観能雑感
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国立能楽堂普及公演 PM1:00〜
解説付きの普及公演に足を運ぶのは初めて。見所は予想に反して高齢者の方々が目立ち、どの程度普及の意味があるのか少々疑問。 開演前、檜書店の出張売店で世阿弥がらみの歴史小説をつい購入。文庫本だが京極夏彦氏の作品群に匹敵する程厚い。杉本苑子氏の名著が既に存在しているので、これを凌駕するのは困難な気もする。 中正面正面席寄りに着席。
解説・能楽あんない 桜川と狂女 脇田 晴子
脇田氏の著作を1冊だけ所有している。その他に研究論文を一本読んだ事がある。著書では女性芸能者を系統立てて扱っていて、なかなか興味深かった。能に関連したところだと、「班女」の遊女を「隅田川」の母親であるとしていたのに瞠目。確かに相手の男性と父親の名前は吉田である。 「桜川」のあらすじ紹介から始まったが、正直手際が良いとは言い難かった。しかし作品中曖昧になっている僧と身売りした子供との出会いを、僧が人商人から買い取ったとし、子供を慰めるためにわざわざ桜の名所を訪れている事から、稚児として大事にされていたのだろうとの推察に納得。中世経済史がご専門だそうで、人身売買の実際の相場の説明があったのは面白かった。それによると普通の男の子より白拍子の子供の方が7倍の値段で取引されたそうである。ただ、当時の貨幣単位だったので、現代の価値に換算すると如何ほどになるのかは不明。また、夫を亡くした女性が尼になるのは、中世では生きて行くための知恵であるとの説明にも納得。狂言の「泣尼」成立の背景が浮かび上がってくる。 後半は狂女物全般についての解説。観阿弥、世阿弥、元雅各々の作風の違いをそれぞれの立場から説明し、こちらも面白かったが、能を観慣れている人にとっては周知であるという感あり。普及公演での解説なのでこれでいいと思う。 ゆったりとした関西弁で語られると「世阿弥」という聞きなれた言葉に別のニュアンスが加わるようで、新鮮だった。
狂言 「佐渡狐」(和泉流) シテ 野村 又三郎 アド 野村 小三郎 小アド 佐藤 友彦
本曲を観るのは三度目。となると、流儀、家ごとの違いを楽しむ方が主眼となる。 小三郎師、活舌が良いのか言葉が明瞭。特に気張らずとも声量があり、妙な息苦しさを感じさせないのは大変結構。ただ、カマエが腰高であるのと、角取りの際、本人の視線が見所から見て目に付くのが気になった。恐らく視点を近く、低く置き過ぎているからなのだろう。 又三郎師、年齢を感じさせない所作、声量。性格俳優のごとき緻密さを見せる萬師とは対照的に、ゆったり気負わず、それでいて「役」になっている。佐藤師、声量があり、身体がしっかりしているという印象。所作も丁寧。 佐渡のお百姓が秦者に賄賂を渡す場面は見せ場のひとつだが、大蔵流ではお百姓が奏者の袖に金子を滑り込ませるのに対し、ここでは受取りあぐねている奏者の下に金子を置いたままお百姓は下がってしまい、奏者はあたりを覗いながらそれをしまう。 越後のお百姓に狐について質問され、背後でやりとりしているのに気付かれそうになると、二人がビクッとするのが可笑しく、動作が完全に調和していたのが見事。 最後の狐の鳴き声も、流儀、家によって異なっているようである。 三者が良い緊張感を保ってはいるが、圧迫感がなく穏やかな空気の流れる舞台であった。 ちなみに現在の佐渡には狐がいるそうである。
能 「桜川」(観世流) シテ 関根 祥六 子方 関根 祥丸 ワキ 福王 茂十郎 ワキツレ(旅僧) 広谷 和夫、福王 知登 ワキツレ(人商人) 是川 正彦 ワキツレ(茶屋) 山本 順三 笛 一噌 仙幸(噌) 小鼓 幸 清次郎(清) 大鼓 佃 良勝(高)
母の窮状を見かねて子供自ら身売りするという悲惨な設定ではあるが、全編桜がらみの言葉に溢れ悲壮感は不思議と少ない。都から遠く離れた東の地にある桜の名所、その名も桜川というところに、当時の観客は雅趣を見出したのだろう。 ワキツレである人商人が登場し、身売りした桜子の手紙を持って母の下を訪れる。是川師、顎を引き過ぎなのか、立ち姿が反り返り気味に見える。長身。 ワキツレの呼びかけにシテである母親が登場。ここで隣の席のご婦人が双眼鏡片手に揚幕方向へ身を乗り出す。中正面からだと左側にあたり、こちらに背中を向けた形となり、視界が完全にふさがれる。さすがにこれには抗議させていただいた。しかしその後も彼女は首から下げたメガネと双眼鏡をとっかえひっかえし続け、そのたびにカチャカチャと音がし、肘が触れ(肘掛は彼女が占領している)、集中力を妨げられる事この上なかった。舞台は観客が各自一対一で相対するものであり、どのように楽しむかは人それぞれであるが、周囲への配慮を欠いてはならない。己の行動が他者の観賞を妨害しているのかもしれないのだから。 橋掛りでの二人の緊張感溢れるやり取りは、視界が塞がれたためよく見えなかった。手紙をしまい、本舞台に歩を進める様は、その一歩一歩に母親の子を探しに行こうという決然たる意思が表れており、目を引いた。 ワキの僧と従僧、子方が登場。次第が不揃い。やはり福王流は長身の方が多いと改めて思う。茂十郎師、コトバに情感がこもらないという印象はいつもどおり。 ワキツレの茶屋の呼びかけに呼応し後シテ登場。狂女の出としては大小が重く感じられ、シテの意図との間に齟齬か若干感じられた。 その後カケリ、イロエ、クセ、網之段と見所、聴き所が満載なのだが、どうにも集中力を欠いているせいか、強い印象は残らなかった。シテの謡が意外に聞き取り難かった事は予想外。舞台そのものに強い求心力を感じなかったのは、こちら側の不備だけとは言い切れなかったように思う。技量が素晴らしいのは言うまでもないのだが。網はバランスを取るのが難しそう。 地謡は祥人師を地頭に、中堅、若手で構成。前列の一部にやや物足りなさを覚えたが、これだけ謡えれば及第点か。子方の祥丸君、殆ど脇座で座りっぱなしなのだがよく耐えた。 仙幸師の笛、透明感の中にも一抹の翳りがあり、曲趣を遺漏なく表現していたように思う。見事。 何とはなしに物足りなさが残った。もっと良い状態で祥六師の舞台を改めて観てみたいと思う。
プログラムに掲載されている詞章の最後に「上演に際し、詞章に多少の異同がある場合もございます。あらかじめご了承下さい」との注意書きが添えられていた。以前にはなかったもの。観客からのクレームに対応したものなのだろうが、言い間違え、絶句は折り込み済みである事を宣言しているようにも取れ、複雑な想い。
宝生会月並能 宝生能楽堂 PM1:00〜
統一地方選挙当日。投票を済ませてから会場へ向かう。都知事選の投票率は40%を下回った。これでいいのか、ニッポン。一票を投ずるに相応しい候補者がいないならば、たとえ白票でも投票した方がいいだろう。今の政治に失望しているという明確な意思表示になる。 4月中旬だというのに気温は20℃を越えた。これから憂鬱な季節が始まる。私は夏が大嫌いなのだ。 本日の曲のうち「祇王」、「草薙」は著作権の切れた図書を公開している国会図書館サイト内のデジタルファイルで辛うじて詞章を読み流したのみ。古書店に行きそびれて謡本入手ならず。新品だと1冊2000円以上するので、詞章の確認のためだけに購入する気にはなれない。能楽堂内の書店で袖本を扱ってくれるといいのだが。 ロビーで本日ご出勤の高橋亘師が挨拶なさっていた。洋服姿。紋付でないのは珍しいなぁと思う。 中正面正面席寄り後列に着席。
能 「志賀」 シテ 佐野 萌 シテツレ 辰巳 満次郎 ワキ 宝生 欣哉 ワキツレ 大日方 寛、御厨 誠吾(番組に記載なし) アイ 大藏 彌太郎 笛 一噌 幸弘(番組上は幸政師)(噌) 小鼓 住駒 国彦(幸) 大鼓 内田 輝幸(葛) 太鼓 小寺 真佐人(観)
大伴黒主がシテの脇能。六歌仙の一人である。そう言えば、六歌仙は皇位継承を巡って藤原氏と対立し敗れ去った人々だとする説をどこかで読んだなぁと思っていたところ、書店で『QED』シリーズの2作目『六歌仙の暗号』が文庫化されているのを発見、購入。まさにその点を扱っていて面白く読んだが、本曲は仮名序における黒主の形容と中世歌学を組み合わせたもので直接関係はない。 お調べの笛の音を聴いていて「幸政師ではなさそう」だと思っていたところ、やはり違った。急病なのだろうか。 脇能でのワキは、幕離れしてすぐ三の松でうにょーんと伸びをし、ワキ座についてから再び同じ動作をする。脇能のみに見られるこの所作、何か意味があるのだろうか。以前から気になっている。私はこれを見るのが何故か好きである。 脇能におけるワキ方の役どころは勅使であるのが圧倒的に多いが、この役が最も似合うのは欣哉師だと思っている。晴れやかで品があり颯爽とした雰囲気が脇能にぴったりである。 樵姿のシテ、ツレが登場。辰巳師、謡明瞭、立ち姿も良い。シテは笑尉。桜の枝を差した薪を背負っている。舞台に入ってワキとの問答で歌道に励む事は仏道に精進する事と同じであり、良い治世に繋がるという中世歌学が語られる。三十一文字にはそれぞれ神が宿っており、仏の特徴である三十二相と同じであるというのがその所以。仏相にはひとつ足りないが、その内のひとつである頭頂の瘤は、頭髪に隠れて見えないのでこれで良いとのこと。以前荒俣宏氏の著作で読んだ。佐野師、ご高齢にもかかわらず下居姿が誠に端正。このように良い緊張感を保った下居姿、実は中々お目にかかれない。置いてあった杖を持ち直す際、指先で少し転がしてしまって一瞬ヒヤリとしたが、難なく処理。正体を明かして中入。 彌太郎師の間語、口吻が悪いのか、発音が一部はっきりせず、聞き取りずらい。 出端で後シテ登場。透冠、黒垂、面は邯鄲男。佐野師の謡は趣があって良いのだが、音量はそれほどないのでサシ謡が完全に囃子にかき消されてしまった。真佐人師の演奏を聴くのは久しぶり。一年以上経っているのではないだろうか。「イヤー」の掛け声が父上と良く似ている。若いが堅実で、これからが益々楽しみ。 神舞は豪快に動き回るというよりは品位を保って颯爽と、といった風。流儀の主張によるものだろう。これはこれで良い。ただ、邯鄲男の眉間に刻まれた深い皺、憂鬱な表情を見ていると、曲趣とは全く関係ないのだが、藤原氏の権力独占で古代から続く名氏族である大伴氏が衰退してゆく様を想起してしまい、無常感に捕われた。 琵琶湖を背景に咲き誇る満開の桜と、華やかな舞台設定のはずなのだが、それを感じないまま終曲。地謡が聞き取り難かったのが関係しているのかもしれない。宝生流の強吟は、自分にとって聞き取り難いのだろうか。黒主の実在自体が疑わしく、黒主明神という神の存在そもののが曖昧で掴み難いせいもあるだろう。練り上げるのは困難な曲といえるかもしれない。悪くははいが若干消化不良気味。
狂言 「文荷」(大蔵流) シテ 善竹 十郎 アド 善竹 大二郎、善竹 富太郎
和泉流では観た事のある曲。内容は同じだが細部は異なる。こちらの方が長閑な雰囲気。 主の恋文を届ける太郎冠者と次郎冠者。和泉流ではどちらが使いに行くかで押し付け合うが、こちらはあっさりと二人で出かけて行く。途中「恋之重荷」の一部を謡うのだが、セリフの中で「恋之重荷の謡を覚えた」という表現があって、直接的。重い文だから疲れたと言って休憩、中身を覗いてしまうのがなんだかすごいが、仕様人が主人の行動を気にかけるのは仕方がない。何とか理由をつけてサボりたいというのも解る。十郎、富太郎親子の笑顔は自然でゆったりとしていて、穏やかな気持ちになる。野村家の若手に見られる不自然な表情とは対照的。 二人で文を取り合い、破れてしまったのを主人に見つかり、「お返事でございます」と破れた文を渡すのは同じ。明るく軽やかな雰囲気で和んだ。
能 「祇王」 シテ 高橋 勇 ツレ 高橋 亘 ワキ 殿田 謙吉 アイ 大藏 千太郎 笛 内潟 慶三(森) 小鼓 幸 清次郎(清) 大鼓 柿原 崇志(高)
宝生、金剛、喜多各流の曲。宝生流では「二人静」を廃曲にしたそうなので、相舞があるのは本曲のみという事になるのだろうか。 宝生流の会では「宝生の能」というその月行われる全ての定例会を網羅した曲目解説付きのパンフレットと、相当する会のみ記載した小さな番組表の2種類が観客に渡される。両者において、出演者が異なっている事があり、今回も笛が片や松田弘之師、片や内潟慶三師であった。お調べを聴いて寺井家系の音だと思ったが、やはり内潟師が現われた。 ワキが登場し語り始めたあたりで、突然隣の席のご婦人に「お稽古してらっしゃるの?」と話しかけられる。全く想定外の出来事に驚きつつも咄嗟に返答してしまう。「してらっしゃらないの?よく退屈しないわねぇ、えらわねぇ〜」と言われる。うーむ。複雑。彼女は地謡座のご自分が習っている先生とその隣に座っている好きな先生を説明して下さり、「国文科?違うの?本当にお好きなのねぇ」と感心されてしまった。私が学生だったのは一昔前の事なのだが……。話しかけて下さるの結構だが、何故曲が始まってからなのだ…。そしてこういう時は反射的に返答してしまうものなのだ。演能中の私語は慎むべきだと思っているが、今回は不可避の事態だった。最小限の音量で話したつもりだが、周囲の方々、申し訳ない。 平家物語の有名なエピソードを下敷きに、祇王、仏御前の友情を描いているが、見所はやはり両者の相舞であろうと思われる。ワキの瀬尾太郎によって仏御前が清盛へ目通りが叶うよう祇王が出仕を控えていた旨が語られ、両者供に出仕するようにとの命を伝えに二人の元を訪れる。 ツレの祇王を先頭に橋掛りに両名が現われる。入紅唐織着流し、面は小面。シテが叔父、ツレが甥、地頭はシテの兄と親族共演。亘師、地謡座でも姿勢の悪さが目立つが、立ち姿が美しくないのはシテ方として致命的なのではなかろうか。目付柱に付近で斜めに下居するが、これも締りがなく美しくない。立ちあがったときの後姿の無残さに唖然とする。一方仏御前である勇師は謡、カマエともに見事。中入真際にシテがツレに近付き腕に手をかけるという直截的な所作があり、空気が変わった。 アイの千太郎師、声はあまりこもらなくなったように思うが、語りそのものが若干間延びし単調。間語りはやはり難しいと思うが、これがきちんとできなれれば狂言方として一人前とは言えまい。精進を期待したい。 後シテ、ツレは薄色に草花の文様が入った長絹に金の前折烏帽子。中之舞を舞う。ワキより仏御前一人で舞うようにとの清盛の命が伝えられ、祇王はその場を去ろうとするが仏御前がそれを止め、二人でなければ舞わないと主張、再び相舞でクセ舞を舞う。二人が至近距離で見詰め合う所作があり、こちらも直接的でちょっと驚く。 クセで清盛の放埓振りとその寵愛もいつまで続くのか分らないという、白拍子の身の空しさが語られる。視界の狭い女面を掛けての相舞、互いの姿は見えないと思われるので大変だと思うが、途中、はっきりとずれてしまうところがあり(正面から右に向くタイミングがツレの方が大分早かった)、これはさすがにマズイだろうと思う。足拍子もはっきりズレた個所あり。隣同士で舞っているので両者の技量の差がはっきり表れる。 互いにライバルでありながらも寄る辺ない境遇にある二人が友情を育むという曲の着想は面白いが、良い舞台に仕上げるのはシテ・ツレが拮抗していなければならない。相舞を舞うのは勇気がいると思うが、配役に無理があったか。
能 「草薙」 シテ 亀井 保雄 シテツレ 野口 聡 ワキ 森 常好 アイ 大藏 吉次郎 笛 藤田 次郎(噌) 小鼓 幸 信吾(幸) 大鼓 柿原 光博(高) 太鼓 三島 卓(春)
宝生流のみの曲。刀好きなので曲名からして気になる。 先程のご婦人が帰られるとの事で、席を譲って下さり、一番正面席寄りに着席。観客により視界が遮られない席なのでありがたい。 熱田神宮でワキの恵心僧都が最勝王経を講じているところに花売りの夫婦が現れる。シテが直面でツレが面をかけているのは珍しい構図。経に感謝し、正体を仄めかし中入。 後シテは半切、法被、側次、黒垂、透冠、面は不明。天神か?ツレは黒垂、小面、長絹。ただ出てきただけですぐに下居。シテは床几に腰掛けクセで、草薙の言われ、日本武尊による東夷討伐が語られる。舞働もなく仕方話のみ。ツレは橘姫(オトタチバナヒメのことか?)。記紀に登場する古代の英雄が経を尊ぶという構図が分り難く、最勝王経との関連も不明。本地垂迹としても無理がある気がする。後場があまりにあっさりしていて物足りなさが残った。期待していただけに残念だが、まあこんなところだろう。 幸信吾師、やはり掛け声が不気味である。 地頭は近藤乾之助師。地謡が三曲中最も良かったように感じた。
番組の表記と実際の舞台の出演者が異なる事に対して、開催者は観客に知らせるべきではないだろうか。以前にもこのような事があったが、演者の顔と名前が一致する人ばかりが観ているとは限らないだろう。番組によって出演者の記載が異なるのもどうかと思う。特に代演等の告知が張り出されていはいなかった。私が気付かなかっただけだろうか。「志賀」の後見には宗家の名前があったが、こちらも当然のように欠勤。たとえ気にかける人がいないとしても、主催者は観客に正確な情報を提供する義務がある。
銕仙会定期公演 宝生能楽堂 PM6:00〜
やっと持病が落ちついてきたのはいいが、それとほぼ同時期にイラクへの軍事行動が開始され、ただでさえ冷え込んでいる案件が減少。あまりのタイミングの良さに笑える。人生もはや消化試合の感あり。理想としてはさっさと隠居したいのだが先立つモノなど皆無なのでそうもいかない。秋山小兵衛への道は遠のくばかりである。 駅の階段を登り切る真際、松岡心平氏が横切って行くのが見えた。世間というのは案外狭いのかもしれない。会場で村尚也氏を見かける。 中正面好きの私だが、銕仙会の定期公演でここに座すのは今回が初めて。理由は簡単。チケット予約前に売切れてばかりだったからである。脇正面寄り前列。目付柱の正面。
狂言 「花盗人」(和泉流) シテ 野村 萬斎 アド 野村 万之介
花盗人と庭の主との風流な遣り取りが本曲の眼目だろうと思われるが、他人の庭の桜を盗んで貴人に献上、好評だったので再度盗もうとする盗人の倫理観を問いたくなる。後に故事を引いて己の立場を正当化するが単なる言い訳以外の何物でもなく、主のように酒を酌み交わす気にはなれない。私が激しく狭量なのだろうか。 万之介師のハコビが滑らかなのに対して萬斎師はガクガクと落ちつかない。体重移動が円滑に行われていないのだろうか。一歩一歩、連続していないように見える。 橋掛りから桜を愛でる盗人。作り物が出ているのにもかかわらず花を見ているという感じが伝わってこない。先月観た萬師が目線と言葉だけで満開の桜を現前させたのとは大違い(比較すること自体無理があるのは承知している)。後の小唄でも言葉だけが上滑りして花も月も見えてこない。型として月を眺めているのにこの空々しさは何なのだろう。言葉と所作で見る者の想像力を刺激するのが能狂言の面白さである。表面上朗々と響く謡はただそれだけのものだった。萬斎師、いろいろなさるのは結構だが、「狂言を通しての表現の可能性」を追求するのであれば、肝心の狂言にもっと心を入れた方が良いのではなかろうか。こちらも言葉のみが上滑りしている。 盗人の風流ぶりに関心した主が褒美にと自ら桜を一枝手折って渡す。主の寛大さのみ印象に残った。思えばこの人物、無聊を紛らす話し相手が欲しかったのかもしれない。 盗人の人間性が引っかかって、春の華やかさとは対照的に心浮き立つものがなかった。別の演者で観たら異なる感想を持つのかもしれないが、どうにも楽しめなかった。
能 「柏崎」思出之舞 シテ 浅見 真州 子方 小野里 康充 ワキ 殿田 謙吉 ワキツレ 宝生 欣哉 アイ 野村 万之介 笛 藤田 大五郎(噌) 小鼓 北村 治(大) 大鼓 柿原 崇志(高)
形式上は子との再会を願う物狂物だが、詞章を読むと子に対しての執着よりも夫に対する思慕と阿弥陀仏崇拝が全面に出ており、終曲部での母子再会は付けたしめいた感がある。榎並左衛門五郎の作を世阿弥が改作したと考えられているそうだが、焦点が絞り込めていないのはそのような制作背景があるからかもしれない。しかし阿弥陀仏信仰を通して語られる宗教感は魅力があり、本作の存在意義は十ニ分にあると思われる。 今回は現行では削られているアイ、子方のセリフがあり、シテの舞が加わった形での上演。この小書は舞が加わる事を意味するのは解るが、アイ、子方のセリフの挿入との関係は不明。 お調べは笛に始まり笛で終わるが今回は小鼓が最後まで鳴っていた。舞台上でも調べ緒を締めなおしていたので楽器の状態が思わしくなかったのかもしれない。 何事もなくシテ登場。橋掛りを歩んでくるその姿が実に端正で美しい。無紅段唐織、模様は秋草か。面は曲見。浅見師、深井よりも曲見の方がお好みなのだろうか。鬘桶に腰掛けるが調度目付柱に阻まれて見えない。 次第でワキ登場。守り袋を下げ、笠を被っている。雪の中遥々鎌倉から柏崎まで旅してきたのだという距離感が伝わって来る。 シテと対面し、言い難いながらも主人の死を伝える。淡々と話していたシテの語調が鮮やかに切り替わり、哀しみに包まれる。僅かな動きで夫に先立たれ子も姿を見せる事無く出家してしまった女性の動揺が表現され、浅見師、相変わらず見事だなぁと思う。夫の死と子の遁世を知る前と後とでは、面の瞳の力さえ、弱々しく見えてくるくらいである。相談もせず出家した子を薄情だと思いつつも、手紙を大切に胸にしまい、無事を祈る姿に母の想いの深さを見る。 シテの中入に続き、善光寺の住僧と息子花若、アイの能力が登場。子方の小野里君は小野里修師の息子さんだろうか。4歳くらいに見える。小さいながらも出家の役なので角帽子に絓水衣とワキツレと同じ扮装。可愛らしい姿に見所が僅かにざわめく。欣哉師、こちらも相変わらず実に美しいハコビ。このところ素袍、直垂と足の見えない役を続けて見ていたので、白足袋に包まれた小さめの足が流麗に動く様を目にする事が出来て嬉しい。 能力は『山姥』の内容を引用して善光寺への参詣について語る。『三井寺』と同じく狂女を発見してその旨を報告、地謡前で下居。 一声で後シテ登場。小鼓がポポッとオドッて常の一声とは異なる雰囲気。狂女の出に相応しい。これを「狂女越」と言うそう。不安定で足早なシテの登場、いかにも狂女という昂ぶった様子。心ここにあらずといった態で長距離をひたすら歩み続けて来た感じがつぶさに伝わってくる。囃子の巧みさとシテの演技の確かさが相乗効果を生んだ。カケリの後、僧に女人の立ち入り禁止を言い渡されるが阿弥陀仏信仰を引いて巧みに反論。クルイの後、子方が狂女が母である事を僧に告げる。 夫の形見である烏帽子、直垂をささげ、死後の安穏を願うシテ。詞章を読んだ時に「なぜこの女性は善光寺に向かうのか。子供がどこにいるかは知らないはずなのに」と疑問だったのだが、パンフレットにより善光寺は古くから追善供養が盛んである事を知った。当時の人はこの善光寺行きに関してごく自然に納得できたのであろう。物着アシライの中、烏帽子直垂を身に付ける。主後見の野村四郎師が手際良く着付けて行く。直垂と言っても直垂模様の長絹であり、烏帽子も前折烏帽子と女性用の扮装である。ここで常にはない舞が挿入される。中之舞を予想していたが、二段の序之舞のようであった。「鳴るは滝の水」と来ると、『安宅』のように勇壮な舞を連想してしまうので、静かな舞にやや戸惑う。しかしここで男舞はありえないのでこんなところか。退屈しているわけでは全くないが、シテの優美な姿と繊細で機敏な地謡の心地よさに眠気が生じてくる。この後、生の儚さと極楽浄土への憧れが二段の舞グセでたっぷりと語られる。極楽はそれぞれの内にあるという教えには心安らぐ。最後にめでたく子と再会して供に立ち去り終曲。子供は還俗するのだろうか。この点は不明のまま。やはり横溢する宗教性と夫への思慕に対しこの再会劇は付けたしの感が拭えない。めでたく留めるという機能は果たしているけれど。 能力、子方のセリフ、舞を挿入しての演出だったが、もともと焦点が定まりきれていない曲だけにやや冗漫であると感じた。これらを省いたのはかなり早い時期のようだが納得できる処理である。特に舞は後に二段の舞グセがあるのであえて挿入しなくてもよい気がした。イロエを入れる演出もあるようなので、その方がすっきりするのではないだろうか。浅見真州師という卓越した演者が勤めてこそ、魅力が生ずる演出だという気がした。舞グセの際、7割程度の覚醒状態だったのだが、シテの姿の優美さとそれに呼応する地謡にゆらゆらと耽溺して、こういうの時にはいいか…と思った。地頭は浅井師。このところ地頭としての統率力を益々つけてきておられるようで、頼もしい。真州師、どんな曲でも美しくまとめ上げる事が出来るのがこの方の強さであり弱さであろう。しかし一曲を通してこれだけ隙のない優美さを提供できるその身体技能は、ただ見事と言うほかない。師の舞台はこれからも出来るだけ多く観たいと思う。
やはり…と言うべきか、狂言のみ観て帰って行く女性の姿がちらほら。この種の方々の反論として、「狂言を観ない人もいるではないか」というのがあるが、シテ方主催の会なのだから、どちらがメインかは自ずと明らかであろう。銕仙会は昨年の定例会、青山能の両方でシテが真州師の時の狂言に萬斎師が出勤だった。集客力のあるシテ方だけに何故そういう番組を組む???と思っていたが今年もこの組み合わせで複雑な心境。真州師の舞台が観たくても、チケットを取り損ねた方がいるのではないだろうか。「早いもの勝ち!!!」と言われればそれまでだが、有効に活用された方がいいと思うのも事実である。
映画「能楽師」 AM10:30〜 ユーロスペース2
雑誌「DEN」2003年1月号に本作品のチケットプレゼントが掲載されていた。応募してみたら何故か当選。嬉しいが貴重な運を些細なところで使い果たしているような気がしないでもない。 TVにて米英軍によりイラクが「開放」されたかのような映像を目にしながら出かける準備をする。あまりにも明確な意図が全面に押し出されており不快感を禁じえない。多数の罪のない民間人を殺傷し、強引に推し進められている今回の軍事行動、石油の利権獲得とテロ抑止の名の下に行われている他国の主権侵害に他ならない。ひとつの価値観、理想を押し付ける事が新たなテロを呼ぶ事に、ネオ・コンサヴァティブと呼ばれる人々は何故気付かないのだろう。アメリカがグローバルなのではなく、アメリカのローカルを全世界に押し付けてそれをグローバルと呼んでいるのにすぎないのに。 何にせよ、これでブッシュの再選はほぼ決まりだろう。国内世論をまとめるために他国を利用するのは止めてもらいたい。払われた犠牲の大きさとあまりにも一元的な価値観の強要に、ただただ空しさと怒りが込み上げてくる。
会場に到着するとすでにかなりの人数が並んでいた。狭い館内はほぼ満席状態。能楽堂の観客席における年齢層と同じで、高齢者が目立つ。予告編を長々と見せられてうんざりする。
本作品は観世流シテ方関根祥六、祥人親子を追ったものである。ただ眼前の対象を撮影し、ナレーションは佐野史郎による世阿弥の著作「花伝書」、「花鏡」等の朗読のみ。製作者側の主観を極力排除した編集方法が、昨今のTV番組に散見するナレーションを多用し、製作者側が視聴者をある一定の方向に誘導しようとするトキュメンタリーとは対照的で、新鮮でさえあった。本来ドキュメンタリーとはこうあるべきであろう。 関根親子の対談を挟みながら、新年の謡初めや、玄人を対象とした稽古風景、鏡の間の様子など、普段観客が目にすることのない貴重な場面が次々に登場。特に印象に残ったのが関根家の稽古舞台。鏡板が引戸になっていて、後ろから同じ大きさの鏡が現われた。能舞台がダンススタジオに変身。この鏡の前で祥人師が袴をたくし上げ、乱拍子の稽古をしていた。何とも合理的な設計。 祥人師が勤めた「道場寺」の鐘入り前後、祈りの場面などかなりまとまった時間見せ、舞台の緊張感がこちらにも伝わってくる。この舞台の事は能評で読んだ記憶があるが、すでに定かではない。小書付きなのは映像から解る。前シテの装束の柄が常とは事なり、後ジテは赤頭に緋長袴、面は金色の彩色が施された般若だろうか。それにしても近江女とは何と不気味な表情をしているのだろう。 世阿弥の著作における稽古方法や気持ちの持ち方について、いかに合理的であるかを祥六師が語る。数百年を経ても色褪せるどころか益々光りを増すばかりのその理論、世阿弥という人間の偉大さを改めて思った。小手先の表現に流れず、まずしっかりとした身体を作ることが大切というのは、個性と我がままを混同した人間を大量に産み出した現代の教育現場にも当てはまるのではないだろうか。規範あってこその個性である。 ところで「稽古は強かれ、じょうしきは無かれ」という花伝書の有名な一節がナレーションで流れたが、現代人はまず「常識」と理解してしまいそうな気がする。これは「情識」であり、勝手な考えを意味する。 祥人師が気持ちの在り方と身体の関係について語りながら構えてみせる場面は、内に込める力が能にとっていかに重要であるかを見せていた。気を抜いた状態とそうでない時とは、身体そのものだけでなく周囲に漲る緊張感までが違ってくる。身体における内面の充実こそが、能を能たらしめているのだ。 祥人師が外出する際、ご子息の祥丸君が玄関で靴べらを手渡し、お母様といっしょに門の外にまででて見送る。立ち去る父の姿にピョコンと頭を下げる息子。親子の間に礼儀があり、それがごく自然である事に新鮮な驚きを感じた。親子であり師弟関係でもあるという、特殊な立場ではあるが、昨今では珍しい風景だろう。 祥人師が語る集中している時の周囲の見え方は、F1ドライヴァーが300km/hで走っている時の風景と似ていて面白いと思った。片や極度に抑制された動作、片や高速走行中。どちらもある種の極限状態に置かれている事は確かである。
一切の主観を排除した編集方針に好感が持てる。佳作。見る価値あり。
こぎつね丸
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