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2002年12月21日(土) |
『モーツァルト!』(井上-鶴岡) |
今日の席は、J列43番。サブセンター上手ほぼ端。 レミゼの時は思わなかったけれど、本当にこの舞台は、 ひたすらセンターに向かって発せられているようで、 少し外れるととても寂しいことが、しみじみ分かった。 センターと交換できるならQ列でも変わりたかったくらい。 しまったなぁ、中川楽はサブセンターでもセンター寄りだけど、 井上楽は2階とはいえ、さらに端っこなんですよ、私。 一度も井上ヴォルフをセンターから観ない状態のままで、 「井上君だと、良いけど盛り上がりきれない」とか言ったら、 井上君に対して不公平なんだろうなぁ。困った(^^;
21日ソワレで、初 井上-鶴岡を観てきました。 実はこの組み合わせでは、この日が楽だったためか、 カーテンコールで互いに目を合わせて同じポーズで挨拶したり、 何かと可愛らしい雰囲気もあって、なかなか楽しかったです。 そして、やっぱり良いよ、鶴岡君。誰と組んでも好き。 小池さん、人を見出す目には長けていると本当に思います。
この回の井上君、二重人格なヴォルフを完成していました。 本当にどうしようもない遊び人な若者ヴォルフ。 「お前は乞食になる」と言われた怠け者コンスと おそろしく似合いで 対等のバカップルぶり。 あまりに無責任で遊び好きなだけの野郎っぷりに、 観ているこちらも、腹が立ってきてしまうくらい。 本当にこんな奴に才能があるのか?私も信じたくない。
対する鶴岡アマデ、苛立ちを隠せない感じに見えて驚きました。 神の才能として高みにあるのではなく、ヴォルフと同等か下。 父に愛されたいと望む気持ちが昂じて、父が望むように 身を慎み音楽の道を邁進しようとする人格と見えて。 ヴォルフ=遊びたい奴、アマデ=父に愛されたい子。 男爵夫人と対した時に、アマデがパパに反抗するのは、 1人でもできるんだよ!ってパパに認めてほしいからかと。
アマデは、とにかくできる時だけでも必死で作曲して、 パパの思いに応えようとしているのに、どう頑張っても ヴォルフはそれを利用するだけで好きなように生きている。 すごく いじらしくて可哀相なアマデに同情してしまって、 何だか井上ヴォルフは、私の中ですっかり悪役でした。
「神は何故こんな男に才能をお与えになったのか!」という 気持ちは、ものすごーーく感じる『モーツァルト!』。 パパもそうだけど、ナンネールなんて可哀相すぎますわ。 コンスはある意味、ヴォルフの体の中でアマデと覇権を争って、 パパの死によって負けてしまったってことになるのかな。 何にせよ、ヴォルフに不幸が起こって嘆き悲しまれるたび、 「お前が悪いんやろが!」と突っ込みを入れてしまう私。 何か、すごい間違った観方の気もするんですけど(苦笑)
でも、ヴォルフとアマデが分裂せずに、バランスを保って 大人になれていれば、そんなふうにはならなかったろうし、 ある意味、抑圧されすぎた子供時代が悪かったっていう、 今どきらしい話になっていると言えるのかも。彼も被害者。 パパの死によってパパへの思いを少し取り戻したヴォルフが 自分で作曲をしてみようと思った事で、アマデに更に近づけ、 融合を果たしたが故の、刺された瞬間の笑みなのかなと感じた。
中川ヴォルフでは♪影を逃れて で、一番泣けるのに比べ 井上ヴォルフでは ♪なぜ愛せないの が、強く響くのは、 そういう、アマデの意味合いの違いなんだろうなぁと思う。 ちなみに♪僕こそミュージックは、井上ヴォルフに歌われると 実は、めっちゃめちゃ腹立つんですけど、私。 「お前と違うやろ、アマデや、アマデ!」って(笑)
やっぱり、モーツァルト=神の子という気がしないけれど、 舞台としては非常に完成度が高くなっていて、なかなか満足。 何だかこの題材がこうなってしまうのは勿体ない気もするけど、 これはこれで、面白い作りだなと思いながら観ていました。 運命に追われている度が少ないからか、観劇後の疲労も少ないし、 それなりに幸せに終わっているのは、有難い舞台かも。 彼を囲む人々の苛立ち度は、中川ヴォルフより高そうだけど(^^;
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