メールをチェックし、Hさんに借りたベニスのアートに関する本をそのインターネットカフェで大量にコピーしているうちにもう4時近くなる。Mと別れて、コッレールに行き、また好きな絵だけを選んで観た後に、姉に頼まれたこの美術館のガイドブックを買った。そこで本屋に寄ったら、今日大量のコピーをしたばかりのHさんの貸してくれた本の新版を見つけ、悩んだあげく購入。ああ、コピーったのは無駄だったなあ。アパートに戻ろうと歩いていた、途中のカフェで体が冷えたのでカプチーノを飲んで一休み。6時すぎにアパートに戻り、7時過ぎに魚介のパスタをMと一緒に作って食べる。
そのごTVを観て、11時に就寝。



2002年04月11日(木) コッレール美術館

結局、昨日も遅く寝て、疲れていた私は今日は7時半過ぎまで寝ていた、今日はサンマルコ広場で9時集合。鐘楼と広場について、ヴィタが説明し、その後サマンサがヴェニスの有名建築家サンソビーノによる、広場に面する国立図書館の建物についての説明をする。
今朝はものすごく寒い。2月のイギリスかとおもうような天気。マギーも寒いので中で話そうと提案してくれ、コッレール宮の美術館のカフェでマギーの講義を聞く。
その後、コッレールの美術館に入り、最初の数部屋だけをみんなでまわって、あとは解散。自由に見て、質問があったら私に声をかけてとのこと。
3階の絵画館にはベッリーニやマンテーニャ、カルパッチョの名作があり満足。マギーとも、ベッリ―ニの間で偶然出会い、聖母子やベニスの提督ドージェの肖像画などについて質問することができた。
また、ベニスの印刷物についてのエッセイを書き終えたばかりの私にとっては、ジャコポ・バルバーリの1500年に制作された、ベニスの全景の木版の版木とプリントの両方を並べて見ることができたのがとても嬉しかった。
Mも言っていたが、美術館でエッセイで取り上げた作品を目の当たりにすることは、私たちにとっては、とてつもなく嬉しいことで、しかも、自分が書いたり、資料で読んだことを実際に自分の目で確かめられるこの上もないチャンス。こういうときは、フィールドワークって本当に意味があるなあと思う。百聞は一見にしかずというのは、体験主義的で避けたい言葉だけれど、(経験をしたくてもできない人間にとって失礼だと思う)、画集であきるほど目にしている作品も、やはり本物を目にしてみると理解できるものがあるなとどうしようもなく、感じてしまった。
特に、15世紀の画家、カルパッチョに関しては、ここコッレールにある、二人の貴婦人の絵がヴェネツィア絵画の傑作として有名だが、いままでこの作品がなぜこんなに高い評価をうけるのか納得がいっていなかった。しかし、今回改めて本物を見てみると、やはり、貴婦人の微妙な表情や犬の視線など、とても面白い味のある絵。犬や貴婦人の態度や表情、彼らの身につけている装飾品が(犬の首輪のみごとなこと!)ヴェニスの富裕さとそれゆうえの倦怠や退廃を表しているかのようで、見事だと思った。
コッレール美術館を見終えるともう1時近くだったので、またアカデミア方面に向かいながら美味しそうなバールを探す。そこで、魚介のマリネサラダとフェトチーネのお昼を食べる。こういうお店はイタリア語しか通じないし、メニューもイタリア語だけだが、安くて美味しい。来ている人もイタリア人ばかりだし、地元の人のたまり場なのだと思う。
こういうお店で、今日のパスタとかを注文して食べているとだいぶ、イタリアに慣れてきたなと思う。
しかし、今朝の寒さのせいか、睡眠不足のせいか、いまいち疲れ気味。雨も降り始めたし、私は教会を見に行くというMと別れて、スーパーで日用品と食料品を買ってアパートに戻ることにする。
アパートに帰って、日本の姉に電話してベニスについての情報を交換、また姉の知人Hさんからのことづけをつたえる。姉は数年前に仕事でベニスに三ヶ月以上滞在していたこがあり、さすがに詳しい。また、観光客にはマイナーだが見ておくべき、絵画や建築などを教えられ、メモる。
その後、本を読んでいたら眠たくなったので寝てしまい、寝汗をかいて目が覚めた。少し熱っぽい。ベッドの中で塩野七生の「海の都の物語」を読んでいるうちに、Mが帰ってきて、8時にはまたコンサートに行くと言って出かけて行った。私も行きたかったが外は雨で、まだ熱っぽかったのでやめておいて、部屋で読書。9時過ぎにお腹が減ったので、パスタ(チーズ入りのラビオリナスをズッキーニとトマトとオリーブオイルのソースで食べた)を食べテレビで音楽番組を見たあと(MTVが見れた)また読書しているうちに11時近くにMがびしょ濡れで帰ってきた。コンサートは良かったが、また横殴りの雨で傘が壊れそうになったとのこと。
私の熱っぽさもおとなしく家にいたらだいぶましになったみたい。今日はもう、寝ることにする。



2002年04月10日(水)

昨日は疲れて早めに寝たが、イギリスの友達から携帯に電話があり、2時近くまで話してしまった。ああ、なんで私はこんなに話し好きなのだろう・・・・
また、朝、6時半にはMの目覚ましがなり、目が覚める。ベッドのなかでうだうだしながら一時間。7時40分頃起きだし、朝ごはん(パン、イチゴ、オレンジジュース、チーズ)を食べ、8時半頃出発。今日は雨もあがって、まだ曇りだが、天候は上り調子の様子で嬉しい。しかし、寝不足と疲れのせいかなんだか元気のない私・・・
今朝はドゥカーレ宮殿の前集合で、ケイトがこの有名なファサードについて説明する。その後、皆でチケットを買って中に入り、(ここで私ははぐれてしまい皆を待たせて恥ずかしい思いをした)今度は、フィオナが中庭にある、塔や階段の装飾などについて説明。フィオナの説明はいまいち、わかりずらく、途中ケイトが何度も助け舟を出していた。
その後、みんなでパレスの中をマギーの説明で回る。ティントレットやヴェロネーゼ、ティシャンなどの傑作をベネツィアの政治的・外交的意味を踏まえて見ていくのは面白かった。外国の大使と謁見する間には、ドージェ(提督)とベニスがいかに敬虔なクリスチャンであるかを強調するためにドージェがマリアやキリストに対してひざまずいている絵を置き、選挙結果や議決を待つ大会議室には待ち時間の長い議員たちを飽きさせないために、イエスやマリアはもちろん、すべての聖人を描いた天国の図やベニスの勝利を描いた、美しいベニスを象徴する女神を囲んだ絵など、天井や、壁面全面にわたって巨大なパノラマの油絵が飾ってあったりするのは、それぞれの役割がきちんとあって面白いと思った。
午前中3時間以上ぶっ続けで説明を聞き、立ちっぱなしで疲れたところで解散。その後、ドゥカーレの牢獄を見たあと、昼食の場所を探す。サンマルコ広場からアカデミア方面へ歩き、美味しいそうなケーキやさんを見つけ、今晩のデザートにチーズケーキを買う。その近くで素敵なバールを見つけて、そこでスパゲッティボンゴレを食べる。このバールはかなりレベルの高そうなレストランに併設されていて、パスタだけはレストランの厨房で作ったものが運ばれてくるらしく、かなり美味しかった。たっぷりのぷりぷり新鮮なアサリを食べるのは日本で食べた以来。
その後、またその近くのインターネットカフェに行き、メールをチェック。UEAのいくつか大事なメールが来ていた。ここは日本語も使えたし、学割がきいて安かったので、また来たいと思った。
その後、Mと別れて、姉にメールで頼まれた財布を買うべく、某皮革ブランドに寄る、買い物の最中にベニス在住のHさんから電話。5時にお茶をしようということになる。電話のあと、姉のための財布を選び終え、その後、音楽を聞きながら休憩したかったのでサン・マルコ広場のカフェ・クアドリでエスプレッソ。のんびりしいたら、そこで日本の彼から携帯に電話がかかってきて、長電話。ちょうど、彼に葉書でも書こうかと思っていたところだったので、嬉しかった。
天気も午後はすごく良くなって、これこそベニスという感じに、サン・マルコ広場は輝いていた。待ち合わせの橋のたもとまではゆっくり歩くのを楽しみ、その場について、ぼーっとしてると、Hさんに声をかけられる。彼女はもともと私の姉の友人なのだが、遠くからでも、姉と同じようなオーラをだしているので、すぐに私だとわかったという。
彼女と一時間ちょっと話した後、彼女の仕事関係の用事で月貸しのアパートを見に行く、安いが、微妙に変なアパートだった。彼女が以前、うちの姉のために探してくれたアパート(初めてベニスに来たとき、私もそこに滞在したので)がいかによいものだったかということを改めて感じた。
7時過ぎに彼女と別れてジュデッカのアパートに戻り、晩御飯を作っていたら、Mが帰ってきた。私の晩御飯はまた、ナスとベーコンときのこのパスタ。夕食後は紅茶と一緒に買っておいたケーキを楽しむ。
その後シャワーを浴びて、Mとおしゃべりをして1時就寝。



2002年04月09日(火) 凍える日々

同居人Mの目覚ましが6時半に鳴り目が覚める。
眠かったので、私は目が覚めたあともベッドでだらだら、Mは起きてさっさと朝食を作って食べていた。7時半すぎに、起き、朝食、出かける準備。信じられないくらい天気が悪い。外に出ると、横殴りの風雨。ヴァポレットに乗り、9時過ぎ今朝の集合場所ベネツィアの造船所アーセナルのゲートに着いたら、みんなもう集まっていた。
ここについては雨の中クリスチャンが説明する。雨がひどく話をじっくり聞けないので、まずゲートを実際に見ながらだいたいの説明が終わると、近くのカフェへ集まって、質問とマギーの講義の時間を持った。
その後、皆でサン・マルコへ行き、またさらにひどくなる横殴りの雨のなか、リチャードがサン・マルコ寺院の前の台にのって、演説のように傘もささずにプレゼンを行なう。
ずぶぬれになったリチャードの説明が終わると、皆でサン・マルコ寺院の中に入り、内部の装飾とモザイク、宝物館とパ・ドーロ(黄金の衝立)を見学。
見学を終えて、寺院の外へ出ると、混んでいるのとひどい雨とで、マギーもみんなに説明するのを諦め解散になった。夕方に集まったときにまとめて質問と講義をするという。
冷え切った体を温めるため、ピザの昼食をとり、その後、資料を買うためにまた、本屋へ。
その後、落ち着いたカフェを探して歩き、午後の集合時間までカフェで資料を読む。が、眠くて、全然勉強は進まなかった。
また、午後見学予定だったサン・ザッカ―リアに5分遅れで集合。ここは、ほぼ全員集まっていた。
今度はイアン(15世紀イタリア美術が専門の講師)も来ていて、彼の説明を聞いた。とてもわかりやすく、満足。サン・ザッカ―リアがもともと、尼僧のための古い教会だったのがルネッサンス期に増築して大きな教会になったというのがとても面白かった。
今日のテーマとしてはレリクアリー(Reliquary聖遺物)が いかに中世のキリスト教世界では教会や都市にとって重要なものであったかということ?があった。
教会を出て、またまた皆でカフェに入り、質問と講義の時間。テラス席の端に座っていたので私の背中はびしょ濡れで寒くなってしまい、雨と風にまみれて話しに全然集中できなかった。
解散後、クラス解散後、1人になって日本とイギリスとイタリア国内の知人に電話をかけ、その後、スーパーに日用品と食料を買って、アパートに戻る。
ズッキーニとトマトのパスタとMの作ったスープとサラダで野菜たっぷりの晩御飯。今日は早めに寝よう。



2002年04月08日(月) イタリアのアパート暮らし

4月8日(月)
今日はゼミのメンバー顔合わせの日。今日から10日間大学が予約したジュデッカ島のアパートメントに住む。朝10時にホテルをチェックアウトしてヴァポレットに乗り込み、ジュデッカヘ。先生たちとの待ち合わせの場所には誰もいなかったので、近くのバールに入って、軽食をとりながら時間をつぶす。11時半過ぎに待ち合わせの場所に行くと、先生二人マギーとイアンが来ており、イアンの案内でアパートに向かう。部屋割りは4人用のアパートが二つ、と二人用が一つ。私とMは二人用の部屋を使わせてもらうことにした。他のクラスメートで同じアパートに住む人は誰もまだ到着していなかったので、早いもの勝ちという感じ。それから、Mとベッドの位置を変えたり、ブルーとグリーンのシーツで間仕切りを作ったり、へやを居心地よく整えるのに時間とエネルギーを使う。
やっと、部屋の模様替えも終わり落ち着いたところで、マギーから電話が入り、ついでに近くのスーパーの場所を教えてもらう。
そのスーパーは4時まで開いていないというので、二人とも疲れが溜まっていたのでシエスタをとることに、三時半まで寝て、その後、食料や日用品を買出しに。スーパーで偶然にも、同じゼミの女の子四人と会う、彼らはやっと先ほど到着したらしい。
Mと二人で、40ユーロも食料を買い、アパートへ戻り、軽食をとる。その後、先生たちのアパートでのゼミのメンバー顔合わせのパーティーに向かう。みんなでべネト地方特産のスパークリングワインのプロセッコで乾杯し、おしゃべりに花を咲かす。マギーは生徒全員が無事に到着したことを確認し、安心したようだった。
8時過ぎ自分たちのアパートに戻り、初めての自炊。私がトマト・ベーコン・ナス・マッシュルームのパスタとチーズのサラダを作る。食後は勉強もそこそこ、イタリアのTVドラマに目は釘付け。やたらとロマンティックで荒唐無稽なストーリーに唖然。
その後シャワーを浴びて2時近くに就寝。
明日からはフィールドトリップが本格的に始まる。どうなることやら・・・・



2002年04月07日(日) 素敵な日本人女性とは?

今日は日曜日、お店や教会も閉まっているところが多いので、のんびり過ごすことにする。
8時すぎ起床、8時半朝食。9時にベネツィアに住む知人Hから電話があり、今晩の食事は彼女の家で食べさせてもらうことに。
予約していたレストランをキャンセルし、10時まで朝寝。それから日本語の使えるインターネットカフェを見つけ、日本へメールを2通送る。
そのあとは、ヴァポレットに乗って、アカデミアへ行き、その裏にあるザットレから明日から泊まるジュデッカ島のアパートを下見に行くことに。最初はなかなか見つからなかったが、Mがアパートの住所表示を見つけ、中庭に入ってみたら、なかなか閑静な住宅地。素敵な雰囲気に二人ともここに10日も住むのかと喜ぶ。
なんとなく来たヴァポレットに乗って、外回りで本島のローマ広場まで戻り、ホテルに戻る道筋でトラットリアを見つけ、パスタの昼食。海老とアスパラガスのパスタと、ペンネアラビア―タの2種をMとシェアする。
その後、寒かったので、ホテルに戻って、マフラーをまいてMと別れペギーグッゲンハイムへ向かう。
カ・ドーロの乗り場を見逃してしまい、まあいいかと思ってリアルトまで行ったら、偶然にもゼミメイトのRとHが通りかかったピッツェリアのテラス席に座っているのを見つける。食後のコーヒーに加わり、雑談をしながら情報を交換、彼らはメールチェックをしておらず、先生の携帯番号と集合時間を知らなかったので伝える。
先生と一緒に、その彼氏の先生も来てるらしいと言うと、おお、と驚いていた。そこら辺で会いたくないねーと、笑っていたのだが、HとRと別れて、ペギーグッゲンハイムへ着いてまず、入った最初の展示室にその先生カップルの姿。
こんな偶然もあるものかと思って、笑ってしまったが、明日の集合場所の確認をさせてもらった。
その後、1人でゆっくり作品を見てまわり、ミュージアムショップで自分用の折りたたみ傘と友達へのお土産を買う。
そのあと、近くのトラゲット乗り場から渡し舟に乗ってアカデミア側からサンマルコ広場側へわたり、Mと待ち合わせていたサン・ザッカ―リアのヴァポレット乗り場へと急ぐ。
しかし、待ち合わせの場所にMは現れず、30分以上も会えずにずっと待つ。ようやく現れたMは待ち合わせの乗り場を間違えていたらしい。すぐ隣の逆方向の乗り場の周りでずっと待っていたという。
とりあえず、ヴァポレットに乗り、Hさんの住むリド島へ。約束の時間より早めだったのと、Mが寒いというので駅前のバールで暖かい飲み物を飲みながら暖をとる。
7時に彼女に電話し、迎えに来てもらい、彼女の家へ。イタリア人と結婚してリド島に住んでいる彼女住むのアパートはそれは素敵なところだった。大理石の上に敷かれたアンティークの絨毯。家中を飾る、ベネツィアングラスと絵画の数々。高い天井からはシャンデリアが下がり、バルコニーからはサンマルコ広場が見える。アパートの三階とは思えない広々した空間はちょっとしたお屋敷といった感じ。中でも、ベネツィアンガラスの有名職人を多く友達に持つ、ご主人のベネツィアンガラスのグラスコレクションは美術館レベル。17世紀のアンティークなどもあり、ご主人も他のものは売ってもいいが、これだけは誰にも譲れない。と言っていた。他のものは作家を知っているので、また注文できるが、阿1600年代に作られたこの器はもう、手に入らないからね、と。

Hさんの用意してくれた食事とデザート、そしてワイン!!は美味しく、大満足。中でも、太くてやわらかいこの地方特産のホワイトアスパラガスと卵を使った料理はシンプルながらも、今まで食べたことのない優しい味。ご主人のお姉さん手作りのラザニアもとても美味しかった。
ついついHさんとの話しに夢中になってしまい、気がつくと10時半。お礼を言って、ヴァポレットに乗り、ホテルに戻るともう12時。
イタリアに長く住むHさんと話すとなんだか、いろいろ考えさせられることが多く、私にとっては印象深い再会だった。初めてベネツィアに来て、彼女に会ったときは、こうしてまた長い間ベネツィアに滞在できるとは思ってもいなかったが、彼女に「よくベネツィアに戻って来たね」と言われて、なんだか、はっとするものがあった。
そういえば、前回のベネツィア滞在が私の人生に対する態度を変え、今に至る道筋をつくった基となったのかも知れない。私は様々な理由や動機、そして、自分では選ぶことのできない何かの力で今、こうしてベネツィアに戻ってきた。
それは、自分の望みがもちろん一番大きいが、なにか、縁のようなものを感じる。
人生に何が起こるか、特に未来のことは自分ではわからない。しかし、自分の欲求と計画性と、その他の要因が重なって、こうなったらいいなと思ったことが、それが普通に考えたら実現不可能なことであったとしても、そうなる可能性も無いわけではないのだなあと
不思議に思った。
人との出会いや結びつきは、人を思わぬ方向へ動かす、それは時に喜びはもちろん、悲しみも運んでくる。あとになって振り返るとすべては収まるべき方向へ結局は動いていると感じるが、私は私の人生に起こること、自分で選べるもの、選べないものに対する態度がまだ定まらない。こういう態度で人生の出来事に対していくというような、方針のようなものが定まればいろいろあっても、もっと落ち着いて人生に向かっていけるのかもしれない。そういう、自分なりの人生哲学のようなものがもてればいいと思う。



2002年04月06日(土) アカデミア美術館

4月6日(土)
朝8時起床。8時半朝食。天気が悪いのでサン・ジョルジョ・マッジョーレへ行く計画を取りやめ。ムラーノ島とアカデミア美術館へへ行くことにする。
9時半にホテルを出、迷いながらもファンダ・メンテ・ヌォーボへ。そこからサン・ミケーレ経由でムラーノへ。ベリーニを見ることが最大の目的であったのだが、教会が閉まっていて3時からしか開かないと言われ、断念。もう一つの教会、サンタ・マリア・ドネイトを見る。12世紀に作られた床のモザイク、13世紀のアプスのモザイクが素晴らしい。
教会を出ると、お昼だったのでバールでサンドイッチとめちゃめちゃ濃厚なホットチョコレートを飲み一息。お土産を買いたいというMに付き添って、ガラス細工の店を回るうちに、実演しながら、ガラス作家が自分の作品も売っているという店を見つける。彼の名前はリヴィリオ、彼の手作りの美しいガラス細工を見ていたら、最初は何も買うつもりもなかった私も思わず一つ買ってしまった。制作者から何か買うというのは、信用することができて気持ちがよかった。Mは結局、プレゼントやお土産も含めて、四本のガラスペンを購入。どれも、美しくなかなか良い品だったと思う。
天気も回復し、美しいガラス細工を手ごろな値段で手に入れることができた私たちは満足しながら、ベネツィア本島にもどり、アカデミア美術館へ向かう。
アカデミア美術館の今回の収穫はなんといても、カルパッチョ。特に「聖ウルスラ物語」(1490−5)の連作に心を打たれた。中でも「聖ウルスラの夢」のなんとも言えない不思議な物語的空間に魅力を感じ、この作品が賞賛される理由がはじめて理解できた気がした。三時半から結局7時近くまでを美術館で過ごし、お腹が減ったのでブラブラ歩きながらレストランを探す。感じの良いレストランを見つけ、席が空くのを待ち、席についたらもう8時。温野菜のソテー、魚介のリゾットとチキンのキノコソースをMとシェアして食べる。
この店も美味しかった。
9時半に公衆電話からベニスに住む、知人に電話。ベニスに住むHさんにはいろいろと情報を聞く。とりあえず、Hさんとベニスにいるうちに会おうということになり、明日電話をもらうことに。ユーロになってから、イタリアの物価が上がったというのは、私も実感していたことだが、イタリアに住む人にとっては打撃がおおきい話だ。
そのあと、テレホンカードの残り度数で、日本のKに電話。日本は朝の4時だが大丈夫かな?と思ったが、ツーコールで元気な返事。しかも、ちょうど私に電話しようかなと思っていたそう。テレホンカードはすぐに切れたが、折り返し私の携帯に電話してくれた。イタリアで携帯に電話がかかってくるというのは、不思議な感じだが、とても嬉しい。
声を聞くと、やはり彼が恋しくなる。彼も春休みでのんびりした生活で、1人暮らしモードに戻って、少し人恋しいらしい。。。
美術館に3時間以上もいたせいか、なぜか疲れきってしまった今日。早めに寝るとするかと思いながら、もう11時半。それからシャワーを浴びて、着替えて寝る準備をして1時就寝。



2002年04月05日(金) フィレンツェ日帰り旅行

朝五時半に起きて、6時にホテルを出発し、6時半の列車でフィレンツェへ向かう。駅の売店でパニーニを買い込み、乗車後、食べるとすぐに眠ってしまった。9時半にフィレンツェに到着。ドォーモを横目で見ながら、サンマルコ美術館へ。フラ・アンジェリコのフレスコ画、特に有名な「受胎告知」を見る。サンマルコ美術館はドミニコ会の修道院だった場所を美術館として使っていて、簡素だがとても気持ちのよい美しい建物。こんなところだったら修道女生活も耐えられるかも、などとMと話す。フラ・アンジェリコの絵は静謐で優しい印象。彼はこの修道院の修道士の1人で、この修道院に数多くのフレスコ画を残した。ちなみに修道院長は宗教改革で裁判にかけられ、火あぶりになったサヴォナローラ。
12時からは電話で予約していたウフイツィへ。まず、ボッティチェリの間に行き、ひとまず鑑賞してから、お腹がペコペコになったので一時くらいにウフィツィのカフェへ。
ここは、私の中ではイタリアでもっとも食べ物が高くてまずい場所として記憶されている・・・しかし、時間のない私たちは(水は持ち込んでいたが)ここで食べるより手段がない。冷凍のチキンフライをはさんだだけのパニーニが6.5ユーロ。やはり、味もよくなかった。
カフェを出ると一緒に来たMと別れ単独行動。4時までウフィツィ見物。前回と同じく、ラファエロの「ひわの聖母」が展示しておらず、見れなかったのが残念。しかし、ボッティチェリはもちろん、ティッツィア―ノのウルビーノのビーナスはやはり美しかった。
しかし、手に持っているバラの一輪が落ちていることが、若さのはかなさを象徴しているという。
その後、ヴェッキオ橋をジェラートを食べながら渡り、ピッティ宮(もとメディチ家の宮殿だった)のパラティーナ美術館へ。
ここのメインはジョルジョーネ、ティッツィアーノの「灰色の目の男」、ラファエロの「大公の聖母子」「椅子の聖母子」など。ウフィツィでラファエロの傑作が見ることのできなかった不満をここで晴らすことができた。
その後、マトバ・グローブという老舗の手袋屋で手袋を一つ買い、ぶらぶらフィレンェの街をウィンドウショッピングしながら駅までへの道を戻る。
ピザと水を買い込み、6時半の列車でヴェニスへ。列車に乗ると同時にピザを食べ、少し寝てから車内で持ってきた論文を少し読む。9時半に到着し、ホテルへ戻る前にお腹を減らしたMと一緒にワインバーへ寄る。彼女は、サンドイッチと洋ナシのジュース、私はトスカーナの赤ワインで2000年のものをグラスで頼む。店の人のすすめに従って、なんとなく選んだが、フレッシュで香りのつよい、生命力溢れたワインだった。
お店の人もフレンドリーで、Mの頼んだサンドイッチも美味しく、私のワインもしっかりした味で、イタリアっていいね!!とイタリアのライフスタイルを賛美。
帰国後、イギリスの学食の食事に本気で耐えられなくなりそうなのが心配だ。



2002年04月04日(木) レオナルド?

朝8時ごろ起きて、8時半からホテルの朝食。何気ないパンとチーズが美味しくうれしい。
ホテルのインテリアも豪華ではないもののセンスが良く、イタリアにいる心地よさを感じる。
朝食後部屋にもどって、今日の予定をMと検討。明日のフィレンツェ行きの列車のチケットを買いに、サンタ・ルチア駅へと向かう。無事にチケットを買い、ウフィツィ美術館の見学予約も電話でしたあと、見つけたインターネットカフェでメールのチェック。日本語は使えないので、英語で一通返信。あとは、フィールドトリップの責任者のマギーからの連絡をメモる。
その後、グランドカナルを味わおうと、サンタ・ルチア駅からサン・マルコまでヴァポレットに乗る。Mはちょっと興奮、パラッツォのファサードを見ては、**様式かな、などと語り合う。
サンマルコに着くと、ベリーニを見ようとサン・ザッカ―リアを見に行く事に。お昼前のたった20分だったがベリーニの祭壇画をたんのうする。その後、パスタとピザでランチを済ませ、フラーリへ。フラーリは私は三度目だったが、やはりすごい教会。外観の地味さに似合わず、内部は荘厳。ティシャンやベリーニの祭壇画、カノーバのお墓など、見所満載。Mの解説に耳をかたむけながらも、ペザーロ家の祭壇画の美少年に二人とも目を奪われる。フラーリの案内書を買ったMによると、彼はその絵の注文主ペザーロ家の当主アンソニーの息子レオナルドだった。Mはレオナルドの顔のアップのポスターまで買い、もう彼に夢中の様子。まあ、500年前の美少年を好きになっても所詮かなわぬ恋か。
私はフラーリをほどほどに、三時過ぎにミラーコリに向かい三時半すぎに着く。
ミラコーリは人気もなくひっそり、私以外は夫婦や家族連れの観光客がちらりほらりと来る程度。再来週、ミラーコリについてのプレゼンをやるので、その資料があるかと期待したのだが、そこの入り口にある英語版の教会建築についての本は売れ切れで、しかも解説のパンフレットや本はまったくなく、私はプラスチックコーティングされた使いまわし用の案内の解説を必死に自分のノートに書き写す。
受付の女の子に、それ以外に教会の資料はないのかと聞くと、首をふる。この近くで、資料が手に入りそうな本屋はないかと聞くと、サンマルコの裏に、STUDIOという本屋があるというので、そこへ行くことにする。
Mとは7時にサン・マルコ広場で落ち合うことにして、6時ぐらいにSTUDIOへ。
これは使えると思うような、詳しい資料はイタリア語版しかなかったりして、結局いい本は見つからなかった。が、イラストがキレイな英語のベニスのガイド、ベネツィアの教会建築一般についての本、あと、ビニールで出来た、ベネツィア全体の地図。の三つを買い、30ユーロも使ってしまう。
そのあと、Mとばったり、本屋を出てうろうろしているとMとばったり文房具屋のビブロスで会う。ガラスペンや、ノートなどを見た後、現金が尽きているのに気づき、銀行へ。
その後、ストラダ・ノーボの私のお気に入りのレストラン、(前回の滞在の時に二度も行った)へMと行き、晩御飯を食べる。温野菜の前菜に、ペスカトーレ(これは本当に潮の香りがして美味しかった)、イカのイカ墨煮のポレンタ添えの三種類の料理を楽しむ。 本当に美味しいね、イギリスとは大違いだね。と二人で、イギリス料理の悪口で盛り上がる。
ゆっくりディナーを食べて、カプチーノを飲んだら、もう10時。レストランに入って2時間半以上も経っている。明日は朝5時起き、ホテルに戻るとすぐにシャワーを浴びて眠る。



2002年04月03日(水) ベニスの日々の始まり

いよいよベニスへ出発。
前日、深夜になって準備をやっと始め、徹夜で持っていく勉強道具や資料をそろえたり、旅の用意をしたりする。
朝8時半に同じゼミのMと待ち合わせて空港に行く約束をしていたが、その前に大学の図書館に返しておかなければならない本があるのに気づき、図書館へ行って返却。
その前に、冷蔵庫に残っていた野菜を消化すべく、朝の7時から焼きそばを作って食べた。

疲れと寝不足で、体調がよくなく、しかも飛行機がゆれたのでかなり気分は悪かったが、どうにか4時ごろにベニスに到着。 空港からのバスと、バポレットの揺れにぐったりしながらも、ホテルにチェックインすると、今夜のコンサートポスターが貼ってあったので、ホテルのフロントに頼んで席をとってもらう。曲目は、ビバルディの四季とアルビノーニのアダージョ。コンサートが夜9時からだったので、お腹がペコペコだった私たちは、外に食べに出かけた。オープンエアのカフェでピザとペスカのアイスティーを頼み。やっと、ほっと一息つく。やっと、ベネツィアにいることを実感し喜びをしみじみと感じる。
スーパーでミネラルウォーターを買い、お菓子屋さんでティラミスを買ってホテルへ戻って食べた。寝不足であまりに眠かった私は、ここで少し仮眠。一時間弱眠るともう、8時過ぎ。コンサートへ向かう。
しかし、演奏者たちは、皆モーツァルトのようなコスチュームを着ている。あまりにも、ツアーリスティックで、上滑りな演奏。少しがっかりする。
ホテルに帰ってシャワーを浴びて就寝。



2002年04月02日(火) ベニスへ出発

明日から17日間ベニスに行ってきます。19日の夜イギリスに戻ります。

なんか、本当に慌しい、ポルトガルから戻って二週間たたないうちにベニスだもの。でも、一年の間にこんなに多く移動したのは私の人生において初めての経験。
面白いかも。

というわけで、メールを頻繁にチェックできなくなってしまうので、
画像ファイルなどの大きなファイルをこの間は私宛に送らないよう
お願いします。メールサーバがいっぱいになってしまう可能性がありますので。

ところで、この数日、フラットメイトのイタリア人女性のもとへイタリアから彼氏が来ている。彼の名はミルコ(?)、マルコにマをミに変えたような発音だというのだけれど、これで正しいのかな?

最近、彼女の機嫌がいいと思っていたら、彼の来る前触れだったのか。
彼はとてもハンサムで、なかなかのお洒落、最初は弟かな?と思ったくらい、彼女より若く見える。彼は、彼女に会いにきただけではなく、イギリスに職探しに来ていて、将来彼女と一緒にイギリスかアメリカで暮らせたらいいなと言っていた。僕たちは、僕たちの人生を一緒にしたいと思っているけど、彼女は勉強をしたいし、なかなか難しいね。と。

人の生き方や生活の場所が多様化すると、カップルのあり方も嫌がおうでも多様化せざる得ない。私は自分の好きな男の人とは一緒に暮らしたいってシンプルに思うけど、自分の勉強やキャリア、相手の状況を考えるとそれはなかなか難しい。
ただ、お互いの状況に応じて、多少離れることはあっても、ずっと信じあって、励ましあっていける相手がいれば、それだけで、人生はだいぶ楽になるのではと思う。

おしゃべりなイタリア人の彼の話に圧倒されながれも、この二人もいつか、一緒にくらせるといいね、と微笑ましく思った。





2002年04月01日(月) Cherry Blossoms -花見考

東京の桜は今年は例年になく早く、もう散ってしまったそうですが、
皆様、お花見をたのしまれたでしょうか?

私が桜を好きなのは、すぐに散ってしまうから。それは人の生そのものであり、そして、恋そのものであるように感じる。

「今、あなたとこうして初めての桜を見てる。来年も、その先もずっとあなたと桜を見れたらいいな」

と思ったことがる。桜を何度一緒に見れるかは、私にとってその人との過ごす時間の経過を感じさせるもの。

桜が圧倒的なのは、あまりにも短く、惜しげなく咲き、散っていくからだと思う。
それがあまりにも刹那的で潔いので、それに心打たれるのだ。

人の人生は短いと思う、しかし、現代において人の一生は、一花咲かせてあとは散ってもいいではないか、と思って生きれるほど、短くはない。
桜には花が咲いたあとの季節がある。その最高潮の時間が永遠に続くことはありえない。だからこそ、その一瞬がかけがいのないものに感じられるのだろう。

そして、その一瞬の幸福な記憶は何かの形でそれぞれの人々の中に残っていく。
それを胸に抱きながら、花が散ったあとの長い期間をどれだけ大事に生きていけるか、それを学びたいと思う。

栄華を極めたベネツィアがその衰退の過程でアルビノーニのアダージョを生んだように、いかに美しく老いていくかは、難しいが、人生の美学の重要なところだと思う。


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