山ちゃんの仕方がねえさ闘病記
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2011年06月28日(火) |
忘れない過去の地震体験 |
23日午前6時51分ごろ、久しぶりに大き目の余震があった。震源は岩手県沖、我々のいる八戸地域(三八上北地方という)では震度5弱を観測した。マグニチュードは6.7であった。岩手県沿岸部に津波注意報も出された。当地域は岩手県北に隣接しているので人ごとではなかった。
ここで自分の記憶に生々しく残る、例の「三陸はるか沖地震」を整理しておきたい。
発生したのは平成6年(1994年)12月28日21時19分21秒、震源は八戸市東方沖180km(北緯40度25.8分、東経143度44.7分)、震源の深さ:ごく浅い。マグニチュード7.6、八戸市での最大震度6。地震の種類は「海溝型地震」だそうだ。
地震が起きたのは午後9時をちょっと回った頃だった。震度6だったから、それまでで最も大きなゆれを体感した。
そのとき私は八戸市役所(旧)旧館3階の港湾振興対策室で、つい今しがたまで盛り上がっていた仕事納めの後の懇親会の残骸を見ながら、そろそろ片付けて帰ろうかと思い始めていた。
各課で懇親会が始まると、仕事上関連のあるところを挨拶回りする人たちが出てくるので、ある程度の時間まですっかり留守にするわけにはいかない。それでも午後9時を過ぎるとめっきり人が少なくなってくる。だからもうそろそろいいだろうと思い始めた頃だった。
揺れは強烈だった。しかも長く感じた。酔った自分の目の中に、椅子が、机が、渦のようにグルグル回り、人の力でやったら絶対にできないような机の入れ替えが起きていた。
私はその激しく動き回る机に挟まれないように、とっさにカウンターに飛び乗り、机がかき混ぜられる様子を見ているしかなかった。
やがて揺れが収まって冷静に部屋の中を見てみると、ありえないほど机、椅子が入り乱れていた。揺れている間に電気は落ち、非常灯だけになった。周辺のキャビネットはほとんど倒れ、いびつに曲がっていた。
とにかく記録しておく必要があるだろうと思い、倒れたキャビネットからカメラバッグを引っ張り出し、壊れていなかったカメラと数本のフィルムを持って庁内を一回りし、被災した部分を撮影した。
そうこうしているうちに、一旦帰宅していた職員たちが再登庁してきた。幹部職員が秘書課周辺に集まりだすと、その取り巻きの連中も集まってきてごった返した。みんなが吐く息で付近が酒臭くなってきた。
間もなく市長以下幹部で庁議が始まった。幹部の皆さんすっかりメーターが上がっていて、どうも会議に身が入らないようだ。なんとも緊張感のない災害対策本部が設置された。大変なときなのにヘラヘラしている若手幹部に、市長は苦虫を噛み潰していた。
結局まともな会議にならず、詳細は翌朝あらためて庁議を開くことで、一旦解散となった。朝になってみると、市内の被害の報告が入っていた。ビルが潰れて死者が出たりしていて驚いた。港湾などの公共施設の被害も大きかった。私はこのとき初めて「液状化現象」を生で見た。
最も大きな被害は皮肉にも市役所旧庁舎の傷みだった。隣接の建物との接合部に隙間ができ、雪が吹き込んで室内に積もったりした。柱や壁面にひび割れが生じ、いつ余震で崩れてもおかしくないような建物になってしまっていた。
10日経った平成7年1月7日朝に最大余震があった。震度5強であったが、本震のときより被害が大きかったところもあった。我が家は朝食が済んだばかりであったが、食器棚から飛び出した食器がいくつか割れた程度だった。
それからさらにちょうど10日後、1月17日早朝、「阪神淡路大震災」が発生し、世間の耳目から「三陸はるか沖」の文字は消え去った。
2011年06月25日(土) |
「停電」で高速道路がタダになる「被災証明書」 |
6月22日付け日経東北欄のコラムに、秋田県知事の今回の震災に対するインタビューが載っていた。見出しは「災害のガレキ○○○トン受け入れ」というものだった。地震の被害から免れた地域ではこのように積極的な政策を実施してほしい。
さて、我が方の県、市はどうであろうか。まあ被災地の立場だから一概にはいえないが、全県的にみれば被害は太平洋側に限定される。復興支援に積極的に向かってもよいのではないか。
八戸市は全世帯に被災証明書を送り付ける(?)そうだ。高速道路が無料で通行できる「通行手形」のようなものになるようだ。地震や津波の被害がまったくない人たちにも、全戸停電したから「被災」したのだそうだ。よその市町村でそんなことを始めたので右倣えしたみたいだ。
これってどう考えてもおかしいと思う。何も被害がないのに恩恵を受けるのはすっきりしない。「停電」というのは「被災」なんだろうか。東北の復興をいうのだったら、証明のあるなしにかかわらず、東北地方の高速道路を無料化するほうが東北が活性化すると感じる。財政にそんな余裕があるのならもっと別な復旧・復興の事業に使ってほしい、そう思うのは私だけだろうか。
ところで先の秋田県知事のインタビュー記事、なかなか物が見えていると感じた。太平洋側の港湾が軒並み被災したなか、災害支援を謳い文句に物流を太平洋側の物流を秋田港にシフトさせようという目論見がみえる。なかなかしたたかだと感じた。
また、25日付の日経、やはり東北経済のページでは、酒田港が来月中国とのコンテナ航路を開設するとの記事が出ていた。これまでの釜山航路を1便廃止し、中国航路を開設するそうだ。
平成6年に八戸港が東南アジアのコンテナ航路を開設した頃、東北では他港にコンテナ航路を持っているところはまだなかった。仙台港でさえまだであった。その後航路を持つ港が増えていった。都市間競争、港湾間競争が激烈になっている。そこへもって今回の震災である。日本海側へシフトしていく物流を繋ぎとめ或いは引き戻さないと、太平洋側の港湾都市は活力を失ってしまいそうだ。
ちなみに、これも23日付け日経の文化欄、「日本甲冑の美 十選」というコラムに、わが街の自慢である国宝の櫛引八幡宮所蔵の「赤糸縅鎧兜」が紹介されていた。よく「奈良の春日大社にある甲冑と双璧をなす」と紹介されているが、私が見る限りこちらのほうが数段優れていると見る。自宅から数分のところにある神社の境内にある国宝館に収められている。東北を応援していただける方、ぜひ見に来てほしい。「双璧」とは、きっとあっちの人たちが言ったんだろうと思う。(ここにはもう一点「白糸縅妻取鎧」という国宝がある。)
2011年06月24日(金) |
今週はバットマンだぜ |
NHKBSで「バットマン」シリーズを放送している。これまで放送された4作全部を見た。
「バットマン」 「バットマン・リターンズ」 「バットマン・フォーエバー」 「バットマン&ロビン Mr.フリーズの逆襲」
なお、月曜日には 「バットマン・ビギンズ」 が放送予定だ。
最初はものめずらしく見ていたが、ニコール・キッドマンが相手役で出てくるところまではなんとか見られたが、バットマン役がジョージ・クルーニーになってからは、出だしからくだらなさ満開で、せっかくシュワちゃんまで出てるのに終わりまで見るのにとても疲れた。
どうしてバットマン役がジョージ・クルーニーなんだろうか。もしかしたらマスクをつけたときの「あご」がしっくりきたのかもしれない。なんて思ってしまった。本当にアメリカのマンガに出てくるマッチョな男のあごにそっくりだと思った。バットマンの原作はよく見たことがないが、スーパーマンの男は確かにこんなあごをしてた。
でも妻がどうしても見たいというので最後まで付き合った。 もしかしたら英語の勉強にもなるかもしれないと思いつつ、時々電子辞書を引きながら。
でも一晩眠ったら何を調べたかすっかり忘れてしまった。そこで電子辞書のヒストリー機能で前夜までに調べた単語や表現を探してみた。
「boosting」 万引き(どこで出てきたか?
「blur」 (感覚意識)がぼやける、かすむ バットマンは"completely blur"とか何とか言って、 字幕は「記憶がない」であった。
「angle」 ずるいたくらみ、陰謀、策略 この単語にこんな意味があるとは知らなかった。
「gotcha」 ロビンが女の子をつかまえるたびに言ってた。 でも反対に助けられて"This time I got you."なんて言われてた。
妻が見たいと言ったから深夜まで付き合ったのに、彼女はほとんど眠っていたようだ。 「眠ってたでしょ。」 と尋ねると 「ううん?眠ってなかった。ちゃんと見てた。」 と言い張る。ずうっと寝息を立てていたのに、そう言うと今度は、 「目をつぶっていても、音はちゃんと聞こえてるから。」 とがんばる。
英語がわからないのだから字幕を見なきゃわからんだろうに、眠っていたと思われたくないらしく、言い分を曲げない。ちょっとかわいいとも思える。
2011年06月21日(火) |
高いクスリを注射してきた! |
八戸赤十字病院で四週間前から週一回のペースで接種しているベルケイドという注射の4回目をしてきた。
骨髄腫の治療薬であるが、このクスリにはちょっと強い副作用がる。 体に痺れが出ることがる。特に末梢神経に多い。私の場合も手足に痺れが出て、特にトイレに立つときが要注意だ。足の裏の接地感覚がほとんどないので転倒しないように特に気をつけている。
注射してきた日の夜は血の気が引いて、気持ちが悪いほど肌が白くなる。そして全身倦怠感が訪れる。本当に強いクスリなんだなと思わせる。
このクスリは非常に高額だ。1回当たりたった1.9mlの注射なのに、請求額が5万円以上にはびっくりだ。患者3割負担として計算しても、単純計算で16万円以上のクスリを使っていることになる。
昨年9月ごろ、NHKニュースおはよう日本で医療費に関する問題が取り上げられたことがある。このとき最も高額なクスリにベルケイドがあげられていて、やはり自分は高額なクスリをつかっているんだと自覚した。あとで高額医療費制度で一定額以上の負担分は戻ってくるので、あまり文句は言えないけど、なんか単価が高すぎると思う。
以前はサリドマイドという有名なクスリを服用していた。当時我が国では厚生省の認可からはずれてり、個人輸入に頼るしかなかった。当然保険が利かないので、輸送量も含めるとこちらもかなりの高額であった。(その2008年10月16日承認になったそうだ。)何年か続けたらあまり効きが良くなくなってきたのでベルケイドに換えた。
こんどベルケイドが効かなくなったらまた別なクスリを探してもらうことになるんだろう。あまり高くないのがいいな。というか、もうクスリがいらない体になりたいものだ。
久しぶりに病院へ行く以外の事で外出した。天気もよかったし気温も高く外出日和だった。
最初に八戸地域の地場産業振興のために周辺の町村と協力して建設した地場産センター「ユートリー」へ行った。ここには放送大学の「八戸サテライトスペース」が入居している。新年度になって更新された学生証をまだ受け取っていなかったためだ。もう7月には試験があるので、そのとき必要になる。
今日は娘の運転で連れて行ってもらった。娘はまだこのビルをしっかり見たことがなかったようで、2階にある企業の展示スペースは興味深そうだった。地元企業のほか誘致企業がそれぞれの自慢の技術を展示している。
ユートリーの次にはいつもの百円ショップへ行ってみた。ホワイトボードとマーカーを購入。忘れっぽくなった両親のために、家族の毎日の予定を書いて目の前に貼り付けておこうと思ったのだ。
帰路はいつもあまり通らないところを走ってみることにした。隣の旧福地村(現南部町)まで行って、行きとは別のルートで戻ってきた。
自宅に戻ってホワイトボードに書き込みをして貼り付けてみた。なかなかいいようだ。
2011年06月10日(金) |
三陸はるか沖地震の頃の記憶 |
三陸はるか沖地震の復旧の目途もついたころである平成8年の異動で、それまで11年在籍した部署から開発指導課へ移った。平成6年のはるか沖地震で危険建築物のレッテルを貼られた旧庁舎の建て替えのため、各課は分散していた。それまでの長根運動公園内にあるスポーツセンターの会議室から、テニスコートに建てられたプレハブの仮庁舎に職場が変わった。
それまでの建設部から都市開発部へ、しかも窓口業務ということでストレスが強くなった。一般市民より、したたかな開発業者の相手が大変だった。言葉尻をとられたり、揚げ足をとられないよう気をつけなければならなかった。言ってもいないことを、以前お前はOKと言ったと、平気でうそを言い立てられ、言った言わないの応酬になることも度々だった。そういうのは大抵同一の業者であることが多かった。
自分の所属する班に、国土法担当の中年の一見真面目そうな小男ががいた。ところがこの男酒癖が悪く、特に二日酔いの朝は目が座ったままで、割合早く出勤してくる。そして仕事が動き出した9時過ぎぐらいになると始まるのだ。(酒が切れないうちに)
突然大きな声で話し始める。それまで根に持っていた若手をいじめ始める。知らないふりをしていてもどんどんエスカレートする。何人がいやな思いをしたことか。
あるとき若い女性職員を槍玉に挙げた。でもこの女性言い負けずに、最後には 「酒臭いですよ、H谷川さん。酔っていないときにしてください!」 と、見事に肘鉄を食らわせた。なかなか勇気のある行動だった。
私のこれまでの経験で言えば、自己顕示欲の強い小柄な男は、声の大きさで相手を威圧しようとする傾向があるように思う。昭和60年代に港湾河川課長だったE藤氏はその典型だった。議論をしていて不利になると、相手より大きな声を出して威嚇し、相手を封じ込めようとする。このE藤課長とは何度口論したことか。(口論である。議論にならなくなる。)
あるとき(上級官庁である)県庁の国土法担当者から電話が来た。その電話に出たH谷川氏は途中から興奮し始め、電話を繋いだまま相手を待たせておいて、取り次いだ若手職員を大声で叱り付け始めた。それはほとんど言い掛かりに近いものだったけれど、オンラインのままの電話で県職員に聞かれているために、そに若手職員はあからさまに反論できず難渋していた。実はそこがH谷川氏のテクニックで、相手が反論しにくい状況でしか責めてこない。
窓口に一般市民が来ていて、市民の目と耳があるときとか。なぜなら市民には彼が二日酔いであることも、彼の言い分が理不尽だということも、カウンター越しにはなかなかわからないからだ。
二日酔いのくせにその辺の計算はしたたかだ。
その後H谷川さん、どうしてるかな? 肝硬変や肝臓がん、脳卒中なんかになってるかもしれないな。 俺より長生きしたら許さねえぞ。
2011年06月08日(水) |
救急隊員との伝言ゲーム |
大震災があってからまもなく3ヶ月が経とうとしている。亡くなられた方々のご冥福をお祈りすると共に、いまだ行方のわからない方々が早急に発見されますことを願って止みません。また、依然避難生活を余儀なくされている方々にも、なるべく早く元の生活に戻れるようお祈りします。
これまでなるべく震災のことは考えたくないと思ってきたが、最近、過去の地震の時のことをよく思い出すようになった。地震常襲地帯に住んでいるため、ガキの頃から何度も地震被害に遭遇してきた。その記憶はなかなか鮮烈だ。
我々の八戸地域は度々大きな地震や津波の被害に遭っている。自分の記憶にあるだけでも 昭和36年 チリ地震津波 昭和43年 十勝沖地震 平成6年 三陸はるか沖地震 平成23年 東日本大震災
このうち平成6年の三陸はるか沖地震は、直後に発生した阪神淡路大震災の衝撃と、「はるか沖」なんていうのんびりしたネーミングのせいでか、世間からは無視されるがごとく忘れ去られてしまった。
そのはるか沖地震の数年前ではなかったかと思う。当時庁舎の3階にあった道路建設課長はT田氏であった。
その年の仕事納めの式が終わって、職場での懇親会がそれぞれの課で行われた。だいぶ盛り上がってきた頃、その事件は起きた。(奇しくも平成6年の三陸はるか沖地震は仕事納めの日に発生した。だから夜中に集合した職員はほとんどが酔っ払いだった。)
酔って階段を降り始めたT田課長、3階から2階への踊り場で転倒、後頭部を強打し裂傷を負い、アルコールが入っていたせいもあったためか、大量に出血した。頭を打った音が階段室に響き渡った。それに真下の2階にあった都市計画課の職員が気づいて「119番」通報した。庁舎の隣にある消防本部からすぐに救急車が到着した。T田課長のいる課の職員は救急車のサイレンでコトに気づいた。
当時は携帯電話もなかったので、直近の課の職員がその事務室の電話から、救急隊員の言うことを復唱するように口伝えで消防本部に伝えた。
隊員「後頭部に裂傷あり」 職員「後頭部に裂傷あり」 隊員「○○の必要あり」
このとき、その電話口の職員には隊員の言った「○○」が聞き取れなかった。聞き返せば良いものを、酔いのせいかとっさに 職員「ナンダガの必要あり」 と大きな声で言い放った。周囲は唖然として一瞬静まり返った。 すると救急隊員が冷静にさっきの「○○」をゆっくりと言い直した。 隊員「縫合の必要あり」
そしてその職員は何事もなかったかのように 職員「縫合の必要あり」 と復唱し、伝言ゲームのような電話リレーは終了した。 後頭部に切り傷があったので縫う必要があったのだ。そしてT田課長は担架で運ばれていった。これがそのときの顛末である。
しかし、我々はその場では必死に笑いをこらえていた。アルコールがはいっていたのでこらえるのが辛かった。
その後、自分たちの部屋に戻り、腹を抱えて笑った。人間酔うと漫才のようなことを真剣にやっていたりする。しかしそれが本当に喜劇になってしまうこともある。
何度思い出しても爆笑してしまうのだ。 今はどうしているかな、S子内さん。
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