山ちゃんの仕方がねえさ闘病記
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2003年07月31日(木) 腰の痛み

今朝起きがけに腰に痛みがあった。いやな雰囲気。

10時過ぎに帰省した下の娘が姉と一緒にやってきた。姉のほうは入れ替わりに上京するので二人でまた八戸駅まで向かう。

リハビリへ向かう。腰の調子がイマイチ。リハビリの先生は、今日は前かがみの姿勢をやってみようか。えっ、今までやってないの?ここにつかまって。
「ズキッ」
さっそくやってしまた。これではリハビリにも何にもならない。リハビリテーション科のドクターもやってくる。手術から4週間過ぎてるし、そろそろ腹筋背筋のトレーニングもしないとね。
「じゃあ、明日から痛み止めの坐薬をしてからリハビリに来てもらおうか。」

2〜3日安静にして様子を見て再開しようか、なんて言われるかと思ったら、痛いのを我慢して動けということらしい。妻から車椅子を持ってきてもらい、6階の病室に戻る。

痛み止めをしてベッドに横になる。昼食のためにベッドから起き上がる際にやはり痛みがある。飯を食ってまた横になる。トイレに起きる。また腰が痛い。

今日は2度のお通じ。昨日はなかったので、一日おきがリズムになってきた。しかも柔らかウンチ。こっちはいい感じだ。


2003年07月30日(水) 【写真付】函館はイカ踊り・・・八戸の「イカ特区」は

5時半ごろにNHKおはよう日本では函館の話題を取り上げていた。昭和40年代に大火に見舞われた函館では、復興の活力にとみなと祭りを一とそうだ。これが今では「ワッショイ!函館」という8月1日から5日までの大きなイベントとなっているそうだ。

その中に函館のイカをアピールすべく、「イカ踊り」というのがパレードに参加しているそうで、かなり盛り上がっているらしい。これは登録すれば誰でも参加できるようで、当日の朝でも良い。どんなものかちょっと見てみたい。。放送の背景に聞こえていた「いかおどっリー!」という掛け声のお囃子はとても楽しそうだった。

時期が八戸三社大祭とバッティングするので、当市の人たちはあまり知らないのかもしれないが、「イカ日本一」を標榜する我が八戸市としては函館にこの手の知名度をとられて良いものだろうか。もちろん祭りそのものものの質は違うのだろうが、なんでもよさこいソーランとか真似すりゃ良いっていうもんじゃないだろう。

「イカ特区」で八戸高校応援団の「イカ踊り」なんかどうか。折も折、国土交通省東北地方整備局港湾空港部が発行している「Bleu vague」vol.05/2003 Summer号では「八戸のイカが開く『循環型社会』」が載っていた。、昔は捨てられていたイカの内臓が八戸でイカ肝粉に加工され、東南アジアでブラックタイガーの飼料となり、育ったえびが日本の食卓に輸入されるという、究極のリサイクルは、記事のタイトルにもあるみなとのフロンティアにふさわしい。そして続きの記事は八戸発アートグループ「ICANOF」。イカの腑=イカの府=八戸の街とひっかけて八戸の芸術をアピール。どんどん思いは広がる。

6時半過ぎにベッド上で軽く体操をし、這い出す。廊下で屈伸運動をしてみようと歩き出すが、もはや腰に痛みが走る。どうも起きがけというのは良くないようだ。車椅子に戻る。

リハビリ3日目。昨日少し早めにと言われたので、10時15分にリハビリテーション科へ。担当の先生は先客の指導をしているので、肩回しとウォーキングのの自主トレを開始する。姿見大の鏡で立ち姿勢をチェックしているところへ担当の高橋先生が来る。いい感じの体の角度だそうだ。昨日の午後と今朝、腰にズキンと痛みがあったことを話すと、「この天気だからねえ」というではないか。やはり天候は腰の痛みなどに影響があるのか。プロが言うのだから間違いないだろう。

先生について歩く。横ステップ、後ろステップ。踏み台昇降。ベッドで腰痛体操。
「一応一通り終わりました。」
これはさっき言われたことを一通りという意味だったが、自転車漕ぎが残っていた。すかざず
「一通りというのは全部やったという意味なんだ」
などといわれる。まあ今日もなんてムカつく言い方。
「はいはい、私の表現が悪うございました。以後言い方に気をつけます。」
10分間バイクをこぐ。昨日サドルの位置が低かったので高くしてもらう。昨日は終わったあとにサドルの調整をしてみようとしたら、ストンと下がってしまった。そのやり方が悪かったと一くさり注意される。こっちは一生懸命なのだからもう少し気分良くやらしてくんないかなあああ。それでも今後のことを考え、大きな声で
「どうもありがとうございました。」
と一礼(前かがみになれないので、したくてもできない)せずに帰ってきた。

6階東病棟スタッフ一覧”
さて、お楽しみの「看護婦ランキング」であるが、看護婦さんの名前と顔がイマイチ一致せず難航している。名札を見える位置にきちんとつけている人とそうでない人がいるのだ。ナースステーションの前には「6階東病棟スタッフ」の写真一覧が張り出されているのだが、どうもこれは古いらしい。剥がされた後もあるし、私のところに来る若い看護婦の写真がない。撮影しているときに通りかかった看護婦さんに「写真を更新しないとだめですよ。」とは言っておいたが、何かしてくれるといいけど。
ということで、労災病院版「看護婦ランキング」はもう少しおあずけ。

市役所若手技術屋の有志たちが見舞ってくれた。港湾河川課の夏堀、荒谷、石橋の諸君だ。八戸市建設技術協会からのお見舞いも届けてくださった。若い人たちと話をするのはとっても活力をもらう。気分がハイになる。また彼らとも一緒の職場になることもあるだろうし、スポーツをすることもあるだろう。楽しいひと時だった。

夕食時になんとなくカップラーメンを食いたくなる。ノンフライ鶏がらスープを食らう。カップラーメンて美味いもんだ。


2003年07月29日(火) 【写真付】せなの傷 定点観測

夜中に何度かトイレに起きるが、今朝4時ごろに起きた後、眠ることができずに、5時ごろからはラジオを聴いて過ごした。2時間ベッドに目を覚ましたままじっとしているのはたまらない。

約束の10時半にリハビリテーション科へ行く。窓口の看護婦さんが
「山村さん、診察があるからちょっと掛けて待っててね。」
というから待っていた。15分もたったか。診察しないうちに奥から担当の高橋先生がきて、
「先に診察あるって?だったらもと早く来てもらうんだったな。次の人ととかち合うな。」
そういわれてもこっちは指示通りに来ただけジャン。一瞬ムッとするが、黙って待っていると、リハビリテーション科の先生に呼ばれる。肩が痛いと昨日訴えていたので、その診察だ。下半身のトレーニングに加え肩の運動も入れてもらうことになった。

今日は腰痛体操から。ベッドに仰向けに寝て、
1.交互に膝を立てる。
2.膝を立てた姿勢から交互に曲げる。膝を両手で抱く。
3.股膝90°位から膝をまっすぐ伸ばす。
4.ゴムチューブを足先に回して外側に開く。
を10セット。

まっすぐ歩く。腹筋に力を入れて前に引っ張られるように歩く。膝が曲がらないよう。

ウェイトを膝屈伸で持ち上げる。30セット。

自転車こぎ、ちょっとだけ負荷を掛けて10分間。

肩回し専用機械で30回。

体操の吊り輪のようなもので肩を伸ばす体操。

以上やったら
「あと終わったら帰っていいですよ。今度からもう少し早く来ていいですよ。」
「はい、では少し早めに来ます。ありがとうございました。」
こうしか答えられない、なんて素直なんだろう。

こうして部屋に戻ったのはもうお昼近くだった。体の汗を拭いているうちに昼食がきて、食べ終わるとすぐに点滴が入って、その途中に母と娘がやってきた。母は
「便秘にりんごが良いずの、忘れでらった。いっぺえ食うんだ。」
と、たくさん買ってきた。でも、最近便秘調整がうまくいっている。食後に飲んでいる便を軟らかくするという粉薬がいいようだ。昨日は出てないが、点滴が終わらないうちに便意をもよおしてきた。点滴終了と同時にトイレに急行。比較的軟らかめの「モノ」を大量に噴出。一日おきだがこれまでの苦労を思えば上出来、上出来。この調整でしばらくいきたい。

おばあちゃんとねこ”
母が妻と一緒に帰った後、娘と売店へツアー。歩くようになったら行動範囲が広がり、なんとなく楽しい。それぞれ好みの飲み物を調達し、部屋で乾杯。

6階ナースステーションの窓口に、手作りのおばあさんの手袋人形とお手玉サイズのねこのぬいぐるみが飾ってある。娘は私と散歩するたび、このねことおばあさんの位置を変え、楽しんでいる。おばあさんの膝に乗せたり、脇に置いたり。それがとてもかわいい。持って帰りたいくらいだ。

この後、午睡をする。昼寝のことだが、【午睡】といと、病気を改善するために午後睡眠をとるというイメージ、【昼寝】というと、なんかただぼやっと怠けて寝てるようなイメージを抱くのは自分だけか。まあ昼寝なんだけど。CDを聞きながら横になった。約1時間のCDがかかっている間、まどろんだ。途中いびきをかいていたらしく、娘がイヤホンをはずしてしまった。そのとたん目が覚めてしまった。かかっている間眠るからとまた着けてもらい眠る。昼寝の時には有効方法である。

しかーし、昼寝から目覚め、娘と散歩を開始した直後にその異変は起きた。一応廊下の手すりにつかまって腰の準備運動をしてから歩き出したのだが、数歩歩いたところで腰にビリビリという痛みが走り、先行する娘の肩につかまってしまった。
「ま、まずい。くっ、車椅子を取ってきてー。」
娘が大急ぎで車椅子を取りに行く。持ってきてもらって座る。そのままナースステーションへ行き、事情を説明。結局今日も痛み止めをしてもらうことになる。リハビリの負荷がかかり過ぎているのか。これではリハビリも逆効果にならなければよいのだが。ちょっとがんばり過ぎか。

背中の傷の証拠写真を残しておくために、「せなの傷 定点観測」を作ってみた。撮影条件を一緒にしないといけないのだが、なにせ素人写真。写す時間帯も違えば周りの明るさも違うし、ストロボがあったりなかったり。それでも似たような位置から撮ったから大体わかるだろう。だんだん消えていくんだろうな。キャプテンハーロックでなくなるのはちょっと寂しいけど。


2003年07月28日(月) リハビリ開始!

今日からリハビリが始まった。午前10時半にリハビリテーション科へ行く。自分のカードを持って理学療法室へ。担当は高橋先生というおばさん。まず聞き取り調査から。自宅の状況、周辺の事情はや通勤方法、仕事の内容、職場復帰への意欲などなど。もちろん完全復活への強い意欲をアピールする。

それから軽い運動能力の確認。足を持ち上げる、開く、曲げるなど。先生が手を添えてその力に負けないように膝を持ち上げるテストのときに、がんばりすぎて右の腰に痛みが走る。まずい。力みすぎたか。

次にウェイトをつるして膝を持ち上げる。30回。

1本のライン上に片方の足を載せそのつま先に他方の足のかかとをつけライン上を交互に歩く。次にライン上に横向きで左右交差しながらステップを踏む。最初は右から左へ。次に左から右へ、と移ったとたん、また右の腰に痛みが走り中断。左がちょっと弱っているかな。

最後に早足で歩いて歩行速度を測定。

今日初日のメニューはこれだけであるが、明日からは自転車コギとかするので、汗をかくかもしれないからタオルを忘れずに、そしてできればシューズを用意してということだった。

昼食後、点滴をしているところへ新井田の伯父夫婦がきてくれた。てっきり4階だったと思い込み、何度もさがしたらしい。前回来たときにはちゃんとここまできてくれたのに、といったら、そうだったかな?しっかりしてくれ。しかも伯父は午前中この労災病院で診察を受け、そのあとで寄るつもりだったのに、すっかり忘れて帰宅してしまったという。奥さんに寄って来たのときかれ忘れたことに気がついたとか。ちょっと怪しくなってきた。

伯父たちがいるときに長谷川先生が回診に来て、いろいろと状況を確認していった。その様子を見ていた伯父は、
「女の先生が?」(この場合【女】は「おなご」と発音する。)

これを聞いて思い出したことがある。北沼に八戸港管理事務所などが同居する新産会館があるが、そこのトイレの表示がちょっと気になるのである。どう書かれているかというと、
【男便所】
【女便所】
なのだ。正式な表示だろうが、なんとも違和感がある。私が読むと伯父流に
「おどごべんじょ」
「おなごべんじょ」
と発音せざるを得ない。もっとすっきりセンスの表示にならないものか。


午後2時の痛み止めの飲み薬の時間に担当の本間看護婦さんが持ってきてくれた。肩の痛みがあるのに腰の痛みが加わったので痛み止めの坐薬をしてもらった。とても楽になった。

初めて売店に歩いて行ってきた。蛍光ペンがほしかった。これまでは車椅子で外から眺めるだけだったが、今回品揃えをよく見ることができた。特に雑誌コーナーではちょっと立ち読みをした。月刊プレーボーイまであったのには意外だったが、娘が一緒だったのでグラビアのヌードがチラッとしか見られなかったのが残念。今度は一人で来ようっと。

夕食後、政策推進室の小笠原・大嶋同級生コンビが来てくれた。室の仕事ぶりが手に取るようにわかるよう話してくれた。こういう会話がうれしい。大嶋さんからは後日研修のリポートが送付されることになった。ぜひ読ませてほしい。


2003年07月27日(日) 【写真付】病院内で健康講座

かごに入った素敵なフラワーボックス”

東京の白井さんからお花が届いた。
段ボール箱に収められたかわいいボックスフラワーだった。

労災病院では午前10時から第2回健康講座が開かれたので聞きにいった。看護婦さんに10時からの講座に行ってもいいですかと問えば、それが何かわからない。じゃあ点滴を早めにやってあげようね。で、どこかの公民館に行くの?という感じで、看護婦さんたち病院内で講座があるのをご存じない。意外とこんなもんだろうと思っていると、院内放送が健康講座があることを告げ、皆さん納得する。




講話1 おしっこで困っている人のために  泌尿器科部長 柳沢 健

前立腺肥大症は、前立腺が年齢とともに腫れてきて、尿道が圧迫され尿が出にくくなる病気だ。男性の約三分の一が発症するといわれている。老化現象の一つと見ることもできるが、放置するとガンを併発したり生活に支障が出てきて、命にもかかわることがあるそうで、正しい知識を持たなければならない。

前立腺がんの検査は「前立腺特異抗原」(PSA:Prostate Specific Antigen)が主流となっており、採血でほぼ確実に診断できるといわれている。

講義の後、柳沢先生に前立腺を取ることによるデメリットはないのか質問してみた。そうすると、精液が膀胱のほうへ逆に射精されることがあるので、そうなると子供はできなくなる。そういうリスクがあるという程度だ。




講話2 減塩について              栄養管理部長 田村英子

やはり「生活習慣病を予防しましょう」というよくあるテーマで話は進行した。
・一日三食きちんと食べましょう。
・夜食、間食は摂り過ぎないようにしましょう。
・酒は飲み過ぎないようにしましょう。
など、その中で印象に残ったのは、
「【健康食品などの】食に関する情報が氾濫しすぎています。惑わされないようにしましょう。」
というものだった。確かに世の中健康食品の類が溢れている。私自信、昔は見向きもしなかったのに、あちこち痛くなってからは周りから勧められるままに、わらにもすがる思いでいろいろ試したものだ。

塩分を摂りすぎないよう、15項目の注意事項を示してもらったが、それ以外のお話の中に
「市販食品に隠れた塩分に気をつけること」
というものがあった。最近の食品は食塩の量がはっきりと表示されていないものがある。たいていは食塩ではなくナトリウムと表示している。
  ナトリウム:3.0g   (めん・かやく 1.1g  スープ:1.9g)
という具合だ。この場合食塩の量はいくらか。
  食塩(g)=ナトリウム(g)×2.54=3.0×2.54=7.62g
も入っているのだ。(明星 「旨みだし塩ラーメン」の場合)




昼食前に義兄が見舞ってくれる。またメロンをたくさん差し入れてくれた。最近ネットがしたくてパソコンを買ったらしいが皆目わからないとのことで、午後娘を講師に派遣することにする。

昼食後トイレに入っていると、トイレの外で何気に呼ぶ声がする。出てみるとお袋と娘がいた。部屋へ行ってみたらいなかったのでトイレまで迎えに来たそうだ。母によると、近所の知り合いから、私に飲ませたい漢方薬があるのでぜひ差し上げたいと言う電話があったそうだ。飲むかどうか確認してからと言っておいたそうだが、ブラジルから送ってくる「なんとか」という薬だそうで、胆石もガンも消えるという。とりあえずもらっておくことにするか。(アガリクスかプロポリスが考えられるが、電話では葉っぱを煎じると言っているそうだから大麦とかイチョウの葉っぱかも)

NHKのテレビ番組を見ていた午後3時半ごろ、これまでと別な感触の地震があった。ニュース速報に注目していたが一向に報道がない。BSのチャンネルを見てもテロップさえ流れないのだ。これは変だと思い、数分後チャンネルを民法に切り替えてみたら、それぞれテロップで速報を流しているではないか。しかも震源地はこれまでとは違う日本海北部、マグニチュード7.1、津波の心配はなさそうだ。NHKにチャンネルを戻してみる。でもやはり報道される気配がない。民法を見ている隙に見逃したとは思われない。もし「津波あり」だったらNHKを見ていた人たちは知らないで過ごすことになる。これは大変なことだ。津波の警戒は地震直後1〜2分が勝負だからだ。一連の宮城県北部の地震では小さな余震まで非常にナーバスな報道を繰り返していたのに、この日本海側の地震報道がなかった(あるいは遅れた?その後されたかどうかわからないので)のは大きなミスではなかったのか。また、わかりつつ報道されないのであれば、それは大きな偏りである。

<データ>
財団法人日本気象協会JWAのホームページから


気象庁 27日15時38分発表

【発現時刻】 27日15時26分頃
【震央】 日本海北部
【深さ】 480km
【規模 M】 7.1
【北緯】 47.0° 【東経】 139.0°


2003年07月26日(土) 【写真付】宮城県の地震で労災病院も揺れる

書道クラブのお二人が見舞ってくださる。
さすがにネットは見てないだろうから、パソコンで背中の傷を見せてやった。今年の本院展で上位入賞したので東京都美術館へ見学に行ってきたそうだ。ご一緒したかった。

未明の地震が強かったらしいと朝のニュースを見てたら、その最中にさらに強烈な地震があった。ここからNHKニュースはずうーとこのニュースが続く。

このニュースの中でアナウンサーが各地の町村役場に電話して被害状況を尋ねる場面がたくさんある。電話される町村側はたいてい総務課長などが対応する。これを聞いていると変に面白い。

町村によってきちんと答えられる人と答えられない人がいる。質問に答えが一致している人、なぜか質問に答えが合わない人、さらにはそれは聞いてないのに答えられない理由を先回りして言い訳する人、さまざまな人がいるものだ。それぞれ総務課長さんだからその町村のレベルがわかってしまうというものだ。きちんと答えられるよう準備なり訓練が必要かもしれない。そのために防災担当がいるのだろうから。

もう一つ、とっても気になることは、NHKのアナウンサーはマニュアルどおりに質問しているのだろうけれど、相手の答えととずれていることがしばしばあるにもかかわらず、同じ質問を繰り返すことだ。質問は一方的かつ硬直的で、相手が調査中だと言っているにもかかわらず、未調査の項目の質問を繰り返し続けるのだ。これは今回気がついたことではない。これまでの報道を見てきてずうーと感じてきたことだ。災害のたびに繰り返されている。

だいたい災害の渦中にある市町村役場はてんてこ舞いの忙しさであるはずのところに電話しておいて、一方的に要領に得ない質問を繰り返すのはやめてもらいたいものだ。受ける側にしても生放送でNNKという公共の電波に乗っているわけだから邪険にもされず、困っているに違いない。NHKはいつになったらこんなことに気がついて改めるのだろう。
(誤解のないよう付け加えておくが、私は市町村側の説明責任を言い逃れているわけではない。もうちょっと質問の仕方を考慮してはどうかと思うのだ。今日見ていても、全国放送のアナウンサーが質問して、ローカルに切り替わったら、また仙台放送局のアナウンサーが似たような質問を同じ総務課長さんにしている場面に出会った。)

今日から第二弾の治療が始まった。第二回目のシリーズの点滴が始められた。「血管の確保」作業ができていなかったので午後からの治療になった。でも点滴はボトル1個だけだったので1時間弱で終了した。

終了間際に接待部長が来て下さった。ご自宅が桜ヶ丘なので近いというお話だった。最近の状況をお話くださり、仕事は順調だから心配せずに療養するするようにとのことだった。最後は立ち上がってお話しをしたら、大丈夫かと心配して下さったが、こちらが会釈もできずに失礼した。前屈ができないのだ。

背中の傷平成15年7月25日撮影 少しは薄くなったか
昨日一週間ぶりに背中の傷を撮影した。昨日はUSBコードがなくパソコンに取り込めなかったので今日その作業をした。一週間前の傷と比べてみたい。娘に言わせるとだいぶ赤みが引けて薄くなってきたそうだが、写真でそれがわかるだろうか。


2003年07月25日(金) ふけさめ

今朝も右肩から背筋にかけて痛い。昨日痛み止めをしてもらったときはだいぶ楽になったのだったが、今朝はやはりその効果も切れていたのか、痛みが戻っている。哀しいかな、である。

このように、良くなったり悪くなったりするときに用いる語に「ふけさめ」がある。「最近の私の肩の調子にはふけさめがある」といった具合に使う。

お腹の調子にもふけさめがある。昨日まで2日ウンチが出なかったのに、今日は下剤等の成果が出て午後から3回、しかも軟らかいのがたくさんお出ましになっている。

午後リハビリテーション科に呼ばれた。こちらも女性の先生だった。現在の腕力・脚力などを確認した後、来週から開始する歩行訓練などのリハビリメニューを決めてくださるそうだ。思えば6月5日に歩けなくなって以来約2ヶ月、やっと歩くための訓練が開始される。どんなに待ち望んだことか。うわさによるとリハビリは女性の先生のほうが厳しいらしい。あまり加減をしないのだそうだ。お手柔らかにお願いしたい。

今日は道路維持課の方々が見舞ってくださった。歩行練習をしているところへ来たので歩いている姿に驚いたようだ。

夕方を迎える前に外の景色はとうとう真っ白になってしまった。ガスでなんにも見えないのである。この病院に入院してからもっとも濃い霧だ。それにしても、いつになったら夏が来るのか。いい加減天気も回復して欲しい。

天気のほうはふけさめがなく、ふけてばっかり。ん?どっちが「ふけ」で「どっちが「さめ」なんだろう?
この場に佐藤政五郎著「南部のことば」がないのが悔やまれる。読者の中でリサーチが可能な方がいたらぜひ報告をお願いしたい。


2003年07月24日(木) 【写真付】獄中バースデー

本日、私めの獄中バースデーである。

昨夜から窓の外はぴゅーぴゅーと風の音が強く、音だけ聞いているとまるで真冬のようだ。このような音を聞くとき、当地方では「コッチャビシネェ」という形容詞を用いることがある。
「サビシイ」⇒「サビシネェ」⇒「コッチャビシネェ」
と変化してきたと考えられる。(最後の「コッ」は強調の接頭辞である。)
この監獄内での誕生パーティにはふさわしい天候である。

今朝母が櫛引八幡宮へ赴き、私の誕生日に病気平癒祈願の祈祷をし、お守りを頂戴してきてくれた。デイルームでショートケーキを広げ、しばし誕生日気分にひたった。満47歳である。しかし、母はどうしても48歳だと言うのだ。それは数え年だろうと話しても納得いかなそうである。どうも今朝八幡様で祈祷のお願いをするときに、数え年で申告したのが頭に残っていたらしい。

最近の7月24日は梅雨が終わらない。がきの頃、私の誕生日は夏の暑い日で、井戸水で冷やしたスイカを食べさせてもらうのが恒例だった。冷蔵庫などなかったので、冷たくするといえばもっぱら井戸水で冷やした。我が家の井戸は隣の井戸から分けてもらっていた。速く冷やしたくて手動式のポンプで一生懸命汲んだものだ。そして夕方、猛暑も涼みかけた頃、母から切ってもらったスイカにジャフジャフっと食らいつく瞬間がたまらなかった。

冷蔵庫で冷やしたスイカがきらいである。あのいかにも人工的に冷やした、まるで冷凍寸前の冷たさのスイカがきらいだ。冷えすぎると味がなくなる。あまり美味しくないので冷たすぎるスイカを電子レンジでチンしたことがある。みんな笑うが試してみてほしい。いまどきの電子レンジは性能がよいので程よい温度に戻してくれるのだ。

午後は櫛引八幡宮の総代の方々のうち、最も話題豊富でにぎやかな方々お二人が来て下さった。いつも神社のイベントの際はお世話をいただいている。今日はまたいろんなお話をうかがうことができた。

昨日から背中が痛くて、日中も寝たり起きたりであるが、午後2時の検温では37.6度と、ちょっと熱があることが判明。午後5時でも37.4度、痛みも続いていることから痛み止めの坐薬を使ってみることにした。一般に効果が出現するまでは使用してから約30分といわれるが、本当に30分を過ぎた頃から痛みがほぐれてくるからすごい。効いてくるのがわかるのだ。すばらしい。これならもっと早くやってもらえば良かった。

絵美が持ってきてくれたフラワーアレンジメント 手提げのついたかごに入ったとっても素敵なやつ

夕方、以前私がコーチをしていた八戸高専女子バスケットボール部の当時の主将がお花を持って見舞に来てくれた。弘前市役所で働いている。弘前市とは当市とバスケットボールで交互に交流試合を行っている。最近は女子の選手もおり試合ができるようになっている。交流の幅が広がることを期待したい。




2003年07月23日(水) 体調悪し

朝から調子が悪い。
どう悪いかというと、右肩から右背筋にかけて痛い。ただ痛いのではない。激しく凝ったように痛いのだ。ベッドから起きるときに右腕の力を利用し、プッシュの力で体を起こすのであるが、それによって疲労し痛くなったのか。

一つ痛くなると別のところにも波及する。腰が痛い。気をつけないとまたぎっくり腰のようになりかねない。起きるときも寝るときも、立ち上がるときも細心の注意を払う。

足がだるい。特にふくらはぎがだるい。これは昨日歩行練習をやりすぎたか、とも思ったが、自分の運動経験からすると痛みが出るほどやってない。

もしかして化学療法の副作用?でだるいのか。ちょっとはそれもありかな。眠気もある。朝食後今日はシャワーをパスして眠る。起きるとすぐにまた飯だ。具合が悪いのに飯は良く食う。食った後また寝る。

今日は白銀地区でタウンミーティングだそうで、それに出席に向かう途中妻神次長が寄ってくださる。次長は剣道をやられているが、腰の痛みは経験があるらしく、詳しく教えてくださった。けっこう皆さん経験していらっしゃる。そうしているところ、隣の患者さんのところへ若い看護婦がきた。
かわいいタイプの人だったので次長はしっかりとチェックを入れている。このフロアには男性看護師がいないという話をしたら、次長は指名料を払ってもいいから女性の看護婦にしてもらうと言っていた。95%賛成したい。(残りの5%は本日記前半を参照願いたい。)

下剤を服用しているせいか、ときどきキュルキュルとお腹が痛くなる。でも今日はウンチ出てない。


2003年07月22日(火) 病室で新聞を読むと

今日の新聞から

新しい知事が田子町で行われた、産業廃棄物不法投棄問題の対話集会に出席したそうだ。県のトップがこの問題で住民と対話するのはなんと初めてだそうだ。もちろん、住民に対してごめんなさいをしたのも初めてだろう。1999年に発覚以来だから4年が経つ。行動の人とまで言われた現場主義の前の人はこの件に関してどう思っていたのか真意がききたいものだ。

ALTのサニとコリーが帰国するそうだ。職員の英会話クラスではお世話になった。

田子町があつい!
ブルーベリーラーメンの販売が開始された。冷やし専用らしいが、田子郵便局長が考案したそうだ。
29日に田子地域大学が設立されるそうだ。発起人はやはり田子郵便局長。事務局も田子郵便局。郵便局長さんがんばってるぞー。

「海洋立市」の記念イベントがある。8月30日に「海の八戸ツアー&セミナー」が開催されることになった。残念ながらこの日には私は間に合いそうもない。

「消防団員減少の一途」
「地域防災に黄信号」「高齢化深刻」「入団者減少」
「自分の地域は自分たちで守る」という意識をもって消防団活動に入ってもらえる若者をどうやってゲットするのか。記事は地域住民の意識改革を迫っているが、果たしてそれだけか。私にはもう一つ、消防団組織内の意識改革が必要であると考える。何十年と変わらない半纏の着用、本番の火災では役に立ちそうもないポンプ車操法大会、そのための連日の訓練、わざわざ厳寒の吹きさらしの中で行われ、体を壊しそうな消防出初式。無駄と思われるものがこんなにたくさんあるのに何一つかわらない。
しかも私が小さな分団で声を上げてもなかなか上には伝わらないのか。
そして隣の記事に目を転じれば、熊本県の水害では救援活動に出ていた消防団員が死亡したという記事が出ている。雲仙普賢岳の噴火の際も警戒中の消防団員多数が犠牲となった。常に危険と隣り合わせであり、安易な気持ちでやる仕事ではない。

とにかく意識改革は迫られている。俺も団員だ。

風子さんから、また歌の書き込みをいただいた。保存のためこちらに転記しておく。

風子さんのうた

「美人医師 君に全てを託すから 意の向くままに 好きにしてくれ」
「わたくしの白血球の闘いはいつも熱くて見直すばかり」
白壁に差し込める陽を独り占めBGMは点滴の音」

返歌

「それぞれの体の中で戦える白血球は熱血漢か」
「いつもならうるさいだけに感じてる娘の声も癒しの音に」
「ちょっぴりはしたいと思う独り占め 白衣の天使も美人の医師も」


2003年07月21日(月) 真夜中の来訪者

救急病院であるから深夜にも救急車の出入りがある。
零時ごろバタバタと向かいのベッドに運ばれてきた若者がいる。急病人か。何度も咳き込んだり嘔吐を繰り返していた。朝になってトイレに起きた彼は、なんとなく照れくさそうに会釈をしてトイレの場所を訊いた。ずうっと反対側だと教えてやると、点滴のスタンドとともに歩いていった。戻った後、看護婦との会話から察するに、夕べはこいつ急性アルコール中毒で担ぎ込まれたらしい。どおりで照れくさそうにしていたわけだ。でも付き添いは誰もいない。どんな仲間と飲んでいたのか知らないが、薄情ではないか。ていうか、他の入院患者の迷惑だからこういうやつらは来ないでくれー。

さすがに朝食時ごろになったら家族らしい二人がきて握り飯を食いながら患者と話をしていた。盗み聞きをしたわけではないが、どうやらやつは夕べ誰かの結婚披露宴で倒れたらしい。それほど深刻そうでもない。昼食後に「お邪魔しました」といって退院していった。

食事が変わった気がする。これまで朝のご飯も普通のどんぶりに普通に盛り付けてあったので、ずいぶん多いなと思っていたが、今朝は一回り小ぶりの茶碗になっていた。今日だけなのか。昼はサンドイッチだった。量は少なめ。でも、いつも多く感じていたからちょうどいいかも。

昼食後一眠りする。ほんの小一時間だ。目覚めたところへ池本室長が来てくださる。少し前に来たけど眠っていたのでわざわざ時間をつぶしてきてくださったそうだ。放射線治療などでぐったりしているとでも思ったらしい。放射視線はやっていない、化学療法だけだ。
室長は先日ある会合へ市長と一緒に出席したときのことなど、苦労話を面白おかしく教えてくださった。
「今日は普段着でお休みですか?」
と馬鹿な質問を発してしまった。
「山村さん、入院が長くなってずいぶんずれてきたんじゃないの?」
そうだった、今日は休日なんだ。今朝は妻と休日でもシャワーが使えるかどうかという話をしたばかりだったのに、もう忘れていた。
何度もおいでいただき本当にありがたい。

その後、バスケット部OBの上田先輩が来てくださる。今年は東北で優勝できなかったにもかかわらず出場枠があったので全国大会にいけるという話で盛り上がる。(どちらかと言うと盛り下がる。)
「2位でも行くの?飛行機で?俺たちのころは急行列車だった。」
などなど。もちろん悪気はない。笑い話としてだ。

お腹の調子は今日も今ひとつ、二つ。今朝から昼までに4回トイレ(big job)に立った。不謹慎といわれるかもしれないが、土砂災害に例えるなら、鉄砲水ではなく土石流といった具合の出方だ。完全に下っているというほどではない。下剤の調整がそれほどに難しい。今日は錠剤と水薬の組み合わせをどのようにすればよいのか悩ましい。


2003年07月20日(日) しゃっくりの止め方

昨夜寝る前にしゃっくりが出始め、とりあえず水を飲んでも止まらず、これは運動不足だろうと廊下を歩いてみたり、便所でウンチを出せばなんとか止まるんじゃないかとか、ネットで「世界のしゃっくりの止め方」というサイトを検索してみたりとか、いろいろためしてみたところがダメで、あきらめて横になる。しゃっくりが部屋中にこだまするし、なにしろ衝撃で背中の傷が痛い。やぶれかぶれでスポーツドリンクを一気飲みしてみたら、なんと止まった。やはりこれか。そうっと横になり、テレビでトルコのトプカプ宮殿を鑑賞する。1時間後さすがに水をたくさん飲んだので尿意をもよおし、トイレに立つ。起き上がった瞬間、しゃっくりが再発。くそっ、起きるんじゃなかった。またドリンクを飲んでみるが止まらん。看護婦さんに相談すると、横隔膜のあたりを冷やすと効果があるということで、横になりコルセットを緩め冷やしてもらう。これでもなかなか止まらない。コルセットを緩めているのも忘れて思わず起きかけ、腹筋にかなり力が入った。その瞬間しゃっくりは止まったのである。そうか、コルセットで締め付けているため最近は腹筋に力がなくなりしゃっくりを助長してしまったのかもしれない。今度からこれだ。

昨日今日と個室状態の部屋から窓の外を眺めると八戸港が見える。今朝はガントリークレーンが1機降りている。先日まではいつ見ても立ったままのように見えていたが、今日は稼いでいるなと眺めている。夕方はガスがかかった向こうに2機とも降りているように見える。2機一緒に稼動しているところはまだ見たことがない。そういえば港湾振興の仕事を離れてからはあまり現場に行っていない。

また便秘の話で恐縮ではあるが、さほどに深刻な問題である。
金曜日から本格的な治療が始まったのは既に書いたとおりであるが、この最初の日の薬に便秘傾向をもたらすものがあった。前日快便を通り越して下痢気味になっていた私はこの日だけは下剤を中断したのだった。ところが下剤の効果は前日の分で切れてしまっていたらしく、金曜からの分には新たに下剤の投与が必要だったらしい。木曜に出してから今日で3日目を向かえることになった。午前の点滴が終わる頃に便意を促すレシカルボンという坐薬をもらう。昼食直前になって効きだす。トイレに走る。また栓になっているらしい。痛い。最初のところが出るとあとは何とかなった。ほっとした。また繰り返さないよう管理をしなければ。

昼食後歩く練習をする。最近だいぶ普通に歩けるようになってきた気がする。もちろんちょっとした弾みでガクッときそうだから、かなり注意しながら、病棟の廊下を周回する。

歩いてトイレに行ってみた。部屋へ戻ってきたところに母が娘とやってきた。歩いている姿を見て大喜びの様子だった。私もそれに気を良くして、今日は同居人のいない窓際へ母を連れて行き、窓外に見える八戸港をひとしきり解説してみせる。「そこ魚市場、こっちはちくわやさん、向こうは三菱製紙方面、あれがガントリークレーン、そっちはセメント」ちょっと得意にしてみた。

母が妻と帰るのと行き違いに、畑中京子・捷郎夫妻が見舞ってくださる。京子さんには母が給食センター勤務時代に大変お世話をいただいた。ご主人にはお祭りでお世話になっている。昨日の建設部長メール事件のいきさつを教えてくださった。部長が大きなファイルを添付しようとしたのがまずかったらしい。私の元気そうな顔を見て安心してくださった。昨日の今日でありながらわざわざおいでいただき本当にうれしい。
そして「塩うに」を持ってきてくれた。これはありがたい。梅は妻が持ってきてくれたが、「塩うに」までは気がつかなかった。今日の夕食はうまがった。


2003年07月19日(土) 「看護師」か「看護婦」か

4人部屋のうち2人が退院して、もう一人の方が今日は外泊許可を取り自宅に帰られた。広い病室に私だけ(付き添いの妻か娘がいるが)である。これまでと違い大きな声で話ができる、物音を立てないよう気を使わなくていいなどのメリットもある。

今日は点滴が1本でおしまい。薬は朝は昨日と同じだが、昼は昨日より1個少なくなった。胃薬系統が1個減ったらしい。持参した看護婦さんに
「シュワシュワするのは減ったやつですか?」
と質問したら
「・・・・・」
看護婦さんは飲んだことがないのでわからないらしい。なるほど。薬剤師に聞いてみることにする。どうも今日は朝からゲップやしゃっくりがでるが、胃薬のせいかも。

ところで、最近「看護師」ではなく「看護婦」という用語を使用していることにお気づきだろうか。市民病院では名札にも「看護師」と書いてあったが、労災病院にきてからは文字で表示されているのは「看護婦」である。私のベッドの枕元にも
「血液科 主治医 長谷川裕子
   受持看護婦 本間 明子」
という表示がされている。しかも労災の看護婦さんたちは名札をつけていない人もおり、つけていても「看護局」という所属は書いてあるが身分は表示していない。このフロアには男性の看護師は見当たらないから全員看護婦で問題ないのだろうが、他のフロアはどうだろう。それとも男性は以前のように看護士と呼んでいるのかもしれない。

まあ、ここでの生活も先が長いのでそのうちに顔と名前を一致させたいと思う。看護婦ランキングはそれまでのお楽しみとしておこう。

今日も午後から娘が交代で付き添ってくれている。最近はパソコンを持ち込んで、空き時間には一生懸命何かを打ち込んでいる。何かと思えば音楽のデータベースを作成しているのだ。自分の持っているCDやレンタルで借りてきたCDから音楽をパソコンに取り込み、整理しデータベースを構築しようとしている。Windows Media Playerを使用して、CDタイトルや曲のタイトル・データなどを入力してデータベース化している。最初ちょっといじり方を教えたらどんどん機能を覚え、既に私がわからないことをやっている。若い分吸収が速い。フリーソフトのサイトからデータベースソフトのダウンロードの仕方を教えてやった。

背中の傷を娘からデジカメで撮影してもらった。なにしろ自分では傷が見えないのでどうしても見たかった。ついでにHPの写真をこれに取り替えた。早速見た人から「キャプテンハーロック」みたいだと言ってきた。さて「キャプテンハーロック」がわからない。ネットで検索する羽目になった。ついでにPCのデスクトップに画像を貼り付けた。

夕食後、書道クラブの佐藤翠洋先生が来てくださる。昨日市民病院へ行ったのだそうだ。痛みが取れて話ができるようになるには2週間ぐらいはかかるだろうと見込みをつけていたらしい。
今日は龍翠書院の幹部で構成している墨龍会のからのお見舞いを届けてくださった。さらに奥入瀬の水をペットボトルに詰めてきてくれた。天然水だそうだ。どこで採取したのだろうか。美味しかったら後で携帯に電話すればまた持ってきてくれるそうだ。何度も来ていただき本当にありがたい。

佐藤先生に背中の手術後をパソコンで見せた。なかなか豪快だ。数えてみると23針の縫合後があった。そこへ主任看護婦さんがきたので一緒に見せた。定期的に撮っておいたらと笑いながら提案された。ぜひそうしてみたい。徐々に消えてしまうのだから。


2003年07月18日(金) 治療開始とカキ氷

夕べから薬が出始めた。
今朝は食後に一つの袋に同じ種類の白い錠剤が4個、もう一つの袋に別の薬が二種類二個と一個、計7個の錠剤を飲んだ。

10時に「骨シンチ」のための注射にRI室に呼ばれる。骨の写りをよくするための造影剤のようなものらしい。病室に戻るといよいよ点滴が始まる。

午後1時、「骨シンチ」検査に呼ばれる。寝たままコルセットをはずすという。どうやってはずすのだろうと思っていたら、二人がかりで腰を浮かせて尻のほうからスルリと引き抜いた。私は横にはずす方法しか考えなかったので、割とすんなり抜ける方法にびっくり。さすが現場の人たちはいろいろ経験しているのだろう。

30分間動かないこと。カメラが顔面すれすれの高さを通過する。目を開けているとすごい圧迫感だ。次には胸に当たるところまでカメラを下げられる。これは実際に胸に圧力がかかる。トータル30分間我慢して検査終了。

今度は寝たままコルセットを着ける番だ。とりあえず病衣のまま、その上からコルセットを仮に締めることにする。はずすときとは逆に尻のほうから無理やり滑り込ませ締める。これで起き上がることができた。カメラの縁につかまって立ち上がり、コルセットをつけ直した。

労災病院へ来てからの検査では第一関門といったところだったが、さほど痛みを感じずにうまくいったと思う。

部屋に戻ると例の高島礼子似の女医さんが来て
「どうですか。具合は悪くないですか。痛みはありませんか。」
私は今のところ体調に変化はなく、何事もないことを告げると、ニコニコして戻っていった。

14時過ぎに点滴の途中で入れる注射液と氷とを看護婦が持ってきた。
「この注射をすると口の中が火照ったり乾いたりして荒れることがあるので、氷を口の中に入れて冷やすと効果的です。適当になめて、融けたら「ぺっ」と吐き出していいですから。」
と言って、点滴のチューブの途中に連結して注射液を注入していった。
最後の3本目の点滴が終了する頃になっても口の中は変化がない。点滴をはずしに来た看護婦に聞いたら、口の中が荒れてからでは手遅れなので、とにかく氷を口に含んで冷やせとことだ。アイスでも良い。娘を売店にやる。
「アイス買ってきて。」
買ってきたのはペロペロなめるタイプではなく「みぞれイチゴ」というカキ氷タイプのカップ入りだ。

以前災害復旧を担当していた頃、直営で現場の仮復旧をしたことがある。大雨で路肩が崩れた市道や水位が上がり深く河動がえぐられた小河川の復旧に、新井田川の水防倉庫(長館橋の袂、左岸側にあった。現在は市民病院近くの防災コミュニティセンターに集約された。)に保管してある松杭(長さ2.2m)や土嚢をトラックに積んで出かけた。自分より背の高い杭をカケヤで叩くのは、なれない我々にとって大変な作業だった。土嚢づくりや運搬もしんどかった。

そんなとき、よく休憩時に食べた赤いカップだ。当時それを我々は「ガリガリン」と呼んでいた。アミダくじをつくり200円から100円、50円、そして0円、買出し、などの当たりを書き込みアミダをする。なぜか私がいつも高額当選をするのだった。しかも冷たいのが苦手で、すぐ頭が痛くなるため食べるのが遅く、自分が半分しか食ってないのにもう既に2個目を平らげている人もいるのが常だった。

いま、そのガリガリンを目の前にして食べたくないと思いながらも、必死に口に含む。頭が痛くならないように少しずつ。しかも一口と次の一口の間隔はすいぶんと間が空く。半分食べないうちにかなり融けてしまった。

この「カキ氷」を平気でどんどん食べられる人がいるが、私には信じられない光景である。こんな病気をして、アイスを食わせられるとは思わなかった。でもこれで口内が荒れずに済んで欲しい。

午後4時半過ぎにいとこの佐々木和雄さんが来てくれる。病院の転院の時にこちらから連絡しようと電話したのだが何度しても話中だった。相手には着信があったらしい。和雄さんは私からだろうと察しをつけ市民病院に電話したら既に転院したあとだったそうだ。引っ越すときは手伝うからと言ってくれていたので、とても気にしていた。

ところでこのサイトを開設して良かったと思えることは、いろんな闘病生活の経験者から投稿やメールでの経験談やアドバイスがもらえることだ。それにしてもこんなに身近に同じような経験をしている人たちがいたものだ。あんまりえらそうに闘病日記など公開している場合ではなという気もする。しかし、これを続けることが今のところ今の闘病生活の重要な支えとなっており、今しばらく勝手なことを書かせておいてもらいたい。


2003年07月17日(木) 治療日程が決まる

便秘に苦しんでいた昨日までがうそのように今日は快便だ、と思ったらボーダーラインを反対側へ超えてしまった。お昼までに3回トイレに入る。

午前中長谷川先生がきて、検査の結果腎臓なども悪いところはなさそうなので、明日からでも治療が始められるのだが、すぐに連休があるのでどうしようかと悩んでいるそうだ。
「早く治療したいですよね。」
という先生に対し、すぐ治療を始めて欲しいと言えばいいのに、また
「先生にお任せします。」
と軟弱な回答をしてしまった。

午後、高島礼子似の長谷川先生よりやはり明日から治療を始めるとの説明があった。何種類もの抗腫瘍剤やステロイド剤などを、点滴や飲み薬で投与する。1サイクルの治療が42日で、効果を見ながら何サイクルか続けるそうだ。回復によっては外来での治療も可能となるそうだが、まだまだ先の話。副作用も考えられるそうで、吐き気を防止する薬や胃薬なども同時に投与する。でも白血病の治療のような強い副作用はないということなのでちょっとは安心した。こういう素敵な女医さんに治療してもらえると治るのも早いというものだ。

今日は昼までに同室の2人が退院した。午後からは筋向いの叔父さんと4人部屋に2人になった。私が入院した時にはこちらがよろしくと挨拶しても返事もしなかったくせに、それでも退院するときにはうれしそうに「お先に」と挨拶して出て行った。人は現金なものだ。

夕方、田面木の叔父夫婦が見舞いに来てくれた。自宅に電話したら父が労災病院転院を教えてくれたと話していた。

応援掲示板にたくさんの書き込みがあってうれしい。昨日はシンガポールの友人Chan Tian Ser:(陳天陽(陽の字は本来は「日」ヘン))からもメッセージをもらった。でもこんな気の利いたメッセージには何と返事をしていいのか戸惑ってしまった。結局ありきたりになってしまったが、もっとpoeticにすべきだったか。(そうしようとしてもできないけど)

もう一人風子さんからのメッセージは応援歌付きである。歌には歌で返さねばなるまい。しかし、相手はその道のプロ、こっちはど素人、並べるにはかなり抵抗があるが、私の個人的サイトであるることに免じていただき、恥ずかしながら返歌をしてみたい。なお、掲示板は日がたつと見えなくなってくるので今日の日記にも記録しておく。

応援歌(風子さん)
      憂鬱なる雲ひとつなき青空をながめていたり病衣まといて

      めげぬこと前を向くこと笑うこと窓を開ければ涼やかな風

返歌(ワタシ)
      胸の骨にブツリと入れる針の音直ると思えば痛くもないさ

      窓外のヤマセの風も濃い霧も病とともに晴らしてやるぜ


2003年07月16日(水) 骨髄穿刺(こつずいせんし)という検査

早速昨日からいろいろな検査が始まっているが、今日は午前4時から4時間分の尿を蓄積して調べる「全尿検査」がスタートした。午前4時に看護師にたたき起こされ、この時点で尿を全部出す。そして次回からの分を専用の容器にためていく。明日の朝午前4時まで続ける。

朝になってみると、新しい病院で緊張したのか、早くも問題が二つ発生した。

一つ目。明け方に腰痛が起きた。体の向きを変えようとしたら「ギク!」看護師に痛み止めか何かが必要かと訊かれ、思わず「様子を見ます」と答えてしまった、遠慮深い(?)ワタシ。

二つ目。便意をもよおしトイレに行くも、腰の痛さもあってあまりがんばれず、そこまで来ていそうなのに出ない。あきらめて部屋に戻ったとたんにお腹が痛くなる。トイレに引き返す。さっきと同様、出そうで出ない。額には脂汗がにじむ。トイレの洗浄機能を利用して刺激を与える。「ダメか。」あきらめかけたところへ大きなうねりが寄せてくる。「今だ!」最初の固い栓になっている部分が抜けると、後は一気呵成だ。連続的に大量に排出した。これまでは全部固いのばかりで苦労していたが、今回の後半部分は、毎晩服用している便を柔らかくする薬の効果が出て、スムーズに出ることができた。入院して以来痛み止めを処方されてからは固いモノが続いていただけに感激もひとしおで、本当に久しぶりの「快感」であった。

10時半過ぎに新井田の伯父夫婦が見舞ってくれる。面会時間ではないと言われたが、ナースステーションでは咎められなかったと言って、部屋までやってきた。伯父たちが部屋に入るなり同室の住人たちには一斉にカーテンを引かれた。何もしゃべらないうちから「うるさい」と言われたようなものだ。反対側のデイルームで歓談する。伯父も労災病院には静脈瘤で入院したことがあり、その話を聞くが、前回来た時と同じ話になってきた。まあ、何回聞いてもいか。

そこに娘が私の両親を連れてきた。父は新井田の伯父の弟だ。父も昭和40年ごろ脳卒中に倒れた時、市民病院でしばらく療養した後、労災病院に転院、リハビリなどをしたことがる。私は小学校4年生だった。放課後、バスに乗り父の見舞いに通ったものだ。市民病院までは八幡からバス1本だが、労災病院に移ってからは三日町で「鮫行き(山手回り)」に乗り換えなければならない。乗り物に慣れていない私は何度もバスに酔い、途中下車したものだ。病院まで行けずに引き返したことも何度かあった。また、白銀まで行っても、途中の白銀小学校付近にバスが差し掛かると、八幡に住んでいると嗅いだこともない水産加工場の悪臭に、体中が侵される気分になるのだった。
ある日の病院からの帰り道、乗った南部バスが八幡のバス停に近づいたころ、確かに20円を入れておいたはずのアノラックのポケットに10円しか入っていないのだ。擦り切れたアノラックのポケットの穴から10円落としたらしい。慌てたが本当にそれしか持っていなかった。バス停に着き、車掌に事情を話すと、
「今日は10円でいいから、今度乗ったときに残りを一緒に払って。」
と言って降ろしてくれた。本当にうれしかった。大人と言うのはやさしいものだとこの時思った。子供心に、無賃乗車でバス会社まで連れて行かれいろいろ調べられたりするのかと本当に心配した。
その当時の労災病院からはまったく違う建物になっているらしい。しばらく話をした後、今度は娘に付き添いを代わってもらい、妻が両親を連れて帰った。

午後2時に予定通り「骨髄穿刺」の検査があった。看護婦たちがあらかじめ準備を整えたところに例の女医さんがやってきた。
「骨の表面に麻酔をします。ちょっと痛いです。」
ぶすっと注射器の針を胸に刺す。やはり痛いが、徐々に痛みは薄れていく。
「まだ痛いですか。」
もう痛みはなくなったと答えるころには麻酔終了。
「では骨に針を刺します。ちょっと押されますよ。」
グリッ、グリッ、という音がして旨の骨に針がめり込んでいく感触がわかる。
「はい、髄液を吸い取ります。痛いですよ。」
注射器を接続して吸い込む。胸全体が吸い込まれるようだ。
「うううっ!」
思わず声を上げてしまう。
「痛いですね。この吸われるときが一番痛いんですよ。もう一回やります。」
「ええっ?」
またやるの?2回目のほうが痛かった。終了後1時間の安静が必要ということで、ベッドに仰向けのままおとなしくしている。

検査終了後すぐに下水道建設課当時の課長升沢正平道路維持課長と関川下水道業務課長が見舞ってくださった。なんと今日市民病院へ行ったそうだ。昨日転院したときいてあわててこちらへ来たとのこと。ご心配いただき本当に感謝である。今週は下水道に会計検査が入ったというのでその状況を教えてくださった。

入れ替わりのように下水道建設課の松川茂則氏と山下尚良氏がきてくれた。やはりもっぱら話題は会計検査である。補助事業担当者にとっては最大の関心事になっているし、労力もかけている。でも会計検査のための仕事にならないようにしないといけないよな。

4時過ぎ、長谷川先生が来る。
「どうですか。大丈夫ですか。痛くないですか。」
そのとき既に起き上がってパソコンを叩いていた私は、具合が悪いわけでもなく、そう伝えた。
「腎機能をみて、その上で薬をどの程度使えるのか見ますからね。」
そろそろ明日あたりから本格的な治療が始まるのかな。


2003年07月15日(火) 美人医師に接近遭遇!

とうとう市民病院を退院し、労災病院へ移る日が来た。6月10日に入院してから、思えば激動の1ヶ月だった。とは言っても、政策推進室のスピードから見ればたいしたことはない、ゆるりとしたものだ。痛みを除けばまだまだ余裕こいていられるぞ。

夕べから退院の仕度をしておいたのだが、朝10時までに労災病院へ入るとなるとさすがにあわただしい。朝食後成田先生が傷の最終チェックをして下さり、シャワーもOKが出た。看護師たちがいろんな書類と痛み止めの薬を持たせてくれる。今日は日勤の青坂看護師と別れの挨拶をする。
「本当にお世話になりました。今度はグラウンドで会いましょう。」
彼はきょとんとしていたが、私が言った意味は、市職労の野球大会で対戦することもあるだろう、ということだったのをすぐに理解したようだ。(来年の大会では痛めつけてやるぜ。)

退院となると早速請求書が来る。今回は2日の手術の分も含まれているのでどんな金額になるのだろうと妻と二人で金額の賭けをしてみた。私が50万円、妻が80万円を予想した。ところが請求額は約65万円でちょうど二人の中間値を取った形だ。勝負はイーブンとなった。

労災病院で入った部屋は海の見える側の東病棟611号室。看護師が「山村さんです。」といって紹介するがイマイチ反応がない。市民病院と違ってそれぞれのベッドではカーテンを引いていて、どんな人が寝ているのかさえわからない。娘の第一声は「暗いね。」自分も同感。私のベッドは通路側だが、隣の患者さんがカーテンを引いているので日中でも薄暗い。我慢するしかないか・・・。

今日の検査は、血液検査、心電図、尿検査、レントゲン撮影があった。明日は胸の骨に針を刺して骨髄を採取する「骨髄穿刺(こつずいせんし)」という検査がある。局部麻酔をするそうだが、背骨の組織を取ったときと同じように痛いに違いない。

明るい話題もある。担当は本間明子看護師、秋吉久美子似のスレンダー美人である。受け答えもてきぱきしていて感じが良い。さらに、第二内科に入院したのであるが、病気が病気であるだけに、担当医師が血液科の頭脳明晰そうな美人・長谷川裕子医師である。すかさず娘が
「お父さん、きれいな先生で良かったね。」
病室の雰囲気は暗いが、私は一人だけ明るく前向きに過ごせそうである。(「何にどう前向きなんだ?」という声が聞こえそうだ。)

ちなみにこのパソコンの持込は、電気代1日あたり10円を支払うことで病院側から許可を得ている。どんどん情報を発信していきたい。


2003年07月14日(月) 市民病院最後の夜

そろそろ今日当たり抜糸か、といろいろ看護師たちからきいてみるが、先生にきいてみないとわからない、ということだ。午前中はいつものとおり薬を飲んで点滴を受ける。

午後からは、消防団の栄田正勝舘分団長が見舞ってくださる。消防団では大変にお世話になっている人だ。しかも私を部下として信頼して下さっているので、早く退院して早く活動に復帰して欲しいと熱望された。たいへんうれしいが、退院しても消防のほうは少しゆるりとやりたいものだ。

その後、八戸高専バスケとボール部顧問の鳴海寛教授と中村嘉孝助教授が見舞ってくださった。4月に女子チームのコーチ就任を断っていたため、どうも変だとは思っていたそうだ。
今年は東北大会準優勝でも地区から2チームが枠があり、全国大会への切符を手に入れたそうだ。今年は鹿児島なのだが、電車賃の分しか旅費が出ないため、東京からの飛行機代をOB会に再カンパをお願いしているところだ。全国大会でも力を発揮していい成績を残して欲しいものだ。

先生方と話をしてる最中に婦長さんがきて、「明日10時までに労災病院へ移ってください」といってきた。別に何も困ることはないが、抜糸などはどうするんだろ?夕方にでも先生が来て何とかしてくれるかもしれない。

夕方バスケ部OBの北川さんが来てくれた。北川さんは話し好きで話題も豊富だから飽きさせない。先日同じOBの上田さんと飲んだそうだ。上田さんは脳卒中の後遺症があるので酒をこんなに飲んでもいいのかと心配していた。

午後5時過ぎに防災訓練の打ち合わせが行われていた。この整形外科のフロアが対象らしい。病院管理課の畑崎さんや田名部さんらが看護師たちと大騒ぎをしていた。そこへ私がちょっとだけ割り込んでみると、二人とも「なんでここにいるの?」と驚いていたが、あまり詳しく説明していると打ち合わせの邪魔になるので、話もそこそこに引き返してきた。

夕食前に成田先生がみえた。
「明日来いって?」「抜糸できるかな?」
数分後、看護師二人を連れて戻ってくると、私を立たせ、コルセットをはずすと、手際よくプチプチと何かを取り去っていった。(何しろ背中なものだから私からは何をしているのか見えない。)
「明日もう一度傷を確認しますから、その後で行ってください。」
「向こうを退院したら、月曜か金曜に外来に来てくださいね。」

変なもので早く出所したいと思っていた病院も、いざ出るとなると少しは名残惜しい気もする。特に看護師たちの写真を撮っていないのが本当に心残りである。今夜は市民病院最後の夜を楽しみたい。

夕食も済んで午後の面会時間が終了した7時過ぎ、ナースセンターから
「山村さん、ご面会の方がお見えですよ。」
同級生で消防団もやっている寺沢和則夫妻が見舞ってくれた。先月父親の和一さんが亡くなったばかりなのにもかかわらず、、わざわざこうして来てくださり、申し訳ない。彼自身も34歳のときに脳血管疾患で4ヶ月もの入院生活をしており、体験談を話しながら「絶対に直るから」と励ましてくれた。

実は今日もウンチがなかなか出ない。二日目だ。明日には労災病院へ転院するのだから今日のうちに出しておきたい。看護師にお願いして坐薬のお世話になる。


2003年07月13日(日) 穏やかな日曜

日曜は例によって何もない。穏やかな朝を迎える。いつもよりゆったりと午前中が過ぎた。

午後、岩舘幹悦氏が見舞ってくれる。暇をもてあましているんじゃないか、あるいは手術後全く動けずに唸っているんじゃないかと思ったらしい。それが歩けるようになっていたのを見て驚いた様子だった。彼とはちょっと半端な幼馴染、小学校に上がる直前からの友人で、小中学校と同級生だ。何度も来てくれて本当にありがたい。

午後3時過ぎには妻の兄が見舞ってくれる。何か困ったことがあるといつも頼りにしている。今回市民病院に入院するときも、そして次の労災病院への入院手続きにも保証人をお願いした。今日は果物を持って来てくれた。とってもシャイな人だがとても暖かい。

母が妻と一緒に自宅へ帰った後、娘が頭が痛いと言い出した。数日前海へ行ってきたそうで風邪でも引いたらしい。だいぶ具合が悪そうなので暗くならないうちに家に帰すことにした。

娘が帰る入れ替わりのように、叔父の祐三氏が来てくれる。車椅子でパソコンを打っている姿を見て、すごく回復したと喜んでいた。でも、どうしてこんな孝行息子がこんな病気にならなければならないのか、神様はどこを見ているんだろう、とも言う。これには私も全く同感である。
普段近所でグランドゴルフに興じているそうで、その話をずいぶん教えてもらった。仕事では人材派遣センターに登録していて、測量会社からの派遣依頼で普代村のほうまで行ってきたそうだ。


2003年07月12日(土) たくさんのお見舞い

今朝4時に便意で目覚めた。硬くないウンチが出た。

朝食後、またウンチが出た。普通の硬さである。

昨日までの便秘、しかも超硬いウンチから考えると、奇跡のようなものだ。これには昨晩からの伏線がある。昨日4日ぶりにウンチをしたのに安心せずに、昨晩から下剤を増やしてもらったのだ。これまでは検診の時などにバリウムを飲んだ後出されるのと同じタイプの赤い錠剤2個を寝る前に服用していた。夕べからはこれに加え、ラキソベロン液という「滴下型緩下剤」をいただいた。これは十数滴を水に溶かして服用する。便を軟らかくする効果があるそうだ。確かにその効果てきめんであった。

11時過ぎ、水産課長の工藤良弘さん、うちの大坪参事、三浦順哉さん、大崎俊夫さん、そして蛯名敦さんが見舞ってくれた。まずは水産関係の特区の話題だ。私が最初に工藤課長に振った「気仙沼市の水産特区」の話はぽしゃったらしい。エネルギー特区でのNEDOの申請が採択されたそうだ。おめでたい。

午後3時過ぎに意外な人がお見舞いに来てくださった。2年ほど前に退職された山田壽明さんだ。これには私のほうが意外だった。どこから聞いてきたのかたずねたところ、書道を習おうと、3月に叩いた門が「龍翠書院」だったというのだ。ちょうど今「石橋龍翠遺作展」が開催されており、私の作品も見てきたとのこと。私が回復したら一緒に勉強する機会もあるだろう。うちの娘を見て「奥さんですか」とまじめに聞くあたりは山田さんらしい。

娘と歩行訓練に立ち上がった矢先に、やはり今年退職された地元の三浦義一さんが見舞ってくださる。知事選挙のときに投票事務をしていなかったので変だと思ったそうだ。あちこちで心配をかけてしまっている。

デイルームで三浦さんと話しこんでいるところへ、政策推進室磯嶋氏夫妻がおそろいで見舞ってくれる。総合陳情の様子を聞いたほか、本を2冊差し入れてくれた。
「緒方貞子という生き方」黒田龍彦
「99才まで生きたあかんぼう」辻仁成

夕食後の歯磨きをしていると、風張知子東京事務所長夫妻が見舞ってくださる。やはり昨日までの陳情の様子や、東京での仕事ぶりをうかがう。彼女自身3ヶ月ほど足の怪我で入院したことがあるそうで、そのときの体験談など聞かせてもらい参考になった。
みな心配してくださり、本当にうれしい。


2003年07月11日(金) 便秘との戦い

今日は昨日に引き続き一日「便秘(constipation)」との戦いの日であった。

前回ウンチをしてから今日で4日目である。通常だと毎日お通じのある自分としては4日は最長不倒だ。昨日から何度もトイレに入っているが、全く出てくる気配がない。とうとう再度浣腸をお願いした。

浣腸のノズルを挿入した看護師は入り口にずいぶんと固いものがあるらしい。(これを業界では「栓」という。)今回は3分間我慢した。これだって結構長いはずだが、注入した薬液だけが先行し、ウンチはほとんど出ない。この場合、次の策として指で掻き出すという方法がとられる。(業界では「掘る」という。)男性看護師でよかった。これが相手が美形のM看護師やさわやかT看護師だったりしたら明日から顔を見られないというものだ。結局肛門付近の栓をちょっとだけほじくりだしただけで、ほとんど出すことができなかった。

硬い便を軟らかくする効果のある坐薬を用いることにした。昼食後ゆっくり休んだ後、ベッドに横になり妻から坐薬を挿入してもらう。だいたい30分ぐらい我慢することと言われじっとしている。

それから15分もして、地元消防団の松田副分団長と出町班長が見舞いに来てくれた。先日行われた研修旅行の様子を教えてくれた。もちろん研修旅行といても研修とは名ばかりで、飲んで遊んでくるだけであるが。仙台と猊鼻渓に行ったらしいが、どこへ泊まって宴会をしたのかまではとうとうわからなかった。一番飲んだ出町班長は、次の日岩魚も団子も食い損ねたらしい。

坐薬も忘れるほど話に興じていたが、彼らが帰ったの時には60分が経過していた。便座に座っても便意があまりない。看護師と浣腸を併用してみようかとか相談していたが、もう一度「掘る」ことをしてみた。看護師は「降りてないから出ないかも。強力な下剤で降ろさないといけないかな。」と出て行ったその直後だ。突然強い便意があり、とても硬かった第1弾、続いて第2弾、第3弾、第4弾と連続で出た。

いやー、なんと久しぶりの開放感。でも、まだ半分ぐらいの量しか出ていないのではないかと思われる。やはり夕食後、下剤を利用してみるべきか。

3時過ぎ、いとこの福山恵美子さんが見舞ってくださった。僕らががきのころは、夏休みになると私の八幡の家にいとこがたくさん集まったものだ。いとこのほとおどは男の子ばっかりで、唯一恵美子さんだけが紅一点という状況で、年に一度街からやってくる、このかわいいいとこの存在がまぶしくて、よく意地悪をしたものである。その彼女と今はおじさんおばさん同士、昔話に興じた。

夕食後、以前一緒の職場だった舘花正義、上舘章、菊池博文の諸氏が見舞ってくれる。昨日公開したばかりのこのサイトを見て、もうすぐ労災病院へ転院するという情報に驚き、慌ててきたということだ。それにしても「獄中生活」情報がすぐに飛び交っている。さすがに市役所も情報化社会だ。排泄に苦しんでいるという話で盛り上がる。練習しておいたほうがいいぞと勧めたら、一人は試したことがあるらしい。大変さを理解してもらえた。


2003年07月10日(木) 今日何をした?

今日は一日中、日記の整理に時間を費やした。
歩行訓練を3度した。
トイレに行って何度もトライした。
ほかになにもしていない。


2003年07月09日(水) スポーツ刈

昨日の疲れがそのまま残ってしまっている。あまり元気がない。立ち上がって妻から体を拭いてもらっているうちに気持ちが悪くなってしまった。

午前中、横になっているとだいぶ楽になったので、午後から床屋へ行くことにした。病院の床屋は母娘でやっているのか、そっくりである。先客が一人いたが、奥のシートに座らされた。もう十分に伸びすぎていて、寝癖も何も手の着けようがなくなっていた。
「スポーツ刈りにしてください。」
床屋のはさみは良く切れるとほめると、長い髪を落とすのだから「切ったかいもある」と返された。

やっと念願の形になった。実は入院当初から短くすると言う私に妻が似合わないからと反対していた。でも手術前後の髪の扱いに困っている様子を見て同意したようだ。切った後は「結構似合う」などど言い出した。本当は手術前にこうしおけばとても楽だったのに。

床屋のあとは歩行訓練をした。歩行器を用いて娘に付き添ってもらい、4階の病棟の廊下をうろうろした。看護師たちから
「山村さん、さっぱりしたね。」「かっこよくなったよ。」「若くなったんじゃない?」
いろんな声がかかる。それを見て娘は「「なにニヤニヤしてんの!?」と評す。

部屋に戻るといとこの山村浩氏が来ていた。父親から聞いてきたといっていた。同時にレントゲンに呼ばれたので、一緒に外来へ下がりながら話をする。

夕方、佐々木和雄さんがまたきてくれる。病院を替わるときには引越しを手伝うから連絡しろということだ。高校野球とメジャーリーグの雑誌も差し入れてくれる。

この日で便秘2日目。苦しくなってきた。準夜勤が青坂看護師だったので、思い切って浣腸をお願いする。今回は最長不倒の4分間も我慢したのに、出たのは注入した薬剤と先端に固まっていたであろうホンのちょっとのウンチだけで、今回は失敗であった。


2003年07月08日(火) 青森労災病院へ

大急ぎで朝食を済ませ、外出の準備をする。タクシーで労災病院へ向かう。運転手には手術直後なので静かに運転してほしいいとお願いする。何日ぶりの外出だろう。およそ一月か。毎日同じ風景ばかり見ていたから、車窓の景色が新鮮だ。それほど変わっているはずもないのに。

午前9時に受付を済ませ、第二内科へ行く。既に多くの人たちが待合室に座っている。これはかなりの時間がかかりそうだと覚悟する。最初の1時間は余裕でやり過ごすことができた。しかし、10時半も過ぎるとあることに気づいた。朝、この待合室にいた顔ぶれは8割以上が入れ替わった。ところが、である。後から来た人たちの多くが残りの2割を尻目にどんどん診察を終えていくのである。これはどうなっているのか。予約の患者さんが優先され、私のような新患や予約のない患者さんはどんどん先送りされていたのだ。

2時間が経過した。さすがに疲れてきた。妻が心配していらついているのがわかる。

2時間半を経過してやっと声がかかった。
「そろそろ呼ばれるので診察室の近くで待ってください。」
しかしここからも時間がかかる。12時に近づいてからやっと呼ばれた。

医師は河津俊太郎先生。病気の説明を一通り伺った後、来週の入院予定ということにしていただき、市民病院の成田先生に連絡をしていただくことになる。

帰りのタクシーでも静かに走るようお願いしたのだが、行きよりは少々荒かった。ちょっとのところで違うものだ。車のシートにつかまってはきたものの、市民病院へ戻ってみたらかなり痛みが出てきた。そのまま倒れこむようにベッドへ入る。

夕方、道路維持課三浦誠純、財政課八木田満彦の両氏が見舞ってくれる。
「山村さん、女の子のいる職場へ行ったので、張り切りすぎて倒れたんじゃないの?」
と彼らの仲間内では評判らしい。そういうことにしておいた。
そうしているところへまた岩舘弘道氏が来てくれた。先日話していたノンアルコールビールを差し入れてくれた。ノンアルコールとはいえ0.5%だけアルコールがある。自分的には何ら問題はないが、病院は問題視しないだろうね。


2003年07月07日(月) 七夕ウォーク

夕べはだいぶ眠ったが、3時ごろ傷よりも腰が痛くて目が覚める。仰向けで寝たのが悪かったのか。坐薬を入れてもらい朝までしのぐ。

6時過ぎ起き上がろうとするが、腰の痛みで一旦断念。様子を見てだましだまし、なんとか7時ごろに車椅子に移ることができた。傷の痛みをかばった動きをしているのだろう。他の腰、肩、わき腹などに痛みが強くなった。これでリハビリができるようになるのだろうか。

   「やさしいとばかりは言えぬ看護師に
          ランキングでも付けてみようか」

午後また新井田の伯父夫婦が来てくれた。ちょうど車椅子でパソコン作業中だったので、そのままデイルームへ行き、世間話に興じた。

午後、娘にパソコンの指導をしていると成田先生がみえられた。だいぶ動きが良くなったので歩いてみようかという。歩行器を用意してくれた。たった部屋から廊下へ出て戻ってきただけであるが、
「大丈夫だね。じゃあ、明日にでも労災病院へ行ってきましょうか。向こうの先生と相談しておきますから。入院予定も早く決めておいたほうがいいですよね。」
いかにもそのとおりで、早く次の治療に着手しないと心配でしょうがない。先生の後には青坂看護師が「山村さん専用」と言いながら歩行器を持ってきてくれた。部屋にキープしておいたほうが良いそうだ。廊下に出しておくとすぐにいなくなってしまうほど需要が高い。

   「七夕に 初めて使う歩行器で
          織女に出会うナースステーション」


2003年07月06日(日) 導尿カテーテル抜去

夕べはほとんど一睡もできなかった。手術の傷に加えて、コルセットの締め付けによる痛み、そして横になって寝るときの下にした体側の痛みが出てきた。午前2時ごろ、たまりかねて痛み止めの錠剤を飲むがほとんど効果なし。朝まで悶々として過ごす。

朝食後、早めに痛み止めの点滴を入れてもらう。
点滴終了後、清拭の際、導尿カテーテルを抜去を決意し、抜いてもらった。入れられたときは全身麻酔後だからわからないが、この抜くときのえもいわれぬ違和感といったらない。男性看護師は、これは男でなければわからない感触だと話していた。ちなみに入れるときは、男は前立腺があるためそこで一旦止まり、そこから膀胱までもう一押しするのだそうだ。だから、覚醒時での挿入はかなりしんどいらしい。
さらにこの際、車椅子へ移ってみることにした。ベッドサイドへ移動し立ち上がる。そこから車椅子に座る。とうとうここまできたという感慨が深い。

点滴の途中に成田先生が来る。痛み止めの錠剤を一日3回定期的に増やす。早く動けるようにしたいとのことだ。抜糸は14日は15日ごろ。その後労災病院へ行くことになる。

いとこの和田ひろ子・勝旗夫妻が見舞ってくださる。同じ舘地区に住んでいるので、運動会や消防団などの話に花が咲く。昨日来てくれた弟の佐々木和雄さんとの姉弟は本当に親身にお付き合いいただいている。

午後2時過ぎ、痛み止めの飲み薬が出る。一日3回だからどんどん効いてくれると良い。

4時過ぎには上田さんがまたさくらんぼを持参してくれた。八戸高専バスケットボール部OB会の30周年のパーティ会場は八戸グランドホテルに決めたそうだ。

夕食前、いとこの工藤絹子・善三郎夫妻が見舞ってくれる。名川町のさくらんぼを差し入れてくれる。車椅子でパソコンを打っていたので驚いていた。手術からまだ4日目だ。


2003年07月05日(土) オムツ

起き上がって朝食を摂ってみることにする。食事を運んできた萬谷看護師が「すごい」と驚いてみせる。

抗生剤の点滴を受けている最中にいとこの有泉智子・芳明夫妻が母親と3人で見舞ってくれる。昼食後は、以前近所に住んでいた馬場さん夫妻が見舞ってくれる。みんな手術後にうちの母から聞いたらしく、ずいぶん驚いたといっていた。

昨夜のことである。術後順調に食事を摂っていたが、入れたものは出るのが自然現象である。夕方から便意をもよおしてした。最初はガスだけであった。さて、何で便を取るか。便器あるいはオムツだ。痛みで腰を上げられない私はオムツの選択となる。もの心ついてから初めてオムツをあてられる。お腹の張りはあるがなかなか出ない。便秘用の坐薬を使用した。十数分後、強い便意が襲う。しかし出るのはガスだけ。数十分間おびただしい量のガスと格闘した後、軟らかくなった本物が少々出た。妻に処理をしてもらう。

(ちなみに「オムツ」は「おしめ」である。この地方では「しめし」ともいう。)

実は今日も便意との戦いだった。昼食後、もよおしてきたのでカーテンを引いたところに馬場さんたちがお見舞いにやってきた。帰った後、本格的に出始めたところに成田先生がやってきた。
「歩いてる?」
痛くて立つところまではいっていないと話すと、強い痛み止めに変えてくれることになった。そして成田先生が帰った後に心置きなく残りを出すことができた。

今回、寝たままの排泄がいかに難しいかということに気がつかされた。健常者も体験しておくべきものだと思う。みな被介護生活をする可能性があるのだから。

今日も母が娘についてやってきた。少しは元気になった私の顔を見て安心したようだ。

いとこの佐々木和雄さんが息子と見舞ってくださる。
「何か必要なことがあったら何でも言え。」
いつも頼りになる人だ。


2003年07月04日(金) 術後二日

やはり午前1時ごろ、痛み止めをとお願いする。今日の夜勤は向山看護師。美人看護師にお世話いただき、今夜は坐薬まで入れてもらうなんて私は光栄だ。一生の思い出にとっておきたい。

朝食前に寝返りをお願いする。向山さんはもう一人連れてくるからと言ってしばらくして戻ってきた。
「ギャルを連れてきたわよ。でも私と同い年だからね。」
工藤看護師と二人のギャルで向きを変えてもらう。

自宅の隣人の大嶋さんが見舞いに来てくれた。どうも様子が変だと思っていたらしい。うちの猫ハイドは隣に散々お邪魔しているのでハイド談義に花が咲いた。

午後、消毒のため成田先生と平糠看護師がやってきた。背中背負ったに廃血を出すパイプとクッションのパッドをはずした。消毒した後、入念にガーゼ等をあて、その上からコルセットをはめられた。
「さあ、起き上がってもいいよ。」
と成田先生が電動ベッドのスイッチを操作する。上半身が起き上がる。術後二日目でもう起き上がることができた。昔の医療だと、この手の手術では最低でも三週間は安静が必要だったそうだ。それが今ではたった二日目だ。最近はアメリカ式の医療を取り入れ、どんどん動くようにさせるのだそうだ。

夕方、娘から腕時計を買ってきてもらった。今持っているのは、お酒のプレミアでついてきた安物のアナログ時計で、夜の病室では役に立たない。夜中に見えるようライトがつくものをとお願いしたら、カシオのデジタル電波時計を買ってきてくれた。

夕食は起き上がって摂ってみる。様子を見に来ていた薬剤師が回復ぶり驚いていた。

 「おとといの 手術がまるでうそのよう
               ベッドに起きて 大飯食らう」


2003年07月03日(木) The 次の日

午前1時ごろ、また痛み止めの注射をしてもらい朝までなんとか持ちこたえる。
病院では痛みの強さを1から10までの10段階で表現させるが、ずうっと10のmaxだ。

朝食前に方向転換をしてもらう。長時間一方向で寝ているとうっ血するなど良くないらしい。いわば寝返りだが手術直後は勝手にできない。(もちろんやろうと思ってもできないが)ずうっと左を向いていたので仰向けにされる。実は術後背中に特殊なパッドを当てているので、この上に背中が乗るからかなり痛い。30分間我慢してと言う看護師の言葉に、痛みをこらえる。結局25分でギブアップ。ナースコール。

朝食後、痛み止めのロピオンの点滴をしてもらう。少し楽になったところへ新井田の伯父夫婦が見舞ってくれる。昨日母が帰宅後電話で知らせたらしい。

今日も母が娘たちについてきた。昨日の様子を見て心配したらしい。でも、今日の比較的元気な様子に安心したようだ。

下の娘は今日東京へ戻る。試験直前なのに、父親の手術のために帰省したのだ。苦労をかけるが単位を落とさないようしっかりやってほしい。14時ごろの新幹線へ、母と一緒に妻が送っていく。

田面木の叔父夫婦が見舞ってくれる。相変わらず奥さんは自分の話だけして帰っていった。高館の叔父も来てくれた。本当に心配してくれる。彼の奥さんとうちの母との間で一もめあったらしいが、それはそれ。


2003年07月02日(水) 手術

とうとうサイボーグになる日がやってきた。感慨深いものがある。でも体内に入る金属は装具だけで計器類ではないのであまりロボットチックではない。

朝早く両親と娘二人がやてくる。それぞれ「頑張って」と声をかけてくれる。
向かいの老人は、看護婦に「頑張ってね」声をかけられたのに対し、
「頑張んねぇ」と応えていた。そりゃそうだ。頑張るのは執刀する医師たちのほうだ。患者が頑張るのは手術後だよ。

手術へ入る。ここが手術室か。テレビで見るのと一緒だ。
「麻酔しますよ。この匂いに慣れてね。」
目の前にマスクをかざす。刺激臭がして一瞬むせる。そしてすぐにマスクをかぶせられた。「ストン」とまるで音がするかのように意識がなくなる。「落ちる」という表現が適当ではないか。ここからの記憶は全くない。
酒を飲んで「ホンズ」を落としたときも記憶がなくなるが、決定的な違いは、前者は全く何もわからないのに対し、後者はところどころ部分的に知っていたり、後で思い出すことがあることである。


「山村さん、手術終わりましたよ。胃の管を抜きますよ。」
鼻から挿入していたチューブが引き抜かれる。それに反応し体が反り返り激痛が走る。手術台からベッドへ移される。また激痛。病室へ戻ると家族の不安そうな顔、顔、顔。

激痛で何がなんだかわからない。あとはただただ耐えるだけ。


2003年07月01日(火) 手術イヴ

食事後、成田先生が来る。先日のCT検査が、検査技師のミスで一断面足りなかったそうで、もう一度やることになった。「えーっ。桝谷か!しっかりやってくれよー」
朝一でシャワー。
麻酔科の先生が診察。
CTのやり直し。

昼過ぎ成田先生から手術の説明を受ける。第10胸骨を取り去り、金属を挿入する。その上下の骨をボルトで固定するそうだ。
正式な診断名は「多発性骨髄腫」。上下の脊椎にも腫瘍がみられ、左胸の肋骨にもある。こちらは化学療法によるが、当院には専門の医師がいないため、青森労災病院へ紹介するので転院して治療することになる。

娘たちが来る。手術の方法を説明したら、面白いことを言い出した。
背骨に金属を入れたらどうなるの?
・空港のセキュリティチェックに引っかかる。
・サウナに入ったら過熱する。
・磁化してしまい、南北方向に寝るようになる、または海水浴場で砂鉄が体にくっつく。
・腕時計が狂う。
このうちどれが実際に起こるだろうか。

夕食後、政策推進室の小笠原、大嶋、佐々木の三人が見舞ってくれる。手術前の様子を見に来てくれた。人事課への提出書類をお願いした。

明日は手術だ。ゆっくりやすもう。


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