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「わたやんの日記」J2横浜FCを追いかけて
わたやん (つあ)
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2006年01月21日(土)
我が心の観音荘その1。

その昔、東京都下国分寺市に「観音荘」と言う古臭い呼び名のアパートがあった。
俺が大学一年当時家賃は八千円。四畳半に申し訳程度の流しがあって一応部屋で自炊はできるが換気扇は当然無く、流しの横の跳ね上げ式の板を上げると小窓があって自然換気ができるって部屋だった。
2階が4部屋、1階が3部屋あって、便所(決してトイレではない)は当然共同、1階の廊下に皆が使えるように洗濯機があった。
俺がそのアパートに初めて行ったのは、大学生活の5年間好き勝手させてもらった音楽サークルの門を叩き、その晩さっそく先輩に連れられて飲みに行った帰りのことだった。
なにせ俺はふぐすまのド田舎で育った。どの位田舎か聞きたいのならアンテナの中の人に聞いてくれ。きっとみんなの想像を絶する田舎だから。ちなみに俺の実家は未だに井戸で、河川の護岸工事が進んだ今ではめったにないことだが、昔は集中豪雨で川が氾濫するとその水がどっぽん便所(肥溜めに便器が付いてるあれだ)に入り込み、結果溢れた水と共に糞尿が井戸に入り、集中豪雨後の保健所の検査で「飲用水としては不衛生である」と宣告されるほどの環境で育った。
そんな田舎者が、例え東京の田舎国分寺であっても、店に飲みに行くってのは興奮の極みだった。俺の実家は酒屋だったし、中学生の時には売り場からちょろまかした「オールド」を隠し持っていたし、爺様も親父も立派な酔っ払いだったから、酒だけは強かった。先輩とも互角に酒を飲むことができた。
一軒目を軽くこなしもう時間は終電はないしだったので、ある先輩が「じゃあ朝までやってる店に行こう」とのたまった。
その店は変な店で玄関を入ると土間があった。本当の土間がね。で畳の部屋に上がるとテーブルと言うよりも飯台が数脚あって、なんか東京に出てきた俺が言うのも何だけど、ふぐすまの方がよっぽどマシだった。
そこで朝まで飲んで過ごした。確か帰り道で出勤途中のサラリーマンが駅に向かってるのに逆行して先輩の家に行ったんだから、6時はとうに過ぎていたんだと思う。
そうしてやってきたのが先輩の住む「観音荘」だったわけだ。うちの大学には仲の良い音楽系サークルが二つあって、そのアパートは殆どがそこの連中が住んでいた。一人だけ当時国分寺駅の北口にあったサウナで働いているオッサンが住んでいた。
元来俺には二つの夢があった。高校時代良い先生に巡り合いこれも好き勝手やらせて貰い、音楽どっぷりに過ごさせて貰った。当時高校の先輩には、機械科トップの成績で後芝浦工大に推薦で進学する人がいて、職員室に呼び出され「お前推薦の枠があるのに進学しないってのはどういうこった」と進路指導の先生に詰問された時に「ん?俺歌手になっからいがね」と平気でのたまう人がいたり。後にプロミュージシャンになってドラマの主題歌歌って2万枚ほどCDが売れたりって人がいて、俺も絶対音楽やるみたいな気持ちがあった。
もう一つは調理師の夢。これは両親の猛反対を食らって諦めた。今は、やれシェフだのパティシェだのと華やかだが、俺の頃は「そんなのヤクザ崩れがやることだ」って認識だったのよ。少なくとも昭和一桁のすぐすまの親たちはね。
元々俺たちの旅を見て登場人物たちの生き方がかっこいいと勘違いしていた俺は、だったら東京さ出て学生やろうと思ったのよ。
そしたら、観音荘の住人であるある先輩に出会った。部室は隣の隣のサークルの先輩だった。運命的な出会いだった。


以下次号に続く。これはオフシーズンの不定期更新ですので次はいつになるかは本人も全然わかりませんw

PSここを見ているだろう甥っ子に一言。
お前みんなにここに書いてあること内緒だぞ。