観能雑感
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2003年03月14日(金) 銕仙会定期公演

銕仙会定期公演 宝生能楽堂 PM6:00〜

突発的に出かける事に決めた先の2公演とは異なり、こちらは早めにチケットを購入しておいた。銕仙会の定期能に出かけるのは昨年秋以来。見所には制服姿の高校生や大学生らしき人々が目立つ。この雰囲気、久々だなぁと思う。ボーっとしていたのか、古書店で入手した「盛久」の袖本を忘れてきてしまう。悩んだ末「西王母」と一緒に購入。長く連載が続いているマンガのコミックスを重複して買ってしまったりと、脳神経細胞のシナプスが途切れまくりなのか。
やや日を空けての記述。週に3本は無理があった。

能 「西王母」
シテ 西村 高夫
シテツレ 浅見 慈一
ワキ 森 常好
ワキツレ 梅村 昌功、舘田 喜博
アイ 野村 与十郎
笛 一噌 隆之(噌) 小鼓 幸 正昭(清) 大鼓 柿原 光博(高) 太鼓 観世 正伯(観)

女仙の頂点西王母がシテの脇能。10年以上前になるが、中国の神仙に興味があったので、聞きなれた名前である。本曲では美しい女性の姿として描かれるが、記録に登場し始めた頃の西王母は妖物のごとき外見で、ほとんど鵺状態。人間の姿をとるのはやや時代が下ってからになる。
狂言口開で開始。アイの扮装は異国的。帽子のてっぺんに赤い房があるのがかわいい。
真ノ来序でワキ、ワキツレ登場。これまでに行った事のある能楽堂で最も音響がいいのはここ、宝生能楽堂だと思う。特に脇正面で聴く音は最高である。しかし本日は珍しく暖房が効き過ぎで、やや暑いと感じるくらい。小鼓方は大変そうだった。笛にとってもあまり良い状態ではないだろう。太鼓は良く鳴って、長く引く掛け声の消える瞬間まで耳に届く。小気味良く品のある元伯師の太鼓、好きである。
ワキは宮殿を模した屋根付き一畳台に、ツレは地謡前に着座。梅村師、下居の時に首が傾いてしまうのが気になる。正面席で観ているのであれば然程気にならないのかもしれないが、脇正面からでは目立つ。
一声でシテ、シテツレ登場。唐織着流し。同吟に乱れはない。動きがほとんどなく王に桃花を捧げ、正体を仄めかして中入。
後シテは鳳凰の天冠、黒垂、緋大口に白地に鳳凰の刺繍入り舞衣。腰には鬘帯を巻いた剣を佩いている。装束は美しいが、華やぎには欠ける。女性としては最高位の神仙が3千年に一度実を付ける桃を王に献上し、御代を寿ぐのだ。めでたさ天上破り!のはず。地謡が九皐会、宗家派に地盤がある方々が半分を占め、統一感を欠いたのも要因か。中ノ舞を舞って終曲。
これといった不備はなく、平凡な出来といったところか。

狂言 「八句連歌」
シテ 野村 萬
アド 野村 万之丞

この曲、昨年末万作、萬斎親子で観たばかり。さて、どうなるか。
借金の返済期限を延ばしてくれとたのみに行くシテ、貸主は居留守を使う。その帰り道、借主は現況を嘆くのだが、静かな語りの中にこの人物の過去まで垣間見えるようで、人物の造形が立体的に浮かび上がる。現代に置きかえるならばこの男、知人の保証人になったがその人物が行方不明になり、負債を肩代わりする事態に陥った、そんな事を想起した。橋掛りで満開の桜に見とれ、貸主に歌を残していこうと舞台に戻るまで、萬師の視線の先に本当に花が咲いているようで、思わず虚空に視線をさまよわせてしまった。言葉と所作で観る者の想像力を喚起する、これが能楽の醍醐味であり、巧みな演者により様々な物が現前するかのように錯覚するのはとても楽しい。
その後二人の間で連歌を通して借金の返済をめぐる駆け引きが行われる。ほとんど動かずに言葉のみの応酬。万之丞師、太郎冠者よりこのような主の方が尊大さの悪影響が少ないのでいくらかましか。従兄弟と異なり見所を湧かせようという意図が生々しく露呈しないところはいい。
連歌を楽しんだ貸主、褒美だと言って借用書を渡す。一度は固辞するが「いらないのか」と問われて受取る借主。短い時間に揺れ動く心情が伝わってきた。萬師の芸が光った一番。この方、何をやっても上手いなぁと思う。

能 「盛久」
シテ 浅井 文義
ワキ 宝生 欣哉
ワキツレ(従者) 殿田 謙吉 (輿舁) 大日方 寛、御厨 誠悟
アイ 山下 浩一郎
笛 松田 弘之(森) 小鼓 鵜澤 速雄(大) 大鼓 安福 健雄(高)

元雅作の現在物。シテがワキの土屋三郎に呼びかけるところから始まる珍しい構成。都から鎌倉に護送される盛久、清水寺に参ってから鎌倉への道中を舞台と橋掛りを使って表現。ワキとの問答以外は風景描写とシテのモノローグが続く。浅井師、声が若干こもり気味ではあるが、斬首を待つ咎人としての風情はある。言葉が立ち立ち姿の美しい欣哉師、良さを存分に発揮。直垂を着ていて袴部分の裾を引きずる体であるが、その裾さばきが実にあざやか。装束に余分な皺が寄らない。先の万之丞師と比べるとその違いは明瞭である。
地謡、こちらは銕仙会生抜きの人員構成。力感、統一感とも初番よりも上。地頭の銕之丞師、地謡座にて目を閉じ、下向き加減で身体を前後に揺する様はおなじみであるが、品位には欠ける。何とかならないかとも思うが、どうにもならないのだろう。
刑の執行予定を告げに来た土屋の許しを得て観音経を誦読する盛久。懐の経文を紐解き二人で読誦するのだが、何も書いていないはずの巻物を目で追う二人、本当に読んでいるかのような自然な目の動きだった。明け方、まどろむ盛久は霊夢を見る。目覚めた時、照明は勿論変化しないが朝の光りが差しているかのように感じられた。
由比ガ浜で斬首に処されるはずだったが、観音経の威徳でその刀が折れる。頼友の要請で御前に引き出される盛久。間語りの間に物着するのだが、後見が手際よく装束を着付けて行くのはいつ見ても感心する。浅見真州師は後見としても優秀なのではないだろうか。烏帽子の折れる向きが当然ながらワキと異なる。同じ舞台に異なった折れ方をした烏帽子が並ぶのも珍しい。
クセで霊夢の内容が語られる。頼朝は臨席している態で舞台は進行。巧みな省略技術である。地謡、適度に盛り上がって良かったと思う。
退出しようとして呼び止められ、やはり斬られるのかと緊張が走る。表情を変えずにこの緊張感を表現できるのは凄いと思う。頼朝も同じ夢を見たため、奇特に思い、盃を与え舞を所望。男舞が舞われる。謡が中心の曲なので囃子所はこの男舞くらい。だからこそ笛のアシライの良さが際立つのであるが。松田師の演奏、しつこいようだが、やはり格好いい。安福師、良くも悪くもこの方は気合が表出しない。この種の曲には若干物足りなさを感じる。頼朝と観音の威徳に感謝しつつシテが退場し終曲。
場面展開が多いが不自然を感じさせず、ドラマとして面白い曲。舞台の出来はこちらも可もなく不可もなくといったところか。

観能中、前列斜め前に座っている女性が前に身を乗り出し、頻繁に身体を動かすので視界が遮られ、かなりストレスが溜まった。狂言が終わった後に声をかけようと思ったのだが本人が席を外し、次の曲が始まる直前まで戻ってこなかった。謡がメインで淡々と進行する曲のため声をかけるタイミングが掴めず、また、ここで私が動いて声を出したら自分が迷惑の元凶になってしまうとの思いから、結局なにも言わなかった。宝生能楽堂は列と列の間隔が大きく、勾配がしっかりあるのでこの種の迷惑は被り難いのだが、今回は違った。身を乗り出すのは演能中のおしゃべりと同じように迷惑であり、マナー違反である。

かくして松田弘之師強化週間(?)終了。1週間に3回もその笛の音が聴ける事など、今後はありそうにないので得難い日々であった(週3回公演に出かけるということ自体もうないだろう)。月に2、3回は能楽堂に足を運んでいるにもかかわらず半年以上廻り合わせがなかった事もあったので、非常に嬉しかった。改めてその力量に感嘆したので今度は、師の笛による囃子の全パターン制覇など目指してみようか。無謀な野望だけれど。


2003年03月12日(水) 東京能楽囃子科協議会定式能

東京能楽囃子科協議会定式能 国立能楽堂 PM1:30〜

月曜日に国立能楽堂に行ったのでついでにチケット購入。豪華な出演者なので気にはなっていたのだが、直前まで行けるかどうか解らなかったのだ。
思ったより早く会場に到着してしまい、暫し待つ。列は短くチケット売り場より少し後ろあたり。待っている間に車が近くに止められ、中から見覚えのある人物が。時を置かず観世元伯師が現われ乗車。師匠を迎えに来たらしい。アウディか…。
正面席5列目ほぼ中央という良い席に座る事ができた。入りは6割程度。

舞囃子
「養老」(観世流)
シテ 関根 祥人
笛 寺井 宏明(森) 小鼓 鵜澤 洋太郎(大) 大鼓 柿原 和弘(高) 太鼓 三島 卓(金)

後シテの登場から終曲まで。地謡は地頭以外若手。
祥人師、上半身にかなり力が入っているようなのだが、下半身がそれをしっかり支えている。舞い始める前の膝に置かれた左手の様子が何気にきれいで目を奪われる。気持ちの良いきびきびとした神舞。
三島師、観るのは始めてだと思う。小柄。音はやや重いと感じた。

「忠度」(喜多流)
シテ 塩津 哲生
笛 川本 義男(森) 小鼓 坂田 正博(大) 大鼓 國川 純(高)

後場サシから終局まで。地謡はこちらも地頭以外若手。
地謡が能の時と同じように地謡座に付いている。上掛り二流が目付柱向きに斜めに座るのを見慣れているため新鮮。昨年末に観た金剛流の舞囃子も、思えば地謡は脇正面を向いていたような気がする。下掛りはみなこのように座るのだろうか。
塩津師、舞台の下から磁力で引っ張られているかの如く重心の低いカマエとハコビ。上掛りの役者には見られない、喜多流ならではの魅力がある。仕方話は重厚で迫力十分。腕を切り落とされるところで扇を落すのが痛々しい。観念して念仏を唱えた後討たれる様は、清澄な諦観が漂っているが悲惨さはない。討つ者と討たれる者を一人で演じるのが能の面白いところである。
地謡、統一感に欠ける部分あり。
小鼓、音色があまり良くなかった。

「梅枝」(観世流)
シテ 関根 祥六
笛 寺井 久八郎(森) 小鼓 住駒 昭弘(幸) 大鼓 安福 光雄(高)

楽の前後。地頭は祥人師。
祥六師、全身の力が抜けてただすっと立っている感じ。先程の塩津師が下から上に向かって伸びている風なら、こちらは上から吊るされているよう。
久八郎師の楽は始めてだが、今まで聞いたそれとは随分異なる印象を受けた。濁りの多い音色が頂けない。
 まだ終わっていないのに楽屋から笛の音が漏れ聞こえてきた。不快。

「善界」(宝生流)
シテ 寺井 良雄
笛 藤田 次郎(噌) 小鼓 古賀 裕己(大) 亀井広忠(葛) 太鼓 助川 治(観)

舞働前後。地謡は若手中心。
地がノッて来るところがガラリと気が変わり鮮やか。シテの動きは大きくないのだが重厚。飛び返りはなし。流儀の主張に合わないのか。
先程とは対照的にすっきりとして力強い笛の音で気が晴れるような思い。

異なる流儀を同時に観ると流儀ごとの主張が際立つ。それぞれ見応えがあって楽しめたが、塩津師が一番印象に残った。

狂言「空腕」(和泉流)
シテ 野村 万之丞
アド 野村 萬

主から使いを命じられ夜道を行く太郎冠者。怖がりなので些細な事に驚いてばかり。気になって後を追ってきた主にそうとは気づかず驚いて気絶する。持たされた刀をなくしたまま帰宅。主には勇猛果敢に戦ったと大法螺を吹くが、なくしたはずの刀を見せられ言い逃れできなくなる。
万之丞師、太郎冠者にみえない。妙に偉そうなのだ。裏返り気味の声も気になる。夜道を歩きながら怯える様の臨場感が足りない。途中鼻をすすりだしてかなり苦しそうだった。どうにも耐えられなくなったのか、主に作り話を聞かせるところで「ちょっと待って」「了解」のアドリブが入る。後見座に行ってから戻ってきて「お待たせしました」と再会。こういう場面を見るのは初めて。
作り話を聞かせるところで自分で笑ってしまうところがあった。気になる。全体的にメリハリがない。一方萬師はセリフを言っていないところでもきちんと演技している。怯えまくった太郎冠者が持たせた高価な刀を見えない相手に譲り渡そうとしているところを目撃して呆れるところなど、さり気ないが上手い。
終曲後、後見が舞台に戻ってきて正中あたりを拭いていた。太郎冠者が気絶した際舞台に倒れたのだが、その時に鼻水がたれてしまったらしい。万之丞師は花粉症なのだろうか。辛いのは解るが(私も花粉症なので)事前に対策のしようがあったのではないか。かくて狂言方の後見が舞台を拭く姿を見ながらお調べを聴く事となった。あまり良い光景ではない。拭いた後も跡が光っていた…。

能 「高砂」作物出(宝生流)
シテ 亀井 保雄
シテツレ 亀井 雄二
ワキ 村瀬 純
ワキツレ 村瀬 提(推測)他1名(番組に記載なし)
アイ 野村 与十郎
笛 松田 弘之(森) 小鼓 幸 正昭(清) 大鼓 柿原 崇志(高) 
太鼓 小寺 佐七(観)

脇能は囃子の聴き所満載。松田師で脇能を観た事がないので期待は大きい。
正先に竹柵で囲まれた松の作り物が置かれる。
真ノ次第、真ノ一声と脇能独特の囃子が奏される。大小が骨格ならば笛は彩りを添えて情景を描き出す役割と言えようか。その時々、まさにこれと言えるような適切な位取りの笛、荘重な雰囲気を形成する。脇の村瀬師、やはり下居姿に締りがない。
シテ、ツレの登場。いきなり同吟が不揃い。このまま橋掛りから舞台に入ってきても改善されないまま進行。かなり気になる。
地謡、前列は全員若手。地謡座に着いたのを見るのは初めての人もいる。後列は中堅が固めるが、力感に欠ける。宝生流は今年に入って相次いで重鎮を亡くしているので、若手、中堅には頑張ってもらいたいのだが。
老人が正体を明かして船に乗って去って行くのだが、前後であまり変化なし。神になり損なったか。
与十郎師の間語り、力みがなく淡々としているが聴かせる。能の雰囲気を損なわないアイが当然好ましいわけで、その点彼は優れている。全編祝言性に満ちているのだが、ワキの神職に新造した舟に初乗りして住吉に赴くよう促すところはいかにもめでたく、間語りにも周到な作能術が覗える。
出端で後シテ登場。あまり神気が感じられない。小寺師の掛け声、個人的に好きである。後見していた息子の真佐人師、若干太られたような…。
さて、神舞である。シテがあまり颯爽としていないのでつい笛方に目がいってしまう。アシライの良さに象徴されるように、松田師の能全体を見るバランス感覚は大変優れていて、決して突出する事はない。舞事には舞事に相応しい音なのだ。とにかくカッコイイ。男神に相応しい爽快さと力強さ。圧倒された。この音の前では言葉は無力である。期待してはいたけれど、一曲通してその上を行く演奏。こんな風に予想が裏切られるのはとても嬉しい。
奇しくも今日は森田流の笛で神舞を二度聴く事になったが、同じ流儀とは思えないほど異なっている。
詞章が大変美しく、全体が寿ぎと早春の柔らかな光りに満ちている。梅の花びらを春の雪に例えるところなどうっとりである。私ごときが言うのもおこがましいが、さすが世阿弥。めでたさが横溢したまま終曲。

以前から気になっていたのだが、幸正昭師、髪を何とかなさった方が良いのではないだろうか。人前にでる仕事なのだから清潔感は大切だと思う。あのようにだらしなく伸ばしているのは願掛けでもしているからなのか?


2003年03月10日(月) 第6期能楽三役既成者研修 第1回研修発表会

第6期能楽三役既成者研修 第1回研修発表会 国立能楽堂 PM2:00〜

平成14年から既成者研修に入った3名が参加。それ以外は全て第一線で活躍中の玄人が出勤。そして無料。ちょうど良いリハビリだと出かける。先月はそんな事を考える余裕など全くなかったので、とりあえず良しとしよう。
開場の5分前に会場に到着。既に長蛇の列。入り口前から前庭をぐるりと囲んだ円が3/4周程になっていた。
入場してチケット代わりの番号札をもらう。88番。おお、ゾロ目末広がり。研修生からパンフレットを手渡される。足早にロビーを抜けて見所へ向かう。中正面5列、一番正面席寄りをゲット。正面席はあきらめて、中正面の良い席を選んだ。平日昼間の開催にもかかわらず満席。この顔ぶれを無料で観られるとあらば当然か。
誤って度が合わなくなったメガネを持ってきてしまう。視界がぼやけるがないよりましということで…。

舞囃子「龍田」(宝生流) 
シテ 和久荘太郎
笛 松田 弘之(森) 小鼓 *森 貴史(幸) 大鼓 亀井 広忠(葛) 太鼓 *加藤 洋輝(観)
*が研修生
 神楽の前から終曲まで。
シテ、地謡ともに若手で構成。シテの上半身が硬く、余分な力が入っているように見える。反面下半身は安定感がなく、上半身と下半身が連動していないかのごとく動きに力強さ、滑らかさがない。謡の声は息を十分に吸っていないように感じられる。これは地謡にも言える事。扇を持つ手が小刻みにかなり震えていたので、相当緊張していたのだろう。
小鼓の森さん(まだ玄人ではないので敬称はあえて付けない)、音色があまり良くない。師が住駒昭弘師だからか?などと、大分酷い考えが浮かぶ。音量も不十分。掛け声にも不満が残る。太鼓の加藤さん、粒が左右かなり違いがあり、輪郭がひまひとつはっきりしない。
神楽は笛方の眼目。今更言うまでもないが、松田師はいい。本曲の神楽は巫女が神懸かりするのではなく神が舞うもの。人間が抗う事のできない自然そのものの力のごとく、理性の届かない心の奥底を揺り動かす。ご本人がそういう力の存在を信じていらっしゃるのではないか。そんな気がする。舞事だけでなくアシライも見事。主張があるが、決して邪魔にならない。

舞囃子「玉鬘」(観世流)
シテ 山本 順之
笛 *栗林 祐輔(森) 小鼓 住駒 昭弘(幸) 大鼓 亀井 広忠(葛)

カケリの前から終曲まで。
こちらのシテは実力者。地謡はベテラン、中堅を加え若手中心で構成。
ワキの待ち謡を謡った谷本師、声量はあるし謡そのものは悪くなのだがどうにも覇気がない。山本師、立ちあがった後姿は先程のシテとは対照的に(キャリアが違いすぎるので比べるのは気の毒なのだが)、身体の中心に一本芯が真っ直ぐ通っている。この方の謡の良さには定評があるが、シテの陰鬱な気分が伝わってくる。忌むかのように己の髪に手を伸ばした時、一筋すくいとった髪の流れが目に見えるかのようであった。
小鼓、先程の研修生に比べるとさすがに良い。当然だが。師匠の演奏とすぐに比べられてしまうのは残酷かもしれないが、良い勉強になるだろう。
栗林さん、音色が師の松田師に似ている。力強さ、鋭さはあまりない。何にせよ、松田師が玄人弟子を育てられるのは大変喜ばしい。私は師に後見が付いているのを一度も見た事がない。今は亡き名手田中一次師(私はCDで聴くのみだが)の芸を唯一受け継いでいると言われ、間違いなく素晴らしい笛方であるこの方に、玄人弟子がいないのは残念な事だと常々思っていたのだ。
芸の継承は鎖の輪のようなもので、ひとつひとつ繋がっていかねばならない。途切れたらそこで終わりなのだ。結果はすぐには出ない。気の長い、大変な作業である。

能「善界」(観世流)
シテ 観世 銕之丞
シテツレ 柴田 稔
ワキ 福王 和幸
ワキツレ 山本 順三、福王 知登
アイ 竹山 悠樹
笛 *栗林 祐輔(森) 小鼓 *森 貴史(幸) 大鼓 亀井 広忠(葛) 太鼓 *加藤 洋輝(観)

地頭は山本順之師。
緊張した面持ちで橋掛りを歩いてくる研修生たち。公開の場で能一番を勤めるのは恐らく始めてだろう。後見にはそれぞれの師が付く。視界がはっきりしないので間違っているかもしれないが、太鼓の後見は助川治師であろうか。確信はない。
シテ、紺と茶の縞水衣、淡萌黄の篠懸、白大口は紺の紋入り。銕之丞師の謡、一語一語に力が入っていて、やや鬱陶しく感じられる。わざわざ中国から日本にやって来て僧を魔道に落し入れようとする大天狗なので、許容範囲のうちか。ツレの装束、水衣が紺の絽だったのだが、本曲の季節は冬のはずなので(現行では脱落しているワキの謡からそうと知れるとの事)なんだか違和感を覚える。地謡、クセで銕仙会ならではの盛り上がりを見せるかと思ったが、抑え目。
間語り、語り芸として聴かせるにはまだまだ力が足りない。シテの装束替えのための時間稼ぎの感が拭えず。やはり間語りは難しいものなのだ。竹山師、まだ若いので今後の精進に期待。
研修生、笛は緊張が解けたのか、先程の舞囃子より良い。それでも全体的に平板な印象を拭えないのはアシライと舞事、働キ事等の差が明瞭でない為か。師匠と比べると鋭さ、力強さに欠けるにもかかわらず、アシライがうるさく感じられるのだ。こういう位取りは舞台経験を積んで行く中で会得するしかないので、今の段階では厳しい注文かもしれない。
ワキの和幸師、ツレ以外で観るのは始めて。目にするのは久し振り。大きい。とにかく大きい。角帽子を被っているので余計そう見える。ツレの二人もこの方程ではないが長身。橋掛りの天上が近い。
大ベシで後シテ登場。高速で飛んでいるのをゆったりとした歩みで表現するのだが、風に乗って飛んでいる様がイメージできるのが面白い。一の松で所作があるのだが、ちょうど自分の席と向き合う形になり、大ベシミの面が不気味だった。僧に詰め寄る際の面使いが良く、天狗の気迫が感じられた。一応強気に登場するが、僧の祈りにあっさり負けてしまうのがなんだか哀れである。飛び返り、かなり体重がありそうな方だからか、あまりきれいに決らなかった。足早に橋掛りを進むが、キレがない。銕之丞師の動き、つい「のしのし」と形容したくなってしまうので、こういう素早い足捌きはどちらかというと苦手なのか。
小鼓、太鼓の後見は要所要所に出てきたのだが、笛は一曲通して付いていた。良い師匠である。太鼓は特性上当然としても、小鼓は付いていてあげたほうが良かった気がする。ただ住駒師、ご高齢なためか座っているのが辛そうで、仕方ないのかもしれない。
広忠師、3番全てに参加。お疲れ様でした。

笛の音色の良さが印象的だった。今後の期待大。師匠の域目指してがんばってほしい。。小鼓、太鼓のふたりも勿論そうだ。三人とも既成者研修を終了して、協会員になれる事を願う。研修費用は税金から出ているのだ。しかし、受け皿はあるのだろうか。研修修了者が活躍できる場は少ないのが現状である。そういう業界の事情に幻滅して廃業する人もいるとか。家柄に関係なく、腕の良い人に役が付く、そういう能楽界であってほしいと、見所側の人間は思うのである。

帰る際も研修生3名がお見送り。楽屋からダッシュして来たのだろうか。本人の力だけではどうしようもない事もあるだろうけれど、せっかくこの道を志したのだ。歩き続けていってほしい。


2003年03月02日(日) 第73回 粟谷能の会 

第73回 粟谷能の会 十四世喜多六平太記念能楽堂 PM1:00〜

副作用の余波で2月は空しいまま過ぎてしまった。体力が落ちているのか風邪がなかなか治らない。睡眠のリズムもめちゃくちゃになって、妙な時間帯に眠るようになってしまった。ただ今鋭意調整中。結局直したい症状はそのまま、バイオリズムを乱されただけに終わってしまった。現在漢方薬服用中。少しは効果が出てくると良いのだけれど…。
3月2日は観世会定期能の日でもある。豪華出演者で観たいと思ったのだが、こちらのチケットを既に入手していたので諦める。観たい会が重なるのはとてももったいない気がする。
会場に着くと、菊生師が挨拶をなさっていた。お元気そうで何よりである。
喜多能楽堂は二階席がある。どんな視界になるのかと興味があったので今回は二階席を取得。舞台のほぼ中央、列の一番前となかなかの好条件。バレエ、オペラでは二階席最前列は間違いなく良い席なのだが能の場合は果たしてどうなるのか。背もたれに背を付けると階は完全に隠れて見えない。舞台自体も少し隠れる。最初はなじめなかったが、すぐに気にならなくなった。

能 「芭蕉」 蕉鹿之語
シテ 粟谷 能夫
ワキ 森 常好
アイ 石田 幸雄
笛 一噌 仙幸(噌) 小鼓 宮増 新一郎(観) 大鼓 國川 純(高)

金春禅竹作と伝えられる複雑な構成の曲。中国の故事、説話から題材を取りながらもあくまでモチーフであり、主題は女性として現れる芭蕉の精を通して日本的な仏教観を表現する事にある。新潮社「謡曲集」、岩波書店「謡曲百番」に収録されている曲であれば観る前に必ず一度は読むのだが、今回は三回読み直してしまった。舞台上でどう展開されるのか興味が沸く。
囃子方が橋掛りを歩い登場する際、かなり壁際に近いところを歩いている。二階席ならではの発見。立ち役とは同じ所を歩かないという事だろうか。
ワキ僧登場。着流し。舞台は中国だがあくまで日本的佇まい。大変難しい役だと思われるが、重すぎず軽すぎない。
シテ登場。紺地段織唐衣着流し、面は深井。こちらも難しい役。次第を丁寧に謡って情景、心情ともに調度よい位を作った。シテとワキの問答は淡々と進みながらも互いの主張、情景がしっかり伝わってくる。シテは成仏させてくれと僧に願うのではなく、結縁したいという自発的態度。儚げなようでいて毅然としている。確かにそこに在るのだけれど、質量が感じられないような、そんな微妙な存在感を漂わせたシテの演技は見事。菊生師、友枝昭世師を擁する緻密な地謡がそれを支える。
シテとワキが向き合う時、きちんと斜め直線状に対峙していて驚く。これも二階席ならではの視点。また照明が近いためいつもよりも明るく感じる。シテの面は照明の下に来ると陰翳が濃くなり年経て見え、離れると若々しく見える。刻々と表情を変えるのが面白い。上から見下ろすので微妙な面使いを見るのは不向きだと思った。以前この能楽堂に来た時感じたのだが、目付柱に近い照明が角度が悪いのか、光度が異なるのか、ここだけ目立って明るい。能舞台の照明は均質に照らすべきだと思うので、気になるところ。
間語は流儀、家によって異なるようだが、今回は芭蕉の下に射止めた鹿を隠した故事を語る。下敷きとなった故事、説話は詞章からはほとんど覗えず、間語によってのみ明らかにされる。それだけに長めの語りだが良い緊張感を保って飽きさせない。間語が単なる前場のまとめではなく、重要な意味をもって挿入されており、禅竹の無駄のない構成に感嘆する。石田師、力まずとも明瞭に伝わる言葉が美しい。
観世流小鼓は下に居る時笛方の方を向くが、笛方は若干舞台の奥に座っていて同一直線上にはいない事が解った。これもやはり二階から見なくては気付かない。
後シテ、濃萌黄の大口に同系色の長絹、金糸で縫い込まれた葉の名称は残念ながら不明。植物に関する知識が皆無である事を痛感。鬘帯もやはり同系色。枯れた緑の濃淡でいかにも芭蕉の精といった風情。
詞章に月明かりに照らされた庭の明るさが度々表れるが、月の明るさは月そのものを見た時ではなく、照らされた地面の明るさによって実感する事を思い出させてくれる。今は庭もなく、月明りより明るい照明があちこちに点在する環境で暮らしているため忘れがちであるが、子供の頃の私は確かにそれを体感していた。
仏法により人身となって現われたシテは「人化の姿を御覧ぜよ」のところでその姿を誇示するかの如くワキと対峙する。ワキ僧との問答で、人も草木もみなあるがままの姿が真の姿であるとする緒法実相を語る事により、自らの存在を受け入れたように感じられた。仏教では女性は成仏できないとされ、緒法実相を説くには芭蕉は女性の姿を取る事が必然なのだ。法華経に禅宗の思考が交差し複雑な構成だが、練り上げられた詞章は美しくその事を訴える。クセはシテと地謡が呼応し見応え、聴き応え十分。一方で強さを見せ、また一方でその儚さを嘆く芭蕉の精は、生きる事の喜びと哀しみを象徴している存在であるかのよう。
序ノ舞、笛の音が冴え、月明りの下静かに舞う芭蕉の精の姿を陰翳豊かに描き出す。陶酔に流れる事なく、己の存在を確かめるかの如きある種の無骨さが新鮮に感じられた。舞そのものに酔うというより、思考を誘発させる舞。
その女性も消え、後には破れた芭蕉の葉が残るのみ。結縁した芭蕉の精の満足と、迫り来る冬の訪れを予感させる最後。
2時間以上かかったが、一曲を通して漫然とするところがなく、密度の高い舞台だったと思う。能夫師は知的かつ緻密な役作りをするが、不思議とそれが見所に伝わらない気がする。今回はそれが良い方向に作用して、極めて抽象的な芭蕉の精という存在をベタついた情感抜きで見事に表現した。これまでに観た師の舞台では最高の出来だと思う。
凝った構成で何の予備知識もなしに観るのは辛い曲だと思う。現代は解りやすさだけが徒にもてはやされて、こうした事前の準備を必要とする舞台は無意味だとする意見をよく耳にするが、己の怠慢を正当化しているに過ぎない。自ら対象に近付いてこそ世界は広がるのだ。
見所に銕仙会の事務局長である笠井氏を発見。研究会の頃からの縁で、能夫、明生両師の舞台は足を運んでいるのだろうか。HPで展開されるこの3名の対談は面白い。流儀、立場の異なる人どおしが互いに刺激しあっている姿が見られる。

狂言 「伊文字」(和泉流)
シテ 野村 万作
アド 高野 和憲、深田 博治

婚期を逸した男が召使を伴い清水へ参拝。霊夢を見てある女性に声をかけるが和歌で返答され、太郎冠者は肝心な部分を聞き逃す。二人で関を設けて道行く人に聞き逃した所を尋ねるというかなり無謀かつ無責任な展開。
高野師が主、深田師が太郎冠者なのだが、二人が主従関係にあるとは思えない。友達どおしのように見えてしまうのだ。「太郎冠者」とは何なのか。そういう基本的な理解が欠落しているような気がする。土台がしっかりしていなくては、その上に何も築く事はできない。
万作師、所作が丁寧でハコビが美しい。勝手に作られた関で妙な質問をされ、迷惑がりながらもきちんと答えてやる旅人を演じているのだが、嫌味がなくサラリとしていた。それでいて人物像に奥行きが出ている。若い二人はこういう所をきちんと吸収してもらいたい。
旅人の活躍で見事女性の居所が判明。昔の人は気が長かった。

仕舞 山姥 クセ 粟谷 菊生

菊生師の謡はやはり迫力がある。下居から立ち上がる時も安定していた。地謡、粟谷充雄師の声がはっきり認識でき、明らかに一人はずしている。こういう所が喜多流の弱さだろう。

能 「鉄輪」
シテ 粟谷 菊生
ワキ 宝生 閑
ワキツレ 宝生 欣哉
アイ 野村 万之介
笛 松田 弘之(森) 小鼓 鵜澤 洋太郎(大) 大鼓 亀井 広忠(葛) 太鼓 観世 元伯(観)

松田師、以前も感じたのだが橋掛りから本舞台に入る際、影向の松(もちろん見えない)にきちんと一礼している。今回上から見下ろす形なので、よりはっきり認識できた。見ていて清々しい気持ちになる。続く3名はあまり気にしていないよう。こういうところにも舞台に取り組む意識が表れるものだ。
万之介師、カマエも下居姿も背が曲がり気味で力がない。万作師よりも若いはずなのだが、年長に見えてしまう。以前よりも痩せられたようだが、不調なのだろうか。
次第でシテ登場。松田師の次第は「何か出てくる!」事を予感させてくれるので好きである。シテの謡、怨恨を意識してかじっとりと重いが、あからさま過ぎて興ざめ。ではどうすればよいかと問われるとよく解らない。考えてみるとこの曲、なかなか難しいのかもしれない。面は泥眼。アイと対峙する際は床几は使わず下居。
ワキツレの欣哉師、裃着用にもかかわらず実に滑らかなハコビ。昨年秋の粟谷能の会でも、やはりシテが明生師、ワキが欣哉師、大鼓が広忠師で、その時も感じたのだが、手前にいる欣哉師の顔よりも広忠師のそれの方が大きい…。些細な事だが。
後シテ、面は生成か。額だけが白く残りの部分は赤い。赤地箔は無地ではなく白い模様入り。祭壇に近付き見込む姿は、シテだけに見えている男性と女性を見ている様をよく表現していた。後妻打ちの時、祭壇に供えられた鬘を激しく揺らし、かなり生々しい。しかしシテが本当に憎いのは心変わりした夫なのだ。いよいよこれから復讐という時に晴明が召喚した神々の通力に負けて力を失ってしまう。急に電源が切れたかのように脱力するところは巧み。弱りつつもまた来る事を暗示して終曲。この部分はあまり執心を感じさせないままあっさりとしていた。ここにこそ女の恨みの深さが込められていると思うのだが。
切れ味の良さを期待していたが、不必要に重く感じた。残念。

休憩時間中、歌人の馬場あき子氏を見かけた。小柄できれいな方だった。

今回、ネット上の知人でこの拙文をいつも読んで下さっている方とお目にかかり、お話する事ができた。楽しい時間をありがとうございました。

帰宅するとなんだが熱っぽい。先の見えないまま春。ふと、秋山小兵衛のような生活に憧れてしまう。無理だけど。


こぎつね丸