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2008年10月29日(水) ■ |
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「のび太くんを選んだきみの判断は正しかったと思うよ」 |
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『ドラえもん学』(横山泰行著・PHP新書)より。
(「第3章 あらすじで読むドラえもん」のなかで紹介されている「のび太の結婚前夜」のあらすじ)
【劇の稽古とも知らずに、しずちゃんと出来杉が演じる白雪姫のラストシーンを目撃したのび太は、顔を真っ赤にして「わ〜っ!! 手なんかにぎっちゃってや〜らしいやらし〜い」と、いつものように嫉妬の炎を激しく燃やす。「それにしても……。まるでほんとみたいだったなあ。このままだと、しずちゃんを出来杉にとられるのではあるまいか」とクヨクヨ考え込むのび太に、ドラえもんはタイムマシンに乗って結婚式を見てくるように勧める。 ついに重い腰を上げ、未来に向かった二人。結婚式場であるプリンスメロンホテルに到着すると、急ブレーキをかけながら車を乗りつけ、大慌てで駆けこんでいくお婿さんののび太を発見する。受付で式場を尋ねると、返ってきた答えは「野比のび太さまと、源静香さまのお式は、あすの予定になっておりますが……」。一日勘違いしていたのだ。「いくつになってもしょうがないなあ」とドラえもんが嘆くのも無理はない。
(中略。のび太がジャイアン・スネ夫・出来杉に「うらやましいぞ!」などと手荒く祝福されながら、独身生活最後のどんちゃん騒ぎをしている場面が描かれています。)
一方のしずちゃんはというと、親子三人、お別れパーティをやっていたらしい。ママに促されて、パパに挨拶に向かおうとするしずちゃんの姿を見て、のび太は敏感に「なんか沈んでる。もっとうれしそうにウキウキしなくちゃ」とひとり思う。「結婚の相手がきみだもんね」というドラえもんの冗談が耳に痛い。 ところが、しずちゃんはパパに二度「おやすみなさい」をいうと、すぐに部屋から出てきてしまった。嫁入り前の娘と父親の微妙なやりとりに、のび太は心配になる。そこでドラえもん、ふつうなら照れくさくて話せないようなことまで、思っていることをなんでもしゃべらずにはいられなくなるひみつ道具「正直電波」を取り出し、しずちゃんに向けた。 気をとりなおしてパパの部屋に引き返したしずちゃんは開口一番、「パパ! あたし、およめにいくのやめる!!」と爆弾発言。「透明マント」を被ってこっそり見守っていたドラえもんとのび太は驚天動地の表情。「わたしがいっちゃったらパパさびしくなるでしょ。これまでずっと甘えたりわがままいったり……、それなのにわたしのほうは、パパやママになんにもしてあげられなかったわね」としずちゃんは心情を述べるのだった。 するとパパは、「とんでもない。きみはぼくらにすばらしいおくり物を残していってくれるんだよ。数えきれないほどのね。最初のおくり物はきみがうまれてきてくれたことだ。午前3時ごろだったよ。きみの産声が天使のラッパみたいにきこえた。あんな楽しい音楽はきいたことがない」。ソファーに腰を下ろし、パイプをくゆらせながら静かに語るパパ。 おもむろにソファーから立ち上がり、絨毯が敷きつめられた部屋を数歩進んで窓際に立つと、パパは楽しげに述懐する。「病院をでたとき、かすかに東の空が白んではいたが、頭の上はまだ一面の星空だった。こんな広い宇宙の片すみに、ぼくの血をうけついだ生命がいま、うまれたんだ。そう思うとむやみに感動しちゃって。涙がとまらなかったよ」「それからの毎日、楽しかった日、みちたりた日日の思い出こそ、きみからの最高の贈り物だったんだよ。少しぐらいさびしくても、思い出があたためてくれるさ。そんなこと気にかけなくていいんだよ」―−その優しく温かい言葉の一つひとつに、一人娘をいたわる父親の思いが遷される。 「あたし……、不安なの。うまくやっていけるかしら」。不安を口にする娘を勇気づける父親の次のセリフは、ドラえもんマンガ史上、最高の感動を呼ぶ珠玉の言葉のひとつだ。 「やれるとも。のび太くんを信じなさい。のび太くんを選んだきみの判断は正しかったと思うよ。あの青年は人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむことができる人だ。それがいちばん人間にとってだいじなことなんだからね。かれなら、まちがいなくきみをしあわせにしてくれるとぼくは信じているよ」 あの(!)のび太が、思慮深いしずちゃんのパパからこのような発言を引き出したのだから、読者にも妙に感慨深いものがあるだろう。現実世界の翌日、しずちゃんが玄関のドアを開けると、そこに立っていたのは、涙を流しながら「きっときっと、きみをしあわせにしてみせるからね!!」と叫ぶのび太と、右手で大粒の涙を拭って立ちすくむドラえもんだった。】
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この『のび太の結婚前夜』は、「てんとう虫コミックス」の25巻に収録されています。僕がこれをはじめて読んだのも、このコミックスだったはず。 当時の僕はまだ小学生でしたから、この『のび太の結婚前夜』、「いい話」なんだろうけど、あんまりピンとこない感じだったんですよね。 「人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむことができる」なんて、あたりまえのことなんじゃないの? のび太なんかと結婚して貧乏暮らしをするより、出来杉とかと結婚したほうがいいに決まってるだろ、このお父さんは「甘い」なあ……というようなことを考えていた記憶があります。 いやまあ、実際はあの世代の子供のころの人間関係が、大人になってもそのまま継続しているということそのものがありえないのですが。
しかしながら、自分が30代の半ばをすぎ、「オトナ」とみなされる年齢になって、この「しずちゃんのお父さんの言葉」の優しさ、深さをしみじみと噛みしめられるようになりました。 子供のころ、「人間としてあたりまえのこと」だと思っていたはずの「人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむことができる」人間に、僕はなっている自信がありません。 そして、この世界で本当にそれができている人間が、どのくらいいるのだろう?
いま考えると、これは「しずちゃんのお父さん」に託した、藤子・F・不二雄先生から読者へのメッセージだったのでしょう。 すでに「大人」だった先生は、いろいろな人間の姿をみてきて、「あたりまえに生きることの難しさ」を実感していたのだと思います。 僕の場合、結局その「価値」がわかったのは、もう後戻りできないくらいのオトナになってしまってからだったのですが、たぶん、この話を読んだ、多くの子供たちも同じだったのではないかなあ。 小学生にとって、「自分の娘が結婚するときの親の気持ち」というのは、やっぱりちょっと想像もつかないものだろうし。 肝心なことというのは、肝心なときにはなかなかうまく伝わらないものなのかもしれません。 あるいは、最初から「読者が大人になったときに思い出してもらうために」書かれた話だったのでしょうか。
しかし、あらためて読みなおしてみると、この話も「のび太が出来杉に嫉妬したこと」がきっかけになっているのですから、のび太はのび太で「聖人君子」ではないというか、けっこう「邪念に満ち溢れている利己的な人間」のようにも思えます。 まあ、そこがまた、のび太の「人間らしさ」でもあるのですけど。
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2008年10月25日(土) ■ |
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『ストリートファイター2』の生みの親が語る「ゲームとその他のエンターテインメントの違い」 |
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『STUDIO VOICE』2008年11月号 Vol.395(INFASパブリケーションズ)の特集記事「非ゲーム・クリエイターのためのゲーム作り入門講座」より。
(『ストリートファイター2』『バイオハザード』の生みの親である岡本吉起さんへの「ゲームの作り方の基本」についてのインタビューの一部です。聞き手・文は古屋蔵人さん)
【インタビュアー:ゲームの企画立案と僕らのような雑誌や書籍媒体の立案、大きな違いはなんでしょうか?
岡本吉起:ゲームとその他のエンターテインメントの違いはインタラクティヴ性ですよ。インタラクティヴであるがゆえの難しさというのは作ったことがないと分からないと思うんですよね。例えば『ドラクエ』(ドラゴンクエスト)をやっててダンジョンに入って行きますよね。大抵のプレイヤーはボスの近くにきたら今きた道を戻ってセーブして、リスクを最小限にするんです。『ドラクエ』だったら例えばやられたってダンジョンのアイテムは全部自分の手元に残るし、お金が半分になるだけなんですよ。だったら行きゃあいいじゃないですか。作り手としては『うわ、MPも減ってるしヤベぇ』という状況でワクワクしてほしいから、セーブポイントからボスまでの距離をとってるのにそこを戻っちゃう! これが難しい。
インタビュアー:企画側が”意図した仕掛け”を予測して、石橋叩かれちゃうんですね。
岡本:そこにドキドキ感はないだろうと。映画だって小説だって徐々に盛り上げてそこからクライマックス、という流れを作るじゃないですか。道筋を選ばれるとこっちが意図した演出や展開を計れないのがゲームの辛さ。一番いいところでもあり、悪いところでもある。それに楽じゃないですよね。映画はソファに座ってポップコーン食べながら観ればいいけど、ゲームはプレイヤーを引き込まないといけない。ボーっとしてても巻き戻せないし、ちょっと目を離したらゲームオーバーになったりするし。それにポップコーン食べながらやったらコントローラーがべとべとしますから。】
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日本を代表するゲームクリエイターの1人である岡本吉起さんのこの話を読むと、たしかに「ゲームでプレイヤーを楽しませる」というのは、映画や音楽などとはちょっと違う面がありそうです。 僕も『ドラクエ』『ファイナルファンタジー』などのダンジョンでボスの姿が見えたら、とりあえず一度引き返してセーブした後、あらためてなるべくHPやMPを温存しながらボスと勝負をしに行くので、この岡本さんの話には納得してしまいました。
映画や小説では、「ヒロインを捕らえている敵のボスの目の前で、とりあえず引き返してセーブしに行く」というストーリー展開はまず考えられず、主人公たちはボロボロになった体で「最後の決戦」に赴くわけですが、ゲームでは、そうする人のほうがむしろ少数派です。
ゲームを作る側とすれば、「なんとかボスに勝てるギリギリのところ」で、プレイヤーがボスと緊張感あふれる戦闘を繰り広げるのがベストのゲームバランスのはずなのです。でも、プレイヤーの立場からすれば、やっぱり死んでしまうのはイヤなものなので、「少しレベル上げをして余裕ができてから」と思いがち。
それでも、なかには「とにかく行けるところまで行く」というタイプのプレイヤーもいますから、「すべてのプレイヤーが満足するゲームバランス」というのは、まずありえません。
これを読んであらためて考えてみると、たしかに「プレイヤーが死んでもお金が半分になる」くらいのペナルティであれば、「思い切ってボスに向かっていってもいいじゃないか」という気もしますよね。 制作側としても、あまり死んだときのペナルティが厳しいと、プレイヤーが消極的になって十分レベル上げをしないと先に進まなくなり、ボス戦での緊張感が無くなるのではないかと危惧して、「死んでもお金が半分になるだけ」というシステムにしたのでしょうし。
そういえば、『ドラゴンクエスト』で、「プレイヤーが途中でやられてもお金が半分になって城に戻されるだけ」というシステムが採用されたときには、当時のゲーマーたちからは、「なんてヌルいRPGなんだ!」という批判の声がけっこう挙がっていた記憶があります。 それに比べると、「死んだらセーブしたところからやりなおし」という『ファイナルファンタジー』シリーズは、かなり「厳しい」印象がありますが、昔のRPGでは、むしろこちらのほうが「普通」だったのです。
「制作側の思い通りに動いてくれないプレイヤー」を楽しませなければならないのですから、ゲームというのは、たしかに「特殊なエンターテインメント」なのかもしれませんね。 実際にゲームで遊んでいると、作り手のなかでも、その「特殊性」を理解し、うまくプレイヤーの「わがまま」に適応している人は少ないように思えます。 どんなに映像や音楽が「映画に近い」ものになったとしても、映画とゲームとは「違う」のです。
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2008年10月22日(水) ■ |
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一流セールスマンの「お客に信頼されるための会話術」 |
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『営業と詐欺のあいだ』(坂口孝則著・幻冬舎新書)より。
【信頼を形成するために、セールスマンがお客について知るべきことは三つです。
・「お客の属性」……どんな組織に属する、どんな立場の人か ・「お客のセンス」……どんな能力・才能・趣味・タイプの人か ・「お客の敵」……どんな人間関係を持った人か
この三つを、自分は知っている、分かっている、と思わせればお客と信頼関係を形成することができます。「お客の属性」は当然として、「お客のセンス」と「お客の敵」については説明が必要でしょう。
他人のセンスなどというものを、どうやって知るのか。私は、「この人は分かってくれているな」とお客に思い込ませればよい、と言いました。では、どうやって思い込ませるのか。 早い話が、その人を褒めるのです。 想像してみてください。あなたがどこかのブランド時計の新製品を腕につけていたとします。どちらのセールスマンに好印象を抱くでしょうか。
一人目「その時計のデザインはカッコいいですね」 二人目「その時計を選ぶなんてセンスいいですね」
間違いなく後者でしょう。 前者が対象物を褒めているのに対して、後者はその人自身を褒めているからです。その時計は良い、だけどもっと良いのは、それを選んだあなただ。そう後者は言っているからです。 誰も分かっていないかもしれないけれど、私はあなたのことを分かっていますよ。そういうメッセージを暗に示しているのです。 人間は自分の内なるセンスや才能が、世の中に正当に評価されていないという感覚を常に持っています。だから、それを評価してあげるのです。 私の知り合いのセールスマンは、商談の時に相手が机に置いたものを褒めることから始めるといいます。机にわざわざ置いたものは、その人が大切にしているということの表れなので、「これって新商品ですよね」とか「これって××というブランドのやつでしょう」とか言って「こだわる人はこういう人を選択なさるんですよね」と付け加えるのだとか。これだけでその後の会話がまったく違うのだそうです。 小売業のバイヤーから聞いた話です。商品にはどうしても一定の割合で不良品が混じってしまい、「せっかく買ったのに使えないじゃないか」とお叱りを受けるようです。数年前、返品にやってきたお客が新作のスウォッチをつけていたので、クレームを聞き終わったあとにその気づきを伝えると、怒りがウソのように静まり、むしろ他の商品を買って帰ってくれたとか。 この派生として、「ここだけの話」というのがあります。話す相手を限定している=あなたは話す価値がある、というセリフは掌握術の一つとして昔から使われてきました。 「頼りにしているのはお前だけだよ」「理解してくれるのは君くらいだよ」という言葉も相手の仕事のセンスを認めているという意味で、非常に有効な言葉なのです。 あなたもテレビで有名人の売れなかった時代の貧乏物語を見たことがあるでしょう。世間に受け入れられなかったお笑い芸人や歌手。そのときに必ずその人を支えてくれる恋人がいるものです。彼・彼女は何と言いますか? 「あなたは絶対才能があると思う。私だけは分かっている」】
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これを読みながら、僕は「こんなミエミエの『お世辞』に騙されるヤツなんて、そんなにいるわけないだろ……」と思ったのですけど、実際はこういう一工夫があるかどうかで、その後の相手の態度はかなり違ってくるそうです。 それだったら、いっそのこと「うわーなんてカッコいい人なんだ、福山雅治も裸足で逃げ出しますよ!」くらいのことを言ったらすごい効果ではないかとも想像してみるのですが、そういう「目に見えて、自分でも客観的に評価できること」だと、かえって逆効果なのでしょう。 そういう意味では「その時計を選ぶなんて、あなたのセンスはすばらしい」っていうのは、まさに「ちょうどいい褒め言葉」のように思われます。 「センス」っていうのは可視化・数値化できるようなものじゃないし、「これってセンス悪いなあ……」と自認しているモノをわざわざ買う人はいないはずなので、「他人から褒められて悪い気はしない」ですよね。
誰かの信頼を得ようとするとき、「相手を褒める」なんていうのは、「おべっか使い」のやることだし、そんなヤツはかえって信頼できない、と僕も思うのですが、「机の上に置いてあるフィギュア」とか「棚に並んでいる本」を見て、さりげなく「これに目をつけるなんていい趣味だなあ」とか、「この本を読んでたなんて勉強家なんですね」とか言われたら、たしかにちょっと親近感を抱きそう。 大人って「誰かに褒められる」って機会はほとんどないので、基本的に「褒められることに飢えている」のかもしれません。
「買い手の側」からすれば、「こういう態度を自分にとってくる人は、(それが善意によるものか悪意によるものかはさておき)自分に近づきたい、信頼を得たいと考えている」ということです。 「あなたは絶対才能があると思う。私だけは分かっている」 そう言って近づいてくる人は、ものすごく「あなた」のことが好きなのか、自分の利益のために「あなた」の信頼を得ようとしているのかのどちらかなんですよね。 本当は、「私だけにしかわからないくらいの才能」では、芸能界で成功するのは難しいはずなんですけど。
とりあえずこの話、「他人とのコミュニケーションのきっかけに迷っている人」にとって、けっこう役に立つのではないかと思います。
モノだけを褒めるくらいなら、まず、「それを選んだ人のセンス」を褒めてみるべし。 少なくとも、「いい趣味してますね」って言われて、「これがいい趣味なはずないだろ、この大嘘つき!」って言い返す人は、あまりいないでしょうから、試してみる価値はありそうです。
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2008年10月19日(日) ■ |
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ブラジル人を変えた『聖闘士星矢』 |
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『ニッポンの評判〜世界17カ国最新レポート』(今井佐緒里編・新潮新書)より。
(「日本と日本人が現在世界各国でどう思われているか?」についての現地在住の日本人からの最新レポートを集めた本から。ブラジル在住の根川幸男さんのレポートの一部です)
【日本の23倍という広大な国土を持つブラジルは、19世紀以来、主にヨーロッパから500万人を超える移民を受け入れてきた。ブラジルの人種構成は、先住民のインディヘナ、征服者のポルトガル人、奴隷として導入された黒人の3つとされているが、20世紀初めまでは「白人種がもっとも優秀である」とい人種優生学の影響が強かった。 日本人の公的な移民は1908年の笠戸丸移民に始まったものの、有色人種の移民自体が決して歓迎されたものではなかった。そのような逆境の中で日本人が作った閉鎖的なコミュニティに対しても、バッシングがさかんに行われた。しかし、ブラジルでは植民地時代から、元からいた3つの人種の間で混血が進んでいたのも事実だ。米国の多民族社会が21世紀の今でも「サラダボウル(複数の野菜が一つの器に入ってはいるが、決して溶け合うことはない)とたとえられるのと対照的である。1937年から始まった新国家体制下では、「多様性の中の統一」「秩序と統一」がスローガンとなり、ブラジル・ナショナリズムが高揚したが、日系人はその統一を乱すものと考えられた。 さらに第二次大戦でブラジルは連合国側に立ったため、日系人は「敵性国民」になる。抑圧されるだけではなく、ネガティブなイメージまで与えられることになった。 状況が少しずつ変わり始めたのは、戦後になってからだ。「ジャポネース・ガランチード(日本人は保証付き)というような肯定的評価も生まれた。これは、「日本・日系人は信用できる」という意識と「日本人は馬鹿正直」といった多少の揶揄が含められている。このような評価がおこった背景には、日系人のブラジル農業への貢献、戦後日本の産業とテクノロジーの大躍進、そして1960年代からはじまる日系企業の進出が挙げられる。日本の技術は、何も育たなかったセラードという半乾燥地帯を、世界的な大豆の生産地に変えた。こういったブラジル人にとっては「魔術的」なテクノロジーや、それにともなう正直さ、勤勉といったものが日本への好評価をもたらしたのだ。
しかしそれだけでは、快楽主義のブラジル人の「日本はカッコイイ」という評価にはつながらない。劇的な、突然変異とすらいえる変化は、90年代に入っておとずれた。 日本製アニメ、なかでも90年代半ばに放映された「聖闘士星矢」は、ブラジルの子どものほとんどが視ていたと言われるほどのヒットとなり、これがジャパニメーションブームに火をつけたのだ。星矢がハイテクノロジーを駆使して悪者どもを次々とやっつけるイメージから、「日本=ハイテク」「日本人=正義の味方」、さらに「日本=カッコイイ」という図式が出来上がった。そんな「日本アニメ世代」が次々と大人になってゆく。 J−POPブームは「デカセギ」ブームとも重なった。90年に日本の入管法が改正され、92年には16万人の日系ブラジル人が日本へ入国、いま正規登録者数だけで約31万人が日本に住んでいる。失業率が高い上に先進国での就労ビザが取得困難がブラジルでは、日系人とその配偶者だけが日本で出稼ぎできるのは、「羨ましい」の一語に尽きる。日系人になりすますための文書偽造や整形手術をする者まで現われ、新聞を賑わせた。 日本で儲けてブラジルでマンションや高級車を買い、レストランを開いてオーナーになることが「成功」のイメージとして定着。最近では「日本で息子をJリーガーに、娘をモデルにして親は左団扇」が理想とまで言われている。日本を生で体験した世代が帰国して、直後に日本の今がアピールされた結果と言っていい。「日本は何でも揃っている」「ブラジルはしょぼい」という直輸入の情報が、「成功伝説」とともに駆けめぐったのだ。 大きくなったブームは、負の現実も生んでいる。在日ブラジル人が殺人やひき逃げなどの事件を起こして逃亡、母国で平然と暮らしていたことが相次いで発覚した。その後、日本の要請で政府が代理処罰を行ったことはブラジルのマスコミでも大きく取り上げられた。しかし、実際のところここは殺人、児童買春、麻薬犯罪などの犯罪が目立ち、軍警と麻薬組織の「内戦」に近いような銃撃戦が行われる治安状態である。受け止め方に落差のあることは実感として否めない。 そのため、こういった負の現実も、ブラジルのJ−POPブームには大きな影響を与えていない。世界最大と言われる日系エスニックタウン「サンパウロ東洋街」に、マンガも含めた日本書籍専門店や、最新の日本のドラマやアニメのCD、DVDを販売、レンタルするお店が集中している。エリアの中心にあるリベルダーデ広場には、毎週末コスプレ、ゴスロリまがいの服装をしたブラジル人の若者たちがたむろして、おしゃべりし、情報交換している。また、何よりも、こういったお店を中心に、日系・非日系を含めた多くのJ−POPファンが集まり、衛星のように無数の愛好グループが存在している点が面白い。】
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ブラジルという国には日本人の移民も多く、ずっと昔から「親日国」だと僕は思いこんでいたのですが、実際はそうではなかったんですね。 歴史をたどってみると、移民たちや日系人たちにとって長く厳しい時代が続いた末にようやく、日本人・日系人の勤勉さが少しずつ評価されて、現在の日本とブラジルの関係ができあがった、ということのようです。
これを読むと、現在のブラジルにおいては、「日本」という国の存在感は、僕が予想していたよりもはるかに大きいものであるということがわかります。サッカー選手にとっては、「ヨーロッパのビッグクラブに入る」ことが大目標で、日本のJリーグは「ヨーロッパから声がかからなかった二流の選手の移籍先」だと思っていたけれど、ブラジルの人たちは、そんなふうに考えてはいないみたいですし(レアル・マドリードやミランに移籍できるのなら、そっちに行くとしても)。
「ブラジルの若者たちが日本に好感を持つようになった決め手」が、アニメ『聖闘士星矢』だったというのは、リアルタイムでこの漫画を読み、アニメも観ていた僕にとって、ちょっと驚かされるエピソードでした。 いや、確かにキャラクターは「日本人」ではあるけれど、ストーリーやキャラクターにはギリシア神話のネタが使われていますし、「聖衣」って、「テクノロジー」なのだろうか…… 『スパイダーマン』を観ても、多くの日本人は、「ピーター・パーカー=正義の味方」だと感じることはあっても、「アメリカ人=正義の味方」だと考えるとは思えないのですが、ブラジル人っていうのはけっこう「素直」というか「短絡的」ではありますよね。 先人たちがコツコツと「日本人のイメージアップ」を積み重ねてきたからこそ、『聖闘士星矢』が受け入れられたのでしょうが、それにしても、「ジャパニメーションの影響力」というのはこんなにすごいのか、とあらためて思い知らされました。もちろん、大部分の日本人は「ペガサス流星拳」を使えないわけですし、アニメのイメージを重ねられても辛いところはありそうですけど。
それにしても、マンガとかアニメというのは、こんなにも他の国の人たちに大きな影響を与えるものなんですね。政府高官のどんな「外交努力」よりも「子供向けの1本のアニメーション」のほうが、長い目でみれば国と国との関係改善に有効な場合もあるのだなあ。
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2008年10月17日(金) ■ |
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福山雅治から湯川学への「男としてのダメ出し」 |
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『ダ・ヴィンチ』2008年11月号(メディアファクトリー)の記事「Studio Interview 福山雅治」より。取材・文は小川みどりさん。
【アポロ宇宙飛行士たちが、自ら撮影したという写真が129点。ロケット打ち上げから、月面着陸と探査活動、離陸、そして地球へと、時系列的に掲載されている。ベージをめくった瞬間から、圧倒的にリアルな写真の力に引き込まれ、月世界へと旅している気分になる。『FULL MOON』は”カメラ”と”宇宙”が好きな福山雅治には、たまらない一冊らしい。
福山雅治「宇宙飛行士にもっとも必要な条件って、何だか知っていますか? ”人柄がいいこと”らしいんですよ。長時間にわたって、狭くて暗いところで共同生活を送らなくちゃならないので、どんなに知力、体力に優れていても”嫌な人”だったらダメだというんです。子供のころから宇宙にあこがれていたので、宇宙飛行士になりたいって思ったこともありましたけど、それを聞いて、オレ、いい人じゃないから、絶対無理だって(笑)。トイレの順番だとか、きっと小さいことで、すぐもめますよ。なので、飛行士として宇宙に行くのは断念して、来るべき宇宙旅行時代の到来に備えて、せいぜい蓄えを増やすことにしました(笑)」
(中略)
10月4日に公開された映画『容疑者Xの献身』で、福山はすでにドラマ『ガリレオ』でおなじみの、湯川学准教授を演じている。 東野圭吾の小説『探偵ガリレオ』が映像化されることになったとき、福山は原作を読み、湯川のオタクっぷりに惹かれたという。
福山「正直、90年代のラブもののようなドラマに出演するのは、もういいかなと思っていたところだったので、湯川のような役ならと。テレビと映画が連動するプロジェクトだと最初から聞いていたので、それもまたおもしろいなと思って引き受けました。とはいえ、ドラマの原作と映画の原作は、だいぶトーンが違う。湯川もそれぞれ演じ分けなければならないということはわかっていました。現場では、監督が求めるものを聞き、ディスカッションしながらリクエストに応えていきましたね」
(中略)
ちなみに福山にとって、石神のような献身的愛情はどのように映ったのだろうか。
福山「僕にはできないですね。”愛する対象に、献身することが幸せ”という石神のような考え方は。”あなたが幸せなら、自分はどうなってもかまわない”というのは、美しいとは思うけど、僕にはできない。映画を観て石神の献身に素直に感動できた人は、ロマンチックな人なのかもしれないですね。僕も初恋をしていた10代のころは、”僕は彼女のヒーローになりたい”なんて妄想していたこともありました。たとえば彼女のおとうさんの会社が倒産して、借金を抱えてしまうようなことになったら、僕が働いて、悪いことをしてでも全額返してやるんだ!みたいな。今はそんな妄想はしないですね(笑)。大人になってもそんな感情を持てたらと思うけど、現実的には石神のようにはできないと思いますよ」
数学や物理に魅せられて、独身のまま今日まで生きてきた二人。石神は恋をしたが、湯川は相変わらず物理が恋人。眉目秀麗にして、恋愛には無頓着のようだ。
福山「好きなことをそのまま仕事にできている湯川は、それで幸せなんでしょうね。でももう少し野心があってもいいと思うんですけど。僕なら男として、もう少しギラっとしたものを持っていたい。ただ、それは湯川じゃない。ガリレオ先生ではなくなっちゃうんですよね。とはいえ、あれだけの能力があったらねぇ、もう少し何かうまいことできるんじゃないですか、先生!って、やっぱり言いたくなりますよ」】
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湯川学を演じている『容疑者Xの献身』も大ヒット中の福山雅治さんへのインタビュー記事の一部です。 ここで福山さんが紹介されている『FULL MOON』という写真集も面白そうな本だったのですが、「宇宙飛行士の適正について」というのはかなり興味深い話でした。たしかに、そう言われてみると、宇宙飛行士というのは「いい人」じゃないと務まらないかもしれませんね。それこそ、「ちょっとした順番が生死にかかわる」可能性が十分あるでしょうし、危険が迫った際に「自分だけ助かれば」なんて人がいると、逃げ場のない宇宙船内では悲惨な事件が起こるかもしれません。 まあ、「いい人」だというだけで宇宙飛行士になれないのも間違いないのですけど。
このインタビューのなかで、福山さんは、映画『容疑者Xの献身』で演じている主人公・湯川学と、そのライバルである石神について語っておられます。僕もこの映画を観て、石神のような「献身」は自分にはできないな、と感じたので、福山さんの率直な気持ちには頷けます。そういえば、僕もそういう「献身的な愛」を妄想していた時期があったんだよなあ。
そして、このインタビューのなかでもっとも印象的だったのは、福山さんが湯川准教授に対して、「僕なら男として、もう少しギラっとしたものを持っていたい」と「ダメ出し」をしていたところです。 福山さんが演じる前に原作の『探偵ガリレオ』を読んでいた僕としては、まさに「そういうギラっとしてないところが、湯川学なんだよ!」と言いたいところではあるんですよね そもそも、湯川が「イケメン」になったのは、フジテレビの作戦というか、福山さんが演じているからであって、原作の湯川学は、けっして福山雅治のイメージじゃないんだけどなあ、僕にとっては。もし福山雅治のルックスで湯川学の頭脳を持ち、「男としてギラっとしている」ヤツがいたら、完璧すぎて存在そのものが犯罪です!
湯川先生に対しては、「その能力を事件解決のためじゃなくて、本来の研究に生かせばいいのに……」とは僕も思うんですけどね。柴咲さんに頼まれたら断りきれないっていうのもよくわかるけどさ。
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2008年10月13日(月) ■ |
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『ゲームボーイ』を変えた、任天堂・山内溥社長の「二つの逸話」 |
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『日本を変えた10大ゲーム機』(多根清史著・ソフトバンク新書)より。
【1989年に発売されたゲームボーイの名前に、ファミコンのように<コンピュータ>という文字が含まれなかったのは象徴的だ。この新型ゲーム機は、<おもちゃ>であることに徹していた。おもちゃとは、子どもや大人を問わず、誰もが一目見ればすぐに遊べて、乱暴に扱っても壊れないものだ。「分かりやすさ」と「堅牢性」では、並の家庭用ゲーム機は足下にも及ばない。
そして任天堂には、長年の経験に裏打ちされた「おもちゃを見るプロ」かつ「ゲームの素人」で、しかもゲームボーイの企画をちゃぶ台返しできる人物が一人いた。当時の社長・山内溥その人である。 山内にまつわる二つの逸話は、どちらもすさまじい。一つは、ゲームボーイの試作機をプレイしてみたときのエピソードだ。当初の試作品は、ゲーム&ウォッチと同じ、斜めから見やすい「TN液晶」を採用していた。これは「電卓をのぞき込む」姿勢に適しており、サイズの小さいゲーム&ウォッチでは特に問題とされなかった。 ところが、山内はゲームボーイをつかむなり、おもむろに正面にかまえた。 「何だこれ。見えへんやないか」 ゲームボーイは本体サイズがかなり大きくなっているため、自然とバランスのいい真正面か上部からつかんで見ることになる。予備知識のない山内は、初めてのおもちゃを手にする子どものように、ゲーム機に面と向かったのだ。 「どうするんや、これ。こんな見えへんの売れへんぞ。もう、売るのやめや」 自力で液晶を製造できない任天堂は、シャープと協力して開発にあたっていた。すでに「TN液晶でいける」という前提のもとに、40億円をかけて製造工場が建設されていたのだ。粛々と既成事実が積み上がる中で、“リセットボタンを押せる”のは山内のほかにいない。 そこで、急遽「STN」というタイプの液晶に変更されたが、結果としてこれが吉と出た。たしかに表示スピードが遅く、動きの激しいゲームでは残像が発生したりと欠点はあったが、ソフトの作り方によって対応できなくはない。STN液晶は明るい部分と暗い部分のコントラストが利いていて、正面からも見やすく、日光のある屋外でもゲーム画面が確認できる。「遊ぶ場所を選ばない」携帯ゲーム機としては、いい落としどころだ。 もう一つの逸話でも、山内はまるで子どものようにふるまった。開発陣から渡された最終デモ版の試作機を、いきなりカーペットの敷かれた床に投げ出したのだ。ゲーム機は子どもが買うものだかあ、乱暴に扱っても壊れては ならない、と社長じきじきに「強度テスト」をしてくれたのだ。 そのかいあって、ゲームボーイは「史上もっとも頑丈なデジタルガジェット」と海外でも定評がある。湾岸戦争のさい、任天堂が“戦時支援”として米軍兵士に提供したゲームボーイのうち1台が空爆を受けた家屋から発見され、表面は焼けただれていたがゲームは問題なく動いた、と驚きのニュースが流れたくらいだ。任天堂の社長と空爆、二つの試練に鍛え抜かれたタフガイなのである。】
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僕がゲームボーイにはじめて触れたとき、「これ、けっこう残像が目立って、目が疲れるなあ」と感じたものでした。たしか、そのときに遊んだゲームは『スーパーマリオランド』。 まあ、その違和感は、作り手の工夫もあってあまり意識しなくなっていったのですが、あの液晶は「コスト重視でやむなく選ばざるをえなかった」わけではなくて、「山内社長の意向で選ばれたもの」だったんですね。 たしかに、その後のゲームボーイの大ヒットを考えると、山内社長がTN液晶のゲームボーイに「ダメ出し」をしたことは「正解」だと思われます。 当時の開発陣は、「携帯ゲーム機」としてゲームボーイを開発しながらも、「まあ、それでも外で、陽のあたる場所で遊ばれる機会はそんなにないはず」だと考えていたようです。「天気のいい日に、わざわざ外で『テレビゲーム』をやる子どもは少ないだろう」というのが、あの頃の「常識」でしたし。 そして、「悪条件のもとでの見やすさ」よりも「想定された条件(屋内や比較的暗い場所)での画面の美しさ」を意識してTN液晶を選んだのは、当然の判断だったはず。 ところが、山内社長は、「開発陣が想定していなかった画面の見かた」をして、それが「見えにくい」ということにこだわりました。 おそらく、その場で開発側から、「社長、これはこういうふうに持って遊ぶんですよ、ほら、これなら見やすいでしょう?」と説明があったのではないでしょうか。 それでも、山内社長は譲らなかった。 すでにTN液晶の生産に多額の投資をしていたことも考えると、当時の任天堂の開発陣・経営陣は「社長、勘弁してください……」というのが本音だったのではないかなあ。
しかし、結果的に、この「選択」がゲームボーイの大成功につながったのは間違いありません。やっぱり、最初に触ったときに「画面が見にくい」と感じさせるのは大きなマイナスでしょうし、これは山内社長にとっても想定外だったのかもしれませんが、ゲームボーイによって、「晴れた日に屋外でテレビゲームをする」ことが「新しい常識」になっていったのですから。 結果的に、「限られた条件での最良を目指す」よりも、「どんな条件のもとでもそれなりに対応できる」ことを重視した山内社長のほうが、開発陣よりも「子どもたちの目線に近かった」ということなのでしょうね。この「鶴の一声」に誠実に対応した当時の開発陣もすごいとは思いますけど。 「堅牢性」の話にしても、車のように「事故を想定した安全性」が求められている製品ならともかく、「ゲーム機」のような精密機器は、ある程度「使う側が大事に扱ってくれること」が前提のはずです。 ところが、山内社長は「子どもたちはそんなふうに扱わない」ことを知っていたのです。 空爆でも壊れなかった、という話には、人類が絶滅しても生き残るゲームボーイ、みたいなシュールな想像もしてしまうのですが、「性能」を追及するあまり、実際にその製品を使うユーザーの実態が見えなくなってしまいがちな「技術者集団」のトップにこういう人がいるというのが、任天堂の「個性」であり「強み」だったのでしょうね。
しかしこれ、もしゲームボーイが失敗していたら、とんでもないワンマン社長のエピソードとして語り継がれていたかもしれないな……
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2008年10月11日(土) ■ |
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花束を贈ってくれた小さな女の子への、某総理の「信じられないお返し」 |
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『総理の辞め方』(本田雅俊著・PHP新書)より。
(この本の中で紹介されている、4人の総理大臣のエピソード)
【幼年時代から苦労を重ねたこともあり、Aは人情家であった。若い者が訪ねてくると、Aは決まって「メシを食ったか」と尋ねる習慣があった。少年・青年時代、満腹感を抱くことが少なかったAだからこその、温もりのある言葉である。Aが人望を集め、高い人気を誇ったのは、その根拠に血の通った人間臭さがあったからであろう。 Aの人身掌握術は天性のものだったかもしれないが、苦労によって磨きもかけられた。一方、Aの官僚操縦術は、昭和20年代に数々の議員立法を手がけたことによって習得されたものだといえる。昭和30年の国会法改正前までは、議員は1人でも法案を提出することができ、その数はきわめて多かったが、実際に成立したものは少ない。しかし、Aはみずから政策の勉強を重ねて低学歴のハンディキャップを克服し、先輩・同僚議員や官僚への根回しを行いながら、道路三法など実に30本以上の法律を成立させている。 もちろん、人心を掌握するため、人一倍、カネも使った。正確にいえば、苦労人のAにとり、カネこそみずからの気持ちを表現する数少ない手段のひとつだったのかもしれない。首相に就任したとき、ある祝賀会で小さな女の子から花束を贈呈されて感激したAは、すぐにその場で財布から一万円札を取り出して渡したという。周囲は驚いたが、それが「A」であった。「政治は数であり、数は力、数はカネ」との台詞からも、「A」が透けて見える。】
【その反面、Bは人望を欠いたともいわれている。竹下は、「怒る、威張る、すねるがなければ、とっくに総理になっている」と分析したことがある。年上の議員であろうが、人前で一喝することもあった。頭脳が明晰であることは誰もが認めたが、鋭利すぎたことが玉に瑕で災いしたのかもしれない。 しばしばBには、孤高や孤独の形容が用いられた。確かに大勢の宴席は好まなかったし、群れをなして行動することも苦手とした。登山やプラモデル製作、写真撮影を趣味としたのも、独りが好きだったからかもしれない。さらに、記者の質問に対する答えでも、嫌みの一つや二つが入り、相手を閉口させることが珍しくなかった。 しかし、見かけとは裏腹に、Bはシャイな人情家でもあった。突っ張ったり、強がったりする反面、寂しがり屋で涙もろかった。生後間もなく実母を亡くし、継母に育てられたからかもしれない。首相になってからも、執務室の扉を閉めることを嫌い、頻繁に秘書官室に顔を見せたのも、実は寂しがり屋の一面を持っていたからである。同僚議員の母親の葬儀に際し、気持ちを込めた直筆の弔辞を送ることなどは、テレビ画面に映し出される姿からは想像しがたかった。】
【しばしばCは永田町で「変人」といわれてきたし、人付き合いの悪さでは定評もあった。宴会にはほとんど顔を出さず、自宅でオペラなどを鑑賞することを好んだ。贈答文化の永田町にいながら、中元や歳暮、土産はすべて拒絶し、みずから人に贈ることもなかった。外遊の土産どころか、同僚の女性議員からのバレンタイン・チョコレートでさえ謝絶した。若干度を越していたかもしれないが、感覚からいえば、「永田町の常識」からかけ離れていた。さらにいえば、「感性が鈍る」との理由で、他人との議論も嫌った。記者からの質問にも、前置きを抜きにした答えばかりで、血液型がA型とは思えない言動が目立った。】
【そもそもDは首相を目指してこなかったし、その準備も皆無であった。首相就任を求められたときも、「どこの国の話じゃ」と一笑に付した。首相になると聞いたとき、病身のヨシヱ夫人は同情したという。 Dがようやく政界から引退するのは平成12年のことである。平成17年には大分市内で交通事故を起こすが、元首相がみずから運転していることを知った国民は驚いた。首相になる前も、そしてなってからも、Dは紛れもなく市井の人なのである。ちなみに、阪神・淡路大震災のとき、ヨシヱ夫人はDにも内緒で被災地に赴き、一般の人たちに交じって黙々とボランティア活動に従事していたという。ある意味では似たもの夫婦なのかもしれない。】
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さて、このA〜Dは、いったい誰でしょう?
この本のなかでは、太平洋戦争後に総理大臣となった29人の人生、そして「辞めかた」が描かれています。福田康夫・前総理の辞任前に出版されているので、あの「私はあなたとは違うんです」については残念ながら触れられていないのですけど。
このなかで、いちばん正解率が高いと思われるのが、まだ記憶に新しい、Cの元総理。 Cは、つい先日、次の衆議院選挙には出馬しないことを発表した、小泉純一郎・元総理です。 このエピソードを読んでいると、いかにも小泉さんらしいな、と感じる一方で、こんな協調性のなさそうな人が、よく総理になって、しかもあれだけの長期政権を乗り切ってこられたものだなあ、と不思議な気分にもなるのです。こういう人が会社の同僚だったら、絶対に「付き合いにくい人」だし、「みんなのリーダーになるタイプ」だとも思えないのに。
次に(ある年齢以上の人にとっては)記憶に残る「総理」であったのは、おそらくAの田中角栄さんでしょう。 僕が物心ついたときには、「ロッキード事件で捕まった、カネまみれの政治家」「陰で自民党を操るキングメーカー」という存在だったのですが、田中角栄という人の生きざまを辿ってみると、当時の国会議員の多くが「名家出身のサラブレッド」というなかで、「成り上がり者」としてのし上がっていくのは、さぞつらかっただろうなあ、とも思うのです。 【首相に就任したとき、ある祝賀会で小さな女の子から花束を贈呈されて感激したAは、すぐにその場で財布から一万円札を取り出して渡したという。】 このエピソードを「カネ至上主義の傲慢な男」の話だと考えるのは簡単だけれど、「自分の気持ちをこういう形でしか表現できない男」の話だと思うと、なんだかとても寂しくなってしまうんですよね。
Bの元総理は、このエピソードだけを読むとちょっと小泉さんに似たキャラクターのようにも思われますが、橋本龍太郎・元総理です。橋本さんはすごい「切れ者」だったのだけれども、他人への気配りが欠けてしまう面があったようです。 当たり前のことなんだけど、総理というのは、「自分の能力」だけではうまくやっていけない仕事なんだよなあ。
そして、Dは、あの「眉毛のトンちゃん」こと、村山富市・元総理。見た目はあんな好々爺でも、実際はけっこう派手な生活をしたんじゃないか、なんといっても「元総理」だし……と思いきや、これほど「見かけどおり」の人も珍しいし、こんな人が日本の総理大臣になったことがあるのだ、ということに驚かされます。 僕はこの村山元総理の奥様・ヨシヱさんのエピソードを読んで、すごく感動してしまったんですよね。ああ、こんな「ファーストレディー」が日本にもいたんだなあ、と。 しかしながら、この「阪神淡路大震災に対する対応の拙さ」が、村山総理の危機管理能力不足を露呈し、辞任につながったのですから、歴史というのは本当に皮肉なものだなあ、と考えずにはいられません。
こうして、「日本の総理大臣」たちについて考えてみると、「理想のリーダー」っていうのは「頭のよさ」とか「人柄」だけではないし、「リーダーとして求められるもの」は、時代によって違っているのだ、ということがよくわかります。 「どうあがいても短命政権に終わるしかなかった」という厳しい状況で「登板」してしまったために、何もできなかった人も多いのですよね。 そういう意味では、小泉さんって、「強運の人」であり、「その強運を維持することの天才」だったのでしょう。総裁になるまでは、「勝ち目のない総裁選に出馬し続ける変人」だとみなされていたのだから。
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2008年10月08日(水) ■ |
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「世界中、どこへ行っても長さが同じ」文房具 |
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『DIME』No.19(小学館)の連載コラム「サイズに見るモノ考現学」(取材・文:佐藤恵菜)より。
【世界中、どこへ行っても鉛筆の長さは同じ。約177mm。日本のJISは172mm以上と決めている。鉛筆の長さなど、いろいろあってもいい気がするが、どうしてこんなに画一的なのだろう?
鉛筆の規格が決まったのは1840年頃、ドイツ鉛筆の草分け、ファーバーカステル(当時はA.W.ファーバー)の4代目、ローター・フォン・ファーバー氏が「長さは7インチ(177.8mm)に決めたと言われている。軸の太さや芯の硬度を決めたのもローター氏だ。 なぜ7インチか? 当時作られていた鉛筆が平均すると7インチだったから、と考えるのが妥当だが、日本には「大人の手の中指の先から手首までが約7インチだから」という説もある。しかしファーバーカステル社にそうした記録はなく、どうやら日本だけに芽生えた珍説(?)のようだ。ローター氏の定めた7インチは、何の強制力があるわけでもなかったが、間もなく世界に広まり、継承された。その背景にアメリカの工業化がある。 歴史をひもとけば、黒鉛を使った鉛筆の登場は16世紀。その後フランスやドイツ、アメリカで競って改良されていく。製法と品質ではフランスとドイツが先進的だったが、いち早く機械化の動きが見えたのがアメリカだった。19世紀中頃にはニューヨーク周辺に鉛筆工場が生まれる。ファーバーカステルがニューヨークに進出したのもこの頃。同じ頃、木軸の原料としてメジャーになってきたのが、アメリカ産ヒノキのレッドシダーだった。硬すぎず柔らかすぎず、木目が真っ直ぐで香りもいい。鉛筆は芯が命だが、それを収める良質な木も絶対に必要だ。工場と良質な木材。双方がそろったアメリカは鉛筆の一大生産地になっていく。 19世紀初めにはアメリカに「スラット」と呼ばれるレッドシダーを切り分けた木軸板があった。1枚で9本の鉛筆が作れる。そのサイズが幅63.5×厚さ6.3×長さ184mm。今もアメリカで作られ続けているスラットのサイズはほとんど変わらない。 「この長さが変わらない限り、鉛筆の長さは変わらないだろう」と、三菱鉛筆とトンボ鉛筆はいう。両社とも19世紀終盤から鉛筆を生産。ドイツ製が手本だったので長さは初めから7インチ。その後アメリカのスラットを輸入するようになり、現在に至るまで約7インチ。スラットもそれを作る機械も変わらないし、変える理由もないらしい。】
参考リンク:えんぴつ(鉛筆)データルームECO
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「スラット」に関しては、参考リンクを見ていただければどんな形のものか御理解いただけると思います。
「最近、鉛筆をどこかで使いましたか?」と尋ねられて即答できる人というのは、けっこう少ないのではないでしょうか。 小学生のときには使わない日はなかった鉛筆も、大人になると、一部の業種を除いては、ほとんど手にする機会はないですよね。鉛筆の「消しゴムで消せる」という長所は、裏を返せば、「消えたり、消されたりしてはならない文書には使えない」という短所にもなりますし、そもそも、これだけパソコンが普及してしまうと、「筆記用具で文字を書く」こともかなり減ってきています。 僕も1年以上前、マークシートの試験を受けた際に使ったのが「最新」の鉛筆を使った記憶です。それでも、コンビニには今でも必ず置いてあるんですよね。昔みたいに12本セットの「1ダース」で売られているのは見かけなくなりましたけど。
このコラムを読むまで、僕はほとんど「鉛筆の長さ」に関して考えたことがありませんでした。そう言われてみれば、確かに鉛筆というのは多少の装飾の違いや片側に消しゴムがついているものがあるにせよ、「みんなほとんど同じ長さ」です。 文房具として考えれば、デザイン上の個性を出したり、使う人の手の大きさに合わせたりするために、ものすごく太いのや細いの、長いのや短いのがあってもおかしくないはずなのに、みんな「同じ長さ」なのは、鉛筆の原型である「スラット」の長さが均一だから、なんですね。 もちろん、「短くする」ことは不可能ではないと思われますが、やっぱりそれはちょっともったいない、ということなのでしょう。 考えようによっては、これほど長い歴史を持つ文具なのですから、どこかのメーカーが、差別化するために「新しいスラットをつくる」という冒険をしていてもよさそうなものではありますが、鉛筆に対して人々は驚くほど保守的なのかもしれませんね。実際に使ってみたら、握りの太い鉛筆のほうが使いやすい、という人はけっして少なくないような気もします。
まあ、「太さ」はともかく鉛筆の「長さ」っていうのは、使っているうちに一本一本違ってくるものではあります。そして、あれだけたくさん鉛筆を買って使っていたのに、どれも「最後まで使った」って記憶はあんまり無いんだよなあ。 あの短くなった鉛筆たちは、いったいどこに行ってしまったのだろう……
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2008年10月05日(日) ■ |
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他人の話をよく聴くための「5つのコツ」 |
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『空気の読み方〜できるヤツと言わせる「取材力」講座』(神足裕司著・小学館101新書)より。
【人の話を聞くときに最も必要な技術とは、黙って話を聞くことだ。 相手に話をさせることが目的なのだから、自分が気の利いた話をする必要はない。討論や対談の場ではないのだから、相手の話をさえぎったり、否定したりするような態度はもってのほかだ。相手が黙ってしまったときも、じっと次の言葉を待つだけの根気と忍耐力が求められる。 この黙って話を聞く態度とは、カウンセリング用語でいうところの「傾聴(アクティブリスニング)である。 「傾聴ボランティア」という活動を展開している京都ノートルダム女子大学の村田久行教授は、「よく聴くためのコツ」として次の5つの条件をあげている。
1.自分の意見・感想をはさまない
2.相手の気持ちをそのまま返す術を活用する
3.沈黙を怖がらず、次の言葉を待つ
4. 秘密をもらさない
5.尊厳と思いやりの気持ちをもって聴く
(『朝日新聞』2004年1月1日版)
1の「自分の意見・感想をはさまない」とは、話を聞きながら、「それは間違っている」「考えが甘すぎる」「話に矛盾がある」などと内心思ったとしても、自分の考えを飲み込むということだ。否定的な意見ではなく、多大な共感をもったとしても、話を聞く間は、相づち程度に留めておくべきだ。 過去の出来事を回想してコメントしてもらうときなどに、 「それはこうすればよかったんですよ」 などと言うのも避けたい。過去を変えることはできないし、当事者でもない人間が安易な考えを口にすべきではないからだ。 2の「相手の気持ちをそのまま返す術」とは、相手が感情に関する言葉を発したとき、それがキーワードになる。 たとえば、相手が「私はとてもつらかった」と言ったら、「さぞおつらかったことでしょう」とそのまま返す。それだけで相手は話を聞いている人に、自分が受け入れられたという安心感を持つ。初対面の人間に素直に胸中をぶつけるには、そうした安心感がベースになければまず無理だろう。 3の「沈黙を怖がらず、次の言葉を待つ」は、会話中によくありがちだが、突然相手が黙ってしまうことはある。これには、言葉をど忘れした、どこまで話したか忘れた、あらためて思い出したことがあった、話が盛り上がりすぎて拡散してしまった、などのさまざまな理由がある。 最初から話を聞いていた人間なら、相手がなぜ黙っているのか、おおよその見当がつくはずだ。最後に相手が言った言葉をそのまま「〜ということですね」と繰り返し、次の言葉を少し待つことで、相手に考えを整理する時間を与えることができる。 最悪のケースは、話している人間に反感をもってしまい、話をする気持ちが失せてしまった場合だ。特に自分より年長者で気難しい相手が、不機嫌な様子で黙ってしまうと、「自分は何か失礼をしたのだろうか」と気を回して、うろたえるのが人情だろう。 以前、森繁久弥さんに40年続けたラジオドラマについてインタビューしていたとき、急に何かを考えている様子で、ピタッと話が止まったことがあった。 はて、どうしたんだろうと心配していたら、私の顔をまじまじと見て、 「カニトップを飲んだらこんなに(頭が)黒くなりました」と言い、 「神足さんも飲んだほうがいいですよ」と続けた。 森繁さんが急に黙ったのは、それまでの話を忘れてしまったのか、それともそのとき思いついたことをどうしても言わずにはおれなかったのか、今となってはわからない。 これは特殊な例かもしれないが、相手が急に黙り込んだからといって、気を回して何か言葉を発しようとしないほうがいい。もしも黙っていたら、つまらないことを言って、火に油を注ぐことになりかねないからだ。 話の途中で突然相手が黙ったら、その間にこれまでの言葉をよく反芻して、今何を考えているのかを想像しながら、口を開くまでじっと静かに待つ。どんな理由であろうと、とるべき手立てはこれ以外にはないだろう。 4の「秘密をもらさない」は、これも商談や取材における大事なルールである。これは「ニュースソース秘匿の原則」の項で詳しく後述したい。 そして、話し相手から十二分な話を引き出すには、5「尊敬と思いやりの気持ちをもって聴く」態度がないと、なかなか難しい。 ビジネスの場においても「なんとしても売ってやる」という気持ちが高じると、相手が説明している事情も素直に耳に入らなくなっていく。ノルマに追われているな、と思ったら、トイレで鏡を見てみよう。 そして、考えるのだ。 もし、相手が自分だとしたら、今の目つきの自分に、素直に話をするだろうか。 焦りは、禁物だ。追い詰められたときこそ、基本や原点に戻って姿勢を正すのだ。 ぎこちなくとも笑顔を取り戻すために、誰も見ていないところで、にっこり笑ってみよう。】
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自分から面白い話をして場を盛り上げるのは苦手だけど、「聞き役」にはなれる、と「話下手」を自認する僕などは考えがちなのですが、「人の話をよく聴く」というのは、実際にやってみるとけっこう大変です。 僕だって、好意を持っている女性や共通の趣味を持つ友人の話を「聴く」のは時間が経つのを忘れてしまいます。でも、自分が興味を持てない話、何度も聴かされた話の場合は「聞く」だけでかなりの苦痛なんですよね。 いつもの「若い頃からの病気での苦労話」をようやく切り上げて部屋を出てきたら、5分も話を聞いていなかった、ということもよくありますし。
「傾聴ボランティア」というのが存在すること自体が、「他人の話をまじめに聞いてくれる人の少なさ」の証拠です。 それでも「人の話を聞かなければならない状況」というのは人生において存在するわけで、そういうときに気をつけるべきことが、この「人の話をよく聴くための5つのコツ」には凝縮されています。 読んでみると、みんな「当たり前のこと」のように思えるのですけど、これをすべて実行するのはとても大変です。
昨日、大学の後輩にデパートで偶然会いました。たぶん3年ぶりくらい。 お互いに近況報告をして、共通の知人の話題をすれば、もう話すこともなくなってしまった。でも、「じゃあまたね」ともなんとなく言いがたい。 2人の間になんとなく「気まずい沈黙」が漂っていたとき、やっぱり僕はそれに耐えられず、自分からしなくてもいいような噂話などをはじめてしまったんですよね。 知り合い相手ですら、「3.沈黙を怖がらず、次の言葉を待つ」っていうのは、よっぽど腹を据えないと難しい。自分のほうが「不機嫌な人」だと相手に思われているのではないかと不安になりますし。 こういうのは、「インタビューする人とされる人」みたいにお互いの「役割」が決まっているほうがやりやすい面もあるのでしょうね。 僕の場合、ふだんの会話でも「ここは自分がこの沈黙を破る役割なのでは……」とか自分でプレッシャーを増強しがちなのは事実ですが。
これを読みながら僕が考えたのは、「5.尊厳と思いやりの気持ちをもって聴く」というのがないと1〜4は難しいだろうな、ということでした。 そして、そのためのいちばんの方法は「自分が好きな人、尊敬できる人と話す」ことなんですよね。 結局のところ「相手に興味を持つこと」が「人の話をよく聴くための最大のコツ」。 しかしその「人間を好きになる」っていうのは、「努力すればできる」ってものじゃないですよね。 まあ、この1〜4に気をつけるだけでも、相手に与える印象はだいぶ違うとは思うのですけど。
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2008年10月03日(金) ■ |
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くりぃむしちゅーの有田さんが分析した「細かすぎるモノマネ人気の理由」 |
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『日経エンタテインメント!2008年10月号』(日経BP社)の特集記事「モノマネ芸人進化論」より。「芸人から見たモノマネ人気」と題した、有田哲平さん(くりぃむしちゅー)の話をまとめたものの一部です。
【最近は、モノマネが細分化してきたと言われていますけど、これだけマニアックなのが広く受け入れられるようになったのは、芸人が変わってきたというよりも、ネタを見せるシステムが変わってきたのが大きいと思います。 『とんねるずのみなさんのおかげでした』の『細かすぎて伝わらないモノマネ選手権』のコーナーでは、舞台の床が落下式になっていて、ネタ終わりの絶妙のタイミングで強制的に舞台上から芸人が消える仕組みになっていますよね。あれって一見残忍ですが、芸人にとっては「やり逃げ」をさせてもらえるおいしいスタイルなんです。「細かすぎて〜」は2004年からこの見せ方でやっているんですが、それが『爆笑レッドカーペット』(フジ系)をはじめとするショートネタ番組で裾野が広がったと思います。 いままでのモノマネ番組だったら、ネタが終わったら司会者が芸人に「ほかにありますか?」って話を聞くといった流れだったから、出られるのはモノマネ名人と言われるレベルの人が大半でした。それを「もうちょっと見てもいいのに、物足りないな」っていうくらいのところでバッサリ切って、短くても成立させたから、新人クラスでもどんどん出られるようになった。しかも一番面白い部分だけを次々に見せられるから、人気も出やすい。このシステムがなかったら、「リアルにゲロを吐く人のモノマネ」とかでオーディションに受からないですよ(笑)。今、お笑い界はショートネタブームですが、モノマネは瞬間芸である部分が大きいから、この流れに最もマッチした芸なんでしょうね。 だからってマニアックなモノマネさえやれば波に乗れるかといったらそうじゃない。織田裕二さんのマネがどんなにうまくても、単に似てるだけだと、「ああ、似てるね」で終わっちゃう。山本高広くんの「霊長類なめんなよ!」や、コージー冨田さんの「髪切った?」(タモリ)のように、マネされる人の人柄がさりげなく漂うフレーズを拾うセンスがあるかどうか。モノマネって、誰か1人が開発したら、周囲もある程度できちゃうから、いかに早くそれを見つけるかっていうのが腕のみせどころです。】
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一視聴者としては、個々のレベルが上がり、みんなの好みも細分化したから、「細分化したモノマネ」がウケるようになったのだな、と思っていたのですが、この「出演する側」である有田さんのコメントは、とても興味深いものでした。 実は、変わったのは「モノマネの技術」でも「視聴者の好み」でもなく、「ネタを見せるためのシステム」なのだ、と有田さんは考えておられるようです。 僕も『細かすぎて伝わらないモノマネ選手権』で、芸人たちがマニアックなネタを見せた直後に容赦なく奈落の底に消えていくのを観て、「ひっどいなあこれ!」などと思っていました(そう思いながらも笑ってたんですけど)。 ところが、あれは芸人たちにとっては「残酷」ではなくて、「おいしいスタイル」だったんですね。
たしかに、コロッケや清水アキラが主役である、王道の『モノマネ選手権』では、「モノマネ名人」たちはネタを披露したあと、司会者とトークをしたり、自分がマネしていた有名人たちと気のきいたやりとりをしたりしなければなりません。「モノマネ」の技術だけでは、間がもたないのです。 つまり、『モノマネ選手権』の時代は、「モノマネのネタ」だけではなくて、芸人としての総合力がないと、ウケることができなかったのです。
それと比較すると、『レッドカーペット』なども含む「ショートネタ」では、「間をもたせる」必要がなく、渾身のひとつのネタだけをやればいいのですから、持ちネタが少ない若手や素人にとっては、「一芸」で勝負できるジャンルなんですよね。
しかしながら、本当にこの「ショートネタ」の恩恵を受けているのは、この「システム」を作り上げたテレビ番組の制作サイドなのかもしれません。 「ショートネタ」の番組というのは、「ベスト盤のCD」みたいなもので、芸人の「おいしいところ」だけを採り上げることができるのですから。 芸人、とくに「実力をつけないままショートネタで人気になった芸人」は旬が終われば行き場がなくなってしまいますが、番組は、ひとつのネタのブームが終わったら、また次の芸人を使えばいいのだし。
それにしても、「モノマネって、誰か1人が開発したら、周囲もある程度できちゃう」のか……芸人の世界って、本当に厳しい。
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