a Day in Our Life


1999年03月04日(木) 満月(川福)




 その日は満月だった。

 満月の日に発情するのは狼だったか、動物そのものだったか。それじゃあ大きな意味で人間だって動物なのだから、発情したっておかしくない。それともあれはデマで、本当は全く関連性のない話だったかも知れない、とそこまで考えて、どうだっていい、と川島は思った。
 要するに、満月にかこつけたいだけなのだ。
 そういう理由付けをして、満月だから、と言い訳をしたいだけなのだ。
 
 その日、明るい月明かりに誘われるようにして、その手を掴んだ。
 男にしては細すぎる手首は、ちょっと力を込めるとぽきりと折れてしまいそうで、好奇心の赴くままに、そうしてしまいたい衝動に駆られる。しかし川島が行動に移す前に、するりと抜け出した手首を不審そうにさすった福田は、言葉より雄弁に川島の意図を問うた。
 「お前も暇やなぁ」
 俺ばっかりからかって楽しいか?と言った福田は、その事自体には慣れてしまったようだった。必要以上に福田に絡む川島を、案外本当に自分は何か恨まれるような事でもしたのかと、ほんの少しだけ不安に思う、そんな顔。
 川島にだってよく分からない。何が自分をそうさせるのか。
 恐らくは胸にぽっかり空いた穴に、すぽんと福田が入り込んで来たのだった。たまたま偶然だったかも知れないけれど、それは綺麗に嵌ったに違いない。
 気が付けば気になって、勝手に苛立って。それでいてたまに、ひどく優しい気持ちになれた。浅ましい同調だったかも知れないけれど、不器用な福田の生き方が、川島にとっては、憎むだけのものではなかったから。
 「今日は満月やから、福田さん寂しいんちゃうかなぁ思って」
 徳井さんの代わりをしてあげに来たんですよ、と言った。
 満月と発情期が関連しているのなら、今日、一人でいる福田は辛い思いをするに違いない。そんな戯言に本気でざわついて、のこのこ来てしまった自分は、よほど馬鹿げているに違いない。けれどそれももう、どうでもいいと思った。
 骨のような手首と似て、するりと触れた首筋も、やはり力を入れれば折れそうに細かった。撫でるように指を滑らせて、届いた中心に親指を押し上げると、ごろりと喉仏が動く。緊張ではなく生唾を飲み込んだ福田と、至近距離で目が合った。
 カーテンを閉め忘れた窓から、その時月明かりが照らした川島は、薄っすら笑ったようにも見えた。
 「…痛っ」
 がり、と音がして首筋に歯が立てられる。噛み付かれたのだ、と理解したものの、何故そうされているのかはさっぱり分からなかった。
 「……何で噛むねん」
 「吸血鬼に噛まれた、言えばいいでしょ」
 誰に、とは言わなくても分かるし、そもそも質問に答えてなかったけれど、福田は福田で何だかもう、どうでもいいと思いはじめていた。
 なげやりなのでは決してない。
 では何故?と問われれば、川島がまっすぐに福田を見たから、だったかも知れない。
 「吸血鬼なんて、信じて貰われへんわ」
 そうでなくとも色々誤解や語弊が生じそうで、考えただけでも面倒臭かった。自分達コンビは付き合いの長さの割に秘密事も多い。それは故意に隠しているのではなく、なんとなく、言いそびれてしまう事も多いのだ。
 「そういうプレイじみた行為も、真似てるつもりなん?」
 誰の、とはやはり福田も、言うのは避けた。唇だけで笑った川島は、そうかもね、と呟く。
 決して徳井になりたいと思っている訳ではない。けれど今日、代わりでも福田に触れたいと思った。それは猛烈な衝動としてそう思ったから、やはり満月のせいなのかも知れない。
 噛んだばかりの首筋に唇を這わせながら、両手をゆっくりと腰に回す。そうすると体が密着して、薄い胸板の感触がした。そんなものにはっきりと欲情した自分を振り返る余裕は、そろそろなくなってきていた。
 「福田…さん」
 「なぁ、川島」
 唇と唇がまさに触れんばかりの至近距離で、つい呼び淀んだ川島に、福田は真顔を浮かべる。
 「ええよ」
 と、言って笑った。
 「ええよ、徳井くんやなくてもええねん」
 川島は一瞬、言葉の意味が分からない。そんな川島に、福田はもう少し笑みを深める。
 「川島でええねん」
 「よくないですよ」
 川島にしてみれば、予想もしなかった福田の反応だった。だって福田がどれほど徳井に執着して、自問して、愛してきたかを見てきたのだ。いつも、自分は手に入らないものばかり求めてしまう癖がある。だから福田にも惹かれたのだろうと思ったのだ。
 「俺がええ、言うてるのに疑い深いんやなぁ、お前は」
 福田の笑い顔がひどく柔らかい事に、川島はドキリとする。まるで本当に愛されているみたいに、福田の細い指が川島の頬に纏わりつく。触れた唇は肉薄で、けれど確かに気持ちいいと思った事。
 「福田さん…飲みました?」
 そうか、と川島は思う。自分が来る前に、福田はきっと、大量にアルコールを摂取しているのだ。だから今の福田は酔っていて、だから、こんな。
 「飲んでへんよ」
 けれど、語尾もしっかりと言い切った福田は、今日はまだ一滴も飲んでいないと言う。飲もう思ったらお前が突然来たんやんけ、と言われても俄かに信じられない。
 「嘘や。飲みましたよね」
 「やから飲んでへんて」
 「飲んだでしょ」
 「飲んでへんて、ほんまにお前は…」
 もうええから、とまたひとつキスをされる。額のオイリーさとは裏腹に、ややかさついた唇が、甘いとすら思う。すぐに離れていくのが口惜しくて、追い掛けたくなってしまう。それが最後の砦かのように、川島はもう一度だけ言った。
 「止めるなら今ですよ」
 止まるなら今だ、と自分でも思った。墜ちていく自分を想像した。けれどまっすぐに川島を見た福田は、迷いのない目をしていた。
 「何で」
 福田はもう、決めてしまったのかも知れなかった。何が…とは、怖くて言えなかったけれど。川島は知らず、ごくりと喉を鳴らす。
 「もう、後戻り出来ませんよ」
 「お前はしたいん、後戻り」
 静かな、福田の声がした。それは問いかけのようでいて、川島の背中を優しく押し出す。
 「……いえ、」
 決意の分、低い声になった。それは今まで抱えてきた様々な想いも孕んで、搾り出すように。震えるような川島のその声に、福田が微笑いかける。
 「ほなもう、黙り」
 その言葉に完全に押し出される形で、今度こそ自ら口づけた。薄い唇から歯列を割って、その綺麗に整列した仮歯をなぞった時に初めて、おかしな話だけれども、想いが成就したのだと知った。


***


2007/08/17

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