halu
怖かった。
その怖さを紛らわすために、
切っていた。
夜、
ひとりの部屋。
壁のすぐ向こうには家族がいる。
けれど、
怖かった。
切った。
痛みはほとんど感じなかった。
血が出た。
ティッシュでぬぐえばすぐに止まってしまう程度の、
ほんのささやかな傷だった。
たまに、
いつもよりほんの少しだけ、深く切った。
血がたくさんでた。いつもよりかは。
でもそのころは、
それでもまだまだ傷も浅くて、
出血量なんてたかが知れていたのに。
怖かった。
本末転倒。
それでも、
ひとりでぼんやり考え事をしているよりかは、
怖くなかった。
学校で、
先生に怒られることがあった。
自分が悪いとわかっていて、
怒られることは仕方がないとわかっていた。
呼び出される前、
トイレで切った。
そのころ、
私は常に100円均一のリストバントをつけていて、
まっしろだったそれの内側は、
いつも乾いた血と生々しい血でまだらだった。
切って、
それから職員室に行った。
別に、だから怒られる内容が変わるわけでもなく、
何が変わるわけではなかった。
でも私は切らずにはいられなかった。
度胸をつけるんだ、
当時の私は、
そのときの行為をそんなふうに解釈した。
度胸をつける、
と思っていたのはそのときだけだったけれど、
私は「切る」という行為を、
いつもいつも、
恐怖を緩和させるために使っていた。
切りすぎて血がたくさん出れば、
それはそれで怖かったけれど、
切る痛みとたかが知れた出血の恐怖のほうが、
はるかに優しかった。
あのころの私は、
切らないと生きていけなかった。
切ることでしか、
怖さを紛らわすことが出来なくて、
紛らわせないと、
怖さに押しつぶされてしまいそうで。
死んでしまいそうで。
その結果が、
今も、たくさん、たくさん。
私の左腕には残っている。
たくさんたくさん切ったけれど、
結局、
怖いことは何一つなくならなかった。
緩和された怖いことは、
時間を置いてすぐに戻ってきた。
つまらないいたちごっこを、
10代の私は毎日必死に繰り返していた。
高校のとき、後輩に言われた。
似たようなことを、同級生にも言われた。
そのころにはもう私は壊れたあとだったけれど、
学校では極力普通にしていた。
その同級生も後輩も、
私の「こと」は知らないはずだった。
だけど、
言われた。
私は何処にも根を張らない。
というより、
根の張り方がわからない。
大学に友人は居ない。
本当に、誰とも話さない。
高校でも、
新しい友人をつくろうとはしなかった。
中高一貫校だったから、
だいたいが、中学のころの繋がりをそのまんま。
それでなんとかなってしまった。
だから、
大学2年からはじめた飲食店のバイトは、
本当に努力をした。
いろんな子に話しかけて、
仲良くなろうとした。
根を張ろうとした。
結果、張れたかもしれない。けれど、それもやはり心もとない。
それでもやはりどこかギクシャクしていて、
それは店全体にもいえると思う。
長く働いて、
いろんなことがあった。
病巣としかいいようがない。
いろんなゆがみがあって、
その中心に、私自身が居て。
それはまた、別の話だけれど。
存在感が薄いのかもしれない。
居るのか居ないのか、
わからないような存在なのだろう。
死にたいとしか、
思えずに生きてきたから。
ぼんやりしているのかな、
めんどくさそうにみえるのかな、
常に疲れてるって、いわれたことはある。
ものすごい好調という日が、
年に数回しかないから、かもしれない。
声も低いし、
だいたい、顔色も良くない。
常に貧血っぽいので。
でも、別に貧血だと診断されたことはありませんが。
私は死んでいない。
死にたかったけど死ねなかった。
それに何かしらの意味があったのかどうか、
そのこたえは、未だにわからないまんま。
たぶんずっと、
わからないんだと思う。
性教育を受ける前。
子どもはどうやったら出来るのか、
とか、
生理で躰がどうなるか、
とか、
セックスのやり方とか。
そういうのを、
まだまったく知らなかったころ。
兄が「遊び」を提案してきた。
読んでいたまんがに、
「ドキュメント○○」みたいなのがあって、
要は、
ドキュメンタリー的なことが、したかったんだと思う。
兄はその対象を、
私の性器に向けた。
暗くした子ども部屋で、
顔を隠して、
足を開いて、
どんな顔で、
兄が私のそれを見ていたのか、
触っていたのかは知らない。
気持ちいいとか悪いとか、
そういうのはまったくなくて、
何にも感じなかった。
ただ兄は、この遊びを気に入ったようだった。
私は、この遊びが、
「いけないこと」だと、
なんとなくわかっていた。
覚えているのは、
夏の日。
子ども部屋ではなく、
明るい部屋で。
兄か弟の学習机の上で、
やっぱり私は顔を隠して、
足を開いて。兄は私のそれを弄った。
「50円くれたら声も出すよ」
私はそんなことを言った。
「いけないこと」をしている自分に、
高揚感を覚えていた。
兄が驚いた声を出して、言った。
「なんかぬるぬるする」
たぶんそれが、
濡れるっていうことだったんだろうけど、
そのときの私は、
それが酷く奇妙で、気持ち悪く思えた。
快楽なんてまったくなくて、
ただの躰の反応に過ぎなかったのだけど。
そのあとも、
兄は何度か「遊び」を提案したけれど、
私は拒否した。
「いけないこと」への背徳にまみれた高揚感は、
いつの間にか嫌悪感に摩り替わっていって。
「遊び」をしなくなって、
いつしか、兄も提案しなくなって。
私と兄が覚えているだけになった。
そんな話は、もはやしないけれど。
この「遊び」のことは、誰にも言えない。
今まで誰にも言ったことがない。
子どもの好奇心というには、
酷く、酷く生々しい。
記憶。
みんなが嘘を言う。
「そばにいる」
なんて、
いちばん聞きたくない嘘を言う。
私がいちばん欲しいことばを言う。
残酷だ。
どうして、
どうして。
結果は、
すべてが嘘だ。
一緒になんか居てくれない。
そばになんて居てくれない。
なのにどうしてそんなことをいうの?
どうして期待させるの?
どうして喜んでしまうの?
愚かだ。
かつて愛したあの人が、
今の私を取り巻くことばすら変えてゆく。
痛みは今も、
じわじわ残り続けて、
私の感情を侵食する。
おいていかないで。
そばにいて。
おいていかないよ。
そばにいるよ。
「君はひとりじゃない」
だったら、
どうしていなくなったんですか?
嘘をついて、
体のいいことを言って。
記憶は消えない。
刻み付けられて、
痕は醜い。
私はあまり家にいつかない子だった。
というより、
兄があんまりにも家に居る人で、
母親がそれを当たり前のように感じていたせいもある。
高校2年にあがるまで、
私は学校が好きだった。
部活をしていたのもあって、
平日は下校時刻ぎりぎりまで学校に残っていた。
母親は、それが気に入らなかったのだと思う。
高校1年の冬だったか、それくらいのころ。
私は母親にいわれた。
「そんなに家が嫌なら帰ってこなくていいよ」
はじめはびっくりしたんだと思う。
私は確かに家にはあまりいなかったけれど、
それでも休日はほぼ家にいたし、
決して家が嫌なわけではなかったから。
そのあと、
「嫌だと思われてるんなら嫌になるよ」
私は家が嫌いになった。
そんなこという母親も、
家に居る家族も嫌いになった。
嫌われているものを、好きでいることは出来なかった。
高校を出たら家を出る。
それが目標になった。
母親が死ぬ夢をみた。
それは、今年の春の話。
だから、私はもう22歳になっていて。
大人になっていて。
帰省して、
実家から一人暮らしの家に戻る日の夢だった。
母親が危篤だという情報だけが私のなかにあって、
病室を探して走り回った。
怖かった。怖くて、仕方がなかった。
いくつも病室を回って、
最後に母親のいる病室にたどり着いた。
私は枕元で何度も呼んだ。「おかあさん」て。
目が覚めるとやっぱり怖くて、
ベッドを抜け出して、
母親の眠る部屋に行った。
生きている母親を確認して、
そしてそのまま、母親の隣にもぐりこんで眠った。
その日は帰りの新幹線のなかまでその感情を引きずって、
しばらく涙が止まらなかった。
私にとってのすべては、
「母親」だった。
だった、というか、それは今もそうなんだろう。
と、思う。
私のすべては、母親を真ん中において、ある。
相対的に見て、
母親との記憶がほとんどで、
父親との記憶は少ない。
本当に小さなころから、
怒られるのも褒められるのも、
ほとんどが母親だった。
ときどき、私は母親を泣かせた。
私があんまりにも駄目な子だったせいもあるし、
反抗したことも多い。
私は幼少のころ、
本当に病弱な子だった。
ほんの数十年昔だったら、
多分私は10歳まで生きていないと思う。
熱を出すことも多かったし、
怪我も多かった。
女の子は丈夫なんていうけれど、
兄弟のなかで、
私がいちばん弱かった。
病院に連れて行ってくれるのは母親だった。
看病してくれるのも、母親だった。
私を守ってくれるのは、誰でもない、母親だった。
「お母さん子」でした、というには、
あまりにも、その存在は大きすぎて。
いつしか、
母親が、
私のすべてになっていった。
いつしか、
じゃない。
はじめから。
生まれてからずっと守られて、
母親が居ることが、
私のすべてになった。
小学校高学年のころ、
はじめて手首を切った。
切った、
とは言っても、
カッターでほんの少し、
皮膚を傷つけたに過ぎない。
左手首の動脈。
血はぷくりと小さく球になっただけで、
すぐ止まった。
それは、
興味と好奇心と憧れだった。
好きだったまんがの主人公が、
手首を切るシーンがあった。
その表情に惹かれた。
切ったらどうなるのかな、
て、
思った。
私の手首からも、
あのシーンのように血は流れるのだろうか。
切る前に、
自分の机で、
何度か切る練習をした。
刃を立てて、
力をこめて、引く。
机の角は力強く切って、
深い傷がついたけれど、
自分の手首に、
同じだけの力をこめることは出来なかった。
小学校6年間、
私は社宅の一室を、兄とふたりで使っていた。
6畳ほどの畳の部屋に、
学習机をふたつと、
私が3歳から習っていた、
アップアライトのピアノが置いてあった。
引き戸を閉めると、
そこは子どもの世界だった。
兄と弟と、
今思えば、
変な遊びをたくさんした。
ヒーターで10円玉を熱して、
手の甲に置いてみたり、
部屋を暗くしてごそごそしたり。
おおよそ、
子どもらしい遊びではなかった気がする。
懲罰的なものが、多かった気がする。
子どもらしい、無邪気さで、それらは許容されていた。
子ども部屋に、
必要なとき以外、
両親は居なかった。
中学校にあがって、
その部屋が丸々私ひとりに与えられるまで、
その、
一種守られた空間は、
妙な空気を囲って、そこに在った。
父親は、よくわからない人だった。
機嫌がいいときは、
とても穏やかで優しいけれど、
不意に怒り出して、
ぼこぼこに殴られる。
兄弟3人とも、
父親に殴られたことがある。
同じ事をしても、
怒られるときとそうじゃないときがある。
だから、
避けようがない。
父親は怖かった。
殴られる回数はそんなに多くなかったけれど、
怒鳴られると、
反射的に涙がこぼれた。
物にあたって、壊れる音が大嫌いだった。
たまにする母親との口論も、
大嫌いだった。
私には無関係に兄弟が殴られている、
その音も、大嫌いだった。
怒ってわめく声なんか、聞きたくなかった。
父親とちゃんと話をするようになったのは、
高校を出てからのほうが断然多い。
子どものころの、
父親との記憶は少ない。
家族旅行をしない家だった。
というより、
ほとんど家族で団体行動をしない家だった。
家族旅行にいったのは、
小学校低学年のときが、
確か、最初で、最後。
友達が、家族で旅行に行く・キャンプに行く、
といっているのを、
羨ましいような、珍しいような、
自分とは無関係のものとして聞いていた。
父親はちゃんと働いてくれる。
高校を卒業してすぐ働き出した、
技術系の叩き上げで、
大学なんていかなくてもいいといったけれど、
行かせてくれた。
私が精神病院に通院を始めたころ、
母親と同様に、おそらくは父親も戸惑っていただろう。
父親は、
私の通院や病気に対して、一切触れてこない。
怖がっているような、
関わるのを避けているような。
そこのあたりは、よくわからない。
私は多分、ちゃんと父親の娘だけど、
父親にとって、
私はどういう存在なのだろうか?
面倒は見てくれた。
でもそれは、
義務感だろうか。世間への顔向けだろうか。
本当は、
自分の知らない気質を抱えた私には、
関わりたくなんか、
なかったんじゃないだろうか。
私には上と下に、
ひとりずつ男兄弟がいる。
つまり私は、
異性中間子。
中間子は変わった子が多いとか言うけど、
私も多分そういうふうに言われるだろう。
3人兄弟のなかで、
私は明らかに浮いた存在だった。
兄は当たり障りなく、
単調に毎日を繰り返す人だった。
特別に固執するものもなく、
特別に打ち込むものもなく、
大事なものは全て家のなかにあるような人で。
学生時代は、
毎日決まった時間に家を出て、
決まった時間に家に帰ってきた。
私は中学で部活を始めてから、
あまり家にいつかなくなった。
とはいっても、
休日は常に家に居た。
私立だったから友達はみんな家が遠くて、
お小遣いも少なかったから、
外に遊びに行くことはできなかったし、
別に遊びに行くことに興味もなかった。
でも学校は好きだったから、
理由もなく下校時刻ギリギリまで残っていたり。
高校にあがって、
学校が嫌いになってからも、
唯一好きだった部室に入り浸っていた。
弟は上手く立ち回る子だった。
兄弟のなかで、
いちばん要領がいい。
勉強も出来た。
末っ子だからって、
家族みんなに愛されていた。
ときどきかんしゃくを起こして、
そうなるともう、
どうしようもなかった。
母親との関係。
BPDの最大要因。
私の原因も、やっぱり此処にあるのだろうか。
きっかけは、
幼児期ではなく、
高校のころなんだけど。
布石は子どものころから。
私には父親との記憶がほとんどない。
代わりに母親との記憶ばかり。
教育熱心とかではなく、
父親があまりにノータッチだったのもある。
私は、この人に嫌われたらお終いだと、
子ども心に感じていたんだと思う。
それが、
今にも続いている。
かといって、
泣いたって、
何にも変わらない。
私の左手の薬指には指輪がある。
私が欲しいといって、
恋人と一緒に買った。
大学生っていう身分にしては、
ちょっと頑張ったお値段。
お値段よりも、
私は証明が欲しかった。
「私はあなたの恋人なんです」っていう、証明。
それを、
人にもアピールしたかった。
別に、
そうしなきゃほかの子に取られるとか、
そういう危惧があったとかじゃなく、
ただ、
そうしないと、
私自身が不安だった。
いつかのあの人のように。
あ、でもあの人とも、
同じようにそろいの指輪をしていたっけ。
お金がなくてどうしようもない時期だったけど、
あのときはあのときで、
結構頑張ったなぁ、ほんと。
「寝に来ない?」て、
来るわけないのに言ってみた。
やっぱり困った反応で、私は茶化す。
「可愛い彼女のお願いなのにー」て。
それでテキトーな返答が返ってくれば、
それが正解。
淋しくて、
泣きそうで、
それでも、
私はこの部屋にひとり。
会いたい。
そばに居たい。
ひとりは、嫌だ。
ひとりは、いや。
たった1週間が、とてつもなく長い。
互いになんだかんだ、いろいろあって、
平日は会えなくて、
週末に、1日だけ、都合をつける。
そのたった1日が、
今の私を、支えている。
死にたい、
とか。
消えたい、
とか。
そんなことばっかり考えて生きてきた。
私を構成する思考の8割は、
そんな後ろ暗いものばっかり。
付き合って1年弱の恋人が居る。
でも彼のことを、私はまだ心底信じきったわけではない。
信じたら裏切られる、
その意識が、まだ消えない。
19歳。
心底愛して何もかもを信じた人は、
体のいい嘘をついて、
私を棄てた。
その事実が、
今もまだ、記憶から消えない。
顔はまだ覚えているけれど、
声は記憶にぼやけて。
男の人にしては高かったことは、覚えている。
境界性人格障害、
そこから這い上がった。
此処まで来た。
大人になれる。
一人で生きてゆける。
それを、
少しずつ書いてゆけたらと思う。
タイトルに■がついているものは、過去のもの。
何もついていないのは、現在のもの。
出来れば知り合いにはばれないで欲しい。
な、
と思うけど。
再利用だから、
案外すぐ見つかってしまいそうな気もする。
そんなときは、
出来たらみなかったことにして、
触れないでください。
正直、
汚いことも、
たくさん書いたりするかもしれない、
というか、
たぶん書くので。
やっぱり、エンピツはいいよ、と思います。