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2009年05月31日(日)
「1本のゲームで名曲は1曲でいいと思ってますよ」

『桜井政博のゲームについて思うことX』(桜井政博著・エンターブレイン)より。

(『大乱闘スマッシュブラザーズ』や『星のカービィ』シリーズの生みの親、桜井政博さんが『週刊ファミ通』に連載されているコラムを単行本にした本から。巻頭の作曲家・植松伸夫さん(『ファイナルファンタジー』シリーズの作曲など)との対談の一部です)

【桜井政博:最近は映像の表現がどんどん進化しているので、音楽の主張とかみ合わなくなってきているのかなと思います。メロディーを重視して音楽が前面に出すぎると、映像と食い合ってしまいますよね。

植松伸夫:環境音のような音のほうが、いまのゲームと合ったりするんですよ。でもそれって、音楽家にとってはあまりおもしろいものではなかったりするけど。

桜井:ホントそれ、『スマブラX』を作っているときはわたしもすごく悩みました。いろいろな方に曲を作っていただいて、できた曲を映像にあてがおうとすると、ゲーム画面には合ってもムービーにはあまりそぐわない。曲自体は良いし、映像もちゃんと作られているのに、お互いの主張が食い合ってしまうんです。

植松:ここは映像を立てるべき、というシーンでは音楽は一歩引くべきだろうし、その逆もしかり。そのメリハリが必要なんだろうね。

桜井:音楽を主張しようっていう方向性はキツイかもしれませんね。

植松:だから僕は、1本のゲームで名曲は1曲でいいと思ってますよ。映像とかセリフを前に出しておいて、ここぞというところで美しいメロディが流れれば、余計に浮き立つというか印象に残るじゃないですか。

桜井:それですね!

桜井:『FF(ファイナルファンタジー)』の音楽を作っていたとき、何かテーマはあったんですか?

植松:テーマはとくになかったよ。でも1作目を作るとき、音楽は有名なアーティストに頼もうって話になってたんですよ。だけど坂口さんが「植松とやりたい」といってくれたおかげで、こうしていられるわけです。

桜井:もし別の人が『FF』の曲を作っていたら、ゲーム音楽の歴史が変わっていましたね!

植松:『FF』がたまたまヒットしてくれたので生き延びられました……。

桜井:たまたまではないと思いますよ。やっぱり『FF』の音楽は「なんていい曲なんだ!」と思わせるだけの力を持っていましたし、だからこそいまはあると思うんですよね。

植松:でもね、偶然というのは確かにあるんですよ。ニーズがあるところに、僕たちがポンと良いタイミングで出せたという偶然。そこで、自分たちの作ったものが評価されるという感動を一度でも味わってしまったら、もうこの仕事はやめられないじゃない(笑)。

桜井:自分でゲーム音楽を企画する場合、とくに『星のカービィ』を作っていたときに大前提としていたことがありまして。それは「歌えるメロディーにすること」です。『カービィ』は小さい子が遊ぶゲームだから、という理由もあったんですが、自分で歌えて、なおかつ心に残ること。カービィのデザインコンセプトが「誰でも描けること」という部分まで含めて、それが大事なんですとスタッフには言っていましたね。

植松:昔のファミコンって、そういうゲームが多かったよね。口ずさめるようなメロディーが。

桜井:そうでない曲を作るのが難しいのかもしれませんけれど。あと、ゲームをやっていて「これは良い曲だな」と思う基準は、自分の好き嫌いよりも、まずゲームに合っているかどうか。それでいて、遊んだ記憶として振り返ったときに良い曲であるかどうか、ここが重要です。

植松:なるほど。

桜井:RPGなどで多くの人は経験したことがあると思いますが、ついウトウト寝てしまったときに、曲がものすごくループして頭にこびりついてしまう。それでメロディーを覚えられたとしても、曲としては良いものではないかもしれない。でも、そのときのゲームの記憶や経験自体が良いものであれば、その曲も良いものになりえると思うんです。

植松:ゲーム音楽の祭典、PRESS STARTで演奏する曲を決めるとき、ゲーム音楽として選曲するべきなのか、”音楽”としての選曲をするべきなのかを決めかねるときはあるよ。いまだに自分の中でね。

桜井:わたしが「この曲どうですか?」と提案したときに、「良い曲だね」という感覚で選んでもらって全然問題ないと思いますよ。

植松:でもメロディーが大したことなくても、聴きたい音楽ってあるじゃない? 『スペランカー』とか。ああいうゲーム曲って、「音楽として良いか?」と聞かれると微妙かもしれないけれど、ゲーム音楽としては確かにおもしろいんです。】

〜〜〜〜〜〜〜

 ハードの進化によって、現在は「普通の音楽」をゲーム中に流すことができるようになったのですが、正直、「昔に比べると、印象に残るゲーム音楽が少なくなったなあ」という気がします。
 もっとも、僕も年をとって、昔ほどゲームばっかりやっているわけにはいかなくなった、という面もあるのでしょうけど。

 ファミコンの音源は、「音階の演奏ができるモノフォニック(単音)のパートが3つと、ノイズのみが演奏できるパートが1つ、の計4パート/4ボイスという構成」なのだそうで、この「3音」で「普通の音楽」をやるのは至難のワザ。
 それでも、植松さんやすぎやまこういちさんのような「ゲーム音楽家」たちは、その制約のなかで、たくさんの名曲をつくり出しました。
 ゲーム好きの作曲家たちにとっては、「制約」が、かえって「やりがい」になっていたようでもありますし。
 以前聞いた話では、すぎやまこういち先生は、植松さんの「3音だけってのは、やりにくいですよね」という問いに、「音楽なんて2音で充分。ドラクエは2音で作ってるよ。残りの1音は効果音に使ってる」と答えられたそうです。

 いまのゲーム制作というビジネスの規模からすると、もっと「有名作曲家を起用する」という選択もありえそうなのですが、実際は、すぎやまこういちさんのような「もともとゲームというものをよく知っていた人」以外は、あまり成功していないのが現状です。
 その理由には、この対談であげられているような「ゲーム音楽の特殊性」があるのかもしれません。
 「ここは映像を立てるべき、というシーンでは音楽は一歩引くべきだろうし、その逆もしかり。そのメリハリが必要なんだろうね」
 「1本のゲームで名曲は1曲でいいと思ってますよ」
 こういう感覚は、「音楽の世界だけしか知らない人」にとっては、なかなか受け入れがたいはず。映画音楽などは、比較的近そうですけど。

 でも、これを読んでいて、以前、サザンオールスターズの桑田佳祐さんの「サザンのアルバムでは、珠玉のバラードを活かすために、ひとつのアルバムには厳選したバラードを1曲かせいぜい2曲しか入れない」という話を思い出しました。噂では、以前所属していたレコード会社がサザンの「バラード・ベスト」を出したときには「その1曲1曲のバラードをオリジナルアルバムで効果的に聴かせるために、どんなに苦労していると思っているんだ!」と、かなり立腹されていたとか。
 植松さんも「名曲は1曲でいい」というより、「名曲を効果的に使うために、全体の構成を考えている」のでしょう。

 ここで桜井さんと植松さんの話に出てくる、「居眠りしてしまって、耳に残ってしまったRPGのフィールドの曲」とか、「メロディーはたいしたものじゃないはずなのに、なぜか聴きたくなる『スぺランカー』の音楽」というのは、僕にもすごくよくわかります。
 なんというか、ゲーム音楽には、そのゲームにまつわる記憶がしみついていて、『スぺランカー』を聴くとすぐ怪我しそうな気がしてくるし、セガの『アウトラン』を聴くとついついアクセルを踏み込んでしまうんですよね。

 いまさら、「ファミコン時代の3音」に戻ることは不可能なのでしょうが、あの時代のゲーム音楽というのは、音数以上に豊かなものだったのではないかと思われてなりません。
 同時期のどんな流行歌よりも『ドラゴンクエスト』の「序曲」や『スーパーマリオ』のBGMのほうが、多くの人の耳に残っていそうですしね。
 



2009年05月28日(木)
千原ジュニアの「面白いヤツの3大要素」

『BRUTUS (ブルータス)』2009年6/1号(マガジンハウス)の特集記事「オトナになっても、マンガ好き。」より。

(マンガ家・森田まさのりさん(代表作『ろくでなしBLUES』『ROOKIES』)と千原ジュニアとの対談の一部です。森田さんは現在「芸人」をモチーフにしたマンガ『べしゃり暮らし』を『週刊ヤングジャンプ』(講談社)で連載中)

【森田まさのり:最後にお会いしたのは10年以上前ですね。当時、お笑いのマンガを描くことについてどう思われるか伺った記憶があります。

千原ジュニア:先生のマンガはその前からずっと読んでますよ。『べしゃり暮らし』が始まった時は「あ、これや!」って感じでしたね。

森田:当時は芸人さんって怖いっていうイメージもありました……。

千原:素の芸人って怖いですよ。優秀なら優秀なほど怖いんじゃないですか? これは僕の自論ですけど、「部屋キレイ」「絵うまい」「顔怖い」っていうお笑いの3大要素があるんです。部屋汚いけど面白いっていう人はいないですね。だから面白いヤツの部屋はキレイに描いたらええですよ。

森田:ホントに!?

千原:松本(人志)さんとか今田(耕司)さんとかも部屋メッチャ、キレイですもんね。部屋がキレイ=頭の中が整理されてるんです。

森田:天然ボケの方っていうのは、整理されていない感じですかね?

千原:そうですね。兄のせいじなんてメッチャ汚かったですもん。絵がうまいのは、想像したことを形にできる才能があるんじゃないですかね。あとやっぱ、顔怖い。さんまさんとか黙ってたら、ただのインテリヤクザですから(笑)。

森田:近寄りがたい感じはありますねぇ(笑)。僕はもともとお笑いが好きなのもあったんですけど、お笑いマンガってほかにあまりないから挑戦してみようと思ったんです。最初は単純にお笑いを描きたいだけでしたが、あとで相方同士の関係を描こうと思い始めて。】

〜〜〜〜〜〜〜

 「部屋キレイ」「絵うまい」「顔怖い」かあ……
 「顔怖い」に関してはちょっと微妙な気もしますが、たくさんの芸人たちを見て、一緒に仕事をしてきた千原ジュニアのこの「お笑いの3大要素」には、かなり「実体験に基づく裏付け」がありそうです。
 これを読んで、「部屋キタナイ」「絵へた」「顔は怖くも面白くもない」僕としては、自分がお笑いに向いていないことをあらためて再認識させられました。
 「クリエイターに、部屋のキレイさなんて関係あるのか?」と感じる人も少なくないと思うのですが、お笑いの世界に限らず、「デキル人」っていうのは、たしかに「身の回りが整理整頓されている」ことが多いんですよね。
 「部屋がキレイ=頭の中が整理されている」というのは、たしかにそうかもしれないな、と思います。
 部屋が散らかりまくっている人でも、「一瞬の閃き」で凄い仕事をする場合はあるのだけれど、コンスタントにいい仕事を続けるのは、なかなか難しいのかもしれません。
 「部屋がキレイであること」は、「作業効率を良くすること」につながります。でも、それだけではなくて、「ちゃんと身の回りのことを整理しないと気が済まないような性分」というのは、「物事を妥協せずに突き詰める姿勢」にもつながっているように思われますし。

 「絵のうまさ」についても同様で、たとえば優秀なゲームクリエイターというのは、総じて絵がうまい(あるいは、絵で必要な情報を伝達するのがうまい)印象があります。映画監督とかもそう。
 「言葉だけでは伝わらないニュアンス」も、絵が描ければ、ものすごく周囲の人たちにイメージが伝わりやすくなるんですよね。
 たしかに、「絵のうまさ」というのは、「お笑い」にも役立つはず。お笑のネタというのも、ひとつの「舞台演劇」ですから、「お客さんにどう見えるか、どう見せるか?」を客席からの絵として考えるというのは、大事なことではないかと。

 まあ、こうして「自分の才能のなさ」を思い知らされるのも、ちょっと寂しい気もするのですが、お笑いというのは、「アートの世界」なのかもしれません。
 
 でもさあ、松本人志さんや今田耕司さんは、誰かほかの人が片付けてくれるんじゃない?というようなことも、つい考えてしまうんですけどね。



2009年05月25日(月)
「ネットをやっている人間はバカになる」

『オタク論2!』(唐沢俊一・岡田斗司夫共著・創出版)より。

(「オタク」について、唐沢さんと岡田さんが雑誌『創』に連載されていた対談を単行本にまとめたものです。雑誌に掲載されたのは2008年2月・3月号で、当時岡田さんは「いいめもダイエット問題」によって批判されていました)
「いいめもダイエット問題」については、こちら(「岡田斗司夫さん、ダイエットサイト閉鎖問題で釈明」(MSN産経ニュース)を御参照ください。

【岡田斗司夫:どうしてこういうこと(「いいめもダイエット問題」についてのネット上への岡田さんへの批判)になるのか、考えてみたんです。自分がここまで叩かれなかったら、こんなに真剣に考えなかったでしょうね。その意味ではいい機会でした。わかったことはね、彼らは「反証責任は岡田にある」と思っているんですよ。つまり、「疑いがかけられた」とか「今叩かれだした」とすると、「言われた人は反論するはずだ」と。
 つまり、岡田斗司夫は叩かれた。「それじゃ岡田斗司夫のサイトを見に行こう。もし、やましいことがなかったら反論があるはずだ」「反論がないのはアイツの責任だから、叩かれても仕方がない」となる。
 これは、おもしろい思考経路だな、と思ったの。おまけに、ぼくは自分が叩かれて、自分がついこの間まで同じ思考経路をたどっているのに気がついた。ぼくも含めて、「ネットをやっている人間はバカになる」なんですよ。

唐沢俊一:確かに、一言で言うとそうなりますね。カゲキだけど(笑)。

岡田;ぼくも含めてバカ。ネットはバカの感染力を高める。こっれが本当にボクはショックで、しばらくネット断ちしたのはこれが原因なんですよ。
 ネットをやっていると、あまりに情報がたやすく手に入るから、「情報が手に入らないのは、情報を出してくれないヤツの責任だ」と思っちゃう。

唐沢:もう本能的にそう思っちゃうんですよね。「自分に不便」とか「自分の欲しい情報がない」というのは「情報を出さないヤツが悪いんだ」となる。あまりに簡単に情報が手に入ることに慣れきっちゃったせいでしょうが。

岡田:ぼくが、デビュー作からずっと書いている「自分の気持ち至上主義」というのが、ネットの側から解釈するとどうなるのか、というと、「自分がわからない、知らないのは、相手の責任だ」ということになる。例えば「わからないのは向こうの説明が下手だからだ」「情報の出し方が悪いからだ」ということになって、「テレビのバラエティー番組はこんなにわかりやすく説明してくれているじゃないか」「学者の説明はわかりにくい、だから学者は頭が悪い」という発想になる。
 これがね、ぼくにとってものすごく衝撃的な事実で、これで一冊本を書こうかと思ってる(笑)。

唐沢:とにかく彼らは、真実の追求だとか、相手の言い分がどうだとか、そういうことはどうでもよくて、とにかく「今、その情報がどのような扱われ方をしているか」にしか興味がない。そして、その扱われ方に乗ることだけを考える。

岡田:彼らは「新しいネタが欲しい」とか「新しい騒ぎが欲しい」「日頃の憂さを晴らす対象が欲しい」と言っているだけ。ぼくもこの騒ぎが起こったときに関係者からすぐ言われたのは、「一切情報を出さないのが一番いい」ということ。それは何でかっていうと、ちゃんと説明して沈静化させることより、放っておいて冷めるほうが早いから、だと。

唐沢:何か言うと、また燃料投下したことになって燃え上がっちゃう。これはまさに私が幻冬舎の法務担当者に言われたのと同じで、「言い訳したところで何もならない。法律上やるべきことをやるだけがあなたの義務で、それ以外には何にも義務はないですから」ということを再三言われましたね。

岡田:でも、ぼくがネットをやってる限りは、それを納得できない。だってぼくもブロガーの一人だから。つまり、「でもそんなこと言っても、ネットをやっている人はもう何百万人も何千万人もいる」と。「その人たちの信頼を失ったらもうダメなんじゃないか」と思ってしまう。

唐沢:その恐怖はすごくありますね。逆に書き込む方は、相手のその感覚を利用して、まるで世間全体がこっちのバックについている、というような書き方をするのが常です。匿名性というのは逆に、その匿名氏がありとあらゆるところに存在するかのような錯覚を起こさせますから。

岡田:ところがですね、ぼくがネットとの距離を置いた瞬間にわかったんですけれど、今、ブロガーと呼ばれているブログを書いている人たちと一般のネットをやっている人たちの間に、温度差がすごくある。
 これが今回考えた仮説なんですけれど、5年前まではネットは世界の先端だったわけです。つまり、ネットで起こることはいつか世界でも起こって、ネットで話されていることが何年かして世間で話されている。だから、ネット住民たちはネットが世界で最先端だと思っている。この癖が10年くらい続いている、この5年くらいは思考が完全にそうなっているんだけれど。
 だけど、それが最近そうでなくなってきた。そもそも、ネットが先進性を持っていたのは、いわゆるニフティのパソコン通信が最初だと思う。それが「ネットによると」という言葉をマスコミが使うようになってきたのは3年から5年前。それで、その先進性が危うくなってきたのは2007年の夏。「セカンドライフ」が日本では流行らなかった。つまり、ネットというのは世界の中の先進的な場所ではなく、「熱心なブロガー」がいるだけで、もしかして現実社会にあまり反映されないかもしれない。去年の夏くらいから「ネットでの検索1位」というのがあまりCMとか広告に使われなくなった。「続きはネットでね」みたいなCMも増えているんだけれど、それに対する批判も増えてきた。
 今たぶん、ブロガーみたいな形で、意見を言ったり聞いたりするためにネットをやっている人よりも、通販とかオンラインチケット購入とか、ホテルの予約とかにネットを使っている人が増えている。

唐沢:そっちの利用が多いでしょうね。私なんかも今、ネットをつなぐ動機はまず、通販利用だもの。】

〜〜〜〜〜〜〜

 この対談を読みながら、僕は数ヶ月前に、20代前半の職場の女性3名と飲み会で話したときのことを思い出しました。
 「田舎だと、欲しい服や本もすぐには買えないし……」と言う彼女たちに、「でも、今はAmazonとかがあるから、そんなに不自由しないんじゃない?」と僕が答えると、「えっ、アマゾンって、ジャングルの……?」と彼女たちは腑に落ちない表情になったのです。
 その場にいた、コンピューター好きの30代男子たちは「えっ、本当に知らないの?」と驚愕してしまったのですが、やっぱりそれはお芝居や冗談ではなかったみたい。
 彼女たちの名誉のために言っておきますが、確かに地方都市在住で仕事に追われている病院のスタッフですけど、僕からみると、「ごく普通の(あるいは、ちょっと真面目な部類の)若い女性」でも、こんなものなのです。
 「ネット通販」は一般的な買い物のやりかたになってきてはいるけれども、だからといって、「そういう買い物のしかたなんて知らない、あるいは信用できないと考えている人」は、けっして少なくないようです。
 「いくらなんでもAmazonくらいは……」なんていうのは、「ネットのヘビーユーザーの視点」でしかありません。

 インターネットが一般的になりはじめた10年くらい前は、それこそ、もっと「ネットだらけの世界」になるのではないか、という予感がありました。ブログブームのときなどは、名刺代わりに「1人1ブログ」になるのではないかと思っていたのです(「mixi」あたりは、それに近いものになっているのかもしれませんが、実際は「ちゃんとmixiを活用している人」というのはそんなに多くはなさそうです。僕は日常生活において、「マイミクになりませんか?」なんて知り合いに誘われたことないし(モテないから、なのかな……)

 この岡田さんと唐沢さんの対談の内容については、お二人が「既存のメディアにおける既得権を持っている人」であることを割り引くべきだとは思うんですよ。「テレビ出演や雑誌の記事に比べたら、ネットの個人ブログの影響力なんてたいしたことない」というのは事実なのだろうけど、多くの人は、「自分のブログや2ちゃんねるに書くことくらいしかできない」のだろうから。
 でも、こうしてサイトをやっているくらいのヘビーユーザーである僕にとっても、ここでお二人が語られている「ネットをやっている人間はバカになる」という主張の内容には、頷けるところが多々あるのです。

 「お前には『説明責任』がある」「反論しないというころは、間違いを認めるということですね」「自分がわからない、知らないのは、相手の責任だ」というような「常識」を持ったヘビーネットユーザーは、けっして少なくないように思われます。
 自分で調べようともせず(そう、彼らの多くは、自分でGoogleを使って検索することさえしないんですよ。目の前にネット環境があるにもかかわらず!)、「ネットでみんなが間違っていると言っているから」という理由で、尻馬に乗って騒ぎ、批判している内容が的外れだったとしても、「煽ったヤツが悪い」と知らんぷり。そもそも、「専門的な知識」を正しく理解するには、受け手にだって最低限の予備知識は必要なはず。
 ところが、「自分で勉強するのはめんどくさい」から、「わかりやすく書いてあって、自分も理解できた気分になれるもの」「ネットで大勢の人が正しいと言っているもの」に疑いもせず飛びついてしまう。
 「祭りに参加すること」が重要で、「何の祭りか?」は二の次。

 そういう「熱心なネットユーザー」と「ツールとしてネットを利用しているだけの人」の「温度差」は、たしかにどんどん開いてきているような気がしてなりません。
 「ブログは世界を変える」のではなく、大部分のブログが、「自分たちだけの小さな世界をつくり、どんどん現実とは乖離していっている」のです。
 「現実から離れること」を一概に「悪」と決め付けるわけにはいかないのだけれども、多くの場合、彼らは「自分たちは現実に立ち向かっている」と勘違いし続けています。

 もちろん、「ネット世論」は現実に影響を与えていないわけではないけれど、それは、「少しでもヘンなことを言ったらネットで叩かれる」という、恐怖感を植え付け、自由に発言しにくい空気を蔓延させるという、ネガティブな影響力のほうが大きくなりつつあるのです。

「ネットをやっている人間はバカになる」
本当に怖いのは、「知らない人」ではなく、「知らないことを自分は知っているはずだと信じてしまっている人」なのではないかと思います。

ブログって、「世界を変えるためのツール」じゃなくて、単に「よくある趣味のひとつ」だよね。僕もそれを認めるのは悲しいけれども。

「ヘビーネットユーザー」以外の人たちは、もう、「ネットの限界」に気付いているのではないかな。



2009年05月21日(木)
「”I love you. ”を100通りに訳せ」

『オタク成金』(あかほりさとる、天野由貴共著・アフタヌーン新書)より。

(1986年、あかほりさとるさんが大学2年のとき、アニメの脚本家を目指して<アニメシナリオハウス>第二期生となったときのエピソード。「」内は、あかほりさとるさんの発言です)

【「俺の場合は師匠について。で、<アニメシナリオハウス>に自信満々で行ったらさ……見事に鼻、バシンバシン折られて。脚本の成績、なんと50人中、48番だったんだよ!ビックリするだろ?
 俺ね、同期のヤツらがものすごくて。『仮面ライダー クウガ』とかの戦隊モノをやってる荒川稔久とか、『機動新世紀ガンダムX』全話の脚本を一人で書いた川崎ヒロユキとか、『幽☆遊☆白書』とかジャンプ系アニメの脚本をやってる隅沢克之とか。あいつら天才だからさ。やんなっちゃうよね。
 ほんと、あいつらって脚本うまいんだよ。同じストーリーのものを書いても、うまいって思ってね。これは師匠のところで習ったんだけど、その人のセンスを見るときに、こういうテストをするの。
”I love you. を100個訳せ。”
実際に注目するのは1個目なんだけどね。これを荒川はだね……
”アンタなんか大嫌い”
って訳したんだよ! 勝てないだろ!?
 ちなみに俺は”ヤラせろ”だったけどな! こういうセンスがあるかないかで、セリフってのはぜんぜん変わってくるから。だから当時から、絶対勝てねぇと。
 その頃から俺は、自分は脚本業界で一番の才能を持っていないと思ってたから。
 だから、勝負するならここじゃねぇなと。俺の場合は、見切ってるところがすごくあってね。こいつには勝てねぇとか、精一杯やっても自分はここまでとか。
 昔、川崎が言ってたんだけど、みんなで飲んだときに、酔っ払ったあかほりが言ってたよと。”この業界じゃ天下は獲れん!”って」】

〜〜〜〜〜〜〜

”I love you. を100個訳せ。”
この場合、みんな「人と違う目立つ答え」を狙って解答していくのでしょうけど、それにしても「ツンデレ」なんて言葉がなかった1986年に、これを”アンタなんか大嫌い”といきなり訳してみせるというのは、すごいセンスだなあ、と感心してしまいました。僕が
 今の時代であれば、けっこうこういう解答をする人もいるんじゃないかとは思いますが、それは、荒川さんたちがつくってきた「レール」に僕たちが乗っているから。

 コピーライターの世界では、こういう「あるものを100種類の言い回しで表現せよ」などという課題が、発想のトレーニングとして与えられるケースが多いそうです。有名なコピーライターの谷山雅計さんも、著書『広告コピーってこう書くんだ!読本』のなかで、同じようなことを書かれています。
”I love you.”を訳す場合でも「愛しています」「好きです」「君なしじゃ生きられない」から「一緒のお墓に入ろう!」くらいまで頑張っても、せいぜい20〜30個、というところ。でも、そこから先に、良くいえば「発想の飛躍」、悪くいえば「こじつけ」があって、それを繰り返すことによって、自分の引き出しが増えていくのです。
 有名なコピーライターでも、「一発のひらめき」で素晴らしいコピーが生まれるわけではなくて、たくさんの候補をあげていくなかで、いちばん良いものを選んでいくことがほとんど。
 「直感」だけでは、「一度の大当たり」はあっても、「商品になるコピー」をコンスタントにつくっていくのは難しい。

”アンタなんか大嫌い”に比べると、あかほりさんの”ヤラせろ!”は、インパクトはあるものの、「インパクト狙い」の印象が強すぎるように思われます。好きじゃなくても、単なる欲求不満からでも出てきそうな言葉だしね。
「意味としては等価なのに、全く逆の言葉になっているという美しさ」も含めて、たしかに、これを同級生にやられたら自信失くすだろうなあ。

しかしながら、「とてもかなわないと思った」荒川さんや川崎さんや隅沢さんよりも、”ヤラせろ”の、あかほりさんのほうが、「周囲の天才たちがやらないところを狙う」ことによって、世間的には「成功」しているというのも、なかなか興味深い話ではあります。
「自分の才能を客観的に評価できる」というのは、もしかしたら、すごい「才能」なのかもしれませんね。



2009年05月17日(日)
「なぜだ? おまえは自分の評価をしすぎるよ」

『NHK「トップランナー」仕事がもっと面白くなる「プロ論」30』 (NHKトップランナー制作班著・知的生きかた文庫(三笠書房)) より。

(NHKのインタビュー番組『トップランナー』のダイジェストを文庫化したものです。映画監督・行定勲さんの回から。「」内は行定さんの発言です)

【行定勲は1968年8月3日、熊本県生まれ。郷里の高校を出て上京し、テレビ映像の専門学校に入った。初めて現場を見たのは、堤幸彦が撮っていた本田美奈子のプロモーションビデオの撮影だった。そのとき、堤に手伝わせてもらえないかと頼んだところ、運転免許証を持っているかどうか聞かれ、「ある」と答えると、次の日から制作部の車両部になり、機材を運ぶ車の運転手になった。そして、ある制作会社に寝泊まりしながら仕事を覚えていく。

「最初に現場を見たときはわけがわからなくて、何もできませんでした。車だけ運転していればいいと思って、しばらくその仕事だけをしていたのですが、頭でっかちだったので、とにかく早くわかるようにならなければならないと思っていましたね。ついていけないと思ってその会社はやめて。専門学校に戻りドラマのほうの仕事をやらせてもらえるように頼んだら、運よくやらせてもらえたんです。最初は演技のスタートのきっかけの合図を出すような小さな仕事からやらせてもらったのですが、合図ひとつでも、今度は緊張してうまくできなかった。そのときは自分の能力のなさを思いました。
 自分の能力に絶望して、チーフプロデューサーに向いていないのでやめたいと伝えると、「なぜだ? おまえは自分の評価をしすぎるよ」と言われました。「評価が他人がするものだ。俺はお前をやめさせるような評価はしていない。続けろ」と言われたのです。そのことを言われて続けたから、今の僕がいるのだと思います。いまだにその人には感謝しています。今ではスタッフのひとりがそうやって僕のところにきたときは、同じことを言っていますよ。
 映画の評価も同じで、放っておいても、他人が評価してくれます。それが怖いならやめることです。評価を自分でしていても発表なんてできないし、作れなくなるんですよね。だからこれはすべての創作において通じる言葉だと思います」】

〜〜〜〜〜〜〜

 行定勲監督は、1997年に『OPEN HOUSE』で監督デビュー、2001年に『GO』で日本アカデミー賞などの数々の賞を獲得、『世界の中心で、愛をさけぶ』(2004)などのヒット作もあります。
 僕の個人的な印象としては、けっこう当たり外れが大きい監督さんではあるのですが、この話にはとても考えさせられました。
 日本アカデミー賞を獲るような監督になる人でも、最初は「合図ひとつも出せない」ものなんですね。いや、「誰でも最初はそんなもの」なんだよなあ。

 僕がこの話のなかでもっとも印象に残ったのは、チーフプロデューサーの「おまえは自分の評価をしすぎるよ」という言葉でした。
 僕も「この仕事は自分に向いていないんじゃないか……」と働きはじめたときには悩みましたし、いまでもそう感じることってあるのです。そう言いながらも、10年以上仕事を続けてきたのですが、毎年入ってくる新人たちも、みんな同じように「自分はこの仕事に向いていないんじゃないか……」と悩んでいるんですよね。先輩としてみると、「新人なんだから、できないのが当たり前」のことなのに。
 逆に「自分は向いていると信じ込んでいる人」のほうが、傍からみていると、かえって危なっかしく感じたりもするのです。

 もちろん、「精神的にもたない」とか「仕事がイヤでイヤでしょうがない」という場合には仕方ないと思うのですが、仕事をはじめたばかりの人では、「仕事がうまくできない」のがむしろ当たり前。
 そういうときには、周りの意見を聞いてみるべきなんですよね、恥ずかしいけど。

 「自分で自分の評価をしすぎる」ために、何もできなくなってしまっている人というのは、けっこう多いような気がします。
 何かをやろうという場合には、あまり「自己評価」を信じすぎないほうが良いのかもしれませんね。最終的には、イヤでも他人が評価してくれるわけですし。



2009年05月14日(木)
『あさりちゃん』は、生きていた!!

『オトナファミ』June 2009 No.18(エンターブレイン)の特集記事「ぴっかぴかの小学館・学年誌メモリアル」より。『あさりちゃん』の作者・室山まゆみさんへのインタビュー記事の一部です。ちなみに、「室山まゆみ」は、姉・室山眞弓さんと妹・室山眞理子さんの共同ペンネームなのだそうです。

【インタビュアー:子供の頃から二人で絵を描かれてたんですか?

眞理子:ううん。一人だよね。

眞弓:基本的には。

眞理子:漫画を描き始めたのは小学校の高学年の頃でした。今の子供たちと同じようにやっぱり最初はノートと鉛筆で描いてましたね。田舎だから、遊ぶ道具がなかったんです。運動神経鈍いから、あまりほかの子供と一緒に走り回るの好きじゃなかったし。

眞弓:近所に住んでいたのが、男の子ばかりだったんです。

眞理子:いつも一緒にいた女友達2人が、これまた運動神経が鈍いので、4人が各々ごそごそ、ごそごそ絵を描いていました。

インタビュアー:あさりちゃんというキャラクターが最初に生まれたときのお話をお聞かせください。

眞弓:その前に『ハッピー・タンポポ』というギャグ漫画を学年誌で連載していて、野々タンポポちゃんっていう子と、『あさりちゃん』にも出ている藪小路いばらちゃんのお友達同士の話だったんです。お友達同士というのは、学校とか外でしか接点がないので、毎月話がなかなかできなくて。それで、この二人を姉妹にしてしまったほうが……。

眞弓・眞理子:楽だ、と(笑)。

眞理子:自分たちがあまり外に出て遊んでこなかったから、家の中のことは分かっても、外のことってあまり分からないんですよね。だから、家の中の話にしちゃおうって。だから1978年に『あさりちゃん』って始まってから何年かは一切、外の話がないんですよ。

インタビュアー:家の中なら実体験も盛り込めると?

眞理子:そう。女の子二人でしょ? 姉妹でしょ? 楽なんですよ。

インタビュアー:お二人の関係的には、どちらがあさりちゃんで、どちらがタタミちゃんですか?

眞理子:それはね、本当はないんです。

眞弓:おとなしくてね。おとなしくていい子だったので(笑)。

眞理子:描いていると自分の性格が出るから、あさりも割と最初は内弁慶な感じだったんですけど、それが描いているうちにだんだん変わっていったのね。

眞弓:私たちの手を離れていった。で、そのうち自分がなりたかった理想の子供に変えていったんです。こんなふうになりたい。こんなふうだったら、きっと学校に行くのが楽しいだろうなあって。

インタビュアー:デビュー作の『がんばれ姉子』は「別冊少女コミック」掲載でしたが、学年誌で描くことになったきっかけは何だったんですか?

眞弓:当時まだデビュー半年くらいの新人だったんですが、「小学五年生」でギャグ漫画特集の別冊付録を出すという話が出まして、お話をいただいたのがきっかけです。

眞理子:それまでずっと少女漫画を描いて投稿していたんです。ギャグ漫画として投稿したのは1本だけだったんですけど、それが編集さんの目に留まって、描かないかという話が出たんです。ギャグは全然描けなかったんですけど、描けばうまくなるからって(笑)。それでバレーボールをテーマにしたギャグ漫画を描いたんです。20ページの漫画だったのでストーリーも入っていて、ほとんど今のスタイルと変わらなかったですね。で、それが面白かったから、学年誌のほうで連載しないかって言われて……。

眞弓:そのまま来ちゃった(笑)。

インタビュアー:今は、『あさりちゃん』は「小学二年生」から「小学五年生」まで連載している形ですが、学年ごとに描き分けを意識されている部分はありますか?

眞理子:今はないですね。最初は学年ごとに年代や季節を合わせて描き分けていたんですけれど、そうすると、たとえば5月号を単行本にするときに、こいのぼりが出てくる話がどどどどーっとつながっちゃうような事態になるんです。それがまずいなと思ってからは、そんなに描き分けのことは考えないようになりました。新人の頃は、ずーっとカレンダーを見ながらネタを考えていましたから。年間行事とか今日は何の日とか。

眞弓:行事とか、お祭りとかね。

眞理子:もう、それだけ。で、どうにもならなくなると、書店に行って適当に漫画や週刊誌を買ってきます。

眞弓:だいたい5、6冊。

眞理子:とにかく読む。パラパラと読む。そうすると、今、私はそれだけの時間をロスしたんだから、何とかしなきゃってなるんです。

インタビュアー:ストーリーはお二人で一緒に考えているのでしょうか?

眞理子:新人の頃はお互いにそれぞれ作ってきて、見せ合って決めていました。二人で選んだほうの話を、私が下絵から描き始めるんですけど、そこでよく姉から「表情が違う」ってクレームを入れられていました(笑)。

眞弓:この流れでいくと、この表情はおかしいんじゃないかって。

眞理子:それで、最終的にペン入れは姉がするから、そのときに微妙な表情を変えられたりするんです! そこから「どうして変えるんだ。元に戻せ!」ってケンカしたりしていましたね(笑)。いまはもう、そうならないようにネームの段階でかなりきちんと決めてます。

(中略)

インタビュアー:長く続けられるコツはありますか?

眞弓:考えすぎないことですね。私たちは漫画家になる前は、差別用語とかも知らなかった。何にも知らずにやってきて。で、学年誌に描き始めたときに、ちょっと教えてもらって、そこから徐々に覚えていったから。

眞理子:ネタもいろいろ制限される部分ってありますよね。新人のときはすごく悩んだときもあるんです。あれはしてはいけないんじゃないか、これは駄目なんじゃないかって。でもまあ、そういう時期を越えてきて、今はもう文句が来たって構うもんかって考えているところがありますね(笑)。

インタビュアー:最後に『あさりちゃん』はどこまで続くのでしょうか?

眞弓・眞理子:どこまで続くんでしょうねえ。

眞弓:まあ、今はとにかく、100巻が目標ですかね。ファンレターにもみなさんそう書いてくれてますし。

眞理子:とりあえず、目指せ100巻。

眞弓:ですね。】

参考リンク:『あさりちゃんのへや』(室山まゆみ公式ホームページ)

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 この記事を読んだとき、「ええっ、『あさりちゃん』って、まだ連載続いてたの?」とすごく驚いてしまいました。コミックスも現在89巻まで発売されています。
 『あさりちゃん』の連載がはじまったのは1978年だそうですから、ちょうど僕が小学校に入った時期。おそらく僕はリアルタイムで、連載開始直後の『あさりちゃん』を読んでいたのです。
 当時の学年誌には、男子向けの大スター『ドラえもん』が君臨していて、女子向けっぽい『あさりちゃん』が男子の話題になることはほとんどなかったのですが、あさりちゃんとタタミちゃんの毎月繰り広げられる不毛な姉妹ゲンカは、僕たちに「女って怖いな……」というイメージをかなり植え付けていたような気がします。
 そういえば、当時の学年誌には、やたらとスポーツ万能の女の子が主人公の『うわさの姫子』という漫画も連載されていて、僕たちは、「こんな女子がいるわけない!」と毛嫌いしていたんだよなあ。
 そういう「アウトドア系のヒロイン」が同じ本のなかにいたからこそ、「連載開始から何年間も全然外に出なかった」という『あさりちゃん』の「引きこもりっぷり」が、あまり槍玉に上がらなかったのかもしれませんね。

 それにしても、『ドラえもん』が、作者である藤子・F・不二雄先生が亡くなられたあとも、子供から大人にまで幅広く認知されているのに比べると、連載されていたのが学年誌のみとはいえ、『あさりちゃん』は、「中学生になったら、すっかり忘れてしまう通過儀礼のような漫画」なのでしょうか。誰もがみんな一度は読んだことはあるはずなのに、大人たちのあいだで話題になることはほとんどありません。

 1982年にはテレビ朝日系でアニメ化もされており、僕も

♪あーきれたあのこはあさりちゃん〜

という主題歌の最初の部分を思いだすことができます。
アニメ化がピークで、アニメが終わると人気が落ちていき、終了するというのが一般的な「漫画の一生」なのですけど、『あさりちゃん』の場合は、アニメが終わってからもずっと学年誌で連載が続いているわけです。
同じような内容の繰り返しでも飽きられないのは、読者のほうが次々と入れ替わっていくという「学年誌」だからこそ、なのだとしても。

 そういえば、この「室山まゆみ」は姉妹2人のペンネーム、という話も、以前どこかで聞いたことがあるような気もするんだよなあ。もうすっかり忘れていたけれど。

 ひとつの時代に「子供から大人まで、みんなに愛される」というのもすごいことなのですが、『あさりちゃん』のように、「30年以上もそれぞれの時代の小学生たちに愛され続ける」というのも、かなりの偉業ではないかと思います。
 『あさりちゃん』は、まだまだ現役みたいです。



2009年05月11日(月)
ゲッツ板谷さんのお母さんの「息子には伝えなかった遺言」

『やっぱし板谷バカ三代』(ゲッツ板谷著・角川書店)より。

【オフクロの葬式の翌日、なじみのキャームが夕方頃ウチに来て、次のようなことを打ち明けてきた。
 板谷家の人間がいない時でもウチのオフクロの見舞いに来ていたキャームは、オフクロが死ぬ3週間前に彼女からこんなことを相談されていたらしいのだ。それは、『ワルボロ』というのはうちの息子の半自伝的な小説だが、それが本ならまだしも映画になるんだったら、登場人物のヤッコとか小佐野くんには一言断っておく必要があるのではないか?……ということだった。
「で、俺が電話しといたよ、奴らんところに」
「えっ………」
「だから、コーちゃん(オレ)も何日かしたら、ヤッコとか小佐野なんかには電話しといた方がいいぞ」
「……あ、ああ」
 そう、うちのオフクロは映画の『ワルボロ』に喜ぶどころか、イロイロなことで心配になり、そのことをオレに内緒でキャームに相談していたのである。
「うっ……うううううううっ」
 気がつくと、オレはまた泣いていた。そう、本を何冊も出し、たまには新聞にも載るようになって、それでオフクロを喜ばすことができるようになったとイイ気になっていたが、結局オレは最後の最後までオフクロを心配させるガキだったのだ。】

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 板谷さんのお母さんが亡くなられたのは2006年の12月。7年間にわたる闘病の末のことでした。67歳というのは、現在の平均寿命を考えると、早すぎる印象です。

 昨日は母の日だったので、僕も自分の母親のことをいろいろ思い出していました。何かにつけて、息子のことをいちばん喜んでくれた記憶がある一方で、いちばん心配してくれていた(ときには、あまりの「心配性」にあきれてしまうくらい)のも母親だった記憶があります。

 作家として売れっ子になり、自分が書いた小説が映画化されることで、「親を喜ばせることができる」と考えていたゲッツ板谷さんの気持ちはよくわかります。このエッセイ集のなかには、病床のお母さんに、なんとか『ワルボロ』を見せてあげようとする板谷さんの苦労も描かれていますし。

 でも、お母さんは、もちろん喜んでいたのでしょうが、その一方で、「映画という多くの人の目に触れるメディアで息子が誰かを傷つけてしまうのではないか」と心配されていたんですね。
 たしかに、柳美里さんの『石に泳ぐ魚』という「自伝的小説」でモデルになった人物が裁判を起こしたケースのように、「自分のことをネタにされる」のを歓迎する人ばかりではありません。
 「昔は友達だった」としても、「自分の恥ずかしい話を書いてベストセラーで大儲け」した友人がいれば、不快になってもおかしくありません。

 亡くなられる3週間前、ということですから、おそらく、板谷さんのお母さんも、自分があとどのくらい生きられるかはある程度わかっておられたのではないでしょうか。
 これは、作家として生きている息子への、お母さんの「遺言」なのかもしれないな、と僕は思います。
 それを頼める「友人」キャームという人がいたのは、とても幸運なことだったはず。

 「お母さん」っていうのは、息子にとっては、本当におせっかいな存在。
 でも、お母さんがいなくなってはじめて、あんなに自分のことを心配してくれた人はいなかった、ということが、僕にもわかるようになりました。



2009年05月07日(木)
「特撮ヒーローの常識」を超えた『宇宙刑事ギャバン』

『超合金の男〜村上克司伝』(小野塚謙太著・アスキー新書)より。

(名作玩具「超合金」を開発し、「スーパー戦隊」を作り出し、「ライディーン」「ゴットマーズ」「ゴールドライタン」などの変形・合体ロボのデザイン設計にも従事された、伝説のプロダクト・デザイナー・村上克司さんの伝記の一部です。『宇宙刑事ギャバン』の誕生秘話。「」内が村上克司さんの発言です)

【実はこの新番組企画には、危機的局面を突破すべく、過去最高の制作費が捻出されていた。それは「凶と出たら、二度と特撮の新ヒーローは生み出せないほど」(東映・鈴木武幸プロデューサー)の額だったという。
 女児向けアニメが放映されていた金曜夜7時半からのゴールデン枠を「己の進退をかけてとってきた」という吉川プロデューサーに、主演の大葉健二が「それなら自分は現場で命をかけます」と答えた話はファンの間で有名だ。
 他にも脚本の上原正三、演出の小林義明、特撮の矢島信男、アクションの金田浩、音楽の渡辺宙明など、才気あふれるメンバーが新企画の成功に向かって一丸となっていた。
 その旗印こそ、村上の描いた、解説不要のヒーローデザインに他ならなかった。
 ところがテスト撮影の段になり、撮影スタッフからスーツのメッキに対し、困惑の声があがる。周囲が映りこむのはまだしも、日光や照明を照りかえし、全身いたるところでハレーションが起きてしまうというものだ。それは従来の特撮シリーズではリテイク必至の、強烈なハレーションだった。<これではとても撮れない――>。
 しかし、村上は平然と言った。
「それがいいんじゃないか。もっと光らせてくれ」

 メタリックなスーツが起こす強烈なハレーション。それこそ、村上の意図する真の演出効果に他ならなかった。
「逆光でボディが影になり、胸のインジケータ―がバーッと点滅する。また、光を受けるとハレーションが起きて、全身がブアッと光る。メカニックな雰囲気を出すだけでなく、こうした光を利用した演出を可能にすることが狙いでした」
 電飾の効果や素材の質感、その照り返しまでも計算に入れたデザイン。それは、まさしく工業デザイナーならではの発想だった。出来上がった画面の強烈なインパクトは、スタッフを大いに唸らせた。
 ひとたび理解してしまえば、そこは天下の東映である。撮影に適したライティングや絞りをつかむのに時間はかからず、ときにはわざとハレーションを起こさせ、ときには派手なクロスフィルターを使用し、キャラクターの魅力を存分に引き出しはじめた。ハレーションを起こしたままの状態でアクションされ、場合によって全身をフッと霞ませて見せたりする演出などは、村上の思惑を超えるものだった。

(中略)

「撮影現場で起きたクリエイティブ上の議論は、枚挙にいとまがありません。そのセリフに関しては覚えていませんが、ギャバンは私なりのヒーローです。1話目はまだキャラクターの紹介に徹するからよいが、2話目からは各監督のカラーが出はじめる。そうすると当然、イメージの食い違いも出てきます」
 たとえば、アクション面での齟齬。スタッフはギャバンに、従来の仮面ライダーやスーパー戦隊と同じ、大振りなポージング、目まぐるしい殺陣をさせたがった。それに対し、村上は異を唱えた。村上はギャバンにおいては、昔の時代劇のような、静から動のような、瞬時に移るダイナミックな殺陣を考えていたのである。むろん現場も、「それではとても間が持たない」と簡単には譲らない。

 また、ギャバンをサポートするメカのひとつ、“電子星獣ドル”。この巨大な竜の変形メカは、低年齢向けであるスーパー戦隊ロボとの差別化を意識したもので、ギャバンの守護神的存在としてデザインしていた。ギャバンがその鼻先に立って飛ぶ名シーンがあるが、村上のイメージでは、ドルは自らの意志をもってギャバンを守り、敵と戦う、能動的で、神秘的な存在だった。
「あの演出では対象年齢が想定より下がってしまう。ただ、ドルはコンセプトがややマニアックで、玩具も売れることは売れたが絶対的なセールスパワーはなかった。今にしてみれば、あの方向性で丁度よかったといえるのかも知れません」
 もっとも、当時は村上もスタッフも懸命である。現場ではさまざまな声が飛び交った。“俺がギャバンだ!”なる言葉は、そんな中、ギャバンのヒーロー像はデザインした自分こそが一番わかっているんだ、という思いから出てきたものだったに違いない。

(中略)

「ギャバンをデザインする際、赤い目にするのには勇気がいりました。赤く鋭い目というのは、善悪でいえば“悪”なのです。黄色やグリーンなども考えましたが、悪者に対する激しい怒りを目に現すには、やはり赤しかない。一歩まちがえば野卑になるので悩みましたが、このプロテクターのデザインなら大丈夫だろうと決断しました。劇中の眼の強さは、『電子ギャバン』にも活かせたと思います」
 放送開始から1年後――。最高視聴率18.6%を記録した最終回で、『ギャバン』は次作『宇宙刑事シャリバン』へとバトンをつなぐ。それは続く『宇宙刑事シャイダー』を含めた<宇宙刑事3部作>さらにその後の<メタルヒーロー>シリーズへ連なる、長い歴史の始まりだった。

(中略)

『ギャバン』から3年後、村上の元にアメリカから1通の手紙が届く。差出人の名はポール・バーホーベン。自作の映画の主人公に、ギャバンのデザインを引用させてほしいというのだ。
「東映伝いに私の名前を聞いたようです。その頃、バーホーベンは日本ではほとんど無名に近い監督でしたが、『構わない。どうぞ』と返事をかえした。金銭のやりとりは一切発生させていません」
 ギャバンをイメージソースとしたハリウッド映画『ロボコップ』は、87年に公開され世界的に大ヒット。バーホーベン監督の出世作となる。
「日本のヒーロー像を理解する人間がハリウッドにも現れた。素晴らしいことだと思い許諾しました。ただ、ロボコップのデザインを見ると、マッシブな体型といかにもアメコミ的な口出しマスク。ああ、あちらではやはりこうなるんだなと思って、それは少し可笑しかったですよ(笑)」】

参考リンク:『宇宙刑事ギャバン』(OCNアニメ・特撮)

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 蒸着せよ、ギャバン!
 『宇宙刑事ギャバン』が放映されたのは1982年3月5日から翌年2月まで。
当時の僕は小学校高学年でしたから、「こんな子どもっぽいヒーローものなんて!」(子どもっていうのは、そういうふうに考えがちなものなのです)とか言いながら、毎週『ギャバン』を楽しみに観ていた記憶があります。
当時は、『ギャバン』とそれまでの特撮ヒーローとの差異なんて、あんまり意識したことはなかったのですが、ギャパンのメタリックな外観は、「メカ好き少年」だった僕にはとても魅力的なものでした。

 『ギャバン』は、フランスの有名な俳優、ジャン・ギャバンから名前をとられているですが、当時は「ベムトリガー」「ブリット」「ギンブリッド」「ギンジロウ」などが、名前の候補として挙がっていたそうです。「ギンジロウ」だったら、あんなに人気にはならなかったかもしれません。まあ、それだけ「メタリックな『光るヒーロー』である」ということをアピールしたかったのでしょうね。
 当時はなんとなく「ちょっと違うな」くらいの印象しかなかったのだけれども、こうして、当時の制作者たちの「戦略」を読んでみると、いままでの特撮ヒーローとの差別化のために、数々の努力と葛藤があったことがよくわかります。
「ハレーションを利用する」という発想は、実現されてみると「なんで誰も思いつかなかったのか?」というものですが、これを最初にやるのは、大きな冒険だったはずです。
 そして、見た目だけではなく、アクションの見せ方でも「いままでの特撮ヒーローとの差別化」がはかられていたんですね。あの動きはギャバンの「重さ」を表現しているのだと当時は思っていたけれど、実は「静と動のコントラスト」を見せるための表現だったのです。

 『ロボコップ』が『ギャバン』に影響を受けているという話は聞いたことがあるのですが、バーホーベン監督が、正式に村上さんに「引用願い」を出していたというのはこれで初めて知りました。
 まあ、ギャバンとロボコップは、「そっくりそのまま」とは言い難いのですが、それでも、ちゃんと許可を求めた監督と、無償で許可した村上さん。『ロボコップ』は大ヒットしましたから、少しくらい使用料もらっておけばよかったのに、という気もしますけど、こういうのがクリエイターの心意気というものなのでしょう。



2009年05月02日(土)
「ジャポニカ学習帳」の表紙へのこだわり

『GetNavi(ゲットナビ)』2009年5月号(学習研究社)の「ゲットナビ探検シリーズ〜わが社のロングセラー伝説・第15回」(マリオ隊長著)より。ショウワノートの「ジャポニカ学習帳」が採り上げられています。

【ジャポニカ学習帳は、見たこともないような珍しい動植物の写真が表紙を飾り、裏表紙にはその解説を掲載。「読み物としても楽しめるノート」として、アラサー世代の心にも強く刻みこまれているはずである。しかし今回、広報担当氏から「マリオ隊長が小学校に上がられる少し前の78年頃から、表紙の内容と品質をさらに高めるため、世界各地に取材班を派遣するようになりました」と聞かされ仰天した!
 なんと、ギニア高地の頂上付近にしか咲かない花や、アマゾンのジャングル奥地にしか生息しない昆虫の姿を求め、何か月もかけて取材をしているのだという。ジャポニカ取材班は、我々探検隊さながらの労力を費やしてきたのだ! 本職ながら、ほとんど東京都内から出ずに探検活動を行っている私は、ここで思わず赤面である。聞けば、異常気象の影響で花が咲かなかったり、いるはずの生き物がいなかったりするなど、年々その取材は困難になっているという。しかし、ショウワノートとしては、この撮影と取材は今後も継続していく方針だ。それこそがジャポニカ学習帳が長年支持されてきた大きな魅力そのものだからだ。
 もちろん裏表紙の解説文は、最新情報を踏まえながら、データの細部にいたるまで徹底して再検証が行われている。さらには、学年ごとに文体を変えるなど、完成度と精度も極めて高いものに毎年編集し直されている。このページの担当編集・安ドも脱帽の、深いこだわりようだ。
 マークを集めることで、誰でも気軽に参加できるボランティア活動「ベルマークキャンペーン」では、3000点以上集票した全学校にスタッフが足を運び、直接感謝状を贈呈するといった地道な努力も続けている。実は、少子化の影響をモロに受け、最近では、全国展開している児童向けの学習ノートブランドはジャポニカ学習帳のみだという。この過酷な生存競争に勝ち残ることができたのは、コストと労力を惜しまない”愛ノート精神”があったからだ。】

参考リンク:ジャポニカ学習帳について(ショウワノート株式会社)(注:音が出ます!)

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 「ジャポニカ学習帳」は1970年生まれ。僕とちょうど同じくらいの年齢なんですね。
 当時から、あの「表紙の珍しい動植物の写真」にはインパクトがあって、買うとすぐに裏表紙の「解説文」を読んだものでした。当時はノートの本体である白いところなんて無くてもいいから、もっとこの解説がたくさん載っていればいいのになあ、と考えていた記憶があります。

 あの「ジャポニカ学習帳」がいまでも生き残っているというのは嬉しいかぎりなのですが、「最近では全国展開している児童向けの学習ノート」は、「ジャポニカ」だけになってしまったんですね。100円ショップなどで文房具が安く買える時代でもあり、「児童向け文具」にとっては厳しい時代のようです。
 それにしても、ショウワノートが、「ジャポニカ学習帳」の「表紙の写真」や「解説文」に、ここまで企業努力をしているというのは予想外でした。「文房具メーカー」なのに!
 既存の雑誌や写真集から、良い写真を見つけて使用許可をもらって使っているのかと思っていたのですが、世界各地に直接取材班を派遣し、何か月もかけて、オリジナルの写真を撮っているんですね。そこまでやるから、あれだけのインパクトがある写真が集められるのか……
 そのほかにも、表紙には特殊なコーティングがされていたり、糸綴じを工夫して耐久性を増していたり、「ジャポニカ」には子供のための目に見えないさまざまな気配りも隠されています。

 親の立場になってみると、「ちょっと割高な『ジャポニカ』じゃなくても、安いノートでもいいんじゃない?」なんていう気持ちもあるのですが、子供というのは、大人が思っている以上に「本物」がわかるものなのかもしれませんね。