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2005年04月30日(土)
『白線流し』になんて、負けない!

「本の雑誌・増刊〜本屋大賞2005年」(本の雑誌社)より。

(書店員たちが選ぶ、2005年本屋大賞の受賞作「夜のピクニック」を書かれた恩田陸さんの「受賞のことば」の一部です。)

【『夜のピクニック』は私が通っていた高校の行事をほぼ忠実に描写したものです。いつかあの行事を書いてみたいとずっと思っていました。いっとき、やはりどこかの高校の行事を軸にドラマ化した『白線流し』というのがありましたが、「あれがドラマになるんだったら、うちの高校の行事だって」と密かにライバル心を燃やしていました。もっとも、『白線流し』は卒業生の制服のスカーフと学帽の白線を繋げて卒業式の日に川に流すという美しい行事でしたが、うちの行事の場合、夜通し80キロ歩くというあまり美しくないハードな行事だったので、ライバル心を燃やされても困るだろうなという気もしましたが。小説の中では登場人物が朝まで元気に喋っていますが、現実では無理です。夜半から疲労困憊で、誰も喋っていません。】

〜〜〜〜〜〜〜

 「この作品が直木賞候補にならなかったのはおかしい!」とか「恋人が死んだり、残酷な描写などで話題になる作品ばかりの現代で、数少ない他人にオススメできる作品」とか「永遠の青春小説!」というような賞賛の声が上がっていた、この「夜のピクニック」なのですが、恩田さんは、あの「白線流し」にライバル心を燃やしておられたのですね。
 この「受賞のことば」を読んで、僕がいつも「自分の周りには、言葉にできるようなドラマチックな出来事なんてないものなあ」と考えていたのは、「書くことがない」わけではなくて、「書くことを見つけ出す、あるいはそれを文章にするセンスというのがない」だけだということを痛切に感じました。「夜のピクニック」を読んでみると、この「歩行祭」というのは、ものすごくドラマチックなイベントのように感じられるのですが、現実の「歩行祭」というのは、「あまり美しくないハードな行事」であり、「夜半から疲労困憊で、誰も喋らなくなる」ようなものなんですよね。そりゃ、いくら若くても、80キロも歩けばそうなるのが当たり前。
 もっとも、僕も今思い出すと自分の学生時代で記憶に残っているのは、ものすごくキツかった練習とか、友達と一緒にやった馬鹿げた小冒険だったりするので、恩田さんがこの「歩行祭」に愛着を持っておられる気持ちは、よくわかるのですけど。「白線流し」だって、ドラマで取り上げられて有名になる前に、僕が実際に体験していれば、「こんなの何の意味があるのかわからないし、かったるいなあ…」とか思っていた可能性が高いです。正直、この「歩行祭」が僕の高校にあったとしたら、「途中で心臓の発作とかが起こりそうだから、勘弁してもらいたい」とか切実に感じていたでしょう。

 たぶん、この手の「名物行事」というのは、どの学校にもひとつやふたつはあるはずです。「夜のピクニック」を読んで多くの人が共感するのには、多かれ少なかれシンクロする体験を持っているからだろうし。でも、それを「ネタ」として、作品に昇華するというのは、やっぱり誰にでもできることではないのですよね。
 「ネタがない」わけじゃなくて、「ネタはゴロゴロしているのに気づかない」んだよなあ、きっと。



2005年04月29日(金)
ケース1・彼からメールが来ない

「ダ・ヴィンチ」2005年5月号(メディアファクトリー)より。

(『メル返待ちの女」(織田隼人著・主婦の友社)の紹介記事の一部です。)

【<ケース1・彼からメールが来ない>

 待っても待っても返事が来ない。「メールの一通くらい、2〜3分で書けるはずなのに!」とイライラは募るばかり。そしてついに「もしかして私のこと、キライになっちゃった?」と、不安でいっぱいに……。女性は大切な人からのメールをいつも期待しているんです。

♪男ゴコロ

 男性にとってメールは相手に連絡事項を伝えるための”手段”だから用事がなければ、書く内容も思いつかない。「今日あった出来事を書け、と言われても……」というのが正直なところ。男性にとってメールを書くことは女性が考えている以上に負担が大きいんです。

+対処法

 そんな男性の心を理解し、彼からのメールを期待しすぎないようにすれば、気もラクに。男性はメールより、会って話す方が気楽なんです。メールに頼りすぎないで!会った方が、気持ちは確実に伝わるのですから。】

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 電子メールというツールが一般的なコミュニケーションの手段になった初期のころは、みんなパソコンでメールのやりとりをしていましたから、「返信の即時性」なんていうのは、誰も期待していなかったはずです。少なくとも当時は、メールというのは「とりあえず送っておけば、相手がる号のいい時間に読んでもらえるツール」のはずでした。「メールチェックは1週間に一度」なんて人も、そんなに珍しくはありませんでしたしね。
 でも、メールがさらに普及し、毎朝メールチェックするのが一般的になるにつれ、とくに携帯メールの普及は、そんな「メールというツールの特徴」を大きく変えてしまいました。持ち歩いている電話にメールが来るのですから「読んでなかった」という言い訳は通用しませんし、けっこう緊急の用事もメールでやりとりされるようにもなりましたし。
「そんな用件なら、いっそ電話にしてくれればいいのに……」なんて思った経験がある人も少なくないはずです。
 まあ、いまだにメールというのは直接電話するよりは、敷居が低いところもあるんですけどね。
 僕は、ここに書かれているほど「女性はメール好き」で、「男性はメールが苦手」だとは思いません。むしろ、そういうのは「性差」より「個性」に属するものではないかと考えているのですが(実際、メールまめな男性は多いし、メール不精な女性もたくさん知っています)、実際のところ「まめにメールを打ってくれる人」というのは、うれしい反面、ちょっと困ってしまうこともあるのです。この本には、「昔は1日30通もメールを送ってきてくれたのに、最近は全然メールが来なくなった。私のことがキライになったの?」と彼を問い詰めて、それ以来メールが来なくなった女性の「失敗例」も紹介されているのですが、「頻回にメールをくれる人」のメールの内容って、「元気?」とか「今何してる?」みたいな、くだらないと言っては失礼なのですが、どうしてそんなことにいちいち答えてやらなければならないんだ!というような、簡単かつ返信を要求するようなものが多いのです。こういうのは、送ってこられるほうも疲れます。1日に30通、ヘビーな悩み相談メールを送ってこられても、それはそれで辛いでしょうけど。
 
 ちゃんとしたメールに対して、ちゃんとした返事を書こうとすると、それはそれでけっこう手間がかかるのも事実なんですよね。それで「ちゃんと返事を書こう」なんて思っているうちにさらに時間が経ってしまい、「こんなに遅くなってしまったから、本当にキチンと書かなきゃ」とさらに自分を追い詰め、結局は「こんなに遅くなったら、相手ももう待ってないよね」なんて開き直って返信をあきらめてしまったりもするし。
 そんなことなら、ごく簡単にでもすぐに返信しておいたほうがいいよなあ、なんて後悔してばっかりなのだけど、なんだか、適当なメールを書くのって、性に合わなくて。

 そもそも、2〜3分で書いたメールなんて、読んで面白いのか?
 そんなことを言いながら結局返信しないままの僕には、友達がいません。
 やっぱり、「マメさ」って大事だよなあ。
 「悩んだ末に返信できなかったんです……」なんて、相手に伝わるわけもないのだし。



2005年04月28日(木)
赤字を出しやすい性質の人

「さおだけ屋は なぜ潰れないのか?〜身近な疑問からはじめる会計学」(山田真哉著・光文社新書)より。

【お金に対してこういったポリシーがない人は、高い買い物をする際に、「101万円も100万円もたいして変わらないから、お店の人の勧めるほうでいいや」と考えてしまう。
 家の購入や結婚式の費用などでどんどん出費が増えていくのは、こういう背景があるからだろう。お店の人も、「家の購入は人生の一大イベントですから」と勧めるので、なぜか「高くてもいいや」と思ってしまう。そんな人に限って、スーパーでの買い物で10円単位をケチったりするのだからおもしろい。
 こんなことをいうと、「毎日10円単位で節約することが大切なんだ。『チリも積もれば山となる』というだろう」というお叱りを頂戴しそうだ。
 しかし、毎日10円を節約しても1年間で3650円である。だったら、1年で一度1万円の節約をしたほうがはるかに効果的だ。
「普段はケチケチしてもいいけど、たまにはパッとしたい」という人もいるが、これはかなり危険な思想である。
 たとえば、毎日100円節約して、たまにパッと5万円を使った場合、次のようになる。

 100(円)×360(日)−5万(円)=マイナス1万3500円

 残念ながら赤字である。こういう人は非常に赤字を出しやすい性質なので、経営者には向いていない。要は、節約した気になっているだけで会計を見ていないのである。】

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 ほんと、こういう話は、あらためて言われてみればその通りなのですが、自分のこととなると、なかなか客観的には見ていないものなんですよね。僕も子供のころ、自分の父親が飲み屋で(たぶん)けっこうな額をばら撒いている一方で、デパートの食料品売り場に行くと、安い果物を探し当てて喜んでいたり、ディスカウントストアで型落ちの電気製品を「定価よりものすごく安い」という理由で買いこんできたりしているのには辟易していました。
 しかしながら、僕自身も大人になってみると、ギャンブルで浪費した上に、ゲーム屋に行ったら「このゲームがこんなに安いなんて!」とつい節約したつもりで買ってしまっているのです。実際は、そうやって安く買って得をしたはずのゲームは、全然パッケージも開けなかったりして、かえって損をしているのですけど。いくら安くても、飾っているだけではねえ。もちろん、コレクションの楽しみというのも、少しはあるのですが、「あのゲームをこんなに安く買った!」という満足感の一方で、結局は損をしているんですよね。
 そういう「赤字を出しやすい性質」というのは、遺伝性があるのかもしれません。
 一般的に「節約」というのは、安いものに対して気をつけることだと思われがちなのですが(テレビでよくやっている「裏ワザ」的なものなどは、そういうものが多いし)、実際は、高いものを買うときの「一生ものだから」とか、「100万円も103万円も変わらない」というような「お大尽気分での散財」とか「一点豪華主義」のほうが、はるかに大きく影響してしまうもののようです。とか言いながら、僕もパソコンのスペックとかには弱くて、今みたいにネットとメールに使うだけなら、CPUのスペックなんてほとんど影響はないにもかかわらず、ついつい「どうせ買うなら良いものを!」なんて気張ってしまったりもするのですよね。

 まあ、無駄遣いっていうのは、けっこう楽しいんですよね、僕にとっては。
 節約が好きな人は、結局、節約が楽しい人なんじゃないかなあ、というのは、あまりにも言い訳がましいですけど。



2005年04月25日(月)
小説家残酷物語

「文学外への飛翔」(筒井康隆著・小学館文庫)より。

【いつもながら、難しい仕事をひとつ終えるとほっとする。だが、また次の難儀な仕事が待っている。だが、これを「しんどい」と思ってはいかんのである。「ありがたいことだ」と思わねばならない、と、自分に言い聞かせている。通常おれの年齢になれば、定年退職して五年目である。多くの人は身体壮健のままで仕事がなく、暇をもてあましているに違いない。それどころか、もっと早くからリストラの余波で首になり、仕事を見つけることができなくて生活に困っている人も多い筈なのだ。それに比べて「忙しくてしんどい」とは、なんとしあわせなことかと思うべきなのであろう。
 もし小説だけ書き続けていたとしても、最近は読者が減って小説が読まれなくなり、本も売れなくなっていて、おれの文庫本も滅多に再版されなくなってしまったから、やはり以前の収入を維持するのは難しかった筈である。聞くところでは誰でも名前を知っている老大家が、なんと生活保護を受けているというではないか。多くの作家が作家としての体面を保てなくなっているらしい。実際、小説だけで生活しているほかの作家たちはどうしているんだろうと思う。
 演技の勉強をしていて本当によかったと思うのは、そうした話を聞かされた時だ。まったく、「芸は身を助ける」とは、よく言ったものである。】

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 半分は筒井さんの自慢話みたいに聞こえなくもないこの文章なのですが、実際の役者・筒井康隆への世間的な評価というのは、いったいどうなのでしょうか?まあ、僕は筒井さんの大ファンなので、「元気な姿が観られるだけでも嬉しい」のですけど。

 この文章のなかで、僕がいちばん驚かされたのは【誰でも名前を知っている老大家が、なんと生活保護を受けている】というところだったのです。
 もちろん、必要な人が生活保護を受けることそのものは、違法でも異常でもない、当然の権利なのですが、そんなふうに「誰でも名前を知っている」クラスの大家であれば、いくらなんでも「印税で一生食えるのではないか?」と思いますよね。でも、現実の「作家の生活」というのは、そんなに甘くはないみたいです。
 あの「セカチュー」こと「世界の中心で、愛をさけぶ」は大ベストセラーになって、作者の片山恭一さんは、3億円以上の印税(一般的な印税の額は、本の定価の10%書ける発行部数)を得ましたが、考えてみれば「世紀の大ベストセラー」ですら、「その程度の金額」と言えなくもありません。同じくらいの年俸をもらっている野球選手は何人もいるわけだし、「セカチュー」も、毎年こんなに売れ続けるはずもありませんから。それでも、3億あれば、まあ、当面は食べるのには困りそうにはないですけど。
 もちろん、長者番付に毎年載りつづけている赤川次郎さんや西村京太郎さんのようなヒットメーカーもいるのですが、純文学志向の人などは、かなり金銭的には厳しいはず。1500円の本が1万部売れたとして、収入は150万円。金額だけみれば、そんなに悪くないような気がしますが、寡作な作家の場合は、年間2冊ずつ出版したとして、年収300万円。これはけっこう厳しいように思えます。雑誌に連載でも持っている直木賞作家クラスなら、対談とか講演とかの副収入もあるのでしょうが、そういう「客を呼べるクラスの作家」は、そんなに多数派ではないはずです。
 筒井さんがここに書かれている内容からすると、「流行作家」として大ベストセラーを連発していた時代と、現在のように「寡作で、以前ほど本は売れなくなったけど、ちょこちょこテレビや舞台に役者として(それも、必ずしも主役級ばかりではなく)出演している状態」では、収入のレベルはそんなに変わらない、ということみたいですから、作家というのは、金銭的にはワリに合わない職業なのでしょうね。
 そもそも、僕は「1万部売れたとして」と書きましたが、1万部も売れる純文学作品というのは、実際は稀有な存在でもあるのです。
 「文章を書く仕事」は、「プロに行けなかった野球サイボーグ」よりは、ツブシがきくかもしれませんが、売れない作家の生活というのは厳しいし、この老大家のように、名前が売れてしまうと、仕事を選ばざるをえない、という場合もあるのでしょう。
 作家になるのは難しい。でも、作家として生きていくのは、もっと難しいのかもしれません。好きなこと書いてお金が貰えるいい商売なんて、傍からみると思ったりもするのだけれどねえ……



2005年04月24日(日)
松嶋菜々子さんの「色気の秘訣」

「an・an」No.1460(マガジンハウス)のインタビュー記事「松嶋菜々子の知的セクシーのススメ。」より。

【菜々子さんに質問します。色気を身につける秘訣は?

インタビュアー:外見で気をつけることは?

松嶋:身だしなみはやっぱり大切。私は、幼い頃から父に「おしゃれは足元から」と言われていたので、今でも靴はきれいに履くように心がけています。また、TPOをわきまえつつ、そこに自分の個性を加えて着崩せるようになるといいなと思います。】

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 そもそも、「an・an」なんていう女性ファッション誌を僕が手にとってみたのは、「あっ、松嶋菜々子が出てる!」というような、不純な動機だったわけなのですが、実際に読んでみると、この雑誌に出てくる人たちは、みんな外見的な「おしゃれの秘訣」を語っているというよりは、「哲学」を語っているのでちょっと驚きました。そういえば、「Number」(文藝春秋)などのスポーツ雑誌も、そういう傾向がありますよね。
 どちらかというと、僕の中では、松嶋さんというのは「セクシー」というよりは「清純派」なイメージなんですが、この両者が対立する概念なのかどうかすら、僕にはよくわからないんだよなあ。

 さて、ここに挙げたのは、松嶋さんのインタビューの一部なのですが、僕はこれを読んで、水商売の女性が「男のリッチさを知るには、時計と靴を見る」という伝説を思い出しました。なんでも、服はちょっとムリすれば良い物を誂えることはできるけれど、本当にお金がないと、時計とか靴にまでは手が回らないから、なのだとか。もっとも、今の時代は、時計や靴レベルまでは、みんな抜かりはないような気もします。
 それにしても、この「靴をきれいに履く」という言葉、なかなか興味深く思えるのです。逆に、「靴を汚く履く」というのは、踵を踏んでいたりとか、靴紐をちゃんと結んでいなかったりとかいうことなのかな、というイメージが湧くのですが、「普通に履く」と「きれいに履く」の違いというのは、果たしてあるのだろうか?とか。「神は細部に宿る」なんて言いますし、足の先にまで気配りをするくらいの心構えでないと、真の「おしゃれ」とは言えない、ということなのかなあ。僕の場合は、「靴なんて、とりあえず履いていればいい」という感じなので、ものすごく反省してしまいました。でも、「きれいに履く」という感覚は、正直よくわからないのです。
 ああ、「おしゃれ」って、奥が深いのですねえ……

 しかし、この松嶋さんのコメントをよく読むと「おしゃれは足元から」って教えてくれたのは、松嶋さんの「お父さん」なのですね。ちょっとびっくり。
 やっぱり、父親がおしゃれじゃないと、娘もおしゃれにはならない、ということなのかなあ。
 こういうことには、親とはいえ、異性の視点というのは影響が大きいのかもしれませんね。

 ごめんよ、僕の娘……(まだいないけど)



2005年04月23日(土)
「社長」を何人知っていますか?

毎日新聞の記事より。

【東京商工会議所が4月に入社した新入社員を対象にした意識調査で、堀江貴文ライブドア社長が「理想の社長」のトップになった。「行動力」「独創性・先見性」を理由に挙げる人が多かった。
 調査は同会議所の新入社員研修に参加した中堅・中小企業345社の835人を対象に4月4〜8日に実施した。
 理想の社長は記名式で聞いた。回答が多くの名前に分散した中で、堀江社長が36人で最も多く、2位は星野仙一・前阪神監督(昨年1位)の32人、3位はタレントの北野武さん(同2位)の29人。以下、米大リーグのイチロー選手、坂本龍馬と続いた。】

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 この結果を鵜呑みにするならば、堀江社長が新入社員にとっての「理想の社長」のわけですね。確かに、行動力と独創性があるし、年齢的にも30代前半の堀江さんは、新入社員たちには身近に感じられる存在ではあるでしょう。とくに、対象が中堅・中小企業ということですから、堀江さんのような社長のもとで、一旗挙げてやろう、なんて意気込んでいる社員も少なくないのかもしれません。
 でも、その一方で、835人中の36人というのは、そんなに飛びぬけた存在ではないみたいですけど。
 ところで、このアンケートに関して、僕はちょっと疑問を感じるのですが、ここに名前が挙がっている人のなかで、本物の「社長」というのは、堀江さんだけなんですよね。星野さんや北野さんは、野球や映画の「監督」であり、組織のリーダーではあるのですが、普通、彼らのことを「社長」とは呼びません。そして、アンケートに答えた人の中には、「会社の社長の中で、理想の社長は?」という質問と受け止めて、結局、堀江さん以外の「社長」を思いつかず、とりあえず堀江さんの名前を挙げた人もいたのではないかと思うのです。
 「社長」というのは、偉い人の代名詞みたいなものですが、かなり経済に詳しい人でないと、自分の会社以外の「社長」の名前がすぐに大勢頭に浮かんでくる人は少ないのではないでしょうか。僕も、ビル・ゲイツとかカルロス・ゴーンとか、任天堂の山内さんなんて名前を思い浮かべた直後に、「あの人は『会長』だったかなあ…」と悩んでしまいますし。あっ、楽天の三木谷さんは社長だったな。
 あとは、「マネーの虎」に出てきた社長たちくらいかな…

 そう考えると、堀江「社長」は、社長まで込みでひとつの固有名詞みたいになっています。堀江さんの名前のほうはあまり思い出せないくらいに、日本で最もメジャーな「社長」ではなのかもしれません。とくに、若者たちにとっては。

 まあ、実際はよっぽど自分に自信と能力がないと、堀江さんの下で働くのは大変そうなのですけど。
 とにかくいろんなことを「想定」していないといけないみたいだし。



2005年04月22日(金)
或る「男たちへの復讐」

共同通信の記事より。

【ケニア西部の国立モイ大学で、「上級生からエイズに感染させられた」と主張する匿名の自称女子大生が、「男への復讐(ふくしゅう)」として学内関係者と次々に関係を持ったと書いた手紙を学内に掲示、学生らがエイズ検査を求め、警察が捜査に乗り出す大騒ぎになっている。

 「法学部4年のN・P」と名乗るこの人物は、関係を持ったとする男子学生ら124人の名前も記し「6人しかコンドームを使わなかった」「謝罪する気はない」などと記載。大学側は「悪質ないたずら」と沈静化に躍起だが、関係者は共同通信の取材に「本当の話だろうと内部ではみている」と話している。】

〜〜〜〜〜〜〜

 事の真偽はわかりませんが、「学生らがエイズ検査を求めている」ということは、身に覚えがある男子学生が、少なくとも複数はいる、ということなのでしょうね。それにしても、「男子学生ら124人」とか「コンドームを使ったのは6人」だとか、かなり細かい数字が出ているのには、リアリティを感じてしまいます。正直、同じ大学内で120人以上だなんて、そういう女性のことは話題にならないわけがないでしょうし、ケニアというところはよっぽどそういうことにたいしておおらかな国なのか?とも感じましたけど。
 それにしても、120人なんて、風俗に勤めている人でもなければ、なかなかクリアできない数字だと思うのですが。

 僕は昔、こんな話を聞いたことがあります(ニュースソースを探してみたのですが見つからなかったので、事実がどうかは明言できませんが)。それは、【中世のヨーロッパで、ある女性がペストにかかっていたのを自分で知っていながら食品工場で働き続け、多数の感染者を出した。】というもので、僕はこれを読んで、自分がペストにかかったからといって、どうしてそれを他人にうつそうとするのか、理解できるような、できないような、複雑な気持ちになったことを思い出しました。

 この話だって、単純に考えれば、「HIVウイルスを自分に感染させた男」に対して、直接復讐すればいいような気もしなくはありません。もっとも、直接その男に肉体的苦痛を与えることで、彼女が救われるというものでもないでしょうが。
 でも、彼女が選んだのは、「男性全体への復讐」だったのです。
 ひとりの男への憎しみが、一般化してしまって、相手の(あるいは自分の)体のことに責任を持たずにすぐ寝てしまう、という「男性そのもの」への憎しみになってしまったのでしょうね…
 こういうことを124回も続けるというのは、それはそれで凄い意志の力だなあ、とか、妙な感心もしてしまうのだけど。

 もちろんこれは、許されることではありません。でも、その一方で、こういう思考の流れはわからなくもないだけに、怖くてせつない話だなあ、とも思うのです。彼女はたぶん、こういう「理不尽な復讐」をやらなければならないような、そんな追い詰められた精神状態だったのでしょうし。

 簡単なセックスっていうのが、必ずしも簡単な結果をもたらすとは限らない。それだけは、忘れないようにしたいものです。



2005年04月21日(木)
「名マネージャー・岡本敏子」という生きかた

読売新聞の記事より。

【画家の故岡本太郎氏の養女で岡本太郎記念館館長の岡本敏子(おかもと・としこ)さんが20日、東京都港区南青山6の自宅で死去しているのが見つかった。79歳だった。告別式の日取りは未定。
 大学時代に前衛画家の岡本太郎氏と出会い、半世紀にわたり秘書として創作活動を支え、後に養女となった。太郎氏が96年に亡くなると、岡本太郎記念現代芸術振興財団を設立、アトリエ兼自宅を記念館として公開した。近年の岡本太郎ブームで講演や本の執筆、テレビ出演で多忙な日々を送っていた。今月9日、川崎市岡本太郎美術館で糸井重里さんらと岡本太郎を語るイベントに出席した時は、とても元気だったという。著書に「岡本太郎に乾杯」「奇跡」などがある。】

参考リンク:TAROのコトダマ。(by ほぼ日刊イトイ新聞

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 僕が男子校から大学というところに来て、いちばん最初に理不尽を感じたのは、部活の勧誘の際に「女子マネージャー募集」という部がけっこうたくさんあったことでした。共学・体育系の高校などでは当たり前の光景なのかもしれませんが、当時は今よりもっと理屈屋だった僕は、「マネージャーなんて、他人の手伝いをするだけで、いいように使われるだけの役割じゃないか…」なんて声にできない憤りを感じてもいましたし、もっと深層では、「ふん!あの部活の先輩の男たちに釣られるための餌みたいなものだ」とか考えてもいたのです。実際、人によっては、そういう見方も当たらずとも遠からず、だったのかもしれませんけど。

 岡本敏子さんは、50年来、芸術家・岡本太郎をマネージメントしてきた人で、岡本太郎さんが亡くなられてからも、岡本太郎記念館の館長として、太郎さんの遺した言葉や作品を世に広めるための、さまざまな活動をされてきました。傍からみれば、芸術を爆発させる以外には、世渡りの才能があったとは考えにくい太郎さんなので、今の名声の陰には、敏子さんのサポートは必要不可欠だったに違いありません。芸術家の中には、優れた作品を世に遺す才能には恵まれていても、それを世の中にプレゼンテーションするための才能に恵まれなかったために、生前は無名で不遇だったという人は、ものすごくたくさんいるのですから。
 でも、彼女の「岡本太郎をプロデュースするための一生」というのは、【「私も描けたらいいな」と思ったら、描いてみるんだ、いや描いてみなければならない。】なんていう言葉を遺した芸術家・岡本太郎からすれば「軽蔑すべきもの」ではないのだろうか?なんて僕は思ってもみるのです。敏子さん自身は、ある意味「自分」という存在や、その「創造性」を捨てていたのだし。
 もちろん、御本人にとっては、「岡本太郎という作品」を創造していたのだ、という気持ちだったのかもしれませんが。
 まあ、岡本太郎さんがそのあたりをどう考えていたのかは僕にはわかりませんけど、現実的には、敏子さんが必要不可欠な存在であったのは、確かでしょう。

 僕は最近、「自分で創造する」ということの素晴らしさを信じたい一方で、「創造しようとすること」ばかりが賞賛されて、「創造しようとする人をサポートする人」というのが軽くみられているのではないかな、という気がしているのです。実際のところ、世間のすべての人がクリエイター向きなわけでもなく、むしろ、クリエイターを支える立場のほうが向いているはずの人なのに、「創造しないという罪悪感」みたいなものに追い立てられ、向いていない「創造的なこと」をやろうとしてがんじがらめになってしまうような、そんな場合も多いのではないか、と。

 マネージャーというのが、こんなに長い歴史を持っているのには、やっぱりそれなりの理由があるのでしょう。
 まあ、僕には女子マネージャーにモテた経験が皆無なので、「自分で競技したほうがいいんじゃない?」という意識を捨てきれない面も、やっぱりあるんですけどね。



2005年04月20日(水)
「絶対安全な絶叫マシーン」の矛盾

読売新聞の記事より。

【男性客が転落死した東京・台場の娯楽施設「東京ジョイポリス」の遊具「ビバ!スカイダイビング」では、シートベルト未装着での運営が特別な注意も払われずに行われていたことが、利用者の証言で明らかになった。
 事故当時、シートベルトの装着確認などを担当していた男性アルバイトも、警視庁の事情聴取に、「今までもシートベルトなしで(客を)乗せたことがあったと聞いている」などと話しており、こういった運営の常態化が事故の背景にあったものとみて、同庁で調べを進めている。
 今月3日の日曜、妻(35)と子供2人でこの遊具を体験した埼玉県鷲宮町の男性(40)も未装着での搭乗を認められた一人だ。
 体格が大柄の男性は、死亡した坪内潤一さん(30)と同様、シートベルトが締められなかった。近くの若い係員にそのことを伝えると、係員は、上司や同僚などに連絡や相談などすることなく、「そのままで大丈夫です」と即答した。男性が安全バーだけで大丈夫かと尋ねると、「外れませんよ。問題ないです」と言われたという。
 しかし、遊具が動き出し、座席が前傾すると、腰が前に押し出され、高さ6メートルの位置からずり落ちそうになった。男性の身長は1メートル79。安全バーもへその上ぐらいまでしか届かなかった。
 座席が上下し始めると、男性は両足を大きく開いて必死に踏ん張り、安全バーを握りしめる手が汗で滑るほどだった。心配になって横に座る子供の様子を何度も見た。気分が悪くなった人のために安全バーに非常ボタンが付いていることは説明されていたが、楽しんでいる他の客への迷惑を考えるとボタンは押せなかった。
 「早く終われ。これじゃ拷問だ!」。終了までの約3分がとても長く感じられたという。
 今回の事故を伝える報道で、被害者の足が不自由だったことを知り、「シートベルトを装着できず、足でも踏ん張れなかったことが落下の原因だ」と思ったという。
 子供がスリルのある遊具を好むため、せがまれると家族で遊園地に足を運ぶ。「怖いけれども『日本製の機械ならば大丈夫だ』と信じて楽しんできただけに、とても怖い」と語った。】


産経新聞の記事より。

【対応、現場任せ
 東京・お台場の「東京ジョイポリス」で車いすの坪内潤一さん(30)がアトラクションから転落死した事故で、この遊具は介助が必要な障害者の利用を制限していたにもかかわらず、複数の障害者から「利用したい」との要望が寄せられたことから、現場の判断で利用を許可するようになっていたことが十九日、警視庁捜査一課の調べで分かった。足の曲げられない人やシートベルトが締められない人だけでなく、要介助者への対応も現場任せだったことに、他のテーマパークからも疑問の声があがっている。
 調べでは、事故のあった「ビバ!スカイダイビング」は、入り口に「警告」の看板があり、「介助を要する人」の利用を禁止していた。だが、複数の障害者から健常者と同じように使わせてほしいとの声が寄せられ、付き添いがいれば利用できるようになっていた。
 こうした実情を、ジョイポリスを運営するゲームメーカー「セガ」の幹部は今回の事故の後、初めて知ったという。
 ジョイポリスの障害者向けパンフレットでも、この遊具は看板に反し、「同伴の方の協力により乗降が可能な方がご利用になれるアトラクション」と記されていた。だが、セガの開発担当者は「(問題の遊具は)車いすの方は遠慮してもらうと思っていた」と打ち明ける。
 現場を預かるジョイポリスの障害者への対応は“柔軟”ともいえるが、東京近郊のテーマパークの担当者は「安全上、絶対にやってはいけない行為だ」と話す。
 東京ディズニーリゾートを運営する「オリエンタルランド」(千葉県浦安市)は「搭乗中に危険はなくても、地震などで緊急停止した場合、自分で安全に避難できること」を遊具の利用条件にしているという。
 ジョイポリスと同じ屋内型の「ナムコナンジャタウン」(豊島区)では、入場の際、利用に支障がありそうな来場者に使用基準を説明しており、「利用できないことを告げた際に抗議を受けることもあるが、事故があったら責任を負いかねる旨を説明して納得していただいている」と話す。
 国土交通省によると、遊園地の障害者の安全対策には法令に規定はなく、各管理者に委ねられている。】

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 それにしても、この前者の読売新聞の「恐怖体験」の男性、本当に怖い思いをしたんだなあ、と思うと同時に、この人はもともとこういう絶叫マシーンそのものが苦手なんだろうなあ、というのが、切実に伝わってきました。とはいえ、最近の傾向からすれば、苦手な人が【「早く終われ。これじゃ拷問だ!」】と叫びたくなるくらいのスリルを提供しなければ、なかなか絶叫マシーンとして世間的には認知してもらえないんですよね。
 僕もああいうのは大の苦手なので、どうしてお金を払ってそんなに怖い思いをしなくてはならないんだ…といつも思うのですが、世の中には、あのスリルがたまらない、という人もいるようなのです。それはそれで構わないのですが、中には、「連れ絶叫マシーン」というのを強要されるような状況も出てきます。そういうのって、連れ小便くらい無意味なようではありますが、実際問題として、好きだけど、ひとりでは乗りたくない、という人も少なくはないようです。
 乗れないと弱虫だと思われるから…とか、つきあいで…というような理由で乗ってしまうのって、まさに「拷問」ですが、そういうケースは少なくないと思います。「絶叫マシーン・ハラスメント」というのも、そのうち叫ばれるようになるかもしれません。
 それにしても「スリルがある」というのと「安全である」というのを並立させるのは、とても難しいことですよね。テーマパーク側の苦労もしのばれます。

 こういう遊具が「安全第一」であるのは当然のことなのですが、その一方で、あまりに利用制限を厳しくしてしまうのも、ちょっと味気ないような気がします。ディズニーリゾートやナンジャタウンの対応は、「安全策」である一方で、「本来は乗っても大丈夫な人」が楽しむ機会を奪っているのかもしれませんし。
 もちろん、ジョイポリスでの今回の事件は、あまりにも杜撰なものではあるのですが、この事故が「テーマパーク等での、障害者の利用締め出し」に繋がる可能性もありそうです。
 ジョイポリスのスタッフだって、悪気があったり、事故を起こそうとしていたわけもなく、「障害がある人にも、楽しんでもらいたい」という気持ちだったと思うのです。でも、そういう「良心」を自分で美化してしまうあまりに、本当に注意すべき「安全のために守るためのポイント」が、どんどん甘くなってしまったのでしょう。「これはいいことなんだから」という思い込みには、けっこう怖い面もあるのです。こういう事故が起こってしまっては、せっかくの「良心」も台無しです。
 
 うーん、「健康な人だけが乗れる、絶対安全な絶叫マシーン」なんて、ある意味、ものすごく矛盾した存在のような気もするんですけどねえ…



2005年04月19日(火)
「純愛」という名の迷宮

「わしズム Vol.14」(幻冬舎)に掲載されている対談記事「漫画家放談・不自由で不平等なのが恋愛」より。

(人気漫画家5人による「恋愛」に関する対談の一部です。参加者は、小林よしのり、みうらじゅん、しりあがり寿、倉田真由美、辛酸なめ子の各氏)

【しりあがり:昔から、男の人が、本当に相手を愛しているということを証明するために、体を求めないケースがあるよねー。大切にしているからこそ、しない。

倉田:それはただの自己満足ですよね。「バラを百本贈ることが愛情の証」みたいな思い込みと同じ。そんなことされたら、かえって迷惑ですよ。もっとも女のほうにも、「本気で落とそうと思った好きな男には五回目のデートまでは絶対にやらせない」なんて言う人がいるけどね。

しりあがり:そういう女の人がいて、男も「セックスを求めると嫌われる」って思っちゃう。でも、案外そういう人、多いんじゃないかなー。

倉田:でも、そうやって相手の気持ちを高めて引っ張るなんて、薄汚いやり方だと思う。私、すごく好きな人と最初のデートでセックスしたことがあって、そのときは「この女、楽勝だな」と思われるんじゃないかと不安だったけど、「したい」という自分の気持ちに素直に従っただけなんだから、後悔はしなかった。だって、すごく好きだったら、すぐセックスしたいじゃない?引っ張れるのは、本当は好きじゃないからだと思う。銀座のホステスが上手に引っ張れるのも、ただの客だと思っているからよ。】

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 こういう「恋愛論」というのは、まさに人それぞれの答えがあって、一概に「これが正しい!」なんていう答えは存在しないのですが、僕はこの倉田さんの言葉を読んで、なるほど、そういう考え方もあるのだなあ、と感心してしまいました。いやまあ、「すごく好き」=「すぐセックスしたい」という感情は、すべての男女に普遍的なものではないような気もするのですが、その一方で、世の中には、そういう「ガマンできないほどの激しい恋愛感情」というのもあるのだな、とも思いますし。「じらせる」というのは、ある意味、じらす側にもじらされる側にも、そういうゲームを楽しめるだけの心の余裕がある、というのは確かですよね。むしろ、「すぐ求める男」のほうが、「純愛」に近いのだろうか?

 モテナイ男である僕のイメージとしては、「性急にセックスを求めると嫌われる」のではないか、というのはあるのです。なんというか、体目当てだと思われそう、とか、ガツガツしているように見えそう、とか。
 これを読むと、「本当に好きなら、もっと自分の『欲望』に素直になったほうがいいのか!」という気にもなってきます。

 でも、一呼吸おいて、倉田さんの発言を読み返してみると、この主張って、「もっともらしいことを言って夢見る女の子を騙す、芸術家気取りで体目当ての男」の言い分にも思えるんですよね。「だから、さっさとやっちゃおう!」とか「それこそ人間の自然な姿なんだ!」とかいうような、欲望を満たすための理論武装。こういう場合、精神的ダメージはともかく、肉体的ダメージを受ける可能性が高いのは女性のほうが高いので、相手はよく選んだほうがよさそうです。
 実際は、みんなそれなりに吟味しているつもりなのか、逃げられない感情の波に押し流されてしまうのでしょうが。

 恋愛というものの価値は普遍的な1本の定規で測れるものではなくて、【一夜限り<<<長年の交際】と、どんなケースでも言い切れるわけではないのも事実です。
 その一方で、あまり熱烈な感情というのは、持続させるのが難しい面もあるのかな、とも思えてくるのです。一般的には、上手に引っ張るためのテクニックが必要なのかもしれません。
 
 



2005年04月18日(月)
商店街のある街

「九州ウォーカー」2005.No.9(角川書店)の川上弘美さんのインタビュー記事より。

(川上さんの新作「古道具 中野商店」(新潮社)についてのインタビューの一部です。)

【川上「商店街のある街に住むのが好きなんです。時々はデパートにも行きますが、普段は街の商店の人と顔を合わせて、話をしたりしながら買物をしたい。本当はちょっと怖くもありますが…。子供のころを思い出しても、おつかいに出されて豚肉100g!とか言うのって勇気がいりましたよね? でも怖いけど、人と会える場所が好きで通ってしまうのかも。矛盾した感覚かもしれませんが」】

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 このインタビューを読んでいて、僕は自分がはじめて買物に行ったときのことを思い出しました。確か「カレーに入れる肉を買ってきて」とか、そういうおつかいだったと思うのですが、僕はなかなか店の人にそれを言うことができずに店の付近をうろうろした挙句、どの肉だかわからずに店のおばちゃんに「カレーに入れる肉をください…」とボソボソとした声で言い、「何グラム?」と聞かれて、わけもわからず「じゃあ、100gでいいです…」と答えて、なんとか目的のものを買ってきたのです。
 と思いきや、そのあと母親は「ああ…うちのカレーにいつも入れているのは、この肉じゃないし、100gだと少ないんだけど…でも、よくがんばったね」とかなんとか言って、僕をひどく落胆させたのですけれど。

 それがトラウマになったわけではないでしょうが、僕は今でも、小さな店に入って、店員さんとマンツーマンになるような状況は苦手です。
 よく週末の昼下がりにテレビで流されているような「人情あふれる下町の商店街」で、名物おばちゃんと気さくに話しながら買い物をしたりするのを見ていると、ああいう世界に憧れないわけではないのですが、どうも、ああいうふうに見ず知らずの人に対して馴れ馴れしくできないのです。古くからのつきあいの常連さんとかならともかく(でも、常連だからという理由で馴れ馴れしくするのも嫌い)。
 でも、そういう場所でひとり肩肘張って礼儀正しくしようとするのも変だし、だからといって、うまく馴れ馴れしくしようとするのも、かえって気を遣うものだし。
 それに、あまりお客さんがいない店に入って、店員さんにずっとマークされたような状態になるのって、何か買わないと出られないのじゃないかなんて、プレッシャーを感じることもあるのです。
 すべては、自意識過剰のなせるわざ、なんでしょうけどね。

 というわけで、僕にとっては「商店街」というのは、なるべく正面を向いて、脇見をせずに速足で通り過ぎる場所、なのです。
 こうしてあらためて文章にしてみると、自分でもバカバカしく思えて仕方ありませんが……



2005年04月17日(日)
だから、ホリエモンは嫌われる?

日刊スポーツの記事より。

【隔週刊テレビ誌「テレビブロス」4月16日号の05年版「好きな男 嫌いな男」ランキングで、ライブドア堀江貴文社長(32)が「嫌いな男」1位になったことが分かった。「旧世代に挑む若者の代表みたいな図式に単純な男子はだまされちゃうんだろうけど、ようするに浅慮で軽薄な目立ちたがり屋」「一流の金持ちならもっと腰が低いし、大言壮語もしないもの」など手厳しい意見が載っている。このランキングは同誌の連載陣や編集スタッフ、読者ら672人の女性から意見を集め、複数回答可のポイント制で順位付けした。なお「好きな男」部門1位は俳優堺雅人(31)。】

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 日刊スポーツの紙面には、もう少し詳しい内容が載っていて、このランキングでは堀江社長は、嫌いな男部門で58ポイントでワースト1だったそうです。ちなみに「好きな男」部門では50位にランクインしていて、その支持者のコメントは「ここまで世間に叩かれると同情したくなる」というような「同情票」が目立っていたそうです。

 この結果を読んで、ホリエモン、ざまーみろ!なんて快哉を叫ぶ男もいるのかもしれませんが、僕は逆に、「堀江社長は、ここまで世間に認知されているのか…」とちょっと驚きました。僕の周りにも、「堀江社長って、いいよね!」というような女子はいませんが、少なくとも、これだけ多くの人に「意識される存在」であるのは確かです。
 こういうランキングって、イヤな部門でも、「認知度のバロメーター」という側面がありますし、出川さんなんて、「抱かれたくない男」に、けっこうこだわっているようですから。そりゃ、全くの無名では食えないけど、「抱かれたくない男として有名」なら、それもひとつの武器になるわけですよね。
 このアンケートではないですが、世間からバッシングされると「同情票」が集まる、という面もありそうだし、僕などからすれば、たとえ「嫌いな男」で1位でも、「好きな男」のほうでも誰か投票してくれるのなら、それで十分なのではないか、と思わなくもない。
 バッシングされている一方で、世間の平均的男子よりはるかに、ホリエモンはモテているのです。グラビアアイドルの彼女だっているしねえ。
 
 僕はむしろ、このアンケートに嬉々として「ホリエモン嫌い!」なんて答えて、好きな男に堺雅人さんを挙げているような「わかっているつもりの女性」たちに、ちょっと反感を覚えてもみるのです。僕は堺さんのことはよく知らないのですが、いかにも「自分だけは男を見る眼がある!」と確信しきっているようで、実はみんなと同じことを言っているだけの人って、けっして少なくはないんですよね。身近なところにいる「浅慮で軽薄な目立ちたがり屋」に引っかかってしまうのは、こういうタイプの女性たちなのではないか?とも感じるのです。うまく言えないのですが、異性の魅力って、意外と、同性からみたらどうしようもないところ、だったりするものですし。

 そうそう、「嫌いな男」の第2位は、木村拓哉さんだそうですよ。
 僕も一生に一度くらいは、キムタクより嫌われてみたいものだなあ、なんて、思わなくもないのです。
 



2005年04月16日(土)
下手のほうがいいんだ。

「壁を破る言葉」(岡本太郎著・岡本敏子構成・監修、イーストプレス)より。

【下手のほうがいいんだ。
 笑い出すほど不器用だったら、
 それはかえって楽しいじゃないか。】

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 この「壁を破る言葉」という本は、故・岡本太郎さんの生前の言葉を集めたものなのですが、読んでいて、確かに元気が出る本なのです。もちろんここに書かれているのは、岡本さんの人生観、あるいは芸術観ですから、誰にでもあてはまるものではないかもしれません。だって、手術をしようとしている外科医が「笑い出すほど不器用」という状況は、本人だって周囲だって「かえって楽しい」とは言い難いでしょうし。でも、何かをやろうとしているのに、なかなか最初の一歩が踏み出せないという人にとっては、そういう「壁」を破る力があるような気がします。
 例えば、何かを新しく勉強しようとするときとか、楽器を習うとき、文章を書くとき、最初からうまくいくなんてことは、ほとんどないですよね。
 でも、僕を含めて多くの人は「うまくできない」というのを理由にして、それ以上の努力を放棄してしまいがちです。
 だって、うまくいかないと、もどかしいし、何よりカッコ悪い。
 実際は、始めたばかりでうまくいくほうが稀なのだし、自分で思っているほど、周りの人たちは、自分がやっていることに興味を持っていないし、「下手だな」なんてバカにするような悪意も持っていないはずなのに。
 そういう「過剰な自意識」みたいなものが、新しいものに挑戦するための意欲を減退させていますし、そんな「できないと恥ずかしい」という先入観は、年齢とともに大きくなる一方のような気がしています。

 この言葉を読んで思ったのは、自分の下手さをも笑い飛ばしてしまうような、そんな発想の転換をしていけば、生きるというのは少しは楽しくなるのではないかな、ということでした。
 仕事の場ではそうはいかない場合も多いでしょうが、せめて日常や趣味の場では、こういうおおらかな心を持っていたいものです。



2005年04月14日(木)
もう「不買」すら快楽じゃない彼らへ

「いかん。あかん。よう言わん!!」(わかぎゑふ著・角川文庫)より。

(イラク戦争の際、実際に戦争が起こっているにもかかわらず、結局は何も行動に移せないという苛立ちを書いたあとの文章です。)

【そんな時に反戦デモを見たのだ。参加している若者が眩しく見えた。何も考えずにここに飛び込んで歩いたら納得できるのかもしれない。と心が動いた。
 しかし、そう思ってふと彼らを見ると、アメリカ資本の大手ハンバーガーショップの袋を持っていた。
「あかんやん……この子ら」とまた凹んだ。彼らに悪気がないのは分かる。デモに参加したらお腹も空く、何も気づかず、持ってきたのだろう。
 いったいどこからどうしたらいいのか?大人たちにも分からない国になってるのに、反戦デモに参加してる若者のハンバーガーを非難することなど誰にも出来ない。】

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 この文章の前には、イラク戦争時のドイツでの出来事が書かれていて、ドイツでは戦争反対の人々がアメリカ製品の不買運動を行っていたそうです。そして、レストランでアメリカのビールを注文すると「御時世ですから」と断られていたのだとか。もちろん今は、そんなことはないのでしょうけど。
 現在中国、あるいは韓国をはじめとする国々での反日感情の高まりを観ていると、僕も彼らの偏見に満ち溢れた姿勢にものすごく腹が立ちますし、いっそのこと、中国製品の不買運動を起こしたらどうだろうか?などと考えもするのです。あちら側の反日サイトで、日本製品の不買運動が呼びかけられているように。
 でも、実際問題として、今の日本には「中国産の製品」は、ものすごくたくさん出回っていますから、本当に「不買」なんてことが可能なのかどうかは、ものすごく怪しいものです。一昔前は、日本以外のアジアの国の製品には「安かろう悪かろう」というイメージを持っていた人は少なくないと思うのですが(僕もその一人です)、最近では、「安い製品」だけではなく、ちょっとした海外のブランドものでも、中国製のものが非常に多いということに驚かされます。それこそ、ここは本当に日本なのか?と思うくらいに。
 日本のメーカーでも、人件費の安い中国で生産をしているところは、本当にたくさんあるのです。
 「中国に関わる製品の不買運動」を徹底的にやるのは、今の日本では現実的に不可能でしょう。「三國無双」なんてゲームまで対象になってしまうわけだし。
 しかし、中国側からしても、この状況は同じなはずで、実際に反日感情の高まりで日本のメーカーが現地工場を閉鎖してしまったりすれば、多くの人が仕事を失ってしまうわけですし、「反日サイト」に一生懸命に書き込みをして、不買運動を訴えている人のパソコンの中には、日本のメーカー製のチップが組み込まれていたりもするはずです。

 今の「世界」という枠組みでは、好き嫌いは別として、かかわりを断ち切ってやっていくなんて不可能なのに、他国を全否定して自分が優位に立とうとするのは、あまりにバカバカしいような気がします。好き嫌いは別として、ある程度は受け入れていかないと、生きていくためには制限が多くなりすぎます。
 今の中国の状況を観ていると、こんなのでオリンピックとかできるのか?とは思いますけどねえ。選手たちはさぞかし不安なことでしょう。

 まあ、結局は、仲の悪い兄弟みたいなもので、どんなにお互いの気が合わなくていがみあっていても、「なかったこと」にはできないんですよね…



2005年04月13日(水)
「火垂るの墓」と赦されない「被害者意識」

西日本新聞の記事より。

【韓国で年内に公開予定だった日本のアニメ映画「火垂(ほた)るの墓」(スタジオジブリ制作、高畑勲監督)の上映が無期限延期されたことが十二日、分かった。対日感情の悪化を考慮し、韓国のPR担当会社が決めた。韓国の日本文化開放政策によって公開されてきた日本映画は、日韓関係に比較的かかわりなく好評を博してきたとされるが、公開そのものが無期限延期されるのは今回が初めて。
 作家・野坂昭如氏の原作による同作品は、終戦前後の神戸で、両親をなくした十四歳少年と四歳の妹が懸命に生きていく物語。三月末に韓国映像物等級委員会(映倫に相当)が「作品全体の公開可」とし、年内上映に向けた準備が進んでいたが、一部から「日本人を戦争被害者として描写している」との反発があったという。
 一方、日韓両政府が国交正常化四十周年の今年を「日韓友情年2005」として企画した記念交流事業のうち、歌舞伎公演は今月上旬にソウル、釜山で予定通り開かれたものの、今月六日の光州公演は中止に。同事業中、最大規模の音楽イベントとして五月にソウルと大田市で開催予定だったNHK交響楽団の韓国公演は、来年六月に延期された。ただ、四百六十件以上の同事業でこれまでに中止されたのは十件にとどまっている。】

〜〜〜〜〜〜〜

 日本では何度もテレビ放映されていますから、この「火垂るの墓」を御覧になったことがある方は非常に多いと思います。僕は正直、この作品を観るとなんとも言いようのないいたたまれなさを感じてしまうので、もう自分から進んで観たいという気にはならないのですけど。
 でも、自分の子供には、一度は観せておかなくてはならない作品だと思っているのです。
 映画「火垂るの墓」を観たことがある方にはわかっていただけると思うのですが、この作品は「戦争の犠牲になった、14歳の兄と幼い妹の物語」であり、特定の国に対する批判やプロパガンダではなく、「戦争」という人間の愚行の虚しさをむしろ淡々と描いています。「戦争が悪い」のはもちろんなのですが、彼らを苦しめるのはアメリカ軍だけではなく、周囲の余裕のない、冷たい人々でもあるのです。そして「戦時下」では、誰でもそういう「被害者」や「加害者」になってしまう可能性があるわけで。
 例の竹島問題などもあって、【日本人を戦争被害者として描写している】なんてバカバカしい批判をする人が出てきたのでしょうが、実際に「戦争」という状況下では、ある国民がすべて「加害者」だったり「被害者」だったりするわけではない、と僕は認識していますし、それは、多くの日本人にとっての共通概念だと思うのです。そして、「被害者」というのは、特定の国民すべてがそうなのではなく、多くの場合、双方の当事国の市井の人々なのに。そもそも、まだ4歳の女の子が「日本人である」というだけで「一方的な加害者」として描かれるとしたら、そんなバカな話はないでしょう。

 でもね、考えてみれば、僕たちが大好きなアメリカだって、自国内の博物館で行われるはずだった「原爆展」を「国民感情を傷つけるおそれがある」ということで中止しているのです。実は「国民に反戦感情を植え付けようとしている国」よりも、「国の都合のために死んでくれる人を増やそうとしている国」のほうが、はるかに多いのかもしれません。そういう意味では、この「火垂るの墓」という作品は、そもそも「国益にそぐわない」のかもしれないし、戦後の(現在は、残念ながらちょっと違うかな)日本というのは、歴史上類をみないほどの「反戦国家」だったでも言えそうです。
 
 それにしても「日本にだって(もちろん、勝ったはずのアメリカやイギリスでさえ)、戦争の「被害者」はたくさんいたのだ」という事実のほうが、「日本人はみんな戦争の犬だ」という刷り込みより、よっぽど「正しい歴史認識」なのじゃないかなあ……

 ああ、僕は電波ジャックをしてでも、「火垂るの墓」を世界中の人々に観てもらいたい。文句があるなら、観終わってから言ってくれ。



2005年04月12日(火)
となり家戦争

共同通信の記事より。

【CDラジカセを大音量で鳴らし続け、隣家の女性(64)を不眠にさせたとして、奈良県警西和署は11日、傷害容疑で同県の58歳の主婦を逮捕した。

 調べでは、容疑者は2002年11月から今年3月までほぼ毎日24時間、自宅勝手口のドアに穴を開け、道をはさんで約6メートル離れた隣家にアップテンポの音楽を大音量で流し、女性に不眠や頭痛、めまいを起こさせた疑い。調べに対し、動機の供述を拒否しているという。

 西和署によると、容疑者は約9年前からこうした嫌がらせを始め、近隣住民との間にトラブルがあったという。女性が約1カ月の治療が必要と診断を受けたため、傷害容疑で捜査していた。】

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 今朝のテレビで、この容疑者の女性の映像を観たのですが、あまりにものすごい光景に、不謹慎ながら笑ってしまいました。洋楽のダンスミュージックにのせて「引っ越せ〜」というような内容のことを延々と歌い続けるわけですから、やっている側だって、かなりの体力を消耗するに違いありません。まあ、容疑者本人は一種のトランス状態ですから自分の騒がしさに無頓着なのかもしれませんが、隣人はたまったものじゃないですよね。そもそも、キッカケは「挨拶がない」とか「庭の電燈がまぶしい」とか、言いがかりに近いものだったようですし。
 でも、あの様子を観ていると、どうもこの容疑者は、強迫神経症的な印象がありますから、本来は、10年も経ってから警察に逮捕される前に、しかるべき対応を医学的にとられるべきだったのではないかなあ、という気もします。もっとも、こういう人格的な問題の「異常」の線引きというのは、非常に難しいところですよね。いや、「逮捕」までしないと、彼女に歯止めをかけられなかったというのは、「話せばわかる」というのは幻想なのだなあ、とも思うし、行政とか警察の「事なかれ主義」にも、呆れ果ててしまうのですが。
 僕は小心者なので、近所からちょっと苦情が来ただけでも、その日1日憂鬱な気分になってしまうくらいですから、いずれにしても「普通じゃない状況」だったのは確かです。しかし、いくら自分の家で、そんな状況では高く売れるわけもないとしても、よく10年間も耐えてきたものだなあ。

 それにしても、こういう話を聞くにつれ、ある程度お金があっても、家の場所は選べても、隣人は選べない、という事実について考え込んでしまうのです。僕の少し先輩くらいの年になると、ようやくマイホームを建てたばかりという人がけっこういるのですが、とくに田舎で一軒家に住んでいると、こういう「近所づきあい」というのは、なかなか大変みたいです。その家庭は共働きなので、よく「お宅は日中はほとんど家にいらっしゃらないですねえ」というようなことを言われるのだとか。隣近所に目を配るというのは、それこそ戦中戦後は常識だったのかもしれませんが、僕のように「隣はどんな人だかほとんど知らない」アパート暮らしに慣れた人間にとっては、「そんなに他人のことに詮索しなくてもいいだろ…」とも思うのです。それでも、子どもの「公園デビュー」とかのことを考えると、近所づきあいというのは、それなりにこなしておくに越したことはないんですよね…

 社会評論家という人々が「最近は近所づきあいが無くなって、人情が乏しくなった」とか「犯罪が増えた」なんて言うのですけど、僕はたぶん、人間の本性としては、そういう「近所づきあい」なんて「やらなくてよければ、やりたくないもの」であり、「本質的にはやりたくない」ところに「無関心でも生活できる空間」ができてきただけなのではないかと考えています。だから、今さら時計の針が逆回転して、「近所づきあいがどんどん盛んになっていく」なんてことは、全体の傾向としては、ありえないのではないかな、とも思うのです。

 まあ、こういう「困ったご近所」といういきものは、まだ、日本中にたくさんいるのです、たぶん。



2005年04月11日(月)
「萌え」の経済学

毎日新聞の記事より。

【アニメなどの登場人物の性格で、愛らしい「萌(も)え」という感情を意識した書籍や映像、ゲームの市場規模が、03年で888億円に上ることが浜銀総合研究所(横浜市)の調査で分かった。バターやステレオコンポの出荷額と並ぶ規模で、同研究所は「近年大きく膨らんだ市場。無視できないジャンルとして確立している」と分析している。
 「萌え」は芽生えを意味する「萌える」が語源で、読者が特定の登場人物に愛情を覚えることをいう。アニメなどに強いこだわりを持つ「おたく層」から派生した。ストーリーよりも登場人物の容姿や性格の描写が重視されるのが特徴だ。
 浜銀総研は、萌え市場を書籍・映像・ゲームの3分野に分け、書籍は関連するコミックの販売額から273億円、映像は関連アニメビデオソフトの販売額から155億円、ゲームは恋愛シミュレーションゲームの販売額から460億円と推計。おたく層全体のゲームなどの市場規模は約2900億円との推計値もあり、単純比較で3割が「萌え関連」とみられる。
 信濃伸一研究員は「作品を供給する側も、少子化で子供向けのメガヒットが狙えなくなった」と成人向け萌え作品が増える傾向にあると分析する。経済評論家の森永卓郎さんは「可愛らしいという感情を表現した媒体は欧米にはなく、この市場は国際競争力も備えている。市場を支える30代男性には未婚者が増えており、人間とは別のパートナーを求める心理があるのかもしれない」と話している。】

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 いきなり重箱の隅をつつくような話なのですが、浜銀総研さんは、よくこれだけの「萌え関連商品」を調べたなあ、と感心してしまいました。というか、こういうのって、明らかに「萌え」狙いのものから、ボーダーライン上のものまであると思われるのですが、それは、どう鑑別したのだろう、とか。しかし、「おたく層の市場規模の3割が『萌え』関連というのには、なんだか信憑性を感じてしまいます。もちろん、感覚的なものですけど。

 それにしても、もともと日本人は若い(というか「幼い」というべきかもしれません)女性を好む傾向があると言われているようです(もともと日本人女性そのものが、外国人女性と比較すると幼くみられがち、という面もあるようなのですが)。そういう「嗜好」のためか、この「萌え」という市場はもともと潜在的にあったようなのです。でも、それも「ひとつの趣味」だというふうに比較的認知されたのは、ネットの力というのはけっこう大きいような気がします。だって、いくらなんでも、いきなり学校や職場で「萌えキャラ」の話なんてできないでしょうし、そういう趣味の人たちは、けっこう孤独感を抱いていたはずなのに、ネットの世界では、同好の士がいとも簡単に見つかるのですから。そういう状況というのは、今までは「そういう趣味だと、現実に適応できない(イジメられるとか、モテない)から」ということで「転向」して普通の男の子になっていた子どもたちにとっては、逆に、卒業の機会を失われる要因になっているのかもしれません。まあ、世間的に言われがちな、「そういうゲームが、子どもに対する犯罪を生み出している」のかどうかは、僕にはハッキリはわからないし、「萌え」なんて言葉ができる前から、そういう「極端かつ身勝手な幼児性愛者」というのは存在していたことは間違いありません。むしろ、ネットであるとか、最近のネット文化というのは、「そういうコミュニティがなければ、他のもっと『健康的』な趣味に転向していた人たち」を吸収する要因になっているだけ、ということも考えられます。
 いやむしろ、こんな時代だからこそ、「萌え」という言葉を共有することによって、コミュニティに入りたい、という人も多いのかも。

 「負け犬」とか言われながら、現実に立ち向かっていこうとする30代独身女性と、ひたすらバーチャルの世界に安らぎを見出そうとする30代独身男性。ただひたすら、「噛み合っていない世代」なのでしょうね…



2005年04月10日(日)
究極の修行、その名は「サイレンス」!

日刊スポーツの記事「アジアンスター〜Mr.BOOにならなかった男・ジェット・リー」より。

(「少林寺」で映画デビュー、「HERO」などでも有名な俳優・ジェット・リーさんのインタビュー記事の一部です。)

【40歳を超えてなお、しなやかな体を持つ。厳しいトレーニングを積んでいるのかと思えば、そうでもないらしい。「ほんのちょっとだよ」と、苦笑いした後「体はキープしていければいい。今は精神の安定が大事」と話した。「HERO」撮了後、チベットに修行に行っている。「『サイレンス』という、10日間誰とも話をしてはいけない修行。先生以外だれにも会わないんだ。朝4時に起きて夜10時までずっと説法を聞く。1年半前の修行では、死とどう向き合うかを学んだ。撮影の前後には修行に行くけど、極端に言えば、毎日が修行なんだ」。】

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 ちなみに、次回作「ダニー・ザ・ドッグ」(リュック・ベンソン監督)では、「戦うためだけに犬として育てられた男」を演じるそうです。そして、その映画には、20年以上のキャリアで初めて「涙を流すシーン」があるのだとか。20年以上も泣くシーンが無かったとういうのは、なんだか凄い話だなあ、と思ってしまうのですが。

 ところで、このジェット・リーさんの話を読んで僕が感じたことは、こういう「修行」というのは、はたして、その人間にとってプラスになるのだろうか?ということでした。もともとそんなに他人と話すことが好きではない人間にとっては、10日間誰とも喋らないなんて、別にたいしたことないんじゃないの?とも思うのですが、自分ではそう思い込んでいても、本当の「孤独」と向き合ったら、「どんな相手でもいいから、話をしたい」という気持ちになるらしいのですけどね。独居の高齢者が怪しげなネズミ講に引っかかるのも「話相手になってくれる人」に対してついガードが甘くなってしまうという理由もあるようですし、病院でも、「個室は淋しい」という人は少なくないですから。まあ、どちらかというと、「6時間しか眠れないこと」とか「それ以外の時間は、説法を聞き続けなければならないこと」のほうが辛いような気もします。

 でも、こういう「修行」の効果というのは、実際のところはどうなのでしょうか?怪しい新興宗教の「修行」に耐え抜いたところで、出来上がるのは狂信者であることも多いですし、もっと身近なレベルで言えば、部活で厳しい練習に耐えた選手たちでも、痴漢で逮捕されたり、犯罪をやってしまったりするものですから、修行したからといっても必ずしも「完全な人間」になれるわけではないんですよね。まあ、こういう「修行」というのは、どちらかというと本人の「自信」を良くも悪くも増幅させる効果があるだけで、人格そのものを改造する効果はないのかもしれません。
 「自分は厳しい練習に耐えてきたんだ!」と言って、後輩にも理不尽な「修行」を課す人とか、けっこう多いですしねえ。



2005年04月09日(土)
パプアニューギニアの屈辱

共同通信の記事より。

【パプアニューギニア政府は、ソマレ首相がオーストラリアの空港での搭乗前の保安検査で靴を脱ぐよう求められたことに抗議し、謝罪がない限り、オーストラリアからの支援受け入れを凍結すると発表、外交問題に発展している。
 ソマレ首相は3月24日、ニュージーランドで開かれた地域首脳会議に出席後、オーストラリア東部のブリスベーン空港を経由して帰国する際、同空港で保安検査員から靴を脱ぐよう求められた。首相は帰国後の28日、国内のテレビで「靴の中には何もないと言った。われわれの地域の指導部への侮辱だ」と怒りをぶちまけた。】

 この「事件」の顛末は、次のようなものです(毎日新聞)

【パプアニューギニアのソマレ首相は28日、オーストラリア・ブリスベーン空港で飛行機を乗り継ぐ際に係員から保安検査のため靴を脱ぐよう指示されたのは「侮辱」だとして豪州政府に抗議することを明らかにした。
 首相は今月24日にニュージーランドで開かれた南太平洋地域の首脳会合に出席後、ブリスベーン経由で帰国する途中だった。搭乗前の検査で靴を脱ぐよう求められた首相は「靴の中に何も入っていない」と主張。待合室に引き返し、しばらくして機内に入ることができたという。
 首相は「このような扱いを受けたのは初めて」と怒り心頭。豪州政府が方針を改めない場合、対抗策としてパプアニューギニアを訪問する豪州側要人に同様の措置を取ると“警告”している。
 これに対し、ブリスベーンの空港当局者は「保安検査すべてに平等に行っており、例外はない」と話している。
 米同時多発テロ後、豪州の空港でも保安検査が強化されており、金属探知機に反応した乗客に靴を脱ぐよう求めるケースは多いという。】

〜〜〜〜〜〜〜

 この記事を最初に読んだときには、ひょっとしたら、パプアニューギニアの文化では、靴を脱がされるというのはものすごい侮辱であるとか、そういう「背景」があるのではないかと思ったのですが、僕が調べたかぎりでは、そういうこともないみたいです。
 しかしながら、この「事件」については、「一国の首相を疑うとは何事だ!」という観点と、「一国の首相だからといって、絶対に特別扱いはするべきではない」という2つの観点があり、どちらが正しいとは、一概には言えないでしょう。アメリカの空港で、こういう「ランダム・チェック」(と言いながら、実際にチェックされていたのは外国人ばかりで、いったいどこが「ランダム」なのかと言ってやりたい気分でしたけど)を受けたことがある僕は、そんなふうに靴まで脱がされて調べられるのは不愉快ではありますし、「僕がテロリストに見える?」と聞いてやりたい気持ちになったことを思い出しました。でもまあ、逆に、こういう一国の要人でも同じようにチェックするのだ、という姿勢は、一般乗客である僕としては、むしろその「公正な態度」に清々しさすら感じますけどね。偽ランダムより、本当に「全員」にやっているなら、まあ仕方がないかな、と。実際に、この首相がテロリストである可能性は、まず考えられないとしても、そういう姿勢を示すのは大事なことでしょう。その一方で、「ブッシュ大統領でも、当然、靴は脱がせるんだろうな?」とも、考えてしまうのですが(もっとも、大国の元首は専用機利用でしょうから、関係ないのかも)。
 この問題の「落としどころ」というのは本当に難しくて、これだか騒ぎが大きくなってしまうと、かえってオーストラリア政府も「これからは大目にみます」なんて公言するわけにもいかないだろうし、だからといって、セキュリティ・チェックを止めるわけにもいかないでしょう。そして、この問題に、「小国だからといって、バカにしやがって!」というような「国家の威信」めいたイメージまで付加されてしまっては、結局、どちらの国にとってもプラスになるわけがありません。黙って靴を脱いで検査を受けていれば、どうってことはない話だったのかもしれないのに、ここまで来てしまっては、ソマリ首相は、もう引くに引けないでしょうし。
 「パプアニューギニアの空港でも、同じように靴を脱がして仕返しする」というのが、もっとも妥当な「報復」なのかもしれませんが……
 
 それにしても、その「報復」が、「オーストラリアからの支援受け入れを凍結する」という内容であることには、ちょっとびっくりしました。支援を凍結するのではなく、受け入れの凍結。支援する側にもさまざまな思惑や利権があるのでしょうから、オーストラリア側だって困る人は大勢いるとしても、パプアニューギニアの国内は、それで大丈夫なんでしょうか?
 そういえば、こういう国って、日本の周りにもあるよなあ、という気もしたんですけどね。でも、「謝れ、そしてもっと金もよこせ!」と言われるよりは、このソマリ首相の姿勢は、立派だといえなくもないですが。



2005年04月08日(金)
「モナリザ」の新居のスポンサー

共同通信の記事より。

【フランス公共ラジオなどによると、パリのルーブル美術館に所蔵されているレオナルド・ダビンチ(1452−1519年)の名画「モナリザ」がこのほど新たな専用展示室に移され、6日から公開が始まった。
 専用展示室はこれまでよりも広く、ベロネーゼによる大作「カナの婚礼」の向かい側に位置。防弾ガラスで守られているものの、温度や湿度の調整が行き届き、天井から自然光を採光するなど最新技術を取り入れて保存状態を高めているという。
 同美術館を訪れる年間約600万人のほとんどがモナリザ目当てとされ、これまで展示されていた場所は常に混雑するとされていた。今回の作業は2001年から行われていたもので、総額481万ユーロ(約6億7000万円)の費用は日本テレビが提供した。】

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 日本テレビも太っ腹だなあ、6億7000万円も…なんてことをつい考えてしまうのですが、先日もレオナルド・ダ・ヴィンチとモナリザ関連の特別番組を放送していましたから、そういう「繋がり」あったのでしょうね。ルーブル美術館は、日本人の観光客が占める割合が、ものすごく高いらしいですし。
 ただし、その日本テレビの番組には、
【26日放送の日本テレビ系「超歴史ミステリー!ルーブル美術館の秘密」で名画「モナ・リザ」が2点あり、うち1点が発見されたと紹介されたことに対し、東北大学大学院の田中英道教授(西洋美術史)が28日、「もう1点がコピーであることは学会でほぼ結論づけられている」などとして同局に抗議文を送った。
 田中教授によると、この1点は1980年代半ばにスイスの画商が売りに出そうとしたコピーといい、日テレは「スイスのモナ・リザの存在は専門家には知られていたが、今回日本で初めて映像化に成功した。絵は鑑定中」などとしている。(サンケイスポーツより)】
 というクレームもついており、考えてみれば、それほど密接な関係ならば、「2枚目のモナリザ」がコピーである可能性についても、日本テレビは知っているはずで、それに言及しないで「世紀の発見!」として放送してしまうのはどうかな、という気もするんですけどね。
 僕は、本物の「モナリザ」を観たことはないのですが、このダ・ヴィンチが描いた女性の絵は、おそらく、世界で最も有名な絵のひとつだと思います。「モナリザの微笑」なんていう言葉が、一般的に使われているくらいですから。
 でも、こういう話を聞くにつれ、絵画をはじめとする「芸術」の評価って、いったい何なのだろうな、という気がするのも事実です。「モナリザ」は素晴らしい絵だと思う一方で、もし僕がモナリザの前に立つことができれば、「ああ、これが『モナリザ』かあ…」と感激しつつも、心の中で、「教科書で見たのと一緒だ」とか、考えてしまうに違いありません。たぶん、多くの観光客にとっての「有名な絵画鑑賞」って、「再確認の作業」になってしまっているのでしょう。その絵画そのものへの感動よりも「有名な絵を見ることができたという感動」のほうが、大きくなってしまいがち。ルーブル美術館の三大美術といえば、この「モナリザ」と「ミロのヴィーナス」「サモトラケのニケ」なのですが、ルーブルには、「一ヶ月かけても全部見ることはできない」ほどのさまざまな美術品が収蔵されているそうですから、予備知識がない状態で観れば、「モナリザ」以上に「自分の心に響く作品」だってあるかもしれないのに(というか、たぶんあると思います)、結局、それらの作品たちは、一部の好事家にしか顧みられることはなく、人の気配のない展示室で、いたずらに時を過ごすのみ。
 以前、ボストン美術館に行ったことがあるのですが、この美術館は日本美術の収集で有名で、日本美術のコーナーが、けっこう広くとられているのです。地球の反対側で、昔の日本人の作品を観るというのは、ある意味不思議な体験でもあったのですが、僕がちょっとガッカリしたのは、この「日本美術で有名」な美術館でさえ、肝心の日本関連のコーナーには人がまばらで、大勢の人でにぎわっているのは、印象派のルノワールやモネ、あるいはピカソなどのヨーロッパの作家たちだったのです。いやまあ、僕も大喜びでそれらの有名作家の絵を一生懸命観ていたんですけど。
 正直、僕には「モナリザ」とそのへんの小学生が描いた絵の違いはわかると思うのですが、美大出の美術の先生の絵と有名画家の絵を全くの予備知識なしで見せられて、どっちがどっちと鑑別できるほどの審美眼はないと思います。ひょっとしたら、美術の先生の絵のほうが「好き」かもしれない。そして、そういうふうに感じることそのものは、けっして間違ったことではないでしょう。「芸能人格付けランキング」とかならともかく。
 きっと、モナリザ「だけ」が、万人にとって最高の絵ではないのです。機会があれば、少しでも、他の作品にも先入観なしで目を向けてもらいたいなあ、と思います。いや、僕だってルーブルに行ったら、絶対観ますけどね、モナリザ。



2005年04月07日(木)
「たいしたことない」人々

「いかん。あかん。よう言わん!!」(わかぎゑふ著・角川文庫)より。

(わかぎさんが、オペラは初めて、という女の子と一緒にオペラ鑑賞に行ったときのエピソードの一部です。)

【そのとおりだ。どんな時期にでも心を豊かにするものが無くなったら人間はおしまいだ。それが縮小されている今の世界は悲しい。
 そんな思いもあって、オペラに行くのは楽しかった。素直に感じたものを受け取って帰ってこようと思っていた。
 しかし、その私の単純な喜びは会場に入ったとたんに少し曇った。
「オペラなんてねぇ、みんな男と女の好いた惚れたという下世話な話ばっかりですよ。ちっとも高尚なものなんかじゃない、日本人は大げさに考えすぎてるんだなぁ、たいしたことないよ」と大声で話している男性に遇ったからだった。
 たしかに高尚な芸術なんてない。有ってしかるべきは、人の心に訴える力を感じるか否かということだけである。
 それなのに、わざわざ観る前から言う人の欺瞞には虫唾が走る。彼はそう言うことで自分の知識をひけらかそうとしているだけだ。
 時々、ああいう大人に腹が立つ。知ってることに優劣を付けて「たいしたことはない」と言いたがる人種だ。彼らに言わせれば「歌舞伎?たいしたことない。昔は川原で踊ってたんだから」「大阪?たいしたことない。東京の次だから」「うちの奥さん?たいしたことない。サラリーマンの娘だから」ということになっていくに違いない。
 何かを否定することで自分の立場を固めていくなんて不幸なことだ。そういう人が社会的な地位があったりするともっと不幸は広がる。
 自分が1回そう言う度にたいした人間じゃないと思われていくことを自覚してほしいものだ。】

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 僕も時々、演劇を観に行くことがあるのですが、ある劇場で、関係者(出演者の夫とか、そういう感じ)らしい人が、開演前や幕間に、大声でその舞台の文字通りの「舞台裏」(あの役者はあんなふうにいい人そうに見えるけど実は…とか、そういう話)や舞台に関する薀蓄を延々と喋っているのを聞かされて、心底うんざりしたことを思い出しました。いや、単なるマニアならともかく、関係者であるならなおさら、一般の観客に気を遣うべきではないか、と疑問にもなったので。それなのに、興を削ぐような会話を大声でして「いかにも関係者」という空気をばら撒いているなんて、不躾にもほどがあります。ソロコンサートならともかく、演劇というのは、個々の役者へのディープな興味よりも、単純に「目の前で演じられているものを楽しみたい」という人だって多いはずです。非日常性を楽しむための心の準備をしているときに、つまらない日常を持ち込まれるというのは、不愉快きわまりありません。
 そんな「裏話」なんて、わざわざ会場でやらなくても、どこかプライベートな空間でやればいいのに。「静かにしてくれ!」と言いたいのはやまやまだったのですが、実際にはそれを口に出すことはできなかったんですけどね。
 その「関係者風の人」には、まったく「自分は迷惑なことをしている」という雰囲気もなく、むしろ、一般の観客よりも偉そうにふんぞり返っていて、僕はそれだけの理由で、その劇団がかなりキライになりました。何様なんだお前は!という感じで。
 
 それにしても、このわかぎさんのエピソードにあるような「知ったかぶりの人」というのは、世間にたくさんいますよね。「○○なんてダメだ!」「××も昔はよかったんだけどねえ…」などと言いたがる、とにかく何に対しても、まず文句を言わないと気が済まない人。本人は「批評」をしているつもりでも、傍からみると「自分の知識をひけらかしているだけ」の人。しかも、その「ひけらかしている知識」というのは、誰か有名な評論家のウケウリだったり、彼(あるいは彼女)の勝手な思い込みだったりすることがほとんどです。とくに劇場などの「自分以外の誰かは、素直に感動しているかもしれない場所」で、そんなバカげた自己アピールをしたがる人というのは、客観的にみれば、「単なる自慢屋」にしか見えません。そういう人は、そもそも、あらさがしをしようという目でしか物事を見ていませんし、そういうあらさがしが誰かを感動させるなんてことは、まずありえません。
 少なくとも僕には、オペラなんて…とかいう予備知識をひけらかすだけで、目の前の舞台にどう文句を言おうかとばかり考えている人よりも、何の知識も持っていなくても、目の前の舞台の迫力に感動して涙を流してしまう人のほうが、人生を楽しんでいると思えるのです。

 「そんなの、たいしたことない」
 本当に「たいしたことない」のは、お前自身だ!!



2005年04月06日(水)
チャールズ皇太子の救われない晩年

毎日新聞の記事より。

【「だだっ子のような皇太子」(3日付サンデー・タイムズ紙)。カミラ・パーカー・ボウルズさん(57)との結婚式を9日に控えたチャールズ英皇太子(56)への風当たりが収まらない。メディアとの不仲や国王の資質への疑問、ローマ法王の葬儀と重なって挙式を1日延期する「不運」――。祝賀ムードとほど遠い皇太子の再婚は、将来の王室への英国民の不安をかきたてている。【ウィンザー(ロンドン西郊)で小松浩】
 ◆冷笑ムード
 「チャールズ、カミラの記念品? 1日150個さばいてるよ」。ウィンザー城近くで土産店を経営するディロンさん(44)が言った。売れ筋は2人をあしらった4.99ポンド(約1000円)のティータオル。カップや絵皿なども並ぶが、客の入りは今ひとつだ。
 点線を入れ「離婚したらここから割りなさい」と書いたマグカップが売られたり、4月8日の日付入りの記念品が式の延期でプレミアムがつき、かえって売れる珍現象も起きている。
 9日は、エリザベス女王夫妻抜きの親類縁者ら30人がウィンザーの市庁舎(ギルドホール)でひっそり祝う「世紀のジミ婚」となる。24年前、世界の賓客3500人を招待し、群衆60万人が通りを埋めたダイアナ妃との挙式時の熱気とはまったくの様変わりだ。
 ◆「大衆の心」
 色恋と義務のはざまで悩んだ例は、英王室では珍しくない。エリザベス女王の伯父エドワード8世は1936年、国王の座を捨てて離婚経験者である米国人シンプソン夫人と結婚、世間は「王冠を懸けた恋」と呼んだ。
 一方、女王の妹マーガレット王女は、妻と離婚した空軍大佐との結婚を望みながら身を引いた。新聞は「恋愛より義務を優先」と同情した。50年前のこの悲恋を、BBCが3月下旬にドキュメンタリーで放映。皇太子と比較して番組を見た国民は少なくなかった。
 チャールズ皇太子には「われらがダイアナ妃」を捨てた男、というイメージがどうしてもつきまとう。「皇太子はカミラのハートを射止めたが、大衆の心を失う危機にある」とサンデー・テレグラフ紙は書いた。
 ◆前途多難
 つい最近、英国の賭け屋が「2010年1月の国王」は誰かで商売したところ、トップのエリザベス女王に続き、賭け率500倍の「そのころ王室はなくなっている」が2番目に多い票を集めた。英国民の王室離れは深刻だ。不人気の皇太子が王に即位すれば、英国王を元首とするオーストラリアやニュージーランドなど英連邦諸国で、独自の大統領を選ぶ共和制への移行が現実味を帯びる可能性もある。
 先月末、スイスのスキー場で2人の息子とともにマスコミの写真撮影に応じた皇太子は、雪の中のマイクに気づかず「やつらはひどい連中だ」とつぶやき、英国中に放映された。「国王として品位に欠ける」と反発を招き、皇太子の横で「笑って、笑って」と冷静にアドバイスした長男ウィリアム王子の株はさらに上がった。「皇太子の再婚は女王を元首とする全国民にかかわる問題だ。我々がいつの日か『チャールズ国王』を目にする可能性は薄れつつあると思う」。労働党のマッキンレー下院議員は話した。】

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 僕は別にチャールズ皇太子贔屓ってわけじゃないですが、最近のバッシングぶりには、正直ちょっとかわいそうな気もしてきました。「皇太子」っていうと、どうも若々しいイメージが先行しがちですけど、チャールズさんは、もうすぐ還暦を迎えるような年齢になっておられますし、ダイアナ妃とのことに関しては、傍からみれば、お互いさま、という面も大きかったのではないかなあ、とも感じますから。この年齢になって、「ダメおやじ」のような扱いを受けた挙句、息子に冷静にアドバイスされている姿には、かなりの哀愁が漂っていそうです。僕が皇太子だったら、文句のひとつも言いたくなる状況なのは、まちがいありませんし、もう50代も半ばなだけに、かえって頑固になってしまっている面もあるのでしょう。ここまでマイナスイメージが染み付いてしまうと、今さら何をやってもそう簡単にイメージアップははかれないだろうしなあ。
 おまけに、せっかくの「結婚式」も、母親には出席を拒否され、列席者はわずか30人。再婚というのを差し引いても、ものすごいジミ婚です。それこそ「目撃!ドキュン」とかの企画のほうが、はるかに列席者が多いのではないかと思われます。その上、ローマ法王の葬儀と挙式の日が重なってしまうという不運っぷり!
 そもそも、今さら「結婚」をする必要があるのか?という気持ちにすらなるのですが、カミラさんも長年苦労してきたのでしょうから、せめて籍だけでも…とか思うのも、無理のないところなのかもしれませんね。カミラさんが今から子供を産んで…というのは、ちょっと非現実的な話なだけに。

 それにしても、男の立場としては、チャールズ皇太子は辛いだろうなあ、などとも、つい考えてしまうのです。だって、一緒に来日したときも、ダイアナ妃のおまけみたいな扱いだったしねえ。僕だって、「どうしてダイアナ妃よりカミラさんなの?」とか思いますけど、それこそ、本人たちにしかわからない「事情」というやつもあったのでしょう。最近は、チャールズ皇太子は、単なる「ネタ」として、国民のオモチャにされているのではないか、という気もします。
 ウイリアム王子の弟のヘンリー王子は、ナチスの将校の格好をして仮装パーティに出席して物議を醸しましたが、王子くらいの年齢なら、「若気の至り」なんて同情的な見方もできます。でも、還暦近くなって、これだけのバッシングを受けてしまう現代の「王室」というのは、つくづく大変ですよね。
 だいたい、イギリスがカトリック教会から宗教的に独立した「国教会」を成立させたきっかけも、ヘンリー8世の離婚問題に対して、当時のローマ教皇が離婚を認めなかったからなのですから、今回のチャールズ皇太子の騒動も「お家芸」と言えなくはないような気も……



2005年04月05日(火)
鏡の中の自分には怒れない「大魔神」

デイリースポーツの記事より。

【女優・榎本加奈子(24)が交際中だった横浜ベイスターズの佐々木主浩投手(37)の協議離婚が3月18日に成立していたことが4日、明らかになった。佐々木の個人事務所がマスコミ各社にファクスで発表した。榎本はすでに都内の佐々木の豪邸で同居生活をスタートさせており、“不倫”交際2年が結実、結婚は秒読みとなった。
 シアトルと東京の国際遠距離“不倫”愛を貫き、榎本と“大魔神”のゴールインが秒読み態勢となった。
 ファクスの文面で佐々木は「米大リーグに移籍した2000年から妻とはスレ違いの生活が続き、2人で今後の人生について見つめ直した結果」と離婚の理由を説明。当初は香織夫人(36)が「離婚なんて考えてません」とマスコミに語るなど反対し、泥沼状態が続き、互いに代理人の弁護士をたて協議の結果、正式に離婚が成立した。2人の子供の親権は佐々木が持つ。
 また佐々木は初めて「新たな人生という意味で現在榎本加奈子さんと交際し生活を共にしております」と榎本との交際を認めた。「2人の子供も理解を示し」ているといい、榎本との結婚への障害はなくなった。
 榎本は3月27日に佐々木親子が住む東京・世田谷の豪邸に引っ越しを済ませており、“新家族”での生活をスタートさせている。
 2人の不倫関係が発覚したのは03年秋。一時は破局説も飛んだが、今年1月にはハワイでの親密ぶりや都内の榎本のマンションでの“不倫半同棲”が報じられた。
 佐々木は「これからは野球に集中し、みなさまの期待に応えられるようにグラウンドで全力を尽くします」とコメント。
 なお5日発売の写真誌では榎本の妊娠説も出ているが所属事務所では「分かりません」とノーコメント。榎本は芸能活動を休業中で、復帰時期は未定。】

〜〜〜〜〜〜〜

 僕は最初にこのニュースを聞いたとき、「佐々木、糟糠の妻を捨てて、若い女に走るなんて、けしからんヤツだ!」と思ったのです。佐々木さんのファックスの中には、「子供たちも彼女(榎本さん)になついていますし」というような件があったそうなのですが、榎本さんが妊娠中、あるいは、今はそうでなくても、今後、出産するという機会があれば、「自分の血が繋がっていない子供たち」と、今の良好な関係が維持できるかどうかなんて、誰にもわからないことですし。
 まあ、血が繋がっているからといって、必ずしも良好な関係が保障されているわけではない、というのも事実なのですけど。

 しかし、この離婚騒動のきっかけについて考えてみると、海外勤務というのは本当に難しいものなのだなあ、などと思ってしまうのです。僕の周りの人たちにも、「新婚の妻と一緒に海外に留学したものの、すぐに夫婦関係が悪化して妻は帰国」なんて話は、けっして少なくはないので。
 一般的に、仕事をしている側のほう(この場合、佐々木投手)は、ときにはホームシックにかかることはあっても、まあいいんですよね。何より、仕事(野球)さえやっていればチームメイトもいるし、「淋しさ」に負けているヒマもないしょう。もちろん、いろんなプレッシャーもあるかもしれませんが。
 それに対して、家族、とくに配偶者には、ときには留学、海外勤務している本人以上に辛いこともあるようです。近くに頼れる親族もいなければ、一緒に気分転換できる友人もいない。本人が英語に堪能で外交的な性格ならまだしも、そうでない人の場合は、「どうして自分がこんな目に…」なんていうことも、けっして少なくはないようですから。「夢を追っている」という人は良くても、「一緒に夢を追っているはずの人」が、ずっと同じ方向を見ているとは限らないのです。ましてや、遠征ばかりでなかなか家に帰ってこない夫。見知らぬ国で(とはいっても、佐々木投手がいたシアトルは、日本人には生活しやすい都市のようですが)ひとりで家にいなければならない辛さというのは、筆舌に尽くし難いものではないでしょうか。いや、海外のほうが自分に合っている、という人だって、いるんですけどね。
 こういうのは別に海外生活に限ったことではないのでしょうが、海外勤務をしている本人は「自分は仕事でこんなに疲れているのに!」なんて、周囲の人たちの苦労に対する配慮が欠けた態度をとってしまうというのは、珍しいことではないのです。

 佐々木さんは、それでも「お金はあった」はずですから、大部分の海外での生活をしている日本人よりは、遥かに恵まれていたはずです。それでもやっぱり、「埋められない溝」というのはできてしまうものなのだなあ、ということをあらためて考えさせられました。「夢」と「生活」の両立というのは、本当に難しい。
 きっと、こういうのは、「どちらが悪い」と一概には決められないところもあるんですよね。悲しい話であることだけは、紛れもない事実ですが。

 それにしても、佐々木投手は、2年総額13億円という高年俸を貰っていながら、今まで「これまでは野球に集中できず、グラウンドで全力を尽くしていなかった」のでしょうか?去年の引退騒動もチームメイトからすれば迷惑千万だったでしょうし、今年も開幕戦でサヨナラホームランを打たれていますから、そんな悠長に構えていられない事態であることだけは、間違いないとは思います。
 
 佐々木さん、不倫の時期と野球の成績が落ちた時期がシンクロしているように見えるのは、僕の錯覚ですか?それとも、ケガや年齢による衰えだけが原因なんですか?



2005年04月04日(月)
偉大な法王、ヨハネ・パウロ2世が遺したもの

読売新聞の記事より。

【ローマ法王ヨハネ・パウロ2世の死去に伴い、次期法王は15〜20日以内に開催されるコンクラーベで選ばれることになった。
 候補を巡る多数派工作は水面下ですでに始まっているが、対外関係での多大な功績と、教会内に対立を残したヨハネ・パウロ2世の後任だけに、誰がなろうともその課題は大きい。
 リベラル派として知られるフンメス枢機卿(70)は2日、「これからのカトリック教会は避妊など性にかかわる問題で科学と向き合うことが大切だ」との声明を発表した。法王が死んだばかりの時点で、高位聖職者が批判的な言動を取るのは異例のことだ。
 ヨハネ・パウロ2世は、1960年代からリベラルへと傾いていたカトリック教会の舵(かじ)を保守へと切り返した。このため、リベラル、穏健両派の不満が教会内に鬱積(うっせき)している。
 次期法王は、こうした不満を吸い上げつつ、現在、バチカン内に根を張る保守派をも満足させ、ヨハネ・パウロ2世がもたらした“亀裂”を修復する必要がある。
 社会問題では保守派ながら反グローバリスムを主張するイタリア・ミラノ大司教のディオニジ・テッタマンツィ枢機卿(70)や保守色は残るものの第三世界の貧困問題に理解のあるアルゼンチン・ブエノスアイレス大司教のホルヘ・ベルゴリオ枢機卿(68)らの名が候補として挙がっているのもこうした理由からだ。
 一方、冷戦崩壊の立役者の一人として外交史に名をとどめたヨハネ・パウロ2世に匹敵する外交手腕を当初から新法王に期待するのは酷かも知れない。
 そこで、国務長官(首相)のソダノ枢機卿(77)、ラッツィンガー首席枢機卿(77)といった、長く法王を支えてきたバチカン重鎮が、短期リリーフの形で選ばれる可能性も指摘されている。
 バチカン専門ジャーナリストのサンドロ・マジステル氏は、「偉大な法王だったヨハネ・パウロ2世の後任となるのは誰にとっても難しい」と見る。】

参考リンク:コンクラーベ(WEB東奥/ニュース百科)

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 僕も世界史の時間に、「根競べ」と「コンクラーベ」を引っ掛けて記憶していたものですが、参考リンクを御覧いただければ窺えるように、この「コンクラーベ」というのは、当事者たちにとっては、本当に大変な会議のようです。現在、投票の有資格者は117人だそうなのですが、ここに名前が上がっている枢機卿たちは、いちばん若い人でも68歳ですから、確かに、激務の中でのヨハネ・パウロ2世の26年という在任期間は非常に長期であったと言えそうです。そもそも、前任者のヨハネ・パウロ1世は65歳で法王の座につき、その際のコンクラーベに参加したヨハネ・パウロ2世は、「自分がコンクラーベに参加するのも、これが最初で最後だな」と思っていたという話が残っているくらいですから。
 ところが、在位1ヶ月あまりで1世が逝去されてしまい、本人すら予想しなかった若い法王が誕生しました。それが、ヨハネ・パウロ2世だったのです。
 僕はカトリック教徒ではありませんが、今回の法王逝去に伴うさまざまな報道で、あらためて、「ポーランド生まれで、ナチスへの抵抗運動にも加わっていた」という異色の法王の数々の業績を知りました。その一方で、ヨハネ・パウロ2世は、偉大であるが故に、敵も少なくなかったということもわかったのです。
 ヨハネ・パウロ2世は、世界平和を訴える一方で、妊娠中絶やコンドームの使用への反対といった、教義に厳格な姿勢を崩すことはなく、そのことは、日常レベルにおいては「困ったこと」だと思っていた信者も、けっして少なくはなかったのでしょう。エイズをはじめとする、性感染症の問題もありますし、法王の姿勢は「理論上は、当然のこと」ではあったのかもしれませんが、現実においては、「時代に即していない」という批判もあったようです。最近では、スペインで、エイズ予防のためのコンドーム容認発言が、数時間後に撤回されてスペイン国内では大きな失望の声が上がった、なんて話もあり、その裏には、「コンドームは不道徳なセックスをもたらす、というローマ法王庁の圧力があった」と言われています。ただし、この件に関しては、ヨハネ・パウロ2世が直接関与されていたかは、なんともいえないのですが。まあ、確かに「コンドームは不道徳なセックスをもたらしている」と言えなくもないけど、非カトリックの僕としては、「禁止しても不道徳なセックスはなくならないだろうから、容認したほうが『現実的』なのではないか」などと考えてみたりもするのです。引用文中のフンメス枢機卿の「これからのカトリック教会は避妊など性にかかわる問題で科学と向き合うことが大切だ」という声明は、明らかにヨハネ・パウロ2世の厳格すぎて、時代に即さない保守的な面を批判しているのだし、おそらく、こういう「リベラル派」の人たちは、今までさんざん煮え湯を飲まされてきたのでしょう。
 信者ではなく、信教を持たない僕からすれば、「そのくらい厳格なほうが、宗教の教義としては、正しいのではないか」などと考えたりもするのですが、実際の信者からすれば、やはり、「なんとかしてくれ」というのが本音だというのもよくわかります。「何でもあり」では、かえって、求心力は無くなってしまうような気もしなくはないけれど。

 宗教すら、現実への多大な妥協を求められる時代というのは、宗教家にとっては、なかなか大変なのでしょうね、きっと。「信仰心」がなければ務まらないのだろうけど、実際には「政治力」のほうが重視されがちな面もあるわけだし。
 確かに「偉大な法王だったヨハネ・パウロ2世の後任となるのは誰にとっても難しい」。
 



2005年04月03日(日)
ジャイアンの唯一の心残り

「TV Bros・4/2〜4/15号」(東京ニュース通信社)の記事「ゆくドラ くるドラ」より。

(ジャイアン役だった、たてかべ和也さんとスネ夫役だった肝付兼太さんの対談記事の一部です。)

【聞き手:26年も5人一緒にやり続けてきた愛着のある役を降りるわけですけど、キャストを変わると伝えられたときは、どう思いましたか?

たてかべ:そういう時期に来てるんだな、と割と淡々と受け止めましたね。

肝付:まあ、いつまでも僕らができるわけはないんだし、映画25周年はいい節目かなと思いましたね。

たてかべ:本音を言えば寂しいですけどね。

聞き手:先日、ついに新しいメンバーが発表されました。その時どう思いましたか?新メンバーのことは知っていたのですか。

たてかべ:肝心のジャイアンは…。

肝付:年齢聞いてびっくりしたねえ。

たてかべ:僕より体格はジャイアンですけどね(笑)。でもこんなに若いんだから、思い切ってなんでもやってみればいい。ただね、僕は新しいジャイアンとお酒を飲みに行こうと思ってたんです。でも14歳じゃいけない(笑)。それだけが残念。

肝付:関智一君は前にスネ夫の幼少の頃をやったことがあるんで、ピッタリと思いましたね。

聞き手:新メンバーにひと言お願いします。

たてかべ:自分たちなりの『ドラえもん』を作っていけばいいんで。『ドラえもん』の心を次につなげていく気持ちだけ持っていれば、それでいいと思います。

肝付:僕らの声が耳に残っているでしょうけど、初めて自分がやるんだという気持ちで演じればいいんじゃないかな。】

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 たてかべ和也さんは、1934年生まれの70歳。肝付兼太さんは、1935年生まれの69歳。この雑誌に載っている写真を観ると、そんな年齢を感じさせないほど若々しいというか、エネルギーに満ちている感じがするのですけれど。それもまた、「ドラえもん効果」なのかもしれません。
 でもまあ、「サザエさん」のように、少しずつメンバーが入れ替わっていくよりは、今回のような主要声優陣の総入れ替えというのは、寂しい一方で、潔い引き際であるような気もします。確かに、「いつまでも続けるわけにはいかない」のだし、「5人のドラえもん」のまま、一人も欠けることなく「卒業」できたわけですから。たぶん、御本人たちも、ホッとしておられるところもあるのではないかなあ。
 ところで、新しいジャイアン役の木村昴さんは、まだ14歳。周りの声優さんたちは30歳くらいですから、現場で萎縮してしまっては、声の演技にも影響が出る可能性もあるよなあ、なんて僕は心配しているのですが、こればっかりは、実際にやってみないとわからないんですけどね。
 ただ、僕が小学生の頃に大山さんのドラえもんを初めて観たときにも「ドラえもんの声、ちょっと違うなあ…」なんて思ったのも事実なので、こういうのは「慣れ」の部分も大きいし、あまり前任者を意識しすぎたり、「違う」という外部の声を気にしすぎないようにすることも大事なのでしょう。
 これからの子どもたちにとっては、水田わさびさんの声=ドラえもんの声、ということになっていくのだから。
 ところで、たてかべさんは「14歳じゃ、一緒に酒を飲みにいけないねえ」と残念がっておられるようですが、とりあえず、「あと6年は元気で頑張ってね」ということなのかもしれません。僕としては、新旧2人のジャイアンが酔っ払ってカラオケでジャイアンリサイタル、なんていうのを観てみたかった気もするのですが、それは、将来のお楽しみ、ということで。

 とにかく、本当におつかれさまでした。そして、新しいドラえもんも、新しい子どもたちに愛され続けますように。


 



2005年04月02日(土)
インターネットの「善意」

「駄文にゅうす」さんからいらっしゃった方は、こちらへどうぞ(「編集権」等の話)


「ほぼ日刊イトイ新聞の本」(糸井重里著・講談社)より。

【いつものようにクリーチャーズ(糸井さんと付き合いのあるゲーム製作会社)に顔を出したとき、友だちというか部下だったというか、ある仕事仲間がパソコンのディスプレイを一心に見つめていた。
 何をそんなに熱心に見ているのか。気になってぼくもディスプレイをのぞきこませてもらったら、何やらいろいろな人の意見が記してあるようだった。
 ちょうどサッカーのワールドカップ98アジア最終予選が開催されていた時期で、ワールドカップ関連のホームページに書き込まれた意見を、彼は呼んでいたのである。
「サッカー日本代表を応援するホームページ」というサイトがそれだった。
「サッカー日本代表を応援するホームページ」に書き込まれていた内容は、ぼくを驚かすのに十分だった。
「『○○チームの△△は怪我で右足を負傷し出場できない』とニュースで報道されていましたが、ふらっと□□競技場へ立ち寄ったら練習試合で右足を使ってシュートを決めていましたよ」
 日本で見たり聞いたりするテレビや新聞などには載らない極秘情報が、さりげなく記されていたのだ。商社マンとして現地に赴任しているサッカーファンが、マスコミの派遣記者には発見できないような事実を拾って書き込んだものなのである。
 ここの掲示板ページでは、十一月に日本代表が念願のワールドカップ出場を決めたマレーシアのジョホールバルでのイラン戦のときなどは、
「月曜日のジョホールバルの試合をぜひ現地で観たい。でも、金曜日は午前11時から課内会議があるし、月曜日は午後2時から東京本社の営業販売促進会議に出なければならない。会議にきちんと出席し、現地で試合を観るための方法があったら教えてほしい」
 などというファンの質問に対し、別のファンが、
「いい方法がある。JALの成田16時20分発☆☆行きの便に乗ってシンガポールまで飛び、シンガポールから9時41分発ジョホールバル行きのバスに乗ればいい。競技場周辺にかならずダフ屋がいるから、チケットはなんとかなる。帰りは□□航空の○○行きの便に搭乗し、シンガポールで乗り換えれば午前11時半までに成田に到着できるから会議に間に合うのではないか」
 なんてことを答えていた。
 サッカーに熱い思いを持つファンが、同じ熱狂的ファンに役立つための情報をなんの見返りも考えずにアドバイスしているのだ。
 いままで、商社マンなら商社マン、教師なら教師、運転手なら運転手という具合にその人の人格は職業と一体のものとして見られがちだったと思う。
 実際は、そこにくくりきれないものを、皆持っているのは当たり前のことなのだが、ついつい忘れてしまう。

(中略)

このページを見たとき、情報の取り方や使い方が大きく変わってきたんだなあと思った。
 個人個人が職業や肩書きに関係なく情報を発信し、またそれを受けとめる一人ひとりの人間が存在する。そこでは興味や関心、個性などをひっくるめたまるごとの人格同士が交流していた。
 ここから何かとんでもない変化が起こるような気がした。
 人間は経済行為だけで動くものではない、損得だけで動くものでもない。身銭を切ってでも何かをしなければいけない、何かをしたいというものを、みんな持っているんだな、という子どものころに信じていたことが、ありありと再現されていた。
 驚きもしたが、何より、気持ちがよかった。
 いいものを見た。いいことを知ったという思いがあった。
 インターネットというものは、こりゃ、すげぇものかもしれない。これを知らないままでこの先、生きていくのはむつかしいぞ、とさえ思った。
 気持ちのいい衝撃があった。】

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 かなり長い引用になってしまって申し訳ないのですが、この文章を読んで、僕も「自分がインターネットにはじめて接した時代のこと」を思いだしました。今となっては、「インターネットは危険だ!」「インターネットに騙されるな!」なんて、訳知り顔で声高に書いている僕なのですが、確かに、インターネットというものに最初に触れたときには、「世界には、こんなにいろんな情報を発信している人がいるのか」という驚きがありました。そして、その多くが、「無償」であるということも衝撃でした。
 ここで糸井さんが書かれている「ジョホールバルに行きたかった商社マン」にアドバイスをしてあげた人というのは、たぶん、この「自分と同じ日本代表を応援している名前も顔も知らない人」のために、自分の時間を割いて、なんとか彼が現地で試合を観るための方法を調べ上げたのでしょう。もちろん、助言者はこういう旅行関係のプロなのかもしれませんが、それならそれで、彼は、お金になるかもしれないプロの知識を「同じサッカーファンのために」無償で提供しているのです。
 こういう書き込みに対して、今の僕なら「激しくガイシュツ」とか「教えて君はやめろ!」というようなリアクションをつい予想してしまうのですが、少なくとも一昔前のインターネットは「お互いネットをやっている人間だから」というような、不思議な善意というか、連帯感のようなものがあったような気もします。もちろん、「昔はいい人ばっかりだった」なんていうことは全くないのですが、「ネットをやっている」ということそのものに、ひとつの矜持を持っている人も多かったのではないでしょうか。

 僕は何のためにサイトをやったり、文章を書いたりしているのだろう?と考えることがあります。それこそ、1円にもならないどころか、諸経費を入れれは、明らかに赤字なのに。でも、この文章を読んで、なんとなく、そのひとつの「理由」がわかりました。
 僕は、「行き場のない『善意』みたいなものを、ここで発信しているのではないか」と思えてきたのです。
 やっぱり、人間として生まれてきたからには、誰かの役に立ちたいとか、感謝されるようなことをしたいという気持ちを抱えている人は多いのではないでしょうか?
 でも、そういう「善意」というのは、日常のなかで現実化するのはあまりに難しく、曖昧なものなのです。そもそも、自分でも「善意」なのかどうかよくわからないような感情だし。何か世界に対して言いたいことがあっても、実際に拡声器を持って駅前で演説をする勇気がある人なんて、そんなにいませんし、誰かを助けてあげたいと思っても、自分が助けるべき人、あるいは、自分にも助けられる人というのがどこにいるかなんて、なかなかわからないものです。それに、他人の「善意」を悪用する輩だって、けっして少なくないのだし。

 そんな、勇気が足りない、でも何かせずにはいられない「善意を持つ人々」にとっては、インターネットというのは、劇的な変化をもたらす「ツール」であり、僕がネットに魅かれていったのも、そういうもどかしさを発散させてくれたからだと思います。
 考えてみれば、ネットの「悪意」の象徴のようなイメージを持たれている「2ちゃんねる」だって、スレッドにもよりますが、その膨大な書き込みのなかには「誰かの役に立ちたい」という、無償の「善意」がたくさん含まれているのですから。

 現在のインターネットというのは、まさに、リアルワールドの縮図で、困った人もいれば、トラップを仕掛けてくる人もいます。
 でも、その一方で、「インターネットの善意」だって、絶滅してしまったわけではないのですよね、たぶん。

 あのころの「衝撃」は、失われてしまったのか、それとも、忘れてしまっているだけなのか?



2005年04月01日(金)
「エイプリルフール」の傲慢

日刊スポーツの記事より。

【ライブドアは1日、自社のポータル(玄関口)サイトに、架空のスポーツ紙の画像を登場させ、「ライブドア開幕5連勝!」というエープリルフール記事を掲載した。「宿敵ソフトバンクに10−0で圧勝!」とし、堀江貴文社長が笑顔で外国人投手の肩を抱く写真を大きく載せている。
 記事は、プロ野球球団のライブドアがソフトバンクに2連勝し、単独首位に立ったという内容。堀江社長がニッポン放送株取得で使った「将棋で言えば詰んでいる!」という言葉をそのまま見出しにしている。
 ライブドアは昨年、プロ野球への参入を目指したが失敗。同じ情報技術(IT)企業の楽天とソフトバンクが参入した。この画像はライブドアのサイトにアクセスすると自動的に現れる。】

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 実際の記事はこちら。今日は4月1日、エイプリルフールなわけですが、正直、いろんなサイトを巡回していて思うのは、「嘘だとわかっている嘘ほどつまらないものはない」ということなんですよね。面白い嘘というのは、どんな大袈裟なものでも、「1%くらいの本当の可能性」がないといけないのかもしれません。
 とはいえ、先日「トリビアの泉」で観たのですが、昭和54年のエイプリルフールに、筑紫哲也さんが「宇宙人との交信に成功した」というウソのニュースを放送したときには、「公共の電波で嘘をつくな!」という抗議の電話が殺到したそうですから、「エイプリルフール耐性」みたいなのも、人それぞれなのでしょう。
 ところで、WEBサイトの「エイプリルフールネタ」の中には、「人を驚かせるためのネタ」に混じって、明らかに「自分の秘めた願望を『嘘をついてもいい日だから』という理由で公開してしまっているものもあるようです。槍玉に挙げて申し訳ないのですが、このライブドアの記事から窺えるものは、「洒落」というよりは、それこそ「草葉の陰から」というような、「往生際の悪さ」のような気がするのです。なんだか、笑うに笑えない。
 個人サイトでは、こちらのサイトに書かれているように「閉鎖ネタ」というのはもはや定番です。僕のようにスレてしまった人間からすれば、「サイトを閉鎖します…エイプリルフールでした」なんていうのは、「はいはい、わかったから。閉鎖しないでください、って言ってほしいんだよね」としか思えないものではあるのですが、実際にサイト管理人としての立場からすると、「自分のサイトを閉鎖してみたい」という衝動は、そんなに珍しいものではないような気もします。日頃は読み流されていても、やっぱり、たまには「やめないで」とか「寂しいです」とか言ってもらいたいし。よく「人間の本当の価値というのは、その人の葬式のときにならないとわからない」なんて言いますし、僕も自分の葬式を見てみたい、という欲求はあるのです。でも、サイトというものは「閉鎖する!」って言うたびに、観る側からすれば「信頼度」が1ランクずつダウンしていくような気がするし、いつもいつも閉鎖するというようなサイトに対しては、「また言ってるよ、どうせ閉鎖しないくせに」というような負の感情すら抱いてしまったりするわけです。そういう「隠れた願望」を実現してみるには、「エイプリルフール」というのは、確かに「いい機会」なんですよね。仮に周りがノーリアクションだったり、過剰反応だったりしても「エイプリルフールだから」で済ませてしまえばいいのだし。「驚きました」って素直に(なのかつきあってあげているだけなのか、僕にはわかりませんが)リアクションしてくれる人がいるというのも、不思議ではあるんですけどね。
 本当に、4月1日になると、WEBサイトには「自殺願望」というものがあるのだなあ、なんて、僕は思わずにはいられません。しかし、みんなが真に受けてくれるのは、大概、最初の1回だけなのですが。

 でもねえ、僕は思うのですよ。上手な嘘っていうのは、本当に難しいなあ、って。だって、「彼と別れました」「不合格でした」「仕事をクビになりました」という嘘は、本人にとっては冗談でも、実際に「別れてしまった人」「不合格だった人」「リストラされた人」にとっては、「勝ち組の余裕」だと感じられることもあるんじゃないかなあ。「エイプリルフールだから」といっても、「冗談で済ませているつもりなのは言っている側だけ」なんてことは、けっして少なくないような気がします。