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2002年12月13日(金) |
『モーツァルト!』を見た。本当に。 |
開演前、帝劇地下に眠気覚ましドリンクを買いに行きました。 そうしたら、確か薬局があったと思った場所にはシャッターが。 隣の店の人に尋ねてみたら「2年ほど前になくなりましたよ」って。 2年?!そんなバカな・・・、と思ったのですが、 私がここを利用していたのって、レミが自分的に最盛期の頃。 それはもう、3年以上前なのかなと、今更に気づいたら、 すごーく寂しくなってしまいました。月日って早い。
親切なお姉さんは、別の店への地図をくれたのですが、 何しろ方向音痴の私には迷ってたどり着けず、 結局、眠さがあるままに観劇を始めることに。 でも眠気覚ましの心配なんて全くない舞台でした。
『モーツァルト!』を見た!としか言えなかったです。本当に。 これがモーツァルトだったんだと、心から素直に思えた。 多分、どう考えてもそれは、鶴岡アマデに因る部分も大きいと思う。 パンフレットには芸歴は書かれていず、初舞台の子らしいけれど、 でも。こんなにこんなにやられてしまった。『中川-鶴岡モーツァルト!』に。
今まで、井上-明音と 中川-楓コンビしか観たことなかった。 明音アマデで観る『モーツァルト!』では、モーツァルトは、 もしかすると精神分裂病かも?と思わされる部分があった。 アマデは自分の心の不安や喜びの投影というように見えた。 楓アマデは無邪気で、ほとんどヴォルフと一体だけれども、 自分を「神童」としか見てくれない周りの人たちのイメージとして 随所でヴォルフを苦しめているのかな?というように見えていた。 どちらにも、コロレードが歌うほどの、「人には作り出せない才能」は あまり感じられず、人間・ヴォルフの物語を見ていたと思う。
でも鶴岡アマデは違う。完全に、ヴォルフと別人格だった。 神に属する「才能」としてのアマデだと、考える間もなく感じた。 眉目秀麗なんて言葉で表しては勿体ないくらい整った美しさ。 ヴォルフの、人間的感情に振り回される部分を無視して作曲する。 形の良い眉を顰める様は、遥か高みから見下ろして不快さを表すと感じられる。
きっとヴォルフの中には、自分の意志とは無関係に音楽が流れ続け、 彼は音楽であることを愛していたからこそ書き続けもしたけれど、 人である身には重すぎる音楽だったのだと、自然に理解できた。 だからこそ、最後の演出効果?演技?には、驚愕した。
アマデのペンがヴォルフの心臓に刺さった瞬間。 アマデは完全に後ろを向いてヴォルフに向かっている。 そのヴォルフの顔が、一瞬、驚きに見開かれたようで。 「見えたんだ」と、私は思いました。彼には神の全貌が見えたんだと。 彼にだけ見えた、その瞬間のアマデの表情は、『レクイエム』の全て。 人には絶対に知ることのできないものを、その瞬間にヴォルフは見た。 そう感じたら、もう涙が止まらなくなってしまった。
観られて良かった。本当に、この回はそう思います。 『モーツァルト!』という作品自体は、やはりブツ切れが気になるし、 作品として素晴らしいものだとまでは思えないのだけれど、 これに出会えるのなら、もう一度だけ、もう一度だけ観たいです。 井上-鶴岡コンビも観たくなってるから、一度じゃダメかもですが(^^;
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