連句に参加していて、時にイヤな気持ちになることがある。 身体の障害や、特徴を論った言葉を、平気で使う人がいる場合である。 人は、いろいろの特徴を持って生まれてくる。 足の長い人、短い人、色の白い人、黒い人、手が大きい人、小さい人、背の高い人、低い人、エトセトラ・・。 そのことの事実自体をいう言葉は、昔よくあったような、聞き苦しい表現や、明らかに侮蔑の意味を込めて言うのでなければ、聞き過ごせる場合もある。 問題は、たとえば、体の特徴を、揶揄して、笑いものにする言い方に見られるような、言葉の使い手の気持ちである。 先日、ある集まりで、そのような言葉に出くわした。 私は、言葉として存在することは、知っていても、それを言えば、傷つく人がいるだろうと思うような言葉は、使いたくないと思っている。 これは、単に、差別語と一括りされることとは違う。 それを使う人の、言葉に対する感覚のありかた、心の貧しさを思うのである。 連句では、俳諧味があるかどうかと言うことが、表現の大事な要素だが、俳諧というのは、人を貶めたり、揶揄したりすることではない。 「私はそう言う言葉は使いたくない」というと、「ユーモアだからいいじゃないの」という反論があった。 その意見の方が多かったので、それはそのままになった。 後味の悪い座であった。 複数で巻く連句では、少数意見が無視されることはある。 連句を止めたくなるのは、そんな場面に遭遇した時である。 「私は、それが差別語かどうかを、問題にしてるんじゃないの。 捌きがそれでいいと思えば、それで治定すればいい。 言葉に対する感じ方、美意識は、みな違うし、使う人の人間性が、あぶり出されてくるだけのことだから。 ただ、私は使わないと言ってるだけ」とそれだけ言った。 たとえば、人より歩くのが遅い人がいるとする。 健康体で、努力すれば、もっと早く走れる可能性があれば、「遅いわね」というのは、それほど気にしなくてもいいかも知れない。 選べる状況にいる人になら、それも、時には、ユーモアになる。 日本の母親が、こどもに言う言葉で、一番多いのが、「早くしなさい」という言葉だと、聞いたことがある。 これなどは、子どもの可能性を信じているから出てくる親たちの、一つの言い方であろう。 しかし、病気か何かの原因があったり、あるいは、生まれつき、早く走れない状況にある子どもに、それを言うのは、相手を無為に傷つけることになるだろう。 心ある母親なら、決してそんな言葉を口にしない。 大人でも同じだ。 体の特徴を挙げて、それを、からかったり、笑いの対象にするのは、醜いし、なんて、無教養な、心の貧しい人だろうと、私は思ってしまう。 また、体に何かのハンディを負っているからと言って、そのことが直接、その人の性格や人格に影響を及ぼしているかどうかも、判らないことである。 それを、短絡的に結びつけて、決めつける言い方も、私は、きらいである。 判っていても敢えて言及しない美しさというものも、大事にしたい。 国会討論会じゃあるまいし、事実関係を突き詰めることが、いつも正しいわけではない。 おおらかで、人間への愛が底に流れていなければ、文芸の美しさにはほど遠い。 どんなに偉い学者や専門家であっても、私は、愛のない人は、信じない。 中世に生きた一人の貴人が、体が不自由だったかどうかを推測し、分析することに、どんな意味があるというのだろう。 折角愉しんで参加していた座が、白けた結びになってしまったのは、残念なことであった。
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