あれからどれほどの月日が経ったんだろう。そう、思う。考える。一応、立ち直ったような立ち直り切っていないような微妙な状態を保ちながら、引き篭もっているような引き篭もり切れていないような曖昧な状態を保ちながら、哀しいような哀しくないような、憎しみに狩られているようなそうでないような、それから、嗚呼何だろう、もっと、何か。 私は自分に似合いの言葉を見つけることが出来ない。
一週間程の短期間逃亡を終えて、気が抜けた――というよりは寧ろ魂が抜けた感じで、私はぼんやりしながら何もやる気は起きない。何もやる気は起きないくせに、何かを遣りたいという気持ちはあるらしくて両手が何かを求めているのに、熱中出来ないので両手は何かを手にしたところで直ぐに投げ出してしまう。嗚呼、最悪。ぼーっとして、家の中を彷徨って、外に出る気力は無くて、遣る瀬無くて、自分自身に幻滅しながら過ごす一日。嗚呼、最悪。 何を書いても此処まで自分の心が収集付かないのは本当に久しく無かったこと。悔しいとか、不甲斐無いとか、そういう思いを通り越して腹立たしい。
嗚呼、そう、何だか二重人格者にでもなった気分。否、違うな。抑え込んでいた何かが今にも爆発しそうな感じ。私が抑えていた何かを暴発させてしまうというのだから、其れは私ではない。私ではない、誰か。其れが私を司り支配しようとしている、人格の一つ。傍観しようとしているのも、人格の一つ。そういう、分裂ではなくて、各部分の誇張されたもの。そういう奴。
嗚呼、もう、誰だよ。私を壊そうと躍起になっている奴は。
たとえ親兄弟で血が繋がっていても、どれほど仲の良い友達でも、自分じゃない人間は全て他人で、人間は何時だって、何時までも、たった一人で生きている。そうやって明確に言葉にしてくれたのが吉増先生だった。普通はこんなこと、怖くて中々言い出せない。文字にすることはできても、声にすることは難しい。でも先生は確り声に出して「たった独り」という言葉を紡いでくれた。人は、独りだ。私はずっと一人で生きていきたいと思っていたし、そういうことは解っていたつもりではあったけれども、「たった独り」には衝撃を受けた。 去年の冬の話。
今、吉増先生と再会して、もう一度、ペースを、テンポを、取り戻して、私は考えることができる。見落としていた些細な事に気が付くようになり、唯流されるのではなく立ち止まる事も委ねる事も出来るようになって、感覚が鋭敏化してゆく。 どんなに否定したって、私たちは「たった独り」に違いない。 吉増先生は年に一度、夏か冬に訪れて下さるけれど、去年は冬で、今年は夏で、その違いさえも、大事にして様々なことを「気付かせて」下さる。こういう先生に一生の中で出会えた事を私はとても感謝している。人間は「たった独り」だけれども、「たった独り」だからこそ、手探りで他者と付き合っていくのだと、気付かせてくれた。
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