つきあいを見直しする時期に来ている。少なくとも、私には。
向こうの都合で私の予定を変更してまで会いに行った相手は、 私に向けて愚痴を吐きまくって、すっきりして去っていった。
私がおかしくなる前から、彼女が気に病んでいる事について、 「その事は割り切ったらいいと思うけど」 といい続けてきているけれど、全く聞く耳がない。 その事を気に病んで体調を崩し、かえって周りに迷惑をかけるということが、 まったく彼女にはわからない、それをいくら周りが言っても聞かない。 少なくとも私に多大な迷惑をかけていることに気づかない。 彼女は愚痴の掃き溜めを探している。 彼女の近くにいない今も、私を呼び寄せてまで吐いている。 もう、私ができることは何もないのに。
何もかも持っている(と私には見える)彼女は私に愚痴をはいて、 元気になり、欲しいものを手にしていく。 私は踏み台か。 彼女に悪気がないのがまた腹立たしい。 悪気があったなら、私も全力でつぶせるのに。
彼女と会った最後に、私は 「誰かいい人いたら紹介して」というのがやっとだった。 これからも彼女が愚痴をはき続けるようなら、 「いい人を紹介して」としつこく言い続けることにした。 いい人紹介して、という私の言葉がうっとうしいようなら、 彼女は私から離れるので、私にとっても都合がいい。 いい人紹介して、と言われて本気で考えてくれるようなら、 弱っている私に愚痴を吐いたことを水に流してもいい。
人にとっては取るに足らない程度の事かもしれない、 でも私にとっては辛いものだった。
いつか私も、忘れる事ができるだろうか。 大した事のない、でも辛かった事を忘れてしまう事はできるだろうか。 少し時間がたった今でも、思い出しては泣いてしまう。
「辛かったね、でももう大丈夫」と言ってもらえたなら、 どんなにか紛れるか。 自分でそう言えたなら、どんなに楽になるだろうか。
いつ心から笑う事ができるだろうか。 いつ穏やかに生活する事ができるだろうか。
今頃知った。今頃わかった。
愚痴を聞きすぎて他人の掃き溜めになってしまう事は、 自分をすり減らす事であること。 人は皆自分が大事で、自分が助かるためなら、 掃き溜めになりそうな人に吐き出して楽になる事。 その人らには決して悪意はない事。 掃き溜めが何かを言いそうになったら、うまく逃げられる事。
私は掃き溜めになり、消耗したけれど、 掃き溜めになることを望んでこうなってしまった面もあるのだ。 人に受け入れられたい、私を認めてもらいたい、 だから、人の苦しみも引き受ける、 それが悪かったのだと、ようやくわかった。
とにかく、自分を一番に大事にしなければならない。 「我慢が美徳」とは今の私にとっては呪いの言葉でしかない。 しなくてもいい我慢をして、しなくてもいい恨みを抱く。 なんだか随分時間と感情を無駄遣いしてしまったような気がする。
そんな事にようやく気づいた後、加藤諦三の「不安のしずめ方」を読んだ。 「小さい頃に愛されなかった」という記述が多いのは、余計なお世話だと思うが、 それ以外の事は、今の私が気づきつつあった事を、わかりやすく文章にしてくれた。
そうやって、ようやくある人にきっぱりと断りを入れる事ができた。 希望を持たせてしまうのは私にも相手にも良くないと思って、 希望を一切持たせる事のない返事を返した。 相手には相手の事情があって私に不利な主張をしているけれど、 私には私の自尊心があって、それをどうしてもすり減らす事はできない。 嫌われてもしょうがないし絶縁状態になってもいいと思って、 必死に断った事について、相手は私の事情をあっさりと理解してくれた。 色々と疲れたが、最善を尽くしたので少しすっきりした。
私は今まで磨り減ってしまった私を取り戻すために生きる。 今のままでは惨めだ。
笑っていなさい、と言われたことを思い出した。 あなたが笑っていれば、あなたも周囲も気持ちよく働けるよ、と。 その恨みはわかるけれど、あなたにとっても本当にいい事はないんだよ、と。 言いたいことはわかる、と、あんたが言うな、という気持ちが交差した。
笑えない。心底笑う事はできない。 作り笑いなら余裕だ。でも笑う? くだらない事にクスッと笑う事はできる。
ありあまる富をたまたま聞いたところ、彼女の曲で初めてしっくりきた。 その歌を聞いて、笑っていなさい、という言葉が、 こういう意味で言ってくれていたのだろう、と思った。
笑えないけれど、なんとかやってみよう。 明日は楽しみにしていたものが二つ届く。
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