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りょうちんのひとりごと
りょうちん
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2006年10月31日(火)
Vol.669 ハバネロの涙

おはようございます。りょうちんです。

実家の庭で父と母が趣味で作っている家庭菜園が、夏から秋にかけて今年もたくさんの実をつけた。トマトやミツバやシソやトウガラシやミョウガやカキやブドウなど、実った果実は調理しておかずとして食卓に並べられたものや、収穫したそばから俺や弟がつまみ食いしてあっという間にたいらげてしまったものもあったりで、とにかく大豊作に誰もが喜んだ。しかしたくさん採れた数ある家庭菜園の中で、たったひとつだけあまり喜ばれなかった果実がある。ハバネロだ。
世界でいちばん辛いトウガラシと言われているハバネロは、数年前に某スナック菓子に使われて以来そこそこ有名になった。そのハバネロの苗にたわわにぶらさがった果実が、秋が深まるにつれ日に日に赤く色づいてきた。いくら辛いものが好きな父でも、激辛なハバネロなんてほんの数粒あれば十分である。実家だけじゃさばき切れないハバネロの実は、ご近所や店のパートさんたちにも配ったりしたのだが。それでもまだ余るハバネロの実を、結局は天日干しにすることにした。そして俺はハバネロの種を抜くため、実を裂いて指先で種を取り除く作業に取りかかった。
数時間後。忘れた頃に悲劇は起きた。無意識のうちに、指で目を触ってしまったのだ。激痛が走る。いや、痛みというよりもヤケドのような熱さに近い。その瞬間、原因はハバネロだということに気がついた。そういやさっき、ハバネロの実をさんざんいじくったっけ。そのあとちゃんと手洗いはしたはずなのに、激辛エキスはまだ指先に残っていたようだ。それが目に入り、焼けるような激痛に襲われているのだ。さすが、世界一辛いトウガラシである。痛みでどうしようもない俺の目からは涙がとめどなくこぼれたが、いくらタオルで拭ってもなかなか痛みは消えなかった。激痛にもだえ号泣する俺の姿を見て、母は心配しながらも大笑いをしていた。
やがて時間がたつにつれ次第に俺の流したハバネロの涙も止まってはきたのだが、うっかりトイレなんぞに行って大事な部分をうかつに触らなくて良かったのかもしれない。おそるべし、ハバネロ。ココロの中で、強く思った。



2006年10月28日(土)
Vol.668 人生の第2章

おはようございます。りょうちんです。

25歳の誕生日を迎えた朝のことを、俺は今でもはっきり覚えている。見上げればさわやかな青空が広がっていて。降りそそぐひざしがとてもまぶしくて。ひんやりした朝の空気が俺のココロを引き締めてくれて。穏やかな風に揺れるたびにはらはら散りゆく薄紅色の花びらの中、職場へと続く桜並木の緩い坂道を一歩一歩確実に踏みしめながら、俺はひとつの誓いを胸に立てた。今日から俺は、生まれ変わろう!
例えば俺が100歳まで生きるとすると、それまで生きてきた25年間はその4分の1にあたる。日本人の平均寿命から考えて75歳まで生きるとすると、25年間は3分の1だ。つまり25年という年月は「四半世紀」と括られるように、区切りをつけるにはちょうど良い時間の長さなのだ。ならば俺もそれまでの気持ちに区切りをつけて、新しいスタートを切り出すには絶好のタイミングなのではないか。そうだ、俺の人生の第2章は今日からはじめよう。そう誓ったのだ。
振り返ってみれば、それまでの25年間はいろんなことを教えられてきた俺だった。当たり前だが、俺がこの世に存在して何ひとつわからない赤ん坊の時から両親は俺をしつけて育ててくれたし、学校では勉強だけじゃなく社会のルールや厳しさも教えてくれた。家族や恩師や友達やそれ以外のたくさんの人たちに、いつでも俺はいろんなことを教えられてきたのだ。自分から教えて欲しいと頼んだわけでもないのに、恵まれた環境と恵まれた人たちに出会えたおかげで、俺はいろんなことを教えてもらえたのだ。だがこれからは、自分の手でつかみに行こう。受け身でいるだけじゃダメだ、欲しいものは自分で動いて手に入れなきゃ。それまでの恵まれた経験を武器にして自ら立ち上がり動き出すことが、俺が生まれ変わった証になるのだ。
俺は今、34歳。あの誓いはまだ胸に刻んだまま、人生の第2章を夢中で歩いている。つらい時もあるけれど、今のところいたって順調だ。やりたいことは山のように存在して、実際にできることはそのうちのほんのひと握りしかないのだが。可能な限り時間を見つけて、積極的にいろんなことに顔を突っ込んでいる俺である。



2006年10月18日(水)
Vol.667 母のリベンジ

おはようございます。りょうちんです。

母は小さい頃から、ずっと描いていた将来の夢があった。それは歌手になること。歌うのが得意だった母は、物心ついた時からよく人前に出て歌を歌っていたそうだ。結局その夢は叶わなかったのだが、俺が知っている母は、宴会の席なんかでは率先して歌い始めていたし、カラオケ大会に出場して賞品にTVをもらってきたこともあった。それより何より、母はどんな時もすぐに歌い出すのがクセだったので、その歌声を俺は四六時中聴いて育ってきたのだ。息子の俺が言うのもなんだが、本当に母は歌が上手いと思う。病に倒れてからは昔ほど母の歌声も聞かなくなったが、それでもしょっちゅう好きな演歌を口ずさみこぶしの花を咲かせている。
今から約40年前。母がまだ10代半ばだった頃。母は、NHKの「のど自慢」という番組に出場したことがある。誰もが見たことのある、今でも長寿番組として日曜の昼間に放送されているとても平和なあの番組である。若き母は、その時全国放送されるTVに初出演したのだ。めざすのはもちろん合格。友達や両親や大勢の観客が見ている中で自慢の歌声を披露し、たくさん鐘を鳴らしたい願っていた。番組のいちばん最後に歌う順番をあてられた母は、スタッフに背中をドンと押されながら舞台に進んだ。そして母は、想いを込めて精一杯歌い出す。
しかし、幼い頃からいくら人前で歌うことに慣れていたとはいえ、歌手を夢見る若き少女にとって舞台はとても大きく感じたのかもしれない。おまけに生放送という時間の制限もあって、母の歌声はわずか2フレーズだけで判定がくだされた。鐘の数は、2つ。「悔しかったなぁ。緊張しちゃったのは確かだけど、サビまで歌えればたくさん鐘を鳴らせたと思うのに…」と、母は常々言っていた。
今度の日曜、隣の市で「のど自慢」が公開放送される。実は俺、その前日におこなわれる「のど自慢」の予選会に出場することになった。本選に出場できるかどうかさえまだわからないのだが、俺もあの頃の母のように、舞台で歌いたくさんの鐘を鳴らしたいと夢見ている。母のリベンジが、俺にできるのだろうか?



2006年10月03日(火)
Vol.666 残しておきたいコトバたち

おはようございます。りょうちんです。

「おぼすなんわきにあるへこったみのぼっかんとこによ、かしゃっぱがしっかりふっちゃってあんでん。そこにおんばくとかまんちょろをいっしょくたにくっかいたいっかいくちゃめがいただよ。おっかなくなってそんままふっちゃりばすけにしてけってきちゃったけど、あんとんあっしねだろか?」
俺が実家に帰って父や母や弟たちと話すコトバと、普段相方や仕事で話すコトバとでは、大きく違いがあるということは自分でもよく自覚している。千葉には方言がないと思っている人も多いようだが、そんなことはない。違う土地の人が聞いたら何を言ってるのかまったく理解できないくらいの訛りが、確かに存在するのだ。
幼い頃から俺を育ててくれた父も母も祖母も、俺のいちばん近くにいる家族はみんな地元で育ってきた人だったから、昔から方言のある会話が俺には日常的だった。だから、つい最近までそれが標準語だと思って使っていたのに実は方言だったなんてコトバもある。例えば「おっかく」。標準語では「折る」の意味になる。「箸がおっかけた」なんて平気で使ってたのだが、そんな方言を聞いて「箸が追いかけてくるのかと思ったよ!」なんて言われてしまった。
それでも最近は他県から越して来た人が急増したりTVなどいろんなメディアが普及したせいで、方言を知らない人もたくさん増えた。あれだけ今まで使ってきた方言なのに、使わないでいると俺も忘れてしまいそうになることもある。でも、実家に帰って近所のご老人たちが完全なる訛りで話しているのを聞いたりすると、なんだかほっとする自分がいる。急速に消えつつある訛りだけれど、俺にとってこの方言は大切に残しておきたいコトバたちなのだ。
ちなみに冒頭で記した方言は、「神社の横にある窪地の切り株のところに、落ち葉がたくさん捨ててあるでしょう。そこにカエルとトカゲを一緒にくわえ込んだ大きなマムシがいたんだよ。怖くなってそのままほったらかしにして帰ってきちゃったけど、なんともなかったのだろうか?」の意。