山ちゃんの仕方がねえさ闘病記
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2011年10月02日(日) 地元の発展を祈るということ

私が住んでいる八幡の集落は昔からあまり変わらずに静かな良い所だと思っている。旧舘村の中心地として役場もあり、小学校、中学校、郵便局、(以前は警察の派出所もあった。現在は川向こうに移転した。)などが立地している。

私がガキだった頃(昭和30年代)は隣村の田面木地区はとても小さな集落だったように思えたので、自分の地区がずいぶんと栄えていると思ったものだ。

それが昭和30年代の都市計画の導入により、それぞれの集落の発展の仕方に大きな差が生じた。いわゆる線引きにより、我々の舘地区(旧舘村)は市街化調整区域に、そして隣村の田面木地区は市街化区域に指定された。

このため私たちの地区でその後できたものは、調整区域でも立地可能な病院(ただし精神科)が一つと小さなデイケアの施設が一つだけ進出した。

それに比べ田面木地区は市街化が促進された。特に国立の工業高等専門学校ができると、そのすぐ隣に女子高校(ミッション・スクール)が移転してきた。それに伴い、まわりがどんどん宅地化が進んだ。

そうすると、以前はどこかの分校のようだったその地区の小学校は生徒の人数も増え、我々の地区の小学校の規模を逆転した。小さな学園都市のようになってきた。さらには市内に三つある総合病院のうちの一つである赤十字病院が移転してきた。またまた住宅が増え地区人口がかなり増えた。

そうするとスーパーマーケットができた。元からあった地元の店が閉店した。金融機関は郵便局のみだったが、ある銀行が支店を出した。タクシー会社がスーパーと銀行の中間付近に営業所を開いた。

どんどん都市化が進み、地区人口から何から、ほとんどが我が地区を逆転した。約半世紀でこんなにも変わってしまった。

それでもわれわれの地区はほとんど変化がない。それは市街化が抑制されたために、山林や農地などの自然の風景が残された。いわゆる里山などが手付かずで残ったのだ。

しかし、開発が全く進まないため、土地が売れないし地価も上がらない。ほとんど収入が増えないと嘆いている人たちもいれば、隣村では都市化の恩恵を十分に享受している人たちもいる。

そんな中、私は我が地区ののどかな小中学校を卒業した後、隣の地区の工業高専に通った。卒業後はこの地元の市役所に勤めた。

そして今、大病を患い、これも隣の地区にある赤十字病院に世話になっている。
これって皮肉だろうか。


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