LORANの日記
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台風一過で久しぶりの青空です。 でも、とても暑い日ですね。 海は昨日までとは違いますが、今朝も大波が打ち寄せていました。 漂流物が波打ち際から50mも内陸へ打ち上げられていました。 海岸の形が変わってしまい、波の巨大なパワーを見せ付けられました。
台風が接近して海は大荒れです。 海鳴りが「ゴーゴー」と響き渡っています。
愛は優しくすべてを認め受け入れてくれる。 傷ついたこころを抱きしめ癒してくれる。
そんな愛のイメージを誰もが持っています。 仏教の観音様や聖母マリアにそのイメージを持つ人は多いでしょう。
確かに傷つき嘆いているときには癒しが必要です。 失ったものが大きく、傷が深いほど回復までには時間がかかります。
お釈迦様を訪ねてきた女が亡くなったばかりの子供を抱いていました。 子供を生き返らせてくれるように頼みました。お釈迦様はどの家にもある香辛料の からしの種をもらってくるように言いました。今まで死人を出したことのない家から。 女は亡くなった子供を抱きながら、必死で家を回りました。しかし、どの家も死人を出していて、女に同情しました。それで女は死ぬことは当たり前であることを理解しました。
傷が癒えてきたら新しい出発が始まります。 いつまで嘆き悲しんでいても仕方がありません。
そこで誰かが背中を押してやらなければなりません。 「さあ、もうこれ以上嘆いていてもすべてが戻るわけではない。出発しよう。」
これを言うのは本来は男親の仕事です。母親が代わってすることもあります。 男親が事業で失敗したようなときには「健康なら大丈夫よ。」と。
いつまでも前に進めない人には、この役割をしてくれる人がいないのでしょう。
心の病は対人関係の病です。精神科医で画家の吉田脩二さんが言っています。
人は生まれてから成長を続けますが、伴走者がいます。 幼少期にはお母さんが一緒に走ってくれます。 次にはお父さんが、お母さんからバトンを引き継いで一緒に走ってくれます。 マラソンの折り返し地点からの後半は思春期と呼ばれ、両親から離れて仲間・友人と一緒に走ります。
高校二年生頃、ほとんどの人がこの時期になるそうです。 性的にも発達し異性への関心も強くなりますが、仲間内でそんな話ができるのはごく自然の成り行きです。町には雑誌やビデオが氾濫しています。
誰からも孤立して話もできない状態でいると、今までの自分と性的に発達してきた自分が内部で闘争することになります。 今までの自分の性的なことに関心を持つことへの嫌悪感や否定が、性的に発達して異性を求める自分と闘争するからです。
昔なら、先輩や早熟な友人が一笑に付して異性を紹介してくれたかも知れません。 現在の孤立した人間関係が多い社会では、それを打開することができないこともあります。
幻覚や幻聴で自分を誰かが批判したり馬鹿にして笑っていると言い出すこともありますが、それは自分はそうされても仕方がないのだと自分で責めている表れでもあります。
学生なら仲間が大切です。一緒に走ってくれる仲間です。昔、付き合っていた仲間たちともう一度関係をもてたらいいですね。もちろん、新しい仲間ができればなおいいですね。
参考図書:「人はなぜ心を病むか」思春期外来の診察室から 吉田脩二著 高文研
「あなたはだれ?」と尋ねられたら、あなたは名前を言うでしょうね。 その説明のために、あなたの環境を言うでしょうね。 住所や勤務先、職業、親の名前などです。でも、それはあなた本人ではありません。
「私は一体だれでしょう?」 名前は親やだれかがつけてくれたものですから、私自身ではありません。 それなら、「この私はだれ?」
「私はわたし。」これが正しいのです。
生まれたばかりの赤ちゃんの時から今までの自分が全部自分です。 無邪気な自分、怒っている自分、泣いている自分、楽しい自分、落ち込んでいる自分、傲慢な自分、残酷な自分、慈悲深い自分・・・。全部自分です。
その中のどれが本当の自分でしょうか? 感情をすべて排除すれば、自分の本質がわかります。
すべての感情を排除したあとに残る自分を探してみましょう。
それがわかったとき、きっとこの質問に答えられるでしょう。
pariさんのメルマガでこの本を知り、読みました。
1920年に刊行された本ですが、その輝きは少しも失われていません。 いや、80年以上を経て一層輝きに満ちているといえます。
サモアの酋長・ツイアビの演説集で、130余ページの小さな本です。 第1次大戦の1915年、ツイアビはヨーロッパの先進国を旅行しました。
純粋でたぐいまれな、透徹した感性の保有者だったツイアビは、パパラギ=白人の社会の虚像と実像をはっきりと見分けていました。
サモアの先祖へ正しい神、愛に満ちた神と言って教えた先輩(白人)たちが、国を挙げて武器を持って戦っている状況を見て、心の中に神がいないことを見抜きます。
パパラギが信じている神は愛ではなく、お金であると喝破しています。 お金はパパラギを病気にし、彼らはお金にとり憑かれている。
(以下本文より) 見渡してごらん。すべては大いなる物に満ち溢れているではないか。 パパラギは行く先々で大いなる心が作ったものを壊してしまうから、自分が殺したものをもう一度自分の力で生き返らせようとするのだ。たくさんのものをつくるから、まるで自分自身が大いなる心ででもあるかのように思い込みながら。
パパラギは貧しく、その国は惨めだから、馬鹿が枯葉を集めて自分の小屋に詰め込むように、物をつかんで集め続ける。だがそのために、私たちを妬み、私たちが彼らと同じように貧しくなればいいと願っている。
物がたくさんなければ暮らしていけないのは、貧しいからだ。大いなる心によって創られたものが乏しいからだ。パパラギは貧しい。だから物に憑かれている。 物なしではもう生きていけない。
どのパパラギも時間の恐怖にとり憑かれている。何歳かということを知っているという計算と詮索には大変な害がある。もし、もうたくさんの月が終わっていると、その人はいう。 「じゃあ、私は間もなく死ぬに違いない。」するともうどんな喜びも消え、彼は間もなく本当に死んでしまう。
ヤシは決してだれのものでもない。ヤシは大地から私たちに向かって差し伸べたもうた神の手だ。神はたくさんの手を持っておられる。どの木も、どの花も、どの草も、海も、空も、空の雲も、すべてこれらは神の手である。
私たちの言葉に「ラウ」というのがある。「私の」という意味であり、同様に「おまえの」という意味でもある。二つはほとんど一つであり、同じ意味である。 パパラギは「私の」と「おまえの」以上に違いの大きな言葉はない。
パパラギは神の財産を、神から永遠に譲り受けたという権利を、まるで自分が手に入れているかのように見せかけている。すべてが本当に自分のものになったかのように。恥ずかしげもなく、神のものを盗んでいる。みんながそうしているし、気にも止めていないのだ。
パパラギはこう言って神を否定する。 「みんな、おれのものだ。」
新聞、映画館も彼の目には奇異なものとしか写りませんでした。 すべての人が同じ物を見て、同じ考えをすることに危機感を覚えています。 彼がテレビを見たら、その影響の大きさに驚くでしょう。
私たちが自分たちの世界だけに固まり、同じ価値観だけになることはまさに気違い沙汰と言うことでしょう。
参考図書:パパラギ・はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集 立風書房 絵本・パパラギ (以下同じ)
6月8日、太陽と金星と地球が一直線上へ並びました。 金星と地球の軌道が一致するのは105.5年に一度だそうです。 次回は2012年6月6日、その次は2117年12月11日ということです。
占星術では金星が太陽面を通過することをトランジットといい、生涯で最も重要な 出来事と考えています。
ある占星術のサイトにはこのように書いてありました。
金星は天秤座と牡牛座を管理しています。いっぽう太陽は獅子座を管理します。 このイベントが起こるのは双子座です。 しかし影響を受けるのは、これらの星座に限ったことではありません。 今回、すべての人々がそれぞれ違った形で、この幸運な星回りから恩恵を受けることでしょう。
asahi com. 太陽面を横断する金星(中央左の小さな点です。)
「神様との対話」へこのことを書きました。
生まれたばかりの赤ちゃんを見て、親になった喜びとこの子を幸せにしなければ ならない責任を感じたのはわたしだけではないでしょう。
親には家族の生活を守るという義務があります。 一生懸命働き、生活を安定させたいと努力します。
その努力は生活の安定のため手段なのですが、いつの間にか生活の安定が目的になってしまいます。
親は生活の安定のために努力しているのだから、子どもは学校へ行って勉強していい成績をとることが目的なのだ。
これでは家族が幸せになるという目的がなくなっています。 生活も勉強も家族が幸せになるための方法、手段にすぎないのです。
この心得違いから、家庭は崩壊し、学校も崩壊しています。 いや、社会が崩壊しています。
もう一度、原点へ帰ってみましょう。
赤ちゃんが生まれたとき、その子の顔を見て、なにを誓ったのでしょうか? その誓いを思い出し、守ることがすべてを正常へ戻すことでしょう。
村田信一さんは1963年(昭和38)生まれの戦場カメラマンです。 村上龍さんとの対談を本で読みました。
戦争とそこに生きる人々の姿をリアルにとらえることを念頭に、イスラーム世界や国連活動をも視野に入れて撮影を続けている。 湾岸、レバノン、アルジェリア、ソマリア、ボスニア、チェチェン、ザイールやコソボを4回取材した。
そう説明がありました。 彼は革命や改革に立ち上がる人々に共感を覚えて、世界中を歩いたそうです。 日本のような先進国では、安定していることで人々は安心して生活しています。
戦場になっている中で生活する人々は、明日どころか今日の命の保障もありません。 そんな状態で人々はどう考え生きているかに興味があります。
サラエボでは敵に包囲されて、何千発もの砲弾が打ち込まれました。 その中で市民はディスコへ出かけたりしていたそうです。 それは本当に生き生きしたものでした、と。
戦場にいる人々はすべてにおいて、一生懸命生きています。 次の瞬間に死があるからこそ、常に本音で生きています。 彼にはそれが過ごしやすかったそうです。
日本人のほうがよほど自分を隠して生きているような気がします。 他人には絶対本当の自分を明かさない、と言っています。 安定した社会では、真に自分に忠実に生きることは難しいのでしょう。
学徒動員で戦場へ行った大学生たちの遺稿集「きけ わだつみのこえ」を開くと、魂の純粋な叫びが伝わってきて涙なしでは読めません。
戦争は私も大嫌いです。 しかし、極限へ置かれたとき、人はすべての雑念が消えて、一種の恍惚感にひたれるのでしょう。大震災などのときに、みんなが協調しあうのも同じです。
「今を生きる」を実践できるチャンスであることを思うと、学びの機会としては決して悪くはないかも知れません。 彼らの経験を自分の経験として学べたら、犠牲を無駄にしないことになります。
参考図書: 「最前線」 村上 龍著 ラインブックス
「神様との対話」へ書きましたが、自分を無力化している人が多くいます。
無力化とは、自分への評価が低いことに原因があります。
親からいつも叱られたり否定されたりしていると、いつの間にか言われたことを信じてしまいます。
自分が認められず、受け入れられない理由が、自分のせいだと信じてしまいます。 愛されないのは自分のせいだと信じてしまいます。
その結果、自分は愛される価値がない、受け入れてもらえる資格がないと信じてしまいます。
恋愛をしても、途中で自ら身を引いてしまったりすることもあります。 愛される資格がないと信じているからです。
なにかを成就させようとしても、「お前になんかできるはずがない」と言われて育っていますから、途中で成就するかどうかに疑問を持ちやめてしまったりします。
否定的な思考や感情は、エネルギーを停滞させます。
体温や血圧は低くなります。 血流がよくないので手足が冷たく、内臓も活発に動きません。 寝起きが悪くだるいので、積極的に活動できません。
改善するには否定的な思考や感情を消す必要があります。
朝日を浴びることはとても大きな効果があります。遅くてもAM10時までです。 感謝のことばを口に出して唱えることも効果があります。 「ありがとう」と1日中言うことでもいいのです。
どんな小さなことでもできたことで、自分を誉めてあげると効果があります。 自分が少しづつ自信を回復していきます。
私たちは神の創造物です。(特定の宗教とは無関係です。) 自分自身の人生を創造する能力を、生まれながらに持っています。 それをだれも否定することはできません。
先日読んだ記事をコピーしました。
ベトナムからカンボジア、ボスニア、パレスチナ、そしてイラク。戦場の取材を30年以上も重ねた橋田信介さんは、01年の9・11の直後『戦場特派員』(実業之日本社)に、こう書いた。「ある時はこわごわと、ある時はやけくそで戦場を走った」。常に頭にあったのは、なぜ戦争が起きるのかとの疑問だった。 そして、結論にたどり着く。戦争は、一部の軍国主義者だけで起こせるものではなく、多数の国民の了解なしにも成り立たない。「戦争を擁立するのは、われわれの社会の中にしぶとく生きている『得体の知れない何か』である」。
先月末、フリージャーナリストの橋田さんは仲間と二人、イラクで殺害されました。
私はいつも疑問でした。 ヒットラーがユダヤ人の大虐殺をしたといいますが、彼一人でそれが可能でしょうか? 500〜650万人もの人を、一人の男が殺すことができるでしょうか?
ハンス=ユルゲン・ペライ著「過去への扉をあけろ」(佑学社)は、田舎の一地方で40年以上前のナチス協力者の調査を中学生がして発表するという内容でした。
過去に犯したことを人びとは知っていながら、それに触れないできました。 それは、いまの日本でも同じことです。
しかし、ドイツでは執拗に責任を追及し、発表してきました。 同じ間違いを繰り返さないために。
私たちは、広島の原爆ドーム前の慰霊碑の言葉を忘れてはいけません。
安らかに 眠ってください 過ちは 繰り返しませぬから
6月になりました。 5月初めの連休頃に競って植えられた稲の苗が、随分大きく成長しました。 まだ一月も経っていないのに、自然の大きな力を感じます。
蛙の声は日中は聞こえませんが、夜になるとやかましいほどの大きな合唱になります。 蛙の声を騒音と聞くか、季節の風物詩として楽しむかは個人の勝手とは言え、 蛙に残された聖地を守りたいと思うのは私一人ではないでしょう。
田舎暮らしとは、自然環境の中に間借りをして暮らさせていただくことでしょう。
都会暮らしとは、人間が作った環境の中で自分を適合させて暮らすことでしょう。
自然の一部である人間にとって、田舎は不便でも快適な環境です。
都会は便利ですが、自然の中で生きなければならない人間にとって過酷な環境です。
都会には情報が氾濫しています。
テレビや新聞、雑誌などのマスコミ情報は、刺激であっても生存に必須条件ではありません。
情報が氾濫すればするほど、自分を確認できなくなります。 不安が増大し、ストレスが溜まります。 ストレスから逃れるために、さらに刺激を求めます。 そして、なにが自分に必要かも判らなくなります。 自分が何者かも判らなくなります。
この状態が社会にも学校にも蔓延しています。 社会も学校も崩壊しています。
テレビを毎週消して見ない日を家庭で決めて実行しなければなりません。
核兵器が人類の最終兵器であることは間違いないでしょう。 万一、使用すれば人類の滅亡になる可能性があります。 それでも、核兵器を保有し、開発を続けている国があります。
世界をリードすべき、国連の常任理事国(アメリカ、旧ソ連、フランス、イギリス、中国)は核兵器の占有を主張しています。
とは言え、イスラエル、インド、パキスタンが核実験をして保有国の仲間入りしています。 自国の安全保障のためという理由で、更に保有国は増加するでしょう。
核兵器の保有の現状を見ると、過ちが起きない方が不思議に思われます。
人類の叡智とは、滅亡の危険がある核兵器を人類の総意として廃止することです。
それができなければ、滅亡の危険の中に生きるほかはありません。
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