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2003年05月31日(土)
さようなら、ファミコン。


毎日新聞の記事より。

【全世界で計1億1000万台を送り出した任天堂の家庭用ゲーム機「ファミリーコンピューター」と「スーパーファミコン」の本体生産が、部品の確保が難しくなったため、9月で終了することが30日、明らかになった。

 ファミリーコンピューターは83年7月に1万4800円で発売され、「スーパーマリオブラザーズ」が世界的に大ヒットするなど、6200万台を出荷。90年11月には「スーパーファミコン」(2万5000円)が次世代機として登場、4900万台を出荷した。

 北米ではゲーム機自体が「NINTENDO」と呼ばれ、同社の世界ブランド化に貢献した。86年には「ファミコン」が、流行語になるなど社会現象となった。同社は現在、後継機「ゲームキューブ」に主力を置いている。】

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 この記事を読んで最初に感じたのは、「ファミコン、まだ造ってたのか…」ということでした。確かに、初代ファミコンの新しい型(廉価版)も発売されていましたが、今まで(全盛期に比べたら)細々と生産され続けていたんですね。
 ビデオのベータなんかもそうなのですが、新しいソフトが出なくても、今までのソフト資産がたくさんありますし、初期に本体を買った人たちは、本体が壊れてしまって、家のゲームで遊ぶには2代目、3代目が必要になる人たちもいるでしょうし。
 ファミコン・スーパーファミコンの場合は、後継機が上位互換を持っていないために、前世代機を作り続けなければならなかったという面もあるのでしょう。

 それにしても、僕にとっては、ファミコンの登場は衝撃的でした。
 ゲームセンターそのままのテレビゲームが家でできる、というのは、夢のような話で。
 しかも、カセットを入れ替えることによって、いろいろなゲームができる。
 ファミコンは、今のプレステ2やゲームキューブに比べたら、グラフィック・サウンドともに貧弱で、ゲーム自体も単純なものが多かったのです。
 でも、当時のファミコンのゲームには、今のプレステにはない、新鮮な驚きがあったような気がするんですよね。
 こんな綺麗な絵が描けるのか!とか、こんな音楽が鳴らせるのか!とか、こんなアイディアのゲームがあるのか!っていう。
 現在のように、ゲーム機の能力が飛躍的に向上してくると、ゲームで遊ぶ側としても「このくらいはできて当然」というような気持ちになることが多くなり、ゲームで新鮮な驚きを感じられることは少なくなりました。
 CD媒体だから、音楽なんかは、普通のミュージシャンの曲がそのまま流せたりするわけですし。
 ファミコンに比べたら、初代プレステなんて、まだまだ限界は先にあった機種のような印象すらあります。
 
 そういう意味では、ファミコン、スーパーファミコンっていうのは、ゲームの黎明期を支えると同時に、いわば、先駆者として骨の髄まで研究され、使われつくした幸せなゲーム機だったと思います。天寿を全うした、とでも言いましょうか。

 さようなら、そしてありがとう、ファミコン。
 20年間、おつかれさまでした。

 とか書きつつ、無くならないうちに本体をキープしておかなくては、と思う僕。



2003年05月30日(金)
「フリーターは自由だ」という幻想に騙されるな!


共同通信の記事より。

【竹中平蔵経財相は、2003年度の国民生活白書「デフレと生活−若年フリーターの現在」を30日の閣議に提出した。
 長びくデフレと雇用環境の悪化で若年層フリーターが増加。これにより若者は職業能力向上の機会を奪われ、日本経済の競争力が低下。一方で低所得による未婚・晩婚化は「少子化を深刻にさせ、経済成長が制約される恐れがある」と危機感を示し、政府・日銀によるデフレ克服と、雇用拡大策の重要性を指摘。企業が求める人材の高度化、即戦力化に対応し「高校や大学の教育を見直すことも必要」と訴えた。
 白書によると、フリーターの数は1990年の183万人から年々増加し、01年には417万人。学生と主婦を除く15−34歳の若年層人口の21・2%を占め、10年前の10・1%と比べ倍増。特に25−34歳の増加が著しい。】

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 フリーターというのは、結構自由なイメージもあり、若者たちにとっては、あまり抵抗がない言葉のようです。
 好きなときに働いて、自分の時間を過ごす。会社に縛られるなんて、まっぴらごめん。人間関係の煩わしさも少ない。
 そういうのって、なんとなく憧れますよね。

 でも、今30歳を超えた僕からみると、フリーターって、全然魅力がないのです。というか、騙されちゃダメだよ、としか思えない。
 例えば、劇団に所属していて、レッスンを受けるためには、会社勤めはムリだとか、バンドをやっていて、プロになりたくて活動しているため、現在はフリーターとか、そういう目的のための手段としてフリーターをやっている人は、まったく問題ないと思います。
 役者やミュージシャンなどの夢は、大部分の人には叶えることは困難ではあるとしても。
 ただし、「自分が何をやりたいのかわからない」から、とりあえずフリーターとかいう生き方は、あんまり良いものではないんじゃないかなあ、と。

 竹中財務相の発言をよく読んでみてください。
 なんとなく自由なイメージがあるフリーターというのは、裏を返せば、企業にとっては、「とくに人材として育成する必要もない(使い捨てにできる)、福利厚生が正社員ほどちゃんとしていなくてもいい、安い賃金で使える」貴重な労働力である、ということなんです。
 日本全体の少子化傾向なんてのはさておき、いちばん困るのは本人。
 フリーターのまま年を重ねても、特殊な技能が身に付くわけでもなく、給料が劇的に上がるはずも無く、将来の保障や失業保険もありません。もちろん、退職金だってありません。
 もちろん、会社勤め(これは、研修医などの専門職も含めて)なんて、給料は安いし、休みは少ないし、人間関係は煩わしいし、仕事は面倒です。
 でもね、「自分が探している、やりたいこと」って、「誰にでもできる、単純で勉強も修行もしなくて良いこと」なわけないと思いませんか?

 「やりたいことが見つかるまでフリーター」なんていうのは、聞こえはいいけれど、何もメリットはありません。それ以前に、やりたいことを見つける努力もせずに、ある日突然やりたいことが閃くなんてことは、まずありえませんし。
 ミュージシャンだって、いきなりプロを志向したわけじゃなくて、兄弟の楽器や女の子にモテたい!という理由で楽器の練習をしているうちに、それで食べていきたいと思うようになった人がほとんどでしょうし、ある日突然、神のお告げでギタリストになった、なんて人は、あまりいないのではないでしょうか?

 まあ、フリーターとして仕事をしているうちに、その仕事に興味が出てきたりすることはあるんでしょうけれど。

 会社勤めや専門職だけが人生だとは思わないけれど、なんとなくフリーターをやって自由に生きている、と自分では思っていても、裏を返せば、企業に便利な労働力として利用されているだけ、ということは、覚えておいて損はないと思います。
 この御時世ですから、仕方なくフリーターやってる人ばっかりだとは思うし、会社勤めだって、必ずしも安泰とはいえないんだけど。

 自由にさせてもらえる人生、っていうのは、意外とつまらないものですよ、きっと。



2003年05月29日(木)
なんとなく不安な、カレー専門店のカレーうどん。


中日新聞の記事より。

【カレーの専門店を全国展開する壱番屋(愛知県一宮市)は28日、カレーうどん専門店「麺屋黄粉壱(めんやここいち)」を新たに出店すると発表した。1号店は一宮市本町に31日に開店。当面は1店舗だけで客の反応を見ながら、その後の展開を検討する。

 現在のカレー専門店「CoCo壱番屋」でもカレーうどんを取り扱っているが、従来のカレーソースを改良し「普通」と、牛乳の分量を多くして口当たりを良くした「まろやか」の2種類の味を提供する。価格はカレーうどんが650円から。月間売り上げ300万円を見込む。】

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 最近、カレーうどんを食べた記憶がありますか?
 僕は、辛うじて思い出せるのが、大学時代に買い物に出るのが面倒で家にあったうどん玉とボンカレーで作って食べたことくらいで、それももう、10年くらい前の話です。

 子供の頃は、今みたいにカレーが自由に食べられるような時代じゃなかった(まあ、子供の場合、メニューの選択そのものが自力でできないことが多いのですが)ので、カレーうどんというのは、非常に魅力的なメニューでした。
 うどんを食べながら、カレーも楽しめるわけですから。
 でも、やっぱり、カレーはカレー、うどんはうどんの方がいいかな、という気もしていたんですよね。カレーうどんって、カレーライスのカレーより、やや粘り気が少ないカレーソースの中にうどんが浸たっているわけなのですが、普通に食べていれば、どうしても先にうどんが無くなって、後にはカレースープだけが残ります。これがなんだか気持ち悪くって。
 カレーライスなら、自分でカレーの残量とご飯の残量を調整して食べられるのに。
 スープとして作られたカレーですから、ちょっと薄味ではあるのですが、そのまま飲むのはなんとなく行儀が悪いし、残してしまうのももったいないし。
 ご飯持ってきてくれないかなあ、などと思ったものです。
 僕にとっては、なんとなく居心地が悪い食べ物で。

 今でも、その名残か、うどん屋でカレーうどんを食べている人をみると、なんとなく変わった人のような気がしてしまうんですよね。

 ところで、「CoCo壱番屋」のカレーうどんなんですが、僕はちょっと危惧しているのです。
 もちろん、手間暇かけて作った専門店のカレーは美味しいのですが、それが、カレーうどんという食べ物にマッチしているかどうか?
 よく、カツ丼のカツは、あんまり立派な(専門店のような、肉厚でカラッと揚げられているような)ものより、肉が薄くてコロモがベッタリしているようなものの方が美味しい、とか言いますよね。もちろん、100%その限りではない場合も多いのですが。
 むしろ、ちょっと薄めのチープなカレーのほうが、カレーうどんには合っているような気が、僕にはするんですよね。勝手な思い込みですが。
 「豪華ロースカツカレーうどん」とかだったら、うどんが負けてしまって、やっぱりご飯が欲しい、というような結論になってしまいそう…

 高級カレー+高級うどんという組み合わせが、必ずしも1+1=2の美味しさとは限らないのが、食べ物の難しいところなのです。



2003年05月28日(水)
アイフルの犬「くぅ〜ちゃん」来場!


「九州ウォーカー2003.No12」の記事「今どきペット事情まるかじり」より。

【くぅ〜ちゃんが来る!!
  イベント両日とも「くぅ〜ちゃん」が来場。朝11:00、昼1:00、3:00の3回のステージでは質問コーナーもある。写真集を買うとサイン(足型スタンプ)を贈呈。各日先着50名限定】

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 くぅ〜ちゃんをご存知でしょうか?
あの「アイフル」のCMでお父さんをウルウルとしたつぶらな瞳で見つめるチワワ犬の名前です。今とにかく大人気で、写真集まで出るとか。
 確かに、かわいいですよね、あのチワワ。お父さんが、アイフルで借金してまで貢いでしまう気持ちもわからなくはないくらい。
 これは、福岡で行われるペットのイベントの告知の一部なのですが、このくぅ〜ちゃんが、来場するらしいのです。
 しかし、人間ならともかく、犬の場合、ホンモノかどうかなんて、わからないような気もします。かの有名な「名犬ラッシー」は、撮影中に何代もラッシーが入れ替わっていたらしいですし。実はくぅ〜ちゃん、何匹もいたりして…
 もちろん、ハスキー犬を連れてきて、「くぅ〜ちゃんです」なんていうわけにはいかないでしょうが。
 それにしても、このイベント、質問コーナーってすごいですよね。
 バウリンガルとか使うのかなあ?
たぶん、飼育係(プロダクションの人?)が代わりに答える形式かな。
足型スタンプのサインも凄い。

まあ、くぅ〜ちゃんにとっては、どんなに人気者になっても、餌が良くなるくらいのもので、かえってストレスが溜まるだけなのかもしれませんが。

ちなみに、あのCMのおかげでチワワが今、大人気!
相場は30万円前後だそうです。
餌代もありますし、確かに、そう簡単に買える値段じゃないですよね。

ど〜する、アイフル?! 



2003年05月27日(火)
それでも、「福岡ダイエーホークス」にこだわる理由。


毎日新聞の記事より。

【福岡ダイエーホークスの売却案が浮上し、地元自治体や経済界による市民球団化の希望が出ていることについて、山崎広太郎・福岡市長は27日の会見で「ないでしょう。お荷物は球団ではなくドームだ」と否定した。

 市長はダイエーの福岡事業について「オーナーが変わることはファンが喜ばないし、ダイエーの経営的にもマイナス。今の体制でやってもらえることがベストだ」と述べた。また、ドームの市営球場化についても「試合のない300日間の使い道を考えるのは市役所が一番不得手なことだ」と全面否定した。

 球団売却について、ダイエーは引き続き保有する意向を示しているが、主力取引銀行は球場やホテルの売却額を高くするために球団も入れて売却する方が有利とみて、交渉を続けている。】

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 地元福岡では、球団(ダイエーホークス)・球場(福岡ドーム)・ホテル(シーホーク)の3つを合わせて「3点セット」と呼んでいます。
 基本的にこの3つは、切っても切れない関係にあるんですよね。
 ダイエーの「福岡事業」の象徴的な存在であるわけで。
 市長は「ダイエーがやってくれるのがいちばんいい」と言っているわけなのですが、実際、市民球団化となると、いろいろ制約が出てくるのも事実。
 僕は広島カープのファンなのですが、カープは日本のプロ野球界では、数少ない独立採算制をとる、黒字経営の球団です。しかし、今の日本のプロ野球界で「黒字である」ということは、裏を返せば「金をかけた補強が積極的にできない」とか、「FA制度やドラフトで、お金や人気のあるチームに良い選手が流れてしまう」ということになるわけです。ホームゲームを相手チームの地元の近くでやったりとか、ファンとしてはちょっとなあ…と思う状況。
 ホークスも、市民球団で独立採算となれば、赤字を垂れ流すわけにはいかないでしょうから、強いチームを造るには厳しい状況になるでしょうし。

 博多の街には、西鉄ライオンズが本拠地を首都圏に移していらい、ずっとプロ野球の球団が無い時代が長く、もともと大阪が本拠地だった南海ホークスが福岡にフランチャイズを移して福岡ダイエーホークスになったときには、それはもうみんな喜んでいたものです。
 もともと西鉄ライオンズの影響が強く、ライオンズファンが多かった地域なのですが、本拠地福岡ドームができていらい、チームの強化もあって、いまや福岡の人たちの多くがホークスファンとなっています。
 人口を考えれば、4万8千人収容の福岡ドームが連日連夜満員になるなんてことは、まさに偉業。

 しかし、今のダイエーの経営が厳しいことも事実。先日はローソンの株を手放しましたし、売り手としては売りたくないような商品でないと、買い手がつかないのは当然のことです。
 「赤字なんだけど、ドームとホテルだけ買って」とか言われても、やっぱり買い手としては納得できないでしょう。
 野球チームがあってこそ、ドームやホテルの稼動がある程度保証されるわけですし、宣伝効果としては野球チームに名前が付いているというのは、ものすごいことです。スポーツニュースで、一日に何回「ダイエー」のという言葉が繰り返されていることか。

 まあ、冷静に考えれば、オーナーが変わって、チーム名が変わっても、球団がちゃんと地元に残ってくれればいいんでしょうけど、「野球チームが無かった時代」を長く経験した博多っ子たちにとっては、やっぱり不安になってしまうんでしょうね。
 広島ファンからしてみれば、今のホークスファンの熱気と観客動員があれば、「誰がオーナーでも、わざわざ他所の都市にフランチャイズを移すバカはいないだろうけどね」とか思うのですが。
 
 いっそのこと、こんなに毎年「経営不安説」が流れるオーナーなら交代したほうが選手も安心できるような気がするけれど、地元の人たちは、けっこう「福岡に来てくれた」ダイエーに恩義を感じていたりするのです。

 それが経営改善に結びつかないのが、難しいところなんだけど。 



2003年05月26日(月)
中島らも被告、有罪!でも…


毎日新聞の記事より。

【大麻を所持したとして大麻取締法違反の罪に問われた作家の中島らも=本名・中島裕之(ゆうし)=被告(51)に対し、大阪地裁は26日、懲役10月、執行猶予3年(求刑懲役10月)の有罪判決を言い渡した。西田真基裁判官は「発達段階の少年少女から支持されており、読者に与える影響は軽視できない」と述べた。

 判決によると、中島被告は今年2月4日、兵庫県宝塚市の自宅で、大麻約6.5グラムを所持していた。西田裁判官は「執筆活動でギザギザになった精神を癒やすために大麻に依存するようになった」と動機を指摘した。

 中島被告は兵庫県出身。コピーライターを経て作家になり、テレビ出演や劇団を主宰するなど多彩な分野で活躍。92年に小説「今夜、すべてのバーで」で吉川英治文学新人賞を受賞。直木賞候補にも3回なった。】

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 中島らも被告、有罪!
 とはいうものの、執行猶予付きの判決、ということで、ファンとしてはやや安心しました。とりあえず、今の状態で(けっこう精神的にボロボロみたいなので)刑務所に入らなくて済んでよかったなあ、と。
 もちろん、あくまでも「執行猶予」ですから、その3年間に再犯しないことが条件なのですが。ああ、ちょっと心配です。
 
 麻薬などで捕まった人の場合、社会的に大きなハンディを背負ってしまうことがあります。
 一時期の槙原敬之さんがそうだったそように、どうしても、「反省ソング」みたいなのを作ってしまって、ファンからは「うーん、コレも何か違うよなあ…」とガッカリされてしまう。
 それでも彼は「世界に一つだけの花」に辿り着いたわけですが。

 らもさんの場合も、あんまり清く正しい小説やエッセイを書き始めたら、今までのファンは、がっかりしてしまうのではないでしょうか。
 とはいえ、執行猶予の身で、大っぴらに麻薬ネタを書くのもどうかなあ、という気もしますし。
 
 実際は、各出版社が既に「獄中記」の争奪戦をしているのかもしれませんが、まあ、少なくとも躁鬱が少し落ち着くまでは、ゆっくり休養してもらいたいなあ、と切に思います。
 
 大麻擁護運動は、窪塚君という優秀な後輩にしばらく任せておいて。

 窪塚洋介の発言を聞いていると、彼も、らもさんの著作を読んでいると思うんだけどなあ、絶対。のんちゃん大阪だし。
 そういえば、この裁判官も、けっこうらもさんに優しい言葉をかけているような気がするのは、僕だけでしょうか?

 そんなにボロボロになるのなら、書かなければいいのに、とか、歌わなければいいのに、というのは、たぶん凡人の考え、なんでしょうが。

 らもさんの愛しているもの、大麻、酒、小説、音楽、演劇、恋愛。
 それはたぶん、人類共通の娯楽であり、キケンな依存性を持つもの。
 何が違うかっていうと、法律で禁じられているかどうかと他人に迷惑をかけるかどうかだけなのかなあ、などと思ってみたりもするのです。



2003年05月25日(日)
「歴史を創ること」に取り憑かれた男の悲劇。


共同通信の記事より。

【旧石器発掘ねつ造問題で検証していた日本考古学協会の調査研究特別委員会(委員長・小林達雄国学院大教授)は24日、東京都内で開いた協会の総会で、東北旧石器文化研究所の藤村新一・前副理事長(53)がかかわった9都道県の計162遺跡でねつ造があり、前・中期旧石器時代(3万年以上前)の全遺跡を無効とする検証結果を発表した。
 2000年11月の問題発覚から2年半、考古学界を揺るがし教科書書き換えにまで発展したねつ造問題はこの最終報告で学術的に決着した。
 報告によると、藤村氏が関与した遺跡は最大186カ所あり、このうち178カ所で検証が終わった。159カ所は遺跡そのものがねつ造で、学術的価値を否定。3カ所は何らかのねつ造があった。残りは明白なねつ造は確認されなかった。】

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 とんでもない人がいたもんだなあ、と思うと同時に、学会というものの検証機能そのものにも疑問を投げかける事件でした。
 それにしても、この捏造をやった人は、「どんな場所に行っても、この人が掘ると遺跡が出る」と言われていたそうで、いくらなんでもそんなことはないだろう、と誰も思わなかったのでしょうか。
 
 しかし、この事件で僕は、もうひとつ感慨深かったことがあるのです。
 それは、僕たちが「歴史的事実」だと信じていることって、本当は、ものすごく細い糸の上に乗っかっているんじゃないか、ということ。
 おおまかな歴史の流れそのものは、そんなに外れてはいないのかもしれないけれど、古代史は現代史のようには、いろいろな角度から検証することは難しいと思います。
 要するに、誰かの書いた落書きみたいなものが「信頼するべき歴史的資料」として伝えられているのではないか、という可能性もあるわけで。もっとも、「落書き」ができる身分の人そのものが、古代には少なかったのかもしれませんが。
 あるいは、フィクションが広まっていくうちに、いかにも歴史の事実のように信じられていることだって、ありえるわけで。
 
 結局、歴史というのは100%正確な事実ではありえないのでしょうね。
 人それぞれの過去の記憶が、時間とともに自然に変化してしまうのと同じで。
 
 しかし、この藤村氏、ある意味、織田信長や坂本竜馬と同じくらい「歴史を変えた男」なわけですよね。
 前漢の歴史家司馬遷は、宮刑という男根を切り取られる屈辱を受けてまで「史記」の編纂に生涯を捧げたわけですが、「記録する」ということも、ある意味、歴史を創るということなのかもしれません。現代の報道と同じで、史家の伝え方によって、歴史的な評価が変わってしまうことはありえるわけですから。
 捏造なんてやめてもらいたいけれど、それが魅力的な行為だというのは、なんとなくわかるんだよなあ。
 もちろん、それをやらないのが、真のプライドなんでしょうけど。



2003年05月24日(土)
「純粋なるもの」を知るということ。


「美味しんぼ〜歴史が創る味!伝統の和菓子編」(小学館)のコラム『美味しんぼ塾・第六十講・和菓子』(雁屋哲・著)より。

【「嘯月(しょうげつ・和菓子の名店)」の餡作りを見学してつくづく思い知ったことがある。純粋な味がどんな物か知らなかったら作りようがない。純粋な味を知っているから不純な物をどんどん削り落として行く。これが和菓子、ひいては日本の文化の真髄だと悟った。】

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 僕の知り合いに、けっこう水の味にうるさい人がいます。
 一緒に食事に行くと、「この店の水はおいしくない」と呟いたりされるのは、あまり気分のいいものではないのですが。
 しかし、水の味がこんなに話題になってきたのは、世間に「おいしい水」というのがあると理解している人がいるからなんですよね。
 生まれつき同じ水を飲み続けていれば、美味しいとか不味いとかは、あまり考えないはずで。まあ、その時々のコンディションによって、美味しく感じたり、不味く感じたりすることはあるかもしれないけれど。

 こういうのは、食べ物のことに限らず、音楽をやる人や文章を書く人にとっても、とても大事なことなのではないかなあ、と思うのです。
 もちろん、自分の感性で凄い作品を作り上げられるひともいるのかもしれませんが、やっぱり、「基準となるもの」としての名盤や名作を知るというのは、多くの人にとって必要不可欠なこと。
 「純粋な味」というのを知っているからこそ、それに近づけたり、それをアレンジしたりすることが可能であるわけで。

 でも、僕は、こんなことも思うのです。
 この世に「完全に純粋なるもの」なんて存在するものなのだろうか?と
 食べ物にしても芸術にしても、「純粋であるもの」という評価を受けているのは、あくまでも多くの人に好まれた、という結果でしかないのですから。
 絶対的に純粋なもの、なんていうのは、ありえないんじゃないかなあ。

 よく「純粋な人」というけれど、実際、僕は「純粋な人」に会った記憶というのはありません。
 世間的には、スレてない人、他人を信じやすい人、なんてのが「純粋」と言われているようなのですが(もちろん、そういう人はたくさん知ってますけど)、それがなぜ「純粋」なのか、いまひとつ、しっくりこないのです。
 「純粋になろう」とした時点で、それはすでに不純な感じ。

 結局、「純粋」の基準というのは、時代によって移り変わっていくものなのでしょうし、生まれた瞬間の赤ん坊以外に、「純粋なる人間」なんていないのかもしれません。
 
 まあ、「純粋なるもの」には生きにくい世の中ですしね。



2003年05月23日(金)
能登市長、スカイダイビングをやる勇気があるのなら…

毎日新聞の記事より。

【石川県輪島市で24、25日に開かれる能登空港開港記念行事で、同市の梶文秋市長(54)が高度約1000メートルからのスカイダイビングに挑む。7月の開港で東京往復便が就航。地域活性化への期待も大きく、地元自治体は搭乗率70%以下なら航空会社に補てんを約束する力の入れよう。】

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 地方空港の形骸化が叫ばれている昨今、また、新しい空港が誕生します。
 石川県輪島市の能登空港は、2003年7月7日の七夕に開港予定。
 しかしながら、能登ー羽田便一日2往復からのスタートで、採算性については、疑問視されているのが現状です。

 僕は九州出身なのですが、平成10年7月、九州に佐賀空港という新しい空港がが開港したのです。開港前から「よほど近くに住んでいる人しか乗らないのではないか?」と地元の人ですら言っていたのですが、蓋を開けてみれば案の定、搭乗率は大苦戦を続けているのです。実際、佐賀市から福岡空港までは、特急を利用すれば1時間強くらいで着いてしまいますし、福岡空港のほうが便数が多くて便利だという意見が多い。佐賀空港には、無料の大駐車場などのメリットもあるのですが、いろいろな便との接続や空港までのアクセスなどを考えると、開港前の見通しは甘すぎたと言っていいでしょう。
 だいたい、そこまでして空港を造る必要性があったのか、疑問で仕方ありません。むしろ、熱気球大会の規模が小さくなったことが残念に思えるくらい。
 大部分の人は、地元の空港よりも、便利で大きな空港を使いたがるのは自明の理なのでは。

 「自分の県に空港がないのは恥ずかしい」なんてのは、実は不条理な発想なのではないでしょうか?
 空港は、確かに便利かもしれませんが、日常生活においては騒音も大きいし、危険だってあります。それに、電車の駅ならともかく、そんなに日常的に空港を使う人間が沢山いるとは思えません。とくに田舎では、ね。
 
 さて、能登空港ですが、開港によって、東京に行くのにかかる時間が、今までより2時間〜2時間半短縮されるそうです。
 でも、考えてみてください。それこそデータの見せ方で、一日中好きな時間に乗れるのなら、確かにそれだけ時間が短縮されるでしょうが、一日2便だけの空港では、そのダイヤに都合を合わせないといけないのですから、便数が多い空港に比べたら、時間短縮のメリットは、実際はそんなに長時間ではないでしょう。飛行機は、荷物検査とか搭乗時刻とかもありますし。

 市長もスカイダイビングするくらいの勇気があるのなら、こういう空港のありかたについて、もっと勇気を持って判断すればいいのに。

 田舎にとっては、むしろ、空港なんてやっかいなものは、大きな県に任せておいて、そこまでのアクセスを整備してそちらを利用するほうが、はるかに合理的だと思うのですが。造るのがタダならいくらあってもいいかもしれませんが、そこで生じる赤字を負担するのは、ほとんど空港を利用することのない人々なんですから。
 現在では「ムダな空港を造らない県」のほうが、「赤字空港を抱えている県」よりも遥かに自慢できることなんじゃないかなあ。

 
 
 




2003年05月21日(水)
医者でも、好きな薬をいくらでも処方できる訳じゃない。

毎日新聞の記事より。

【兵庫県宝塚市立病院の皮膚科の男性医師(40)が、カルテを不正に書き換えるなどして向精神薬「リタリン」約5900錠を入手し、大量に服用していたとして、同市は20日付で医師を懲戒免職処分にした。近畿厚生局麻薬取締部などは、医師が薬を第三者に渡した向精神薬取締法違反の疑いもあるとみて捜査している。】

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 リタリンというのは、もともとうつ病の薬なのですが、乱用による依存が90年代後半から非常に増えており「病院でもらえる覚せい剤」とまで言われているのです。もちろん、うつ病の患者さんにとっては、非常に有用な薬であることは間違いないのですが…

 それにしても、こういう記事を読んで思うのは、「いったいどうやって、5900錠もの薬を処方できるんだろう?」ということなんですよね。
 世間のイメージとしては、医者はどんな薬でも処方し放題、なのかもしれませんが、普通の病院では、医師が書いた処方箋は薬剤師・医療事務の人を通さないと薬は患者さんの手には渡りませんから。
 個人病院などでは、少しはチェックは緩いのかもしれないけれど(ただし、異常な処方内容については、保険に通りませんから病院としては大損になってしまいます)、市立病院、しかも皮膚科の医師ということであれば、5900錠というのは、医者だとしても「どうやって手に入れたのだろう?」という感じです。
 とくに公立病院では、薬の管理は一勤務医がどうこうできるようなものではないですし。実際、僕たちも大学勤務などのときは、よほど具合が悪くないと自分の薬を処方してもらうのも(自分で自分の薬は処方できませんから)大変だったため、市販薬を買ったりしていたものです。
 
 医者だからといって、いくらでも好きな薬が処方できるわけでもないはずなのですが、いったいどうやってそんなにたくさん、しかも自分の専門外の薬を入手できたのか、同業者でありながら、不思議でなりません。
 本人も鬱で、中毒になってしまったのかもしれないけれど、いくらなんでも6000錠は多すぎるし、どうやって今までやってきたんでしょうか?




2003年05月20日(火)
朝青龍よ、播磨灘を目指せ!


サンケイスポーツの記事より。

【横綱朝青龍(22)がモンゴルの先輩、旭鷲山(30)に引き落とされて初黒星。敗戦後、土俵上で相手にガンを飛ばし、支度部屋でも暴言を繰り返した。街のけんかのようなシーンの主役となった横綱に、北の湖理事長(元横綱)も不快感をあらわ。「横綱失格」といわれても仕方のない狼籍に、非難の声が爆発した。

 神聖な土俵で、街のけんかのようなシーンが現出した。

 シーン(1) 仕切り制限時間いっぱいの立ち合いでじらす旭鷲山に突っかけて、思いきり突き飛ばした。もんどりうって仰向けに倒れた旭鷲山。朝青龍は取組後、「手をなかなかつかねえんだよ、アレが」と吐き捨てた。

 シーン(2) 2度目に立った後、旭鷲山の突きが顔面に入り、カッとなって前へ。しかし、土俵際で旭鷲山がヒラリと飛んで体をかわすと、前へバッタリ。その瞬間に左手で蛇の目の砂を指さして「足が出てるだろ」と審判員にアピールした。

 シーン(3) 敗戦後、互いに二字口に戻る際に左肩がぶつかると、冒頭のガン飛ばしだ。さらに自らの"さがり"を勢いよく取り外しざま、旭鷲山の左腕をバシッ。礼もそこそこに土俵を後にした朝青龍は、支度部屋の風呂に入って「チクショー!!」と叫んだ。

 連続優勝を飾った初場所後の横綱審議委員会で満場一致で横綱昇進が決まったが、その際に「態度が悪い」とヤリ玉にあがり、「品格がないようだと降格させてもいいのでは」との声まで出た。その課題であった「品格」が改めて問われる暴挙。北の湖理事長(元横綱)は「横綱というものは負けたときこそ、悔しさを抑えなければいけない。あの態度はよくない」と猛省を促した。

 朝青龍は支度部屋で不敵な笑みを浮かべ、「来場所は張り返す。今度からはたくやつは罰金だ。そんなことするから相撲がつまらなくなるんだ」とまくし立てた。

 過去にも品格を問われた横綱はいた。戦前に活躍した玉錦は、けんかが絶えず、協会幹部を日本刀で襲ったこともあった。初場所で引退した貴乃花も、巡業先で高校生を張り飛ばして問題になった。しかしその後、2人は心身を充実させ、玉錦も貴乃花も「大横綱」と呼ばれる力士に成長した。朝青龍はまだ22歳。日本、モンゴル両国の期待を一身に背負うだけに、周囲の適切な助言を受けて成長を信じたいが…。】

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 神聖なるはずの横綱の狼藉行為に、非難轟々、といった雰囲気のようです。
 朝青龍の今回の行為は、確かに乱暴ではありますよね。プロレスじゃないんだから、場外戦は、あんまり行儀の良いことではないでしょう。
 しかし、横綱の品位、と言いますが、さて、そんなに品位が要求されるものなんでしょうか?
 玉錦の「日本刀を持って、協会幹部を襲撃した」なんて話は、いくら戦前の話とはいえ仰天ものですが(貴乃花の話は、高校生も悪いと思います)、過去の横綱がすべて人格者かと言われると、僕は首をかしげまくってしまいます。
 有名どころでは、引退後迷走しまくっている花田勝こと若乃花や、もはや相撲史から、SMAPの森さんのように抹殺されている北尾こと横綱双葉黒(この人は、おかみさんを殴って相撲界から去ってしまったのです。これでも横綱か!、というより、大人失格という感じなんですが)など、トンデモナイ横綱というのは、けっこういるんですよねえ。
 少なくとも、土俵の上のことだし、双葉黒より3億倍くらいマシ。それに、そんな横綱を選んだということに対して、相撲協会が責任を取ったという話も聞いたことがありませんし。
 それに、「モンゴルの先輩に対して失礼」というのも、モンゴル人力士をみんな一まとめににてしまおうという日本人の思い込みなんじゃあいかなあ、と。
 逆に、同じ国の人に負けると悔しい、という人もいるでしょうし。

 「ああ、播磨灘」というマンガをご存知でしょうか?
 あのマンガは、主人公の横綱・播磨灘がケタ外れの強さと常識破りの破天荒な行動(マスクをかぶって入場してきたり、倒した相手を蹴飛ばしたりするのです)で、相撲界を震撼させながら連勝街道を突き進んでいく、というストーリーなのですが、ムチャクチャやっていても、播磨灘は、なんとなく「聖なる」イメージがあったんですよね。
 僕が、あのマンガを読んでいて思ったのは、やっぱり力士が「神聖な存在」であるのは、「強いから」だと思うのです。何者にも打ち勝つ、圧倒的な力、それこそが、古来力士、ことに横綱を「聖なるもの」たらしめてきた原動力なのではないでしょうか。

 そう考えると、朝青龍に「品位」を要求するよりも「なにものにも動じないくらい強くなる」というのが、より相撲の本質に近いのではないかと思います。
 
 どうせだったら、朝青龍にもマスクかぶったり、テーマソング流したりして、悪のロマンを追求してもらいたい気もするんですけどね。

 悲しいことですが、最近の相撲界でもっとも大きく取り上げられたのがこの話題なのは、間違いないことですし。 



2003年05月19日(月)
SARSが広める、もう一つの眼に見えない恐怖。


共同通信の記事より。

【「ほかの客の安全を考えて、台湾や中国をはじめ、欧米からの客も受け入れない」。18日、新型肺炎(SARS)と確認された台湾医師の宿泊先として名前が公表されたホテルはそろって台湾などからの「旅行者お断り」を決め、拒否の対象を外国人すべてに広げるホテルも出てきた。
 医師が8、9両日宿泊した大阪市天王寺区の都ホテル大阪は「台湾には積極的に営業活動してきたが、客の不安をぬぐうため」と台湾、中国、香港からの宿泊者拒否の理由を説明する。
 キャンセルは宿泊、宴会、レストランを合わせて約2300人、総額2043万円に上るが、大阪市にはホテル名を公表していいと伝えてきたという。ただ「2次感染の可能性も低く、衛生面も問題ない」として、営業は自粛しない。
 「外国人お断り」は医師が11日に宿泊した小豆島グランドホテル水明(香川県・小豆島)で、21日まで営業を停止している。】

〜〜〜〜〜〜〜

 ついにSARS日本上陸!しかも、持ち込んだのはよりによって台湾の医師。
 半ばパニック状態になっているSARS上陸騒動なのですが、正直、SARSが上陸しないはずがないのではないか、と僕は思っていました。
 今現在の日本の防疫体制は、空港での体温チェックと問診のみ。
 日本に着いたときに自覚症状がない人や、この台湾人医師のように解熱剤を使ってしまっていたりする場合には、引っかからなくても、全然おかしくないんですよね。
 しかも、これだけ海外との人間の交流が多くなり、さらに不可欠になってしまっている現在、感染者を水際で食い止めることができるほうが、よほど幸運なことではないかと。
 もちろん、空港でできる防疫には、限界があるというのはよくわかるのですが…
 しかし、この医師は、SARSが発症している病院で働いていたそうで、自分にも感染のリスクがあるということは、充分に理解できそうなものなのですが…
 それでも、自分は違う、と考えてしまいがちなのが人間なんでしょうね。
 知識があるはずの人だけに、なぜ?と感じてしまうのですが。

 それにしても、このホテル側の対応は、僕はちょっと不安なのです。
 「中国・台湾・香港からの旅行者お断り」ということにはしても、「2次感染の可能性も低く、衛生面も問題ない」として、ホテルの営業は自粛しない、というのは、矛盾している気がするのですが。確かにホテル側は被害者ではあるのですが、これでは、このホテルそのものが2次感染源となる可能性は否定できないと思います。
 まあ、それ以前にこのホテルに泊まるお客さんは激減してしまうでしょうけど。

 さらに「外国人お断り」というホテルに至っては、何だそれは?という印象しか受けません。
 感染地域だけ(それでも、かなり差別的ではあると思いますが)の排除のみならず、外国人は全部ダメ、なんていうのは、まったくもってナンセンスな発想。
 自分がアメリカで「中国に近い国だから泊まるな!」とか言われたら、どんな気持ちになるでしょうか?
 以前「SARSが流行しているから」という理由で、当時は全くSARSが発症していなかった日本での試合を見合わせた、サッカーのポルトガル代表の話があって、僕はそのとき、「ヨーロッパからすれば、中国も日本も似たようなものなんだな」と思ったのですが、このホテルからすると、「日本の外は、みんな同じ」だということのようです。こっちのほうが、はるかに凄い発想。
 空いてるから、という理由で、この時期にUSJに遊びに行っている日本人もたくさんいるっていうのに。

 この病気そのものも恐ろしいのですが、SARSによる不可思議な差別意識への感染にも、僕たちは注意することが必要だと思います。
 病気は病気、人間は人間。



2003年05月18日(日)
医者の肘かけ椅子と患者の回転椅子。


「医人岳人―脇坂順一聞書」(荒木久著・西日本新聞社)より抜粋。

75歳にして海外高峰百登頂を達成し、医者としてだけでなく、登山家としても有名だった医師・脇坂順一さんへのインタビューから。

【一時は、こちらが座っていた肘かけ椅子と患者さんの回転椅子を取り換えたりもしました。奉仕の精神をさっそく実行しようとしたのですが、これは背中を聴診するときにやはり具合が悪い。で、また元に戻しました。
 要は治療の姿勢に奉仕の精神がこもっているかどうかで、これはその後も、ともすれば緩みがちな治療の態度にどれだけ力になってくれたか分かりません。】

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 確かに、一般的なサービス業では、お客さんより店の人が立派な椅子に座っている、ということは、まずありえないわけで。
 なんかちょっと申し訳ないなあ、と思っている医者はけっこういると思うのですが、実際に取り換えてみた、という話ははじめて聞きました。
 確かに、背もたれがある椅子だと、背中を聴診するときに、患者さんに逆向きに座ってもらったりするのは、かえって大変ですよね、なるほど。まあ、実際にやる前にわかるんじゃないか、という気もしなくはないですが。
 それに、何も医者が回転椅子に座らなくても、両方楽な椅子に座ればいいのではないかと。ちなみに、精神科のカウンセリング等の状況下では、比較的医療者も患者さんもリラックスできるように楽な椅子を使われていることが多いようです。
 まあ、効率を考えて、ああいう椅子になっている、ということなのですが、回転椅子にしても、もうちょっといい椅子でもいいんじゃないかなあ、と僕は思ってしまうのですが。
 座れないくらい具合の悪い患者さんは、ベッドに寝ていただく、ということなんでしょうか。
 
 でも、こういうふうに「形から入ってみる」という姿勢が、本当はすごく大事なのかもしれませんね。やってみる前から「そんなの診察しにくい」と決め付けてしまうよりは。
 
 しかし、僕も患者として歯医者などの病院に行くことがあるのですが、病院って、あんまりサービスが良すぎると、かえって気持ち悪いような感じがするのも事実。
「こんなに丁寧で、何かたくらんでいるのではっ!」なんて。
「〜様」とか呼ばれたり、すごい敬語を使われたりすると、なんだか不安。
病院で『いらっしゃいませ!』とか言われたり、割引サービスとかあったら、かえって怖い。
まあ、医者が立派な椅子に座っているのは、「自分を診る人間は、立派な人であってほしい」という患者さんの希望も反映されているのかもしれません。

 それに、ずっと座って外来やってると、けっこうお尻にコタエルんですよねえ。



2003年05月17日(土)
「絶望」さえも愛するということ。


【「九州ウォーカー」に載っていた、森雪之丞さんの著書『絶望を愛した38の症例(サンプル)』(角川文庫)の宣伝コピー

「人を愛することは
  つまり
 絶望さえも愛すことなのだ」】

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 確かに、楽しいことだけしか受け入れられなければ、人を「愛する」なんてことはできませんよね。誰かを愛そうとすれば、当然、それが受け入れられなくて辛い思いをすることもあるでしょう。
もし2人の関係がうまくいったとしても「喜びは2倍、悲しみは半分」とか言いますが、相手の悲しみを共有すると考えれば、けっして「悲しみは半分」とは言い切れないところもありますよね。
 本来なら関係ないはずの他人の悲しみまで共有しないといけないわけですから。
 
 それに、どんなに素晴らしい人間関係においても、「別れ」は不可避です。
どちらかが「別れ」を選択しなくても、最終的には自分、もしくは相手の死によって、「終わり」はやってきます。

 そういう「絶望」が、いつかやってくることを知りつつも、人間は「愛すること」から逃げられないのですよね。

 世の中には、どう考えても「人と愛する」よりも「絶望している自分を愛している」んじゃないかと思われる「恋愛依存症」の人もいるわけなのですが。



2003年05月16日(金)
もし自分が浮気される立場になったら?


報知新聞の記事より。

【女優・大竹しのぶ(45)、黒木瞳(42)、深津絵里(30)、深田恭子(20)が4姉妹役で競演する映画「阿修羅のごとく」(森田芳光監督)の製作発表が15日、東京・砧の東宝スタジオで行われた。

 故向田邦子の代表作を映画化。父親に浮気と隠し子疑惑が持ち上がり、ふだんは性格も考えも異なる4人の姉妹が団結して母親に気づかれないで解決しようと奔走するストーリー。

 「もし自分が浮気される立場になったら?」の質問に大竹が「若いころは許せなかったのが、徐々に考えが変わってきた」と言えば、黒木は「離婚します!」。未婚組の深津は「何にもしない」と答え、深田は「(浮気は)される方が悪い」と返すなど“4姉妹”さまざまの考えを展開。共演は小林薫、中村獅童ら。】

ちなみに、「浮気」について既婚女性の立場から述べた、こんな文章をネット上で見つけたのでご参考までに。
参考リンク「プライドをお持ちなさい」(「われ思ふ ゆえに…」5/16)

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 「浮気されたらどうしますか?」というのは、すごく考えさせられる質問ですね。それにしても、この4人の芸能人の感想は、それぞれ個性を感じさせてくれるもので、興味深いものではありますが。
 深津さんの「何もしない」というのが、本当は僕としては非常に気になるのですが(本当に「何もしない」ことが可能なんでしょうか…謎だ)、深津さんを除くと、浮気に厳しい方から、黒木瞳>大竹しのぶ>深田恭子、という順番、ということになるんでしょうね。印象的には。

 でも、実際問題として、僕の恋人などは「浮気したら怖いよ!」と常々僕を脅すわけなのですが、それが厭かと言われれば、別にそんなことないんですよね。
 「承知しないからね!」と言われると、かえって安心する部分もあるわけです。まあ、妬かれているうちはだいじょうぶかな、と。

 その一方で、深田さんのように「浮気されたら自分が悪い」なんていう「都合のいい女」っぽいリアクションは、かえって男としては困るような気もします。
 「あなたが浮気したのは、私が悪いのよ!」
 「いや、あの、ほんの出来心で…」
 「ううん、悪いのは私。私に魅力がなかったから、あなたがそんな…」
 実際にこんなやりとりになったら、男としては、いたたまれませんよね。
 自分が責められるより、相手が自責モードになったほうが、かえって辛い状況なのかも。
 まあ、関係が修復不可能なら「そうだ、お前が悪い!」で済んでしまうことかもしれないけれど。
 
 それにしても、大竹さんの「年とともに変わってきた」というのは、興味深い言葉です。子供の頃は許せなかった両親の夫婦ゲンカも、自分が大人になって考えれば、まあ、ケンカすることもあるよなあ、と思えるように、人間関係についての見方、感じ方も、少しずつ変わっていくものなのかもしれませんね。

 「僕が浮気をされたら?」って想像すると、今の時点では、たぶん深津さんと同じ「何もしない」と思います。ただ、流れにまかせるのみ。
 怒っても気持ちは戻らないだろうし、好きじゃなくなったものは、仕方がないのかな、と。
 それは、僕が独身で、別れることによるしがらみが、今のところ少ないからなんでしょうが。
 いずれにしても、「不倫は文化だ」と開き直るような人間にはなりたくないなあ。



2003年05月15日(木)
「聖職」と呼ばれる職業の哀しきオキテ。


時事通信の記事より。

【愛媛県教委は14日、校長室からなくなった米大リーグの記念ボールをめぐり、事実確認せずに生徒を疑う発言をしたとして、県内の公立中学校の男性校長(55)を戒告処分とした。
 県義務教育課によると、ボールはバリー・ボンズ選手が通算600号本塁打を達成した試合で、観戦していた校長を含むファンに配布された。校長室に飾られていたが、3月17日、校長が卒業式から戻るとなくなっていた。
 校長は同日夜、卒業生の父母が集まった席で「家の中を探してほしい。見つからなければ警察に通報する」と発言。しかし、ボールは卒業式に出席した同町助役が誤って持ち帰っていたという。】

〜〜〜〜〜〜〜

 なんてひどい校長なんだ!と思いますか?
 僕の第一印象は、先生って大変だよなあ、なのですが。
 どういう状況で、この記念ボールが無くなっていたのかはわからないけど、盗む可能性があるのは、生徒か学校のスタッフか外部から侵入した泥棒。自分で無くしたとか、神隠しだって完全には否定できないですが。

 でも、部屋が荒らされたりしていなければ、泥棒が盗ったとも考えにくいでしょうし、スタッフも疑いにくい。やっぱり、「盗まれた!」と思った際に、普通の人間とだったら、まず疑うのは生徒なんじゃないかなあ、と。こんな御時世ですし。
 でも、こういう場合に「証拠が無いのに(ときには、証拠があってさえも)生徒を疑う素振りをみせてはいけない」というのも、いわゆる「聖職」のオキテなんですよね。
 医者や看護師も、病院で起こった盗難事件では患者を疑えない。
 
 そう考えると、「聖職」なんてのは、けっこう意地と見栄と演技力の職業なのかもしれませんね。
 「信じてるよ!」といささかワザとらしいオーバーアクションをとれるくらいじゃないとダメみたい。
 
 結局、この事件で誰がいちばん悪いかと考えると、勘違いだったにしても、無断で記念ボールを持ち出してしまった町の助役なわけで。
 しかし、いったいどんな勘違いなのか不思議でしょうがないんだけど。
 たぶん、ボンズの600号記念ボールというのは、野球ファン以外の人にとっては、そんなに大事な「お宝」だとは思えなかったのかな。
 実際、鑑定団などに出しても、本物の600号ホームランボールでもない限り、何十万なんて値段がつくものではないでしょうから。
 そういう価値観の違いが、この事件の原因なのかもしれません。

 まあ、「戒告」という曖昧な処分が、この事件に関する世間の本音と建前をあらわしているような印象はありますが。



2003年05月14日(水)
なんとなく中途半端なSPEEDの再結成。


スポーツニッポンの記事より。

【2000年3月に解散した人気グループ「SPEED」が13日、都内で会見し、今秋に解散後初めてとなるライブツアーを行うことを発表した。メンバー4人が勢ぞろいしての会見も解散以来初とあって「正直ドキドキしてます」とやや緊張気味。ツアー開始に合わせて、SPEEDとして、久々に新しいシングルCDを発売することも明かし、「成長した私たちを見せたい」と盛んな意気込みを披露した。】

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 SPEED解散から、もう3年も経つんですね。
 今回の再結成、なかなか感慨深いような、そうでもないような…
 その微妙な心境のひとつの理由は、SPEEDが解散してから、まだ(さっきは「もう3年も経った」とか書いたんですけど)3年しか経ってないんですよね。
 もっとも、2年前の夏に阪神・淡路のチャリティコンサートで一時的に再結成されてますから、実質2年ぶりということなのですが。
 2年前の再結成ライブの際に、テレビの企画でSPEEDのメンバーが神戸の被災地をまわるというのがあったのですが、その際も周囲の雰囲気は微妙なものでした。
 だいたい、SPEEDのメンバーには震災についての知識はほとんどありませんでしたし、町を訪問して「復興したんだねえ」と言うセリフにも、今ひとつ実感が伝わってきません。これは、現実的には、彼女たちのせいではないんでしょうけれど。

 今度は、アジアを中心に貧困などで苦しむ子供たちを支援する「セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン」の活動資金援助を目的としたチャリティー公演だそうなのですが、本人たちとしては、あんまり実感ないんじゃないかなあ。
 
 SPEEDが解散してから、4人はそれぞれソロで活躍してきたのは事実ですが、やっぱり、SPEED時代ほど売れてないのも事実。
 どうも先細りになりがちな活動へのテコ入れという意味合いもありそうですね。

 それにしても、再結成されたグループには、昔のファンが懐古の念にかられるものなのですが、3年前にSPEEDのファンだった子供たちの多くは、今は他のアーティストのファンになっているでしょうし、なんといっても、SPEEDのメンバー自体も、3年前より飛躍的にオトナになってしまっています。
 懐かしさを売りにするには記憶が新しすぎるけれど、この3年の間にファンもメンバーも大きく変わってしまった今回の再結成、はたして、どうなるんでしょうか。
 なんのかんの言っても、結局うまくいくような気もするんだけどさ。



2003年05月13日(火)
免停F1ドライバーにとっての「危険な運転」


ロイター通信の記事より。

【自動車レース、フォーミュラワン(F1)のフアン・モントーヤ(コロンビア、ウィリアムズ)が、スピード違反で運転免許証を押収された。
 フランス警察が明らかにした。
 モントーヤはフランス南部の海岸沿いを愛車のBMWで走行中、白バイの警官に捕まり、その場で免許証を押収されたという。
 フランス国内の制限時速130キロに対し、モンテカルロ在住。
 ただ、F1マシンの運転に一般の運転免許は不要であるため、競技参加への影響はない。】

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 免許が無かったら、F1のレースに出られなくなるのが当然、と思ったら、そうじゃないみたいです。
 サーキットは公道ではないから、というのが、その理由。
 まあ、確かに無免許でF1に乗れるわけも無く、というか、「常人にはエンジンもかけられない」そうですが。
 
 そういえば、以前F1のピットレポートで知られている川井さんの著書に、故アイルトン・セナの車に同乗したときのことが書いてありました。
 セナは、街中を200キロでぶっ飛ばしながら、時々ハンドルから手を離したりして、笑いながら運転していたそうです。川井さんが「危ない!」と思うような場面でも、鼻歌交じりにハンドルを切操作して、常にギリギリのところでスイスイと危険を避けていたとか。
 川井さんは「怖くてたまらなかった」そうですが。

 例えば、外国人は針に糸を通せないなんて聞くと、「なんて不器用なんだ」と思いますよね。
 でも、それを向こうから見れば、あんなに小さいところに糸を通せるなんて、器用だなあ」ということになるでしょう。
 物事に対して「キケン」と判断する基準とか、実際に危険であるレベルは、きっと人それぞれなんだと思います。
 そう考えると、僕とF1ドライバーが同じ道路交通法で、同じ道路を走るというのは、ある意味矛盾した行為なのかもしれませんね。
 でも、やっぱりモントーヤが街中で運転する車には乗りたくないなあ。
 同乗者や周りの車にとっては、かなり怖そう…



2003年05月12日(月)
哀しき「祭り」の流儀。


共同通信の記事より。

【愛知県稲沢市の国府宮神社で今年2月に行われた「国府宮はだか祭」で、群集のもみ合いで踏み付けられ、意識不明の重体になっていた稲沢市長束町沼、会社員小林雅彦さん(32)が12日、腎不全のため収容先の病院で死亡した。
 国府宮はだか祭は毎年旧正月に開かれる神事で、ふんどし姿の男たち数千人が神男と呼ばれる男性目がけて突進する勇壮さで知られる。小林さんはふんどし姿の男の一人として参加していた。】

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 こういう記事を見かけると、そんな祭り、やる必要あるの?とか思ってしまうのですが。
 日本各地で行われる祭りには、その勇壮さで知られるものも沢山あります。大阪・岸和田の「だんじり祭り」などは、その代表格。
 みんなで楽しく踊るような祭りもあれば、厳粛な雰囲気で行われる祭りもある。それはもう、それぞれの個性なのです。
 
 こういう激しくてキケンのある祭りの場合、犠牲者が出るたびに祭りの継続の是非、というのが問われるのですが、その結果、大きな祭りで「危ないからもう止めよう」という結論が出ることはほとんど無いと思います。
 安全にやろう!と言うのなら、最初からやらないのが一番なんでしょうけど。
 祭りの活気というのには、そういう危険な要素も一役買っていて、だからこそ祭りが盛り上がる、という面もあるのでしょうね。
 僕が前に住んでいた町には、大きなお祭りがあったのですが、それはもう、地元の人々にとっては、正月には帰省しなくても祭りのときには帰ってくるとか、山車を引く場所を決めるだけのことで、大ゲンカになったりしていたものでした。
 ヨソモノとしては、地元民の盛り上がりを不思議な気持ちで眺めていたものです。
 「たかがお祭りで」と。

 もちろん、日常とは異なるから「祭り」なのですが、「祭り」というのは、古来、犠牲を求めるものなのかもしれません。ただ、楽しいだけじゃなくて。
 今回犠牲になった人も「名誉の事故死」みたいな扱いを地元では受けるのではないでしょうか。
 あの勇壮な祭りの光景を見て興奮する人々(僕も含めて)に、やっぱり、人間ってやつは争いごとが好きなのかなあ、と思ったりもするのです。

 ブラジルの人は、ひょっとしたら、リオのカーニバルで毎年死者が出ても、「カーニバルの恒例だよ」という感じなのかなあ。



2003年05月11日(日)
読みかけの本に溺れる人生。


「ばかおとっつあんにはなりたくない」(椎名誠著・角川文庫)より抜粋。

【このごろちょっとした旅行などに持っていく本を最後まで読まずに放り投げてしまう、ということが多くなってきてちょっと困っている。クライブ・カッスラーの『スターバック号を奪回せよ』(新潮文庫)は百二十一頁で、紀行】『じゃがたら(徳川義親著、中公文庫)は、マレーの部分まで、ホーガンの『造物主の掟』(創元推理文庫)は最初の十頁ぐらいでいったんストップしてしまった。こういうのがクセになるとよくないのだ。】

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 ああ、僕はもう、そういうのがクセになってます。
 学生のころは、そんなに本を買えるほどのお金がなかったこともあり、一冊の本を読み始めたら、よほどつまらない本でもない限り、意地でも最後まで読んでいたような記憶があります。トルストイなんて、今、目の前に出されたら、最初の数ページくらい読んで、永久に本棚の奥から出されることはないでしょうに。
 社会人になってから、自分の時間が少なくなってしまったこともあり、本を読むといっても、軽めのエッセイとか雑誌が主流になってしまって、小説は手にとって読み始めても、いつのまにか途中で放置されていることばかり。
 この傾向は、本だけじゃなくて、やりかけのゲームとか、録画だけして観ていないビデオとかが、家にはたくさん溜まっているのです。
 「いつか読むはず」「いつか遊ぶはず」「いつか観るはず」のものばかりが溜まっていく人生。
 このまま「時間ができたらやるはずのこと」をたくさん残したまま死んでしまうのかなあ、などと暗澹としたり。
 でも、最近は、ちょっと考えを変えることにしたのです。
 本にしても、本当に読みたい、もしくは面白い本なら、ちゃんと全部読んでいるはずだし、本当に面白いゲームなら時間がなくてもエンディングまで遊ぶはず。
 要するに、途中になってしまっているものは、きっと自分にとってそれだけの価値しかなかったんだろうな、と。
 
 そう言いながら、やっぱり読みかけの本は増える一方で、本棚を見るたびに憂鬱になるのですが。



2003年05月10日(土)
「恋愛能力」は医者の重要な要素の一つ?


『ブラックジャックによろしく・第5巻』(佐藤秀峰著・講談社モーニングKC)より。

【主人公の研修医斉藤英二郎と第4外科でのオーベン(指導医)庄司先生との会話から。

庄司「なあ斉藤くん。彼女はいるの?」
斉藤「え……?」
庄司「色気のない奴はだめさ…恋愛能力は医者の重要な要素の一つだ。
   恋愛ってのは、コミュニケーションの最たるものだからね。
   医者と患者も同じさ…」】

〜〜〜〜〜〜〜

 ああ、人間関係が苦手で、恋愛能力の低い僕としては、まったく耳の痛い話です。
 実際に仕事をしていて、やっぱりデキる医師は恋愛上手だと思うことが多いですし。
 それは、外見上の善し悪しだけの話ではなくて。
 恋愛能力というのは、僕が福山雅治だったり、あなたが矢田亜希子だったりしない限りは、確かにコミュニケーション能力と密接な関係があるんでしょうね。
 いや、それだけじゃなくて、見た目がいかに良くても「恋愛能力」が低い人っていうのも、確かにいるでしょうし。モテるけど長続きしないとか、いつも悪い男に騙されるとか。
 
 患者さんにウケがいい医者っていうのは、大概女性にもモテるようです。
 僕が先輩に聞いたのは「医者は、聞き上手だからなんじゃないか?」ということ。
 「世間の男性は『自分がカッコいいところを見せたり話したりすれば、女の子はなびく』と思ってるんだけど、大部分の女性が求めてるのは『自分(女性)の話をちゃんと聴いてくれる男』なんだよ」って。
 そう考えたら、患者さんの話を引き出すことが重要な仕事の医者っていうのは、確かに恋愛能力が鍛えられているのかもしれませんね。
 彼女の話を聴いているつもりで患者さんの話を聴き、患者さんの話を聴いているつもりで女の子の話を聴く。そうすればいいんだろうなあ、きっと。
 わかっていても、プライベートでそれができる医者は、そんなにいないような…
 
 でもね、優れた医者(とくに臨床医)は恋愛能力が高いようですが、恋愛能力が高いからといって優れた医者とは限らないから、御用心。



2003年05月09日(金)
「酒が悪いんじゃない、人間が悪いんだ」


毎日新聞の記事より。

【飲酒ひき逃げ事故で息子を失った東京都多摩市の夫婦が、運転者とともに「同乗者にも責任がある」として約9480万円の損害賠償を請求した訴訟で、東京地裁八王子支部は8日、同乗の男性2人の責任も認め、3人に約5170万円の支払いを命じた。

 同様の民事裁判では00年の大阪地裁判決で、運転者の元上司が同乗していて酒を飲ませた責任を認めた例がある。今回のケースは、運転者が元請け会社の社員、同乗者が下請けの社員という立場で、飲酒運転の同乗者責任を幅広く認めた異例の判決となった。

 元会社員は車のキーを差せないほど泥酔しており、2人は「運転を代わる、と申し出た」などと否認したが、判決は「正常に運転できないことを十分認識できた。酒酔い運転のほう助の責任がある」と判断した。】

〜〜〜〜〜〜〜

 飲酒運転に対する認識は、道路交通法の改善などに伴って、近年ようやく改善されつつあります。
 車なんてのは、銃と同じくらい、あるいはそれ以上の殺傷能力を持った凶器となりうるのですから、酒を呑んで運転してはいけない、なんてことは当然のことだと思うのですが。
 だって、酔っ払いが刃物や拳銃を持ってたら(日本では、拳銃持ってるだけで既に犯罪ですが)わざわざ近づいていく人はいませんよね。
 確かに、僕のような公共交通機関が田舎暮らしの人間にとっては、飲酒運転をしないというのは、けっこう大変なのです。タクシー代だってけっこうかかるし(ヘタすれば呑み台と同じくらいかかることだってある)、間に合わなくて自分の車で行って、代行を頼むことになれば、手間やコストはバカになりません。
 でも、それは、自分の都合による言い訳にしかなりませんし、なんといっても、タクシー代と自分の人生を引き換えにはできないし。いやほんと、怖いんだよ飲酒運転。
 怖いと自覚せずに運転してるから、なおいっそう怖い。
 
 しかし、僕はこういう判決を聞くたびに、日本というのは、今までいかに酔っ払いに対して甘い国だったのか、ということを感じます。
 自分の意思で前後不覚に酔っ払って犯罪を行っても、「責任能力なし」として減刑されてしまうというのは、やっぱり違和感がありますよね。
 犯罪まではいかなくても、電車の中で絡まれた場合も「相手は酔っ払いだから」という理由で、たいていの人は泣き寝入りしてしまうわけですし。

 こういう犯罪の場合、たいがい「意志の弱い酒飲み」つまり、当人の自覚の欠如が問題となるわけなのですが、よく考えてみたら、そんな「アルコール」というキケンな麻薬が、堂々と売られていること自体が異様なのだと、考えられないでしょうか?
 いっそのこと、酒そのものを禁止すれば、こういう事件はなくなるはず。
 実は、飲酒運転を無くす方法というのは、とても簡単なことで、「車」か「酒」をこの世から無くしてしまえばいいんですよね。
もしこの世に酒がなかったら、犯罪や自殺はかなり減るんじゃないかなあ。
 それとも、アルコールでストレスを発散できなくなって、かえって増える?

 20世紀の前半に、アメリカで「禁酒法」というのが発効されました。これは、文字通り酒の販売および飲用を禁止するという法律だったのですが、その結果はというと、この「禁酒法」は世紀の悪法として歴史に名を残すことになりました。法で禁止されても酒を呑みたいという人々の欲求はおさまらず、酒の密売はマフィアの資金源となり、かえって社会不安を現出させてしまったのです。
 やっぱり、人間はアルコールがないと生きていけないんでしょうか…

 今の人類のコンセンサスは「酒が悪いんじゃない、呑み方をわきまえられない人間が悪いんだ」ということになっているようです。
 でも、これって結局、酒というものに依存しつづけてきた人類の言い訳のような気もしますよね。それだったら、酒より依存性が少ない大麻くらい許していいじゃないか、と言っている人もいるらしいし(窪塚洋介さんが大麻解放論者というのは、本当なのでしょうか?)。
 
 いずれにしても、今後、酒を呑むことに対する風当たりが強くなってくるのは間違いないと思います。酔っ払って電車でからんだりすると、それだけで逮捕されるようになるかもしれません。
 
 本音をいえば、ここまで人間の生活と深くからみついている「酒」というものは、今更人間とは切り離せない、ということなんでしょう。酒というのが人類に及ぼしている経済効果も、あまりに大きなものとなってしまっていますし。
 昔の哲学者に、「酒の害以上に、色恋沙汰で傷ついている人は多いのだから、酒を禁止するなら結婚も禁止すべきだ」と言った人がいたそうですよ。

 僕自身は、酒を呑むのは好きですし、もともと人見知りな性質なので、酒によるコミュニケーションの円滑化には、だいぶ助けられてもいます。随分痛い目にもあってきましたが。
 えらそうに書いておきながら、きっと、僕自身も酒から離れることはできないんだろうなあ。

 「酒は人類の友」とか言いますが、せっかくの友人なら、せめて、自分の罪を友人のせいにしなくてもいいように、責任をもって付き合っていきたいものです。

 でもなあ、止められれば、それがいちばんいいんだよね、たぶん。



2003年05月08日(木)
平井堅「LIFE is...」とテキストでの「…」の存在意義。

 今日5月8日に、新曲「LIFE is...〜another story〜」を発売する平井堅さんの新曲についてのコメントより。

【自分の人生観を注ぎ込んだ楽曲。
「...」の答えは、聴いてくれる人それぞれに考えてもらえればと思う。】

〜〜〜〜〜〜〜

 この「LIFE is...」という曲は、ドラマ「ブラックジャックによろしく」のテーマ曲としてオンエアされています。静かに心に染みる名曲。
 ところで、僕は文章中に「…」をよく使うのですが、この「…」って、便利である一方、他人の文章でみかけると「白黒はっきりしろよ!」と思うこともあります。
 WEB上の文章では、驚くべき出来事に対する「絶句」の符号でもありますね。
 
 そういえば、前にある作家があとがきで、悲しい知らせを聞いた主人公が何も言えずに沈黙するシーンについて、「映像だったら、音が無くても間や役者の表情や仕草で『深い悲しみ』を現すことができるけど、文章では、その沈黙を『……』としか書きようがなくて、ニュアンスを伝えるのが難しい」と話していたのを思い出しました。
 「雄弁は銀、沈黙は金」なんて言うけれど、確かに、沈黙は、ときには言葉よりも大きな意味を持っています。

 僕は、「…」を、もどかしさを表すために使っています。
 「はっきりしろよ!」と自分でも思いながらも、どうしても白黒つけられないような問題や今の自分には結論が出せないとき、どちらが正しいかわからないとき、そして、結論を読む人に考えてもらいたいときなどに。
 それは、問題提起のときもあれば、嘆息のときもあるのです。
 「迷っていること、活論が出せないこと」を伝えたいときだってある。

 「LIFE is...」には、「答えなど何処にも無い、誰も教えてくれない」という歌詞があります。
 その答えの無い「...」が何であるかを探し続けるのが、人生そのものなのかもしれません。



2003年05月07日(水)
永遠の「キャッチャー・イン・ザ・ライ」


「ダ・ヴィンチ」2003年5月号の記事より。

(村上春樹さんによって新たに訳された永遠の青春小説「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の魅力を探るための、巽孝之さんへのインタビューより)

【巽「物語の中で青春を完結させるには主人公が大人に成長するか、または殺してしまうのが一番簡単な方法ですが、サリンジャーはホールデンの行く末を留保する。つまり読者に向けて物語を解放したわけです。たとえば、マルコム・クラークの最新映画『ライ麦畑をさがして』などもロマンティックな解決を提供している。こうした空想の余地を残しているところが最大の魅力かもしれません」
 とは言え、大人になって体制に順応する「その後」のホールデンは想像したくない。そもそもそんな無様な姿を見せるくらいなら、彼は永遠の16歳であり続けることを自ら志願しただろう。】

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 「キャッチャー・イン・ザ・ライ」は、1951年にJ.D.サリンジャーによって執筆され、邦題「ライ麦畑で捕まえて」として、長く日本人にも親しまれてきた作品です。
 最近、村上春樹さんによる新訳が出版され、また話題になっています。
 
 「青春の完結」は、主人公が大人になるか死んでしまうか、というのは、確かに事実だと思います。「永遠の青春」なんて言っている人もいるけれど、口説き文句でなければアダルトチルドレン、とうことになってしまいます。
 僕たちが「青春」の代名詞として思い浮かべるような、ランボー(スタローンのじゃなくて、詩人のほうです)とか、ジェームス・ディーンとか、日本で言えば、尾崎豊といった人たちは、みんな若くして命を落としています。
 やっぱり「青春のメロディー」なんて番組に出て、口に糊するために「あのころは若かった」とか言いながら、「この支配からの、卒業」と歌っている50歳くらいの尾崎を見たら、多くの信者たちは幻滅するでしょうし。
 でも、人間生きていれば年もとるし、いつまでも若くはいられない。
 「年の割には若い」と言われることは可能だとしても。
 
 それにしても、「青春」っていうのは、そんなにいいものなんでしょうか?
 僕の10代後半なんて、つまんないことに悩んでばっかりで、そのくせ、何かをやる力は情けないほどなくって、辛い時代だったような記憶しかありません。
 前述したランボーとか尾崎豊にしても、客観的にみて、彼らがその時代に幸せだったような気がしないのです。もちろん、世間には「すばらしい青春時代」を送った人がたくさんいるでしょうけれど。

 サリンジャーは、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を30代前半に書きました。
 僕は、高校生の書く青春小説って、どこにも行き場のないような話が多くって、老大家が書く青春小説って、無防備なまでの青春賛歌が多いような印象を持っています。
 人は、昔のことはどんどん濾過されて、甘美な記憶にしていく傾向があるみたい。
そう、映画「タイタニック」の年老いたローズのように。
 
 30代前半、というのは、その2つの過渡期にあって、「青春」とやらを語るにはちょうど良い時期なのかもしれません。
 
 だいたい「永遠の16歳」なんてことが許されるのは、空想の世界の特権なんだよなあ。
 一生懸命現実に適応して生きる人間だって、僕は美しいと思うんだけど。



2003年05月06日(火)
不倫騒動女子アナを育てたのは誰だ?


日刊スポーツの記事より。

【ウッチャンナンチャン内村光良(38)との不倫騒動渦中にあるテレビ朝日・徳永有美アナウンサー(27)が、夫のA氏(29)から同局を退社しなければ、訴訟を起こすとの条件を突きつけられていることが5日、分かった。徳永アナはレギュラー番組をすべて降板して現在休暇中で、離婚する決意を既に固めているという。A氏はテレビ朝日ディレクターで、内村を訴える意向を持っているとも伝えられる。

 退社か訴訟か、徳永アナが厳しい選択を迫られている。関係者によると、A氏は、徳永アナと内村の不倫騒動発覚後、徳永アナにテレビ朝日を辞めるように求め、辞めなければ損害賠償を求める訴訟を起こすと迫ったという。A氏の真意は不明だが、妻に対する怒りは収まっていないようだ。A氏は内村に対しても、訴訟を起こす意志があることを関係者に伝えている。関係者は「徳永アナが訴訟を避けるため、退社する可能性はある」と話している。】

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 昨日も元凶となった「内村プロデュース」は、放送されていたわけで。
 なんとなく、徳永アナが貧乏くじを引かされてしまった印象が強いのです。
 まあ、内村さんが責任を取る、ということであればやぶさかではありませんが。
 「人生晴れの日もあれば曇りの日もある」って、思いっきり大雨だし。
 
 僕は、この記事をはじめて読んだとき、「退社か訴訟か」なんて、いくら浮気した妻に対してとはいえ、ひどい仕打ちだなあ、と思いました。
 ヨリを戻したくて、華やかな世界から離れて欲しいというのならともかく、離婚するし、会社も辞めろとは。何もそこまでしなくても、って。浮気は浮気、仕事は仕事。まあ、不倫するほうが悪いと言われればそれまでなのですが。

 でも、よく考えてみたら、徳永アナと夫A氏は、テレビ朝日での社内結婚。
「もう、顔なんかみたくない!」と夫が退社を要求するのも仕方ない面があるのかもしれませんね。
 大学時代の部活で、部内恋愛をしていた2人が別れると、どちらかひとり(あるいは両方)が、部活を辞めていくのと似たようなものなのかなあ、と。
 でも、これってかなりの慰謝料が取れるケースとも考えられるので(内村さんはかなり稼いでいますから)、むしろ、退社すれば訴えない、というのは寛容な態度なのかも。

 しかし、「女子アナはタレントじゃない、報道人としての自覚を!」とか言いながら、会社員としての給料で芸能人と同じような仕事をさせているのですから、こういうことが起こっても、本人の自覚のみが問われるのは、ちょっとかわいそうな気もしますね。
 どうせ、タレントとして通用するかどうかを基準に採用してるんだと思うんだけどなあ。

 でも、先輩の下平アナウンサーを見ていたら、会社に残るほうがイバラの道、なのかもしれません。



2003年05月05日(月)
「すべてが繋がっている」という幻想の魔力。


「ダ・ヴィンチ」(メディアファクトリー)より。

「わかった!運がよくなるコツ」(廣済堂出版)の著者・浅見帆帆子さんのインタビュー記事より。

【当時家庭教師をしていた帆帆子さんは、そこで一生懸命に教えた。するとその家の人から「ある会社のインテリアの仕事を手伝って」という話があり、依頼先に行ってみるとそこがたまたま出版社で、「何か本を書いてみないか」と突然言われ、書いた本がベストセラーに……。何とも不思議な話。けれどこれは決して偶然ではなく、自分の意識の力が創り出したもの。と帆帆子さんは断言する。一見、関係のないことでも実はすべて繋がっているのだと。】

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 なるほど、そうなのか!とは思えないんですよねえ、これ。
 「すべての出来事には必然性がある」というけれど、彼女の活躍は、けっこう偶然の要素が大きいのではないかと思います。
 でも、彼女は、その成功は「偶然じゃない」と自分で信じているわけですよね。

 昔の雑誌の裏表紙には「幸運を呼ぶピラミッドパワー」とか「ヒランヤラピス」とかの広告が、よく載ってましたよね。そこにはだいたい「ラピスを身につけたら彼女ができました!」とか「成績がグングンアップ!」というような「使用者の喜びの声」が一緒に掲載されていました。
 そういうのを読んで「怪しそうだけど、ひょっとして…」と読者は興味を惹かれるのです。まさに、溺れるものは藁をもつかむ、というような心境で。
 
 まあ、こういう記事の多くは「ヤラセ」らしいのですが、中には本当に「幸せになった人」もいるとは思います。でも、それはラピスのせいかどうか?
 たとえば、彼女がいない男子高校生が100人ラピスを買ったとしたら、しばらくすればひとりやふたりは彼女ができておかしくないと思います。でも、それがラピスのおかげかというと、たぶん、ラピスを持ってない高校生100人でも、同じような結果になると思います。
 それでも、信じることによって積極的になれたり、気持ちが前向きになれたりすれば、少しは違うのかもしれないけれど。
 
 そういう統計学的な比較もせずに、「偶然じゃない」と言い切ってしまったり、それを信じ込んでしまうのは、あまりにオカルト。
 結局「本の通りにしたけれど、全然変わらない!」という人の声が公になることはないでしょうし。
 そういう意味では、ラピスも帆帆子さんの考えも、そんなに変わりないような気がします。
 だいたい、彼女の本が売れたのは、出版社の努力のたまものでもあるわけですから。
 竹藪で一億円拾ったひとがいたからといって、すべての竹藪にお金が落ちてるわけじゃない。
 自分の力で道を切りひらくことができるとしても、逆に、運がよかったのは自分の力だというような発想はどうかなあ、という気もします。



2003年05月04日(日)
財前直見の現代的女優魂。


日刊スポーツの記事「日曜日のヒロイン」での財前直見さんのインタビューより。

(女優という職業についてのコメント)

【財前「たまたま女優をやっているだけ。人間として成長することが大事。女優というと(イメージは)ネグリジェを着てるとか、猫を抱えながらワインを飲むとか。アハハハハ。役でやるなら楽しんでやるけど、やってることは地味ですから、職人ですよ現場は。料理とか炊事、洗濯。女優だからできないのは理由にならないですからね。】

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 現在、フジテレビの看板ドラマ枠「月9」で史上最年長(37歳)の主演女優となっている、財前直見さんのインタビューの一節です。
 僕たちが一般的にイメージする女優像というのは、「演技のためには、私生活を犠牲にする」という、「生まれながらの女優」なんですが、財前さんは、そういうのを自ら笑い飛ばしてしまっています。女優は職人である、つまり、職業のひとつに過ぎない、と。
 もちろん、役者の中には、現在もすべてを犠牲にして演技に打ち込むタイプの人もいるんでしょうけれど、彼女のこのコメントは、逆に新鮮な印象がありますね。
 こういう考え方が、彼女の個性なのかもしれません。
 現代的なリアルさ、というか、親近感が湧く、というか。
 
 ところで、僕がこれを読んでいて思ったのは、医者だって、仕事が忙しいから…というのを何でも理由にしちゃいけないのかなあ、ということでした。
 しかし、仕事と私生活のバランス感覚というのは、何の仕事にしても難しいことですね。
 職業人である前に人間、かあ…



2003年05月03日(土)
プロになるべき人は、決して疑わない。


原田宗典著「道草食う記」(角川文庫)より抜粋。

【学生時代のぼくは、今のぼくよりもずっと作家意識が強かったように思う。何しろ朝から晩まで小説のこと以外は考えてもいなかったのである。何年か前にテレビのドキュメンタリーで、故レナード・バーンスタインが若い音楽家に向けてこんなことを言っていたのを思い出す。
「もし音楽家を目指す若者が私のところに来て、自分は音楽家に向いているだろうかという質問を発したとしたら、答えはノーである。プロの音楽家になるべき人は、そんなことは決して疑わない。従って質問を発した時点でその人は音楽家に向いていないのだ」
 曲がりなりにもぼくが小説家になれた理由も、多分ここにあるだろう。いつか小説家になろうと決意した十六歳の夏から現在に到るまで、ぼくは自分が小説家に向いているかどうか、という根本的な疑問を抱いたことは一度もない。向いていると信じて疑わなかったのである。】

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 人気作家である原田さんの述懐なのですが、なるほど、と思うのと同時に、素質というものの根源について考えさせられる話です。
 芸術家とかスポーツ選手、芸能人のように、一部の限られた人にしかなれない職業に就く人というのは、高いレベルでの自分の才能に疑いを持つことはあっても、その職業への自分の向き、不向きなんてのは、すでに飛び越えてしまっている、ということなんですね。
 その「向き、不向き」の次元で悩むような人は、すでにプロとしての資質には欠けているのだ、と。
 しかし、そういうふうに考えると、自分に疑いを持たずにある特定の分野に打ち込める、ということが既にひとつの才能なのかもしれません。
 やはり、普通の人間だったら、「向いてるのかな?」と思うこともあるでしょうし、こういう「疑わない人」のすべてが芸術家になれるわけではなく、その中でも優劣がつけられていくのですから。

 このバーンスタインの言葉は、すごく示唆に富んでいますね。
 だからといって「疑わないようにしよう」とか意識してしまう時点で、疑っているのと同じことだから、あまり参考にならないかもしれませんが。

 しかし、世間の多くの人々は、「向いているのかなあ?」と思いながら自分の「普通の」仕事をやっているのでしょうし、僕はそういうときには、「いろんな患者さんがいるんだから、いろんな医者がいてもいいよな、きっと」と自分に言い聞かせるようにしています。
 そういう面では、サービス業というのは懐が広いのかもしれませんね。



2003年05月02日(金)
「日本の癌告知は遅れている!」という数字の嘘。


共同通信の記事より。

【全国の主な国立病院・療養所で抗がん剤治療を担当する医師のうち、全患者へのがん告知を原則としている医師が6割を超す一方、病名を知らせていないケースでは全体の3割が患者本人に抗がん剤と告げずに投与していることが2日、共同通信の調査で分かった。
 調査は2−3月、全都道府県の47の国立病院、療養所で抗がん剤治療を担当する医師に調査票を送って実施。36病院・療養所の医師計78人から回答を得た。
 基本的な考え方として「すべてのがん患者に病名を告知する」という原則告知の医師が63%を占めた。
 原則告知の立場を取る医師でも患者が痴ほう症など理解力がない場合は告知しておらず、告知していないケースの19%は「抗がん剤と言わずに治療内容や薬の副作用などを説明する」と回答。「家族だけに説明する」(9%)と合わせて28%が患者本人に抗がん剤であることを伏せて治療していると答えた。】

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 この記事を要約すると「まだ癌の告知は十分に行われていなくて、患者さんに無断で抗がん剤が使用されていることも多い、ということでしょうか。
 原則的に(ということは、まず100%ですね)癌の告知をするという医者が6割以上を占めており、残りの医者は、ケースバイケースである、ということですね。
 それで、告知していない場合の(これは、記事中にもあるように、本人の理解力が痴呆などで厳しいと判断された場合も含む)3割弱は、抗がん剤ということを説明せずに患者さんに使用しているということになります。
 でも、それってちょっと変じゃないかなあ。
 ということは、癌だと告知せずに「抗がん剤ですよ」と説明して抗がん剤を使用しているケースが、告知していないケースの7割強?
 それだと「癌じゃないのに、どうして抗がん剤を使うんですか?」と疑問に思われるケースが多々生じてきそうな気がしますよね。
 まあ、現場では、家族の意向で「癌じゃないけど、進行すると癌になる可能性が高いから、抗がん剤で叩きましょう」というような説明になることが多いのですが、これって、「告知」の範疇には入らないんでしょうか。

 たぶん、医療従事者にとっていちばん楽なのは、ありのままを言うことです。
 もっとも、癌の患者さんの余命などは、状況によって平均的なデータは出せても、絶対確実な予測なんて、今のところ誰にもできないのですが。
 「末期の癌です。余命は3ヶ月」とか、「抗がん剤なので、髪の毛が抜けます」とか、ストレートに言えれば、それによって落ち込んで生きる気力を無くしてしまう人もいるのですが、多くの人は、そこから「生きる」ために立ち上がってきます。
 でも、現実には「治る希望がないのなら、本人には内緒に」とかいう場合もありますし、痴呆があって寝たきりの方などでは、説明そのものが難しい場合もあるのです。
 現在は、医者のひとりよがりな判断で抗がん剤を使うケースなんて、本当に稀なのではないでしょうか?
 耳も遠くて痴呆もあって寝たきりのお年寄りに、本人が理解できるまで(できないかもしれないけれど)「あなたは癌ですよ!」と叫び続けることが良いことだと思いますか?

 結局、癌や抗がん剤の告知が日本で浸透しきれないのは、ある意味「言わぬが花」という文化というものもありますし、「本人のために隠し通す」という、家族や医療サイドの自己満足的な思い込みの面もあるのでしょう。
 
実際は、「原則告知」が6割超で、残りの医師4割足らずも大部分は「原則非告知」ではなくて、「治療上や本人の状況を踏まえて判断する」医師たちでしょうから、「告知できない(もしくはしないほうが妥当だと考えられる、もしくは家族が告知を拒否している)」患者さんの3割というのは、客観的にみれば、「言わないほうがいいだろうなあ…」と思われる患者さんが大部分だと思うんだけどなあ。
 
 でも本当は、医療側にとっても患者さんの家族にとっても、結果的にいちばん楽で合理的なのは「事実をそのまま伝える」ということなんですよね。それは、患者さん本人の気持ちを考えなければ、なのですが。



2003年05月01日(木)
「自閉症」と言われる天才たち。


ロイター通信の記事より。

【英国の2人の科学者が、天才科学者といわれたアルバート・アインシュタインとアイザック・ニュートンは自閉症の一種とされるアスペルガー症候群(AS)にかかっていたとする説を発表した。
 ASは、1944年にオーストリアのハンス・アスペルガー医師が最初に定義した障害で、社会性や意思疎通能力に欠け、特定の事物に非常に強い関心を示すのが特徴。ただ、学習や知的活動には影響がなく、秀でた才能や技術を発揮する人も多いとされる。
 ケンブリッジ大学のサイモン・バロンコーエン氏とオックスフォード大学のヨアン・ジェームズ氏が、アインシュタインとニュートンの人格を検証し、ASの症状がみられるかどうかを調査。科学誌ニュー・サイエンティストに掲載された。
 記事は「ニュートンは典型的なケースとみられる。ほとんど話をせず、自分の仕事に没頭するあまり、食事も忘れることがしばしばだった。また数少ない友人との関係は積極的なものではなく、険悪になることもあった」と述べている。
 バロンコーエン氏は、アインシュタインも孤独な性格で、子供時代には特定の文章を執拗に繰り返していたと指摘する。同氏は、アインシュタインは交友関係があったり、政治的な話題について発言したりしたとしながらも、ASの兆候があったのではないかとしている。
 だが、米カリフォルニア大学のグレン・エリオット氏は、天才的な人は自閉症でなくても社会性が乏しかったり、他人に対していら立ったりする場合がある、と反論。「知的な面で他人の理解が追いつかないことに対するいら立ちや自己陶酔的な面、また生涯を通した使命感から、その人物が孤独で気むずかしくなる可能性もある」としている。】

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参考・日本自閉症協会ホームページも興味のある方はぜひ。

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 この話を聞いて、果たしてこういう説を発表することに意味があるんだろうか?と僕は思いました。
 よく「天才とナントカは紙一重」なんて言いますが、要するに、この2人の科学者は、ニュートンやアインシュタインの業績と自閉症を結びつけたいのかなあ、と。

 僕たちは、「天才」と呼ばれる人たちを異常な人間と考えてしまい、自分は正常だから…と自分に言い訳をしてしまう傾向があるのですが、だからといって、ニュートンやアインシュタインは自閉症で偏った才能を持っていた、というふうに考えてよいものなんでしょうか?
 自閉症というのは、上記参考リンクにもあるように、そんなに珍しい病気でもないし、本人のやる気の問題でも環境の問題でもないのです(僕も今回はじめてそういう知識に触れました)。
 もちろん、環境要因で、素因の無い人が「自閉的」になる場合というのも多いのですが、「自閉症」と「自閉的な状態」というのは、見かけでは似たような状態でも、実際はかなり異なるものです。

 僕がこの説に対して思うのは、自閉症と正常の間には明確な線引きがあるわけではないし、会ったことも無い人間をそういうふうに診断するのは無理なんじゃないかということ、そして、人間というのは、自分の理解できないものにはネガティブな評価をしがちなんだなあ、ということです。

 たとえば、イチローの野球センスや中田のサッカーセンスなんてのは、どんなに彼らが厳しい練習を積んでいたとしても、「異常」だと思います。
 でも、それは彼らの「才能」なわけですよね。
 ひとりでずっと彼らが練習を続けていても「自閉的」だなんて言う人はいません。

 逆に、「ドラえもん」の野比のび太の「あやとり」の才能なんてのは、世界一で唯一無比のものであっても、ほとんどの人が見向きもしないような「才能」。
 中には、犯罪などの他人に迷惑な才能を持っている人もいるわけで。

 ニュートンやアインシュタインのように、常人にはわかりにくいような才能を持つ「天才」は、こんなふうに「病気」と結びつけられてしまったりもするのですね。研究者というのは、たいがい自閉的な面を持っているのに。

 自閉症の人にも、素晴らしい才能がある人もいる(それは確かに真実なんだけれども)というのは確かですが、今回の説は、あまりに短絡的な気がします。

 例えば、イチローにだって「自閉的」な面があると僕は思うんだけどなあ。