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2002年02月28日(木)
2002年2月28日。

週刊SPA!3月5日号「『仕事が終われば一人ぼっち』生活のナゼ!?」より抜粋。

商社で事務をやっているという、28歳の女性のコメント。
「買い物自体は昔から好きだけど、店員から『何をお探しですか?』とか、話しかけられるのに耐えられない。でも、インターネットならそんなわずらわしさもないし、好きなときに好きなものを買えるから」
現在、通販で購入したアイテムは、下着から化粧水、ウィッグやスリッパ、家具、カーテンに至るまでなんと1000点以上。まさに、生活すべてがネット通販に委ねられている。

〜〜〜〜〜〜〜
この記事、なかなか興味深く読んだのだけれど、記事から伝わってくるのは、この編集者は、こういうのを「異常」だと感じているんだなあ、ということ。他にも、休日は一日家にこもってネットをしている人やひきこもり用の部屋を借りている主婦などが出てきます。
 でも、僕はSPA!のライターが感じているような「異常性」を全然感じないんですけど、これを読んでも。まあ、こういう人もいるよね、くらい。
この人たちは、仕事後の付き合い(呑み会)にも参加しないし、休日に友達と会ったりもしない。でも、仕事はきちんとやっているし、仕事上ではむしろ愛想がいいくらい。こういった一人になりたい気持ちが、その「気配りの反動」なのかどうかは、よくわからないのですが。
 僕も店員に話しかけられるのはわずらわしいと思ってしまうのですが、なぜかと考えると「買ってあげないといけないんじゃないだろうか?」という強迫観念みたいなものを感じてしまうんですよね。「買わない」ことによって傷つけることが厭。まあ、自分も社会人となって、この人も仕事でやっているんだから、しょうがないよねえ、と思えるようになってきましたが。

この「一人ぼっち好き」の人たちのこと、僕は単なるひとつの生き方だと思いますよ。むしろ、パチンコ屋で見ず知らずの僕に「サカナ出ないわねえ〜」なんて慣れなれしく話しかけてくるオバちゃんのほうが理解不能。

ただ、彼らの特徴は、みんなネットにはまってるってことなんだよねえ。
結局、他者との接点を求めていて、しかも傷つかない方法で、とコメントされているのですが、最近のネット社会では傷つかないこともなかなか困難。

この記事で、ひとつだけ耳に痛かった言葉。
「彼らのライフスタイルは子育てには適していない。将来、子供を持ったときが心配です」
う〜ん、今のうちに「プリンセスメーカー」でも予習しときましょうか…






2002年02月27日(水)
2002年2月27日。

中島らも著「僕にはわからない」(双葉文庫)より抜粋。

「偉人は何がエラいのか」より。

 結局、偉業をなしとげる人の人格というのは決定的にどこかおかしい。社会常識などには目もくれずに己の関心事のみを追求できる性格だから偉業もできる。人格のバランスがどこかで大きく歪んでいるのだ。偉人伝に加えられるかどうかは、その偏執事が社会的に成功したかどうか、唯一それのみにかかっている。「功成り名を遂げる」ことが人生のお手本みたいに言われると、結局プラグマティズムだけが世界の原理であるような錯覚にとらわれてしまう。

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要するに、偉い人というのは、人格としての偉さではなく、すごいことをやった人、ということなのだと思われる。
中島らも氏は、この文中で、「日本人は禁欲的な行いを見ると手放しに賞賛してしまうが、どんなストイシズムだって、人間の快楽原則にのっとって働いているのだ。」とも記している。
つまり、努力する人は、努力することが自分にとって意識・無意識にもかかわらず「快楽」であるからそうするだけのことだ、ということなのだろう。
偶然、自分にとって楽しいことが時代とマッチした人が、「偉人」となれるということなのだ。
もし、昼寝が最高の文化だったり、あやとりがオリンピックの大人気種目だったりする世の中なら、野比のび太も「偉人」にちがいない。
それでも、偉い人になるために自分を偽って世の中の役に立つことをする人はいるのですが、せいぜい「秀才」どまりになってしまうようです。

だからといって、犯罪や享楽的な人生を「好き好きだから」と認められるほどみんな広い心をもっているわけではなく、あくまでも自分に被害が及ばない範疇で、ということなのですが。

中島らも氏が、「もっと尊敬すべき人が身のまわりにウヨウヨいる」と書いているように、偉人であることと、人格のバランスがとれていることは、別問題ということなのでしょう。

「がんばらなくちゃ」と思っている時点で遠ざかる「偉人」への道。




2002年02月26日(火)
2002年2月26日。

毎日新聞の記事より抜粋。

農水省のBSE(牛海綿状脳症)問題への対応を非難する文字を体に書かれ、熊本市の熊本城二の丸公園に放置された雌の廃用牛6頭が26日、熊本県合志町の県農業研究センターで落札された。6頭ともテーマパークなどで余生を送る。

 この日は延べ9団体が応札。赤牛4頭は同県菊陽町の食肉処理販売業者が32万円で落札した。業者は「高齢なのでビジネス価値はない。ただ牛がかわいそうだった」。同県大津町に作ったミニ動物園で、ポニーやイノシシなどと一緒に飼育するという。

〜〜〜〜〜〜〜
この話を聞いて、「塞翁が牛、か…」とつぶやいたのは僕だけか。
まあ、人生(牛生、ですが)何が幸いし、何が災いになるかわからない、ということで。こういうふうに、「体に落書きされてかわいそう」とか「捨てられてかわいそう」なんて、擬人化してしまうと、もう食べられなくなっちゃうよなあ。

脱線しますが、ある人(著者名失念)のエッセイのなかの話。寿司屋の入り口に大きなマグロの人形絵が飾ってあって、「ぼく、マグロ。おいしいよ!」という科白が書かれていたそうです。ところが、しばらくたって同じ店に行ったとところ「ぼく」が消されていて、科白が「マグロ、おいしいよ!」になっていたということでした。筆者は何故だろうと首をひねっていたのだけれど、僕にはその理由がなんとなく見当がついたのでした。たぶん、店にきた子供が嫌がったんじゃないかな、と。
僕も、子供のころその手の看板やチラシが大の苦手で、食われる対象物が「ボク、おいしいよ!」なんて言っているようなのを見ると、怖くて、かわいそうで、食欲減退しまくってました。
だって、子供心には、食われそうになっている状況で、「ボク、美味しいよ!」なんていうことは信じられないわけで(大人心でも信じられんか…)
で、たとえば件の寿司屋のような店に入るときは、看板のマグロから眼をそらし、店でもどんなに勧められてもマグロは食べませんでした。
「しゃべる」といことで、そのマグロに人格をみいだしてしまっていたわけです。
というより、幼少時は魚も肉も食べられなかったんですけどね、魚さんや動物さんがかわいそうで。
今は、その分をとりかえしてあまりあるくらい、バクバク食べてるわけですが。

それは、感受性の減退なのか、生きるための適応なのか。
たぶん、その両方なのでしょうけど。

それにしても、もし仲間の牛が彼らのニュースを耳にし、理解することが出来たとしたら、どういう反応を示すのでしょうか。羨望か、憐憫か。
そういう発想自体が、既に「擬人化」なんですが。



2002年02月25日(月)
2002年2月25日。

田口ランディ著「もう消費すら快楽じゃない彼女へ」(幻冬舎文庫)より抜粋。

若い頃に、好き放題に身体を商品化した少女たちが結婚し、年をとっていく。「女として売れるうちに高く売るのよ〜」と豪語する少女たちも10年すれば30歳だ。その時に、彼女たちは、何の空虚も感じずに母として生きていけるのだろうか。生身の身体をもてあまして子供の背後霊で生きる毎日。昔はスケベな目を向けた男が、「おばさん」と自分を軽蔑するようになったら。亭主がセックスをしなくなったら。そうこうしているうちに若造りも限界に達したら。腹がたるんで、話題もなくて、社会性もなくて、貧乏で、なにもかも「うざってえ」って思ったら。子供のままでいたい少女たちが、年だけとったら、どうするだろう。自分なんか居てもいなくても同じだと感じたら、なにで空虚を埋めるだろう。幼児虐待、不倫、精神病、ギャンブル、犯罪…。それらの選択肢が必然的に残っていく。

 ユング心理学者の河合隼雄氏が、著書のなかで語っていた。
「女性の自己実現の困難さを思う時、私はそれを女性にすすめることをためらう」子供と老人を道連れにして、女の不可解な犯罪はもっともっと増えるだろう。

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長い引用で申し訳ない。

最近とみに多くなったと感じられる幼児虐待。
先日も、幼児虐待で告発された母親がインタビューを受けてて、「私は目つきがきついから、そんなふうに言われるんだ」といって、
次の会見では、整形して画面に登場してきた。
自分が責められる理由を自分がした「行為」にではなく「外見」に求めてしまうアンバランスさ。

「性の商品化」は今に始まったことではなく、人間の歴史とともに綿々と続いてきたものだ。ただ、最近は、そういった人々が「生活のため」ではなく「自己実現の手段」として風俗や援助交際を自発的に選択しているような気がする。「風俗で働いてる、そこらへんの普通の女の子とは違う、社会に適応できない私。」
 ホームページやテレビ番組には、そういった主張があふれている。
で、実際に、そういうのでインパクトが得られる年じゃなくなったら、「お払い箱」にされてしまうわけだ。
 それで、売れなくなったタレントのように、自暴自棄になっていくだけ。
でも、今の世の中、そういったほうが「普通」になってしまっているのです、むしろ。

自己実現をしなくてはならない。
そういった現代社会のプレッシャーって、けっこう大きなものなのかもしれませんね。
自分なんか居ても居なくても同じ。それは、ひとつの現実。
でも、この世の中に「居なくてはならない人間」なんて居ないってことに気づくところから、大人っていうのははじまるのかもしれない。
天皇陛下が崩御されても、美空ひばりが亡くなっても、
僕らはみんな生きている。

「自己実現をしようとしない生き方」、「裏方に徹する生き方」っていうのもひとつのスタイルなのではないかな、と思う今日この頃。
「普通のひとが普通に生きていく」それって、すごく難しくて、すごく素晴らしいことなんじゃないかな、って。
「ドラマチックな人生」の時代は、もう終わった。

蛇足:「精神病」は、あくまでも「病気」なので、虐待や不倫などのカテゴリーに含むのは、どうかと思います。どこまでが「病気」なのかは難しいけれども。



2002年02月24日(日)
2002年2月24日。

高校の世界史の教科書をパラパラとめくっていて。

ラプラス(Pierre Simon de Laplace 1749‐1827)はフランスの数学者。
フランスに生まれ,革命期とナポレオン時代を経て王政復古の時期まで生きた。
彼は《確率の哲学的試論》という数式を用いない啓蒙書において
〈ある瞬間に宇宙のすべての原子の位置と速さとを知ることができるならば,未来永遠にわたって宇宙がどうなるかは,解析学の力によって知ることができるであろう〉と述べ、その超越した存在をラプラスの魔と呼んだ。

転じて、「すべてを知ることのできる存在、もしくはそのことによって、運命を操れる存在」をラプラスの魔と呼ぶようになった。

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僕は、この説に高校時代、すごい衝撃を受けたのです。
ものすごくひらたく解釈して、人間にあてはめてしまうと、「すべての予測因子がわかっていれば、その人間の未来の行動を100%予測することは可能である」ということです。あんまりひらたくないですね…
つまり、僕が今ここでキーボードを叩いていることも、自分では、ちょっと空いた時間にきまぐれでやっているように思っていても、あらかじめ予定されていた行動である。ということですね。
少なくとも今の科学では、個人の行動や思想について、100%未来を予想できるほどのデータ収集能力も処理能力もありませんが(それに、そんなことをやるメリットもないし)。しかし、このまま科学が進歩していって、酔狂な人がやりはじめれば、あらゆる環境的・遺伝的データを入力すれば、その人が生まれてから死ぬまでの一生がすべて産まれた瞬間に予測できるプログラムも可能になるかもしれません。いや、理論的には可能になるんじゃないかな。

僕たちがランダムであると思っていることは、実はすべてランダムではなく、プロセスに従った結果になっているのです。
その「プロセス」がわからないだけで。
コンピューターがこれだけ人間社会に広まったのも、「人間には判別できない程度のランダマイズができる機能(実際には、純粋にランダムな結果を出せるわけではなく、あくまでも「現在の人間にはわからない程度」です)を有しているから。

ちなみに、僕は運命はあるとは思いますが、どんな運命かわからないんでどうしようもない、というのが今のスタンスです。
それに、仮にそんな予測ができるようになったとしても、膨大なデータが必要ですし、大部分の人は、たぶん100%当たる運命なんてものに、興味はわかないんじゃないかなあ。
他人の運命にも、自分の運命にも。




2002年02月23日(土)
2002年2月23日。

田口ランディ著「もう消費すら快楽じゃない彼女へ」(幻冬舎文庫)より抜粋。

 高校の担任に「親の世話にならずに大学にいく方法がありますか?」と聞いたら、担任が「新聞奨学生ってのがある」と教えてくれたのだ。「私、自転車に新聞を積んで運べるかなあ」と言ったら「大丈夫だ。女の子は飯の賄いをやるんだ」と言う。
 ふーん、それは面白そうだなと思った。というのも私は昔から他人と職業観というのがズレていて、一番なりたい仕事はホステスで、次が作家で、次がお手伝いさんだった。お手伝いさん、旅館の仲居、役者、精神科医、庭師、芸者、そういう職業が私の憧れの職業であり、できれば死ぬまでにいろんな職業を転々としたいと考えていた。

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作家、田口ランディさんの職業観。
田口さんは今40歳くらいだから、今30歳の僕の時代よりも遥かに堅実な職業観が主流だった時代のこと。
しかし、これらの職業って、見事なまでにバラバラですね。基本的には他人と接するサービス業なんだろうけど、突然「庭師」のような技術職がポーンと入ってきてみたり。
この部分を読んで、向田邦子さんが大学時代にいろんなアルバイト(アイスクリーム売りとか)をしてたというエッセイを思い出しました。
向田さんの場合は、職業への憧れと言うより、金銭的な面が大きかったようですが。

しかし、エッセイストになるには、このくらいのバイタリティといろんなものへの興味が必要なのかもしれませんね。
もうひとつ、精神科医というのはこのカテゴリーに入ってしまうものなんでしょうか?



2002年02月22日(金)
2002年2月22日。

日刊スポーツの記事より抜粋。 

 ロシアのウラジーミル・プーチン大統領(49)が、ソルトレークシティー五輪を痛烈に批判した。ロシア・オリンピック委員会が、同国に不公平判定が相次いでいるとして残り会期のボイコットを宣言。大統領は強硬手段こそ見送らせたが「ロシア選手は非客観的判定にさらされている」と皮肉り、警告した。同国の議会や大統領補佐官、やはり判定に不満を爆発させた韓国などはなお閉会式(日本時間25日午前10時)のボイコットを主張しており、不公平判定問題は、国際問題に発展する様相を見せ始めた。
 プーチン大統領が、五輪に激怒した。「ロシアの選手は、非客観的で先入観のある判定にさらされている。北米の選手は明らかに有利だ」。まるでソルトレークシティー五輪が、ロシアを虐待していると言わんばかりの厳しい言葉が飛び出した。さらに、混乱が国際オリンピック委員会(IOC)のトップがロゲ会長に交代したことに関係があるとし、初めてやることは失敗が多いというロシアのことわざ「最初に焼いたプリンは団子だった」を持ち出して、痛烈に皮肉った。

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 それにしても、今回のオリンピックはいろいろと物議を醸しているようです。確かに、日本人である僕からすると、不公平な感じが否めない。
もちろん、全部の競技・種目でそうであるというわけではないですが。
あの韓国の選手が優勝した(はずの)ショートトラックにしても、あれが走路妨害だというのなら、ショートトラックなんて競技は成立しないのでは?と思ってしまいます。あんな狭いところをぐるぐる回ってるんだから、多少のブロックはテクニックの範疇のはず。それに、何度ビデオをみても、結果的に優勝となったアメリカの選手には、前が開いていたとしても韓国の選手を抜けるほどの足は残ってなかったと思うのだが。
競馬や競輪でも、あのレベルでは審議にすらならないのではないか。
絶対ブロックするな!っていうのなら、みんなで一緒に走らずに1人1人のタイムトライアルにしないとムリだよ。

 フィギュアの2組金メダルにしても、どう考えてもおかしい。
判定自体もおかしいが、2組同時に金メダルというのは、タイムトライアル競技で同着でもない限り絶対にありえないことだ。
「金メダルに値する演技」をしたのに銀メダルになる選手なんてたくさんいるのだし、それを順番をつけるのがオリンピックというものなのだろう。
申し訳ないから両方金!なんて発想は、かえって競技・演技の価値を冒涜しているのではないかと思うのだが。

 いつも観ていて思うのだが、フィギュアスケートって、やる前からほとんど「ランク」が決まってる競技ですよねえ。
この人はこのくらいの順位、というのが格付けされているなかでの争い。

オリンピックって、あんまり面白くないなあ、と思ってる人、けっこう多いのでは?

まあ、今回は中継の時間が夜中になっているということと、インターネットでほとんどリアルタイムに競技の結果がわかるようになったということもあるんでしょうけど。

しかし、もし仮に「不当に差別されている」というロシアを中心としたオリンピックが開催されれば、無茶苦茶ロシアに有利な判定が乱発されるんじゃないかなあ、と思われるのですが。







2002年02月21日(木)
2002年2月21日。

山田風太郎著「人間臨終図巻(2)」(徳間文庫)より抜粋。

 ハリウッドを代表する俳優、ゲーリー・クーパーの死に方。
 
 1961年1月8日、ハリウッドでクーパーの映画生活35年の功績をたたえる晩餐会が催され、オードリー・ヘップバーンらから最大級の賛辞を受けたクーパーは、「私は今夜世界一の幸せな男です」と挨拶した。彼はこの35年の間に89本の映画に出演した。
 しかし、その前年の12月、夫人のロッキーは医者から、クーパーが前立腺癌に冒され、すでに転移して手遅れの身体になっていることを知らされていた。
 それから間もなく病床についた彼は、3月のある日、医者に自分の病名を聞き、医者がそれを告げると、黙ってうなづいたが、やがて医者が家に帰ったころ電話をかけた。「先生は、私に真実を知らせてくださったことで憂鬱になられたのではありませんか?しかし私は感謝していることを知ってください。教えてくださって、どうもありがとう」その声は落ち着いており、思いやりとユーモアのひびきがあった。
 彼はそれから、静かに明るく、日中はプールのそばで、夜は妻と娘とともにテレビを愉しんだ。
 彼が重態におちいると、ケネディ大統領、エリザベス女王をはじめ、全世界から見舞いの電話や電報が殺到した。
 5月4日。彼は新聞を通じて感謝の言葉を返した。
「私はすべてが神のご意志であると信じております。未来についておそれを感じておりません。みなさんからのお便りのおかげで、心の安らぎを得ております」
10日間の昏睡ののち、5月13日の真夜中に彼は息をひきとった。
(享年、60歳。)

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世紀の大スターの死に方。
著者、山田風太郎は、「世紀のスターは死まで飾られる。」とのみコメントしている。

ゲーリー・クーパーの「感動的な」生涯の閉じ方について思うのは、彼の生き様の素晴らしさへの感動とあまりに素晴らしいゆえに感じざるを得ない居心地の悪さではないだろうか。
自分の「死」に対してまでも絵になる幕切れを演じなければならない大スター。そのプロフェッショナリズムと哀しみ。
ひょっとしたら、演じることで心の平静を保とうとしていたのかもしれないけれども。

それでも、「生ける人々」にとってこのような引き際は、魅力的であることはまちがいないところですね。
僕が担当医だったら、彼の気配りに泣いたと思います。






2002年02月20日(水)
2002年2月20日。

椎名誠著「あやしい探検隊・バリ島横恋慕」(角川文庫)の第3章より抜粋。

椎名「日本にはじめて来た外国人が見て何にいちばん驚くかというと、地下鉄のなかで乗客が寝てることなんだ。ニューヨークなんかから考えたら信じられない世界だろうけれど。」

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日本の「平和神話」は崩壊したと言われて久しいですが、やっぱり日本は比較的平和なのかなあ、と考えさせられる一文。もちろん、地下鉄でサリンまく連中がいるような国ではあるけれど。
それにしても、地下鉄の中でもファイティングポーズをとり続けないといけないニューヨークって、すごくストレスがたまりそうなところです。
アメリカ人が、マイホーム主義であったり、仕事の時間をきっちり守って家に帰るというのは(聞いた話だが、医者が心臓マッサージをしている最中でも、時間になったら当直医と交代するらしいけど、本当なんでしょうか?)実は、家の外でリラックスできないことの裏返しなのかもしれないですね。

僕は子供のころは、南の島なんて海があってゴロゴロしてるだけなんて、何が面白いんだろう?ピラミッドとかエッフェル塔を観に行ったほうが有意義だと思ってたんですが、最近は、とにかくのんびりしたいと思うことが多いです。ということで、南の島推進派(実際には、海外旅行自体が韓国に一度行っただけですが)。
読んだだけでバリ島に行ったような気分になるし、実際にバリ島に行ってみたくなる本。

それにしても、新庄選手はやっぱり地下鉄で寝てなかったんでしょうか?豪快に爆睡してたような気もするけど。




2002年02月19日(火)
2002年2月19日。

西日本スポーツの記事より。

「千と千尋の神隠し」で第52回ベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞したアニメ映画「千と千尋の神隠し」の宮崎駿監督の帝国ホテルでの会見。

「子供たちに見せるためにつくったので、既に報いられたと思う。授賞は付録のレベル」
さらに、アニメやゲームがもたらす子供への影響に話が及ぶと表情を一変。自信の代表作をとりあげて、
「となりのトトロを一日で三回みるという子がいるが、5時間で(ほかのことの)経験がどれだけできることか」
と指摘。
その上で、「母親が携帯電話で話す横で、子供がゲームをする。なんてだらしないんだ。今の子供は火もつけたり消したりできないのに、パソコンのキーだけは押せる。こんな民族は健康に行きてはいけない」と現状に警鐘を鳴らし、「自分はアニメのビデオを売り、喜ばれれば喜ばれるほどジレンマの中にいる」
と”世界のミヤザキ”としての苦悩も吐露した。

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宮崎監督、授賞おめでとうございます。
しかし、監督自身の作品が評価されればされるほど、ジレンマも大きくなっていっているようで。確かに、「自然を大事にしなければ、もっと子供は外で遊ばなくちゃ」という訴えをアニメで観ながら、結局、アニメの中のバーチャルな自然に憧れてしまって、テレビの中の大自然を大事にしようと思っているのが現状。
それでも、全く意識しないよりははるかにマシだとは思いますが。

「千と千尋の神隠し」は、宮崎作品のなかでも最大級の興行成績と賛辞を受けている作品となったわけですが、あまりに「自然を大切にしよう!」という宮崎監督の訴えがストレートすぎて、(「ハク」に関するエピソードなど、ですね)僕はあんまり好きじゃないです。画面の妙なおどろおどろしさも含め、面白いとは思いますが。

「大作」を作るのには金がかかり、スポンサーとのからみや(「クロネコのジジ」とかですね)、宮崎駿という名前のしがらみによってある種の制限が生まれたり、してしまっていることに、本人も疲れている部分があるんじゃないでしょうか。

「カリオストロの城」や「風の谷のナウシカ」のほうが、教条的でなく、誰もが楽しめる上質のエンターテイメントだったと思ってるのは、僕だけでしょうか?

でも、「日本を代表する映画監督」であるために、常に大作、ためになる、金になる作品を作りつづけなければならないジレンマを感じつづけてるのは、ほかならぬ宮崎監督自身なんでしょうね。

三谷幸喜氏が、著書の中で自分が主催していた「東京サンシャイン・ボーイズ」という劇団について、「観客動員や周りの評価はどんどんあがってきてるんだけど、自分としてはもう劇団としてのピークは過ぎていると感じた時期があり、結局、解散してしまった。みんなは何故?と聞くけれど、自分としては必然のことだった」と書かれてました。正直、宮崎監督も、こういう気持ちでおられるのかもしれないなあ、と。



2002年02月18日(月)
2002年2月18日。

毎日新聞の記事より。

【ワシントン斗ケ沢秀俊】睡眠時間が1日7時間前後の人は最も長生きするとの調査結果を米カリフォルニア大サンディエゴ校の研究グループがまとめ、15日付の米医学会の物理療法専門誌に掲載した。約110万人を対象にした初の大規模調査に基づくデータで、1日8時間以上の長い睡眠や4時間以下の睡眠不足は長寿には望ましくないという。

 最も死亡率が低かったのは男女とも1日7時間(6・5〜7・4時間)睡眠の人で、睡眠時間が8時間の人は7時間の人に比べて、男性で12%、女性で13%死亡率が高かった。9時間の場合は男性で17%、女性で23%、女性で10時間以上だと41%も死亡率が高く、睡眠時間が多くなるほど死亡率は高まった。

 また4時間の男性は死亡率が17%、3時間の女性は33%高くなるなど、睡眠時間が少なくなるにつれて死亡率が高まる傾向も表れた。不眠を訴える人の死亡率は通常の人と違い、睡眠薬服用者は死亡率が10%以上高かった。

 この結果について、クリプキ教授は「多くの人は健康のために8時間の睡眠時間が必要と信じているが、医学的根拠はない。長生きという観点からは、7時間が最も適切だ」と指摘している。

〜〜〜〜〜〜〜
う〜ん、なるほど。
7時間睡眠といえば、0時に寝て7時起床。もしくは、1時就寝、8時起床というところでしょうか。
人間には、適度なストレスが必要だということも言われているし、「7時間」というのは、適度に忙しく、適度に余暇があり、という人の標準的な睡眠時間なんでしょう。
ただ、この記事の中では触れられてないのですが(実際はなんらかの統計学的な調整がされていると思うのが)9時間や10時間も一日に寝ている人は、なんらかの身体的不調を抱えている場合が多いような気がするんだけど。それにしても、アメリカには一日10時間以上も寝ているような人が、そんなにたくさんいるんでしょうか?
ちなみに、僕はだいたい平均6〜7時間といったところです。
30になって、20そこそこのときに比べると、寝不足の時は著明に体に堪えるようになりました。

しかし、寝てる時間も長い、寿命も短いでは、あんまりゆっくり寝ている意味って、ないような気がしますね。浮世を忘れるには、寝るのがベストかもしれないけど。



2002年02月17日(日)
2002年2月17日。

「ACCESS向上大作戦」(恩田ひさとし著)より引用。

個人・商用ホームページを見る限りにおいて、99%以上のものは駄作であり、公開していても何のメリットももたらさないものばかりです。メリットがないだけならまだしも、自分の能力のなさをわざわざ手間暇金をかけて発信しているといっていいかもしれません。

〜〜〜〜〜〜〜
本の内容としては、このあと「なぜ駄作ホームページが量産されるのか?」についての考察が続いていくわけなのですが。

ホームページというものの時代的推移について考えていくと、パソコンゲームの歴史に通じるものがあると思うのです。

〜黎明期〜
とにかく、パソコンでゲームができること自体が嬉しい。
内容はあまり問われない。
ネット上では、ホームページが、つくれる、持っているというだけで他人と違うと思えた時代。

〜成長期〜
一部の突出した才能が、商品としてのパソコンゲームを作り出す。
現チュンソフトの中村氏のように、個人でつくったものが充分に通用し、場合によっては巨万(というほどでもないか)の富をもたらした時代。
ネット上では、個人でも一部の人気ホームページが、アクセスを稼げていた時代。ホームページをもってさえいれば、それなりの需要があった時代。

〜成熟期〜
企業による分業制が主流になり、個人の力が通用しなくなってしまった時代。ネット上でも企業ページが主流となり、個人ホームページはごく一部の例外を除いて、「便所の落書き」などと揶揄されるようになっている。
ホームページを持っているということより「内容」が問われるのだが、コンテンツの情報量では企業サイトに太刀打ちできず、狭いコミュニティのなかでのみ通用する符牒になっている。

どうも、今の個人ホームページ、とくにテキストサイトは、同人小説の世界と似通っているような印象を受けます。
読んでいるのは、書いている人がほとんどで、お互いに一般人にはわからないところであーだこーだと議論している。
もちろん、突出した才能のなかには、その嚢を突き破って出て行くものもありますが。

で、これからどうなっていくか?なのですが。パソコンゲーム業界と同じという流れになると仮定すれば、今後は、「自分で造っても企業モノにはかなわないことを悟ってあきらめる人が大部分で、個人はごく一部のマニアにターゲットを絞ったものを造っていく人が残存していく」という「衰退期」になっていく可能性が高いです。
ただし、パソコンゲーム人口とネット人口では受け皿の大きさが全然違うので、衰退といっても、それなりにはやっていけるんでしょうが。

それにしても、ネットはいまのところ「無料」が主流なのは、個人サイトにとっては辛いところでしょうね。そんなら、整った企業ページを見たほうがいいや、と誰しも思うはず。
ゲームでは、「いいものはそれなりの値段」ということが諒解されているのにね。

今日は、えらく脱線した話になってしまいました、すみません。



2002年02月16日(土)
2002年2月16日。

ネットランナー3月号「人気サイトの作り方教えます」(rhymeさん著)より。

「テキストサイトの3分類」より
日記サイト/読み物サイトの短所
(1)他人が読んで面白いと思われるような文章力がないと厳しい。
(2)日記や読み物のサイトは数が非常に多く、そのなかで注目されるような面白いネタを生み出すまでは、なかなかアクセス数が伸びない。
(3)管理人の近辺の話題に終始しがちなので、マンネリや内輪ネタに陥りやすい。

〜〜〜〜〜〜〜
まさにその通り!という感じで、身につまされます。
誰でも、「アクセス数を稼ぐだけのサイトなら、自分にだってできる!」と一度は思ったことがあるのでは?でも、思うとやるとは大違い。
僕自身、この日記ともうひとつ、自分の生活日記を書いているのですが、
どっちもこの短所にあてはまってしまっているわけで。
だからといって、今から大掛かりなテキストサイトを作り直すほどの時間も根性もないしね。
それに、この記事を読むと大規模なテキストサイトは非常に時間と手間がかかることがわかります。大学生や自由業でないとちょっと厳しそう。
テキストサイトの寿命は、だいたい半年から一年という話を聞いたことがあるのですが、大規模サイトを造るとそのくらいで疲れ果て、個人サイトでは、そのくらいで閉塞感がピークになってしまう、ということなんでしょうね。結局、ごく一部のひとを除けば、それが収入につながるわけではないし。まあ、今のところは面白いからしばらくやってるとは思いますが。



2002年02月15日(金)
2002年2月15日。

読売新聞の記事より抜粋。

【ワシントン14日=館林牧子】米テキサスA&M大の研究チームは14日、体細胞クローンネコの作製に成功したと発表した。今まで羊やネズミ、ブタなどのクローン動物が誕生しているが、ペットでの成功は世界で初めてといい、死んでしまったペットをよみがえらせることができる技術として注目される。この成果は21日付の英科学誌ネイチャーに掲載される。

 同チームは、レインボーという名の雌ネコの卵巣にある卵丘細胞の核を採集し、核を除いた別のネコの卵子に移植。代理母ネコの子宮に戻したところ、昨年12月に1匹の雌ネコが誕生した。「カーボンコピー(複写)」の頭文字を取って「cc」と名づけられた子ネコは元気で異常もなく育っているという。

 このプロジェクトは、愛犬のクローン作りを望んだ資産家が同大に370万ドル(約4億9000万円)の資金を提供して実施された。この資産家は、ペットのクローン作りを請け負うベンチャー企業を設立、この企業では、将来、クローン動物作りが実用化した時に使えるよう、世界の愛犬、愛猫家などの依頼を受け、ペットのDNAの冷凍保存を請け負っている。

 DNA鑑定の結果、「レインボー」と「cc」の遺伝子は一致したが、体毛の色の分布は必ずしも一致しなかった。同チームのマーク・ウエシューシン教授は「複雑な色の動物の場合、色のパターンは遺伝子だけで決まるのでなく、胎児が発育する過程で決まるのではないか」としている。

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「クローン」といえば、「まったく同じ生物を造る技術」のわけだが、僕が最初にクローンというものを知ったのは、「ルパン3世」の映画のマモーだったような記憶がある。
クローンというのは、姿形は一緒でも本人が記憶を有さない分、やっぱり異なる生き物なのではないか、という気がするが。生物の成長には、遺伝的要因と環境的要因があり、クローン技術で遺伝的な面はそろえられても、環境的な要因はそろえられない。肉牛ではクローン技術は非常に有用であるのだ(肉体的特性は受け継がれるから)が、ペットの場合はどうか?という問題はある。姿かたちは同じでも、自分になついていない動物に愛着を感じられるかどうか?
ただし、それもなんらかの方法でクリアできる時代がくる可能性はあるが。

クローンというのは、結局、まわりから見ての「複製」で、もしクローン人間というのができたら、本人は自己同一化に悩むと思うのだが。

「ルパンよ、最後にひとつ教えてやろう、きみはオリジナルのルパンだよ」
つまり、他人に教えてもらわないとそんなこともわからないのだ。




2002年02月14日(木)
2002年2月14日。

Yahooのニュース速報より。

シンガー・ソングライター谷村有美(36)がアップルコンピューターの原田永幸社長(53)と今春結婚することが14日、明らかになった。所属レコード会社がこの日、発表した。2人は知人の紹介で知り合ったが、夫が一般人で企業家であることから、詳しいなれそめなどについては公表しないという。結婚式についても限られた身内で執り行われる。
 結婚について谷村はこの日、ファクスで「とても明るい気持ちで決心することができました。ファンの皆さまにご報告できることをうれしく思っています」と喜びのコメントを出した。

 谷村は、87年「NOT FOR SALE」で歌手デビュー。直後からかわいらしい顔立ちと、軽やかで伸びのあるハイトーン・ボイスで注目を浴び、現在までに27枚のシングル、14枚のアルバムを発売している。音楽活動に励む傍ら、ラジオパーソナリティーやエッセーなどの執筆活動にも積極的に取り組んでいる。
今後については、本人の意向もあり、家庭を最優先した活動を行っていく。

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「タニムラ、結婚!」というこのニュースをみて、まず思ったことは「まだ結婚してなかったのか…」ということ。あと、もう36歳なのか…ということでしょうか。現30歳の僕にとっては、谷村有美は、ほんとに等身大の憧れのアーティストで、コンサートにも2回くらい行った記憶があります。
ちょうど大学くらいのときに、全盛期だったんですよね、彼女。
頭のいい、気さくなお姉さんといった印象のラジオのパーソナリティと高くて、聴いててフニャっとなってしまうような特徴的な声。
名曲「Tonight」で涙したこともありました。
「元気出してソング」の旗手のひとりとして、同世代の渡辺美里や永井真理子などと比較されていましたが、僕の当時の感性では、渡辺美里らが、高圧的というか、押し付けがましい励ましソング(ファンの人すまん)と感じられたのに対し、谷村有美の歌には、(いろいろあるけど、でも)がんばるしかないんだ。っていう地面から太陽に向かって伸びようとする花のような強さとはかなさを感じていたものです。
かなり長い休養期間があって、最近復帰したときに年齢相応の「大人の歌」を歌おうとしてもがいてる姿は、観ていて痛々しい印象がありました。
今回の結婚となんらかの関連があるのかはわかりませんが。

愛に年の差は関係ない!とか言いますが、相手の方の社会的地位や年齢など、突っ込まれやすい状況(おそらく、まったくオールクリーンというわけではなさそうですね、記事のニュアンス的にも。そうでなければ結婚するのに「決心」という言葉を使わないと思う)。
それでも、周囲に反対されながら結婚する姉をみるような気持ちで、彼女の幸せを祈りたいと思います。20代前半の多感な時期に僕を支えてくれた彼女の。
しかし、これから旧譜を耳にするたびに「アップルの社長と結婚した」という前置詞が頭に浮かぶのは、ちょっと憂鬱ではありますね。





2002年02月13日(水)
2002年2月13日。

 世界心臓連合(WHF)は、人を愛することが心臓に良い効果をもたらすとして、バレンタインデーを推奨するメッセージを発表した。
 WHFによると、人は愛し愛されることで心臓病を引き起こす心的な3大要素であるストレス、うつ、不安を軽減できる、という。
 WHF次期会長で英国インペリアル大学のプールウィルソン教授は、世界中で3人に1人が心臓病や発作で死亡していることを指摘。これはエイズの6倍以上に相当するとし、心臓に良い効果を与えるバレンタインデーの重要性を強調した。(ロイター)

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う〜ん、なるほど。心臓によいバレンタインデー。
しかし、これを読んで、「むしろ俺はバレンタインデーがストレスなんだよっ!」と叫んだ日本人は多いはず。
もちろん、僕もそのひとりです。
確かに、「愛し愛されること」は、ストレスをやわらげる効果があるでしょう。それは異論のないところ。
しかし、愛そうとすること愛されようとすることには、多大なストレスがかかるのですな。駆け引きの場となってる日本のバレンタインには、これはあてはまらないような気がします。
だいたい、これは「バレンタインが心臓によい」というのとは、ちょっと意味あいが違いますよね。まあ、チョコもらえないからって心臓発作起こす人もほとんどいないとは思いますが。
 いつだっておかしいほど誰もが誰か愛し愛されて生きるのさ。




2002年02月12日(火)
2002年2月12日。

「ハア?金?」 〜ソルトレイク五輪で、銀メダル獲得後に記者に「ぎん(銀)メダルの感想は?」と質問され(確かに言葉がはっきりせず、「きん(金)とも聞こえた)た男子スピードスケート500Mの清水宏保選手が答えた科白。

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インタビューを見ていて、このインタビュアーがこの一言で引きまくっていたのが画面越しに伝わってきた。「い、いえ、ぎ・ん・メダルです…」とあわてて言い直してましたね…。清水選手は、ものすごく正直な人だなあ、と思います。普通。こういうときって、残念だけど、がんばりました、よくやった!というような論調になってしまうもんだから。日本人で銀メダルであんなに悔しそうな人は初めて見たよ(もちろん、人にみえないところで悔しがってたひとはたくさんいたんだろうけど)。あとは、銀で責められた代表格は、小川直也くらいか。
僕が今日言いたいのは、別に「清水よ、銀でも立派だ!とか、人にアタルナヨ!」ということじゃなくて、世の中には、これだけのプライドを持って勝負している人もいるんだ…という純粋な驚きなのです。
銅メダルで「私ってすごくない?」とお母さんに向かって口をついて出たという里谷選手とは、けっこう近いような遠いような。
とりあえず、おつかれさまでした、清水選手。
そして、インタビュアーの人もおつかれさまでした。
僕だったらあの場面は、泣いて逃げ出しそうです。



2002年02月11日(月)
2002年2月11日。

Number 542号 清水宏保〜もう一度金メダル〜より抜粋。

 清水のトレーニングは、目を覆いたくなるほど過酷である。特に自転車のローラーを使う無酸素系のトレーニングは、心拍数を生命的限界の220ぐらいにまで上げ、筋肉と脳への酸素の供給を絶ちきるのだ。酸素の供給を絶たれた筋肉は痙攣を起こし、脳は脳死寸前のブラックアウト状態になる。目の前の光が消える一歩手前で自転車を降りるが、苦しみのあまり地べたをのたうち回り、意識が回復するとまた同じことを繰り返す。初めてこの練習を見たときは、不覚にも涙がこぼれた。
「やる方だってイヤですよ。このトレーニングの時は前日からドキドキしますもん。でも、筋肉を破壊しないと新しい筋肉が再生されない。ただ単に筋肉の破壊なら電気ショックを与えても出来ます。でも無酸素系のトレーニングで同時に脳も変容していかないと、いくら筋肉を鍛えても指令を出す脳の限界値が低ければ、意味がなくなってしまう。」(「」内は清水選手の発言)

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すごい、というか鬼気迫るトレーニング。こんなことやってたら、死ぬんじゃないだろうかと思う。正直、ここまでやって金メダルを獲る必要があるんだろうかと疑問なくらい。それでも、勝負の世界では必勝はありえない。
世界の頂点に行くには、肉体的だけでなく、精神的な強さ(というよりこれは欲望というか、執念ですね)が必要みたいです。
メダルというより、自己完成へのあくなき欲求。
この記事、初見の印象では、すごいというより怖かった。
清水選手、2本目もいい結果がでることを願っております。



2002年02月10日(日)
2002年2月10日。

時事通信の記事より抜粋。

【南米最南端から人類発祥の地まで約5万キロをたどる旅「グレートジャーニー」を続けていた医師で冒険家の関野吉晴さん(53)=東京都調布市=が10日、目的地のアフリカ・タンザニアのラエトリに到達したことが、日本の関係者に入った連絡で分かった。出発から足かけ10年に及ぶ旅だった。
 ゴールした関野さんは「途中でキリン、ヌーなどアフリカらしいさまざまな動物を見ながら、自然に触れつつ楽しくゴールまで来られた。ここをゴール地点にして本当に良かった。ほっとした」と話したという。
 人類は約400万年前、東アフリカで誕生し、進化しながらアジアや南米に拡散したとされ、英国人の考古学者ブライアン・フェイガンはこれを「グレートジャーニー」(大いなる旅)と名付けた。】

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5万キロ…ほんとに気の遠くなるような話ですね。
実際、メディアで取り上げられるのは、スタートとゴールくらいのものなのに。しかも、出発から10年もかけてというのはすごいことだ。
が、それと同時に果たしてその旅に意味があるのか?という気もしなくはないけれど。確かに、人類のルーツを確認するというためには重要なことなのかもしれないが、当時とは地形も違うだろうし、人類は何百万年もかけてその棲息地を広げてきたのだから。
まあ、実際のところは「冒険をしたいから冒険をする」ということなんでしょう。
ところで、この関野さん、一ツ橋の法学部を卒業したあと、横浜市立大学の医学部を卒業されているんですね。冒険に役立つと思ったからなのでしょうか?ちょっと気になっただけなんだけど。



2002年02月09日(土)
2002年2月9日。

ジョーエレン・デミトリアス著「この人はなぜ自分の話ばかりするのか」より抜粋。

【「人を読む」テクニックを身につけるためにまずやるべきことは、自分がいつ、どのように人とふれあっているかを意識することだ。今度誰かに連絡をとる時、次にあげる「ふれあい度」を少しずつ上げるように努力してみよう。コミュニケーションの質を高めていくのだ。

ふれあい度1:顔を見ながら話す
ふれあい度2:電話で話す
ふれあい度3:手紙、ファックス、Eメール、留守番電話を使う
ふれあい度4:人に頼む

人とふれあうということは、十分間何かについて議論することではない。微笑みながら、相手の目を見て天気の話をすればいいのだ、表面的な社交術だと思う人がいるかもしれないが、それは違う。こういう小さな「社交」から、信頼とコミュニケーションーそして人を読むことがはじまるのだ。】

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僕はふれあい度1〜2はかなり苦手です。よっぽどの用事がないと自分から電話かけたりしないし(世の中には「ヒマだから」という理由で他人に電話をする人がいるようですが、そんなの信じがたい。
ふれあい度3は、比較的得意なんですけどね。
まあ、なるべく電話くらいしてみるようにしたほうがいいのかな。
ふれあうというのは、別にお互いの人生観について語り合うとか、世界平和について語り合うということじゃなくても世間話でいいということなんですね、著者によると。
ただ、自分を「読もう」としているひととふれあうのは、ちょっと感じ悪いなあ。他人を読もうと思ってふれあうことは、「読まれる機会」も増えるわけだから。



2002年02月08日(金)
2002年2月8日。

ソルトレイクシティの冬季五輪開幕。共同通信の記事より。

【今回ですか? 自分のために飛ぶんです」。普段は笑顔を絶やさない゛ミスタースマイリー″原田雅彦選手(雪印)が真顔で言った。 4度目の五輪挑戦となる33歳のベテランジャンパーにとって、ソルトレークシティーは恐らく最後の五輪となるだろう。 四年前、地元開催の長野では感動のドラマの主役だった。金メダルがすぐそこにあった一九九四年リレハンメル五輪の団体は、原田選手の失敗ジャンプでつかみ損ねた。
「おれだけじゃない。みんなの力で取ったんだ」―。その借りを見事に返し、団体金メダルに輝いた長野での姿が日本中を感動させた。

 一つの目標を成し遂げた後の四年間、道は決して平たんではなかった。一昨年の雪印の食中毒事件で、スキー部は約三カ月間、活動を自粛した。フォーム改造が思うようにいかず自分のジャンプを見失った時期もあった。そして五輪直前になってグループ企業、雪印食品の不祥事。おどけた会話が得意の原田選手が、おわびをする姿が痛々しかった。

 二日に東京で行われた日本選手団結団式で、決意を述べた原田選手は一つの区切りをつけた。開会式には出席せず、競技に全精力を傾けることを決めた。 最大の理解者、妻恵子さん(33)は今回、自宅で応援する。恵子さんの「特別なことはいらない。原田は原田らしく」の言葉を胸に、一人のジャンパーに立ち戻って原田選手は大舞台に挑む。】

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長野のジャンプ男子団体の金メダルを僕は救急当直室で観ていたのだが、原田の姿をみての最初の感想は「このひと興奮しておかしくなってるよ…」であった。でも、今でもそのシーンをしっかり思い出せるということは、よっぽど心に残っているのだろうと思う。
冷静に考えると、団体は他の3選手が安定したジャンプをみせ、原田はひとりで失敗ジャンプをし、そして自ら勝負を決する大ジャンプを見せたのだが。まさに、ドラマチックジャンパー原田。
緊張して失敗したり、泣いたり笑ったりという人間的な部分が、原田人気をささえているんだろう。そう、僕の中にも原田がいると思った人、たくさんいたんじゃないかなあ。
原田選手、雪印事件など辛いことも多いでしょうが、がんばってください。

ところで最近オリンピックのCMで、「自分のためにがんばってください」っていうのがあるんだけど、あれはかえってイヤラシイ感じがするのは、僕だけですか?他人が言うことじゃないわな。



2002年02月07日(木)
2002年2月7日。

Yahooニュース版より。

【普及率の上昇に伴って、携帯電話市場の頭打ち感が鮮明になってきた。電気通信事業者協会が7日まとめた1月末時点の携帯電話の契約状況によると、新規契約から解約を差し引いた月間純増数は43万5500台となり、96年1月の調査開始以来、過去最低の伸び数となった。

 携帯電話の契約増が鈍ってきたのは、普及率が上昇したためだ。1月末で、全体の契約台数は前年同月比15・0%増の6753万6600台。人口に対する普及率は53・1%に達している。携帯電話の純増数は調査開始以来、年間1000万台前後の増加数を記録してきたが、昨年11月に初めて単月の純増数が50万台を割り込むなど、昨年後半から純増数の落ち込みが加速している。】

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携帯電話の人口に対する普及率53%っていうのは、とてつもなくすごい。
実際には赤ん坊や寝たきりの高齢者などもいるなかでのこの数字。
契約数が鈍ってきたのは、流行うんぬんより、いきわたりつくしたためか。
それにしても、ここ5年くらいで若者のライフスタイルをもっとも変えたのは、携帯電話ではないだろうか。
いつでも、どこにいても連絡が取れるというのは、メリットでもあり、これほど拘束されるものもないと思うのだが。援助交際や不倫も携帯がこんなに普及しなければ、こんなに一般的なものにならなかったのかも。
実際、どこでも、いつでも電話がかかってくるかもしれないっていうのは、けっこうストレスになる都思いませんか?
逆に、「携帯を持たないライフスタイル」というのが今後広がっていきそうなのだが。
夕方の10年前くらいのドラマ(「東京ラブストーリー」とか)を観ていると、こいつら携帯持ってたら別れなくてもすんだかもしれんなあ。
とふと思うことが多いです。



2002年02月06日(水)
2002年2月6日。

村上龍「eメールの達人になる」集英社新書より抜粋。

【(eメールで)意外と親切なのは、返信の必要がないことを明記したものだ。事務的な内容であれば、「ご連絡まで」「ご報告まで」というようなあいさつ文で結ばれていると、「返信不要」に近いニュアンスになる。「このメールに関する限り返信は不要です」わたしはよくそう書く。レスポンスそのものが相手の時間を割く、という前提に立つと、「無視してもいい」と明記するのは受け手にとってはありがたいことだ。】

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著者が、「eメールの使い方、書き方」についてのノウハウを書いた本。
ただし、あくまでも仕事用のメールの書き方であって、これを読んでもメル友が増えることは無いと思われます。
で、上記の文なんですが、僕もメールのやりとりはけっこう多いので、「果たして、これは返事をするべきメールなのか?」もしくは、「自分でこのメールのやりとりを断ち切っていいものだろうか?」と思うことは多々あります。
まあ、どちらかが止めておかないと、無限ループになってしまうわけなんですが。

「〜を教えてください」「それは〜です」「ありがとうございました」「どういたしまして」「これからもよろしくおねがいします」(以下略)
確かに、「返信不要」と書くと助かることは多いんじゃないかと思います。
ただ、自分から書くと、なんとなく「もう送ってくるな」みたいなニュアンスにとられてしまうケースも多いんじゃないかな。

僕も、たまに使います「返信不要」。
携帯メールの場合がほとんどですが。
携帯メールはとくに、無限ループにおちいりやすいので。
返信がこないと、ホッとするときなんてないですか?
忙しそうな相手には、かえって喜ばれるんじゃないでしょうか?

ただし、この本自体は、村上龍じゃない人間にとっては、「それはちょっとどうかなあ…」と思われるところが多いのも事実なのですが。
結局、eメールの受け取られ方も「人柄」に左右される部分が大きいということで。




2002年02月05日(火)
2002年2月5日。

毎日新聞のコラム「ひと」より

外国人プレス向け内閣副広報官に女性ではじめて就任した嘉治美佐子さんが、国連難民高等弁務官事務所で半年間補佐官として仕えた緒方貞子さん(当時高等弁務官)を評したことば。

機内で他の客が眠っていても、ひとりだけライトをつけて資料に目を通す緒方氏。
「仕事に誠実な人です。体力、知力、気力とも空前絶後の人。
それでいておしゃれ。尊敬しています。」

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スーパーウーマンなどともてはやされている陰で、ちゃんと努力をされているわけです。その業績よりも、その姿勢を見習わないといけないですね…
しかし、仕事熱心な人っていうのは、えてして他人を受け入れないもの。
それでいておしゃれ」と他人に思わせてしまうところが、いちばんすごいことなのかも。この「仕事に誠実」って、すごくいい言葉だと思いませんか?



2002年02月04日(月)
2002年2月4日。

日刊スポーツの記事より抜粋。

【歌手浜崎あゆみ(23)が昨年末に行ったカウントダウンライブで、身体障害者に対して差別発言があったとうわさされている問題で、浜崎が所属するレコード会社エイベックスの依田巽会長が4日、浜崎のホームページで事実無根であると説明した。
 浜崎は昨年の大みそかから1日にかけて東京・代々木体育館で行われた同ライブの途中、ステージから観客席前方を指さして「前の方座らないでくださ〜い。ねっ、どう思う。座ってたよ、今一番前で見てんのにさぁ座ってたよ。感じ悪いね〜」と話した。この発言をめぐって、インターネット上の掲示板には「前方に座って見ていた身体障害者に対して行われた差別発言」として書き込みされ、インターネット上で反響を呼んでいた。当日の会場のもようを録画で流すサイトも登場したが、前に座っていた人のシーンはなかった。

 依田会長は「ライブ当日、観客席前方に着席していたのは関係者です。(浜崎の発言は)ファンの皆さんが立ち上がって応援してくれているのに、せっかく特等席で見ている関係者ならなおさら座っていないで一緒に立ち上がって応援して欲しい(略)という浜崎あゆみの気持ちを言葉にしたものです」と説明。特定の人物を揶揄(やゆ)・嘲弄(ちょうろう)するためであったり、ライブを着席しながら観賞するということを否定するものではないことを強調していた。インターネット上での反響があまりに大きくなったことから、会長自らが公式に否定する異例の展開となったようだ。】

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たぶんこれは、「身体障害者に対する差別発言」ではないと思われます。
まあ、仮に車椅子で観ていた人がいても、ステージの上からではわからなかっただろうしね。
 ただし、この発言が「単に座ってライブを観ていた人」にあててのものであったとしても、感じ悪いのは、お前のほうだぞ浜崎あゆみ。
別に、座ってみたい人はそうすればいいじゃない、違うか?
もしくは、思わず立ち上がってしまうようなステージをやれない己を恥じろと思うのですが。だいたい、観客のみかたにケチをつけるなんて、芸能人としてはどうかなあ、と思うわけです。
自分の気持ちに正直なのが彼女のウリなんでしょうか。
依田会長の「ライブを着席しながら鑑賞するということを否定するものではない」って、思いっきり否定しているようにしか聞こえないんですけど…

浜崎あゆみに限らず、コンサートは「約束事」が多くて疲れます。
みんなが同じ踊りをしている姿は、ある種の宗教的ですらあるし。
なんでこっちが金払ってアーティストを楽しませないといかんのだろう?






2002年02月03日(日)
2002年2月3日。

Number542.「地球上いちばん安全な場所」(青木富貴子・文)より抜粋。
【ソルトレイクシティの警備はアトランタ砦を凌駕する想像を絶するものになるだろう。しかし、世界に発信されるテレビ中継では「地球上いちばん安全な場所」という標語が声高に謳われ、テロを迎え撃つ米国の強さばかりが強調されるに違いない。その裏では爆弾予告が届き、報道規制も敷かれることだろう。】

まもなく冬季オリンピックが開幕。アメリカにとっては、NY同時多発テロ事件以来最大の国際的なイベントということもあり、新たなテロの標的とされる可能性が危惧されている。
メダルの数を一生懸命算段している人々の裏側に、とにかく無事に大会を終えられれば成功、と思っている人たちがいるわけだ。
こういうスポーツの祭典にテロを持ち込むなんて、といいたいが、人に嫌がられる状況でやってこそのテロリズムであるのだろう。
まずは、無事に終わることを祈りたい。
そして、願わくばナガノのときのような心を揺さぶられるシーンを。
当直室のテレビでジャンプ団体の優勝シーンを観たときのこと、今でも思い出せます。原田キレとる…でもよかったな…と。

そういえば、ワールドカップも格好のテロの標的だと思われるが、対策は万全なのでしょうか?決勝トーナメント進出も大事だけど、まずは無事に大会を運営することが開催国の義務では。



2002年02月02日(土)
2002年2月2日。

伊集院静「アホー鳥が行く」より。
【人生はほとんど20歳までで、その人がどう生きていくかが決定する。それは古今東西、歴史に残る人間を見てみればわかる。立派な人、偉い人は若くして何かを成し遂げているものだ。それができなかったら、あとはもう何やらわからぬものにしがみついて、他人の迷惑などかえりみず、汚物をもらしながら歩いて行くしかない。】

確かに、そういう節はあるのだ。あんまり考えたくはないことだけれど。
文明の深化にともなって、しだいに才能を発揮する年齢は、若年層と高齢層の二極分化している感はあるが。
これからと思っているときにはもう手遅れってことなのだろうか。
大部分の人間にとって、自分が普通であるということを受け入れていく過程が、大人になるということなのかな。



2002年02月01日(金)
2002年2月1日。

エコノミスト、リチャード・クー氏がアメリカの大学院に留学中に、ひどいストレスを感じるようになったため、精神医学を学んでいた弟に解消法を尋ねたときの弟の返事。
「人間がほんとうにリラックスできるものというのは、そんなにあるものではない。それはせいぜいひとつかふたつで、しかも人によって異なる。それを見つけるのがストレス解消の第一歩だが、最近の学説によると、子供のころに楽しんだものは、大人になってもリラックスできることを探す大きなヒントになる」

「趣味」というほどのことは…とか、「仕事が趣味」という人って、けっこう多いんではなかろうか。それも、「趣味=リラックスできること」とは限らない場合もままあるし。確かに、子供のころやっていたことというのは、自分の潜在的なリラックス法を見つけるのにはよさそうな気がする。とくに、ひとり遊びの記憶は。
実際、なかなか他人と一緒だと、楽しいけどけっこう疲れるっていうことも多いわけで。プラモデルとか釣りとか裁縫とかみたいなものって、大人になってもだいじょうぶだよねえ。まあ、そのものじゃなくても、それに類似した、もしくは発展した趣味ということでしょうが。

僕の趣味は読書とパソコンだったりするので、今のところ時代の波にのまれたりはしていませんが。ああインドア派。
素朴な疑問として。みんなスノボとかスキーとか掲示板の「趣味」の欄に書いてるけど、ほんとにみんなそんなにスノボやってるの?