a Day in Our Life
今でも思う。 もしもあの日、井上が声をかけてくれなかったら、今の自分はいなかったと。
川島が所属する劇場の楽屋は、広々とした空間に芸人を詰め込む形をとっていたから、部室もかくやという有様だった。 芸暦や人気の上の人たちが、間食しながらだらだら喋っているのを横目に、下っ端である自分たちは隅のほうで大人しくしていた。 いや、ちがう。茶色い星の住人であるところの相方は社交性を発揮して、いろいろなグループに首を突っ込んでは暢気な笑い声を上げていたから、人見知り選手権ダントツ1位であるところの川島一人が大人しく部屋の隅で小さくなっていたのだ。 ネタ作りをしようにも集中力が切れていたし、本番まで時間もあまりない。 携帯ゲームはあいにく充電切れだったし、そうなるとやれることなんてファミ通を読むくらいしかない。 どうせなら煙草吸いたいなぁ吸えへんけどと無意識に唇を触れば、背後からのんびりとした先輩の声。 最近めきめきと頭角を現しているコンビの片割れだったはず、と振り返ればまさしくそのひと井上だった。 「そのファミ通、今週の?」 「え、あぁ、はい」 返事が遅れた上、慌て過ぎて噛んだ川島を気にすることなく、井上は「読ませて貰うてええ?」と笑う。 黙って手渡せば、ぱらぱらとめくり「うわっ、新作出るんや」と顔をくしゃくしゃにさせる。 「川島くんもゲームすきなん?」 キラキラとした目を向けられて反射的にうなずけば、井上の顔が輝く。 「ほな、ゲーセン行こうや。対戦しよっ」 芸能界=上下関係縦社会、と叩き込まれている川島としては断る権利なんてなかったが、突然すぎる展開についていけず反応が遅れた。 「嫌か?」 「いえ。おねがいします」 「よっしゃぁ!」 満面の笑みでガッツポーズを取る先輩が、なんだか眩しく見えた。
ゲーセンで対戦した日以来、井上は川島をよく遊びに誘うようになった。 ゲームという共通の趣味を通じて一緒にいるうちに、井上は川島の気づかないうちに身につけていた鎧を脱がせてくれた。 それまで楽屋で声を上げて笑う姿をほとんど見せたことのなかった川島が、しばしば井上とのとぼけたやりとりで噴出すようになってからは、他の芸人たちも声をかけやすくなったのか川島と会話を交わすようになっていった。 気づけば、井上の存在抜きでも川島は人とスムーズに接する術を取り戻していた。 それでも井上は特別だった。 いつからか川島は、井上のことを尊敬以上の気持ちでみている自分に気づいていたのだ。 脳裏を占める井上の割合がどんどん侵食していくのが嬉しいような苦しいような複雑な気持ち。 伝えようとは思わなかった。伝えてもどうにもならないことだったし、それでも傍にいられるのなら幸せだった。
「かわしまぁ、ほんまに明るくなったなぁ」 「茶村は最近茶色くなったなぁ」 「なってへんわ! そして茶村やない、田村や!」 「あぁ、最近やなかったな。すまんすまん。元々茶ぁやってんな」 「やから違うって」 能天気な相方の喜びの声にイジり返せば田村は膨れる。 「せや、井上さんがお前のことさがしとったで?」 「はぁ?そういうことははよ言えや」 慌てて楽屋を飛び出して、井上のいそうな場所を見て回る。 すっかり井上の行動パターンをつかんでいた川島はそんなにかからず見つけることができた。 喫煙室のほうから聞こえてきた井上の声。 すぐに声をかけるのに躊躇ったのは、聞こえてきたのが常にない真面目なトーンだったからだ。 会話の前後は見えなかった。だけど妙に胸騒ぎがした。 「分かった。準についていくわ」 「ありがとな」 「けど寂しなるなぁ。明たちともお別れかぁ」 急に出された自分の名前よりも別れの二文字に頭が真っ白になる。 ふらふらと導かれるように声のほうへ歩みを進めれば、河本が先に気づいて顔を上げる。 「あ、かわしま。って、どうした、お前顔色悪いやんけ」 「お別れって、どういう意味ですか?」 「あ、きこえた? 俺たち、東京へ行くことに決めてん」 「……っ」 行かないでください、なんて口が裂けても言えなかった。だから唇を噛む。 「あきら?」 「……がんばってください」 振り絞るようにして伝えた言葉が震えていなくて、少しだけ安心した。 その後の会話は覚えていない。
気づいたときには、川島は一人楽屋にいた。 立ち上がる気力もなく机に突っ伏していると近づいてくる気配。 忘れ物でもしたのだろうか。猫のように足音を立てず川島の後ろを通り過ぎ、そして戻ってくる。 「よかったぁ。あったあった。徳井くんもドジやなぁって……かわしま?」 のろのろと顔を上げれば不思議そうな表情を浮かべた福田がいた。 「具合わるいんか、顔色悪いで?」 「そんなことないですけど」 力なく答えれば、福田のひんやりした手が川島の額に触れる。 「熱はないなぁ。貧血か?」 「いえ、」 「若いからいうてあんまり無理したらあかんよ」 歯並びはあまりよくないし額も頬もテカテカしていたけど、なぜか初めて井上と会話を交わしたときに見た笑顔とダブって見えて、川島はゆっくり瞬きをする。 「チュートリアルさんは、東京行かはらないんですか?」 「ん?どうやろぉなぁ。わからへん。徳井くんしだいやなっ」 急な質問に眉をひそめながらも福田はあっけらかんと答える。 「そぉか。井上さんたちが東京行くこと知ったんやな。懐いてたもんな、川島くん」 寂しなるな。ぽつりと付け加えられた言葉に、川島はそっとうなずいた。 そう、寂しいだけ。寂しいだけだと心の中で繰り返す。
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kaleidoscope【2】 2007/08/22 Kanata Akakura
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