観能雑感
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2005年07月30日(土) |
セルリアンタワー能楽堂 定期能7月公演 第二部 |
セルリアンタワー能楽堂 定期能7月公演 第二部 PM4:30〜
本当は第一部の『弱法師』が観たかったが、某狂言方ご出勤なので諦めた。Bunkamuraチケットセンターには繋がらず、ぴあに繋がった時点ですでに売り切れ。辛うじて二部のチケットを入手する。チラシもなにもなかったため、三役は当日になって初めて知る。 体調悪し。ただでさえ暑さに弱いため辛い。行くのを諦めかけるが結局出かける。駅を出てから方向を勘違いしてしばしさまよう。気分がますます悪くなってきて、帰ろうかと思うも、会場へ向かった。解説が始まったのとほぼ同時に見所へ入る。中正面最後列。ちょうど目付柱の前。 周囲にどんな人が座るかはその日になってみないと判らず、こればかりは自分の力ではどうしようもない。今回は完全にはずれ。椅子の肘掛は越境、能が始まるとほとんど椅子の半分くらいしか腰掛けていない状態の前のめり。ひんぱんに体を動かしてそのたび座席がきしみ、耳障りな音とともに振動が伝わる。橋掛りに演者が登場すると、そちらに正対するために体をねじり、こちらの視界を塞ぐ。抗議しようと思ったが、見所は水を打ったように静か。諦めた。劇場は公共の場で、周囲に対する配慮があってしかるべき。それができない、するつもりがないのなら、一人でテレビでも見ていていただきたいと、心の底からそう思う。 蝋燭能なので、解説が終了すると黒子の衣装に身を包んだ方が火を灯していった。何故黒子にならねばならぬのかは不明。あまり意味がないように見えた。 今回気力の問題で感想はごく簡単に。
おはなし 三宅 晶子
六条御息所は教養があって、趣味が良かったが、一方で普通の感覚の人だったのではという言葉に納得。それゆえに時代を超えて共感を得るのだろう。
狂言 『清水』 ベテラン同士で安心して観ていられた。蝋燭狂言は効果がいまひとつだと思う。狂言は昼間の話がほとんどだからだろうか。
能 『葵上』
シテ 友枝 昭世 シテツレ 友枝 雄人 ワキ 殿田 謙吉 ワキツレ 則久 英志 アイ 竹山 悠樹 笛 一噌 仙幸(噌) 小鼓 曽和 正博(幸) 大鼓 亀井 広忠(葛) 太鼓 助川 治(観)
前シテは照日巫女にしか見えないという設定だが、それを裏付けるように、ぼんやりと、怪しいたたずまい。しっかりとした謡出しで、無念が垣間見えるよう。後妻打ちのところは、溜め込んだ想いが解放された故か、ある種晴々として見えた。 後シテは緋長袴を着用。足裁きがもたつかないのはさすが。被いていた衣を身体に巻きつける所作が妙に生々しく、少々ぞっとする。最後はたとえ一瞬でも御息所の魂が救いを得たかのようであった。
先日、しっぽの生えた最愛の存在が、常世の国へと旅立って行った。極めて高齢であり、また命あるもの全てに避けられない事態ではあるが、だからといって悲しみが軽減するわけでは決してない。身体は穴を穿ったように空虚だが、何故だかとても重い。知らせによると、最後まで立派だったようだ。当たり前だけれど、大切な存在というものは、どのような姿をとっていようが、それが価値のあるなしには全く関係ないということ。離れて暮らしていても、この空の下生きていてくれるという事実が、どんなに支えになっていたことか。今はもう、地上のどこにも存在しない。悲しくて辛くて、やりきれない。それでも、この悲しみも彼女が与えてくれた大切な財産だと思う。しっかり受け止めなければいけない。そして、私がいなくなるその日まで、心の中にずっと在り続ける。思い出すのは楽しいことばかり。言葉では表し切れないけれど、いっぱいいっぱい、ありがとう。
2005年07月16日(土) |
英国ロイヤル・バレエ団 2005年日本公演 『マノン』 |
英国ロイヤル・バレエ団 2005年日本公演 『マノン』 PM6:00〜 東京文化会館
ギエムの全幕物を観るのは自分にとってこれが最初で最後の機会になるかもしれないと思いつつ、チケット確保。 ロイヤル・バレエが『マノン』を日本で公演するのは今回が初めてのはず。ヨーロッパでは人気作品のひとつだが、本邦ではマノン・レスコーというファム・ファタルの知名度が今ひとつのためか、ほとんど演じられない。振付のケネス・マクミランとギエムはあまり上手くいかなかったようだが、彼女自身、非常に思い入れのある作品で、日本での公演を希望していた。それが今回やっと実現。 この来日公演のもうひとつのレパートリー、フレデリック・アシュトンの『シンデレラ』もアリーナ・コジョカルでぜひ観たかったが、能楽座のチケットを購入してしまったので断念。貧乏・体力なしなので仕方がない。パンフレットの写真のアリーナはやっぱり激しく可愛かった。ぐはぁ。 会場は大入の札が張られていた。四階席、舞台下手寄りの2列目に着席。見渡す限り満席。
マノン シルヴィ・ギエム デ・グリュー マッシモ・ムッル レスコー ティアゴ・ソアレス ムッシュー G.M. アンソニー・ダウエル レスコーの愛人 マリアネラ・ヌニェス マダム エリザベス・マクゴリアン 看守 ウィリアム・タケット 乞食のかしら ジャコモ・チリアーチ
指揮 グラハム・ボンド 演奏 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
第1幕、旅館の中庭、いろいろな人々が入り混じった喧騒の中、馬車が到着してマノンが現れる。このとき、謂わば民芸の中にひとつだけ交じった白磁のごとく、周囲から歴然とした差でもって際立っていなければならないのだが、まさにそのとおり。衣装もマノンと後に現れるデ・グリューだけが白でそれ以外の登場人物は茶系がほとんどと、視覚的にも意識されている。ギエム本人はクールな大人の女性だけれど、いかにも物慣れない可憐な少女のように見える。素晴らしいマホガニー色の髪は結い上げられていた。デ・グリューと初めて出会う場面、完全に自分達だけの世界に入って見つめ合う。しかし、周囲ではマノンに興味を示す、老紳士、兄のレスコーは同じく彼女に興味を示すムッシューG.Mに取引を持ちかけたりと、不穏な空気が充満。マノンは生来の媚態を身につけていて、自分に対する視線を意識しつつも、お構いなしにデ・グリューとその場を後にする。修道院に入るためという当初の目的からすると唖然とする行動。デ・グリューも神学生なので二人は二重に背徳的。ムッルのデ・グリュー、若い情熱が否応なしに迸るという感じ。 次の場面はデ・グリューの部屋。父に手紙を書いているデ・グリューをマノンが邪魔して、刹那の喜びに身を任せる。若さのみがなし得る、後先考えない疾走感が甘美に表現されていて、第3幕とともに印象的な場面だった。マスネの音楽が瑞々しさととともに、僅かに見え隠れする不安定さも表現。デ・グリューが出かけると同時に兄とムッシューG.M.がやって来て、彼女に毛皮と宝石を与える。戸惑いつつも、取引に応じるマノン。ギエムは、納得ずくで自らの欲望い正直に従ったという意思的なマノン像を見せた。 第2幕、高級娼館でのムッシューG.M.のパーティー。あからさまな欲望が渦巻く中、G.M.と供に豪華な衣装に身を包んだマノンが登場。かつての初々しさは影を潜め、贅沢な暮らしを楽しんでいる様子。金持ちの男たちの好色な視線も、それを受けるのが当然といった態。ここでは男性数人とギエム一人のアクロバティックな踊りがあるが、互いの関係性を示唆していると思う。そんなマノンもデ・グリューの真摯な瞳の前に立つと、相手を見返せなくなる。デ・グリューの踊りは比較的古典的な王子の振付に近い物が含まれていて、それがこの場で彼一人他の人物達とは異なる価値感の持ち主であることを象徴している。マノンに唆されてG.M.相手にカード賭博を行うも、いかさまがばれて二人で逃げ出す。次の場面は再びデ・グリューの部屋。緊張感なく旅支度を整えているところに憲兵とムッシューG.M.がレスコーを連れて踏み込んでくる。レスコーはその騒ぎの中でG.M.に撃たれて死ぬ。 第三幕、港では娼婦達が流刑地であるアメリカ行きの船に乗り込もうとしている。陰鬱な踊りが展開。そこへマノンとデ・グリューが到着。ギエムは短く刈られた髪のウィッグに、ボロボロの服。彼女も売春のかどでルイジアナへ流刑になる。逃げ込むように船に乗り込み、その後をデ・グリューが追う。次の場面は看守の部屋。すでに病み衰え、ぐったりしているマノンを看守が辱める。そこにデ・グリューが現れ、看守を殺す。二人は湿地帯へ逃げ込む。これまでの出来事が走馬灯のように流れて行く中、二人は最後の時間を激しく燃焼させ、ついにマノンは息絶える。一番体力的に苦しいところに来るこの非常に激しい踊りだが、よろめきつつも、命の炎を燃やしつくしたという感じ。圧倒的な迫力を持って迫ってきた。
全体的に、当たり前と言えば当たり前だが踊りの質が高く、群舞にも隙がない。個人的にはマノンの兄、レスコーが好演したと思う。精力的な小悪人を小気味よく演じていた。ムッルは長身のギエムと並んでもバランスが良く(そうでなければ彼女のパートナーは勤まらないと思われる)、丁寧かつ情熱的な踊りだった。ギエムの踊りの完璧さについては今更言うまでもない。役に対する深い解釈をしつつも、表出するのはあくまでもさらっとした質感という印象を受けた。勿論素晴らしい出来であることに異論はないが、モダンの方が彼女の持ち味はより生きるような気がする。
マノンというのは都会に咲く徒花である。純真な愛も欲しいが豪華な暮らしも捨てられない。デ・グリューを何度も裏切る。デ・グリューも神学生でありながら、一人の女性へ耽溺し、そのことに対してあまり疑問を持たない。謂わば破れかぶれな者同士の悲しい末路の話であり、作品としての完成度の高さは認めつつ、今ひとつ好きになれない理由は、こんなところにありそうである。観終わったときの印象が、爽やかでもなければカタルシスもないのだ。そこが魅力なのかもしれないが。
ギエムというのは本当に完璧な肢体の持ち主だとしみじみ思う。長くまっすぐに伸びた足の美しさよ。見た目だけでなく、細くて強靭な筋肉という、ダンサーなら誰もが欲しがる資質も備えているのだから、こちらはため息とともに見つめるしかない。 昨年の来日公演はチケットを取り損ねて観られなかった。秋には日本で最後のボレロを踊る公演がある。プレオーダー、当選していればよいのだが。
2005年07月07日(木) |
能楽座自主公演 ―追悼・一噌幸政― |
能楽座自主公演 ―追悼・一噌幸政― 国立能楽堂 PM6:00〜
毎回豪華出演者が揃う能楽座公演。興味はあれど開演時間が早く、諦め続けてきたが、今回幸政師追悼ということで思い切って出かけることにした。 幸政師が舞台から遠ざかっていった時期と私が能楽堂に足を運び始めた時期が一致しており、残念ながら実際の舞台で師の笛を聴いたのは2回のみである。番組に名前があっても代演だったことが何度かあった。最後の機会でもこちらの体調が非常に悪く、薬の副作用もあってほとんど記憶にないという情けなさ。残念ながら、そういう縁だったのだろう。それでも、師の笛は録音も残っているので有難い。 週明けから口唇ヘルペス発現、翌日に胃痙攣で身動きとれずと、疲労が重なっているのか体調悪し。当日は仕事を早めに切り上げて会場へ向かう。平日夜の自由席は労働者にとっては辛いので、指定席である正面席のチケットを購入したが、何と階の正面、ほぼ舞台中央に相対する良い席でびっくり。前列だったが、自分としてはもう少し後ろで観る方が好きである。これは贅沢な繰言。 当日手渡されたパンフレットに個人を悼む手記が載せられており、山本東次郎師の手になるものは大変興味深かった。幸政師が塩化ビニールの水道管で能管を自作し、申合せの際使用しても誰にも気付かれなかったという仰天エピソードが語られている。故人の笛に対する純粋な想いを随所に表した文章だった。 席に座ってパンフレットなど読んでいると、突然隣の席の方から「この会はいつもこんなに空いてるの?」などと話しかけられた。会場を見回してもそこそこの入り。開演時間にはまだ十数分ある。「よく入っている方ではないでしょうか」と返答すると「これで?もうすぐ開演なのに?困るじゃないの」と、まるでその方にとっては悪いと感じられた客入りが私のせいだと言わんばかり。妙な人の隣になってしまったなぁと、後は適当に返事をしつつ、開演時間を待った。さらに吃驚だったのは、休憩時間をはさみ、その方がいなくなると同時に今度は若い女性がその席に座り、偶然目に入ったチケットの座席番号は、まさにその席を示していたこと。つまりその方は他人の席に堂々と座り続けていたのである。開演前は正面席が指定席だと気付かずに座っていた方々がいらっしゃったが、事前に気付いて移動していった。世の中、恐ろしいことばかりである。 見所は勿論満員にて開演。
舞囃子 『巻絹』 大槻 文蔵 笛 藤田 六郎兵衛(藤) 小鼓 曾和 尚靖(幸) 大鼓 山本 哲也(大) 太鼓 観世 元伯(観)
地謡は観世榮夫師を地頭に、銕仙会を中心に構成。文蔵師の舞姿は流麗だが、身体そのものの強さには欠ける。一本通った軸のようなものが感じられず。藤田流の笛は相対的に聴く機会が少ないが、装飾音が多いという印象。いつも思うが、吹いているときの表情や体格だけ見ていると六郎兵衛師、ものすごく大きな音を出しそうだが、実際は違う。細くて繊細な音。大小は関西勢。普段聞きなれている音と比較すると、ゆったりした印象。山本哲也師は初見だが、前から密かに思っていたことが確信へと変わる。・・・顔が怖い・・・。しかし、私は強面の方が羨ましい。
一調 『三井寺』 謡 粟谷 菊生 小鼓 大倉 源次郎
菊生師は声が出し難そうだが、聴かせる。小鼓は通常使用しない音も出すのが一調ならでは。一調の奥深さを味合う程の観賞力は持ち合わせていないけれど、小鼓、面白みには欠けるような気がした。
小舞 『住吉』 野村 万作 地謡は萬斎師を地頭に3名。各々の声がはっきり識別できるくらいに聴こえてくるのはどうなのだろうか。折り目正しい舞振りは素晴らしくも、少々息苦しさを感じた。
舞囃子 『卒塔婆小町』 片山 九郎右衛門 笛 一噌 仙幸(噌) 小鼓 曾和 博朗(幸) 大鼓 山本 孝(高) 梅若六郎師を地頭に、主に梅若系で構成された地謡。九郎右衛門師の声を聴いて、改めてこの方の謡は良いと実感。立ち姿そのものに力があり、身体を縦に貫く軸の存在が感じられる。ただ体を右に捩る、それだけでも表現として確立していた。二つの意志が混在し、突き動かされる体をどうすることもできずに翻弄される様から、下居の後立ち上がった時は、文字通り憑き物が落ちた態。浄化された空気を纏って終曲。囃子も充実しており、舞囃子の中では本日最高の出来。
独吟 樂阿弥 茂山 千之丞 狂言方の独吟を聴くのはこれが初めてだと思われる。この方ならではの伸びやか声で、力みのない謡振り。
仕舞 『鐵輪』 近藤 乾之助 足の具合は悪いながらも、それを自然のものとして身体を再構成したかのよう。立ち姿の緊張感と強さは、観ていて嬉しくなってくるもの。決して生々しく表出しないが、だからこそ内に溜めた怒りがじんわりと伝わってきて、一瞬寒気を感じる。後妻打ちでは何もない筈の空間に女の黒髪が現れ、三十番神に取り囲まれた時は、その姿は見えずとも、圧迫感が如実に迫ってきた。見事。
一管 『獅子』 藤田 大五郎 裃姿で登場した大五郎師。吹き始める前に、故人のことを一瞬想起したのではないかと思えるような間があった。最初の音を聴いた瞬間から何故か涙が出てきて戸惑う。この方は決して枯れない花を体得したのだと思う。残念ながら、この音を表現する言葉を、私は持たない。笛方として前人未踏の地に一人で立ち続けるこの方に、敬意を払わずにはいられない。
舞囃子 『弱法師』 梅若 六郎 笛 一噌 隆之(噌) 小鼓 観世 豊純(観) 大鼓 安福 光雄(高)
地頭は大槻文蔵師に、銕仙会、梅若系の混合地謡。紋付姿にもかかわらず、盲目で手に持つ杖のみで世界を感知せざるを得ない者の心細さが如実に伝わってくる。弱々しいとは絶対に言えない体格の六郎師ではあるが、常座に立ったときの寄る辺ない様、孤独な姿に胸を突かれた。正に芸の力。
仕舞 『雲雀山』 宝生 閑 地頭を欣哉師、他2名。ワキ方の仕舞を観るのは今回初めて。今後もそうはないであろうと思われる。物語の情景が浮かんでくる舞振りであった。退場時、舞手と地謡の動きが完全にシンクロしていて、感心。
一調一管 『唐船』 近藤 乾之助 笛 一噌 幸弘 太鼓 金春 惣右衛門
乾之助師は助吟に金井雄資師を伴って登場。幸弘師は珍しく緊張した様子で、吹き始めの音が若干揺らいだがその後はいつも通り。気合の入った、充実した演奏ではあったが、そもそも舞いであるという点を考えると、若干の疑問が頭を過ぎった。
独吟 狐塚小歌 茂山千作(千五郎代演) 千作師は怪我のため休演。心配である。千五郎師は熱演と言っていいのだろうが、仕事歌であることを考えると少々力み過ぎではなのかと思った。
半能 『融』舞返 思立之出 シテ 観世 榮夫 ワキ 福王 茂十郎 笛 松田 弘之(森) 小鼓 観世 新九郎(観) 大鼓 安福 健雄(高) 太鼓 三島 元太郎(春) 地頭 梅若 六郎
ワキは小書により下歌、名ノリ、上歌、着キゼリフの順に謡う。ワキ座に着いたたらすぐに後場の待ち謡に入り、シテが登場。 茂十郎師の弊で場の形成能力があまりなく、半能になるとそれが顕著になってしまった。シテは白狩衣に紫指貫、初冠。面は中将だと思われるが、妙に白く、何だか間の抜けた表情で、何故この面を選択したのかと疑問に思う。もっとも、個人的な印象に過ぎないので、当然異なる意見もあろう。舞は小書付きのため、常の五段早舞にクツロギが入り、さらにテンポが速まった五段が追加されたと思われた。残念ながら、舞の舞手としては榮夫師にあまり魅力を感じなかった。よって興味は囃子そのものに移ってしまう。研ぎ澄まされた音色、力強く、しかし決して突出しない笛の音に聴き入る。普段は中正面で観ることが多いため、笛方の様子を正面から見ることが少ないが、こうして見てみると、松田師は全身でシテの行き方を感じとろうとしているのがよく解る。主張はある、しかし決して独りよがりにならないこの方の笛の在り様は、こんなところに現れているのかと思った。小市民であるが故に、舞台を観つつも様々な考え事が浮かんで来てしまうこともあったのだが、この時間だけは音に没頭した。このまま時間が止まってしまったらいいのにと思った。無論、そんなことは在りえない。 この『融』と言う曲、追善にはいかにも相応しい。
何とも贅沢な時間だった。楽しい時間はすぐに過ぎてしまう。
戦後の混乱、流儀内の事情、あまり恵まれなかった健康等、幸政師を取り囲む状況は時に非常に過酷であったと思われる。今は様々な重荷から解放されて、ただのんびりと笛を吹いていてくれらと思う。生者の都合のいい思い入れに過ぎないことは承知している。しかし、そう願わずにはいられない。
銕仙会7月定期公演 宝生能楽堂 PM6:00〜
野村四郎師の『野宮』観たさにチケット購入。見所はほぼ9割程度の入り。脇正面後列に着席。 夏の能楽堂の冷房がかなりきついことは体験上熟知しているので、必ず長袖を持参するが、本日は防御を上回る攻撃を受けてしまった。とにかく寒い。足の下から忍び寄ってくる冷気、カーディガンなどものともしない低温。これまで経験した中で、もっとも冷やされた見所だった。
能 『野宮』 シテ 野村 四郎 ワキ 森 常好 アイ 山本 泰太郎 笛 藤田 大五郎(噌) 小鼓 鵜澤 速雄(大) 大鼓 柿原 崇志(高) 地頭 山本 順之
シテは薄黄に樺色の段織唐織、面は是閑作の増。全身が微かに揺れているようにも見えたが、気になる程ではなかった。沈んだ調子の次第、サシから一変して、僧の問いかけには有無を言わせない強さで応対。ただの里女ではないことを窺わせる。クセのあたりで不覚にもやや半覚醒状態となってしまった。正体を示して中入。 間語、語調の強さが曲趣を削ぐように感じられた。 後シテ、紫長絹に緋大口。車争いの場面は淡々とした中に無念さが滲む。序之舞、面の表情がだんだん若返って、少女のようになっていった。まるで、源氏と出会うより遥か以前の、愛憎や恋慕、嫉妬や諦観、そんな様々な感情とは無縁だった頃こそを懐かしんでいるかのように思えた。続く破之舞は、身にまとわりついた想いを振り落とすかのように、激しく、しかし鳥居の前に立ち、足を出し入れする所作には、成仏への憧憬と、しかし結局それは適わぬ願いなのだと俯く姿が見て取れた。あるがまま、車に乗り静かに去って行くシテの姿を見送りつつ、終曲。 今回は適わぬ願いを抱きつつ、それでもいいと静かに佇む御息所であった。勿論、演者の心の内など観る側は知る由もなく、またそれで良いと思う。見所に座っている間は、かなりいろいろ思考を廻らしつつ観ていたつもりだったが、しばらく時間を置くと、不思議と残っている物が僅かであることに気付く。本当に、能は一言では言い表せず、だからこそ面白くてこうして何度も足を運んでしまう。 橋掛りが近いため、大五郎師が出て行く時と帰ってくる時の様子がよく見えた。頭で考える以前に足が動いてしまうという態で笛座目指して歩んでいく後姿に、畏敬の念を抱く。衰えたりとは言えども、音そのものが持つ強さは、決して失われないものなのだと思った。本日の囃子は充実していて、耳を傾けているのが嬉しかった。地謡も健闘。 橋掛りを帰って来る大五郎師に、普段はしない拍手を送っていた。
一番目の後の休憩時間は5分と短いので、普段はせいぜい足を伸ばしにロビーへ行くくらいなのだが、本日は体が冷え切ってしまったため、止むを得ずトイレへ。同様の人、多数。あちこちで寒さを訴える声が聞こえてきた。運良く開始前に見所へ戻れた。
狂言 『箕被』 シテ 山本 東次郎 アド 山本 則孝
夫は連歌狂い。ほとんど家にいつかず、帰って来たと思ったら連歌の会を催すから酒食の用意を整えろと妻に命ずる。日々の糧にも事欠いている現状を省みない夫の言葉に、妻は離縁を申し出る。止む無く同意した夫。離縁の証の品を渡そうにも、何もなく、手近にあった箕を渡し、それを被いて出て行く妻。その姿に興を覚えて思わず歌を詠み、それに妻が付ける。結局連歌が縁で寄りを戻すことになった。本日初見の曲。
自分には過ぎたことだと思いつつ、どうしてもやめられない連歌。東次郎師の後姿には生活感漂う哀愁があった。妻が実家に帰ると言い出すのも他に手立てがないからで、互いに相手を疎ましく思っているわけではないため、別れの際も双方どことなく釈然としない風。妻の後姿に興を覚えてつい歌を詠んでしまうところは、謂わば習性。ここで返さないのは後の世に差支えると夫の歌に付ける妻の姿は凛々しく、夫ならずも惚れ直してしまうと思う。盃を交わしつつ、こうして二人で連歌をして仲良くくらして行こうと誓う。家で連歌をしていれば、余計な出費も防げ、一石二鳥というところだろうか。身近な人であっても、意外と知らないことはあるものである。不器用な中にお互いを思う気持ちが隠されていて、可笑しくも温かい気持ちになれた。楽しい時間だった。
能 『車僧』 シテ 浅見 慈一 ワキ 舘田 善博 アイ 山本 則秀 笛 松田 弘之(森) 小鼓 鵜澤 洋太郎(大) 大鼓 柿原 光博(高) 太鼓 助川 治(観) 地頭 観世 銕之丞
天狗が僧を魔道に落とし入れようとして失敗する話。作者未詳。本日初見 車の作り物が脇座に置かれる。曲中の僧は車に乗って諸国を遍歴している。舘田師のワキを観るのは今回初めて。ひょっとすると、ご本人も初めてなのかもしれない。天狗の仕掛けてくる問答にまったく動じず、それどころか帰って混乱させるふてぶてしい様子がよく出ていた。 慈一師のシテも本日初見。前シテは山伏装束に直面。意外にと言っては失礼だが、堂々と、しかし怪しい様子でこちらも好演。結局山伏、実は愛宕山の天狗太郎坊は業を煮やし、自分の庵室に訪ねて来いと言い捨て消える。来序で中入。謂わば子分である溝越天狗が登場し、なんとか僧を笑わせようと滑稽なしぐさをするが、僧は無反応。ワキ方にとっては、笑うのをこらえるのがなかなか大変らしい。 大ベシに乗って後シテ登場。袷狩衣、白大口、黒頭、大癋見。手には団扇。この大ベシが実に颯爽としていてカッコいい。冬の冷たい空気の中を悠然と滑空している感じ。 太郎坊は僧に雪の中、車を走らせてみろと挑むが、僧は法力でやすやすと実行。車を動かすには牛を打たねばだめだとの僧の言葉に太郎坊は惑うばかり。結局仏の力には適わないと退散する。後シテ、もう少し大きく動ければ良かったと思いつつ、後場の二人の対決も面白かった。若手の健闘は観ていて嬉しいものである。地謡も、銕之丞師の直球な重量感が曲趣に合っていたのではなかろうか。
こぎつね丸
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