ふすまのおく
細々、ぼそぼそ書いてます。

2009年06月28日(日)

つきあいを見直しする時期に来ている。少なくとも、私には。

向こうの都合で私の予定を変更してまで会いに行った相手は、
私に向けて愚痴を吐きまくって、すっきりして去っていった。

私がおかしくなる前から、彼女が気に病んでいる事について、
「その事は割り切ったらいいと思うけど」
といい続けてきているけれど、全く聞く耳がない。
その事を気に病んで体調を崩し、かえって周りに迷惑をかけるということが、
まったく彼女にはわからない、それをいくら周りが言っても聞かない。
少なくとも私に多大な迷惑をかけていることに気づかない。
彼女は愚痴の掃き溜めを探している。
彼女の近くにいない今も、私を呼び寄せてまで吐いている。
もう、私ができることは何もないのに。

何もかも持っている(と私には見える)彼女は私に愚痴をはいて、
元気になり、欲しいものを手にしていく。
私は踏み台か。
彼女に悪気がないのがまた腹立たしい。
悪気があったなら、私も全力でつぶせるのに。

彼女と会った最後に、私は
「誰かいい人いたら紹介して」というのがやっとだった。
これからも彼女が愚痴をはき続けるようなら、
「いい人を紹介して」としつこく言い続けることにした。
いい人紹介して、という私の言葉がうっとうしいようなら、
彼女は私から離れるので、私にとっても都合がいい。
いい人紹介して、と言われて本気で考えてくれるようなら、
弱っている私に愚痴を吐いたことを水に流してもいい。



2009年06月12日(金)

人にとっては取るに足らない程度の事かもしれない、
でも私にとっては辛いものだった。

いつか私も、忘れる事ができるだろうか。
大した事のない、でも辛かった事を忘れてしまう事はできるだろうか。
少し時間がたった今でも、思い出しては泣いてしまう。

「辛かったね、でももう大丈夫」と言ってもらえたなら、
どんなにか紛れるか。
自分でそう言えたなら、どんなに楽になるだろうか。

いつ心から笑う事ができるだろうか。
いつ穏やかに生活する事ができるだろうか。



2009年06月07日(日)

今頃知った。今頃わかった。

愚痴を聞きすぎて他人の掃き溜めになってしまう事は、
自分をすり減らす事であること。
人は皆自分が大事で、自分が助かるためなら、
掃き溜めになりそうな人に吐き出して楽になる事。
その人らには決して悪意はない事。
掃き溜めが何かを言いそうになったら、うまく逃げられる事。

私は掃き溜めになり、消耗したけれど、
掃き溜めになることを望んでこうなってしまった面もあるのだ。
人に受け入れられたい、私を認めてもらいたい、
だから、人の苦しみも引き受ける、
それが悪かったのだと、ようやくわかった。

とにかく、自分を一番に大事にしなければならない。
「我慢が美徳」とは今の私にとっては呪いの言葉でしかない。
しなくてもいい我慢をして、しなくてもいい恨みを抱く。
なんだか随分時間と感情を無駄遣いしてしまったような気がする。

そんな事にようやく気づいた後、加藤諦三の「不安のしずめ方」を読んだ。
「小さい頃に愛されなかった」という記述が多いのは、余計なお世話だと思うが、
それ以外の事は、今の私が気づきつつあった事を、わかりやすく文章にしてくれた。

そうやって、ようやくある人にきっぱりと断りを入れる事ができた。
希望を持たせてしまうのは私にも相手にも良くないと思って、
希望を一切持たせる事のない返事を返した。
相手には相手の事情があって私に不利な主張をしているけれど、
私には私の自尊心があって、それをどうしてもすり減らす事はできない。
嫌われてもしょうがないし絶縁状態になってもいいと思って、
必死に断った事について、相手は私の事情をあっさりと理解してくれた。
色々と疲れたが、最善を尽くしたので少しすっきりした。

私は今まで磨り減ってしまった私を取り戻すために生きる。
今のままでは惨めだ。



2009年06月01日(月)

笑っていなさい、と言われたことを思い出した。
あなたが笑っていれば、あなたも周囲も気持ちよく働けるよ、と。
その恨みはわかるけれど、あなたにとっても本当にいい事はないんだよ、と。
言いたいことはわかる、と、あんたが言うな、という気持ちが交差した。

笑えない。心底笑う事はできない。
作り笑いなら余裕だ。でも笑う?
くだらない事にクスッと笑う事はできる。

ありあまる富をたまたま聞いたところ、彼女の曲で初めてしっくりきた。
その歌を聞いて、笑っていなさい、という言葉が、
こういう意味で言ってくれていたのだろう、と思った。

笑えないけれど、なんとかやってみよう。
明日は楽しみにしていたものが二つ届く。


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襖 [MAIL]