「2004年本屋大賞」受賞作『博士の愛した数式』の感想 - 2004年05月17日(月) この本の魅力を言葉にするのは非常に難しい。 むしろ「あえて言葉にしていない」というのが、この作品の魅力のような気がするから。 交通事故で記憶が80分しかもたなくなってしまった、(元)天才数学者である『博士』と、家事のエキスパートではあるけれど、その他にはとくに「何のとりえもない」『私』。『私』の息子『ルート』。 僕がこの物語について感じたのは、なんともいえない「居心地のよさ」と「時間というものの残酷」だった。読み終えてパタンと本を閉じたあと、ひとつの人生を読み終えた感慨とともに、それがあまりに淡々と描写されていたことに、食い足りない印象も持ったものだ。 主な登場人物である3人は、それぞれ「欠落したもの」を抱えて生きてきた人々なのだが、彼らはその「自分に欠けてしまったもの」(それは「記憶する能力」であり、「配偶者」であり、「父親」)を他人に対して押し付けることはなく(今流行の「幼少時のトラウマだから!」なんて言い訳はしない)、むしろ他人の「欠けているもの」に対してものすごく寛容で、どうすればその「心の傷」に触れずに相手に接していけるだろうか?ということを常に考え、行動しているようなのだ。「私」と「ルート」に関していえば、「博士」という「欠けていることろを晒して生きていかなくてはならない人間」と接することによって、お互いに自分の「欠けているもの」を自覚するようになった面もあるような気もする。 彼らは、お互いの心の傷を癒そうとはしないし、その努力も強要しない。それは誰かに癒せる種類のものではないからだ。ただ、その傷口に触れないように、お互いに配慮しあって生きている。 そんな「お互いの距離のとりかた」がこの作品の魅力なのだと思う。 人というのは、他人の欠けているところは責めて優越感を感じたくなるものだし、自分の欠けているところは人目に触れないように覆い隠したくなるものだ。でも、博士はそれを覆い隠すことができない。自分の記憶が80分しか持たないことすら、自分の体に貼りつけたメモを見ないとわからないのだ。 ただしそれは、人間関係においては、どんなトラブルもすぐリセットされるというメリットもあるのだけれど。 博士にには「偉大な数学者」という一面もあれば、生活破綻者という一面もある。美しい数学の世界への愛情を語る一方で、誰かに頼らないと生きてはいけない。 この物語の「美しさ」というのは、本当に微妙なバランスの上に成り立っている。「何も起こらない小説」というのに魅力があるのか?と問われるかもしれないが、実際のところ、人生というのは、こんなふうにあっけないほど淡々と過ぎていくものだし、だからこそ人は生きていける。 物語中の「老い」や「死」ですら、川の流れの一部であり、神の数式で定められていたような静けさが感じられる。 これは、リアルに「現実というもののリアリティの無さ」を描いた物語なのかもしれない。 あえて不満を挙げるとすれば、僕はカープファンなので、物語中でタイガースにやられているチームがいつもカープだった、というのと、「博士」と「義姉」の関係が、思わせぶりなわりにはあまり意味をなしていないような感じがしたことくらいかな。でも、そういうところに踏みこまないのが、「流儀」なのだろう。 そうそう、ちょっと雑談なのだけど(最初から雑談?)、興味深かったのが、この作品が「本屋さんがいちばん売りたい本」として『本屋大賞』に選ばれたということだ。「クライマーズ・ハイ」や「アヒルと鴨のコインロッカー」を従えての受賞。 この結果から「博士の愛した数式」は、「プロの隠し玉」的な見方をされるのかもしれないが、僕が思うに、この作品は「本屋ではたらく人々」というような「知識」と「静寂」を好むインテリに受け入れられやすい作品なのではないかなあ、と思う。「本屋さんという職種」というよりは、「本屋ではたらきたいと思うような人々」の心に響く作品なのではないか?読書に、興奮よりもやすらぎを求めたい人間たちに、あるいは、過激な描写を競い合う現代社会に疲れた人々に。 「君子の交わりは、水に似たり」なんて言葉を、なんとなく思い出した。 そういうのは、きっと現代的ではないのだろうけど。 ...
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