反動ってあるんだと思う。 抑圧された反動。時々、無謀に暴れてみたくなったり、無意味に大泣きしてみたくなったり、する。そうして、相談したいと思ったときに限ってあの人は私の全てを突き放してくるので、私は酷く混乱する。そういう後はいくらガムを噛んだところで私の感情が収まることはない。ただただ、咽喉や心臓の辺りをぎゅっと握り、掴み、捻り、抉り出すように、指先に力を入れることしかできない。爪が喰い込むほどに肌は赤く腫れ上がったり血が滲み出たりはするけれども、痛みは然程無い。反動に対する、麻痺。 どれほど感情や触覚が麻痺しようとも、絶対に麻痺しないのが寒さを司る冷覚。夏冬の季節に関らず、冷暖房の有無に関わらず、或いは周囲の環境にも一切関知せずに、実際の温度ですらもお構い無しに、この感覚だけは律儀に働き続けている。薄ら寒さが私の感覚から消えることは無い。 嗚呼、もう。試験勉強は集中出来ないし。自分が何を遣りたかったのかも解らなくなりかけて。生きている意味とか、如何に生きるべきかとか、如何でも良いと思い始めている。地下鉄の先頭車輛見ては飛び込みたくもなるよ。他人の迷惑とか、考えている余裕なんて皆無だ。
俄か雨が降ってきて、慌てて私は窓を閉める。そうして水滴が筋を作る硝子窓越しに、庭を見下ろす。さっきまで晴れていたのに、灰色の重たい雲は一気に空を覆い隠してしまった。雷が、鳴るかも知れない。 其の侭、窓越しに外の景色を眺めながら、虚ろにどれほどの時間を過ごしたのだろう。眠っていたわけではないけれど、起きていたと言えるほど思考が明瞭だったわけでもない。何か考え事をしていてた気はするけれど、何を考えていたのかも判然としない。何時の間にか雨はやんで、時折晴間は覗かせるけれどもまだ空を覆ったままの灰色の雲の下、小鳥が、芝生をつついていた。私は静かに窓を開けようとするけれども、小鳥は飛び立とうとしない。手を伸ばせば届くのではないかと思えるほどの距離で、目が合った(気がした)。お互いに瞬きをし(た気がし)て、次の瞬間には、小鳥は何処かへ飛び去っていた。
何ということは無いのだけれど、其の後私は音を立てて窓を開け放って、小鳥の姿を追った。見つからなかった。自由に飛び立つことの出来る羽を、翼を持っている小鳥を少しだけ羨望して、私は再び窓を閉める。 たとえ誰もが翼を持っていたとしても、飛ばなければ、飛ぼうとしなければ、意味は無いじゃないの。
自分を傷付けることしか知らなかった日々を思い出す。其れが唯一の生き延びる方法だと信じて疑っていなかった。今はと言えば、自分を傷付けることさえも恐れるようになってしまった。情けないというか、不甲斐無いというか。こういう「弱さ」も私の望むところではないというのに。 他者と視線を合わせることの、何と恐ろしい事だろう。 たとえ傷付いていても。傷の数が多いほどに。前へ進めると思っていた。 そういう無茶が通用する時期と、通用しなくなる時期と、知恵を使わなければ生きていけない時と、無謀だけが道を開ける時と、私は、様々な時期を見誤っていたのかも知れない。そうして今猶、見誤っているのかも、知れない。
そう、例えば、こういう事は言えないかしら。と、考えてみる。
或る学友がゼミ論として、インターネットにおけるアウラの所在、なるテーマを掲げた。アウラ、つまり、オーラ。其れが論文として成立するか否かは兎も角、とても興味深い事だと私は思う。ブログの流行は今が絶頂期だろう。このまま続くのか廃れるのかは知れないけれど、大きな進化とか変貌とかは無いように思う。寧ろ私が興味を持つのは、日記を公開するということにある。私だって此処にこうして「日記を公開」しているわけだけれども。本来、日記というものは隠すものだったのではない? 他者に見せる為の日記だから、読んでほしいから、興味を惹かれるような内容を書こうとする。時には事実を大きく脚色して書いたり、嘘の記述さえしたりもするだろう。そうまでして、自分を知って欲しいと思うこと。個人ホームページは、個人の絵だったり小説だったり活動だったり、そういうものを紹介する為の場所でしかなかった。日記というのは其れに付属するだけのものだった。けれど今は日記がメインで、日記だけでサイトが作れてしまうのだから。 コミュニケーションの方法が変化しているのかな、と思う。選択肢が増えたのなら良いのだろうけれど、こういう方法でしかコミュニケーションがとれなくなっているのだとしたら、私個人では如何する事も出来ないのに、私は非常に悲しいものを感じるのだ。
強くなりたいなんて願わなければ良かった。
そう言った人がいて、私はずっと、長い間、強くなりたいと願っていたし、強く在りたいと思っていたし、そうあるべきなのだと信じてきたけれど、成程、今更になってやって、やっと、其の意味が解った気がする。こんなことになるのなら。強くなりたいなんて、願わなければ良かった。でも、其れでも私は、強く在りたいのだ。ずっと。誰かに守られるくらいなら一人で死ぬことを選ぶという事を、信じて疑わないのだ。 他者に自分の弱みを見せられる人間は強いのかも知れない。他者に自分の弱みを見せられない人間は弱いのかも知れない。それでも、私は強く在りたいと願うだろう。他者に弱みを見せるくらいなら。誰かに守られながら生きるくらいなら。
アスファルトが焼ける匂いがした、気がした。
多分、此処まで死の匂いを間近に嗅ぎ取ったのは初めてだったように思う。自分から引き寄せたもので、自分から近付いたものでもある。ホームに入って来る地下鉄とか、机の上に置いてあるカッターとか、料理包丁とか、通りを走る車とか、兎に角全てのものが、虎視眈々と私を殺す為に隙を狙っているのだとか、紫陽花の花びら一つでさえも、私を憎んで色付いているように感ぜられるほどに、多分私は衰弱していた。悔しかった。私はこんなに弱くはないと、もっと強く在れる筈だと、信じたかった。此の一ヶ月間、私は常に死と隣り合わせで生活してきた。悪いのは私ではない筈だったし、私は何も悪くない筈だった、けれど、其れを鵜呑みに出来る程は私は強くはなかった。其れは理解していた。原因は全て自分の中に在るのだという認識を、私は知っていた。
言いたい事の半分も言う事が出来なくて、其の中で伝えたい事の半分も伝わらないというのなら、結局四分の三以上は如何でも良い話をつらつらと喋っているだけで、無駄話が実は無駄ではなく互いの関係の為に必要であるというのなら兎も角、本当に無駄な話であるというのなら、態々四分の一以下の為に口を開くのは億劫というか、其れこそ無駄である気がして、私は何も喋らない方が良いのかな、と、ふと思った。コミュニケーション、其れも声の文化を専攻としているくせに、私は此の手のコミュニケーションを決して実践しようとはしていない。紙の上では如何に声の文化が大切か――なんて説いているけれど、体現しようとはしていない、というか、しない。絶対に。
メールからカナダの匂いを感じつつ、思いを馳せて、嗚呼怠惰だなぁとも思いながら、私はあらゆる判断を決め兼ねている。此の侭だらだらと時間が過ぎてゆくのは許せないのだけれど、何をする気も起きないなんて。何かをしている自分を想像できない。だから、もう少しだけ、微睡んでいたいと思う。二度と目が覚めなければ良いのに。たとえ悪夢の中で在っても、其れは所詮夢に過ぎないのだから。
何だか最近此の頁は変な検索キーワードに引っ掛かりすぎ。
思い出した、月曜日だ。そう、今日の帰宅途中にふと思い出した。実際に月曜日だったかどうかは兎も角、少なくとも今日が同じ状況下であったのは間違い無い。だって、滅多に無いのだもの、地下鉄を待っているときに先頭でいられるのは。だから同じ状況。でもきっと私自身は以前とは違う、だろう、多分、きっと。地下鉄の先頭車輛を凝視する事も無くて、何処か冷めた気持ちで全てを見詰めていられる。 此処ではない何処か、之ではない何か、貴方ではない誰か。 そういうものを求め続けることは兎も角、そろそろ開き直ってみようかと、そういうものを再び演じ始めてみようかと、考える。二週間を過ぎたから。どの道、試験だレポートだと遣る事も多い。暫くは何も手が付かない状況に違いないけれど。もう、こうやっているのも疲れた。私が誰かに付き合って荒んでいる必要なんて無いじゃないか。どうせ、誰かに付き合わなくたって、私は年中荒んでいるんだし。底無し沼だと思っていた沼の底に足が着いたから、後は這い上がるだけ。這ってやるよ、少なくとも元居た場所くらいまでは。
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