non-fiction.



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halu



2008年12月28日(日)
■怖さを紛らわすために。

怖かった。
その怖さを紛らわすために、
切っていた。
夜、
ひとりの部屋。
壁のすぐ向こうには家族がいる。
けれど、
怖かった。
切った。
痛みはほとんど感じなかった。
血が出た。
ティッシュでぬぐえばすぐに止まってしまう程度の、
ほんのささやかな傷だった。
たまに、
いつもよりほんの少しだけ、深く切った。
血がたくさんでた。いつもよりかは。
でもそのころは、
それでもまだまだ傷も浅くて、
出血量なんてたかが知れていたのに。
怖かった。
本末転倒。
それでも、
ひとりでぼんやり考え事をしているよりかは、
怖くなかった。

学校で、
先生に怒られることがあった。
自分が悪いとわかっていて、
怒られることは仕方がないとわかっていた。
呼び出される前、
トイレで切った。
そのころ、
私は常に100円均一のリストバントをつけていて、
まっしろだったそれの内側は、
いつも乾いた血と生々しい血でまだらだった。
切って、
それから職員室に行った。
別に、だから怒られる内容が変わるわけでもなく、
何が変わるわけではなかった。
でも私は切らずにはいられなかった。
度胸をつけるんだ、
当時の私は、
そのときの行為をそんなふうに解釈した。

度胸をつける、
と思っていたのはそのときだけだったけれど、
私は「切る」という行為を、
いつもいつも、
恐怖を緩和させるために使っていた。
切りすぎて血がたくさん出れば、
それはそれで怖かったけれど、
切る痛みとたかが知れた出血の恐怖のほうが、
はるかに優しかった。

あのころの私は、
切らないと生きていけなかった。
切ることでしか、
怖さを紛らわすことが出来なくて、
紛らわせないと、
怖さに押しつぶされてしまいそうで。
死んでしまいそうで。

その結果が、
今も、たくさん、たくさん。
私の左腕には残っている。
たくさんたくさん切ったけれど、
結局、
怖いことは何一つなくならなかった。
緩和された怖いことは、
時間を置いてすぐに戻ってきた。
つまらないいたちごっこを、
10代の私は毎日必死に繰り返していた。

2008年12月27日(土)
■「自殺してそうですよね」

高校のとき、後輩に言われた。
似たようなことを、同級生にも言われた。
そのころにはもう私は壊れたあとだったけれど、
学校では極力普通にしていた。
その同級生も後輩も、
私の「こと」は知らないはずだった。

だけど、
言われた。

私は何処にも根を張らない。
というより、
根の張り方がわからない。
大学に友人は居ない。
本当に、誰とも話さない。
高校でも、
新しい友人をつくろうとはしなかった。
中高一貫校だったから、
だいたいが、中学のころの繋がりをそのまんま。
それでなんとかなってしまった。
だから、
大学2年からはじめた飲食店のバイトは、
本当に努力をした。
いろんな子に話しかけて、
仲良くなろうとした。
根を張ろうとした。
結果、張れたかもしれない。けれど、それもやはり心もとない。
それでもやはりどこかギクシャクしていて、
それは店全体にもいえると思う。
長く働いて、
いろんなことがあった。
病巣としかいいようがない。
いろんなゆがみがあって、
その中心に、私自身が居て。
それはまた、別の話だけれど。

存在感が薄いのかもしれない。
居るのか居ないのか、
わからないような存在なのだろう。
死にたいとしか、
思えずに生きてきたから。

ぼんやりしているのかな、
めんどくさそうにみえるのかな、
常に疲れてるって、いわれたことはある。
ものすごい好調という日が、
年に数回しかないから、かもしれない。
声も低いし、
だいたい、顔色も良くない。
常に貧血っぽいので。
でも、別に貧血だと診断されたことはありませんが。

私は死んでいない。
死にたかったけど死ねなかった。
それに何かしらの意味があったのかどうか、
そのこたえは、未だにわからないまんま。
たぶんずっと、
わからないんだと思う。

2008年12月21日(日)
■遊び。

性教育を受ける前。
子どもはどうやったら出来るのか、
とか、
生理で躰がどうなるか、
とか、
セックスのやり方とか。
そういうのを、
まだまったく知らなかったころ。
兄が「遊び」を提案してきた。

読んでいたまんがに、
「ドキュメント○○」みたいなのがあって、
要は、
ドキュメンタリー的なことが、したかったんだと思う。

兄はその対象を、
私の性器に向けた。
暗くした子ども部屋で、
顔を隠して、
足を開いて、
どんな顔で、
兄が私のそれを見ていたのか、
触っていたのかは知らない。
気持ちいいとか悪いとか、
そういうのはまったくなくて、
何にも感じなかった。
ただ兄は、この遊びを気に入ったようだった。

私は、この遊びが、
「いけないこと」だと、
なんとなくわかっていた。

覚えているのは、
夏の日。
子ども部屋ではなく、
明るい部屋で。
兄か弟の学習机の上で、
やっぱり私は顔を隠して、
足を開いて。兄は私のそれを弄った。
「50円くれたら声も出すよ」
私はそんなことを言った。
「いけないこと」をしている自分に、
高揚感を覚えていた。

兄が驚いた声を出して、言った。
「なんかぬるぬるする」
たぶんそれが、
濡れるっていうことだったんだろうけど、
そのときの私は、
それが酷く奇妙で、気持ち悪く思えた。
快楽なんてまったくなくて、
ただの躰の反応に過ぎなかったのだけど。

そのあとも、
兄は何度か「遊び」を提案したけれど、
私は拒否した。

「いけないこと」への背徳にまみれた高揚感は、
いつの間にか嫌悪感に摩り替わっていって。

「遊び」をしなくなって、
いつしか、兄も提案しなくなって。
私と兄が覚えているだけになった。
そんな話は、もはやしないけれど。

この「遊び」のことは、誰にも言えない。
今まで誰にも言ったことがない。
子どもの好奇心というには、
酷く、酷く生々しい。
記憶。

2008年12月20日(土)
■嘘。

みんなが嘘を言う。
「そばにいる」
なんて、
いちばん聞きたくない嘘を言う。
私がいちばん欲しいことばを言う。
残酷だ。
どうして、
どうして。

結果は、
すべてが嘘だ。
一緒になんか居てくれない。
そばになんて居てくれない。
なのにどうしてそんなことをいうの?
どうして期待させるの?
どうして喜んでしまうの?

愚かだ。

かつて愛したあの人が、
今の私を取り巻くことばすら変えてゆく。
痛みは今も、
じわじわ残り続けて、
私の感情を侵食する。


おいていかないで。
そばにいて。

おいていかないよ。
そばにいるよ。

「君はひとりじゃない」


だったら、
どうしていなくなったんですか?
嘘をついて、
体のいいことを言って。

記憶は消えない。
刻み付けられて、
痕は醜い。

2008年12月19日(金)
■きっかけのひとこと。

私はあまり家にいつかない子だった。
というより、
兄があんまりにも家に居る人で、
母親がそれを当たり前のように感じていたせいもある。
高校2年にあがるまで、
私は学校が好きだった。
部活をしていたのもあって、
平日は下校時刻ぎりぎりまで学校に残っていた。
母親は、それが気に入らなかったのだと思う。

高校1年の冬だったか、それくらいのころ。
私は母親にいわれた。

「そんなに家が嫌なら帰ってこなくていいよ」

はじめはびっくりしたんだと思う。
私は確かに家にはあまりいなかったけれど、
それでも休日はほぼ家にいたし、
決して家が嫌なわけではなかったから。
そのあと、
「嫌だと思われてるんなら嫌になるよ」
私は家が嫌いになった。
そんなこという母親も、
家に居る家族も嫌いになった。
嫌われているものを、好きでいることは出来なかった。
高校を出たら家を出る。
それが目標になった。

2008年12月18日(木)
■母親。<2>

母親が死ぬ夢をみた。
それは、今年の春の話。
だから、私はもう22歳になっていて。
大人になっていて。
帰省して、
実家から一人暮らしの家に戻る日の夢だった。
母親が危篤だという情報だけが私のなかにあって、
病室を探して走り回った。
怖かった。怖くて、仕方がなかった。
いくつも病室を回って、
最後に母親のいる病室にたどり着いた。
私は枕元で何度も呼んだ。「おかあさん」て。

目が覚めるとやっぱり怖くて、
ベッドを抜け出して、
母親の眠る部屋に行った。
生きている母親を確認して、
そしてそのまま、母親の隣にもぐりこんで眠った。
その日は帰りの新幹線のなかまでその感情を引きずって、
しばらく涙が止まらなかった。

2008年12月17日(水)
■母親。<1>

私にとってのすべては、
「母親」だった。
だった、というか、それは今もそうなんだろう。
と、思う。
私のすべては、母親を真ん中において、ある。

相対的に見て、
母親との記憶がほとんどで、
父親との記憶は少ない。
本当に小さなころから、
怒られるのも褒められるのも、
ほとんどが母親だった。

ときどき、私は母親を泣かせた。
私があんまりにも駄目な子だったせいもあるし、
反抗したことも多い。

私は幼少のころ、
本当に病弱な子だった。
ほんの数十年昔だったら、
多分私は10歳まで生きていないと思う。
熱を出すことも多かったし、
怪我も多かった。
女の子は丈夫なんていうけれど、
兄弟のなかで、
私がいちばん弱かった。

病院に連れて行ってくれるのは母親だった。
看病してくれるのも、母親だった。
私を守ってくれるのは、誰でもない、母親だった。

「お母さん子」でした、というには、
あまりにも、その存在は大きすぎて。

いつしか、
母親が、
私のすべてになっていった。
いつしか、
じゃない。
はじめから。
生まれてからずっと守られて、
母親が居ることが、
私のすべてになった。

2008年12月15日(月)
■はじめての日。

小学校高学年のころ、
はじめて手首を切った。

切った、
とは言っても、
カッターでほんの少し、
皮膚を傷つけたに過ぎない。
左手首の動脈。
血はぷくりと小さく球になっただけで、
すぐ止まった。

それは、
興味と好奇心と憧れだった。

好きだったまんがの主人公が、
手首を切るシーンがあった。
その表情に惹かれた。

切ったらどうなるのかな、
て、
思った。
私の手首からも、
あのシーンのように血は流れるのだろうか。

切る前に、
自分の机で、
何度か切る練習をした。
刃を立てて、
力をこめて、引く。
机の角は力強く切って、
深い傷がついたけれど、
自分の手首に、
同じだけの力をこめることは出来なかった。

2008年12月14日(日)
■子ども部屋。

小学校6年間、
私は社宅の一室を、兄とふたりで使っていた。
6畳ほどの畳の部屋に、
学習机をふたつと、
私が3歳から習っていた、
アップアライトのピアノが置いてあった。

引き戸を閉めると、
そこは子どもの世界だった。
兄と弟と、
今思えば、
変な遊びをたくさんした。

ヒーターで10円玉を熱して、
手の甲に置いてみたり、
部屋を暗くしてごそごそしたり。
おおよそ、
子どもらしい遊びではなかった気がする。
懲罰的なものが、多かった気がする。
子どもらしい、無邪気さで、それらは許容されていた。

子ども部屋に、
必要なとき以外、
両親は居なかった。

中学校にあがって、
その部屋が丸々私ひとりに与えられるまで、
その、
一種守られた空間は、
妙な空気を囲って、そこに在った。

2008年12月13日(土)
■父親。

父親は、よくわからない人だった。
機嫌がいいときは、
とても穏やかで優しいけれど、
不意に怒り出して、
ぼこぼこに殴られる。
兄弟3人とも、
父親に殴られたことがある。
同じ事をしても、
怒られるときとそうじゃないときがある。
だから、
避けようがない。

父親は怖かった。
殴られる回数はそんなに多くなかったけれど、
怒鳴られると、
反射的に涙がこぼれた。

物にあたって、壊れる音が大嫌いだった。
たまにする母親との口論も、
大嫌いだった。
私には無関係に兄弟が殴られている、
その音も、大嫌いだった。
怒ってわめく声なんか、聞きたくなかった。

父親とちゃんと話をするようになったのは、
高校を出てからのほうが断然多い。
子どものころの、
父親との記憶は少ない。

家族旅行をしない家だった。
というより、
ほとんど家族で団体行動をしない家だった。
家族旅行にいったのは、
小学校低学年のときが、
確か、最初で、最後。
友達が、家族で旅行に行く・キャンプに行く、
といっているのを、
羨ましいような、珍しいような、
自分とは無関係のものとして聞いていた。

父親はちゃんと働いてくれる。
高校を卒業してすぐ働き出した、
技術系の叩き上げで、
大学なんていかなくてもいいといったけれど、
行かせてくれた。

私が精神病院に通院を始めたころ、
母親と同様に、おそらくは父親も戸惑っていただろう。
父親は、
私の通院や病気に対して、一切触れてこない。
怖がっているような、
関わるのを避けているような。
そこのあたりは、よくわからない。

私は多分、ちゃんと父親の娘だけど、
父親にとって、
私はどういう存在なのだろうか?
面倒は見てくれた。
でもそれは、
義務感だろうか。世間への顔向けだろうか。

本当は、
自分の知らない気質を抱えた私には、
関わりたくなんか、
なかったんじゃないだろうか。

2008年12月12日(金)
■兄弟。

私には上と下に、
ひとりずつ男兄弟がいる。
つまり私は、
異性中間子。
中間子は変わった子が多いとか言うけど、
私も多分そういうふうに言われるだろう。
3人兄弟のなかで、
私は明らかに浮いた存在だった。

兄は当たり障りなく、
単調に毎日を繰り返す人だった。
特別に固執するものもなく、
特別に打ち込むものもなく、
大事なものは全て家のなかにあるような人で。
学生時代は、
毎日決まった時間に家を出て、
決まった時間に家に帰ってきた。

私は中学で部活を始めてから、
あまり家にいつかなくなった。
とはいっても、
休日は常に家に居た。
私立だったから友達はみんな家が遠くて、
お小遣いも少なかったから、
外に遊びに行くことはできなかったし、
別に遊びに行くことに興味もなかった。
でも学校は好きだったから、
理由もなく下校時刻ギリギリまで残っていたり。
高校にあがって、
学校が嫌いになってからも、
唯一好きだった部室に入り浸っていた。

弟は上手く立ち回る子だった。
兄弟のなかで、
いちばん要領がいい。
勉強も出来た。
末っ子だからって、
家族みんなに愛されていた。
ときどきかんしゃくを起こして、
そうなるともう、
どうしようもなかった。

2008年12月11日(木)
問題提起。

母親との関係。
BPDの最大要因。
私の原因も、やっぱり此処にあるのだろうか。
きっかけは、
幼児期ではなく、
高校のころなんだけど。

布石は子どものころから。
私には父親との記憶がほとんどない。
代わりに母親との記憶ばかり。
教育熱心とかではなく、
父親があまりにノータッチだったのもある。
私は、この人に嫌われたらお終いだと、
子ども心に感じていたんだと思う。
それが、
今にも続いている。

2008年12月10日(水)
泣けない。

かといって、
泣いたって、
何にも変わらない。


私の左手の薬指には指輪がある。
私が欲しいといって、
恋人と一緒に買った。
大学生っていう身分にしては、
ちょっと頑張ったお値段。
お値段よりも、
私は証明が欲しかった。
「私はあなたの恋人なんです」っていう、証明。
それを、
人にもアピールしたかった。
別に、
そうしなきゃほかの子に取られるとか、
そういう危惧があったとかじゃなく、
ただ、
そうしないと、
私自身が不安だった。

いつかのあの人のように。

あ、でもあの人とも、
同じようにそろいの指輪をしていたっけ。
お金がなくてどうしようもない時期だったけど、
あのときはあのときで、
結構頑張ったなぁ、ほんと。


「寝に来ない?」て、
来るわけないのに言ってみた。
やっぱり困った反応で、私は茶化す。
「可愛い彼女のお願いなのにー」て。
それでテキトーな返答が返ってくれば、
それが正解。
淋しくて、
泣きそうで、
それでも、
私はこの部屋にひとり。
会いたい。
そばに居たい。
ひとりは、嫌だ。

ひとりは、いや。

たった1週間が、とてつもなく長い。
互いになんだかんだ、いろいろあって、
平日は会えなくて、
週末に、1日だけ、都合をつける。
そのたった1日が、
今の私を、支えている。

2008年12月09日(火)
はじめに。

死にたい、
とか。
消えたい、
とか。
そんなことばっかり考えて生きてきた。

私を構成する思考の8割は、
そんな後ろ暗いものばっかり。

付き合って1年弱の恋人が居る。
でも彼のことを、私はまだ心底信じきったわけではない。
信じたら裏切られる、
その意識が、まだ消えない。

19歳。
心底愛して何もかもを信じた人は、
体のいい嘘をついて、
私を棄てた。
その事実が、
今もまだ、記憶から消えない。
顔はまだ覚えているけれど、
声は記憶にぼやけて。
男の人にしては高かったことは、覚えている。

境界性人格障害、
そこから這い上がった。
此処まで来た。

大人になれる。
一人で生きてゆける。
それを、
少しずつ書いてゆけたらと思う。

タイトルに■がついているものは、過去のもの。
何もついていないのは、現在のもの。

出来れば知り合いにはばれないで欲しい。
な、
と思うけど。
再利用だから、
案外すぐ見つかってしまいそうな気もする。
そんなときは、
出来たらみなかったことにして、
触れないでください。

正直、
汚いことも、
たくさん書いたりするかもしれない、
というか、
たぶん書くので。


やっぱり、エンピツはいいよ、と思います。


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