もう今年も終わりなのか。今が年の瀬だという気がまったくしない。
自分の醜さが表に出て、それに気づいた。 自分はなぜここまで執着したのか、どうしてこんなに羨んだのか。 どうして人の幸せをそんなにまで羨んで、自分を苦しめるのか。 他人の人生を生きる事は出来ないのに。
私はこれから、恋愛が出来るだろうか。 結婚も出産もしたい、それが将来叶うだろうか。 心の安寧を得たいが、どうしたらいいか。 今は自分の心が外側を向かないが、来年は心を自分の外に向けることができるだろうか。 好きな人に何でもしてあげたいと思える事はできるだろうか。 びっくりするほど魅力が何もない私でも、可愛がってくれる人は現れるだろうか。
恋愛がしたいなあ。
心が荒む。
頭の中は仕事中に言われた言葉で一杯になっている。 どうしたらあんな事を言われないで済んだのか。 どうしたら双方が怒りを覚えることなく相互理解を出来たのだろうか。 なぜあんな暴言を吐かれる必要があったのか。 相手の矛盾を正確に突くにはどうしたらよかったのか。 自分の落ち度はどこだったのか。 これからどう進めていけばよかったのか。 この恨めしい感情をどうやったら開放できるのか。
この休み中、そんな事ばかり考えていた。
会社に対して何も期待せず、対価に見合った労働をして、そのなかでベストを尽くそう。単純な事だが、来年からはもう少し割り切って働こうと強く思った。私生活を犠牲にし、自分が望む結婚や子供を諦めるまでの価値は、この会社にはない。きっと会社側も「そんな事誰も望んでいない、自分で勝手に尽くしただけだ」と考えていると思う。
私は私を大切にしなければならない、当たり前だけどそう思った。
ちょっとどうでもいい事が書いてみたくなった。 そんな言い訳をしなくても、本当は自分の日記だから何を書こうが自分の勝手なんだけど。
車通勤をしていると、必ず会う車が何台かある。 青い車とは押しボタン式の信号までですれ違わないと遅刻だ。 白いワゴンはたまに凄い勢いで右折で突っ込んでくる。 通勤経路に家がある兄さんは煙草を吸うから、寒いけれど窓がいつも半開だ。 シートにレースのカバーがかけてある車の後ろにつけると運転がとろくていらいらする。 最近赤くて小さい車に乗った、むさい兄さんを見かけない。 たった10分弱の事だが、出席を確認しているみたいで結構楽しい。車の持ち主とは面識はないけれど。
そんななか、窓が半開な車と、休みの日に通勤経路と離れた場所ですれ違った。 向こうも私の車を見て気づいたらしくて、おや、という顔をしていた。
私といえば、朝は遅刻寸前で急いでいる割に目は半目で、しかも会社支給のださい服を着て(会社に更衣室はない)、とても慌てて通勤しているので、悪いほうに目立っているのだと思う。 そんな私が普通の格好をして鼻歌交じりに運転していたので、その車の兄さんがびっくりしていたのだと思う。
車に乗っているので、こういうものは出会いのうちにも入らないが、もうちょっと通勤するときはまともな格好でいようと思った。
いまだに引きずっていて、ふと頭をかすめる。
何を言ったらよかったのか。 会ってお別れを言うべきだったのか。 (でも会う交通費を払う気すら湧かなかったという結論に達した) 非を責めればよかったのか。 考えても意味がないことだけど、会っていたらどういう展開になっていただろうか。 その些細で私にとって重大な事を、許すつもりはないが、いつか許せるだろうか。 どうして些細な事なのにこうまで落ち込んでしまうのか。 まだ泣けてしまうけれど、いつか忘れる事ができるだろうか。
この先自分の心の安寧を築く事はできるのか。 大切な誰かが、私の前に現れることはあるのだろうか。 私が大切な誰かを見つけることは出来るのだろうか。
色々な不安が日替わりで訪れる。 どうしたら開放されるのだろうか。
私の場合、何かをするには心の持ち出しがちょっとだけ必要になる。 些細な勇気や、ほんの少しの知恵。そのときに、自分の中から担保を少しだけ出し、努力への糧とするのだが、今はその担保を出せる状態にない。
恋愛がしたいと思うが、いざ誰かを求めようとすると心も体も動かない。 心の中でだけなら浮かれる事はできるけれど、それ以上、何も出来ない。
私がこんなに辛いのに、誰も私に関心が無いなんて、なんて思うことが多いが、そうじゃなくて、私が現実の誰かに関心があまり湧いてこないのが悪い。 出会う人もいない。 出会いたいと思うが、それを実行に移す力が湧いてこない。 私は一人だ。
どうしたら、何かをしたいと熱望できるのか。 どうしたら、何でもしてあげたいという存在と出会えるのか。 自分のしたいことは何か。
わからない。
自分が徐々に変わり始めているのがわかる。 変わっていくから、前の彼とは別れてしまったのかもしれないけれど。
小さい頃の鬱屈から開放されつつある。 小さい頃思う存分構ってもらえなかった事にずっと囚われていたけれど、いろいろな事が許せて許してもらえて、理解できるようになった。 そのことで、小さい頃の私が救われた、と感じるようになった。 いい加減に私を扱った、と思っていた周りの人が、ちゃんと私を育ててくれたことに気づけた。
小さい頃そうやって分からず屋だった私が、大人になれば沢山の事情がわかるように、幼くていろいろな事がうまくいかなくても、誰かしらの愛情を受ければいつか報われる、そう思えるようになった。 生きていて良かった、と、ささやかに思える瞬間が、いつか訪れる。
だから最近の私は「子供を育ててみたい」と思うのかもしれない。 彼氏すらいないけどね。
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