「他人の身になって考えてみる」ということ - 2004年10月03日(日) たぶん、「タイタニック」という映画に対して僕の心が揺さぶられるのは、「自分があの船に乗っていて、暗くて冷たい海に投げ出されたらどんな気持ちだろうか?」と想像してしまうからなのだろう。 そういう「もし自分がその立場だったら」と仮定する気持ちがなければ、「昔はそんなこともあったんだねえ」で終わってしまう。 もちろん、そういう「仮定」をよりリアルなものにするために、「映像」や「音楽」の力が、映画では駆使されるわけだけれども。 「もし自分が臓器移植が必要な病気になったら」 「もし子供が欲しいのに、自分かパートナーの不可逆的な要因で、それが不可能だとわかったら?」 「もし自分の子供に障害があったら?」 これらの「仮定」は、けっして「他人事」ではないと僕は感じる。でも、そういう状況を想像してみればみるほど、「現実にそうなったら、たぶん仮定通りにはいかないだろうな」という気もするのだ。 「武士道とは死ぬことと見つけたり」という死生観を植えつけられてきた侍たちだって、みんながそんなにうまく切腹できたわけではない。 おそらく、「死ぬかもしれない現実」とか「子供ができない現実」とか「自分の子供が障害を持って生まれてきたという現実」の前では、「他人の臓器なんてもらって生きたいとは思わない」とか「できないなら、子供なんていらない」とか「どんな障害を持って生まれてきても、自分の子供に向き合って、一緒に生きていく」なんて立派な「覚悟」は、アッサリと押し流されていくものではないだろうか。 それはまるで、「結婚する前のカップルの、理想の結婚生活像」みたいなものでしかなくて。 だからといって、そういう「仮定」を自分の中で行ってみることが「100%無意味」ではないのも事実だ。 おそらく、そういう「もし自分に同じことが起こったら」という意識が、他人への「優しさ」の源泉なのだから。 そして、「自分には起こり難いこと」に関しては、あまり人々は感情移入できないし、優しくもなれない。 例えば「イラクにボランティアで行って、人質になってしまう」というような事象に対して。 とはいえ、こういう「自分のことと仮定する」というトレーニングは、けっして人間を幸せにばかりはしない。破綻を仮定すれば結婚や事業なんてできないし、「もし障害を持って子供が生まれてきたら、愛せないかもしれない」なんて考えていたら、子供を作ることだってできないだろう。 大部分の人は、現実に押し流されながらも、まあなんとかそういう「特別な状況」に陥らずに生きている。 「その人の気持ちになってみる」という行為は、たぶん、その「感情移入している本人」にとっては、何の救いにもならない。いくら想像して頭の中で「そのときはどうする?」とシミュレートしてみたところで現実の重さにはかなわないし、実際は「何も考えずに実行してみる」ほうが良い結果を生み出すことだって多いのだから。悩んで買っても、そのへんにあるのを無造作に手にとっても、宝くじが当たる可能性は理論的には同じだ。 でも、そういう「他人の身になってみる」という行為こそが、人間の人間らしいところでもあるし、それは自分を幸せにはできないが、周りの人は確実に少しだけ幸せにできるのだと、信じたい気もする。 そんなことを言いつつ、僕には収入のうちの幾ばくかを困っている人たちのために寄付するくらいの「優しさ」もありはしないのだ。 結局、自分は自分であり、他人にはなれないし、今の自分は今の自分であって、未来の自分にはなれない。 それでも「なれないからこそ、やらなくてはならないこと」というのが、世界のどこかに存在している、僕はそう思っている。 ...
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